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[4 8 月 2010 | 2 Comments | | ]

先週末、名古屋の栄、オアシス21で開かれたワールドコスプレサミットに行ってきた。
僕のオタクサマー、第2弾イベントである。
この栄という街は、名古屋の中心街、だからコスプレイヤーに混じって普通の人々もこのイベントに足を運んでいる。
しかも、テレビ愛知の主催だから、おそらくテレビでも相当、パブっていたのであろう。街全体が自然にコスプレをイベントとして楽しんでいる様子がうかがわれた。
例えば、地下鉄に乗ると、普通にコスプレイヤーがいたりするのである。これは楽しい。
先日行ったワンダーフェスティバルが幕張という地ということもあって、集まった人々が真性オタク、一方コスプレイヤーはベテランが多かったのに比べると、このワールドコスプレサミットは、いい意味で庶民的で、若々しい、しかも、国際的。このあたりのゴッタ似感が名古屋っぽくて素晴らしい。
イベントは、昼間の普通のダラダラとした撮影会と夜のグランプリとあったが、僕は昼間はちょっとだけ見て、100歳双子のカタワレ=ぎんさんの墓参りに行ってしまった(結局、墓は見つからなかったけど)が、夜のグランプリはばっちり楽しんだ。
予選を勝ち抜いた各国のコスプレイヤーが、寸劇をするのだが、お国柄が垣間見れて楽しかった。
芸術的なフランスチーム、まるで京劇な中国チーム、アクロバチックでしかも、LEDを駆使した韓国チーム、ワイヤー的なもので空中浮遊したブラジルチーム、造詣の凝り方では一番だったタイチーム、分りやすさと日本語の上手い(当たり前か)日本チーム、どれも素晴らしかったが、結局は、リモコンで人形を動かしたイタリアチームがそのアイディアで頭一つ抜けて優勝。
審査員長の古谷徹氏が、「コスプレは世界を一つにする」と言われていたが、それもまんざら絵空事でもないように感じたのはその場の雰囲気があまりによかったからだろうか。
      ★
しかし、ワールドコスプレサミットが盛り上がる一方で、昨今の日本のオタク文化の足元の衰退はいかんともしがたい。最近、よく、そんな話を聞く。
本大会の審査員の一人である高橋信之氏もオフレコだが、「あと10年もすれば、アニメ産業における日本の地位は、中国や韓国に抜かれるだろう。」と話されていた。
日本におけるアニメーターの待遇があまりにも劣悪だからだ。彼らはその才能を生かす以前に、社会人として生きていく環境にない。ぶっちゃけた話、仕事のハードさの割には給料が安すぎるのである。
同様の話は、ちょっと前に竹熊健太郎氏が漫画について語っていた言葉にも通じている。漫画界でも、優れた才能がある若者がデビューする場所がないのだ。それどころか、大手の漫画雑誌すら青息吐息の状態なのである。
また、先々週に行ったワンダーフェスティバルでも会場のブースでは中年のフィギュア造型師の姿が目立っていた。若い人々がどんどん、オタク的クリエイティブの場からいなくなっているのである。フィギュアどころか、そもそも、プラモデルの市場自体が縮小しているのだ。
さらに言えば、ゲームだって同じようなものだ。90年代の(PSやサターンなど)ハードの進歩に追いつくためにソフトウェアに多額の費用をかけざるを得なくなってしまったゲーム業界では、リスクを回避するため、シリーズ物オンパレードになってしまい、新しい試みが生まれにくくなった。その結果として、中小のゲームメーカーが軒並みギブアップしてしまった。そして、その隙にとでも言おうか、日本はオンラインゲームでは韓国(例えば、リネージュ)に、ソーシャルゲームでは中国(例えば、サンシャイン牧場)の後塵を拝するようになってしまったのである。なんということだ。
そんな足元の現状をヨソに、経済産業省では、今年の6月にクールジャパン室なるものを立ち上げてみたようだが、何もできていないのが現状だ。いや、そもそも、役所が何か出来るはずなどないのだ、この分野では。
ワールドコスプレサミットが盛り上がる中、僕はそんなことを一人で考えていた。
竹熊氏や高橋氏のように後進の育成に力を注ぐというのもありだろう、あるいは、日本のそういった文化を新しい市場に出すような輸出活動というのも一つだろう。
しかし、それらの道はまだまだ険しい、多分。
まさむね

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[12 7 月 2010 | No Comment | | ]

日本のコンテンツ産業は一体大丈夫なのだろうか。
インターネットの時代が本格化し、日本のコンテンツ産業では多くの分野で今までのビジネスモデルが壊れ続けている。
例えば、ゲーム業界。日本企業が全盛だった90年代の面影も薄く、現在、ネット上のゲームでいわゆる勝ち組と言われているのは主に、韓国系、中国系のゲーム会社である。
例えば、サンシャイン牧場。このゲームはmixiをプラットフォームとしたいわゆる育てゲーであるが、最初出てきたときは、これでもゲームかと思った。かつてのゲームの興奮も無ければ物語もない。ただ、毎日、野菜を育てていくゲームである。
かつて、日本の多くのゲーマーにとっては、いてもたってもいられないような、寝るのを惜しんででもやらざるを得ないようなコンテンツ、それがいいゲームであった。
しかし、おそらくそれはすでに過去の話なのかもしれない。今冷静になって、考えてみれば、たかがゲームに人生の多くの時間を奪われていたあの頃、それは一体なんだったのだろうか。逆にそんなことすら感じさせる今日この頃である。
そして、その時代、日本のゲームメーカーの多くは、儲けることよりも、いいゲームを作ることに心血を注いでいた。もちろん、この言い方は正確ではない。儲けなくてもいいと言っているのではなく、いいゲームを作れば、儲けは後でついてくるそんな「幸福な時代」があったのである。だから、ゲームのトップメーカーはマーケティング以上に、自分達の過去の実績に自信を持ち続けていたのである。
それゆえに、いいゲームはシリーズ化を重ね、ディテイルにこだわり、画面の美しさを競うようになった。しかし、それがユーザーが本当に求めていたものかどうはわからない。
そして、日本のゲームは躍動感を失い、定型に固執するようになってしまったのだ。
本来だったら、日本のゲームメーカーは、ネット時代に入った頃、最もアドバンテージを持てるポジションにあったのだが、逆に、パッケージビジネスという既得権益を選んでしまったのである。
もちろん、これは仕方の無い話だ。おそらく天才以外は、現状上手く行っている方法を捨てることなど出来ないものだからである。それに比べれば、マウス操作やGUIといった自らをビッグにしたインターフェイス=武器を軽々と捨てたスティーブン・ジョブスという人物は本当に凄い御仁である。
同様のことは、出版業界にも言える。今、出版業界は前代未聞のプラットフォームの転換時代に入っている。
しかし、僕は大手の出版社がこの時代をトップのまま生き延びるとは思えない。
例えば、小学館は電子書籍(IPhone)で例えば、「うる星やつら」「うしおととら」「名探偵コナン」など、過去の人気作を発売するというが、それが紙の単行本よりも高額(1巻450円)なのである。いまどき、BOOKOFFにいけば、100円~150円で購入出来るのにだ。
明らかに、小学館はこの電子メディアというプラットフォームで戦略を誤っている。
おそらく、作家のロイヤリティはいくら、編集者の経費がいくら、電子書籍へのコンバート代がいくら...というように経費を積み上げていった挙句が高額につながってしまったのだろう。
はっきり言って、ユーザーがどう感じるのかは二の次にしか頭に入っていないのではないか。
そして、僕らにメタメッセージとして伝わってきているのは、「あ~嫌な時代になったなぁ。本当は紙でやって行きたいなぁ」というため息でしかないのである。
前の時代の覇者(例えば恐竜)が次の時代に生き延びるというのは本当に大変なことだ。
そしてそれは、ほぼあきらかに地球が誕生してからの偉大な法則なのかもしれない。
僕はそんなことを最近、よく考える。
まさむね

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[4 6 月 2010 | No Comment | | ]

I-Padに関する狂騒はまだまだ続いている。
1)画面が水平に置ける
2)操作がタッチパネル(キーボード不要)
3)複数人で操作できる
結論から言えば、I-Padの特徴はこんなところだ。
昨日、職場でI-Padを囲んでみんなで驚きあった。
I-Padの一番大きな特徴は、このみんなで一つの画面を見れるということにあることに改めて気づいた。
実は、そこに動いていた画面は15年前にあったCD-ROMの動きとほぼ同じだ。僕にはそれ自体は全く新しいものには思えなかった。
しかし、I-Padというマシンの上で机の上で「みんな」で見られるというのが決定的に新しい。
おそらく、I-Padは、全然新しくないものを新しく見せる魔法を有している。そこが新しいのだ。
画面が水平に置けるということとならんで、タッチパネルで操作できるというのも別に新しい技術ではない。
これもおそらく、十数年前には存在した技術だろう。しかし、複数の人間でタッチパネルを同時に操作できるというのは確かに面白い。
I-Padはその意味で、パーソナルであったPCを一瞬、「みんな」で操作できるおもちゃにした。それは、各人がコントローラを持ち、一つの画面をみるという風景とはまるで違う。
これも画期的だ。
多くの人が指摘し、僕も同意するが、今後、雑誌というのはどんどん紙から離れて、こちらに移行してくるだろう。
なぜならば、こっちのほうが数倍おしゃれだからだ。
近々、人々は紙の雑誌の読みにくいところを親指と人差し指で思わず広げようとしてしまう錯覚にとらわれるだろう。
ちょうど、ゲーマが言ってはいけない事を言ってしまった時に、リセットボタンを探してしまうように...
すると、その場にいた誰かが言った。「普通の機器というものが大体、大きなもの→小さなものという流れになるのだが、このI-Padは小さいI-Phoneから、大きくなった。この、あえて方向の逆流させたということも面白い。」確かにそうだ。これぞアメリカ的発想といえるかもしれない。
しかし、心の中でつぶやいた。小さなもの→大きなものと進化したものが無いわけではない。例えば弥生時代の銅鐸だ。つまり、実用品ではなく祭司用具ならありうるのだ。ということは、I-padとは、実用ツールの顔をした「神呼び器具」なのかもしれないと思った。じつはその時、僕の頭の中には無用の長物と化した僕と等身大のI-padがあった。
一方、I-Padはまさに未来への窓だ。しかし、僕はI-Padを囲んでワイワイ話しをしながら、さらに次の世代のことを考えさせられた。おそらく、このI-Padは、もっと薄く、軽くなり、そして、まさに紙のように折りたためて、ポケットに入るようになるだろう。
そうすると、その時代の人はI-Padを振り返って見た時に、どう感じるのだろうか。
もしかしたら、僕らが奈良時代の遺跡から出土する木簡のように感じるのかもしれない。
そうだ。I-padは10年後の木簡なのだ。僕はそう直感した。
そして、そう直感させるのも目の前のI-Padの力なのかもしれないと思った。
まさむね

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[1 6 月 2010 | No Comment | | ]

iPadの狂騒は凄い。
ネット上だけではなく、テレビでも話題はiPad一色という印象の週末だった。
確かに、画期的なツールである。多くの識者や書籍編集者もこれで紙の時代は終わったという印象を持ったのは当然かもしれない。
おそらく、確実に電子書籍の時代が来るのであろう。これはいい、悪いの話を超えた時代の流れと言わざるを得ない。
このツールが発表された当時、自分としては、マルチタスクではないこと、大きさが持ち運びに不便なことなどを理由にそれほど普及しないだろうと思ったこともあったが、多分、勘違いだった。
原理的、あるいは技術的になにか新しいものがそこにあったとも思えないが、この狂騒を見ているとiPadは確実に新しい時代を告げる象徴になったと言ってもいいと思う。
それにしても、海の向うから新しい文物がやってきて、それに対していち早く反応し、国内での文化的優位性を誇示しようと考えるメンタリティ(当然、自分自身も含めて)というのはなんと伝統的なことか。
たとえば、家紋の世界を見ても、いわゆる高貴な紋=菊、牡丹、桐などはみな海の向うの象徴のような植物だ。それらを身に着けた人々はシナの文化をいち早く取り入れることで己のステータスを誇示することが出来た層なのである。(このあたりの日本と大陸との関係の象徴としての家紋という話は6月発売予定の「家紋主義宣言」の一つのテーマです。よろ。)
おそらく、仏教伝来や遣隋使の時代、あるいはそれ以前から、日本人はこういう海の向うのものに弱い。歴史上のヒーロー、織田信長や坂本龍馬にしても、みんな海の向うへの憧れを自分の武器にしえた人物だ。こういう目をキラキラさせる人物は憎めない。
その意味で、今回の狂騒は批判的に見るというよりも、そこでみんなと一緒に日本古来のメンタリティを共有し、エネルギーを感じ、それをさらに活力に換えていくことを考えるべきだと思った。
しかし、当然のことではあるが何かを得るということは何かを失うということである。
内田樹先生もいろんなところで指摘されているが、人々がものを学ぶということで重要なことは、自分が何を知りたいのかわかっていることに関する知識を増やすことだけではなく、「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわすことという一面もある。
僕は、よしむねさんが前のエントリーのコメントで書かれているように、自分も、下記の感慨を共有する。
だけどやっぱり紙を実際に触ったり、破ったり、捨てたり、汚い字で書き込みしたり、ボロボロになるまで破片化したりしたいですよね。
確かに、それがどういう意味があるのかは明確には言えないが、体のどこかに電子書籍では味わえない「なにものかとの出会い」がそこに残っているような気がするからである。
まさむね

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[30 5 月 2010 | 3 Comments | | ]

この週末の金曜日、日本でもiPADが発売になった。3D元年といい、すでに発売されていた電子書籍キンドルの登場とあわせて、グーテンベルグによる印刷の発明以来の、メディア文化の変容の可能性を指摘するような論調の取り上げかたもけっこう多いようだ。
電子書籍とは異なる、従来からある紙の本の可能性についてはいずれ別の機会にあらためて書いてみたいと思っているけど、ここではいわゆる3DやiPADによって代表されるある種の万能感の感覚のようなものについてぼくなりにいま思うところを書いておきたい。
3Dにせよ、iPhone やiPADにせよ、極端にいえばぼくらはその登場によって以前よりも何でもできるような気になりつつあるように思える。つまりぼくらの身体を引き延ばした形での万能感のようなもの。しょせん端末等の力を借りてなのだが、自分の見る能力がとても高くなり、読む能力や、探し出して調べる能力がとても高くなりつつあるような錯覚。良い意味では世界共通としてのイマジネーション力に変化を及ぼす可能性もあるかもしれない。
でも、これはひとつの予感だけれど、ぼくらはある種の万能感が高まるような感じになればなるほど、その一方でますます自分のなかの無能さや無能力さ加減を体感することに飢えるようになるのではないか。
いながらにして何でも手に入り、なんでも見れるような気になればなるほど、逆に自分で実際に歩いて、ものを触り、体感することへの渇望みたいなもの。そしていかに自分が無力であるかを実感すること。それを身体感覚で確認すること。その必要性がバランス感覚に促されるようにますます高まってくるように思える。
それは高校の地学だったかで習ったアイソスタシーの原理のようなものでもあるかもしれない。海のうえに浮かんでいる氷山は海面から出ている氷の量が多いだけ海面下の氷塊もまた比例して多くなっているという。だから世をあげての万能感が高まれば高まるほど海面下の無能感も高まる・・・。
 やっぱり身体のセンシビリティーこそがますます大事になるように思える。理屈ではうまく言えないけど、いわば自分の無力さを肌実感できるような能力こそがとても大事になると思えるのだ。まさむねさんも以前恋々風塵の映画評のなかで述べていたけど、以下の文章にはぼくもまったく同感だ。
「おそらく、センシティブ(感度が高い)というのは自然に対して、こうした悠久の流れ、すなわち山の霊を感じ取れることだと思う。けっしてアップル社の新製品に飛びつく器用さではない」
 
だから逆説的だけど、3DやiPhoneやiPADが出てもそれだけではなにも変わらないのだ。大事なのは最後はやっぱり身体のセンシビリティーで感じること(それはたとえば今日の風はとても気持ちがいいでもいい)、そしてマルクスやランボーの言葉じゃないけど、そのことを通じて「生活を変えよ、変革せよ」という日々の考え方みたいなものにつなげてゆくこと、それこそが今でも未だにもっともリアルであり続けていると思うのだが。
けっきょく読む、聞く、書く、走る、歩く人間の素の能力なんて2000年まえとたいして変わっていないかもしれないのだから。
     
よしむね