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[28 2 月 2012 | 2 Comments | | ]

「魔法少女まどか☆マギカ」における鹿目まどかの願いについて再度考えてみた。
改めて言うならば、「魔法少女まどか☆マギカ」とは、普通の少女がその願いを叶えた代償に魔法少女となってしまう物語である。
そして、魔法少女となった彼女達は、魔女といわれる敵と闘うことを宿命として生きざるを得ない。しかも、魔法少女達は、戦いに消耗して、絶望した挙句に魔女になってしまう。つまり、自分達が闘っていた相手は自分達そのものであったということ。魔法少女となるということは、あまりにも過酷な生き方を選択するということでもあったのだ。
そんな少女達を目の当たりにしながら、なかなか魔法少女になることを決めかねていたのが、鹿目まどかである。
しかし、最終回、彼女はついに魔女となることを決心する。そして、彼女の「願い」は、全ての魔法少女が力尽きた後にも魔女にならずに、心安らかな状態となり消滅する(別世界へ転生?)ということであった。
このあたりの仕組みに関しては、僕の理解力では微妙に解らないところもあるのだが、ようするに、まどかの願いとは、「魔法少女が、死後、魔女という怨霊になって現世に厄災をもたらすこともなく、安らかに成仏出来るようなシステムを構築する」というイメージに近い。つまり、その意味でいえば、このアニメは一見、西洋的だがそのベースにある世界観には、実は極めて日本的な(怨霊思想とその対処療法としての浄土宗的な)側面も持っているのである。
そして、最終的には、まどかの願いによって、魔法少女達が、魔女というコミュニケーション不能の怪物となってしまうのではなく、まどか(=神、あるいは擬似的な阿弥陀如来)が、その魂を救い、ケアし続けるような世界システムを再構築するということに行き着く物語、と言い換えてもいいかもしれない。
現実社会におけるコミュニケーションの断絶(ディスコミュニケーション)や、誤解によって生じる残酷さと絶望を描いてきたこの物語(「魔法少女 まどか☆マギカ」における虚しい承認欲求の果てに見た悟り参照)が、最後に、魔法少女の死後の世界ではあるが、絶対的な救いと希望の世界を提示して終わるのだ。
この展開は、エンターテイメントとしては、正解だと思う。恐らく、多くのファンは、まどかによる救済によって、安心感を抱いたに違いないからである。
しかし、全く逆の見方をするならば、まどかが願をかける以前に存在していた魔女という、この世から見れば理解不能な存在だったかもしれないが、もしかしたら、ある意味、究極的に自由な存在を消し去り、死後、どこまで行っても、まどかという神の支配下に留めておくことになってしまった...という逆説的な見方も出来るのではないだろうか。
極端な言い方をするならば、「ワルプルギスの夜」のなんと楽しそうなことか。あの笑い声は、コチラから見れば、不気味そのものではあるが、見方を変えれば、アチラの世界を謳歌している姿にも見えるではないか。
さて、僕が、このようなヒネくれたことを言いたくなったのは、実は、最近、話題になっているオセロの中島知子のことを少し考えたからだ。
失恋→自暴自棄→コミュニケーション不能という中島知子の転落が、美樹さやかが辿った過程と酷似しているではないかと思ったのである。
例えば、先週、「ミヤネ屋」で、中島の転落を評して中尾彬が涙を流しながら(涙を流しているように見せながら)、もう芸能界に戻って来れないだろうな。と言っていた。
しかし、よく考えてみれば、中島は別に犯罪を犯したわけではない。ただ、仕事を辞めて家賃を滞納したという程度の話である。
覚せい剤に手を染めたとか、マネージャーに暴力をふるったというような話とは違うのだ。
それでも、中尾をはじめ多くの関係者をして、絶望的だと思わせるのは、これまでの多くのスキャンダルとは決定的に違い、彼女がコミュニケーション不能な存在となってしまったという点なのである。
つまり、「中島事件」とは、コチラ(芸能界、世間)からしてみれば、アチラに行ってしまった中島(=魔女)は、なんと不気味で、恐ろしく、そして許せない存在なのかということを改めて認識させた事件なのだ。
そして、その許せなさこそ、鹿目まどかが魔女(特に人魚の魔女となってしまった美樹さやか)に抱いた感情と同じではないだろうか。
おそらく、鹿目まどかは、魔法少女の生き方が不憫ゆえに、彼女達が死後、魔女とならないような世界にしたかったのではなく、今まで仲間だった者たちが、突然、コミュニケーション不能な怪物になってしまうことが許せなかったのではないか。
鹿目まどかの願い、つまり、魔女を生み出させない世界を創り出そうとしたということは、極論するならば、全世界をコチラにしてしまおう(理解可能なものとして、共同体の内部に納めよう)ということだったのである。
それは、ある意味で、恐ろしく強い、共同体維持的(現状維持的)発想でもある。
例えば、まどかの願いには、魔法少女達の宿命そのものの改変は含まれていなかったではないか。
つまり、魔法少女達の過酷な闘い→宿命としての死の過程は、無条件に、肯定され続けているのである。
さて、実のところ、僕は、上記の文章を、ももいろクローバーZの「労働賛歌」(さいたまスーパーアリーナ・ライブバージョン)を聴きながら書いていた。
それゆえに、少女達が闘争することの意味、さらに、何故、僕らは彼女達の勇姿を肯定的に見てしまうのか?ということについても、もう少し考えたくなった。
まさむね
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