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[31 8 月 2012 | 7 Comments | | ]

現クール(2012年7月~)で放映されている「人類は衰退しました」というアニメが妙に気になっている。
原作は田中ロミオのライトノベルで、2007年より刊行されている作品であるが、その雰囲気が、いわゆる311以降の日本の空気と妙にシンクロしているからである。
主人公は、物語の語り手も務めている「わたし」。国連の調停官としてクスノキの里という場所に赴任している。
物語は、滅び行く旧人類である「わたし」達が、新人類の妖精達(かわいい小人達)によって次々と勝手に発明され、創造される幻想世界、道具、施設などに翻弄されるというパターンで進む。
旧人類たる「わたし」の憂鬱さと、新人類たる妖精の屈託のなさ、そして妙に明るい画面のコントラストが独特の世界をかもし出している。
「世界はあまりにも明るく、私たちはあまりにも憂鬱」なのである...。
さて、「わたし」は旧人類の中でも唯一、妖精とコミュニケートできる存在であるが、それはあくまでも表面的なこと。妖精たちが何を考え、何をしようとしているのか、その本当のことは理解不能である。妖精たちが作りだした様々なものに翻弄された挙句、事後的にようやく、彼らの意図が理解出来るのである。
しかし、そんな状況を、「わたし」は、全面的に受け入れる。おそらく、「わたし」にとっては、「全てが、終わってしまっている」、「仕方がない」、「何も出来ない」というのがこの世界の掟なのである。
そして、「わたし」は妖精に向ってつぶやく。
私たち人間はとうの昔にもう哀れなる末路に突入しています。もうじき全滅します。
ちなみに、最近、テレビのバラエティでも栗原類クンというイケメンのネガティブキャラがブレイクしているようだが、この「人類は衰退しました」の「わたし」の態度は彼のスタンスとどこか共通している。もしかしたら、今年のキーワード、「諦め」なのかもしれない。
さて、この「人類は衰退しました」であるが、その題名から推測出来る通り、登場してくる人間たちは、ほぼ全員、劣化している。彼らはみな、視野が狭く、戦略を持たず、目の前の利益に目が眩み、責任感も無く、状況に流されるままに生きているのである。
例えば、第1話~第2話のエピソードでは、食糧難に陥った村に、突如として大量の加工食品が店の棚に、いつの間にか陳列されるようになる。それは妖精達が秘密の加工工場を創り、食品を生産していたということが後でわかるのであるが、村人達は、そんな状況を何の疑いも無く受け入れ、食品を競って手に入れようとするのだ。
彼らの無邪気な態度は、1984年に封切りされた「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」で押井守が描いた、ラムちゃんが見る夢の国に暮す友引町の人々の”疑いの無さ”を彷彿させるが、僕は、この「人類は衰退しました」に登場する旧人類たちに、あれからおよそ30年経った現在、さらに完璧なシステムの中で無批判に生かされている「動物」と化した僕らの姿を重ね合わせざるをえない。
本来であれば、自分達のあずかり知らぬところから、自動的に運ばれてきた、原材料が何かもわからない食品など、口にすることもおぞましいと考えるのが普通なのであるが、この村の住民は(多分、理性ではそんなおぞましさを理解しつつも)、それらを口にして生活していかざるをえないのである。
さらに、このエピソードでは、その妖精が作った秘密の工場で働く初老の受付係や工場長(実は国連の文化局長の兼務)も、その工場が誰が経営しているのかに関して頓着していない。彼らは、ただ、システム上に乗っかり、給与や役職を得られればそれで満足しているのである。そして、その姿は、残念ながら、今日の日本人とそれほど違いはないのではないだろうか。次々と起こる様々な難題に、ただ右往左往するだけの民主党政権、大事故の後でも何一つ自分達で変ろうとしない原子力村の人々、そして僕ら...
物語は、実はその工場は妖精が創り、加工食肉となった逃げ出した鶏が、意志を持って経営しており、彼らは文字通り「チキン(臆病者)」であり、ちょっとした脅しに自らが缶詰となって出荷されたり、空に投げ出され村人の家の降って来るというような、言葉にしてもわけのわからないようなシュールなオチとなるわけであるが、それにしても、気になるのは、先ほどから述べているような、ここで描かれている人々の劣化ぶりである。
人類が滅びそうになるというディストピア・シチュエーションはアニメでは珍しいものではないが、かつての「風の谷のナウシカ」や「AKIRA」「北斗の拳」「ストライクウィッチーズ」のような作品で描かれていたのは、世界は崩壊寸前であったとしても、必死に生き延びようとする人々の姿であった。そして、少なくともそこに描かれる主人公は、決して現代人に比べて劣化はしていないどころか、むしろ優れてすらいた。
彼らは戦略や、強い意志、そして使命を背負う気概を持っていた。そして、物語の主題はそうした残された人々が抱く希望そのものであった。
しかし、残念なことにこの「人類は衰退しました」(少なくとも九話までは)では、そういった希望のカケラも見られない。
尤も、よくよく考えてみれば、人類が衰退するということは、人々が退化することに他ならないというのは当たり前のことかもしれない。むしろ、ナウシカ(風の谷のナウシカ)や金田(AKIRA)、ケンシロウ(北斗の拳)、あるいはスザク(コードギアス)やスザク(攻殻機動隊2nd GIG)といった英雄の存在の方が、実は夢物語だったのである。
さて、前のエントリー(「Fate/Zero」第2期 その華麗なる登場人物達について語る)でも書いたが、僕は昨年の311とそれに続く原発事故の最大の罪は、「日本人から、究極の楽天性を奪ってしまった」ことにあると考えている。古来、自然災害が多発した日本列島に生きてきた人々は、何度も災害から立ち直ってきた。そして、その気力を支える哲学が、「一生懸命にやればいつか復活する」という楽天性だったと思っている。
しかし、現実的に列島内で、決して復活できないような土地を生み出してしまった、あの原発事故。そして、今度、大きな地震が来たら日本中のどこでもそのような状態に陥る可能性を自覚してしまった僕たち。日本古来の円環的(=楽天的)時間観念を、強引に、終末への一直線的(=悲観的)時間観念にコンバートさせてしまったあの原発事故は目の前の「命」の問題以上に、僕ら日本人の心を、長きに渡って締め付け続けるに違いない。
そして、そんな僕らの空気と妙にシンクロしてしまう「人類は衰退しました」。
最後に、敢えて繰り返すならば、「世界はあまりにも明るく、私たちはあまりにも憂鬱」なのである...。
まさむね
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