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この間、知り合いのSさんにお会いした。Sさんは自ら情報戦略研究所を立ち上げて長くコンサルテーション等の仕事をされている、業界では著名な方だが、ここではSさんのイニシャル名に留めておきます。
お会いしたのはご相談したいことがあってだったのだが、いろんなご指摘を頂戴して「なるほどなぁ」と思うことしきりであった。さすが百戦錬磨、厳しい時代を自ら生き抜いてこられた方の言葉だけに重みがあります。そのいくつかをここで紹介してみたい。
「大事なのはRich Experience(豊かな経験)を与えることができるかどうか」
時代はもうソフトでもハードでもなく、あるメディアならそのメディアを提供することによってユーザーにどんな経験をしてもらいたいのか、どんな可能性(実現のイメージ)に誘いたいのか、いわゆるRich Experienceを経験してもらいたいのか、だということ。
アップルにあって日本企業にいま決定的に抜け落ちているもの、それが多分この視点だと思います、ということ。日本の多くの企業は、単なるハード屋かソフト屋に終わっている、あるいはそういう役割に甘んじてしまっている。人が求めているのは経験であって、単なるモノではないはず。
そして高邁なこころに高邁なものが宿るのです。スターバックスだって自分たちのことを単なるコーヒー屋だと思っているのではない。彼らの社員教育の徹底ぶりもすごいが、彼らはコーヒーを飲むことが世界の平和につながるという信念でビジネスをやっているのですよ。そこまで行かなきゃビジネスじゃありません。
「奪うのではなく、与えること」
いまの日本人の心性・心持はとても小さくなってしまった。みんな与えることをしないで、少ないパイから分捕ることばかり考えるようになっている。死亡老人の遺族による年金分捕りも然り。そしていま流行の中国頼みの姿勢も基本は同じで、みんな中国から分捕ることしか考えていないようだ。
でもこれは絶対にうまく行かない。中国人もしたたかだし、それよりもなによりも互いに与え合うことのなかで共に享受することを志向していかない限り、物事はぜったいにうまく行かない。いつか破綻する。だから単に中国からいかに分捕るかばかりを考えている現在のビジネスの多くはやがてうまく行かなくなるだろう。
「古いものや大きくなりすぎたものがやがて停滞して壊れるのはいい」
それは当然だから。問題は新しいものが生まれてこないこと。誰も正しいリスクをとらず新しいことにも挑戦しようとしないことのほうがはるかに損失なのです。
そして最後にSさんはこうおっしゃった。
「よしむねさん、ある程度の年齢になれば、どれだけ人に与えてきたといえるかでその人の価値は決まりますよ。いままでよしむねさんのおかげで育ててもらいましたといえる人をどれだけ持っているか、です。与えることが結果として相手から与えられることにつながるのです」
これにはぼくも答える術がなかった。グーの音もなかった。まったくおっしゃる通りだし、はたと自分の来し方を考えたときに、いままでぼくはどれだけの人になにかを与えることができただろうかと思ったからだ。「よしむねさんのおかげで育ちました」なんて言ってくださる殊勝な方がいるだろうか? だいいちぼくに与えられるものがあるだろうか?
疑問だ。だけどまだ遅くないか? これからぼくはもっと与えることを学んでいかなければならない、というよりもとにかく与えること、応援すること、そう強く思った。与えよ、さすれば与えられん、たとえ与えられなくても。
よしむね
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先日、会社の仕事でシマンテック社に、ノートンユーティリティの件で電話をした。インストール台数や有効期限、自動更新、アンインストールなどの質問だ。
電話をすると、まず、新製品へのバージョンアップのナレーションが流れた。こちらがそんな用事で電話したわけでもないのに、無償とはいえ、そんな告知はちょっと迷惑だ。しかも、そのナレーションでURLまで言い出すのだ。このURLをメモする、あるいはその場でPCに入力する人はいないだろう。そのためにわざわざ問い合わせに電話しているのではないのだから。
このあたり、いかがなものかと思った次第だ。次にナビダイヤルを経由して女性のオペレーターが出た。こちらの質問を聞いて、ぶっきらぼうに別の電話番号を教えられた。ちょっとがっかり。また電話しなおして、一から説明しなければならないからだ。
しかたがない。その教えられた電話番号に電話した。通常の呼び出し音とは違う。明らかにどこかに転送している。「アレッ」と思ったが次に出てきたのは、明らかに外国人(多分、中国人)の説明員だった。たしか、王さんとか言ったっけ。王さんという名前は中国では最も多い名前の一つだ。
僕は驚いた。その王さんが大変、丁寧な口調で日本語を話すのだ。もちろん、ネイティブではないことはすぐにわかる。しかし、ちょっとでも答えがモタモタするだけでも、常に、「大変、お待たせして申し訳ありません」と言うのだ。
しかも、一つの質問が終わると、「他に何かご質問はございませんでしょうか。」と繰り返す。
自分もかつて、サポート電話の対応をしたことがあるが、正直なところ、いかに先方に早く納得してもらい話を済ませる(電話を切る)のかがテーマだった。
しかし、この王さんは違った。
彼女に「他のご質問は?」と言われると、次々と別の疑問が出てくるから不思議だ。そして、電話を切ってみると僕はかなりすっきりした気分になった。
最後の王さんは、「これからそちらに、本日の私の対応がいかがだったかのアンケートを送りますのでお答えください。」と言っていた。おそらく、このアンケートの集計が査定などに関係してくるのであろう。
シマンテック社も長年のサポート業務の蓄積がこういったシステム(ノウハウ)を作り上げたにちがいない。
現在、日本の産業の多くが中国に移転している。同じことをさせるのであれば、コストの安い海外で対応させたほうがいいに決まっている。しかし、多くの日本人は、顧客対応というフェーズではまだまだ、中国人は日本人のきめ細かさ、誠実さ、優しさ、思いやりという点で劣っているに違いないと思っていると思う。実は僕もそうだった。
しかし、当たり前の話だが、「誠実さ」のインセンティブが働くようなシステムにしていれば、中国人だって、すぐに日本人に追いつく。いや、ハングリー精神がある分、日本人よりも優れた対応をするようになる。
シマンテック社のサポートを受けて、日本の産業の劣化は決して価格だけの話ではない。ある意味、自信を持っているはずだったサービス業のクォリティに関してもそうなりつつあるのではないかとちょっと不安な気持ちになった。
まさむね
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先週末、名古屋の栄、オアシス21で開かれたワールドコスプレサミットに行ってきた。
僕のオタクサマー、第2弾イベントである。
この栄という街は、名古屋の中心街、だからコスプレイヤーに混じって普通の人々もこのイベントに足を運んでいる。
しかも、テレビ愛知の主催だから、おそらくテレビでも相当、パブっていたのであろう。街全体が自然にコスプレをイベントとして楽しんでいる様子がうかがわれた。
例えば、地下鉄に乗ると、普通にコスプレイヤーがいたりするのである。これは楽しい。
先日行ったワンダーフェスティバルが幕張という地ということもあって、集まった人々が真性オタク、一方コスプレイヤーはベテランが多かったのに比べると、このワールドコスプレサミットは、いい意味で庶民的で、若々しい、しかも、国際的。このあたりのゴッタ似感が名古屋っぽくて素晴らしい。
イベントは、昼間の普通のダラダラとした撮影会と夜のグランプリとあったが、僕は昼間はちょっとだけ見て、100歳双子のカタワレ=ぎんさんの墓参りに行ってしまった(結局、墓は見つからなかったけど)が、夜のグランプリはばっちり楽しんだ。
予選を勝ち抜いた各国のコスプレイヤーが、寸劇をするのだが、お国柄が垣間見れて楽しかった。
芸術的なフランスチーム、まるで京劇な中国チーム、アクロバチックでしかも、LEDを駆使した韓国チーム、ワイヤー的なもので空中浮遊したブラジルチーム、造詣の凝り方では一番だったタイチーム、分りやすさと日本語の上手い(当たり前か)日本チーム、どれも素晴らしかったが、結局は、リモコンで人形を動かしたイタリアチームがそのアイディアで頭一つ抜けて優勝。
審査員長の古谷徹氏が、「コスプレは世界を一つにする」と言われていたが、それもまんざら絵空事でもないように感じたのはその場の雰囲気があまりによかったからだろうか。
★
しかし、ワールドコスプレサミットが盛り上がる一方で、昨今の日本のオタク文化の足元の衰退はいかんともしがたい。最近、よく、そんな話を聞く。
本大会の審査員の一人である高橋信之氏もオフレコだが、「あと10年もすれば、アニメ産業における日本の地位は、中国や韓国に抜かれるだろう。」と話されていた。
日本におけるアニメーターの待遇があまりにも劣悪だからだ。彼らはその才能を生かす以前に、社会人として生きていく環境にない。ぶっちゃけた話、仕事のハードさの割には給料が安すぎるのである。
同様の話は、ちょっと前に竹熊健太郎氏が漫画について語っていた言葉にも通じている。漫画界でも、優れた才能がある若者がデビューする場所がないのだ。それどころか、大手の漫画雑誌すら青息吐息の状態なのである。
また、先々週に行ったワンダーフェスティバルでも会場のブースでは中年のフィギュア造型師の姿が目立っていた。若い人々がどんどん、オタク的クリエイティブの場からいなくなっているのである。フィギュアどころか、そもそも、プラモデルの市場自体が縮小しているのだ。
さらに言えば、ゲームだって同じようなものだ。90年代の(PSやサターンなど)ハードの進歩に追いつくためにソフトウェアに多額の費用をかけざるを得なくなってしまったゲーム業界では、リスクを回避するため、シリーズ物オンパレードになってしまい、新しい試みが生まれにくくなった。その結果として、中小のゲームメーカーが軒並みギブアップしてしまった。そして、その隙にとでも言おうか、日本はオンラインゲームでは韓国(例えば、リネージュ)に、ソーシャルゲームでは中国(例えば、サンシャイン牧場)の後塵を拝するようになってしまったのである。なんということだ。
そんな足元の現状をヨソに、経済産業省では、今年の6月にクールジャパン室なるものを立ち上げてみたようだが、何もできていないのが現状だ。いや、そもそも、役所が何か出来るはずなどないのだ、この分野では。
ワールドコスプレサミットが盛り上がる中、僕はそんなことを一人で考えていた。
竹熊氏や高橋氏のように後進の育成に力を注ぐというのもありだろう、あるいは、日本のそういった文化を新しい市場に出すような輸出活動というのも一つだろう。
しかし、それらの道はまだまだ険しい、多分。
まさむね
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日本のコンテンツ産業は一体大丈夫なのだろうか。
インターネットの時代が本格化し、日本のコンテンツ産業では多くの分野で今までのビジネスモデルが壊れ続けている。
例えば、ゲーム業界。日本企業が全盛だった90年代の面影も薄く、現在、ネット上のゲームでいわゆる勝ち組と言われているのは主に、韓国系、中国系のゲーム会社である。
例えば、サンシャイン牧場。このゲームはmixiをプラットフォームとしたいわゆる育てゲーであるが、最初出てきたときは、これでもゲームかと思った。かつてのゲームの興奮も無ければ物語もない。ただ、毎日、野菜を育てていくゲームである。
かつて、日本の多くのゲーマーにとっては、いてもたってもいられないような、寝るのを惜しんででもやらざるを得ないようなコンテンツ、それがいいゲームであった。
しかし、おそらくそれはすでに過去の話なのかもしれない。今冷静になって、考えてみれば、たかがゲームに人生の多くの時間を奪われていたあの頃、それは一体なんだったのだろうか。逆にそんなことすら感じさせる今日この頃である。
そして、その時代、日本のゲームメーカーの多くは、儲けることよりも、いいゲームを作ることに心血を注いでいた。もちろん、この言い方は正確ではない。儲けなくてもいいと言っているのではなく、いいゲームを作れば、儲けは後でついてくるそんな「幸福な時代」があったのである。だから、ゲームのトップメーカーはマーケティング以上に、自分達の過去の実績に自信を持ち続けていたのである。
それゆえに、いいゲームはシリーズ化を重ね、ディテイルにこだわり、画面の美しさを競うようになった。しかし、それがユーザーが本当に求めていたものかどうはわからない。
そして、日本のゲームは躍動感を失い、定型に固執するようになってしまったのだ。
本来だったら、日本のゲームメーカーは、ネット時代に入った頃、最もアドバンテージを持てるポジションにあったのだが、逆に、パッケージビジネスという既得権益を選んでしまったのである。
もちろん、これは仕方の無い話だ。おそらく天才以外は、現状上手く行っている方法を捨てることなど出来ないものだからである。それに比べれば、マウス操作やGUIといった自らをビッグにしたインターフェイス=武器を軽々と捨てたスティーブン・ジョブスという人物は本当に凄い御仁である。
同様のことは、出版業界にも言える。今、出版業界は前代未聞のプラットフォームの転換時代に入っている。
しかし、僕は大手の出版社がこの時代をトップのまま生き延びるとは思えない。
例えば、小学館は電子書籍(IPhone)で例えば、「うる星やつら」「うしおととら」「名探偵コナン」など、過去の人気作を発売するというが、それが紙の単行本よりも高額(1巻450円)なのである。いまどき、BOOKOFFにいけば、100円~150円で購入出来るのにだ。
明らかに、小学館はこの電子メディアというプラットフォームで戦略を誤っている。
おそらく、作家のロイヤリティはいくら、編集者の経費がいくら、電子書籍へのコンバート代がいくら...というように経費を積み上げていった挙句が高額につながってしまったのだろう。
はっきり言って、ユーザーがどう感じるのかは二の次にしか頭に入っていないのではないか。
そして、僕らにメタメッセージとして伝わってきているのは、「あ~嫌な時代になったなぁ。本当は紙でやって行きたいなぁ」というため息でしかないのである。
前の時代の覇者(例えば恐竜)が次の時代に生き延びるというのは本当に大変なことだ。
そしてそれは、ほぼあきらかに地球が誕生してからの偉大な法則なのかもしれない。
僕はそんなことを最近、よく考える。
まさむね
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I-Padに関する狂騒はまだまだ続いている。
1)画面が水平に置ける
2)操作がタッチパネル(キーボード不要)
3)複数人で操作できる
結論から言えば、I-Padの特徴はこんなところだ。
昨日、職場でI-Padを囲んでみんなで驚きあった。
I-Padの一番大きな特徴は、このみんなで一つの画面を見れるということにあることに改めて気づいた。
実は、そこに動いていた画面は15年前にあったCD-ROMの動きとほぼ同じだ。僕にはそれ自体は全く新しいものには思えなかった。
しかし、I-Padというマシンの上で机の上で「みんな」で見られるというのが決定的に新しい。
おそらく、I-Padは、全然新しくないものを新しく見せる魔法を有している。そこが新しいのだ。
画面が水平に置けるということとならんで、タッチパネルで操作できるというのも別に新しい技術ではない。
これもおそらく、十数年前には存在した技術だろう。しかし、複数の人間でタッチパネルを同時に操作できるというのは確かに面白い。
I-Padはその意味で、パーソナルであったPCを一瞬、「みんな」で操作できるおもちゃにした。それは、各人がコントローラを持ち、一つの画面をみるという風景とはまるで違う。
これも画期的だ。
多くの人が指摘し、僕も同意するが、今後、雑誌というのはどんどん紙から離れて、こちらに移行してくるだろう。
なぜならば、こっちのほうが数倍おしゃれだからだ。
近々、人々は紙の雑誌の読みにくいところを親指と人差し指で思わず広げようとしてしまう錯覚にとらわれるだろう。
ちょうど、ゲーマが言ってはいけない事を言ってしまった時に、リセットボタンを探してしまうように...
すると、その場にいた誰かが言った。「普通の機器というものが大体、大きなもの→小さなものという流れになるのだが、このI-Padは小さいI-Phoneから、大きくなった。この、あえて方向の逆流させたということも面白い。」確かにそうだ。これぞアメリカ的発想といえるかもしれない。
しかし、心の中でつぶやいた。小さなもの→大きなものと進化したものが無いわけではない。例えば弥生時代の銅鐸だ。つまり、実用品ではなく祭司用具ならありうるのだ。ということは、I-padとは、実用ツールの顔をした「神呼び器具」なのかもしれないと思った。じつはその時、僕の頭の中には無用の長物と化した僕と等身大のI-padがあった。
一方、I-Padはまさに未来への窓だ。しかし、僕はI-Padを囲んでワイワイ話しをしながら、さらに次の世代のことを考えさせられた。おそらく、このI-Padは、もっと薄く、軽くなり、そして、まさに紙のように折りたためて、ポケットに入るようになるだろう。
そうすると、その時代の人はI-Padを振り返って見た時に、どう感じるのだろうか。
もしかしたら、僕らが奈良時代の遺跡から出土する木簡のように感じるのかもしれない。
そうだ。I-padは10年後の木簡なのだ。僕はそう直感した。
そして、そう直感させるのも目の前のI-Padの力なのかもしれないと思った。
まさむね
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iPadの狂騒は凄い。
ネット上だけではなく、テレビでも話題はiPad一色という印象の週末だった。
確かに、画期的なツールである。多くの識者や書籍編集者もこれで紙の時代は終わったという印象を持ったのは当然かもしれない。
おそらく、確実に電子書籍の時代が来るのであろう。これはいい、悪いの話を超えた時代の流れと言わざるを得ない。
このツールが発表された当時、自分としては、マルチタスクではないこと、大きさが持ち運びに不便なことなどを理由にそれほど普及しないだろうと思ったこともあったが、多分、勘違いだった。
原理的、あるいは技術的になにか新しいものがそこにあったとも思えないが、この狂騒を見ているとiPadは確実に新しい時代を告げる象徴になったと言ってもいいと思う。
それにしても、海の向うから新しい文物がやってきて、それに対していち早く反応し、国内での文化的優位性を誇示しようと考えるメンタリティ(当然、自分自身も含めて)というのはなんと伝統的なことか。
たとえば、家紋の世界を見ても、いわゆる高貴な紋=菊、牡丹、桐などはみな海の向うの象徴のような植物だ。それらを身に着けた人々はシナの文化をいち早く取り入れることで己のステータスを誇示することが出来た層なのである。(このあたりの日本と大陸との関係の象徴としての家紋という話は6月発売予定の「家紋主義宣言」の一つのテーマです。よろ。)
おそらく、仏教伝来や遣隋使の時代、あるいはそれ以前から、日本人はこういう海の向うのものに弱い。歴史上のヒーロー、織田信長や坂本龍馬にしても、みんな海の向うへの憧れを自分の武器にしえた人物だ。こういう目をキラキラさせる人物は憎めない。
その意味で、今回の狂騒は批判的に見るというよりも、そこでみんなと一緒に日本古来のメンタリティを共有し、エネルギーを感じ、それをさらに活力に換えていくことを考えるべきだと思った。
しかし、当然のことではあるが何かを得るということは何かを失うということである。
内田樹先生もいろんなところで指摘されているが、人々がものを学ぶということで重要なことは、自分が何を知りたいのかわかっていることに関する知識を増やすことだけではなく、「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわすことという一面もある。
僕は、よしむねさんが前のエントリーのコメントで書かれているように、自分も、下記の感慨を共有する。
だけどやっぱり紙を実際に触ったり、破ったり、捨てたり、汚い字で書き込みしたり、ボロボロになるまで破片化したりしたいですよね。
確かに、それがどういう意味があるのかは明確には言えないが、体のどこかに電子書籍では味わえない「なにものかとの出会い」がそこに残っているような気がするからである。
まさむね
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この週末の金曜日、日本でもiPADが発売になった。3D元年といい、すでに発売されていた電子書籍キンドルの登場とあわせて、グーテンベルグによる印刷の発明以来の、メディア文化の変容の可能性を指摘するような論調の取り上げかたもけっこう多いようだ。
電子書籍とは異なる、従来からある紙の本の可能性についてはいずれ別の機会にあらためて書いてみたいと思っているけど、ここではいわゆる3DやiPADによって代表されるある種の万能感の感覚のようなものについてぼくなりにいま思うところを書いておきたい。
3Dにせよ、iPhone やiPADにせよ、極端にいえばぼくらはその登場によって以前よりも何でもできるような気になりつつあるように思える。つまりぼくらの身体を引き延ばした形での万能感のようなもの。しょせん端末等の力を借りてなのだが、自分の見る能力がとても高くなり、読む能力や、探し出して調べる能力がとても高くなりつつあるような錯覚。良い意味では世界共通としてのイマジネーション力に変化を及ぼす可能性もあるかもしれない。
でも、これはひとつの予感だけれど、ぼくらはある種の万能感が高まるような感じになればなるほど、その一方でますます自分のなかの無能さや無能力さ加減を体感することに飢えるようになるのではないか。
いながらにして何でも手に入り、なんでも見れるような気になればなるほど、逆に自分で実際に歩いて、ものを触り、体感することへの渇望みたいなもの。そしていかに自分が無力であるかを実感すること。それを身体感覚で確認すること。その必要性がバランス感覚に促されるようにますます高まってくるように思える。
それは高校の地学だったかで習ったアイソスタシーの原理のようなものでもあるかもしれない。海のうえに浮かんでいる氷山は海面から出ている氷の量が多いだけ海面下の氷塊もまた比例して多くなっているという。だから世をあげての万能感が高まれば高まるほど海面下の無能感も高まる・・・。
やっぱり身体のセンシビリティーこそがますます大事になるように思える。理屈ではうまく言えないけど、いわば自分の無力さを肌実感できるような能力こそがとても大事になると思えるのだ。まさむねさんも以前恋々風塵の映画評のなかで述べていたけど、以下の文章にはぼくもまったく同感だ。
「おそらく、センシティブ(感度が高い)というのは自然に対して、こうした悠久の流れ、すなわち山の霊を感じ取れることだと思う。けっしてアップル社の新製品に飛びつく器用さではない」
だから逆説的だけど、3DやiPhoneやiPADが出てもそれだけではなにも変わらないのだ。大事なのは最後はやっぱり身体のセンシビリティーで感じること(それはたとえば今日の風はとても気持ちがいいでもいい)、そしてマルクスやランボーの言葉じゃないけど、そのことを通じて「生活を変えよ、変革せよ」という日々の考え方みたいなものにつなげてゆくこと、それこそが今でも未だにもっともリアルであり続けていると思うのだが。
けっきょく読む、聞く、書く、走る、歩く人間の素の能力なんて2000年まえとたいして変わっていないかもしれないのだから。
よしむね
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昨年から、今年にかけて、ゲーム業界でのトレンドソフトのひとつに「サンシャイン牧場」がある。ご存知、mixiの中でのゲームだ。
僕はとりあえず、このゲームを始めたが、あまり性に合わなかったのか、以後、ほとんどやらなくなってしまった。ところが、相変わらず、「牧場に害虫が発生しました」的なメッセージが毎日のように出てくる。よく見ていないので、なんだかわけがわからず、mixi自体へのアクセスもあまりしなくなってしまった。
今は、マイミクの友人が書いている日記を読むためにたまにお邪魔するくらいだ。
おそらく、根本的なところで、ゲーム好きではないのかもしれない。まぁ、もう五十歳だし...
ただ、そんな僕でも、実は13年位前はゲームを作っていたのだ。水木しげる先生の「妖怪図鑑」のロールプレイングゲーム(サターン版)なんかは大変だったけど、楽しかったな。でも自分ではゲームはほとんどやらなかった。
だから、ゲームディレクタとしては、全くダメだったのは当たり前だ。
ただ、「ときめきメモリアル」だけは何故かやった。当時、マンションの9Fに住んでいたので、真夏の暑い日、真っ裸で「藤崎詩織」と遊んだものだ。その当時はフリーだったので、外には出ずに一日中、家の中でそんなことをして過ごしていた。そのくせ、電話で、SOHO仕事の進行具合確認があると、「鋭意努力中です!!」と言ってごまかしていたものだ。
ようするにダメ人間だったのだ。
時は、ちょうど、ITバブルの頃だから、あの頃、もっといろんなコネクションを広げていれば、その後の人生は少しは変わったかもしれない。堀江貴文さんとかにも会って、いろいろとお世話になっていた(家のプリンタが壊れたときに、オンザエッジのプリンタ借りたり)けど、不義理をしてしまったのは僕のほうだった。
勿論、僕のようにすぐにゲーム業界に見切りをつけて、転向した者はいいんだけど、その後も、ゲーム業界に残った人たちはどうしたんだろうか。
よく考えてみれば、ゲームというのは、家庭用、業務用(ゲーセン用)、オンラインゲーム用、携帯公式用、そしてmixiアプリ用など、一言で同じゲームといっても、作る側から見れば、似て否なるものだ。
家庭用ゲームはパッケージ1個=3000円なら3000円で、その分がっつり遊ばせるために作る。業務用は、1分か、2分位遊ばせて、もう少しやっていれば・・・と思わせて、もう100円コインを使わせるのが目的だ。オンラインゲームはとにかく、その世界観にどっぷり浸ってもらうように(ようするに中毒になってもらう)ようにつくるのがコツだ。また、携帯公式のゲームは月末から月跨ぎで、イベントかなんかを盛り上げて、契約を解除されないようにするということが大事だ。そして、mixiアプリでは、とにかく、毎日通わせて、画面で何かをやらせることが目的だ。
勿論、それぞれのビジネスモデルが違うところからくる差なのだけど、ゲームディレクタの方々が長年ゲームを作り続けるためには、そういったパラダイムの変遷を上手く行っていく、つまり、頭の切り替えを素早くすることが求められるんだから大変だろうな。
人間というのはあることで成功すればするほど、その成功体験を捨てるのが難しいものだからね。
逆に、僕みたいにあまり大きな成功しない人生というのは、それはそれでいいのかもしれない。
というわけで、僕の「サンシャイン牧場」はどうなっているのだろうか。見るのも怖い今日、このごろである。
まさむね
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日本の将来は中国にかかっている。
経済的に言えば、中国市場の存在を抜きにしては語れないし、政治的にも中国と対立しながら進むという日本の将来はない。
良い、悪いは別にして、好き、嫌いは別にしてそれが時代の必然だと思う。
勿論、チベットやウイルグなどの少数民族に対する弾圧、中国国内の内陸部の人民に対する抑圧、東シナ海のガス田問題など、中国に対する僕らの感情はそれほど素直になれるものではない。しかし、一方で中国国内の旧日本帝国主義に対する怨恨などもあるに違いない。そういう意味では、まだからまった糸がほぐれていない状況というのはしばらく続くのであろう。
しかし、そういった感情的、思想的な思惑とは全然別の次元で中国といかに上手く付き合っていくのかという課題は少なくとも、僕らの今後の大きなテーマのひとつであることは確かであろう。
今まで、いくつもの日本企業が中国に進出した。ヤオハンのようにボロボロになった企業もあれば、先方に工場を作って勝ち組となったユニクロのような会社もある。それぞれ、悲喜こもごもといったところであるが、どちらかといえば、付き合いにくい、という声が大きいようにも思える。
例えば、ECの世界では、中国のネット販売は約20%の返品率だという。一族で、一枚のクレジットカードを契約して、散々使いまわした挙句に、一族揃って、トンずらするとか、パーティの前に服を注文して、そのパーティで着て、その後に、平気で返品する、というような日本では常識的に考えられないようなことが起きているのも現状らしい。
中国と安心して普通に取引が出来るようになるには、もう少し時間がかかるようだ。アメリカが力技で、中国にクレジットカード文化を浸透させ、その後をセコくも付いていくような、そんな状況も想定される。
それにしても、コンテンツ産業における中国の不正コピー文化は何とかならないのだろうか。もう、10年も前の話ではあるが、小室哲哉が香港で会社を作り、しかし失敗したのはそういった文化を甘く見たからであった。
僕の知人から聞いた話によると、中国のある地方都市で、DVDの不正コピーをしている工場では、巨漢の男が汗だくになりながら、大きな樽の中の液体を長い棒でかき混ぜていたという。あれが、不正DVDになるのか...さすが中国4000千年の歴史だと笑っていた。とにかく、僕たちの想像を超える状況というのがあるのかもしれない。
そういえば、北京のあのニセ遊園地はどうなったのであろうか。僕は意外に、あそこにあった偽ミッキーや偽ドラエモンが好きだった。あの胡散臭さがなんだか日本の昭和の匂いを感じたからだ。そういえば、僕らの文化も今から40年位前まではあんなレベルだったのかもしれない。
でも、その頃の、清濁併せ呑む時代の日本の方がある意味元気だったのかもしれない。嫌なことも一杯あったが...
個人的に思うのだが、あの偽ドラ(画像)の日本での権利を取れないか(笑)。
まさむね
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ラーメン屋という商売は、何故か人生論とか物語と結びつきやすい。
一風堂の河原成美店主(左画)、天下一品の木村勉社長、山頭火の畠中仁会長、カリスマと言われるような人物が他の外食店に比べて圧倒的に多い。それらのHPを見ても、トップページからキャッチフレーズのようなものが目につく。
「変わらないために変わり続ける」(一風堂)
「お客さんが来てくれる味ってなんやろ 屋台でもそればかり考え続けた」(天下一品)
「さてどちらへ行こう 風が吹く」(山頭火)
勿論、悪い話ではない。
しかし、田中義剛さんの「ホエー豚亭」など、その流れを汲んだ他種の外食店もあるにはあるが、何故、ラーメン屋に多いのだろうかとの疑問は残る。
おそらく、ラーメン屋という裸一貫の商売と自己実現(自分探し)物語は相性がいいのだろう。どん底に落ちたヤンキー達が起死回生で放った乾坤一擲の大勝負、そしてその勝利の物語に日本人は弱いのだ。そして、彼等の「物語」のある種の暑苦しさが、ラーメンの熱さとシンクロしているのかもしれない。
井沢元彦だったと思うが、こういった職人の成功物語がもてはやされる文化は中国や韓国にはあまり無いというようなことを書いていた。それらの国は儒教文化が根付いているせいで、そういった庶民の文化をどちらかといえば蔑み、逆に官僚などのエリートに価値が置かれる社会だという。
逆に、だからこそ、日本は早々と近代化に成功した。
汗をかきながら一歩ずつ成長していくことに価値を置く日本の「物づくり」文化がその成功の秘訣だというのだ。まぁ、最近はそういった「汗」をかく人が段々減ってきたようにも思えるが、こういったラーメン屋的人生訓が生きているうちは、まだまだ日本は大丈夫といいたいところである。
いずれにしても、それらの物語系ラーメン屋は確かに美味しいような気もする。もしかしたら、隠し味に「彼等の汗」も入っているのかもしれない。そして、おそらくこういったラーメン屋のファンは、その「汗」という過剰さをも一緒に飲み干すのだ。そして「元気をもらう」のである。いいことだ。
しかし、そういった「過剰さ」で商売するラーメン屋が流行る一方で、ある意味、「冷静に」ビジネスを広げるタイプのラーメン屋もある。その典型が日高屋だと思う。僕は以前、「基本が大事、ラーメンチェーン店・日高屋のビジネス姿勢」というエントリーでこの日高屋の戦略コンセプトは、「お客さんにとって嫌なものは全て排除しよう」ということではないかと推理したが、それは、上記の「過剰な」ラーメン屋の逆の路線である。
そしてこの日高屋の、「いいものを足す」のはなく「嫌なものを減らす」戦略は、おそらく他のジャンルでも、徐々に勢力を拡大しつつあるような気がする。
IT業界もそうだ。あの「クックパッド」は、ユーザーが見たくないものを極力排除した結果として、あのシンプルな作りに到達したのだし、「Google」の勝利は、他の検索エンジンに比べて、よりユーザーが見たくないものを削除し得た結果ともいえるのだ。そして、Twitterで最も画期的なのは、そのブロック機能ということもよく聞く。
おそらく、今後はさらに、人が多くアクセスするから、このバナーをクリックしてくれる人も多いだろうというような地引網的な発想で創られたサイトはダメになっていくに違いない。
より多くの機能を加えるかではなく、より多くの不要な機能を削除するかが勝負になるということである。
本来の意味とは違うが、「プラス志向」ではなく、「マイナス志向」がこれからのキーワードになるような気もする。
関係ないが、そういえば、今日のエントリーは括弧(「」)が多かったな。
まさむね



