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大相撲、名古屋場所がはじまった。スポンサーが引き、テレビ中継がない全く寂しい場所になってしまった。
NHKのニュースによれば、会場には警察官が動員され、監視カメラが設置されたという。暴力団関係者の入場を阻止しようということらしい。
これは、いわゆる維持席という砂被りのスポンサー席に「それらっぽい」人々が居て、テレビに映ってはまずいということなのだろうか。日本人は本当に建前が好きだ。取り敢えず暴力団排除の姿勢が大事なのだろう。
「暴力団関係者お断り」という看板を掲げる田舎のスナックと同じだ。
もしも、本気でやるならば、入り口で身分証明するべきだろうが、あり得ない話である。
それにしても、なんでこんなことになっているのだろう。本来であれば人は行った犯罪に対して罰せられるべきであり、相撲観戦に来て、追い返すというのは、一種の「差別」に近い。あるいは、これは、江戸の勧進相撲からの伝統か。
いずれにしても、村山という理事長代理が、初日の土俵上から「世間をお騒がせしてすみません」と謝罪していたが、この言葉を聞くたびに、多分、何も変わらないだろうなと感じるのは、僕だけであろうか。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技, 社会問題 »
大相撲が野球賭博問題で揺れている。
しかしよく考えてみれば、何がそれほど大きな問題なのだろうか。
僕は大相撲ファンとしてここでちょっと立ち止まらざるを得ない。
賭博行為だから悪いのか、それが常習的だから悪いのということか、掛け金が高額だから問題なのか、それとも、その行為の背後の怪しい影があるからか...
しかし少なくとも、背後関係に関しては、特別調査委では、力士らに直接的な暴力団関係者との関係はなかったと認定した上で「野球賭博の背後に暴力団と関係がないとは言えない」とも指摘したという。(6.27スポーツ報知)
これってようするに、背後関係に関して言えば、推定無罪ということではないのか。
それをいわゆる「世間を騒がせた」ということで、謹慎だ、解雇だとは、何事であろうか。僕はそれが納得できないのだ。
もちろん、内館牧子氏の「女はなぜ土俵にあがれないのか」にもあったが、大相撲協会というのは常に世間、あるいは権力にたいしておもねり、擦り寄ってきた体質的に弱い興行団体という一面がある。それゆえに、「世間様」が悪いと決め付ければ、「すみません」と頭を下げるというのが古来の体質なのだ。
だから、いつもたまたま渦中にいた誰かが犠牲になりそれで丸く治めようとする。僕はいまだに大麻騒動で犠牲になった露鵬と白露山を復帰させるべきだと考えている。
今回だって騒ぎが大きくなっただけで、事の本質はそれほど問題ではないというのが僕の見解である。たかが野球の試合に金を賭けたという話ではないのか。
NHKはこの事件に対して検証番組をするらしいが、ちょっと待った。それだったら、過去、記者クラブなどで賭け麻雀をした自社記者がいなかったのかを検証するのが先だし、筋だろう。
それに今回の特別調査委の座長の伊藤滋という方は、一方でパチンコ関連の「社会安全研究財団」の理事長もしているという。パチンコ三店方式という極めて胡散臭い民間賭博を擁護するポジションにありながら、一方で相撲賭博を断罪するこの方の神経はよくわからない。(いや、かなり遠回りだが、結局、民間賭博としてパチンコのみを生き残らせようとする深慮なのかもしれない。)
僕は別にパチンコ文化を否定するものではないし、こういった曖昧な文化こそ、日本的だと感心することもある。
しかし、ダブルスタンダードに対しては一言言っておかなければならないと考える。
ちなみに、この伊藤滋氏は、あの詩人の伊藤整氏の息子さん、つまり丸に立ち沢潟紋者(右絵)だ。
恥ずかしながら帰ってきた横井庄一、昭和の喜劇人・古川緑波、旺文社の赤尾好夫と同じである。
まさむね
歴史・家紋, 相撲/プロレス/格闘技 »
TBC(東京墓石倶楽部)のO君が突然メールをくれた。
ジャンボ鶴田の家紋入りだ。
山梨県の慶徳寺に行って、撮影してきてくれたようだ。
確か、慶徳寺にいくには相当難儀なはずである。
彼は普段は無口だが、やるときはやる。
この家紋は、丸に蔓花菱紋。
花菱は武田一族の定紋である割菱の替紋だ。
割り菱が武田の「田」をデザインしたものというなら、花菱もおそらくそうだ。
ということは、蔓(つる)花菱紋というは、まさに「つるた」=「鶴田」の紋ということになる。
90年代、ジャンボ鶴田は、天龍や三沢の影に隠れて人気が低迷していた時期があった。
その鶴田が一気に爆発したのは、「つ・る・た・オーッ」コールのおかげだ。
実は、この「つ・る・た・オーッ」コールが発生した後楽園ホールの現場に立ち会っている。
それまでは、観客の冷ややかな視線がいきなり反転した瞬間、プロレスというものが生き物であることを目撃した瞬間だった。
その鶴田は、今はもういない。馬場さんもいない。
三沢もいない。そういえば、今日は彼の一回忌だった...
まさむね
1980, 相撲/プロレス/格闘技 »
ラッシャー木村が亡くなった。
また、一人、昭和の名レスラーとお別れだ。
ラッシャーには大きく分けて、三つの時代があった。国際プロレスのエースの時代、新日本プロレスのヒールの時代、そして全日本プロレス以降のコメディアンの時代だ。
僕の中で、彼の晩年のリング上での姿はロバートデニーロの「レイジングブル」とだぶる。
格闘家はどこかコメディアンと似ているのだ。
それにしても、彼ほど、人間味を感じさせるレスラーもいなかった。
本来、格闘技に「人間味」など必要なかったのかもしれないが、僕らファンには彼の味がいつの間にか病みつきになっていた。
彼は確実にプロレスという芸能の幅を広げた名人だったと思う。
来月発売予定の「家紋主義宣言」でも馬場さんや、三沢さんについて書かせていただいた。
僕は自分の処女作に、いろんなことを教えていただいた(あくまでリング上の姿で)レスラーのことをどうしても記しておきたかったのからだ。
こうなるんだったら、ラッシャーについても書いておくべきだった...
亡くなったレスラーはなぜ、いつまでも僕らの心を締め付けるのだろうか。
さようならラッシャー木村。
まさむね
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把瑠都が敗れて、全勝は白鵬ひとりとなった。
今日の向う正面の解説は、人間国宝・能の太鼓の亀井忠雄さんだった。いつもの解説とは違って、呼吸の話、間の話など興味深かった。さすが人間国宝だけあっていうことに説得力があるのだ。僕はいつの間にか、この亀井さんの相撲の見方に同調していた。
そういえば、今日の把瑠都は蹲踞(そんきょ)の時からバランスが悪かった。
最後の仕切りの時に、一瞬、後ろに倒れそうになったのを僕は見逃さなかった。
僕の中に不安がよぎった。
案の定、鶴竜との一番、突っ張りに行った手を手繰られてバランスを崩してそのまま土俵下に転がり落ちた。
相撲は難しい。力だけでは勝てない。奥が深い。
把瑠都は、土俵に落ちた後、足を痛めたようにも見えたが大丈夫だっただろうか。
まさむね
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関取の大関昇進と横綱昇進は、家紋チェックの大チャンスだ。
もちろん、先日行われた把瑠都の大関昇進披露宴はチェック。
そして確認しました。把瑠都の家紋は丸に違い丁子だった。
これは、親方の尾上親方の出身、いわゆる本家の三保ヶ関部屋の親方(元・大関増位山)の折敷に違い丁子からの伝来だろう。
折敷というのは、八角形だが、そうではなく、丸でかこったところに微妙に分家らしさを感じる。
家紋はこうして受け継がれていくということのわかりやすいいい例であった。
ちなみに、その時、尾上親方の丸に四つ目結紋、肩車をしていた同部屋の十両・山本山の下がり藤紋、出羽の海親方(元鷲羽山)の五瓜に唐花紋も確認。
それはともかく、把瑠都にはがんばってほしい。琴欧洲との大型ヨーロッピアン横綱昇進争いに期待だ。
まさむね
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春場所が終わった。
やはり白鵬の優勝で終わった。おそらく、ほとんどの人が予想した通りであろう。
勝利者インタビューで白鵬はこう答えた。
「勝たないような相撲をとりたい」
これはインタビュアーが「負けないような相撲ですね」というようなことを言ったのに対しての答えだった。
一瞬、日本語の使い方がおかしいのか?とも思ったが、彼は「これは深い話だ」と付け加えた。
解説の北の富士さんは、「無欲」ということだと語っていた。そうだ。
僕は以前から、白鵬の相撲を見ていると勝つ相撲というよりは、相手が負ける相撲のように見えていた。
つまり、いつの間にか、相手が負けているのだ、それは逆に言えば勿論、白鵬がいつの間にか勝っているということなだのだが、おそらく、それが「深い話」の核心のような気がする。
つまり、平常心で、普通に闘えば、自然と勝つということ、それどころか、「勝とうする」ことが逆にスキを生み出す。だから「勝とうとして」はいけないということなのだろうか。
もしかしたら、白鵬はとてつもない境地に達しているのかもしれない。
一方、僕の贔屓の把瑠都は白鵬とは別の路線でとにかく力強い。
琴欧洲が、時として陰欝な印象を与えるのに対して、彼は常に陽だ。勿論、土俵を降りれば琴欧洲の笑顔も素晴らしいのだが、土俵上で彼が発散する欝な空気はいかんともしがたい。それに比べて把瑠都の陽性は天性のものだろう。素晴らしい。
かつてのバルチッククレーン(相手の肩越しに上手を取って強引に吊る)戦法は陰を潜めたがそのかわり、あの突っ張りはいい。
来場所が楽しみである。
朝青龍がいなくなって、盛り上がりが心配だったが、やっぱり大相撲は伝統芸能だ。一人の力士云々でどうこうなるような組織ではない。
関係ないが、その点、亀田が惨敗したボクシングは大丈夫だろうか。
いまだに亀親父がジャッジにクレームとかつけてるし...
まさむね
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朝青龍の引退は誠に残念だった。
真相究明をすべきという声、力士を教育システムが壊れているのではないかという声、引退では甘い!解雇すべしという声、大相撲はスキャンダルが多すぎという声、それらはそれぞれ正しいのだろう。
しかし、一人の偉大な横綱の相撲がもう見れなくなるという「残念」に比べればどうでもいいような話に感じられる。
もともと、大相撲という興行は、人並み以上に体が大きく、野望に満ちた田舎の暴れん坊達を江戸という大都市に集めて、見世物として闘わせることから始まっている。そんなに行儀のいいものではなかったはずだ。例えば、歌舞伎「め組の喧嘩」を思い出しても、そのことは明らかだ。ご存知の通り、「め組の喧嘩」は、文化文政時代に起きた、江戸火消しと力士との大喧嘩だ。火事と喧嘩は江戸の華という言葉もあるが、当時、江戸の庶民が夢中になった面白い事件だったのだろう。
その意味で、朝青龍だけが突然変異のように、ひとり、粗暴だったわけであるはずはない。
大相撲という興行が一攫千金の夢の実現の場であったり、喧嘩やスキャンダルで成り立ってきたという隠しテーマも含め、朝青龍は、いろんな意味で、大相撲の伝統を受け継いでいるのだ。僕はむしろ、大相撲という組織が、江戸以来の伝統に盾に、世間の価値観を押し返せなかった点が残念でならない。もっとも、内舘牧子が言うように、大相撲というものは常に体制や時代の価値観と添い寝している存在という一面もあるのだが...
いずれにしても、あの朝青龍のヤンチャな表情、豪放磊落な立ち振る舞い、苦境から何度も立ち直ってきた精神力、ここ一番で見せた集中力、そしてどんな時でも相手を攻めるその姿勢はすばらしかった。現在の日本人が失ってしまった、彼のヤマっ気を僕らは決して忘れることがないだろう。
今後、本場所中の朝の5時に六本木で泥酔してしかも優勝してしまうような横綱は、もう出ないかもしれない。
まさむね
政治, 相撲/プロレス/格闘技 »
先日のエントリーで、小沢一郎は辞職して、ただの釣り好きの親父になるべきだということを書いたが、僕は一方で、彼にはしぶとく民主党幹事長、あるいは代議士を続けてもらいたいとも思っている。
勿論、それは僕が彼の無実を信じているなどということではない。それはいずれ明らかにされる、あるいは捏造される、舞台の向こう側の話だからだ。
最近、政治のニュースを見て、僕が不自然に感じるのはなぜ彼らはあんなにも毎日、闘っている、あるいは闘っている芝居をしているのだろうかということ。
そういえば、僕らの日常にはそういった戦いというものがない。ビジネスの世界でもライバル社と戦うのではなく、W-inW-inの関係を築くというのがブームなのかもしれない。微妙にこのW-inW-inという言い方が気持ち悪いのは気のせいか...
さて、おそらく、周囲の人に、「あなたは今、何と戦っていますか」とたずねてもほとんどの人は、何も答えられないだろう。あるいは、自分と戦っているといういうだろう。
ただ、自分と戦っているという人はおそらく、何も闘っていない人だ。
勿論、僕もそうだ。何とも自覚的に戦ってはいない。残念ながら。
話を戻す。僕が小沢一郎に辞職してもらいたくないのは、”権力にしがみつく老醜”というのも見世物として好きだから。それはちょうど、70年代にあった全日本プロレスのチャンピオンカーニバルでアブドーラ・ザ・ブッチャーが、優勝トロフィーを俺のものだとばかりに抱きかかえて舌なめずりをしたあのシーンを思い出す。
権力、名誉というものに固執する醜い男を表現することによって、逆に普通の庶民を精神的に安堵させるというのも、もしかしたら政治家の大事な役割かもしれない。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
千代大海が引退した。
最後の取り組みは、魁皇との一番だった。転がされた時に、引退を決意したらしい。
確かに、ここ数場所、千代大海は負けても苦笑いをする表情が目立った。あーっ、もダメだという表情だった。
もう、気力も限界に達していたのだろう。
素直に、ご苦労様と言いたい。そしてありがとうと言いたい。
思えば、これで、突き押し一本槍の関取はいなくなってしまった。
僕は、相撲が異種格闘技戦だと思っている。その意味で、千代大海の存在は重要だったのだ。
同時期、一緒に相撲を取っていた同僚達も寂しかったことだろう。
千代大海が引退した日、大関は全員負けた。
これも相撲のいいところである。
まさむね



