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「輪るピングドラム」が「まどマギ」よりも悲しいかったワケ

3 1 月 2012 No Comment

輪るピングドラム』が半年の全24話をようやく収束させたのは昨年の暮も押し迫った12月23日だった。
正直言って、謎と幻想世界のインフレーションは、着いていけないところも多々あったが、最終的には見事な着地をしたというべきであろうか。
そういえば、一つの平凡で平和な世界は、別の世界における他者の犠牲の上に成り立っているという結論は、まさに昨年春のヒット作『魔法少女まどか☆マギカ』のテーマ(参照:「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。)でもあったが、この『輪るピングドラム』で訴えかけてくるこの世の摂理は、『魔法少女まどか☆マギカ』における意志的な救済に比べると、見方によっては、より、悲しいものだったように思う。
つまり、『魔法少女まどか☆マギカ』では、まどかが最終的に下した決断によって、新しく魔女が居ない世界が現出させたのに対して、『輪るピングドラム』では、「運命の果実を一緒に食べよう」という呪文によって乗り換えられた運命の先は、必ずしも望みが叶えられた世界ではなかったからである。

おそらく、高倉三兄妹(冠葉=かんば、晶馬=しょうま、陽毬=ひまり)の希望は、元の通り三人で静かに暮らすことであったはずであるが、最終的には、兄二人は新世界には、元々存在せず、妹の陽毬だけが、トタン板の家で一人で暮らし、仲良しの友達として苹果(りんご)だけが存在するという結末となってしまっていた。
しかし、陽毬が最後に手にしたのは、苹果ちゃん=りんご=ピングドラムだけだったというオチは、確かに、残酷ではあるが、「何かを得れば、何かを失う」というこの世の摂理から見れば、それはそれで正しかったのかもしれないと見るものを納得させる。
考えてもみれば、ピングドラムというリンゴ(=果実)は、冠葉から晶馬へ、晶馬から陽毬へと渡され、(比喩的な意味で)共食されることによって、三人の「絆」の象徴となったことは確かだが、一方で、人類が最初に食することによって罪を背負ったという、アノ果実でもあったのである。陽毬の命を助けるという無理難題を叶えるために、二人の兄がこの世に存在しないこととなったという運命は、それ自体が、リンゴを食したことに対する罰を意味したとも言えなくも無いのである。
現実世界において、のっぴきならない事態を前にして、言霊(例えば「絆」という)の力だけに頼って、何事か、空気が変ったかのように済ませてしまった2011年の日本にあって、この『輪るピングドラム』が放映されたという事実をなんらかの符牒として読まざるを得ない。

また、誰もが気になることでもあろうが、このアニメは、おそらく監督である幾原邦彦さんの個人的な想いもあったのだろう。1995年のオウム地下鉄サリン事件や、1997年の神戸連続児童殺傷事件をも敢えて思い出させるような”毒”を吐きながら怒涛のような展開を見せる。
都会の片隅でひっそりと暮らす三人の兄妹は、実は今から16年前に起きた地下鉄テロの犯人の子供達だったのだ。しかも、彼らは、その事件によって平穏な親子関係から疎外され、”子供ブロイラー”という捨てられた子供達が「透明な存在」に改変させられてしまうという工場に送られた子供達だったのである。ご存知の通り、「透明な存在」というのは、あの酒鬼薔薇聖斗が、その犯行声明文に記した、現代の子供達を表す言葉だが、その言葉がリアリティを持ってしまう背景として、逆に言えば、現代という時代には、多くの子供達が、そのままでは愛されもせず、選ばれもせず、自分ではない何か別な貴重で優秀な存在になることによってしか「透明な存在」から脱却できないという強迫神経的な空気が広く蔓延しているという事実があるのかもしれない。

また、この三兄妹は、実は血が繋がっていたのではなく、全く任意に一緒に暮らすことになった三人だったというところに、極めて現代的な臭いを感じることも出来るということも、ここで付け加えておきたい。思えば、今年流行したと言われた「マルモのおきて」や「家政婦のミタ」、そして「うさぎドロップ」にしても、血の繋がっていない他者達がいかに、擬似家族を「本当の家族」のように構築していくか?という話であったが、おそらくこの『輪るピングドラム』もその作品群の中の一つとして記憶されるに違いない。

さて、先ほども述べたように、この物語は、ある意味、「透明な存在」=「きっと何物にもなれないお前達」である子供達がどのようにして、実存(=存在する意味)を発見するのかという物語であった。
そして、それは、億万長者になったり、スーパースターや高名な芸術家になったりといった世間的な成功をおさめることなどではなく、「誰かのために犠牲となることでしかないが、その犠牲が本当に誰かの役に立つかどうかもわからず、しかも、その希望が成就したとしても、その誰かに記憶もされない存在となること」というあまりにも悲しい運命、あるいは、「生きるということは、なんらかの罰に違いない」という不条理に気づくことに他ならないということを僕らに訴えかけてくるような物語であった。

おそらく、その人間存在の矛盾を解決するための方法として、かつては宗教が、そして20世紀にはマルクス主義という思想が信じられ、90年代前半にはオウム真理教が突出した。「新世紀エヴァンゲリオン」で、ゼーレが提唱した「人類補完計画」も、ある意味で、そんな孤独な人間を救済のためのロマンであった。おそらく、あれから15年以上経た現代に、幾原さんが『輪るピングドラム』を、敢えて世に問う意味があるとすれば、「その根本的な課題はまだ解決していないじゃないか」という問いにあったのはないだろうか。
もっとも、その解答が、具体的に現実を変革していこうとする苦痛を伴う葛藤ではなく、呪文(「運命の果実を一緒に食べよう」)や儀式(ピングドラムの共食)といった”特効薬”で世界自体を改変してしまおうとする発想でしかなかったことに、極めて重要な問題点を見出す視点があることは認識しつつも、僕は、そこに、良くも悪くも日本的な感性を感じざるを得ない。そして、それがゆえに、逆に、この発想にこそ、日本的解決のヒントもあることを期待したいのである。

さて、最後に、このアニメは、TSM荻窪線という丸の内線をモデルにした地下鉄沿いで全ての事件が起きるのだが、僕は、以前よりずっとこの丸の内線に、新宿三丁目、四谷三丁目、本郷三丁目という具合に三丁目という駅が三つもあることが気になっていた。というのも、戦後の都市伝説の多くが三の数字をキーナンバーとして展開されたいたからである。例えば、口裂け女は三鷹、三軒茶屋といった三の文字がつく地名によく現れると言われていたし、トイレの花子さんは元々は、三番目の花子さんと言われていて、三階の校舎でドアを三回ノックして入ると、三番目の個室に居る幽霊だったとか。
その意味で、『輪るピングドラム』が、丸の内線の潜在的不気味さを敏感に活用したことに共感を覚えたのと同時に、実はこのアニメが三という数字によって構成されるグループ(高倉家の三人兄妹、トリプルH、夏芽家の三兄妹、荻野目親子、多蕗とゆりと結城翼との三角関係)の壊れかけたバランスを取り戻すことを隠しテーマとしていたことにも思いが至るのであった。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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