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把瑠都が優勝した。
千秋楽では、白鵬に敗れてしまったが、それはそれで仕方が無い。
逆に先場所は、白鵬の全勝優勝を千秋楽で阻んでいる。これで、オアイコということになる。
それにしても、優勝インタビューは感動的だった。急遽、エストニアから来日したお母さんに対して、このように述べていた。
やっぱり...お母さんがいなかったら、私もここにいないから、私を、生んで、ありがとう!
つたない日本語ではあるが、本当に気持ちが伝わってきた。
このサイト(エストニアのスポーツ動画ニュースサイト)でもわかるように、彼は日本の大相撲界の至宝であると同時にエストニアの英雄である。
琴欧洲の時もそうだったが、このようにして海外力士が活躍して、その国と日本との交流が深まるというのは本当にいいことだ。
さて、全然別の話であるが、僕が気になったのは、国技館に来ていたお母さんが振っていた旗である。
アナウンサー氏の解説によると、この旗はエストニアの旗ではなく、出身地のラクヴェレ市の旗ということであるが、お母さんが国旗であはなく、敢えて、スウェーデンの国色(青と黄色)をあしらった市旗を振ったところに、ちょっとしたお母さんの政治的内面が現れているようで僕には興味深く思えたのであった。僕は残念ながら、エストニアの歴史、ラクヴェレの歴史に関しては、全く知らないが、お母さんが振ったあの旗には、僕の知らない意味があるのではないかと想像してしまったのである。
そういえば、かつて、フリーバーズというプロレスのタッグチーム(マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、ジミー・ガービン)があったが、彼らが振り回す旗は、星条旗ではなく、南北戦争で南部軍がかかげたサザンクロスであった。それは、彼らが持つ白人主義者としての主張を表現していたのかもしれない。
僕ら日本人にとっては、全く何も主張できない、あのサザンクロスの軍旗であったが、僕はなんとなく、そういったものにいとおしさを感じてしまうメンタリティを持っているようだ。
把瑠都のお母さんの旗を見て、フッと、そんなことを、思い出してしまったのであった。
まさむね
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大相撲初場所、12日目が終了し、大関・把瑠都が12戦全勝で優勝争いのトップに立っている。
言うまでもなく、彼のよさは、その圧倒的な体格と体力である。
他の多くの力士が彼について語るとき、そのパワーの凄さを必ず口にする。おそらく、僕ら観客が感じ取る以上のものがあるにちがいない。
さて、僕が今日のエントリーで語りたいのは、その把瑠都の肉体、及び、精神におけるナチュラルさについてである。
今日の稀勢の里戦、把瑠都は立会い一瞬、体を開いて、新大関を地に這わせた。レポーターの報告によると、上手を取りに行こうとしたが、立会いがあわず、瞬間的に叩いたというようなことを語っていた。また、確か昨日の日馬富士戦でも、土俵に上がってから、突っ張っていこうと決めたと言っていた。
つまり、彼は、綿密にプランを練って作戦を実行するタイプではなく、その場で臨機応変に、つまりナチュラルに、悪く言えば、出たところ勝負で闘っているということである。
これは、ある意味では、緻密さの欠如として批判されることなのであろうが、僕は、逆に、ここにこそ、把瑠都の大きな魅力があると考えている。彼の豪放磊落な表情、勝った後に花道の奥で付き人に見せる笑顔は、今までの大関なかった明るい個性ではないのか。
また、把瑠都のナチュラルさは、その仕切り方にも現れている。彼は、例えば、白鵬のように徐々に集中力を高める様式美を持っていたり、琴奨菊のように独特の(左手による横への)塩巻スタイルを持っているわけではない。あるいは、稀勢の里や琴欧洲のように、自分の顔を叩いて気合を入れたり、日馬富士のように、深く仕切ったりと、他の横綱、大関が持っている独特の仕切りの型が無いように思われるのだ。
それどころか、彼の仕切りには、あたかも、「なんで、こんなことをしなきゃいけないんだろう」的な明るい退屈さが漂っている。それゆえに、仕切り途中で相手をグッと睨むというようなことはまずないし、塩巻きの風情もどことなく、気楽な感じがするのである。しかし、その風情がまた、魅力的なのだ、少なくとも僕には。
そんな把瑠都は、ここまで土付かずの12連勝である。序盤は何番か、危ない場面もあったが、中盤からここへかけて、圧倒的な勝ち方をするようになってきた。調子が徐々に上がってきているのであろう。このまま、全勝で千秋楽まで行って、堂々と大横綱・白鵬に勝負を挑み、賜杯を手にして欲しいと思うのは僕だけではないだろう。
さて、一方、横綱・白鵬であるが、一昨日の鶴竜戦で思わぬ、不覚を取った。というよりも、あの一番は、鶴竜の先手先手の攻めをほめるべきなのであろう。そして、今日の日馬富士戦、誰もが考えなかった日馬富士の立会いの変化によって、一気に土俵外まで突っ走ってしまった。
白鵬にしては珍しいことである。
ただ、まだ優勝の望みが消えたわけではない。把瑠都に対して、最後まで大きな壁であって欲しい。それでこそ、平成の大横綱である。
その他、今場所、ここまでで気になった人をいつも通り、列挙してみたいと思う。
まずは、十両で言えば、琴勇輝の気迫が目を見張る。
特に、立会い直前の仕切りの時に、相手に正対して「ハッ!」という声を出して気合を入れる。塩を取る際に独特の所作をする力士は(高見盛のように)多いが、そういった場面で(定型としての)発声をする力士はあまりいなかったのではないか。
また、その風貌も個性的である。言い方は悪いかもしれないが、田舎のヤンキーがそのまま相撲取りになったかのような天然のヤンチャさの魅力とでも言おうか。まだ、20歳ということもあって、今後の期待は大である。
次に、新入幕。誰がなんと言っても、千代の国の魅力には触れなくてはならないだろう。その若々しい動きと端整なルックススは、かつての貴花田を彷彿させる。今日も、格上・栃煌山の攻めを最後に逆転して転がしてしまった。見事な運動神経という他ないであろう。おそらく、彼のような力士が三役になれば、大相撲はもっともっと盛り上がるに違いない。
運動神経と言えば、今場所、隆の山も随所に光る動きをしている。特に、昨日の土佐豊戦で見せたうっちゃりは見事であった。実は、公式にはうっちゃりだったのであるが、後でスローを見たら、なんと、土俵際で相手の足を蹴っているのだ。つまり二枚蹴りをしていたのである。こんな芸当は常人では出来ない。
実は、今日も栃ノ心が嘉風の寄りに対して、土俵際でうっちゃりを見せた。残念ながら決まらなかったが、今場所、このようなうっちゃり技が多く見られるのが嬉しい。
『「うっちゃり」はなぜ消えたのか―データが語る大相撲』という本が出たのが今から10年以上前であるが、ここへ来て、その醍醐味溢れる技が徐々に復活してきているのは誠に嬉しいことである。
その他、嘉風、安美錦、妙義龍、栃の若、臥牙丸など、語りたい力士は沢山いるのだが、長くなりそうなので後日に回し、今日は特別下らない話をさせてください。
実は、今日、観客席にダンカンが座っていたのである。しかも、白いヘッドギアというか包帯を頭に巻いてだ。僕はそれを確認したくて、東側の升席で彼が写るたびに、目を奪われてしまった。
観客席に有名人がいるのを探すというのは、僕のプロレスファン時代以来の趣味なのである。そして、その表情を見て、その有名人のお気に入りの力士などを判断するのが好きなのである。
それゆえ、有名人が観客席に見つかってしまう日はどうも、土俵上の相撲に対する集中力が途切れてしまうのだ。
そういえば、今場所の二日目、東のたまり席に、高須クリニックの高須克弥院長、一つ空けて、「わかンねえだろうナ」で一世を風靡した風靡した松鶴家千とせ師匠が座っていた。しかも、その日は特別解説にやくみつる氏も来ていたもんだから、「かつら三トリオ」が揃ってしまい、僕の心をかき乱せずにはおかない一日となってしまった。
さらに、相撲の進行途中で、いつの間にか、高須院長の髪型が、白髪(短髪)になってしまったものだから、それを確認するために、画面を目で追うハメになってしまい、全く相撲に集中できなかった。
ちなみに、後で、高須院長のオフィシャルブログに、「ヅラ奪われた!」と記事があり、その件は、とりあえず納得ww。
僕は、大相撲という見世物空間で起きることは、どんなことでも、楽しみたいと思っているのである。
まさむね
2012.01.12:大相撲、この愛すべき格闘技
2012.01.11:今場所は、三人の外国人大関が素晴らしい
2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤
2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた
2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)
2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話
2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について
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今場所の大相撲は、いつもに比べて特に面白い。
勿論、昨日のエントリーでも書いたように、3外国人大関の活躍というのもあるのだが、それ以上に、各取り組みの緊張感、技の攻防、負けられないという意地などが、普段よりも見られるところがいい。
この写真は、本日の結び前の一番の稀勢の里と鶴竜の一番の最後の一瞬を捉えたものであるが、おそらく、大相撲というものを知らない、どこかの外国人が見たら、何をやっているのだろうかと思うに違いない。
太った大男二人が、足を高く上げて必死な顔をしている。しかも裸だ!!
僕はこのような一瞬を絵として現出せしむる大相撲という競技は日本人が生み出した奇跡の一つだと考えている。
他のどんなスポーツで、このような面白い瞬間を捉えることができるのだろうか。
そんな、大相撲への愛を込めて、今日は、この短いエントリーを上げさせていただきました。
まさむね
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大相撲初場所を連日、テレビ観戦してる。
それを観る限り、今場所はなかなか迫力のある取り組みが続いている。おそらく、昨年の様々なトラブルを踏まえ、各力士がいつも以上に気合を入れているにちがいない。少なくともそう感じさせる今場所である。
特に、話題という点において、新大関の稀勢の里、あるいは先々場所大関になった琴奨菊という両日本人大関の影に隠れがちだった琴欧洲、把瑠都、日馬富士といった3人の(ベテラン?)外国人大関の気力が充実しているように見受けられる。
勿論、3人とも4連勝と星も上がっている。少なくとも僕の記憶でこの三人が初日から4日目まで白星続きというのはちょっと記憶が無い。
特に琴欧洲。
先場所、角番をかろうじて脱したものの、長期低迷は否めなかった琴欧洲であるが、今場所は別人のようだ。今日の豪栄道戦など、圧倒的な勢いで、相手を押し倒した。相性のいい相手であるということを差し引いても、抜群の出足であった。
おそらく、いつも以上の緊張感を持って、場所に臨んでいるのかもしれないが、そのたたずまいの暗さ(窮屈さ)は若干気になる。
続いては把瑠都。
一方的な取り口というわけではないが、初日から今日まで、とりあえず白星を重ねたのはよかった。先場所のように、序盤で早々と優勝争いから脱落しながら、後半、ぐんぐん調子を上げ、千秋楽で白鵬の全勝を阻止した実力と体力の持ち主である。序盤の好成績は初優勝の期待をも膨らませる。それにしても、勝負の最後で、若荒雄の体の下になって土俵下に転落した行司の木村庄三郎は大丈夫だったのだろうか。少し心配である。
そして、日馬富士。
今日の豪風戦は一方的な勝利であった。豊ノ島戦など、若干、あぶない場面もなくはなかったが、今日の相撲を観る限り調子はいいに違いない。あの突き刺さるような立会いの低い鋭さはさすがである。
よく、関脇が強い場所は面白いという話はあるが、現在のような5人大関の状態では、やはり大関が強いと場所が締まるように思える。
今後も、今場所は、この3人に注目である。
一方、既に2敗してしまった琴奨菊であるが、本日の安美錦戦では全くいいところがなかった。というか、逆に安美錦が上手かったということだろうか。この安美錦という力士、先日の白鵬戦では、まるでいいところがなかったのに、本日は素晴らしかった。飄々としたベテランの味というところか。久々に呼ばれたインタビューでは、「久しぶりなのでインタビュールームがどこにあるか忘れていた」と冗談を言っていた。このあたりのとぼけた対応も、ベテラン・安美錦らしい。ちなみに、僕はこの人を見ると、「浮世雲(はぐれぐも)」の雲を思い出す。
また、今日の稀勢の里の相撲は残念だった。解説者の芝田山親方も「油断」「焦り」という言葉で説明されていたが、体の小さい豊ノ島に懐の入られるのを避けたかったのであろうか、突きで勝負をしたところ一瞬の隙をつかれたという感じの相撲であった。ただ、昨日の雅山戦などを見ると地力は確実についている。気を取り直して明日から再び頑張って欲しい。
まさむね
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じつにさんより「ももいろクローバーZの使命」というエントリーを頂いて以来、自分は、ずっと、ももクロとプロレスのどこが似ているのかをずっと考えてきた。
じつにさんからも紹介があったが、確かに昨年の10月の全日本プロレス両国大会で、ももクロが特別”参戦”するなどして、その関係性が密なることは誰の目にも明らかだし、「「ももクロとプロレス」――“あの熱”よ、もう一度」や「アイドルが「冬の時代」を吹き飛ばす!?格闘文化の最新型“ももクロ”の魅力」といった記事により、再三、ももクロとプロレスとの類似性が指摘されもされてきており、「今更、考えることなどあるまい」なぞと、自棄になったりもしたのだが、それでも、「力いっぱいでウソの無いパフォーマンス」とか、「プロレスに相通ずる”熱”」、あるいは「ステージコスチュームのセンス」はたまた「運営方針そのものが“闘い”」といった先人が指摘された類似性以上のなんらかの共通性があるに違いない!というドタ勘が心の中で疼き、僕は僕なりに考えざるを得ないのであった。
そして、こうして考えている間も、僕はYOUTUBEでそのPVを何度も目にするわけで、その度に、この泥臭いアイドルグループに惹かれる自分がを隠すことが出来なくなっているのだ。
一般的な流れで言うならば、90年代のSPEEDが、沖縄という異界からやってきた特権的なアーティスト・アイドルだとすれば、ゼロ年代初頭のモーニング娘。は、つんく♂という試練を乗り越えた面接試験型・アイドル、そして近年大ブレイクのAKB48は、総選挙という民意によって選ばれた民主主義的アイドルということである。つまり、アイドル史は、彼女達とファンとの関係性が、どんどん、斜め上から水平へと移動してくる歴史であった。
そして、そんな歴史上の究極形として、ファンが逆にアイドルを引き上げるというか、泥の中からアイドルが這い出てくるのを応援するというか、そういったスタイルとして存在するのがももクロだということが言えるのではないだろうか。つまり、彼女達のスタートが道端だったという”神話”はまさに、彼女達を、アイドルというよりもよりプロレスラー、あるいは、遊芸人に近い何者かたらしめるのに大きな要素だったというのは明らかである。
さすれば、今日のエントリーは、そのあたりから書き始めてみたいと思う。
というのも、日本の芸能の起源である散楽というものが、寺社の境内のみならず、村々の辻や無縁の道端で行われた雑多な芸能であったからである。その泥臭いパフォーマンスには軽業、曲芸、相撲や物真似などが含まれていたというが、網野善彦氏などの説によれば、それらは単なる見世物という以上に呪術的な要素が含まれていたらしい。つまり、エンターテイメントである以上に、宗教的な儀式であったということである。例えば、現代、興隆を極めているMANZAIにしても、その起源は、萬歳という、太夫(ツッコミ役)が、歳神を身に依らせた才蔵(ボケ役)をして、あの世とこの世の間を行き来させることによって成り立つ芸能だったのである。
おそらく、そこで、大事なのは、芸能者の異形のエネルギーが観客に対して持つ説得力であったに違いない。そして、そのエネルギーは、観客の目を楽しませることだけを目的にするのではなく、観客に対して、この世が改変されたことを示すために必要だったのである。
例えば、能楽の多くは、シテ役の怨霊が、ワキ役の僧侶に、その苦難な過去を語り、浄化してもらうことによって、この世に潜在的に及ぼしていた様々な災いを退散させるという構造を持っている。能舞台が、およそ、一期一会という一回性を重視するのはそれが単なる芸能ではないからである。
ちなみに、かつての能楽には、そうした呪力を持つ芸能と、呪力を感じる観客との間に、幸福な関係があったに違いない。しかし、残酷なことにどんなジャンルにも栄枯盛衰がある。それは一人一人の演者の力ではどうしようもない時代の運というようなものである。
さて、僕は以前、「申し合わせはしても合わせ稽古をしない」という能とプロレスの類似性について考えたことがあったが、この二つのジャンルの類似性は、同時に、その絶頂期においては、「世界を改変させる機能を持つ」というところに及んでいるのではないかという仮説を、今、持つようになっている。
それは、僕らは、多くのプロレスの試合においては、その決着の前後で、他のスポーツではありえないような世界の改変がなされているのに気がつく奇跡にしばしば出会うことがあったからである。多少大げさに言うならば、僕は、勝負の前後でそのプロレス会場が全く別の空間となっている瞬間に立ち会い、そしてその瞬間こそ、プロレスおたくだった自分の中の何かをも改変させられている瞬間を何度も体験しているのである。
もっとも、敢えて付け加えるならば、その空間には、レスラー達のボロボロの肉体と、その献身の精神に対する圧倒的感謝の念も残るのだが。
しかし、そんな体験も絶えて久しい僕ではあるが、もし、ももクロが、かつてのプロレスを、そして日本の芸能の本来の伝統を継承する力を持っているとしたら、彼女達は、以下の四つを感じさせるほどの”力”を持っているに違いないと僕は思う。
①計算外のエネルギー(世界が改変できると信じるに足るパワーと献身)
②あの世とこの世とをつなぐ恍惚感(どこが演技で、どこから現実かが曖昧な演出)
③幾多の困難を乗り越えた目覚しい成長(見るたびに世界が改変されていく運動体としてのももクロ)
④そんな演者と観客との幸福な関係(時代の運と信頼感)
それを確かめるべく、今年の楽しみがまた一つ増えた。
まさむね




