Articles Archive for 11 月 2011
日常雑事 雑感 »
今日は11月30日、11月最後の日です。
実は、自分の今月の目標はとりあえず、1ヶ月間、毎日、一つづつエントリーをアップすることでした。
いくら、時間があるとはいえ、そして、何を書いてもいいとはいえ、1ヶ月間、毎日書くというのはそれなりに大変なことでした。新聞記者とか、作家とか、プロで毎日、文章を書かれている人って本当に凄いと思います。
というわけで、明日からは、また、元のペースに戻って、アニメなどについても書き始めたいと思います。アニメ修行100と言いながら、48で止まってしまっていましたからね。
さて、今日は、たまたま、外で人に会う用事があり、その前にちょっと青山霊園に足を運びました。
変に思われる方も多いかもしれませんが、僕にとっては青山霊園は都会のオアシスのような場所です。あそこに行くと、なんだかホッとします。
そういえば、今日、初めて気づいたことがありました。
青山霊園は、1種イ、1種ロ、2種イ、2種ロというように、墓所が、4つのランクで分かれています。2種よりも1種の方が、そしてロよりもイの方が、いい場所にあり、しかも、立派な墓も多いようです。
それで、気づいたことというのは、実は、青山霊園には、1種イ14という地区が存在しないのですね。1種ロ14や2種ロ14は存在するのにです。これはなんとなく、不気味ではないですか。
そういえば、その昔、ゲゲゲの鬼太郎に4階の存在しないビルというのが出てきたことがありました。そこには人間は行けません。確か、妖怪・達磨が住んでいたんですよね。そこで、僕は、この1種イ14には、何か別世界への入り口があり、普段は地図にも載っていないが誰も気づかないでいる...そんなエリアではないのではないかと想像してしまいました。
以前にも書いたことがある(4番ベッドの無い病院、13階の無いビルなど)のですが、僕は4番が存在しない場所やビルがなんだかとっても気になります。
例えば、毎週土曜日に、C型肝炎治療のために、ネオファーゲンの注射をしてもらいに、病院に行くのですが、そこの治療室には4番のベッドがありません。その治療室に入るたびに、今でも、3番ベッドと5番ベッドの間の”不在の4番ベッド”を見ちゃうんですよね。
まぁ、それはともかく、今日、撮ってきた家紋はまた、おいおい「有名人の家紋」にアップしたいと思います。また、伊地知彦次郎の家紋も撮影したので、こちらも、近々、「NHKドラマ「坂の上の雲」 主要登場人物 家紋一覧」の方へアップしたいと思います。
それでは、今日は疲れたので、このあたりで、お休みなさい。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
今日、Yahoo!トピックに「稀勢の里、32勝での昇進に異様な空気」という記事が出ていました。
普通ならお祝いムード一色だが、短時間で会見を切り上げるなどピリピリムード。29日に予定されていた使者待ち会見も急きょ中止に。後援会関係者も32勝での昇進に戸惑いを見せるなど異様な空気が漂った。
僕としてはなんだか複雑な心境ですね。個人的には、今場所の勝ち星数、相撲内容からいえば、大関は無理だと思っていたところ、琴奨菊との一番を前にして早々と大関昇進の速報が流れたのですから、「アレッ」という感じを抱きました。
それだったら、白鵬に勝ち、12勝を上げた先場所に琴奨菊と同時昇進させておけばよかったのに、と思ってしまったのです。
おそらく、そういった空気は日本中の相撲ファンの多くが共有していたことでしょう。そして、その空気こそ、冒頭の空気とどこかで通底しているものだと推察されます。
もう、この空気を払拭するには、来場所以降、稀勢の里が大活躍するしかないですね。そして、そのことを最もよく判っているのが稀勢の里だと僕は思っています。
それにしても、千秋楽の琴奨菊との一番は微妙でしたね。元々、苦手とはいえ、琴奨菊の一気の出足に後退を続ける稀勢の里。土俵際で、捨て身の突き落としを見せたのはいいのですが、明らかに先に土俵を割ってしまいました。
それに対して、正面の貴乃花審判部長が物言いをつけ、土俵上で協議、結局は、「確認の意味での協議で、軍配通り、琴奨菊の勝ち」ということになりましたが、その物言い自体が、なんとなく不透明な印象すら与えてしまったのは失敗でしたね。
敢えて、言うならば、「稀勢の里の負けをより惜しい負けに見せるための演出」に見えてしまったということです。
しかも、貴乃花審判部長の説明があまりにも淡白という印象を、普段はあまり相撲を見ない人(土日にしかチャンネルを合わせない人)に与えてしまったような気がします。
例えば、産経ニュースの「稀勢の里の大関昇進、どうも釈然としない」というコラムでは、以下のように指摘されています。
物言いの際の場内説明では、なぜ物言いがつき、どういう協議内容だったかの説明がない。
毎日、大相撲を見ている人には常識になっているのですが、実は、貴乃花審判部長の場内説明は、この一番に限らず、説明がとても淡白なのです。僕はそんなところにも貴乃花審判部長の現状を改善しようとする意欲のカケラを見るのですが、長年、大相撲を見てきた多くの人々にとっては、微妙な違和感を与えているのではないかと思います。事実、今場所も、13日目あたりだったと思うのですが、貴乃花審判部長独特の簡潔協議説明に対して、イナセな解説者として知られる北の富士さんに「ずいぶんと、簡単な説明だねぇ。」と言われていました。
僕らに染込んでいる、場内説明とは例えばこんな感じです。(あくまでも例です)
ただ今の協議について説明いたします。行司軍配は、西方××の寄りが有利と見て、××に軍配を上げましたが、向う正面審判の△△から、東方◎◎の左足が先に出ていたのではないかと物言いが付き、協議の結果、軍配通り、西方××の勝ちといたします。
ところが、こういった、日本人の誰でも(というのは大げさか?)が真似のできるような定型フォーマットの口上を、貴乃花審判部長は、こんな風に簡単に説明してしまうのです。
協議の結果、軍配通り、西方××の勝ちといたします。
思えば、大相撲というのは、日本人にとって、慣習と様式の塊のようなところがあります。例えば、中島みゆきの「蕎麦屋」という歌に、こんな一節が出てきます。
風はノレンをバタバタなかせて、ラジオは知ったかぶりの大相撲中継♪
大相撲の中継というのが、何も変らない日常のBGMとして聞こえているという、その感覚が凄くよくわかる、僕は大好きな一節です。
話がズレましたが、そういった大相撲というものが身にまとった慣習と様式に違和感を与えるような貴乃花審判部長の協議説明が、今回、最悪のタイミングで、勘繰られるように解釈されてしまったというのはちょっと残念だったですね。
また、勘繰りネタという意味では、以下の言葉はいかがでしょうか。
相撲で場所前、師匠(元横綱隆の里)が亡くなるという不遇に見舞われたにもかかわらず、ここまでよく10勝した。
これは、稀勢の里昇進に関して、貴乃花がインタビューに答えた言葉の一部です。
確かに、心情的には非常によく理解できるのですが、昇進理由に人情物語を介入させることは、受け取り方によっては、その昇進審査の客観性が疑われかねない、「危うい言葉」ではないでしょうか...誠に残念なことに。
おそらく、こういった「勘繰り」や先に述べた「異様な空気」というものは、大相撲を今まで、曖昧なまま、成り立たせてきた日本的村社会の常識自体が、微妙に揺るぎだし、それに連れて、今までは問題にもならなかったようなことが、段々、問題視されてきているという事象の一つなのかもしれません。
社会の様々な動きに呼応して、大相撲も、現代的に変貌していくべきなのか、それとも、伝統(慣習)は伝統として、守り続けていくべきなのか。それは、合理主義とノスタルジーの葛藤ということなのでしょうが、答えは簡単ではないように思えますね。
まさむね
2011年九州場所関連エントリー
2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた
2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)
2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話
2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について
テレビドラマ, 歴史・家紋 »
「江」が終了し、12月より、「坂の上の雲」の第三部が始まります。それを記念して、ドラマ主要登場人物の家紋を一覧表にしてみました。
主人公関連人物(秋山家と正岡家)
秋山真之(あきやまさねゆき)
伊予国松山
1868年4月12日 - 1918年2月4日
海軍軍人
物語の主人公。日露開戦に際し連合艦隊参謀に就任。
丸に抱き茗荷
本木雅弘
秋山好古(あきやまよしふる)
伊予国松山
1859年2月9日- 1930年11月4日
陸軍軍人
真之の兄。日本騎兵の育成に尽力する。
丸に抱き茗荷
阿部寛
正岡子規(まさおかしき)
伊予国松山
1867年10月14日 - 1902年9月19日
俳人
真之の幼馴染。日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。
丸に三つ鱗(違い鷹の羽)※剣片喰、五三桐、三つ引両という説あり。
香川照之
海軍関連人物
広瀬武夫(ひろせたけお)
豊後国竹田
1868年7月16日 - 1904年3月27日
海軍軍人
日露戦争の第二次閉塞作戦の際に戦死する。
丸に並び鷹の羽
藤本隆宏
八代六郎(やしろろくろう)
尾張国丹羽郡楽田村
1860年1月25日 - 1930年6月30日
海軍軍人
真之に稲生季子を紹介し、結婚の際には仲人を務めた。
折敷に三の字
片岡鶴太郎
日高壮之丞(ひだかそうのじょう)
薩摩国
1848年4月26日 - 1932年7月24日
海軍軍人
日露戦争直前に常備艦隊司令長官を罷免される。
割り杏葉菊に違い鷹の羽
中尾彬
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
薩摩国鹿児島城下
1848年1月27日 - 1934年5月30日
海軍軍人
日露開戦の時、連合艦隊司令長官に任命される。
丸に蔦
渡哲也
山本権兵衛(やまもとごんべえ)
薩摩国鹿児島郡
1852年11月26日 - 1933年12月8日
政治家
日露戦争時は海軍大臣。「日本海軍の父」と呼ばれた。
抱き鬼梶の葉
石坂浩二
加藤友三郎(かとうともざぶろう)
安芸国広島
1861年4月1日 - 1923年8月24日
軍人、政治家
日露戦争開戦時の第2艦隊参謀長。後に首相(第21代)。
蛇の目
草刈正雄
島村速雄(しまむらはやお)
土佐国
1858年10月26日 - 1923年1月8日
海軍軍人
日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀長。
丸に変り三つ蔓蔦
舘ひろし
有馬良橘(ありまりょうきつ)
紀伊国和歌山
1861年12月16日 - 1944年5月1日
海軍軍人
日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀。
丸に二引両
加藤雅也
岩村団次郎(いわむらだんじろう)
土佐国幡多郡宿毛
1866年10月5日 - 1943年11月9日
海軍軍人
陸軍第三軍への連絡将校。
抱き柏
山口馬木也
佐藤鉄太郎(さとうてつたろう)
土佐国幡多郡宿毛
1866年8月22日 - 1942年3月4日
海軍軍人
第二艦隊参謀。
源氏車
杉山文雄
山路一善(やまじかずよし)
愛媛県松山市
1869年4月24日 - 1963年3月13日
海軍軍人
第三戦隊参謀。
丸に大割蔦
内倉憲二
財部彪(たからべたけし)
日向国都城
1867年5月10日 - 1949年1月13日
海軍軍人
広瀬と兵学校の同期。日清戦争後、英国への留学生に選ばれる。
丸に打板
飯田基祐
伊地知彦次郎(いちじひこじろう)
薩摩国
1860年1月6日 - 1912年1月4日
海軍軍人
日露戦争時には、連合艦隊旗艦「三笠」の艦長として従軍。
丸に隅立て組み井桁
ダンカン
山下源太郎(やましたげんたろう)
出羽国置賜郡
1863年8月26日 - 1931年2月18日
海軍軍人
日露戦争開戦時、佐世保に在泊する連合艦隊に命令書を手渡す。
五瓜に唐花
鷲生功
伊東祐亨(いとうすけゆき)
薩摩国鹿児島城下
1843年6月9日 - 1914年1月16日
海軍軍人
日露戦争時の海軍軍令部総長。
庵木瓜
山野史人
鈴木貫太郎(すずきかんたろう)
和泉国大鳥郡
1868年1月18日 - 1948年4月17日
軍人、政治家
大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に大きく貢献。後に首相(第42代)。
上がり藤
赤井英和
安保清種(あぼきよかず)
佐賀県
1870年11月8日 - 1948年6月8日
海軍軍人
日露戦争時、戦艦「三笠」の砲術長を務める
丸に実付き三つ柏
土平ドンペイ
陸軍関連人物
児玉源太郎(こだまげんたろう)
周防国都濃郡
1852年4月14日 - 1906年7月23日
武士、陸軍軍人
好古在学時に陸軍大学校の教官を務める。
唐団扇笹
高橋英樹
山県有朋(やまがたありとも)
長門国阿武郡川島村
1838年6月14日- 1922年2月1日
政治家、軍人
元老。枢密院議長。陸奥・川上の根回しで日清開戦を支持する。
丸に三つ鱗
江守徹
大山巌(おおやまいわお)
薩摩国鹿児島城下
1842年11月12日 - 1916年12月10日
政治家、軍人
日清戦争では第2軍司令として好古らを率いて旅順を攻略。
丸に隅立四つ目結
米倉斉加年
乃木希典(のぎまれすけ)
武蔵国江戸
1849年12月25日 - 1912年9月13日
軍人
日露戦争では第3軍司令官として旅順総攻撃を指揮する。
四つ持ち合い井筒(市松四つ目結い)
柄本明
明石元二郎(あかしもとじろう)
筑前国福岡
1864年9月1日 - 1919年10月26日
陸軍軍人
ロシア国内の革命勢力を支援しロシアを内部から揺さぶろうと画策。
丸に撫子
塚本晋也
川上操六(かわかみそうろく)
薩摩国
1848年12月6日 - 1899年5月11日
陸軍軍人、華族
日清戦争時の陸軍参謀次長。日清戦争開戦を主導。
丸に桔梗
國村隼
伊地知幸介(いちじこうすけ)
薩摩国
1854年2月3日 - 1917年1月23日
陸軍軍人
日清戦争時は第2軍参謀副長。日露戦争では旅順攻略を実施。
三ツ盛り山
村田雄浩
森林太郎(もりりんたろう)
石見国津和野
1862年2月17日 - 1922年7月9日
小説家、軍医
第2軍軍医部長。従軍記者として清国を訪れた子規と出会う。
乱れ追い重ね九枚柏
榎木孝明
有坂成章(ありさかなりあきら)
周防国岩国
1852年4月5日 - 1915年1月12日
陸軍軍人
参謀本部技術審査部長。三十年式歩兵銃の開発に成功。
五瓜に唐花
矢島健一
長岡外史(ながおかがいし)
周防国都濃郡末武村
1858年6月23日 - 1933年4月21日
陸軍軍人
軍大学校で好古の同期。日露戦争時は参謀本部次長。
丸に一文字に剣山の字
的場浩司
奥保鞏(おくやすかた)
豊前国小倉
1847年1月5日 - 1930年7月19日
陸軍軍人
日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征。
中陰五瓜に唐花
伊吹剛
落合豊三郎(おちあいとよさぶろう)
武蔵国江戸
1861年4月7日 - 1934年3月31日
陸軍軍人
第二軍参謀長。
丸に三つ柏
伊藤祥三郎
野津道貫(のづみちつら)
薩摩国鹿児島城下高麗町
1841年12月17日 - 1908年10月18日
軍人、政治家
第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。
六つ追い丁子
宗近晴見
政府関連人物
伊藤博文(いとうひろぶみ)
周防国熊毛郡束荷村
1841年10月16日 - 1909年10月26日
政治家
日清戦争時の首相。日露戦争では外交交渉に奔走。
上がり藤
加藤剛
高橋是清(たかはしこれきよ)
江戸芝中門前町
1854年9月19日 - 1936年2月26日
政治家
日露戦争時、日銀副総裁として戦費の調達に奔走する。
三つ追い沢瀉
西田敏行
小村寿太郎(こむらじゅたろう)
日向国飫肥
1855年10月26日 - 1911年11月26日
外務大臣
外務大臣として日英同盟の締結。一方、露国との交渉も行う。
丸に揚羽蝶
竹中直人
陸奥宗光(むつむねみつ)
紀伊国
1844年8月20日 - 1897年8月24日
政治家、外交官
外務大臣。川上参謀次長と組んで日清開戦を主導する。
仙台牡丹
大杉漣
井上馨(いのうえかおる)
周防国 湯田村
1836年1月16日 - 1915年9月1日
政治家、実業家
日清戦争が起こった第二次伊藤内閣では内務大臣を務める。
桜菱(割剣酢漿草菱)
大和田伸也
桂太郎(かつらたろう)
長門国阿武郡萩町
1848年1月4日 - 1913年10月10日
陸軍軍人、政治家
日英同盟成立を推進。日露戦争開戦時の首相。
花菱
綾田俊樹
金子堅太郎(かねこけんたろう)
筑前国早良郡鳥飼村
1853年3月13日 - 1942年5月16日
官僚・政治家
憲法の起草にも携わり、「伊藤博文の懐刀」とも呼ばれる。
高崎扇
緒形幹太
松方正義(まつかたまさよし)
薩摩国
1835年3月23日 - 1924年7月2日
政治家
日露戦争に関しては積極的に開戦を主張。
抱き菊の葉に抱き茗荷
大林丈史
伊集院彦吉(いじゅういんひこきち)
薩摩藩
1864年7月22日 - 1924年4月26日
外務大臣
明治、大正時代の外交官。後に外務大臣。
丸に三方剣花菱
亀山忍
皇室
明治天皇(めいじてんのう)
京都・中山忠能邸
1867年1月30日 - 1912年7月30日
第122代天皇
外交交渉の決裂を受け日露戦争開戦の聖断を下す。
十六八重表菊(画像は靖国神社)
尾上菊之助
市井の人々関連人物
陸羯南(くがかつなん)
陸奥国弘前
1857年11月30日 - 1907年9月2日
ジャーナリスト
新聞「日本」の社長。大学在学中から子規の面倒を見ていた。
幸い菱に花菱
佐野史郎
古島一念(一雄)(こじまいちねん)
但馬国豊岡
1865年9月20日 - 1952年5月26日
ジャーナリスト
雑誌「日本人」の記者。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助。
鶴の丸
建蔵
福本日南(ふくもとにちなん)
筑前国福岡
1857年6月14日 …
テレビドラマ »
NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の最終回を観終わりました。
最終的には、終わりよければ全てよしというハッピーエンドで締めくくられた感じでした。
最後、秀忠が江に向って「そなたは私の希望だ」という言葉をかけるシーンはクライマックスの名シーンなのでしょうが、残念ながら、僕にはその意味がよくわかりませんでした。
家康が亡くなり、幕府の基礎作りが終わり、江も大奥制度構築に着手。全ての憂いは無くなり、家光に家督を譲った後の台詞としては、ちょっと座りが悪い感は否めませんでしたね。
ただ、ドラマとして、未来に向けてのなんらかのメッセージを発したかったのでしょう。そういった製作者側の意図はなんとなくわかりました。
一言で言ってしまえば、今回の大河ドラマの基本コンセプトは歴史を舞台にした「ホームドラマ」でしたね。
夫と妻、父と娘、母と息子といったどこの家にでもあるような家族内の葛藤を徳川家を舞台にして演じたらこうなるという脚本・演出だったように思います。
国松(次男)が江(母親)と秀忠(父親)にかわいがられているところを、竹千代(長男)が柱の陰から覗いて嫉妬するというようなシーンが何度も出てきましたが、思わず「江戸城は2LDKか?」と突っ込みを入れたくなりました。
実は、僕は、最終回に、この竹千代(家光)がどのように世継ぎを宣言され、どのように成長していくのか、そしてどのような性格として描かれるのかというところを注目してみていました。ところが、残念ながらというか、逆に言えばよかったのですが、それらのシーンは極めて普通に通り過ぎていってしまい、アレっという感じがしましたね。
以下、その「アレっ」の中身についてもう少し詳しく書いてみたいと思います。
大雑把に言えば、家をどのように相続させるのかというのは、鎌倉、室町、江戸という武家の三時代を特徴付ける一つのシステムです。
例えば、鎌倉時代は、主に男子に対しては均等に財産を分与し、家を分家させるシステムでした。日本では他国に比べて名字が多い(世界第二位)のは、この時代のそういった相続システムが一因だと思われます。しかし、これは、平等は平等なのですが、家がどんどん細分化され、弱体化するという欠点を持っていました。
そして、それでは困るということで、室町時代に採用されたのが、息子の中で一番、優秀な子が全部を相続するといういわゆる惣領制です。これは、確かに合理的ではありますが、実は誰が優秀かということで争いが起きます。室町時代が戦国時代に発展していったのは、そういった相続システムにも一因があると考えられます。「江」においても、最初、「世継ぎには、江は国松が相応しいと思う」というようなことを述べていましたが、それは彼女自身まだ、精神的に室町時代、戦国時代を引きずっていたということでしょう。
そこで、江戸時代、平等分配でも、惣領制でもない、秩序ある平和な世の中を第一優先として、採用されたのが、長子相続制というシステムでした。大げさに言えば、竹千代が、第三代将軍になるというのは、そういった価値観の大転換を天下に示すという意味があったということです。
その意味で、僕は、世継ぎシーンがどのように演出されるのかに期待して、「江」の最終回を見ていたわけです。
勿論、秀忠から竹千代に対して、そういった沙汰が下されるシーンでは、「長幼の序云々」といった口上はあったのですが、ドラマとしては、竹千代の跡取りは、前回放送回の江と竹千代との抱擁によって決定付けられたという流れになっていたように思われました。まぁ、このあたりは解釈の違いということなのでしょうが、僕には、江が竹千代の本心を理解し、謝罪するという「わだかまりの氷解」こそが、竹千代の世継ぎを江が納得した本質のように見えたということです。
しかも、僕の「アレっ」という感覚にはもう一つの原因があります。
それは、子供時代の吃音や女装趣味、わがままといった、竹千代の人生をも特徴付けるようなキャラ設定はいつの間にか無くなっており、極めて普通に成長した家光という姿がそこにあったからです。しかも、優しい正論で江を諭すようなシーンさえもあったり。
あの幼少の頃のキャラは、成長後の伏線になると思っていたのですが、それは僕の勘違いだったわけです。
というのも、竹千代が成長した家光は、異常な男色家として知られていただけではなく、海音寺潮五郎が「武将列伝」で書いているように、辻斬り(夜間にお忍びで市中に出かけて、浮浪者、無宿者などを斬殺)を趣味とするような過激マッチョな男だったらしいのですが、最終回では、そういった性格には、全く触れられていませんでしたからね。
一応、史実を確認しておくと、後日、徳川忠長は、家光によって蟄居謹慎されられたあげくに、切腹をさせられています。
ちなみに、僕は、先月、高崎の大信寺にある忠長の墓に参ってきたのですが、墓所についていた三つ葉葵には、葉脈が省略されて(左画)いましたね。また、右画は、最終回に登場した保科正之の子孫・松平勇雄(元福島県知事)の家紋の会津葵です。河骨紋にも似ていますね。
まさむね
時事ネタ, 漫画・アニメ »
つい先日のことですが、Yahoo!のトピックで『「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ』という記事が話題になっていました。
これは、asahi.comの中の小原篤さんのコラム『「若者は夢を持つな」と監督が言った』の中でも紹介されていますが、押井さんが、ある講演会で、以下のように述べたことが物議を醸したというちょっとした事件でした。
僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない
実際、このような意見は、最近、僕の近くのアニメファンからも多々、聞くことがあります。
その背景としては、現代のアニメ製作者達の多くが、育ってくる過程で、アニメ、ゲーム、漫画といったいわゆる「オタクコンテンツ」のみを受容して来ているということがあると言われています。
例えば、岡田斗司夫さん等が、その著作「オタクはすでに死んでいる」なんかで主張していることとも近いのですが、かつてのアニメ製作者達は、「オタクコンテンツ」以外にも、SFや映画、文学、哲学等を幅広く勉強し、しかも、個々人がいくつかの深い得意ジャンルを持っていました。そして、それらの教養をバックボーンとして、作品を作っていました。
ところが、近年、そういった製作者側の教養の幅が、オタク周辺ジャンルに偏って、来たことによって、その同じ狭いオタク文化的知識や嗜好を共有している「仲間」には受け入れられても、なかなかその外に通用するコンテンツが生み出せない、いわゆる「先鋭化」が進んでいるというようなことですね。
勿論、アニメなどの作品は、例えば、文部省などからの補助金によって、文化事業の一環として作られるというのなら別ですが、ある面で、商品として存在せざるをえません。それは真理であり現実です。
そのため、視聴者の嗜好に添った作品になっていくというのは仕方が無いことだとも言えます。
例えば、僕も、アニメの歴史というのは、男性キャラの存在感、(あるいはマッチョ主義)がどんどん希薄になっていく歴史ではないかと考えていますが(「「けいおん!」という商品をぎりぎりのところで作品に踏みとどまらせたもの」)、それも、こうしたコンテンツ製作者及び、視聴者が共に、先鋭化していることが原因だと思われます。
ただ、僕は、一見、そうした概観を持っているアニメであっても、その中には、1ミリでも、新しい試みや、時代の息吹、そして、作品としての意地のようなものを感じ取ることが出来るのではないかと思っています。そして、むしろそうした可能性を見出すことこそ、作品を鑑賞することではないかとすら考えています。まぁ、それはそれで、結構、疲れる鑑賞法ではあるのですが...
さて、それはともかく、こういったアニメの先鋭化は、作品の質の問題もそうなのですが、同時にマーケットをも狭めているという指摘もあり、むしろ、こっちの方が大きな問題なのです。そのためには、マーケットがある程度、大きい現段階にこそ、様々な可能性を試してみることが重要になってくると思います。マーケットが縮小してしまってからでは、多分、遅いのではないでしょうか。
しかし、様々な可能性と言っても、それはなかなか難しい、人間は、知らず知らずのうちに固定観念の枠に嵌められてしまうと、その外がなかなか見えなくなってしまうからです。
話は変りますが、先日、立川談志さんが亡くなりました。僕は談志さんのファンだったので、そのタイミングでYOUTUBEにアップされている談志さんの動画をいくつか観てみました。すると、その中に、談志さんと上岡龍太郎さんと長嶋茂雄さんの三人が鼎談をしている動画がありました。
そこで、長嶋さんは、自分が現役時代にセカンドゴロを二つ捕ったことがあるというような話をして、談志さんと上岡さんはそれを聞いて大笑いしていました。
勿論、それは常識外の、むしろ、想定外のプレイなわけです。つまり、当時、一緒に内野を守っていたであろう広岡さんだったら最も嫌がるようなプレイだったということですね。
ただ、その時、僕は思いました。おそらく、長嶋さんという人は、野球が野球という制度になる以前の、なにか別のものになる可能性を感じ取れる人だったんだなぁと。長嶋さんが天才と呼ばれるのは、おそらくそうした感覚においてだと僕は確信しました。それは、決して、彼が残した記録によってではないと。
そして、その話に続けて長嶋さんは、野球選手は、野球を専門にする以前に、バスケットボールやサッカーや格闘技など、様々な別ジャンルのスポーツをすべきだと、そのためには、プロ野球にも一軍、二軍に加えて、三軍を作るべきだと...
話を強引にアニメに戻すと、今、アニメ界に必要なのは、こういった長嶋的な感覚ではないでしょうか。もしかしたら、アニメがアニメという制度になる以前のなにかを感じ取れる製作者は、それまでアニメとは全く関係の無いことをしていた人々の中にいるのかもしれません。
あるいは、そのヒントは、アニメがアニメという制度になる以前に作られたアニメを観ることかもしれません。その意味では、例えば、1973年にフランスのアニメ作家・ルネ・ラルーによって作られた「ファンタスティック・プラネット」こそ、現代のアニメ製作者が見るべきアニメだと僕は思います。
このアニメについては、別途語ってみたいと思いますが、このエントリーでは、現代の日本に生きる僕らの感覚とは完全にねじれた位置に存在する異物のようなアニメであること、つまり、アニメというジャンルが、もう一つ別の「なにものか」になりえる可能性を秘めているアニメだということだけお伝えしておきたい思います。
まさむね
※この「ファンタスティック・プラネット」は、アニオタ保守本流の古谷経衡さんに教えていただきました。




