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1月15日の報道ステーションサンデーにおける橋下徹市長の山口二郎北大大学院教授に対する圧勝を受けて、27日深夜の朝まで生テレビでは、さらに、橋下市長を批判する面々(精神医学者の香山リカさん、社会学者の薬師院仁志教授、共産党の山下芳生参院議員など)による弔い合戦的討論が展開された。
しかし、結果から言えば明らかな「返り討ち」であった。
僕が見たところ、橋下市長は、反橋下陣営の面々に比べて、経験でも、論理でも、知識でも、下準備でも、頭の回転の速さでも、弁舌でも、顔でも、器でも、人間的魅力でも、とにかくあらゆる面で上回っていたように見えたのである。
前回の山口教授との対論に関するエントリー(橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~)でも書いたが、橋下市長が主張していることはあまりにも「普通」のことであった。しかし、それが、何故か日本では「悪」と思われているようなことなのである。
単純に言ってしまえば彼が主張しているのは、全ての物事の決定のプロセスを以下のようにするシステムを作ろうということだ。
ある政治的問題が起きる⇒議論を尽くす⇒決定権者が(時に多数決で)決定を行う⇒実行する⇒政策の結果が出る⇒市民が選挙で決定権者を審判する
ところが、現状は以下のようになってしまっている。それは、大阪府や大阪市だけではなない。おそらく、日本中が、そうなっているのではないかと僕は想像する。
ある政治的問題が起きる⇒談合が行われる⇒形式的な議論をする⇒妥協案(=金銭的手当て)が通る⇒問題が先送りになる⇒公共の借金が増える
勿論、経済が右肩上がりで、財政に余裕のある時は、従来の解決方法で問題はなかった。そして、それがゆえに、昭和の古き良き時代、こうした談合民主主義(=日本型民主主義)は生きながらえてきたのである。
しかし、バブル崩壊から、山一ショック、リーマンショック、311震災などを経て、いつまで続くかも判らない平成不況の渦の中、日本人は誰もが、これまでの決定方法ではダメだということがわかってきた。そして、インターネットによる新しい情報の流れは、そんな人々の了解を後押しした。
勿論、僕自身、古いもの、日本独自のものに対しては人一倍愛着があり、改革によっていつの間にか古き良きものが無くなってしまうことに懸念を感じないわけではないが、優先順位の問題として、日本は、現在こそ、「普通」の民主主義システムにギアチェンジすべきときだと思っているのである。
さて、先の朝生の討論について話を戻す。よくよく議論を聞いていると、反橋下論者達は、決して橋下市長が唱える大阪都構想に反対しているわけではないようであった。ただ、彼の手法が、独裁的で危険な臭いがすると言っているだけなのである、あるいは、ただ、彼が気に食わないと言っているだけなのである...というように僕には見えた。
橋下市長のディベートが上手なのは、そうした彼らが抱く「橋下は相手の言うことを聞かない」というイメージ(それを彼らはファシズムに掛けて「ハシズム」と呼んでいる)を一瞬にして逆手に取るその「返し技」がゆえなのである。
(僕は番組を一回しか見ていないので、以下は、あくまで記憶の中での話であることをご了解下さい)
ある論者が「大阪都構想というキャッチフレーズはあまりに単純化しすぎ」だと批判する。
それに対して橋下市長は「じゃあ、あなたはどうしたらいいとお考えですか。」と切り返す。
当然、その相手はただ、市長を批判したいだけなので、具体的な案など持っていない。一瞬、言葉につまる。そして、困る。なにせ、番組は全国放送だ。
そのスキに、橋下市長は、大阪都構想が必然的政策であることをスラスラと説明する。
相手は、何もいえなくて困っていたもんだから、橋下市長の言う事をさえぎるどころか、(むしろ内心、安心して)聞く立場になってしまうのである。
つまり、論者にしてみれば、橋下市長に対する「相手の話を聞かない」という批判がデマであったことが、自分が「噛ませ犬」となりながら証明されてしまうと同時に、橋下市長の主張の方が説得力を持っているということが、(そして、批判者たちの方が実は何も考えていなかったのだということが)視聴者に対して瞬時にアピールされてしまうのである。
おそらく、多くの論者にとって、ガチの論戦というのはそれほど、慣れた場所ではない。今までの朝生にしても、結局は、「あの人はこういう」ので、「私はこう返す」、論理が平行線になって怒鳴りあうと田原氏がCMを入れる、といった予定調和的な討論プロレスに過ぎなかったということである。
勿論、多くの視聴者はそんなことは百も承知で見ているのであろうが、橋下市長の登場は、そんなプロレスリングに、突然、格闘家のヒクソン・グレイシーが現れたような、そんな鮮烈さがあったように僕には見えた。
そして、それはちょうど、先に述べたような、橋下市長が目指す『談合民主主義(プロレス)から、「普通」の民主主義(格闘技)への移行』とパラレルなところが、僕にとっては面白かったのである。
さて、話をさらに変える。「橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~」というエントリーのコメントにも書いたのだが、僕は橋下市長のこういった民主主義のルールを正すことが自分の役割だという認識は、小沢一郎氏の発想に酷似しているのではないかと思っている。
ただ、小沢氏の場合、「普通」の民主主義を実現するための多数を獲得する手法があまりにも旧態然としていたこと、そして、ディベートがそれほど得意ではないこと、それがゆえに、既得権益者だけではなく、多くの国民にも、全く人気がない(一部の熱烈な支持者は別にして)という意味で、橋下市長とは全く別モノのように見られることも多いが、僕は本質的には、橋下市長は小沢氏が目指す方向と同じ流れにあると考えている。
その証拠に、橋下氏は、大阪都構想のシステムを作った暁には、その職を辞して、別のステージに行くことを宣言している。そのステージが国政なのかどうなのか、現時点ではよくわからないが、自分の役割をシステム創りと規定するその姿勢は確かであろう。それゆえに、僕は、橋下氏が組むべきは、石原氏や亀井氏ではなく、(民主党を抜けた)小沢氏であるべきだと思っているのである。
最後の一言。
歴史と言うものは、なんども挫折しながら、ジグザグで進まざるをえないものである。時に、マルクスが言ったように「思うようには創れない」ものだったりもする。そして、その評価は後世からしかできないものでもある。
よく、橋下市長の「君が代起立問題」に対する態度をして、彼を愛国者というようなことを言う人がいるが、僕は、そういった表面的なところよりも、彼が持っている「とにかく前に進んでみる、ダメだったら次の世代が、修正してくれるに違いない」というような、現在から未来にかけての日本人に対する明るい信頼感にこそ、愛国者としての資質を見るのである。
まさむね
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本日(11/12)、フジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」という番組で、「”ネトウヨ”心理とテレビの関係…排外的な動きが今なぜ起こるのか」という特集番組は放送されました。
僕は、生では見られなかったのですが、すぐにYOUTUBEで見ました。
これは、夏場あたりから、ネット上で盛り上がり、実際のデモにまで発展した「フジテレビ批判」を、具体的にフジテレビ側が取り上げた最初の機会なのではないかと思います。
勿論、今まで数千人規模のデモ等に対しても、フジテレビや他のマスメディアがほとんど無視してきたことは、大いに疑問(+不満)のあるところですが、とりあえず、恐る恐るでも、取り上げたという意味では、この番組は、評価出来ることだと僕は思いました。
さて、この番組の内容は、濱野智史さんと津田大介さんが、「ネトウヨ」や今回のフジテレビデモの背景を解説し、フジテレビ側の二人のアナウンサーは特に意見を言うでもなく、神妙に聞き入るというスタイルで行われました。さすが、お二人は鋭い、大筋のところ、その分析は正しかったのではないでしょうか。
まず、ネトウヨに関してですが、濱野さんより以下のようなサマリーがなされていました。
ネトウヨと言っても、従来の街宣右翼とは違うということ、ネット(2CH)をやる人が全て、ネトウヨではないということ、そして、その起源は、90年代終わりに漫画家の小林よしのりさんが書いた「戦争論」や、歴史教科書批判であり、その動きは、2003年日韓共催ワールドカップで広まり、その後の「嫌韓流」(山野車輪)などによって理論づけられたということです。
そして、それらのネットの動きは、それまで情報を独占してきた左翼的マスメディアに対する批判と一体になったということですね。
海外との比較で言えば、アメリカのデモがウォール街の投資家に向き、中東のデモが独裁者に向いたのとパラレルに、日本ではそれがフジテレビに向いたというわけです。
勿論、日本の場合、そういったマスメディアに対して声を上げる人々の中は、様々な意見があります。
そのあたりは津田さんがフォローされていましたが、彼らの中には、従来の右翼運動家の延長で行っている人から、中国や韓国の日本に対する態度への反発を持つ人、メディアが嫌いな人、左翼的なエリート主義に対して反発する人...などがいるという話です。
そして、それらの人々が、尖閣事件から、311の大震災や原発事故を経て、益々、マスメディアに対して不信感を抱くようになり、それまではネットだけで連帯していのが、実社会でも具体的な行動を起こすようになってきたということですね。
さらに、津田さんは、昨今のTPPに対する偏向報道も、テレビ不審に至る流れに入れていました。
僕も、実際に311震災以降、僕ら日本人の意識は大きく変ったとのではないかと思っています。
それは、濱野さんや津田さんが言われているようなメディアに対する不信感の増大ということも、勿論なのですが、僕は、それ以上に、メディアで宣伝された商品を素直に受け入れ、消費することが幸せだという、そういった物欲資本主義的価値観が変わりつつあるのではないかと思います。
そして、一連の批判やデモは、フジテレビが象徴していた従来の価値観に、日本国民の多くは今まで騙され続けてきたという意識が、怨嗟感情として爆発したのではないかと思うわけですね。
一方で、被災者達が家族や住む場所を失って悲惨な暮らしを余儀なくされている、不況によって多くの人が職を失ない格差が広がっている、その反面で、今まで通りの揺らがない価値観に基づいて、特権的な場所から、大騒ぎのバラエティ番組を流し続けているテレビを、日本国民として、誰が、「自分達の気分や声を代弁してくれている」と思えるでしょうか。
番組の最後に、現状を踏まえてテレビ製作者側はどうすればいいのかというアナウンサーからの問いに対して、濱野さんは、「テレビとネットが意思疎通出来るような場を設けることが大事だ」というようなことを述べていました。
昨日のエントリーにも通じるのですが、日本人はとりあえず、「話合い」ということを解決の場所に持ってくることによって、なにか安心するようなことがありますが、もしもやるのであれば、プライムタイムにネットを代表する人々とテレビを代表する人々が何日にも渡って徹底的に討論するようなシリーズが必要かもしれません。中途半端な対応は一番良くないと思いますね。
そして、フジテレビには、土曜日の朝5:00の番組で、アリバイ的に取り扱って、それで終わりということが無いことを、とりあえず、願いたいと思います。
まさむね
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本日、20:00、野田佳彦首相は、TPP・参加のための協議に入ることを発表しました。
実は、今日の夕方(16:00頃)、僕は、「坂の上の雲」を見ようとテレビの前に座っていたのですが、ドラマは一向に始まらず、国会中継が放送されていました。とりあえず、チャンネルはそのままに見ていたのですが、野田首相は、社民党の福島さん達の質問に、ただじっと耐えているという感じでしたね。
「おそらく、これがこの首相の作戦なのでしょう。」僕はすぐにそう思いました。
「相手に言いたいことを言わせて、自分は、完全に感情を抑えて下手に出る、そして時間が来るのを待つ」
まぁ、国会答弁に期待するほうが間違っているのかもしれませんが、それはあまりにも普通の、いつもの光景でしたね。
そして、20:00からの記者会見、僕と妻はNHKの9時のニュースで見ました。
内容に関しては、これもまた、見事に予定調和的でした。また、記者からの質問も、凡庸で取るに足りないものでした。
ただ、内容には、あまり関係ないことなのですが一つだけ気になったのは、他の記者は社名と名前を名乗るシーンは放送されたのですが、自由報道協会の岩上さんが質問をしたときだけ、質問内容は報道されたのに、名乗りのシーンの映像はカットされていたということです。
もしかしたら、いつものことかもしれないのですが、テレビのニュースを見る習慣のない僕や妻にとっては、ちょっと奇異に感じました。あくまでも、記者クラブメディアは、フリーランスの存在を知られたくないということなのでしょうね。
また、その後の政界の動きですが、野田首相が、「参加」を明言したのではなく、あくまでも「参加協議」に入るということを言っただけだったということで、慎重派議員たち(原口さんや山田さん)は、一様に満足げな表情で会見に応じていました。
彼らの態度は、それまでの反対態度に比べると、生ぬるい感じは否めなかったのですが、まぁ、それが日本の伝統的な話合いの後の風景ということなのでしょう。
そんなことを今日は書いてみたいと思います。
実は、僕が先日から繰り返し引用している『忘れられた日本人』という本の中にも、村の集会の様子が記述されているところがあるんですね。
日本(特に西日本)における村の寄り合いでの話合いに関してです。村で何か問題が起きると、村人達は、納得がいくまで話し合ったということです。宮本氏は、その様子を以下のように記しています。
話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。
こうして話をしていると、大抵の問題も三日で話がついたということなのです。
また、別の箇所には、こうも記されています。
話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。
なるほど、今回の野田首相の会見の一日延ばしというのは、極めて伝統的な日本的な作法だったという事なのですね。
つまり、日本の伝統では、とにかく話合いをしていれば、おのずと結論が出てくるとということなのでしょう。
これは、いわゆる話合い至上主義ということです。僕はそれは、民主主義とはどこか違うような気がします。民主主義であれば、議論が出尽くせば、結論は多数決で決められるのが本筋なのですが、話合い至上主義は、長時間話し合っていれば、おのずと結論が出てくるはず、といったある意味、信仰に近い観念があるように思うからです。
ようするに、野田首相としては、「皆さんのお気持ちは十分わかりました。後は、私に任せてください、悪いようにはいたしません」ということで了解をとったのでしょうね。極めて日本的な決着手法ではないですか。
しかし、これから交渉しなければならない相手は、日本の流儀が通じない外人です。
大丈夫かなぁと思いつつ、とりあえず、多くの反対派は、見守ることしか出来ないでしょう。
「決まったことには従う」、それもまた、日本の流儀ですからね。
まさむね
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今日は、最近ちょっと面白いと思ったテレビドラマ「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」(テレビ朝日)について書いてみたいと思います。
このドラマは、元々、人気の携帯ゲームをドラマ化したということですが、その経緯もさることながら、作り手と劇中の世界と観る側との三者のスタンスの取り方が、今までのテレビドラマ、あるいはドキュメンタリー番組とは違う、そこが大変、面白いんですね。
簡単に言ってしまえば、今までのテレビドラマというのは、フィクションだということを断って、フィクションを行います。勿論、これは、極めて普通のことです。別に、テレビじゃなくても、映画やビデオ作品でも同じことですよね。
しかし、最近、どうもテレビドラマの人気(視聴率)が落ちています。それは、他にも多くの要因があるのでしょうが、多くの人にとって、ドラマの中の世界と現実の世界とがズレてきたというのも、その一因のように思うわけです。
別の言い方をすれば、そこに描かれている人々や物語にリアリティが見出せなくなってきている、ということなのかもしれません。
また、一方で、ドキュメンタリーや報道というのは、”本当の話”という前提で、本当のことを見せる、そして視聴者も、そう思ってみる、ということですね。
いや、”そうだった”わけですと言った方がいいかもしれません。
インターネットの普及によって、あらゆる情報が多くの人々の耳目に入ってくるに従って、「アレッ、これって確かに素材は本当なんだけど、作り手がフィクション化しているんじゃないの?」という疑問は、普通のこととして、視聴者が抱くようになってしまいました。
そんな現象を結果として後押ししたのが、いわゆる311以降の報道やドキュメンタリー番組の体たらくですよね。その結果、そこで流されている「現実」は誰も信用できなくなってしまいました。ちょっと極論かもしれませんが、僕らは、今、マスメディアに対しては本当に不審感で一杯です。
そんなメディア不審(テレビはつまらないという気分)が極限に達しているときに、その危機感に対する一つの答えとして、テレビ側が出してきたのが、今回の「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」のドラマじゃないのか、と僕は思ってしまったわけです。ご存知の方も多いと思いますが、演出は森三中の大島さんの旦那さんでもある鈴木おさむ氏です。
まず、このドラマが他のドラマとは違うのは、始まる前に画面一杯に、「この番組はフィクションです。画面の加工・効果はすべて演出です。」と表示されるところです。普通だったら、番組の最後に申し訳なさげに表示されるあのテロップが、むしろ、その事実を誇示するかのごとく表示されるのです。
そして、それに続いて流されるのは、あたかも、”本当の”ドキュメンタリーであるかのようなナレーションとカット割り。つまり、最初のテロップが無いと、おそらく最初は、ほとんどの人は”本物”だと思ってしまうでしょう。そんな演出になっているんですね。
ただ、観ていくに従って、この世界が嘘であるということが、メタメッセージとして伝わるようになっています。つまり、「こんなのありえねぇよ」とツッコミを入れたくなるようなシーンがところどころに入ってくるのです。さらに、劇的なシーン(喧嘩や、高級酒が注文される場面)が、何度も何度も、しつこく”偶然に”カメラに収められるからです。
おそらく、今までのテレビ番組であれば、そういったツッコミはテレビの中でコメンテイターとか芸人さんが行って、視聴者は「あっここで笑うんだ」ということをご親切に教えてもらうという構造になっていたのですが、このドラマでは完全に、ツッコミを視聴者の側に委ねているという感じ、そこが非常に面白いんですね。
例えば、話の中に、シャンペンコールを考えるプロという人が出てくるんですが、その人は店特注でシャンペンコールを専門につくり、月収500万円で年収6000万円というような話が、スッと入ってくるんですね。これには誰だって、「嘘でしょ」というツッコミを入れたくなります。しかし、画面の向こうではクソ真面目にドキュメンタリーが進行しているのです。そして、たまに、歌舞伎町伝説のホストとして現実として知られているる夕聖さんなんかが出てきてインタビューに応じていたりもするわけです。
つまり、このドラマは、フィクションという前提で、本当のことと嘘とを混在してみせているわけですね。
そういえば、リアリティのある嘘というのは、嘘と本当を混在させることって、どこかで聞いたことがあります。
さらに面白いのが、このドラマが映し出してるホストクラブという存在自体が、元々、虚実の境がよくわからない夢のような現実のような曖昧な世界であるということです。ここに対象(ホストクラブ)と手法(嘘のドキュメンタリ)とが奇妙にシンクロする、この感覚がなんともスリリングだと僕は思いました。
実は、偶然でしょうが、昨日(11月6日)、昼間にフジテレビで「浪花の人情ホスト」というホストのドキュメンタリー番組が、古い手法のまま放送されていて、僕は思わず、両者を比較して観てしまいましたね。
残念ながら、「浪花の人情ホスト」の方は、「ホストという仕事をしているどうしようも無い若者も、実は人情味溢れるいい奴」という凡庸な物語が、ドキュメンタリでありながら透けて見えてしまっていました。
勿論、男二人が服を着たまま、川の中で相撲を取り、友情を深めるというシーンなど、フィクションとしては泣かせる場面もあるのですが、所詮、ホストクラブの「宣伝(パブリシティ)」なんでしょ、という意識を僕は、意地悪にも持たざるを得なかったのです。
しかも、彼らを撮影しているスタッフは、一切姿を現さないという、これはこれで、当然の手法なのですが、そこが、「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」を観た直後だと、どうにも偽善的に見えてしまう、これはある種の残酷な現象だなぁと僕は思うわけです。
まぁ、言葉では本当にわかりにくいと思いますので、興味のある方は是非、コチラからご覧下さい。
言い忘れましたが、このドラマのもう一つの大きな特徴は、テレビ局自身がYOUTUBEでオンデマンド配信しているということですからね。この勇気と、実験精神にはとりあえず、拍手を送りたいと思います。
まさむね
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広告業界の苦境がささやかれている昨今であるが、新しい試みとして注目されているのがプロダクトプレイスメントである。
これは、映像作品の中に商品を写しこんで、商品告知やイメージ効果を狙う広告手法の一つであり、ハリウッド映画などでは既にビジネスとして成立しているという。
有名な成功例としては、「007シリーズ」におけるボンドカー(BMW)や、「マトリックス」におけるサムソンの携帯電話などが知られている。
さて、僕が、最近観た「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(通称:あの花)の中にも、様々な商品が登場していた。しかも、あまりにも自然に登場していた。
例えば、第一話だけをとっても、冒頭に机の上のPCの傍に何気なくおいてあるガリガリ君(赤城乳業)、そして主題歌が始まると、その中にはCCレモン(サントリーフーズ)が。次のシーンでは、サッポロ一番塩ラーメン (サンヨー食品)を作るシーンも出てくる。
左からガリガリ君、CCレモン、サッポロ一番塩ラーメン、埼玉新聞、WcDonald
また、第二話以降の様々なシーンでも、アルトバイエルン(伊藤ハム)、カントリーマーム(不二家)、うま辛ポテト ヒ~ハー!!(カルビー)といったナショナルクライアントの商品が頻繁に登場。ちなみに、ローカルの商品としては、埼玉新聞(埼玉新聞社)や十万石まんじゅう(十万石ふくさや)なども登場する。
一方で、企業名や商品名を容易に想像させる、WcDonald(MacDonald)や金カ堂(キンカ堂)というような名前も登場する。
製作委員会に電通の名前が見られることから、登場シーン、使用方法を確認の上、それらの企業に承認を取って名前や絵柄を使用しているというのは確実だ。ただ、スポンサーや商品提供のクレジットが見えないことから、おそらく、広告活動というよりも、ある種のテスト使用ではないかとも想像される。
ご存知の通り、視聴率の低下、レコーダーのCMスキップ機能などにより、テレビ広告の価値が揺らいでいる昨今、広告代理店、テレビ局は「新しい」広告のありかたを模索している。
おそらく、現時点では、これらのプレイスメントが、視聴者に対してどのように受け取られるのか、効果があるのか、逆効果にはならないのか、または、制作進行の障害にならないのか、という事に対して、まだ十分なデータが存在しないため、まずは深夜アニメで試してみようということのなのだろう。
そして、視聴者に、それほど抵抗感が無いということを確認の上、プライムタイムのドラマ等にも普通に商品が登場する「自然化」を進めるというストーリーが見えなくもない。
おそらく、広告としてのビジネスになっていくのはそれからの話であろう。
視聴者のCMに対するリテラシー、拒絶感がどんどん高まる中、こういった流れは、ある意味仕方が無いとも言えるが、一方で、それら「大人の事情」によって、本来いい作品を作る事を第一義に考えるべきアニメ制作サイドの自由や創作意欲が抑圧されなければいいと思う。
それがアニメファンとしての現時点での最大の懸念点である。
まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。




