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[31 1 月 2012 | 2 Comments | | ]

1月15日の報道ステーションサンデーにおける橋下徹市長の山口二郎北大大学院教授に対する圧勝を受けて、27日深夜の朝まで生テレビでは、さらに、橋下市長を批判する面々(精神医学者の香山リカさん、社会学者の薬師院仁志教授、共産党の山下芳生参院議員など)による弔い合戦的討論が展開された。
しかし、結果から言えば明らかな「返り討ち」であった。
僕が見たところ、橋下市長は、反橋下陣営の面々に比べて、経験でも、論理でも、知識でも、下準備でも、頭の回転の速さでも、弁舌でも、顔でも、器でも、人間的魅力でも、とにかくあらゆる面で上回っていたように見えたのである。
前回の山口教授との対論に関するエントリー(橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~)でも書いたが、橋下市長が主張していることはあまりにも「普通」のことであった。しかし、それが、何故か日本では「悪」と思われているようなことなのである。
単純に言ってしまえば彼が主張しているのは、全ての物事の決定のプロセスを以下のようにするシステムを作ろうということだ。
ある政治的問題が起きる⇒議論を尽くす⇒決定権者が(時に多数決で)決定を行う⇒実行する⇒政策の結果が出る⇒市民が選挙で決定権者を審判する
ところが、現状は以下のようになってしまっている。それは、大阪府や大阪市だけではなない。おそらく、日本中が、そうなっているのではないかと僕は想像する。
ある政治的問題が起きる⇒談合が行われる⇒形式的な議論をする⇒妥協案(=金銭的手当て)が通る⇒問題が先送りになる⇒公共の借金が増える
勿論、経済が右肩上がりで、財政に余裕のある時は、従来の解決方法で問題はなかった。そして、それがゆえに、昭和の古き良き時代、こうした談合民主主義(=日本型民主主義)は生きながらえてきたのである。
しかし、バブル崩壊から、山一ショック、リーマンショック、311震災などを経て、いつまで続くかも判らない平成不況の渦の中、日本人は誰もが、これまでの決定方法ではダメだということがわかってきた。そして、インターネットによる新しい情報の流れは、そんな人々の了解を後押しした。
勿論、僕自身、古いもの、日本独自のものに対しては人一倍愛着があり、改革によっていつの間にか古き良きものが無くなってしまうことに懸念を感じないわけではないが、優先順位の問題として、日本は、現在こそ、「普通」の民主主義システムにギアチェンジすべきときだと思っているのである。
さて、先の朝生の討論について話を戻す。よくよく議論を聞いていると、反橋下論者達は、決して橋下市長が唱える大阪都構想に反対しているわけではないようであった。ただ、彼の手法が、独裁的で危険な臭いがすると言っているだけなのである、あるいは、ただ、彼が気に食わないと言っているだけなのである...というように僕には見えた。
橋下市長のディベートが上手なのは、そうした彼らが抱く「橋下は相手の言うことを聞かない」というイメージ(それを彼らはファシズムに掛けて「ハシズム」と呼んでいる)を一瞬にして逆手に取るその「返し技」がゆえなのである。
(僕は番組を一回しか見ていないので、以下は、あくまで記憶の中での話であることをご了解下さい)
ある論者が「大阪都構想というキャッチフレーズはあまりに単純化しすぎ」だと批判する。
それに対して橋下市長は「じゃあ、あなたはどうしたらいいとお考えですか。」と切り返す。
当然、その相手はただ、市長を批判したいだけなので、具体的な案など持っていない。一瞬、言葉につまる。そして、困る。なにせ、番組は全国放送だ。
そのスキに、橋下市長は、大阪都構想が必然的政策であることをスラスラと説明する。
相手は、何もいえなくて困っていたもんだから、橋下市長の言う事をさえぎるどころか、(むしろ内心、安心して)聞く立場になってしまうのである。
つまり、論者にしてみれば、橋下市長に対する「相手の話を聞かない」という批判がデマであったことが、自分が「噛ませ犬」となりながら証明されてしまうと同時に、橋下市長の主張の方が説得力を持っているということが、(そして、批判者たちの方が実は何も考えていなかったのだということが)視聴者に対して瞬時にアピールされてしまうのである。
おそらく、多くの論者にとって、ガチの論戦というのはそれほど、慣れた場所ではない。今までの朝生にしても、結局は、「あの人はこういう」ので、「私はこう返す」、論理が平行線になって怒鳴りあうと田原氏がCMを入れる、といった予定調和的な討論プロレスに過ぎなかったということである。
勿論、多くの視聴者はそんなことは百も承知で見ているのであろうが、橋下市長の登場は、そんなプロレスリングに、突然、格闘家のヒクソン・グレイシーが現れたような、そんな鮮烈さがあったように僕には見えた。
そして、それはちょうど、先に述べたような、橋下市長が目指す『談合民主主義(プロレス)から、「普通」の民主主義(格闘技)への移行』とパラレルなところが、僕にとっては面白かったのである。
さて、話をさらに変える。「橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~」というエントリーのコメントにも書いたのだが、僕は橋下市長のこういった民主主義のルールを正すことが自分の役割だという認識は、小沢一郎氏の発想に酷似しているのではないかと思っている。
ただ、小沢氏の場合、「普通」の民主主義を実現するための多数を獲得する手法があまりにも旧態然としていたこと、そして、ディベートがそれほど得意ではないこと、それがゆえに、既得権益者だけではなく、多くの国民にも、全く人気がない(一部の熱烈な支持者は別にして)という意味で、橋下市長とは全く別モノのように見られることも多いが、僕は本質的には、橋下市長は小沢氏が目指す方向と同じ流れにあると考えている。
その証拠に、橋下氏は、大阪都構想のシステムを作った暁には、その職を辞して、別のステージに行くことを宣言している。そのステージが国政なのかどうなのか、現時点ではよくわからないが、自分の役割をシステム創りと規定するその姿勢は確かであろう。それゆえに、僕は、橋下氏が組むべきは、石原氏や亀井氏ではなく、(民主党を抜けた)小沢氏であるべきだと思っているのである。
最後の一言。
歴史と言うものは、なんども挫折しながら、ジグザグで進まざるをえないものである。時に、マルクスが言ったように「思うようには創れない」ものだったりもする。そして、その評価は後世からしかできないものでもある。
よく、橋下市長の「君が代起立問題」に対する態度をして、彼を愛国者というようなことを言う人がいるが、僕は、そういった表面的なところよりも、彼が持っている「とにかく前に進んでみる、ダメだったら次の世代が、修正してくれるに違いない」というような、現在から未来にかけての日本人に対する明るい信頼感にこそ、愛国者としての資質を見るのである。
まさむね