「時をかける少女」 何故、千昭はキスを避けたのか
2006年夏に劇場公開された細田守監督の「時をかける少女」を観た。
実は、細田監督の「サマーウォーズ」に、違和感を感じた(感想:「サマーウォーズ」の綺麗な理想と、その観心地の悪さ)僕としては、微妙に観たくない作品だったのだが、評判もよさげなので思い切って観てみたのである。
しかし、結果としては、本当によかった。文句なく傑作である。
話の舞台は、2006年頃(多分)の日本。ひょんなことからタイムリープ(時空移動)能力を得てしまった今風の普通の女子高生(真琴)のほんの数日間の物語である。
彼女には、いつもつるんでいる仲のいい二人の男子高生・功介と千昭がいた。
最初、真琴はタイムリープ能力を本当にくだらないこと、例えば、妹に先に食べられたプリンを自分で食べるとか、カラオケを10時間ぶっ通しでやるとか、夕飯の筑前煮を避けるために一昨日の晩御飯時に戻るとか...にその能力を費やしてしまう。
しかし、そのうちに自分の能力を、男子二人の人間関係(恋愛関係)のために使うようになり、物語はちょっと複雑になっていく。
それぞれの男子を好きな女子のためにその能力を使うのだが、それに連れて、今までの三人のいい関係が微妙に崩れていくのだ。
特に、茶髪のイケ男・千昭に告られたシーンをタイムリープで避け、同級生の友梨と千昭をくっつけた真琴の心の中に、それまでは意識していなかった微妙な嫉妬心が沸いてくる。
ちなみに、この心の動きは、まさに三角関係によって生じる欲望の発生であり、夏目漱石の小説をも彷彿させる。柄谷行人の愛読者だという細田監督の教養を感じさせる展開である。
さらに、もう一人の男子・功介に対しても、彼を慕う下級生との間を取り持つ真琴であるが、結果として、二人を踏切事故に遭わせてしまう。
それを何とかしようとする真琴であるが、その過程で、そのタイムリープの原因を知ることになる。
その能力は、実は、未来世界からやってきたという千昭が持っていた胡桃に似た小さなタイムマシンの機能によっていたのだが、それが、偶然、真琴に備わってしまったことが原因だったのである。
そして、その原因とともに、千昭が何故、この時代にやってきたのかという理由も知ることになる。
実は、千昭は、この時代にだけ実物として存在したという記録がある『白梅ニ椿菊図』という絵画の実物を観るために、現代にやってきたというのだ。
さらに、偶然にもその絵画は、不思議な雰囲気を持つ美術館学芸員の叔母・和子(真琴曰く「魔女おばさん」)が修復している絵画だったのである。
その魔女おばさん曰く、この絵画は、現在から数百年前、大戦争や飢饉が頻発していた、まさに「世界が終わろうとしてた時代」に描かれたのだという。
そして、そんな時代に描かれた絵画であるにもかかわらず、それは心の平安を求めて描かれたような穏やかな絵画なのであった。
さて、千昭は何故、わざわざ、その絵画を観るためにやってきたのであろうか。
千昭は、真琴に対して、この平成の御世が、彼が生きている未来に比べて、いかに素晴らしいかを語る。
川が地面を流れているのをはじめてみた。
自転車に初めて乗った。
空がこんな広いことを始めて知った。
何より、こんなに人が沢山居るところをはじめて見た。
ここからは僕の想像であるが、おそらく、千昭が生まれた時代は、その絵画が描かれた過去の大戦争や飢饉の時代以上に「世界が終わろうとしてる時代」なのであろう。
そこには、もう自然というものがない。例えば、手塚治虫の「火の鳥『未来編』」が描くような地下の人工都市にしか人間が住めない、そんな末期的な時代なのかもしれない。
そんな時代からやってきた千昭が、「帰らなきゃいけなかったんだけど、いつの間にか夏になった。お前らと一緒にいるのがあんまり楽しくてさ。」と語った現代。

そこには、大きな入道雲や蝉の声、夕焼けを映す川面など、平凡な風景があった。
そして、それら平成の日本の風景を舞台に繰り広げられる、ありふれた高校生活が、実はなんと素晴らしいものであったことか。
確かに、このアニメにも描かれているが、そこにはイジメもある。受験戦争もある。嫌な教師もいる。しかし、それでも、この時代に生きて高校生でいることは、かけがえのないことなのである。
おそらく、細田監督が描きたかったものの一つがそんな日常の美しさと高校生活の素晴らしさの再発見ではなかっただろうか。

また、別の言い方をすれば、このアニメは、全編を通じて、真琴が走りまくるアニメでもある。このアニメは「女子高生疾走アニメ」と言い換えてもいいくらいだ。
多分、大人になってから、街を走っていると「大丈夫ですか」と言われるが、女子高生が走れば「気をつけなさい」と言われる。
だからこそ、「気をつけなさい」と言われる時期にこそ走っておくべきなのだ。この「時をかける少女」というタイトルには、そういう意味も含まれていると思う、多分。

ちなみ、この物語が公開当時のリアルタイムである2006年の夏という、限定された一瞬をアニメフィルムに焼き付けたいという細田監督の想いは、例えば画面に出てくる駅前留学・NOVAや、真琴が使用するvodafoneのケータイに刻印されている。ご存知の通り、その年の10月にvodafoneはソフトバンクに換わり、次の年の秋にNOVAは経営破綻しその店舗数は激減する。
しかし、このアニメには、しっかりそれらが登場するが、おそらく、それらの企業ロゴは、このアニメが2006年の作品であったということを記録しつづけるためのギミックなのである。
これは断じて偶然ではない。これは細田監督自身が、極秘に入手したあの胡桃を使って未来を覗いたがゆえの演出だ...と僕は思っている。
さて、そんな物語は、クライマックスを迎える。真琴に、タイムリープの秘密を話てしまった千昭は、規則に従って元の時代に戻らなければならなくなってしまったのである。
そして、最後となった二人っきりの川辺で、真琴は千昭に約束する。
あの絵、未来へ帰ってみても、もう無くなったり、燃えたりしない。
千昭の時代にも残っているようになんとかしてみる。
この約束は何を意味しているのであろうか。そんなこと真琴は約束できるのだろうか。無粋な僕はそんなことを考えてしまったが...
ここで思い出すのが、魔女おばさんのことである。
彼女は、高校時代に好きな男性がいたのだが、「いつか必ず戻ってくる」という言葉を残して去ってしまい、それっきり会っていなかった。そして、そのままズルズルと独身のまま時間を過ごしてしまい年齢を重ねてしまった(おそらく、30代後半)という。
物語の中ではっきりと明言されてはいないものの、この魔女おばさんは1983年の「時をかける少女」(監督:大林宣彦、主演:原田知世)の主人公・芳山和子の成長した姿であることは確かなことだと思われる。
名前が同じなことはもとより、年齢的にも、あの頃、16歳だったとして2006-1983=23年で、ちょうど、現在の魔女おばさんの年齢(23+16=38)とも一致するし、何よりも、彼女が、タイムリープについて詳しいのは、その高校時代の体験のおかげなのでである。これで辻褄があう。
それを踏まえると、2006年の真琴は、その後、1983年の和子(魔女おばさん)と同じような人生を歩むのではないか、というのが僕の推理である。
魔女おばさんが、あの絵を後世に残そうと修復の作業をするその姿は、千昭に対して絵を残すことを約束した真琴の未来の姿を、現代に映したものではないだろうか。
女学生の時に”時をかける少女”となった少女は同じような運命をたどる。これが、タイムリープの陰に隠れたこのアニメ版「時をかける少女」のもう一つの「不思議現象」である。
しかし、魔女おばさんはその運命に逆らおうと、「あなたは私みたいなタイプじゃないでしょ、待ち合わせに遅れてきた人がいたら走って迎えに行くのがあなたでしょ」と言って、真琴の背中を押す。自分(初代”時をかける少女”)が出来なかった生き方を真琴(二代目”時をかける少女”)に託そうとする想いを込めて。
しかし、彼女達の恋の行方は、あまりにも残酷なもののような気もする。
最後に千昭と真琴はこんな会話をして別れるからである。
未来で待ってる。
うん、すぐ行く。走っていく。
未来の世界に行ってしまった千昭にどうやって会くというのだろうか。
真琴にはもう会えないと知っていながら、愛情と現実の狭間でギリギリのウソをつく千昭に、「いつか必ず戻ってくる」と言ったまま帰ってこなかった魔女おばさんの初恋の人(未来人)がダブる。
しかし、それでも、千昭に再び会える未来を信じる真琴の気持ちに対して、敢えてキスを避けた千昭に、僕は、最後の優しさを見てしまう。
さて、この切ないシーンを残酷と言わずして何と言えばいいのであろうか...
しかし、そんな臆病な心配は、真琴には、無用なのかもしれないということも僕は判っているつもりである。
それは奇跡を体験した”時をかける少女”にとって、そして、おそらく全ての若者にとって、世界とは、十二分に、何が起きるかわからないものだからである。
Time waits for no one!!(光陰矢のごとし)
誰にだって未来のことはわからない。後悔するよりも、理屈抜きで全力で走ることの方が意義深い季節もあるに違いない。
そんな残酷な青春を描いたこのアニメは、現在を生きる全ての若者に観て欲しい作品だと僕は思う。
まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。






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