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漫画・アニメ »

[30 9 月 2011 | 2 Comments | | ]

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を観た。
Wikipediaによると、このアニメは、キネマ旬報オールタイムベスト・テン アニメーション部門7位、日本のメディア芸術100選アニメ部門選出、また、雑誌映画秘宝が毎年選定している映画ベスト10では2001年度に、アニメーション枠ではなくすべての洋・邦画を含めた中で1位に輝いているという。
確か、あの岩井俊二監督もこのアニメを絶賛していたというような話を聞いたことがある。この作品は、子供向けのアニメとしては異例に意義深い作品なのである。
僕も今回、初めてこの作品を観て感涙した。是非、僕と同じ世代(昭和30年代生まれ)の大人の方々に観ていただきたい作品である、そう思った。
以下、あらすじを簡単に記す。
時期はおそらく21世紀初頭(2000年位)、場所は埼玉県の春日部(が一応モデル)あたりの話である。「20世紀博」という昭和をテーマにした催しが全国各地で行われ、大人たちに大人気を博している。1970年代の大阪万博を模した会場には、特撮コーナーがあり、来場客が怪獣モノや魔法少女モノに扮した姿を、ビデオ撮影してくれる。
そして、しんちゃんのお父さん、お母さんもそのコーナーに夢中になっている。
この作品はいくら意義深いと言っても、基本的には子供向けアニメなので、ギャグが満載。それをただ笑って眺めることも出来る。実際に、僕の印象だと映画90分のウチ、半分くらいはカーチェイスなどの”おっかけっこ”であった。
しかし、その暗黙の制約の中でこれだけ奥深いテーマ性(これについては後で語ります)を実現しえたというのだから、その奇跡的なバランスは素晴らしいの一言に尽きる。
さて、大人が昭和ブームに酔いしれる中、そういった思い出を共有していないしんちゃん達子供はどうも面白くない。
そんなある日、大人たちは、仕事や家事を投げ出して、実際の生活でも”昭和”を始めて、ついには子供達を置き去りにしてどこかへ行ってしまう。
一方、残された子供達も、「お父さんやお母さんに会わせてあげる」という甘言に誘われて次々にバスで連れ去られてしまう。しかし、父母に会わせるというは嘘で、子供達は、昭和の世界に適応出来るように洗脳されるために隔離させられてしまうのだ。
実は、これら全ての状況は、ケンちゃん、チャコちゃんという二人をリーダーとする「イエスタディワンスモア」という組織によって仕組まれた“オトナ帝国”化計画であった。
それは、大人たちに”昭和臭”を嗅がせる(昭和の空気を味わせる)ことによって、最終的には、日本全部を昭和の幻想世界に閉じ込めようとする計画なのだ。
ところが、一癖も二癖もあるしんちゃんはそんな状況のオカシさを見破っていた。彼は父母を奪還し、元に戻すために仲間と一緒に立ち上がるのであった。そして、お父さん、お母さんに出会ったしんちゃんは、昭和臭に対抗するために、お父さんの靴の臭い=現実の臭いを、両親に嗅がせることによって、正気に戻させるのだ。
しかし、最初にその靴の臭いを嗅がせたときにお父さんが、現在の自分を取り戻す過程として脳裏をよぎった走馬灯のような過去のフラッシュバックは、僕らの琴線に触れる。
父親の自転車の荷台、女の子と一緒に歩いたほろ苦い思い出、高校時代一人で歩く田舎道、初めて上京した時の上野駅、新入社員時の失敗、しんちゃんが誕生したときの喜び、新築の家への引越し...
それら一つ一つのシーンは、勿論、全く同じではないにしろ、昭和生まれの僕らの人生ともシンクロする。
まるで子供のようにその場に倒れこんで、しんちゃんに、靴の臭いを嗅がされるお父さんの情けなくも人間的な姿に、僕らはどうしてもシンパサイズしてしまう。
そういえば、この作品の監督である原恵一氏は僕と同じ昭和34生まれなのだ。
しかし、最終的には、ケンちゃん、チャコちゃんの“オトナ帝国”化計画は、目覚めたしんちゃん一家の抵抗に遭い、そして、終いにはしんちゃんの「大人になりたい」という執念によって、潰えてしまうのであった。
勿論、物語的にはそれで正解だ。
僕は他のエントリーでも何度も書いているが、「ビューティフルドリーマー」の夢邪気の作り上げた夢の世界しかり、「火垂るの墓」の兄妹の非社会的生活しかり、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画しかり、「少女革命ウテナ」における鳳学園しかり、「涼宮ハルヒの消失」における長門有希の夢しかり、「妄想代理人」におけるマロミが作り出す猪狩刑事の昭和幻想世界しかり、常に、偽りの幻想、あるいは社会から隔絶された閉じられた世界は打ち破られなければならない、それがアニメの原則なのである。
それにしても、他のどのアニメの幻想空間以上にこの「オトナ帝国の逆襲」で描かれていた昭和世界は魅力的だ。昭和の臭いを嗅ぐことによって、その魅力(引力)に思わず負けそうになるお父さんが思わず「懐かしすぎておかしくなってしまいそうだ!」と口走る、その気持ちが僕には痛いほどわかるような気もするのである。
この痛さこその、「オトナ帝国の逆襲」の秀逸な点だととりあえず言っておきたい。
そして、僕らの世代に共通のそんな感慨はこの作品が公開された数年後に、映画「ALWAYS三丁目の夕日」によって、より純度を増した形で世に出てくる。しかし、そこには「オトナ帝国の逆襲」で周到に用意された現実世界への「出口」はない。閉じられた夢の世界の話なのである。
その意味で、アニメの方が実写映画よりも、倫理的と言えるかもしれない。
それはおそらく、アニメという、より、幻想的なものを描くことに適したメディアゆえに持ちえた倫理観なのだろう。
しかし、その(閉じられた世界はかならず破られなければならないという)アニメの倫理は、ここ数年、”萌え世界”という閉じられた空間の出現によって、揺らいでいるようにも思える。
しかし、そのこと自体、僕は、100%批判されるべき現象なのかどうか、まだ判断がつかないでいる。
「オトナ帝国の逆襲」が公開されてから10年が経った今、その間、しんちゃん一家が戻って来た”現実世界”の変貌を見ると、益々、その迷いは深くなるのだ。
社会状況はますます厳しさを増し、就職して、結婚をして、子供が二人いて、持ち家があって...といったいわゆる普通の生活は、どんどん、手の届かない存在になりつつあるのではないだろうか。
さらに、多くの子供達は子供達で、しんちゃんがあの頃抱いていた「綺麗な女の人と付き合いたいから大人になりたい」という無邪気な願望は持ちにくくなっているのではないだろうか。
特にネット環境の充実によって、観たくない世界、知りたくない情報は、無意識的に排除して自分の幻想の楽園は益々作りやすくなっているのが現代である。「攻殻機動隊 2nd GIG」でクゼが言ったように、人は「低きに流れるもの」なのである。
もしそうだとすれば、ある意味で、最終的には視聴者を突き放さざるをえないアニメの倫理は持ちこたえることは出来るのだろうか。いや、逆に、そもそも、持ちこたえるべきなのであろうか。
う~ん、僕にはまだわからない。
まさむね
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[28 9 月 2011 | 2 Comments | | ]

「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」全26話を一気に観た。
見応えがあった。僕が敬愛するアニメ評論家の古谷経衡氏もニコニコアニメ夜話(第23回放送 お題作品 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』)で語られているが、普通は、Vol.2モノはどうしても劣化してしまうものだが、この「攻殻機動隊 S.A.C.2nd GIG」は「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」と比べても全く遜色ない。それどころか、よりスケールアップし、より深化し、よりエキサイティングでエモーショナルな作品になっている。
監督をはじめスタッフの並々ならない意欲が感じられた素晴らしい作品であった。
物語は、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」の続き。公安9課が、ある事件の処理に成功して復活するところからスタートする。防衛問題、難民問題といった日本が近未来に遭遇するであろう社会問題を、かなり本格的に扱った内容になっており、しかも、攻殻機動隊シリーズ全般を通して扱われている電脳社会における人間性とは何かという基本テーマもしっかり押さえている。
また、311以降、日本の難題となっている原発問題にもその射程は延びていて、特に第三次世界大戦、第四次非核世界大戦後に、日本が放射能除去技術において、再び、経済大国に復活するというような設定は、それだけでも日本がこれから進むべき道をも示唆しているようで、興味深い。
さらに、それまでは脇役であったサイトー、ボーマ、パズなどにもそれぞれ光が当たる回があったり、課長の微妙な恋愛感情なども織り込まれていて、見所満載である。しかも、複数話を通して、少佐の生い立ちと、ほのかな初恋の話、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」に続いてタチコマに生まれた人間性(自己犠牲)の話も僕らを惹きつけて止まない。時間があれば、それぞれの回を、しみじみと何度でも見返したい作品であることは間違いない。
        ★
さて、「2nd GIG」を観るうえで、その時代(近未来)、日本は一時的な労働力不足のために、大量の難民を受け入れていること、そしてその難民政策として、日本の各地に難民居住区が設けられているということを理解しなければなるまい。
ここでは、その難民政策をめぐって、大きく分ければ二つの政策が対立している。一つは、難民の自治を認める(勝ち取る)動き、そしてもう一つは難民を押さえつけ、日本の国権を強める方向である。
この話では、この難民に対する二つの動きをそれぞれ、クゼとゴーダという二人のキーパソンの思想や行動によって代表させている。その二人について簡単に紹介しておこう。
まず、クゼであるが、彼は全身擬体のアンドロイドである。元々、自衛官であったが、アジア東北部への海外派兵の際に、そこに住む人民との交流をきっかけとして、自衛隊を除隊。
それから広くアジアを放浪し、独自のカリスマ性を身につけ、それぞれの土地で人民の心をつかんでいく。そして、日本の出島(長崎)の難民居住区の自治を大幅に認め、なかば独立した存在にしようとする革命的なリーダーにのし上がる。
彼は、聡明、冷静な上に腕が立つ(あのバトーを一対一の白兵戦で仕留めるほど)。しかし、彼の本当のカリスマ性は、現実世界のみならず、電脳世界において無数の難民達の心を一つにまとめあがるだけの心の広さと情熱を持っているところにある。まるで、近未来版チェ・ゲバラのような存在なのである。
ただし、ここで彼が唱える、一人一人が電脳社会において融合し、個別意思とは別次元の統一体になるという革命思想は魅力的ではあるが、その結末は誰にもわからないものである。
一方で、ゴーダは、内閣情報庁の補佐官という立場。権力の中枢に近いところにいる人間である。首相や官房長官といったような表の権力者ではないが、黒幕的な立ち位置で、全ての現実の動きをプロデュースしようとする。
ゴーダが描いたシナリオを簡単に記すと、それは、「個別の11人」という電脳ウィルス製作>難民問題への世論の関心喚起>難民居住区の独立の誘発>自衛軍VS難民義勇軍の戦闘>居住区の自爆と見せかけた米帝の核攻撃>難民問題の解決という相当に乱暴な道筋である。しかし、彼は自分では手を汚さずに、あくまでも黒幕に徹する。何故ならば、彼の本当の目的は、日本のためというよりも、自身のプロデュース力を誇示すること、そして、最終的には米帝に売り込むためだからである。
このように見ると、クゼとゴーダという二人は対照的な存在であることがわかる。クゼは自己の魅力(カリスマ性)によってミメーシスを起こし、他者の共感を得ることによって、理想を実現していこうとするタイプ、一方でゴーダは、他者をあくまでも道具として利用することによって、自分の思い通りに現実を動かしていくタイプである。
しかし結局は、両者とも、滅びてしまう。クゼは民衆を信頼したが、逆にその民衆によって裏切られてしまう。民衆は理想通りには動かなかった。つまり、「人は低きに流れるもの」だったわけである。冷たい見方かもしれないが、彼は踊らされていただけだったのかもしれない。結局は、人知れず、米帝のエージェントによって暗殺されてしまうのであった。
また、ゴーダのシナリオは、「米帝への売り込み」という点では成功であったのかもしれないが、少佐によって、「あら、そう?なら、死になさい!!」というあまりにも有名な一言であっさりと殺されてしまう。
ある意味、シナリオライターとしては、優秀であったが、現実界に生きる人間としてはあまりにもモロかったということである。
さて、この二人を考える上で、一つヒントになるのが、その二人の顔に対する考え方の違いだと僕は思っている。
一方のクゼは、子供の頃に飛行機事故に遭い、ほとんどの全身を擬体化した。そして大人になると、顔を美形化する。しかし、その表情は変らないようにしている。彼は話をするときも口は動かさないのである。他方、ゴーダも若い頃に事故に遭い、顔の右半分は醜化し、髪の毛は無いが、彼は擬体化を拒む。あくまでも生の顔にこだわるのである。
これは何を表しているのであろうか。
実は、ゴーダが製作した「個別の11人」ウィルスは、パトリック・シルベストルという架空の革命家の「初期革命評論集」を電脳内に格納していることがその発症の主因であった。そして、それを発症すると、発症者は幻の11編目が存在しているかのような錯覚に陥り、革命思想に洗脳されて、最終的には自決するようにプログラミングされているという。
そして、その幻の11編目こそ、「5.15事件を能楽と照らし合わせ評論したもの」という興味深い内容なのである。そこでは、革命とは能楽のようなものだという理論が披露される。
        ★
さて、能楽とは、他の演劇とは違って、本番の一回性に特別な意味を置く芸能である。
例えば、能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)の中では、能の演目・「道成寺」の落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関してこんなことが記されている。
葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。
能楽において、その本番の一回がどのようになるかは、演者も想像出来ない部分を残すということなのである。
その意味で、能楽とは、再生芸術ではない。それは、現世に怨みを残した怨霊を成仏させるために執り行われる儀式のようなものと考えたほうがいいのかもしれない。
つまり、能楽とは舞台の上で完結する見世物ではなく、実際の怨霊を鎮めることによって、観客が生きているこの現実世界を改変する”事件”なのである。
そして、一般的に、能では、シテと言われる超自然的な存在(亡霊、天狗、鬼など)は面を被り、その怨念を吐露する。また、ワキと言われる聞き役(僧侶が多い)は面をかぶらずに、シテにその想いを語らせ、成仏させる。それが世阿弥が大成させた夢幻能の基本パターンである。
ここで、「2nd GIG」に話を戻すと、まさに能楽におけるシテの役割がクゼ、ワキに役割がゴーダというアナロジーが見られるのではないかと僕は考えた。
クゼが代表しているものはまさに、抑圧された難民の心情という怨霊そのものである。それは、彼岸における思念である。
しかし、近未来の電脳社会とは、そういった思念が集合し、怨霊(高次の存在)として具現化して現世を揺さ振るかもしれない。
ある意味、クゼはその集合的怨霊の象徴的存在を目指すのである。それゆえに、彼は、個人の感情を抑えるという意味も込めて、能面のような擬顔をつけているのではないだろうか。
また、ゴーダは、そんなクゼが代表する難民の怨霊の想いを晴らしてやり、他の日本人達に理解させる一方で、難民(とその怨念)を手の上で転がすことによって、ある意味、成仏させながら、現実世界を改変しようとした。それにしても、ゴーダ自身は、ほとんど何もしない。
つまり、彼の役割こそ、ワキそのものではなのである。それゆえに、ゴーダは生顔なのであり、しかも僧侶のように無毛(しかも童貞)なのである。
しかし、あらゆる能楽が、結局は現実そのものを変えるのではなく、怨霊を晴らすことによって、現実認識を改変するのと同じように、クゼとゴーダによる壮大な能楽は、現実の難民問題を残したままに終わってしまう。そして、想い半ばにして、つまり、怨霊をこの世に残して、クゼはこの世を去ってしまうのだ。
最後に、公安9課の連中が神社の境内で桜見をするシーンでこの「2nd GIG」は終わるが、僕にはそれが、クゼの鎮魂のシーンに見える。
そして、少佐が「桜の24時間監視は中止!今から仕事に復帰するぞ!!」と戦闘継続宣言をする。
人間は永遠に、現実問題、そして怨霊と闘い続けなければならない存在なのである。
まさむね
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[26 9 月 2011 | No Comment | | ]

のすふぇらとぅ製作の自主制作アニメ「海からの使者」を観た。
この作品は、淡路島で八百屋を営む方が6年の歳月をかけて製作した短編アニメである。
尺は8分半位であるが、全編、GIFアニメで作られているという正直言って、奇跡的な作品である。
内容に関しては、コチラの解説に詳しいので、読んでいただければと思う。
とにかく、凄いのは、これをほとんど一人で完成したということに尽きる。上記の解説にも書かれているが、このアニメはアマチュアの個人製作アニメとプロの集団製作アニメとの境界すら危うくする可能性を秘めている。
逆に、アニメが、集団(製作委員会)によって作成されることによって、クリエイターの主張が薄まり、作品性よりも商品性が重視される傾向がある中、この作品に見られるような純度の高さは、貴重である。

戦闘シーンのビジュアル的なこだわり、迫力、インパクトに関しては、僕が今更、解説をするまでもないので、ここでは内容について少し書いてみたいと思う。
あらすじは、簡単だ。
傷だらけになり全身包帯姿ののんちゃんが海辺を歩いていると、亀が子供達にいじめられている。のんちゃんが近づくと、子供達は「ミイラ男だ!」と行って逃げていく。のんちゃんに助けられた亀は、のんちゃんを海の向こうの楽園に誘うが、のんちゃんは黙って、それを断る。家に帰ったのんちゃんは、テレビで、児童虐待やいじめなどのニュースなどを目にして、暗い気持ちになる。この世界はなんて辛いのだろうかと。
いたたまれなくなって家を飛び出すのんちゃんが見たものは、昨日とは一変した海辺の姿であった。
そこには世界を破壊するモンスターがいた。そして、逃げ惑う人々の中に、友達を見つけたのんちゃんは、そのモンスターと闘う決意をする...
「海からの使者」には、約8分半の間に現代アニメの典型がいくつも含まれている作品である。
そこには、今年の年頭に大ヒットしたアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」とほぼ共通する要素が沢山つまっているのだ。
以下、それら二つの作品の共通点を一つづつ見ていきたいと思う。
1)主人公が、この世界を辛い世界であると認識しつつも、そこで生きる選択をする。
2)目の前の敵は単純な悪者ではなく、元々は、善良な存在が変身した姿である。
3)主人公が闘うことに対して葛藤がある。
まず、1)に関してだが、実は、この「海からの使者」は、簡単に言ってしまえば、亀を助けたけど、竜宮城に行かなかった浦島太郎の話である。家に帰ったのんちゃんは、テレビで流される悲惨なニュースに涙する。彼の悲しみは深い。しかし、どうすることも出来ない。
この作品には、「ビューティフルドリーマー」「妄想代理人」等、多くのアニメに見られるように、「現実逃避をするのではなく、自分達が住んでいるリアルな世界で生きるべき」という価値観が見られる。ただし、他のアニメでは、”幻想の世界”に一旦は行ってみるが、やっぱり現世に戻ってくるという流れが多いだが、この「海からの使者」では、最初から、のんちゃんは竜宮城=夢の国に行くことを、最初から拒絶する。また、最後、モンスターを倒し、亀を海に返したのんちゃんは、この世界に残りつづけることを選択する。
こののんちゃんの態度は、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回で、この世の魔獣と戦い続けることを決意したホムラの態度にも通じている。
次に2)の敵の正体に関しての話である。
のんちゃんに、一緒に夢の国に行くことを断られた亀は、次の日も浜辺でのんちゃんを待っている。
しかし、やってきたのは、昨日と同じいじめっ子達であった。
そこで、画面は飛ばされるので、具体的にはどうなったのかはよくわからないが、次のシーンで、亀は巨大なモンスターに化けて、子供達は、その場に倒れている。そして、大暴れてして街を破壊している。おそらく、このモンスターは、我慢に我慢を重ねた亀が変身し、凶悪化した姿なのである。
この展開を、殺意や絶望といった負の感情が世界を破壊する話と解釈するならば、亀のモンスターは、「魔法少女まどか☆マギカ」における魔法少女が穢れた果てに変身してしまう”魔女”と全く同じ存在である。
負の感情が暴走して他者を害するというタイプの敵は、明確な悪者とは違う存在である。
しかし、それは、いつどこに発生するかわからないという点で、極めてやっかいであり、しかも、現代的である。
そして最後に3)である。
実は、この「海からの使者」には、前史がある。DVDのパッケージに書かれているようにのんちゃんは、それまで、「電脳空間に満ち溢れている果てしなき悪意と、もう10年も戦い続けている。」のだ。そして、「闘えば闘うほど、一層の悪意が彼を蝕み、世間の無常に心を痛める日々が続いている。」という。
力による解決は正義なのかという問題にぶつかっているのんちゃんは、まさに葛藤する戦士である。
戦闘の真っ最中に、戦っている相手が、先日助けた亀だったことを知るのんちゃんであるが、それでも相手を倒さなければならない。彼は「ごめん、ごめん」と言いながら亀の急所をパンチするのである。こののんちゃんの”悩む戦士”姿というのは、ある意味で、「新世紀エヴァンゲリオン」におけるシンジを彷彿させるが、それ以上に、最後まで魔法少女になるかどうか、迷い続けた「魔法少女まどか☆マギカ」におけるマドカの悩みにも通じるではないか。
さて、この世が続く限り、人々の悪意は無くならない。悪意が無くならない限り、モンスター(魔女)は出現する。それを力で倒しても、解決にはならない。しかし、それでも僕らはこの世界で生きていかなければならない。
このように、上記の1)2)3)の無限ループを内包している「海からの使者」は、「魔法少女まどか☆マギカ」と同じテーマを、しかも、それよりも早い時期に提示していたという意味で重要な作品であると僕は思う。
まさむね
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[24 9 月 2011 | No Comment | | ]

家紋高校生のしんゆうさんが「表現の自由とは」を考えさせられた『図書館戦争』。というエントリーで批評されていたアニメ・図書館戦争を観た。
これは、非常に強い作品だと感じた。
舞台は2019年の日本。作中の世界では、平成ではなく、「正化」という元号が使用されていることになっており、それで言えば正化31年の日本が舞台ということになる。
その世界では、メディア良化法というとんでもない法律が施行されていて、出版物やメディア、ネットの書込みなどのあらゆる表現行為は検閲を受けていて自由な発言は極端に制限されているのだ。
しかも、その法律に基づいて組織されたメディア良化隊は武装し、図書館や書店から「不良図書」を排除しようとしている。
一方、それに対抗して、表現の自由を守りたい図書館側には、図書隊という武装組織が作られている。つまり、日本国内において、図書館を舞台に、メディア良化隊と図書隊とが武力抗争をしているという設定である。
主人公・笠原郁(かさはらいく)は、その図書隊の新人で、その才能を見込まれてタスクフォースと呼ばれる図書隊・防衛部の最前線部隊への配属となる。
物語は、その郁の日々の戦闘、苦悩、活躍などを描いた成長物語であるとともに、指導教官かつ上司でもある堂上篤(どうじょうあつし)とのラブロマンスとして進んでいく。
口うるさく叱咤する教官を、最初は嫌っている郁だが、厳しく接するのは本当は自分のためを思っているが故、ということを理解するにつれ、堂上に惹かれてくその姿は、体育会系恋愛パターンである。判りやすく言ってしまえば、「図書館戦争」はゼロ年代版の「スチュワーデス物語」なのである。
また、郁が図書隊に就職した動機は、「学生の頃に、本屋で、良化隊の検閲によって好きな童話を奪われそうになった時に助けてくれた図書隊員に憧れたから」という理由があったのだが、実は、その憧れの図書隊員が堂上であることを知って後、彼女は益々、堂上を男性として意識するようになっていく。
その構造は、まさに「あの遊び人の金さんが実は、北町奉行だった」り、「あの越後屋のご隠居さんが実は、先の副将軍・水戸光圀公だった」りという、いわゆる「後から知ったが実は...」構造の典型であり、あるいは、身近な人が実は高貴な方だったという貴種流離譚(折口信夫)の亜種(郁は憧れの人を王子様と呼んでいる)なのである。
僕が冒頭に、この「図書館戦争」が強い作品であると言ったのは、上記のような、典型の物語構造に支えられているからである。
しかし、僕は敢えて、この「図書館戦争」を別の角度からも観てみたいと思う。
先ほども少し述べたが、郁が所属する図書隊・防衛部であるが、これは「表現の自由」の拠点・図書館を守るために武装組織であり、図書館戦争とは、自主独立のための「正義」の防衛戦争ということであった。
それゆえに、郁をはじめとして、この隊の面々はそういった「正義」の戦争に対して、疑いを抱いていない。
勿論、僕も「表現の自由」という価値は大事だということはよくわかっているつもりだ。(ちなみに、僕はこのアニメのメディア良化法で思い起こされる「人権侵害救済法案」の国会提出問題には強い懸念を感じている。)
しかし、「表現の自由」が絶対とされ、疑い無き”善”とされるような価値観には、どういうわけか、逆に、微妙な”不自由さ=抑圧”を感じてしまうのである。
それは、この”不自由さ”が、図書隊が守ろうとしている「表現の自由」との間に、奇妙な軋みを生み出してしまうからではないかと思った。
これは、もしかしたら、戦後生まれの僕の感性が平和ボケしているために持ってしまった感情なのだろうか。あるいは、それほど、僕は相対主義に陥っているということなのだろうか。今後も考えていきたい。
しかし、このアニメは、この微妙な軋みに対しても、けっして目をつぶっているわけではなかった。
ほんの一瞬ではあるが、「表現の自由」という絶対的な正義によってでも服従させられない「現実」もあるというところをも表現しているのだ。
それは、第11話、水戸の戦闘の前夜にコンビニで、図書隊員の小牧が、偶然、良化隊員と鉢合い、帰り道で、その良化隊員と肩を並べて歩くシーン。
名も無き良化隊員は、小牧に向って、このようにつぶやくのだ。

お前たちと違って、俺達に志はない。
あるのは俺みたいなしがらみか、
出世のための辛抱か、
生活のために辞められないか...

例えは悪いかもしれないが、良化隊とは尊皇攘夷の志士を狙う新撰組、あるいはバスチーユ牢獄に押しかける民衆に発砲する外国人傭兵のようなものである。
いずれにしても、「正義」という尺度からすれば、それは、無意味な存在かもしれない。
しかし、僕は、良化隊員のつぶやきがどうしても忘れられない。いや、逆に愛着すら覚えてしまうのであった。
さて、翌朝、最後の水戸の戦闘は、「自由」という名前の良化隊の制服を磔にかけたようなアートの攻防に焦点が絞られる。
それは、ただの銃撃戦が、”正義の思想(図書隊)”と”プライド(良化隊)”の戦いになるということを意味した。
はたして、他者を愚弄する、少なくとも他者が愚弄されたと感じるような作品は表現と呼べるのだろうか、そしてそれを守るということが表現の自由を守るということだといえるのだろうか。そんな疑問も沸きあがる。
さらに言えば、その瞬間、良化隊の戦い自体が表現(=アート)になってしまったということ意味するのではないだろうか。ということは、図書隊がそれを阻止する「正義」は揺らがざるを得ないではないか...
さて、それはともかく、話を進めよう。
死をも恐れない良化隊は、体を張って、突進を繰り返す。それを図書隊が必死に防御する。
僕はいままで、多くのアニメで戦闘シーンを観てきたが、この水戸銃撃戦は、最もリアリティを感じる名場面の一つであったと断言してもいい。
そこには、戦いながら、戦いを畏れる超人ではなく、普通の人々の戦いが描かれていたからである。
そして、最終的には、図書隊はアートを守りきり、勝利で終わる。
物語としては全うな結末であった...と思う。
しかし、僕は、図書隊員による正義の戦いの勝利を喜びつも、プライドを守るために戦った名も無き良化隊員の惨めさにもある種の美を感じてしまうのであった。
まさむね
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[22 9 月 2011 | No Comment | | ]

2006年夏に劇場公開された細田守監督の「時をかける少女」を観た。
実は、細田監督の「サマーウォーズ」に、違和感を感じた(感想:「サマーウォーズ」の綺麗な理想と、その観心地の悪さ)僕としては、微妙に観たくない作品だったのだが、評判もよさげなので思い切って観てみたのである。
しかし、結果としては、本当によかった。文句なく傑作である。
話の舞台は、2006年頃(多分)の日本。ひょんなことからタイムリープ(時空移動)能力を得てしまった今風の普通の女子高生(真琴)のほんの数日間の物語である。
彼女には、いつもつるんでいる仲のいい二人の男子高生・功介と千昭がいた。
最初、真琴はタイムリープ能力を本当にくだらないこと、例えば、妹に先に食べられたプリンを自分で食べるとか、カラオケを10時間ぶっ通しでやるとか、夕飯の筑前煮を避けるために一昨日の晩御飯時に戻るとか...にその能力を費やしてしまう。
しかし、そのうちに自分の能力を、男子二人の人間関係(恋愛関係)のために使うようになり、物語はちょっと複雑になっていく。
それぞれの男子を好きな女子のためにその能力を使うのだが、それに連れて、今までの三人のいい関係が微妙に崩れていくのだ。
特に、茶髪のイケ男・千昭に告られたシーンをタイムリープで避け、同級生の友梨と千昭をくっつけた真琴の心の中に、それまでは意識していなかった微妙な嫉妬心が沸いてくる。
ちなみに、この心の動きは、まさに三角関係によって生じる欲望の発生であり、夏目漱石の小説をも彷彿させる。柄谷行人の愛読者だという細田監督の教養を感じさせる展開である。
さらに、もう一人の男子・功介に対しても、彼を慕う下級生との間を取り持つ真琴であるが、結果として、二人を踏切事故に遭わせてしまう。
それを何とかしようとする真琴であるが、その過程で、そのタイムリープの原因を知ることになる。
その能力は、実は、未来世界からやってきたという千昭が持っていた胡桃に似た小さなタイムマシンの機能によっていたのだが、それが、偶然、真琴に備わってしまったことが原因だったのである。
そして、その原因とともに、千昭が何故、この時代にやってきたのかという理由も知ることになる。
実は、千昭は、この時代にだけ実物として存在したという記録がある『白梅ニ椿菊図』という絵画の実物を観るために、現代にやってきたというのだ。
さらに、偶然にもその絵画は、不思議な雰囲気を持つ美術館学芸員の叔母・和子(真琴曰く「魔女おばさん」)が修復している絵画だったのである。
その魔女おばさん曰く、この絵画は、現在から数百年前、大戦争や飢饉が頻発していた、まさに「世界が終わろうとしてた時代」に描かれたのだという。
そして、そんな時代に描かれた絵画であるにもかかわらず、それは心の平安を求めて描かれたような穏やかな絵画なのであった。
さて、千昭は何故、わざわざ、その絵画を観るためにやってきたのであろうか。
千昭は、真琴に対して、この平成の御世が、彼が生きている未来に比べて、いかに素晴らしいかを語る。
川が地面を流れているのをはじめてみた。
自転車に初めて乗った。
空がこんな広いことを始めて知った。
何より、こんなに人が沢山居るところをはじめて見た。
ここからは僕の想像であるが、おそらく、千昭が生まれた時代は、その絵画が描かれた過去の大戦争や飢饉の時代以上に「世界が終わろうとしてる時代」なのであろう。
そこには、もう自然というものがない。例えば、手塚治虫の「火の鳥『未来編』」が描くような地下の人工都市にしか人間が住めない、そんな末期的な時代なのかもしれない。
そんな時代からやってきた千昭が、「帰らなきゃいけなかったんだけど、いつの間にか夏になった。お前らと一緒にいるのがあんまり楽しくてさ。」と語った現代。
そこには、大きな入道雲や蝉の声、夕焼けを映す川面など、平凡な風景があった。
そして、それら平成の日本の風景を舞台に繰り広げられる、ありふれた高校生活が、実はなんと素晴らしいものであったことか。
確かに、このアニメにも描かれているが、そこにはイジメもある。受験戦争もある。嫌な教師もいる。しかし、それでも、この時代に生きて高校生でいることは、かけがえのないことなのである。
おそらく、細田監督が描きたかったものの一つがそんな日常の美しさと高校生活の素晴らしさの再発見ではなかっただろうか。
また、別の言い方をすれば、このアニメは、全編を通じて、真琴が走りまくるアニメでもある。このアニメは「女子高生疾走アニメ」と言い換えてもいいくらいだ。
多分、大人になってから、街を走っていると「大丈夫ですか」と言われるが、女子高生が走れば「気をつけなさい」と言われる。
だからこそ、「気をつけなさい」と言われる時期にこそ走っておくべきなのだ。この「時をかける少女」というタイトルには、そういう意味も含まれていると思う、多分。
ちなみ、この物語が公開当時のリアルタイムである2006年の夏という、限定された一瞬をアニメフィルムに焼き付けたいという細田監督の想いは、例えば画面に出てくる駅前留学・NOVAや、真琴が使用するvodafoneのケータイに刻印されている。ご存知の通り、その年の10月にvodafoneはソフトバンクに換わり、次の年の秋にNOVAは経営破綻しその店舗数は激減する。
しかし、このアニメには、しっかりそれらが登場するが、おそらく、それらの企業ロゴは、このアニメが2006年の作品であったということを記録しつづけるためのギミックなのである。
これは断じて偶然ではない。これは細田監督自身が、極秘に入手したあの胡桃を使って未来を覗いたがゆえの演出だ...と僕は思っている。
さて、そんな物語は、クライマックスを迎える。真琴に、タイムリープの秘密を話てしまった千昭は、規則に従って元の時代に戻らなければならなくなってしまったのである。
そして、最後となった二人っきりの川辺で、真琴は千昭に約束する。
あの絵、未来へ帰ってみても、もう無くなったり、燃えたりしない。
千昭の時代にも残っているようになんとかしてみる。
この約束は何を意味しているのであろうか。そんなこと真琴は約束できるのだろうか。無粋な僕はそんなことを考えてしまったが...
ここで思い出すのが、魔女おばさんのことである。
彼女は、高校時代に好きな男性がいたのだが、「いつか必ず戻ってくる」という言葉を残して去ってしまい、それっきり会っていなかった。そして、そのままズルズルと独身のまま時間を過ごしてしまい年齢を重ねてしまった(おそらく、30代後半)という。
物語の中ではっきりと明言されてはいないものの、この魔女おばさんは1983年の「時をかける少女」(監督:大林宣彦、主演:原田知世)の主人公・芳山和子の成長した姿であることは確かなことだと思われる。
名前が同じなことはもとより、年齢的にも、あの頃、16歳だったとして2006-1983=23年で、ちょうど、現在の魔女おばさんの年齢(23+16=38)とも一致するし、何よりも、彼女が、タイムリープについて詳しいのは、その高校時代の体験のおかげなのでである。これで辻褄があう。
それを踏まえると、2006年の真琴は、その後、1983年の和子(魔女おばさん)と同じような人生を歩むのではないか、というのが僕の推理である。
魔女おばさんが、あの絵を後世に残そうと修復の作業をするその姿は、千昭に対して絵を残すことを約束した真琴の未来の姿を、現代に映したものではないだろうか。
女学生の時に”時をかける少女”となった少女は同じような運命をたどる。これが、タイムリープの陰に隠れたこのアニメ版「時をかける少女」のもう一つの「不思議現象」である。
しかし、魔女おばさんはその運命に逆らおうと、「あなたは私みたいなタイプじゃないでしょ、待ち合わせに遅れてきた人がいたら走って迎えに行くのがあなたでしょ」と言って、真琴の背中を押す。自分(初代”時をかける少女”)が出来なかった生き方を真琴(二代目”時をかける少女”)に託そうとする想いを込めて。
しかし、彼女達の恋の行方は、あまりにも残酷なもののような気もする。
最後に千昭と真琴はこんな会話をして別れるからである。
未来で待ってる。
うん、すぐ行く。走っていく。
未来の世界に行ってしまった千昭にどうやって会くというのだろうか。
真琴にはもう会えないと知っていながら、愛情と現実の狭間でギリギリのウソをつく千昭に、「いつか必ず戻ってくる」と言ったまま帰ってこなかった魔女おばさんの初恋の人(未来人)がダブる。
しかし、それでも、千昭に再び会える未来を信じる真琴の気持ちに対して、敢えてキスを避けた千昭に、僕は、最後の優しさを見てしまう。
さて、この切ないシーンを残酷と言わずして何と言えばいいのであろうか...
しかし、そんな臆病な心配は、真琴には、無用なのかもしれないということも僕は判っているつもりである。
それは奇跡を体験した”時をかける少女”にとって、そして、おそらく全ての若者にとって、世界とは、十二分に、何が起きるかわからないものだからである。
Time waits for no one!!(光陰矢のごとし)
誰にだって未来のことはわからない。後悔するよりも、理屈抜きで全力で走ることの方が意義深い季節もあるに違いない。
そんな残酷な青春を描いたこのアニメは、現在を生きる全ての若者に観て欲しい作品だと僕は思う。
まさむね
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