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NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」の淡々とした進行に思わず引き込まれることがある。
僕自身は観ているような観ていないようなスタンスなのだが、妻が毎朝(たまに昼)にチャンネルを合わせるものだから、時々目に入ってくる画面をそれなりに見入ってしまうのである。
朝ドラは、古くは、1967年に放送された「おはなはん」(主役:樫山文枝)から、僕の意識の中に入ってきているが、やっぱり、「戦前から戦中、戦後にかけて黙々と生きる女性を淡々と描く」というのが王道のパターンである。
その意味で、今回の「おひさま」は正しく、王道パターンを踏襲していると言えるだろう。岡田惠和が演出をするということで、一部では「ちゅらさん」的な、マンガチックな演出がされる可能性もささやかれていたが、結局は、岡田自身がどこかで書いていたが、演出が突出するのではなく、「『共感』を大切にしている」ドラマ作りに落ち着いたということか。
いずれにしても、成功の部類なのだと僕は思う。
さて、今回の岡田の演出の中で特徴的なのは、現在を生きる陽子(若尾文子)が、当時の自分(井上真央)を思い出すという設定ながら、なるべく当時の人々の気持ちに沿った形でのドラマ作りがなされているというところであろう。例えば、本日の放送回では、ちょうど終戦を向え、小学校教師であった陽子が生徒に教科書の墨塗りを指示する場面なのであるが、そのつらさがよく伝わってくる。
これは以前までの朝ドラであったら、例えば、戦争を描く場合、周りの人々はともかく、自分は反戦意識を持つ主人公という、後世からの意識が普通に当時の主人公の内面に投影するような作りが多かった(ように思う)のであるが、その点に関しては、微妙だが明らかな相違点が見受けられる。
例えば、戦時中にの場面では、陽子は、むしろ積極的に軍国主義教育を行っているように描かれているのである。しかも、けっして戦争中であったも彼女は暗くはない。むしろ、(太陽のように)明るく、日本の勝利を信じて生きているのだ。
僕はこの演出自体はささやかな進歩として評価したいと考えている。しかし、まだまだ不十分だ。悪者=軍部、庶民=無垢という大前提からは一歩も出ようとしないからである。(その姿勢は、さすがにNHKと言うべきであろうが、)若尾文子には、「後で、騙されたとわかった時は本当に悔しかったわ!」と言わせているのである。
現在では、様々な研究によって、戦後はGHQの言論統制によって、戦前の価値観は全て否定されて、戦後のアメリカ的民主主義が善であるという教育があらゆるレイヤーでなされたこと、つまり、第二次世界大戦(大東亜戦争ではなく)は、間違った軍国主義国家日本が、正しい連合国軍に敗れた戦争であったという史観が広められたということが明らかになっている。
そして、その大前提の上に戦後日本が形成され、その土台の上に戦後の繁栄があったというのも事実である。
つまり、戦後という時代は、欺瞞を引き受ける一方で繁栄を享受した時代というようにも言い換えることが出来るのである。勿論、僕は戦前が全面的によかったということを言いたいわけではない。勿論、多くの問題点はあったという認識はある。また、終戦直後における日本人の判断も、仕方がなかったという面があるのは承知している。いや、むしろ、判断として正しかったのかもしれない。
しかし、それはあくまでも、限定的な時代状況下として、という話である。
それゆえに、日本が何故、戦争を起こしたのかのかという、最も客観的に振り返るべき反省点を欺瞞で糊塗したままの前提の上に乗った社会がずっと続くべきではないと僕は思う。
そして、その前提の上では、けっして次のステージに行けないのではなかと最近は思っているのである。
正直なところ、戦前の日本人の多くは、勝てるかどうかは別にして、戦争をしたくてしたのであろう。少なくとも認めてきたのであろう。そして、素朴に米英を叩きたかったのではないのだろうか。しかし、敗戦という屈辱を受け入れるために、「自分達は、権力者=軍部に騙されていた」という物語にすがったのではないだろうか。
その意味で、「おひさま」における陽子(若尾文子)の回想態度は、ベタな戦後意識を表現しているという意味で、正しい演出なのだと思う。しかし、僕らは、その回想態度こそ、欺瞞だったのだという時点に向わなければならないのではないだろうか。
おそらく、そういった戦争回想態度そのものが自己欺瞞であったという、あるいは少なくとも自己欺瞞であったかもしれないという観点が日本人に共有されないかぎり、同じような失敗を僕らは何度でも繰り返すに違いないのだ。
それは、例えば、昨今の反原発運動や、反民主党意識などを見てもそうである。
いずれの場合も、誰か、悪い人々に騙されたといって済ませればいい話ではない。残酷な話ではあるが、歴史というのは、僕らが自分達で選んできたものの結果なのである。
まさむね
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1年振りに紅白歌合戦を見た。といっても、最初のほうは寝ていたので、僕が見たのはコブクロからである。
桑田佳祐さんが登場した。
彼は、僕らの世代の代弁者である。だから、そうそうにくたばってもらっては困るのだ。
いきなり、「コチンコチンにしてまいりました」という下ネタ、さすがに桑田さんらしい。
僕は桑田さんの下ネタのセンスの根底には、「モテないヤツらが身を寄せ合ってすごした青春の痛恨の思い出」があるとにらんでいる。
そして、それはおそらく、多くの僕らの世代の共通感覚なのだ。
そういえば、最近の芸人は、こういったさり気ない下ネタをあまり言わない。いい悪いは別にして。
桑田さんは紋付を着てギターを弾いていた。家紋が気になる僕は、歌そっちのけでその家紋をチェック。
なかなかわからなかったが、最後に上から家紋と同じイラストの垂れ幕が下りてきてわかった。
それは、丸にデフォルメされた桑の字であった。
暫定的に文字紋のページに桑田佳祐を加えることにした。
しかし、この紋はただの「桑」の字のデザイン化したものではない。
ここには、鎌倉の伝統である北条鱗が見え隠れしているではないか。
そういえば、桑田さん自身、鎌倉五山の一つ建長寺の附属の鎌倉学園出身者である。
そして、建長寺の創建は、北条時頼、寺紋は北条鱗なのである。(右画像は東慶寺にて撮影)
青春期に通った鎌倉の遠い記憶があの「桑」の字に影を落としているのではないかというのが家紋主義者の妄想だ。
鎌倉といえば、一般的には笹竜胆がシンボルのように印象されているが、実は、鎌倉武士の代表、執権・北条家の刻印の方が深く、歴史も長い。
建長寺をはじめ、円覚寺、東慶寺などでは頻繁に、この北条鱗を目にすることが出来る。
僕は昨年来、「日本らしさとは何か」ということをずっと考えている。
日本回帰といった場合に、一気に、日の丸や靖国神社などの国家主義的なアイテムに帰依するのに、僕にはまだ抵抗があるのだ。
明治維新以降のイデオロギーだけが日本らしさではない。
もしかしたら僕らはそれだけ、戦後教育に洗脳されているということなのかもしれないが、それでも自分の頭で「日本らしさとはなにか」を考えてみたいのである。
さて日本人は、そのオリジナル文化として家紋を残した。これは凄いことだ。
実は、この家紋文化が進化し、人々の間で展開を見せた最初は鎌倉時代の武士の間での話であった。
僕は彼らのメンタリティにこそ、日本らしさが潜んでいるのではいかとひそかに考えている。これは直感である。
考えてもみれば、その鎌倉武士は、例えば、江戸時代以降の官僚化した武士とは違い、とても謙虚だ。
二代目執権の北条義時の三男、北条重時(北条三つ鱗)は家訓に以下のような文章を残しているという。(山本七平「日本とは何か」より)
葬式の近くで笑うな
道は相手がだれであれ自分からゆずれ
酒の肴や菓子は人に多くとらせろ
料理は人より多くとるな
旅のとき人夫や馬に重いものを持たすな
百姓が垣内に植えた木の果実などを所望するな
また、円覚寺は、北条時宗によって元寇での戦没者の慰霊のために建てられた寺であるが、そこには日本人、モンゴル人、高麗人などを分け隔てなく弔っている。
21世紀の現代ならともかく、13世紀に侵略してきた敵をも含めた戦没者全員を慰霊する施設を作っていたということに僕は驚く。
そこには、日本独自の怨霊思想(恨みを残して死んだ者が怨霊とならないように、奉ることによって御霊に転化させようとした思想)があったのかもしれない。
そして、もしかしたら、元寇でおおいに被害を受けた長崎県の松浦市にあるモンゴル村はそういった寛容の思想の延長戦上にあるのかもしれない。
ただ、この寺は元によって滅ぼされた南宋の最後の砦であった明州慶元府出身の無学祖元が開祖となっているということも忘れてはいけないと思う。
現在、僕らはシナ人に対してあまりいい感情を抱いていないが、この時代、日本人にとってシナからの僧侶は尊敬の的であった。
元によって滅ぼされたシナ人が、それでも異国の地で元の兵隊をも弔おうとするこの心の広さ。
南京大虐殺紀念館を作った中国共産党のメンタリティと円覚寺を開山した無学祖元のメンタリティの落差に僕はさらに驚く。
そして僕はこういった過去のシナの禅僧の思想に大変興味がある。
もともと僕は桑田さんの復帰を喜びたいだけでこのエントリーを書き始めたのに、話が大いにずれた。
いつもそうだ。
おそらく、今年もこんな感じで時間が過ぎていくのであろう。
まさむね
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最近はあまりテレビを観なくなった。
多分、多くの人がそうだろう。
ネットの発達によって、テレビを観なくても情報は収集できるし、最近のテレビは、つまらないだけではなく、不愉快であるからだ。
毎日テレビを観続けている人には、芸能人の内輪ネタは面白いのかもしれないが、名前も知らない芸人達がブラウン管の向こうで大騒ぎをしていても、飲み屋で隣の席がうるさいというと同じような感覚しか覚えない。
それにしてもこんな時代が、こんなに早く来るとは誰が予想しただろうか。
ただ、今日はたまの祝日だ。何気なくテレビをつけてしまった。
夕方の日本テレビ、ACTIONという番組で、今年の事件を振り返っていた。
元局アナである福澤さんが司会で、辛坊さんや、元大蔵省で、ZEROのキャスターの村尾さんなどがコメントをする番組だ。
関係ないが、福澤さんがプロレスのアナウンサーをしていた頃が懐かしい。
途中から観たので、前半の話はわからなかったが、僕がチャンネルを合わせたときにはちょうど、尖閣事件の話をしていた。
それを観て愕然とした。
今回の事件は、今までは暗黙のうちに、尖閣付近の領海内に中国漁船入ってきても、追い返していた海上保安庁が今までの暗黙の了解を破り、船長を逮捕したことに問題がある、つまり日本が悪いという展開なのである。
そして、それを解決するために、細野議員が中国に特使として派遣され、先方の高官と会う。そして、フジタの社員を返すのと引き換えにビデオの公開をしない密約をしたというのだ。
中国人はこういったという。
「お互いに不利益なことはやめましょう」
さらに、もし、船長を拘留しつづけていたら中国海軍が尖閣に上陸、占領していただろうと、その会議に同席したというコンサルタントの人がカメラの前でしゃべっていた。
あれっ、密約だったんじゃないの?
そんなことを簡単にしゃべっていいの?
少し考えればわかるのだが、ようするに、これは秘密を公開するという形をとった、日本の財界、そして中国の共同パブリシティ企画なのある。
中国人は日本に対して友好姿勢でいるのに、日本側は約束を破り(船長を逮捕し)、しかも密約も結果として破った(ビデオが漏洩した)、つまり日本側が反省すべきというのだ。
しかも、結果として船長を釈放したことによって、中国が尖閣を占領することを回避できた、結果として最悪の事態がまぬがれたというのである。
そして、総評として村尾さんが、民間レベルで友好関係を作っているのに、政府レベルでその関係を壊すようなことはしてほしくはないでね...だって。
そもそもその暗黙の了解自体が問題だったのではないかとの疑問は何故、出ないのだろうか。
あるいは、日本の東シナ海における防衛を強化すべきという話は出ないのだろうか。
とりあえず、波風を立てないで、なんとなく無事ならばそれでいいというのであろうか。
少なくとも僕にはそのような「一般の日本人が普通に抱くような感想」があってもいいように思えた。
僕らは今まで、何十年にもわたってずっとこういう番組を、意図も分らず知らず知らずに見せられてきた。
そしてそれを信じてきた。
今更ながら、思うのはマスメディアというものは情報を流すものでもあるが逆に、情報を曲げるものでもあるということである。
まさむね
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尖閣ビデオがYOUTUBEに流出した。金曜日の朝からネットでも凄い。2チャンネルのニュース速報+のスレッドも150に届く勢いだ。
僕は土曜日の朝はいつも病院に行く。先週末は、長い待ち時間の時間つぶしに、朝日新聞を買ってみた。
久しぶりに新聞に目を通す。
やはり、このタイミングでは尖閣ビデオの流出問題が気になる。勿論の社説のテーマもこの事件に関してだ。
政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない。
と書いている。さらに続ける。
映像を公開し、漁船が故意にぶつけてきた証拠をつきつけたとしても、中国政府が態度を変えることはあるまい。
基本的に、流出に関する政府の情報管理体制を批判した上で、全面公開に対してはあくまでも慎重にすべきという立場、つまり、中国が態度を変えないのだから、ビデオを公開しても無駄だ。だから、公開するなという立場である。
まぁ、「人民日報 東京支社」とも揶揄される朝日新聞らしい論法はである。ようするに、あくまでも日中友好が大目的なのだ。
さて、実は、土曜日のこの「尖閣ビデオ流出 冷徹、慎重に対処せよ」という社説に関して、僕が言いたいのは上記以上に次の箇所でだ。
仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない。
ちょっと待って欲しい。これは政府や国会の意思に反する情報流出=リークはすべて許されない、ということなのか。
僕は目を疑った。
いまや、政治家の「政治と金」の事件などの記事、そして、官僚の腐敗などの記事は、検察など現場の公務員のリーク情報によって成立していることなど世間の常識だ。
朝日新聞の記事の多くだって、そういったリークという「犯罪行為」によって成立しているのだろう。
そして、世間はそういった事情も踏まえながら、知りたい情報を得るために「犯罪行為」を黙認しているのだ。
それにもかかわらず、この社説では政府の意思に反する行為だから、許されないと言っている。
民主党政権に気兼ねしてそのように言っているのだろうか、あるいは、自分達マスコミにリークさせる分にはいいか、動画投稿サイトへの掲載は許されないということを言いたいのであろうか。
もし、後者だとしたら、リークする方法や相手によって、リークの是非が判断されるというのは、自分達の特権というものに無自覚になっているかというあまりにも恥ずかしいことではないのか。
この映像が無記名で新聞社やテレビ局などマスメディアに送りつけられてきたという形の情報流出だったら、どうなっていたのだろうか。
僕は少しだけ、興味深い。
まさむね
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最近のTV番組はほんとうに面白くないのであまり見ていないのだが、そのなかでも好きな番組が二つある。「ブラタモリ」と「世界ふれあい街歩き」だ。NHKの番組。といっても毎回欠かさずかならず観ているというわけではないのだが。いずれも番組の基本は街のなかをとくに目的もなく散歩するというようなコンセプト。もともと僕自身がいわゆる名所旧跡の類にはあまり興味がなく、外国に行ってもほとんど観光地めぐりらしい観光を行わない(たとえばパリに行ってもマレ地区をうろついたりするのがとても好きだ)ので、そういう性格の人間にはとても波長が合う番組なのだ。なんといってもどこか行き当たりばったりの散歩者目線であるところがいい。
「ブラタモリ」はご存知タモリが東京という町の今昔をどこかワープしながら散歩するというような内容。たとえばこの間あった新宿の探索では、新宿という町が江戸時代からいかに水道(玉川上水)とのかかわりをもって発展してきたかという観点でその足跡をたどりながら散歩してゆく流れになっていた。たとえば四谷の交差点のコーナーの曲がり具合が実は上水の曲がり具合をそのまま反映したものであるという事実や、上水からの分水(枝水)が今は柵の脇の草の生えたただの無意味な土地のように伸びていることなどが明らかにされてゆく。
一つ一つのことは別にたいしたことではないかもしれないのだが、そういうたいしたことはない積み重ねのなかで交錯して発展してきた新宿の今がわかってとても面白い。
その最終形として今の西新宿という土地そのものが浄水場の跡に立った高層ビル街であり、ちゃんと現代の水道局本体もいまだに鎮座していることなども当然ながら確認されてゆく。
それから「世界ふれあい街歩き」のほうはカメラマンの体に装着された水平移動カメラが世界のある都市の路地をまるで縫ったり這ったりするように移動してゆきながら、その間に現地の人とまるで対話しているような日本語のナレーションが入りつつ進んでゆくというコンセプト。これを早朝(朝の出勤時刻)から夕方まで街中を歩き続けるシーンが続いて、そこで偶然に出会った人やモノ、風景を映し出すという流れになっている。
こちらも特に名所旧跡だけを映し出すのとは違い、他愛がないといえばそういえるのだが、それがいいのだ。結局そこに映し出されるのは何気ない日常を生き続けている現地のひとたちの当たり前の暮らしだ。僕らの日常も実はそういう他愛もないような連鎖によって成り立っているのだから。
そこには大言壮語もおそらく経済の危機もない。かりにその影響はあってもそんなものとは別に連綿と淡々と昔から続いてきた日常の風景。たとえばヨーロッパのある小さな都市。街中のバールみたいなところで早朝からゆっくり酒を飲んでいるお爺さんの姿。そして夕方。同じ店の前を通ったカメラが映し出したのはまたそのお爺さんの姿だった、みたいな。のどかで、でも根太いひとの暮らし。とても変化の激しい時代だけど、一方で太い糸のように繰り返されてきた人の当たり前の暮らしというものもあり、その両方への目配りは忘れたくないものだ、と思う。余談だけど、僕の通勤もまず一軒の惣菜屋さんの前を通りすぎてそこのいい匂いを嗅ぐことから始まっている。雨が降ろうと天気が良かろうと。
よしむね




