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山野車輪様
いつもTwitter上でのやりとりのお付き合いをしていただきまして、ありがとうございます。
Twitterでは、どうしても140文字制限があり、説明が不十分になってしまうため、場所を自分のブログに移動して、お話をさせていただきます。
はじめに自分が今まで、どういうことをしてきた人間なのかということを簡単に記しておきます。
そのほうがお話が伝わりやすいと考えるからです。
1959年生まれ
小学校、中学校時代はの趣味:手塚治虫、マンガ
1976年 高校入学
趣味:ビートルズ、洋楽
1984年 大学卒業
趣味:ニューアカ関連の読書
1984年 コンピュータソフトウェア会社に入社
趣味:プロレス、映画
1993年 映画・ゲーム会社に転職
1996年 フリーのゲームディレクタ、プログラマ
2000年 プロレス関連の会社に入社
趣味:日本の歴史、家紋
2006年 携帯サイト運営関連の会社に入社(アイドル関連のサイトの運営)
2010年
春に『家紋主義宣言』(河出書房新社)という著作発表。
東京ゲームショウでコスプレイベントに関わる。
さて、そのような趣味、経歴の中で、僕なりに本を読んだり、考えてきたことをお話いたします。
Twitter上でやりとりさせていただいたことと重複する点は多いのですが、再度、整理をしてみたかったので書かせていただきます。ご容赦下さい。
まず、おたく論からです。僕は岡田斗司夫さんと同年代ということもあり、おたく論に関しては、かなり影響を受けています。たとえば、90年代だったかと思いますが、岡田さんはおたくの位置づけとして以下のような定義をされていました。
あるジャンルを好きになるには3つのタイプがある。
1)ファン・・・対象がただ好き、いわゆる普通の人。例:阪神が好きで毎日、甲子園に通うような人。
2)マニア・・・グッズなどを収集するのが好き、コレクター。例:切手収集家、DVDを2セット購入するような人。
3)おたく・・・情報で遊ぶのが好き、深読みするのが好き。例:自費雑誌出版編集長、業界通、2チャンネラー。
3つのタイプには上下はない。ただ、その人の資質に基づく分類で、それぞれが重なっている部分も多い。
これはあくまでも僕の記憶で書いているため、微妙なところで違っているかもしれないこと、ご了承下さい。
さて、その図式が、ゼロ年代に入ってから、ここ10年位の間で変化してきたというのが、『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)という著作の主旨になります。
そこに書かれているのは、かつて、おたくというのは貴族であったということです。そして、貴族というのは、自分が知識を持つことによってあるジャンルにメチャクチャ詳しい人々です。勿論、彼らは何の利害関係もなくても、そうしてしまいます。
その意味で、そのジャンルに関わる事に関しては、とにかく押さえておくという意味で、90年代位までは、彼らは消費者としても、業界に対して多大な貢献をしていたと言えるでしょう。
ところが、ゼロ年代に入ると、ネットから情報がほぼ無料/無制限で入手出来るようになりました。
ということは、今まで、貴族たらんとして情報収集してきたおたくが持っていた知識の価値が暴落してしまいました。
それはそうですよね、ネットで検索すれば、数秒で取り出せる情報を、苦労して、頭に入れておくというのは費用対効果が悪すぎますよね。そこで、おたく層は、脱落、あるいは、どんどんとライトな方向にシフトしていきました。
と同時に、カタカナのオタク層が台頭してきました。「萌え」といわれるようなジャンルを偏愛する人々です。
そして、世間的にも、こういう人をオタクと呼ぶ言い方が定着し、現在に至っています。(僕自身、このオタクの生態に関しては正直言って、専門外です)
おたく・・・特定ジャンルのあらゆる情報を収集するタイプ。ジャンルの対象はSF、アニメ、電車等多岐。
オタク・・・ずばり、萌えジャンルを偏愛する人。
これは岡田さんが便宜的に定義したおたくとオタクの違いです。実は、彼によるとこの二つは、全く違うものと考えたほうがいいということです。
オタクでおたくの人もいれば、オタクだけど、おたくじゃない人もいるということ、先ほどの3つの分類をかぶせて言うならば、オタクの中には、マニアとおたくが混在しているといえるかもしれません。
さて、このような状況の中で、おたくはどんどん大人化(高年齢化)していったというもう一つの変化がありました。
そうするとどうなるのかというと、おたくは、純粋に作品を楽しむだけでは満足できない、あるいは、そのレベルでは他者とコミュニケーション出来しにくくなってくるということです。
そして、他者との共通言語を求めて、業界寄り、裏話、ビジネス視点での話に興味を持つようになりました。
確かに、ほとんどの大人は、プライベートではおたくだとしても、普段は、ビジネスの話をしているので、作品を語るときもどうしても、「儲かっているかどうか」「どういうマーケッティング戦略で売ろうとしているのか」等で語ってしまうのは仕方が無いことでしょう。
そしてたとえば、「まどか☆マギカ」で言うならば、ゲーテの「ファウスト」に出てくるメフィストときゅうべいの共通点と相違点は何か?とか、第6話に出てくるマザーグースの詩の深層について、等というようなことは、他者との会話ではなかなか話しづらくなってきます。共通の教養が前提とされないと、それは極めて個人的な興味範囲の話になってしまうからです。
一方、それよりも、「まどか☆マギカ」のDVDがAmazonのTop10のうち、6商品も占めているね、というような話題の方が普遍性を持つということです。
僕は、おたくの高年齢化が、おたくが段々と、経済系、業界系、マーケッティング系にシフトしてきた理由の一つだと思っています。
また、山野さんが言われた「経済を見れば作品の作りを理解しやすい」というのも確かにおっしゃるとおりだと思います。
それゆえに、かつてのように、教養がコミュニケーションの大前提となっていた時代はもう終わってしまったと思っています。岡田さんの言葉を借りて言えば、貴族おたくの死ということになるかもしれません。
また、山野さんは、「マンガ産業論」の出現が、経済系の増大に大きかったとおっしゃっていましたが、おそらく他のジャンルでもこの頃(90年代~00年代)には、ビジネス視点=プロデューサ視点で作品を語るというのがメジャーになってきたと思います。
たとえば、プロレスはアニメに比べて一時代早く、高年齢化が進んでいたので、80年代にはすでに、週刊ファイトという新聞があり、そこでは、試合内容よりも、興行の成績や、レスラーのギャラなどの業界ネタが詳しく書かれていてファンの気持ちを捉えていました。
また、アイドル界でも、ゼロ年代に入ると、コンサートが終わった後、出口のあたりにたむろって、「今日のコンサートの反省会」をするようなファンが増えていきました。そこでは、普通のファンが、「あの曲のセンターにあの娘はきついんじゃないか」等というようなまるでプロデューサや演出家が考えるようなことを、真剣に議論する姿が目に付きました。
AKB48の成功の一因にはそうしたプロデュース感覚で楽しみたいファンに、さまざまな情報をディスクローズしたことじゃないかと思っています。
ここで簡単に整理したいと思います。
80年代のおたく・・・教養に基づく、作品の深読み
90年代以降のおたく・・・高年齢化によっる、業界系、マーケッティング系おたくの増加
00年代のおたく・・・ネット発展によって、さらに業界系、マーケッティング系おたくの増加
さて、このような状態の中で、いわゆるコンテンツ産業は変質していきました。
こんどは、コンテンツ産業の歴史という視点で振り返ってみます。
70年代・・・子供向けでコンテンツ産業成立。カラーテレビ普及。テレビアニメ全盛。マンガ雑誌も全盛。
80年代・・・好景気、コンテンツ産業は発展。ビデオデッキの普及。コンテンツの大衆化→セグメント化の時代。
90年代・・・好景気継続。作品数の増加。個別ターゲットに向けたマーケッティングの時代。PS等ゲーム機普及。
ゼロ年代前半・・・DVD再生機の普及に伴う活況。クロスメディア全盛(TV、劇場放映で宣伝。DVD、グッズで回収)
ゼロ年代後半・・・コンテンツ業界にかげり。SNSの普及。新しいビジネスモデル模索。
これで見ていただくとわかるのですが、それぞれの年代で、新しいハードウェア(テクノロジー)が発明され、普及していったということが見て取れます。
80年代のビデオ、ゼロ年代のDVDが特にパッケージの普及に貢献したといえるでしょう。しかし、ゼロ年代の後半は、DVDプレイヤーの普及も一段落し、ネット時代となってしまいました。新しいハードによるパッケージの好況は、これから訪れることはあるのでしょうか。
さて、そんな状況も踏まえつつ、僕は、昨今の行き詰まり状況の原因は以下だと考えます。
1・・・不況(日本社会全体の構造不況)
2・・・コンテンツの量産(多作時代による、食い合い)
3・・・ネット時代(情報が簡単に入手、携帯普及=通信費増大よるユーザーの財布圧迫)
4・・・貴族おたくの減少(知識の価値の暴落)
5・・・マニアへの経済的圧迫(メーカーによる搾取)
ようするに、複合的な要因で、コンテンツ産業は落ち込んでいるんですね。
勿論、不況によって、若者の可処分所得が減っているというのも一つの大きな要因でしょう。
しかし、安価にすれば、コンテンツが売れるのかといえばそういうわけでもないですね。
お米や灯油などの生活必需品とは違って、コンテンツはただでも不要なものはだれも見向きもしません。
一方、メーカーや出版社は売上げを確保するために、作品本数をどんどん増やして行き、一本あたりの売上げはどんどん減っていきました。
また、一方で、こういった業界は憧れの対象となるため、就業者(クリエーター)は、薄給でも我慢しつづけ、労働環境はなかなか改善されなかったという側面もありました。クリエーターこそがもっとも濃い消費者であると考えると彼らの貧困はそのまま業界の貧困とつながっているのです。
さらに、ネット時代となり、コンテンツはクオリティが低ければ無料で享受できるという環境がそろってしまったということも、業界の衰退に拍車をかけました。
先ほども書いたように、すでに90年代から、業界系おたくは発生していたのですが、その流れが、ネットの発展でさらに加速し、従来のおたく層に大打撃を与えました。
ネットによって、貴族おたくの存在価値が減ってしまったのです。そして、今まで、貴族であり続けたいがためにコンテンツを消費していた人々の消費が停滞してしまったのです。
そして一部の貴族おたくは、経業界系へと移行し、消費はしないが業界には詳しいという層に変質していきました。ちなみに、この頃、コスプレが流行りだしますが、これは、それまで知識という中身を誇っていたおたくが、外見で誇るレイヤーにとって代わったという人もいます。
もちろん、ここ数年の経済語りブーム(新自由主義を背景とした)というのも、経済系おたくの増加の背景にあるかと思います。そういえば、80年代のおたくはほとんど、経済やマーケッティングの話などしなかったように記憶しています。売れる売れないよりも好き嫌いの方が大事、売れなくてもいい作品はあるという思想の方がかつては強かったように思いますが、昨今は、売れた作品しか語られない時代になったといえるかもしれません。
さて、それと平行して、作り手側のメーカーは、売上げ維持のために、さらに固定客であるマニア向けに作品を出荷し、彼らの財布を圧迫するようになり、結果として市場をさらに縮小させてしまいました。
おそらく、マンガ界で言えば、巨匠作品のシリーズ化という流れがシンクロしているのでしょう。雑誌社はリスクを回避するために、ヒットシリーズを継続化するというのは短期的なマーケッティングとしては正しいのでしょうが、長い目で見るとファンを減少化させてしまいます。いわゆる脱落ファンはその後、マンガ喫茶に走り、BookOffでコンテンツが回るようになってしまいます。そうすると、クリエーターにお金が還流するという流れが中間搾取されて動脈硬化を起こしてしまいます。それまで雑誌は、赤字でも宣伝→単行本で黒字化というビジネスモデルにかげりが出てきたということです。
そして、その副作用として新人の台頭が抑制されてしまっているということは山野さんが、ニコニコアニメ夜話(第28回放送 お題作品 『徹底主張!ど~なる!?日本の漫画業界・第一部』)やさくらじ#13 「若者奴隷」時代 “若肉老食”社会の到来等でも語られている通りかと思います。
とはいえ、作品に対する欲求水準がこれほど高まってしまった現在、メーカーは作品クオリティを安易に落とすことも出来ず、その分は、クリエーターにしわ寄せが行き、彼らはさらに疲弊するという状況になっているというのが生産現場の悲惨な現状ではないでしょうか。
さて、それでは、今後、コンテンツ業界はどうしたらいいのでしょうか。
どのようにすれば、コンテンツ産業を再び活気ある市場に戻すことが出来るのでしょうか。
大きな方向としては、僕は下記の4つの可能性を考えています。
1)コンテンツの海外展開・・・これから成長する市場への進出。
2)ソーシャルメディアを活用した収益システム・・・薄く広く収益を上げるシステムの構築
3)国家による支援・・・大多数のクリエーターが利益を享受できる支援政策
4)キャラクタ化権の活用・・・活用する側が活用しやすい仕組み
1)に関して言えば、どのようにローカライズするのかという問題もありますが、アメリカ、欧州、中国といった成熟しつつある市場というよりも、ブラジルやインド、アフリカといったまだまだ子供が増えていく市場にどう食い込んでいくかが大事になるでしょう。言い方は悪いですが、子供のうちから日本テイストのコンテンツを刷り込むというのが大事になるでしょう。
ただ、それらの国ではどうしてもDVDの不正コピーなどという問題が多発してビジネスの足をひっぱるというようなことが考えられます。実際、小室哲哉さんが大陸で失敗したのはそのせいだと言われています。ただ、それならば逆に、DVDの不正流通で知名度を上げ、イベント、やコンサートで収益を上げるというモデルも考えられます。最近では初音ミクの3次元コンサート等も行われていますが、二次元コンテンツの3Dライブを輸出することも近い将来、期待できるかもしれません。
2)に関しては、具体的にまだはっきりとした道は見えていませんが、たとえば、SNS上で作品を提供し、そこで多くのファンが、少しづつ寄付(お布施、会費納付)をしていくようなシステムが出来るはずです。これに関しても、日本だけでは、パイが小さいし、そもそも寄付文化が貧弱なので全世界的なシステムにする必要があるでしょう。
ちなみに、現在、ネットでのPV収益は1PVで0.25円程度なので、民放のように広告費で製作費をまかなうのは、現時点ではつらすぎます。
3)はターゲッティング政策になるので、新自由主義的観点からすれば批判されるかもしれませんが、たとえば、韓国のコンテンツ委員会の成功を見るにつけ、一概に批判は出来ないように思います。以前、麻生さんが策定した国立メディア芸術総合センター(国立マンガ喫茶)構想がありましたが、個人的にはポシャッちゃったのは大変残念でしたね。
また、先日、Twitterでもお伝えしたように、ブラジルでは、アニメ振興策をしており、一話だけ国家が支援、二話以降は海外でファイナンスしてもらい、出来た作品は国営放送が買い取るというシステムを採用しているという話を聞きました。この方法がベストかどうかはわかりませんが、なんらかの支援策は絶対に必要だと思います。
もちろん、ここでは、いい作品と悪い作品に対する支援はどう区別するのか、業界団体の人間関係は既得権益化しないか、などということも起こりうる問題として考えておかなければなりませんね。
ちなみに、支援策といえば、コンテンツに対してではないのですが、もしかしたら、ベーシックインカムは若いクリエーターにとっては、福音になる可能性があると思っています。農業の個別補償がアリなのに、アニメーターの個別補償はナシというのは理論的にはおかしい話ではないでしょうか。
4)に関しては、現状、コンテンツ業界の多くが、パチンコという「半博半遊」システムに依存しているという面があります。これはまとまった収益が見込めるという意味で、版権元にとっては、一面で、美味しいビジネスであり、仕方が無いところもあるのですが、反面、多くのファンの嘆きを生んでいるのも確かです。僕も現時点では消極派です。
ただ、僕は権利元というよりも権利を使用する側にとって、より使い勝手のいい版権の売り方はないものかと考えています。たとえば、僕がかかわっているコスプレイベントでの話ですが、JASRACのようなキャラクタ使用料システムを作るとか、重賞の時だけ、アニメキャラクタ名もサブネームとして使用する競馬馬がいたり、自衛隊機が経費で戦車の名前にキャラクタ名を使用できるようにするとか...ちょっと考え中です。
あと、最後に、本論とはあまり関係が無く、しかも身も蓋も無い話ですが、少子化の現代、それに反比例して、クリエーターの数が多すぎるのではないかと思っています。
というのも、かつてなら、自分がクリエーターになれるかどうかは、学生の頃になんとなくわかったと思うのですが、現代では「個人の可能性は無限大」的なイデオロギーがあり、周りが見えず、というか止めてくれる人もいないまま、厳しい道に進み、ニッチもサッチも行かなくなる人というのも多いように思われます。ようするに、分をわきまえるという当たり前のことが、出来ていない人が多いということですね。
以上、本当にザクっとした意見で申し訳ありません。今後、さらに考えていきたいと思っておりますのであいまいな点、勘違いしている点などもあるかと思いますが、ご指導いただければ幸いです。
まさむね
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先週あたり、Twitter上でホリエモンが、久留米大学附設高校の先輩である孫正義氏に噛み付いたという小事件が話題となった。
「そんなことよりソフトバンクの基地局増やしてくれよーとか思ってしまうんですけど。。。iPhone電波悪すぎ」
「光の道とかじゃなく、そこに労力割けよって話」
「iPhoneじゃなかったらSB回線になんか絶対!しないもんな」
それに対して、孫正義氏は、こう答えたという。
「電波は私の命をかけて必ずドコモを超える。見ていて下さい」
「命がけで取り組める事が有る人生は幸せな人生だ」
なるほど。これはこれでちょっとしたネタとして面白い。
それに対して、docomoが最近ははじめた渡辺謙が出演している「Galaxy Tab」のCMがズレすぎていて唖然としてしまった。片や、SB回線の遅さ、つながらなさが話題になっている一方で、渡辺謙にこのCMでこう言わせているのだ。
「遅くなるかもしれない。いや、遅くなる...」
勿論、このセリフの文脈は回線のスピードの話ではない。しかし、スマートフォンのCMにこのフレーズは禁句ではないのか。どういうセンスをしているのであろうかdocomoは。あるいは余裕?
話は変わるが家紋主義の僕は孫正義氏のiPhoneの裏が凄く気になっているのだ。
韓国から帰化した孫氏ゆえに、家紋はお持ちでないのだろうが、坂本龍馬の熱烈ファンとして、ソフトバンクのマークを海援隊の二引にしたまではいいとして、敢えて、桔梗紋というのはちょっと嫌な予感がしているのである。
太田道灌、明智光秀、山県大弐、坂本龍馬、大村益次郎など、英雄的な桔梗紋者は全て「刺されて」亡くなっている。
また、川上眉山、大辻司郎は自殺、野呂栄太郎は獄死...
いろいろと敵も多いと聞く孫正義氏、大丈夫か。
さらに関係ないが、このdocomoのCMにでてくる「渡辺謙の主人」の岡田将生クン。
Canonの新プリンターのCMにも登場。
新しいポスターは紋付姿で、胸には石持ち地抜き三つ兎紋が、僕はこうした細かい演出が大好きだ。
もう、来年は兎年か。
まさむね
テクノロジー・ビジネス »
東京ゲームショウ2010も終わり、僕のオタクサマー2010も終わった。
実は、僕は今回の東京ゲームショウ2010のコスプレイベント関連の仕事をさせていただいていたのだ。
今まで、何度かイベントにかかわったことはあったが、今回は規模、内容ともに僕にとって刺激的で画期的なものとなった。
とにかく、多くの方に足を運んでいただいた。
今年の東京ゲームショウは過去最高の20万人を動員したというのだから凄い。
ゲームというジャンルがどちらかといえば、世間の目に触れにくくなったり、過去数年の間に、例えば、バンダイのゲーム部門がナムコが統合したり、ハドソンがコナミの完全子会社になるというように業界の再編が進み、どちらかといえば停滞期に入った感のあったゲーム業界。
さらに言えば、PCのネットゲームでは、お隣の韓国に、またソーシャルゲームでは中国系ゲームメーカーに主導権を取られるなど、今ひとつ元気がなかった日本のゲーム業界ではあるが、観客動員数を見るかぎり、お家芸としての底力はまだまだというところを感じさせてくれたのが、今年のゲームショウだったのではないだろうか。
そして、今回僕が関わらせてもらったコスプレ。ほんの数ヶ月前までは、別世界の話だったが、スタジオハードデラックスの高橋社長と出会ったり、ワンフェス、世界コスプレサミット、コミケなどを通して、徐々に僕の中で大きな存在となっていった。
今回、コスプレイベント(17日のコスプレカンファレンスと18日のコスプレダンスナイト)で大きな役割を果たした道斎忠明氏(通称ジャッキー道斎)によると、コスプレというものは、ユーザー各人がゲーム(あるいはアニメ、マンガといういわゆるオタク文化)から受け取った多大なインパクトに対する感謝の気持ちを表現したものではないかと言う。
つまり、文化人類学的に翻訳して言えば、ゲームから受けた”わけのわからない”<贈与の一撃>によってユーザーの内面に溜まった過剰物(マルセル・モースがいうところのハウ)を、表現することによって吐き出しそうとた一形態がコスプレという現象なのである。
だから、彼らの姿には「愛」が溢れているのだ。ゲームから受け取った愛情をクリエイター達に投げ返すと同時に世界に発信する。こうした一連の愛情の連鎖がコスプレ文化だと僕はいささかロマンチックに捉えたいのだ。
様々なコスプレイベントに顔をだして思ったのは、コスプレイヤー達の「各人が影響を受けた作品を自らに憑依させて体全体で表現した混沌とした愛情」を受け取る役割・つまりカメラ小僧(と言っても年齢上限は不明)の存在の重要性だ。
一般に、オタクなどと言われて日陰者の印象もある彼らだが、おそらく学生、社会人としてはそれぞれ持ち場でご活躍されているのだろう。たまのハレの日に、恋人や奥さんに隠れてカメラ片手に、「愛情交易の広場」にやってきているのだと僕は想像する。
彼らは本当に礼儀正しい。メチャクチャな人ごみの中でもほとんどの方々はルールを守り、そしてコスプレイヤー達に声をかけて「写真を撮らせていただく」という態度がすがすがしい。ここでは、見ず知らずの人たちが、ファッションとカメラという二つのツールを通して精神を交流させるのである。
そして、そんな交流の儀式には暗黙の作法がある。そうしないと憑依神=コスプレイヤーというわけのわからないものを扱うのにはあまりにも危険だからだ。逆にいえば、その作法を守るものだけが、この儀式に参加できるのである。
おそらく、日本人は世界の中でもシャイな民族の一つだと思う。そんな日本人独特の作法に守られたハレの日の精神の交流こそ、このコスプレイベントなのだと思わず言ってみたくもなる。また、さらに加えれば、その交流の隠し味(実は露骨)がエロスだということだとするならば、それは、まるで現代の「歌垣」なのかもしれないと...
一方で、大きく行き詰った日本経済の突破口の一つとして、ビジネス界が、こういった新しい交流や絆化の動きを活用しようとするのはある意味、自然の動きだとは思うが、現状、少なくとも意識的には一人一人のコスプレイヤーはそれぞれのコスプレ感を持っていて、市場ターゲット化としてまとめようとするのも時間がかかりそうだ。望遠鏡で見れば、「コスプレ」という言葉でひとくくりに出来るものでも、近寄って顕微鏡で見てみると、そこには無数のトライブ(部族)が存在しているのである。
今回、東京ゲームショウでは、幕張メッセの「やすらぎのモール」に大きな背景画(通称、バックドロップ)を設置して、それぞれのコスプレイヤーにそれを使っていただこうという企画をしてみた。もちろん、松本城のバックドロップの前では戦国系ゲームのコスプレイヤー、プロジェクトDIVAのバックドロップの前では初音ミク系のコスプレイヤーに喜んで使っていただいたようにも見受けられたが、逆にそれを避けて、打ちっ放しのコンクリート前でしか写真を撮らせないコスプレイヤーも多かった。
彼女、彼達は自分達の頭の中のイメージに合えば使ってくれるし、そこから1mmでも離れたものだと興味も示さない、逆に邪魔なのだ。そのあたりの複雑さをも感じることが出来た。
また、ゲームショウに来られるコスプレイヤーはゲームのキャラになりきって自分が好きなゲームの最新版を試しに来るのが楽しいのだという意見も聞かれた。
おそらく、コスプレイヤー達は、自主発生的に生まれてきただけに、マスコミやマスビジネスに対して一定の距離を置きたがっているようにも思える。彼らは決してマスメディアの思うようには動かないし、利用されることを拒み続けるのだ。
もしかしたら、コスプレとは、極めて現代的な反体制的、あるいは非資本主義的なホットムーブなのかもしれない。
さて、最後になるが、シナの古典『荘子』の中にこんな話がある。その昔、混沌(こんとん)という神様がいた。その神様には目や鼻が無かった。ある日、その混沌が寝ている間に、友人が目と鼻をプレゼントした。そうしたら朝、起きたら、混沌は死んでいたというのだ。
つまり、混沌とした状態はそれだから生き生きしているのであって、それを秩序立てようとすると、すぐに死んでしまうセンシティブな「生き物」なのである。コスプレという混沌を資本社会という秩序が取り込もうとする時、死なないように目鼻をつけられるのだろうか。
僕が今回のゲームショウの会場を走り回りながら、考えていたのはそんなことだ。
まさむね(西村昌巳)
テクノロジー・ビジネス »
この間、知り合いのSさんにお会いした。Sさんは自ら情報戦略研究所を立ち上げて長くコンサルテーション等の仕事をされている、業界では著名な方だが、ここではSさんのイニシャル名に留めておきます。
お会いしたのはご相談したいことがあってだったのだが、いろんなご指摘を頂戴して「なるほどなぁ」と思うことしきりであった。さすが百戦錬磨、厳しい時代を自ら生き抜いてこられた方の言葉だけに重みがあります。そのいくつかをここで紹介してみたい。
「大事なのはRich Experience(豊かな経験)を与えることができるかどうか」
時代はもうソフトでもハードでもなく、あるメディアならそのメディアを提供することによってユーザーにどんな経験をしてもらいたいのか、どんな可能性(実現のイメージ)に誘いたいのか、いわゆるRich Experienceを経験してもらいたいのか、だということ。
アップルにあって日本企業にいま決定的に抜け落ちているもの、それが多分この視点だと思います、ということ。日本の多くの企業は、単なるハード屋かソフト屋に終わっている、あるいはそういう役割に甘んじてしまっている。人が求めているのは経験であって、単なるモノではないはず。
そして高邁なこころに高邁なものが宿るのです。スターバックスだって自分たちのことを単なるコーヒー屋だと思っているのではない。彼らの社員教育の徹底ぶりもすごいが、彼らはコーヒーを飲むことが世界の平和につながるという信念でビジネスをやっているのですよ。そこまで行かなきゃビジネスじゃありません。
「奪うのではなく、与えること」
いまの日本人の心性・心持はとても小さくなってしまった。みんな与えることをしないで、少ないパイから分捕ることばかり考えるようになっている。死亡老人の遺族による年金分捕りも然り。そしていま流行の中国頼みの姿勢も基本は同じで、みんな中国から分捕ることしか考えていないようだ。
でもこれは絶対にうまく行かない。中国人もしたたかだし、それよりもなによりも互いに与え合うことのなかで共に享受することを志向していかない限り、物事はぜったいにうまく行かない。いつか破綻する。だから単に中国からいかに分捕るかばかりを考えている現在のビジネスの多くはやがてうまく行かなくなるだろう。
「古いものや大きくなりすぎたものがやがて停滞して壊れるのはいい」
それは当然だから。問題は新しいものが生まれてこないこと。誰も正しいリスクをとらず新しいことにも挑戦しようとしないことのほうがはるかに損失なのです。
そして最後にSさんはこうおっしゃった。
「よしむねさん、ある程度の年齢になれば、どれだけ人に与えてきたといえるかでその人の価値は決まりますよ。いままでよしむねさんのおかげで育ててもらいましたといえる人をどれだけ持っているか、です。与えることが結果として相手から与えられることにつながるのです」
これにはぼくも答える術がなかった。グーの音もなかった。まったくおっしゃる通りだし、はたと自分の来し方を考えたときに、いままでぼくはどれだけの人になにかを与えることができただろうかと思ったからだ。「よしむねさんのおかげで育ちました」なんて言ってくださる殊勝な方がいるだろうか? だいいちぼくに与えられるものがあるだろうか?
疑問だ。だけどまだ遅くないか? これからぼくはもっと与えることを学んでいかなければならない、というよりもとにかく与えること、応援すること、そう強く思った。与えよ、さすれば与えられん、たとえ与えられなくても。
よしむね
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先日、会社の仕事でシマンテック社に、ノートンユーティリティの件で電話をした。インストール台数や有効期限、自動更新、アンインストールなどの質問だ。
電話をすると、まず、新製品へのバージョンアップのナレーションが流れた。こちらがそんな用事で電話したわけでもないのに、無償とはいえ、そんな告知はちょっと迷惑だ。しかも、そのナレーションでURLまで言い出すのだ。このURLをメモする、あるいはその場でPCに入力する人はいないだろう。そのためにわざわざ問い合わせに電話しているのではないのだから。
このあたり、いかがなものかと思った次第だ。次にナビダイヤルを経由して女性のオペレーターが出た。こちらの質問を聞いて、ぶっきらぼうに別の電話番号を教えられた。ちょっとがっかり。また電話しなおして、一から説明しなければならないからだ。
しかたがない。その教えられた電話番号に電話した。通常の呼び出し音とは違う。明らかにどこかに転送している。「アレッ」と思ったが次に出てきたのは、明らかに外国人(多分、中国人)の説明員だった。たしか、王さんとか言ったっけ。王さんという名前は中国では最も多い名前の一つだ。
僕は驚いた。その王さんが大変、丁寧な口調で日本語を話すのだ。もちろん、ネイティブではないことはすぐにわかる。しかし、ちょっとでも答えがモタモタするだけでも、常に、「大変、お待たせして申し訳ありません」と言うのだ。
しかも、一つの質問が終わると、「他に何かご質問はございませんでしょうか。」と繰り返す。
自分もかつて、サポート電話の対応をしたことがあるが、正直なところ、いかに先方に早く納得してもらい話を済ませる(電話を切る)のかがテーマだった。
しかし、この王さんは違った。
彼女に「他のご質問は?」と言われると、次々と別の疑問が出てくるから不思議だ。そして、電話を切ってみると僕はかなりすっきりした気分になった。
最後の王さんは、「これからそちらに、本日の私の対応がいかがだったかのアンケートを送りますのでお答えください。」と言っていた。おそらく、このアンケートの集計が査定などに関係してくるのであろう。
シマンテック社も長年のサポート業務の蓄積がこういったシステム(ノウハウ)を作り上げたにちがいない。
現在、日本の産業の多くが中国に移転している。同じことをさせるのであれば、コストの安い海外で対応させたほうがいいに決まっている。しかし、多くの日本人は、顧客対応というフェーズではまだまだ、中国人は日本人のきめ細かさ、誠実さ、優しさ、思いやりという点で劣っているに違いないと思っていると思う。実は僕もそうだった。
しかし、当たり前の話だが、「誠実さ」のインセンティブが働くようなシステムにしていれば、中国人だって、すぐに日本人に追いつく。いや、ハングリー精神がある分、日本人よりも優れた対応をするようになる。
シマンテック社のサポートを受けて、日本の産業の劣化は決して価格だけの話ではない。ある意味、自信を持っているはずだったサービス業のクォリティに関してもそうなりつつあるのではないかとちょっと不安な気持ちになった。
まさむね




