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大相撲八百長メール事件で、日本相撲協会の特別調査委員会が力士に聞き取り調査をしたという。
当たり前の話であるが、この聞き取りで何かがわかるということはないと思われる。
これは明らかに、「世間」に対するある種のポーズであろう。
何もわかるはずのない調査をポーズというのである。
しかし、僕がここで書きたいのは、大相撲をフツーのスポーツとして扱うのをこれを機にやめたらどうかということだ。
勿論、日本相撲協会は、興行団体として、反世間的な態度は示せないし、開き直ることも出来ない立場だ。
「相撲は見世物であって、スポーツではない、それが嫌ならば、見ていただかなくて結構。」などと言えるはずはない。
以前にも書いたが日本相撲協会というのは、本当に脆弱な組織なのである。本音を言えば、騒動が通り過ぎるまで謹慎して、そろそれ世間が忘れた頃に、またいつも通りの相撲的日常を始めるのであろう。
僕はそれを批判したいわけではない。
そういえば、日本では、不祥事を起こした組織でも、そのようにして生き延びてきた。一瞬は批判され、頭を下げるが、世間がその不祥事を忘れてしまえば、ほとんど何も変わらずに生き伸び続けるのである。NHKにしても、朝日新聞にしても、日本郵政にしても、厚生労働省にしても...みんなそうである。
さて、僕が「大相撲をフツーのスポーツとして扱うのをこれを機にやめたらどうか」、という根拠をいくつか上げてみよう。
スポーツというのは客観的で明確なルールがあり、選手に対してレフェリー(審判)が絶対であるというような大前提がある。
そして、ここからが「競技開始!!」、という明確なタイミングというがある。例えば、100M走は、ピストルの合図がスタートのタイミングであり、野球は球審のプレイボールの合図によって、試合が始まる。当たり前の話である。
しかし、相撲における勝負が開始されるのは、二人の力士の気合があった瞬間なのである。何回か行われる仕切りには一応、制限時間というのが設けられてはいるが、それはあくまでもテレビ(ラジオ)放送を前提とした「とりあえずの処置」であり、基本精神は、二人の力士の気合が合った瞬間こそが、「始まり」で、行司というのはあくまでそれを確認する立会人なのである。こんなスポーツはあるであろうか。
だから、勝負はその二人の力士のものなのである。ある意味でその二人の力士がWIN-WINになる談合こそが八百長なのであり、本音では、力士達は何故、その二人のものを自分達がいいように決めるのが悪いのかは分らないのではないかと思われる。
それは例えば、売春する女の子がいて、それを買う男性がいる、それは二人の利害が一致した行為(WIN-WINの関係)であり、それを外部の者がとやかく言うのは筋違いという、リバタリアニズム的極論と通じると僕は思うのだ。
また、行司の権限という意味で言えば、さらに不可解な(いかにも日本的な)事実がある。実は、相撲の勝敗には、勝ちと負けの他に取り直しという、いわゆる勝ったか負けたかわからないので、もう一度やりましょう的な仮決着の状態がある。しかし、行司には、勝ちと負けしか判断することが許されていないのである。当然、行司だって人間である、勝負がつく一瞬を見逃すことだってあるだろう。どちらが勝ったのかが見分けららないこともあるだろう、しかし、行司はいくら自分の内心でそのように思っていても、必ず、どちらかい軍配を上げなければならないのである。
そして、きわどい勝負になると、土俵下に座った審判部の親方衆が話合いで勝負、あるいは取り直しを決定するのである。僕は、その談合の瞬間に、親方衆は会場の空気を土俵の上から読んでいるのだと思っている。そして、ここは一つ、「取り直し」をすることによって、会場がさらに盛り上がるに違いないと踏むと、談合でそのように決めるのではないかと思っている。
それこそ、日本的「空気」の思想ではないか。
はたして、世界のスポーツの中で、審判が判定する裁量のない決着が存在するようなものが他にあるだろうか、僕はそういったシステムも含めて極めて上手く出来ているなぁと思うのである。しかし、それをスポーツという近代主義的枠に入れてしまうのはなんとも窮屈な気がするのである。
★
さて、僕はたまに、最悪な未来を想像してしまうことがある。それは例えば、こんなことだ。
外国からやってきたイケメンの人気力士が出てくる。その力士がある時、大銀杏は時代遅れではないのかというようなことをインタビューなどで発言する。
そういえば、同じ髪型にしなければいけないスポーツというのも不条理ではないのか、自由にすべきではないのか、アンケートを取ってみようなどとマスコミや世間でトントン拍子で進み、追い詰められた協会は、大銀杏以外の髪型をも認めるようになるというような話である。
僕は、日本人はそれほど愚かではないことを信じたい。
まさむね
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大相撲が揺れている。僕は、大相撲の胡散臭いところを含めてのファンなので、結局、納まるところに納まるという希望的観測をもっている。
だから、それほどあわてる必要は無いと思っているのだ。
さて、今日は改めて、白鵬について語ってみたいと思う。白鵬はとてつもなく凄い横綱である。少なくとも、僕が現役時代を知っている今までの歴代の名横綱(大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍)などと比べても、その安定感では抜群のような気がする。たしか去年だったと思うが、NHKでその白鵬の強さを科学的分析するような番組があった。そこでは、瞬発力に関して、あの北京オリンピックの100M走の金メダリスト・ボルト選手と比較しても遜色ないという話があった。その類い稀な瞬発力のおかげで、白鵬が、守りから攻めに入る一瞬を多くの他の力士が察知できないというのだ。
また、精神力に関しても、昨年、白鵬は面白いことを言っていた。インタビュアーから、どんな相撲を取りたいですかと聞かれ、「勝たない相撲を取りたい」と答えていたのだ。一瞬、負けないような相撲ではないのかと思ったアナウンサーは聞き返したが、「勝たない相撲」で正しかった。これは、自分が勝とうとするというよりも、いつの間にか、相手が負けているような相撲を取りたいということか、なんとも奥が深いではないか。
さて、拙著『家紋主義宣言』でも、あるいはこのブログでも以前書かせていただいたのだが、僕は以前から、白鵬は、何故、三つ鱗紋を付けているのかという大きな疑問を持っている。言うまでも無く、多くの外国人力士は、師匠の家紋を受け継ぐ、あるいは少しアレンジして使用する。例えば、日馬冨士は、師匠の安治川親方(旭冨士)の抱き茗荷紋を付けているし、琴欧洲は、先代の師匠の佐渡が獄親方(琴櫻)の丸に蔦紋をつけている。また、把瑠都は、入門時の三保ヶ関部屋の親方である三保ヶ関親方(増位山)の折敷に違い丁子紋をアレンジして、丸に違い丁子紋を付けている。
しかし、白鵬は、親方の竹葉山や、宮城野部屋の創設者の吉葉山の三つ柏紋ではなく、丸に三つ鱗紋をつけているのだ。僕は以前、ダメ元で大相撲協会にそのことを質問してみたが、残念ながら答えはなかった。
ご存知の方も多いかと思うが、この三つ鱗紋は、鎌倉幕府執権の北条家の紋としてあまりにも有名だ。そして、その北条家といえば、文永の役、弘安の役と二度にわたってあのモンゴル帝国からの侵略を防いだ時の武家の実質的棟梁の家なのである。そのモンゴルにとってはライバルの象徴のような三つ鱗紋を付けている白鵬、そこには、相撲という国技で日本を征服することによって、相手の大将の家紋を前もって奪い取るという豪胆な野心がそこにあるのではないかというのが僕の推理である。
さて、日本における相撲の起源を考えてみると、それは外部の者が内部の者を倒すというのが伝統ではないかと僕は考えている。例えば、女性が土俵に上がれない根拠の一つに、土俵には神々が奉納されているからという理屈がある。
それでは、そこにはどんな神がいるのかといえば、それは、天手力雄神(アメノタジカラオ)、野見宿禰(ノミノスクネ)、建御雷之男神(タケミカヅチ)の三神である。天手力雄神は、天岩戸にお隠れになった天照大神が神々の饗宴を覗こうとしたときに、その岩戸を怪力で放り投げた神として知られている(ちなみに、その岩戸は長野県の戸隠に行ったとさ)、いわゆる力持ちの神である。しかし、他の二神は、どちらとも、外から来た神なのである。野見宿禰は、出雲からやってきて大和にいた当麻蹴速を倒す、また、建御雷之男神は、天孫降臨の際に、抵抗しようとした大国主命の子供の建御名方神(タケミナカタ)を相撲で破って、この日本を天皇のものにした神なのだ。
ということは元々、相撲という「国技」は、外部者が内部者を制圧するという、ある意味、忌まわしい伝説を儀式化することによって、我々の先祖に納得させるための工夫された装置だったのではないかと僕は思うのだ。そう考えると、白鵬が現在の土俵を制圧しているこの状況はある意味、かなり伝統的に正しい姿かもしれないのである。
まさむね
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大相撲が大変なことになっている。言うまでもなく、警視庁が押収した力士の携帯電話の記録に八百長をほのめかすような証拠が出てきたという問題である。2日の産経新聞を引用してみよう。
大相撲の野球賭博事件で、警視庁が押収した複数の現役十両力士の携帯電話に、勝ち星を売買するなど八百長行為に関与していたとみられるメールの記録が残されていたことが2日、捜査関係者への取材で分かった。八百長が行われたとみられる取組は賭博の対象にはなっておらず、刑事事件としての立件は見送られる見通し。警視庁は同日、警察庁を通じ、日本相撲協会を所管する文部科学省にメール内容について情報提供した。
それにしても、警視庁は、別件で押収した携帯の中身をマスコミに公開したのであろうか。これは、明らかに公務員法違反である。
いわゆる大相撲内部の談合が問題であるのなら、同じような談合体質が、警視庁と新聞記者の間にもあるということではないのか。
そういえば昨年、NHK記者が警察のガサ入れの日程を時津風部屋に教えたということが問題になったが、それ以上に、NHKの記者にその情報を漏らした警察関係者の方が大いに問題ではないのか。
しかし、僕はそんな談合体質をここで、ことさら批判しようとも思わない。それが日本の社会というものだからである。
例えば、パチンコ。誰が見てもこれは賭博という犯罪行為であるが、それは「そうではない」ということになっている。ただ、それを、今更指摘することは野暮というものだ。
そして、同様なことはこの大相撲の八百長問題にもいえることである。それを指摘すること自体が野暮なことなのである。
ようするに、世の中には、暗黙の胡散臭さというものがある。おそらく、相撲ファンの10人の心の中を覗けば、10人とも「八百長」の存在を知っていたと書いてあるだろう。
そんなことはある意味、常識の範疇の話なのである。
今回の発覚事件を聞いて、「初めて知りました」という相撲ファンがいたとしたら、それは建前として、ウソをついているということにすぎない。
内館牧子の『女はなぜ土俵にあがれないのか』にも書いてあるが、大相撲という組織は、時の権力者、あるいは世間に対して、極度に弱い立場にある。公益法人の衣を脱げば、ただの興行団体である。その意味で、次の三月場所を中止するという判断もやむを得ない。そして、何人かの力士を除名にし、場所を中止にして、反省したという姿を世間に見せた上で、五月場所から何事も無かったかのように、再び元に戻るに違い。
僕はそんなしたたかな大相撲が好きだし、そのしたたかさや胡散臭さも含めての日本的見世物だと思っている。
まさむね
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大相撲、名古屋場所がはじまった。スポンサーが引き、テレビ中継がない全く寂しい場所になってしまった。
NHKのニュースによれば、会場には警察官が動員され、監視カメラが設置されたという。暴力団関係者の入場を阻止しようということらしい。
これは、いわゆる維持席という砂被りのスポンサー席に「それらっぽい」人々が居て、テレビに映ってはまずいということなのだろうか。日本人は本当に建前が好きだ。取り敢えず暴力団排除の姿勢が大事なのだろう。
「暴力団関係者お断り」という看板を掲げる田舎のスナックと同じだ。
もしも、本気でやるならば、入り口で身分証明するべきだろうが、あり得ない話である。
それにしても、なんでこんなことになっているのだろう。本来であれば人は行った犯罪に対して罰せられるべきであり、相撲観戦に来て、追い返すというのは、一種の「差別」に近い。あるいは、これは、江戸の勧進相撲からの伝統か。
いずれにしても、村山という理事長代理が、初日の土俵上から「世間をお騒がせしてすみません」と謝罪していたが、この言葉を聞くたびに、多分、何も変わらないだろうなと感じるのは、僕だけであろうか。
まさむね
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大相撲が野球賭博問題で揺れている。
しかしよく考えてみれば、何がそれほど大きな問題なのだろうか。
僕は大相撲ファンとしてここでちょっと立ち止まらざるを得ない。
賭博行為だから悪いのか、それが常習的だから悪いのということか、掛け金が高額だから問題なのか、それとも、その行為の背後の怪しい影があるからか...
しかし少なくとも、背後関係に関しては、特別調査委では、力士らに直接的な暴力団関係者との関係はなかったと認定した上で「野球賭博の背後に暴力団と関係がないとは言えない」とも指摘したという。(6.27スポーツ報知)
これってようするに、背後関係に関して言えば、推定無罪ということではないのか。
それをいわゆる「世間を騒がせた」ということで、謹慎だ、解雇だとは、何事であろうか。僕はそれが納得できないのだ。
もちろん、内館牧子氏の「女はなぜ土俵にあがれないのか」にもあったが、大相撲協会というのは常に世間、あるいは権力にたいしておもねり、擦り寄ってきた体質的に弱い興行団体という一面がある。それゆえに、「世間様」が悪いと決め付ければ、「すみません」と頭を下げるというのが古来の体質なのだ。
だから、いつもたまたま渦中にいた誰かが犠牲になりそれで丸く治めようとする。僕はいまだに大麻騒動で犠牲になった露鵬と白露山を復帰させるべきだと考えている。
今回だって騒ぎが大きくなっただけで、事の本質はそれほど問題ではないというのが僕の見解である。たかが野球の試合に金を賭けたという話ではないのか。
NHKはこの事件に対して検証番組をするらしいが、ちょっと待った。それだったら、過去、記者クラブなどで賭け麻雀をした自社記者がいなかったのかを検証するのが先だし、筋だろう。
それに今回の特別調査委の座長の伊藤滋という方は、一方でパチンコ関連の「社会安全研究財団」の理事長もしているという。パチンコ三店方式という極めて胡散臭い民間賭博を擁護するポジションにありながら、一方で相撲賭博を断罪するこの方の神経はよくわからない。(いや、かなり遠回りだが、結局、民間賭博としてパチンコのみを生き残らせようとする深慮なのかもしれない。)
僕は別にパチンコ文化を否定するものではないし、こういった曖昧な文化こそ、日本的だと感心することもある。
しかし、ダブルスタンダードに対しては一言言っておかなければならないと考える。
ちなみに、この伊藤滋氏は、あの詩人の伊藤整氏の息子さん、つまり丸に立ち沢潟紋者(右絵)だ。
恥ずかしながら帰ってきた横井庄一、昭和の喜劇人・古川緑波、旺文社の赤尾好夫と同じである。
まさむね




