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政治 »
本日、石川議員ら小沢一郎の元秘書三人が起訴、一方で、小沢一郎は不起訴となった。
朝日新聞によると、起訴の中身はこうだ。
起訴状などによると、陸山会は原資不明の4億円を元手にして、2004年10月29日に都内の土地を約3億5200万円で購入。石川議員は大久保秘書と共謀し、04年分の政治資金収支報告書の収入に算入せず、土地代金約3億5200万円も支出に入れずに虚偽の記載をしたとされる。
池田元秘書と大久保秘書は共謀し、実際には04年に支出した土地代金を05年分の収支報告書に支出として記載。さらに4億円は07年に小沢氏に拠出されたが、同年の支出に記載しなかったとされる。石川議員と池田元秘書は容疑を認め、大久保秘書も両者から虚偽記載の報告を受けて了承したことは認めている。
それにしてもわかりにくい。初めて読んで理解できる人はほとんどいないだろう。
おそらく、記事の趣旨は、ただ、小沢さんや石川議員達がなんだか悪いことをしたという印象を持ってもらえばいいという感じの書き方だ。
しかし、よく調べてみるとようするに、陸山会で土地を購入した際に、小沢さんが立替え、その後に、銀行からお金を借りてその支払いのあてたというだけのことだ。だから、小沢さんからの借り入れと、返却を報告書に書かなかったのだ。
より、身近な例え話をすると、僕が会社にいたとき、着払いで荷物が届いた。ちょうど経理の人がいなかったので、自分が立て替えた。経理の人が帰ってきたので、領収書を渡して、立替分をもどしてもらった。その際の帳簿に僕の立替と返却を書かなかった、しかも、経理の人がたまたまその領収書を机の中に入れて忘れていて、次の月の会計に回した、というような話なのである。
確かに、記載が遅れたことは正確に言えば、問題なのかもしれない。ただ、今まではそれが訂正で済んでいたのに、今回の小沢さんの件だけは何故か、大ごとになった。
勿論、もともと持っていた4億円がどこから来たのかというのが今回、検察が探りたかったことなのだろうが、結局それはわからなかった。そして、石川議員は逮捕しちゃったから、とりあえず、起訴したということなのだ。
これを指して、秘書が起訴されたのだから、議員辞職すべきだというのは、まぁ正論としてはアリなのかもしれないが、それだったら今まで、何人の自民党の議員は収支報告書に「ウソの記載」をして、その訂正を行ってきたのかと逆に問いたい。
例えば、谷垣さんにしても、2003年に光熱費の2万円を書いていなくて後で訂正したではないか。厳格に言えば、これも「ウソの記載」をしたことになるのだ。
誰かが仕掛けたマスコミを使ったイメージ戦略とえばそうなのだろうが、あまりにも露骨で、稚拙だ。
まさむね
政治, 相撲/プロレス/格闘技 »
先日のエントリーで、小沢一郎は辞職して、ただの釣り好きの親父になるべきだということを書いたが、僕は一方で、彼にはしぶとく民主党幹事長、あるいは代議士を続けてもらいたいとも思っている。
勿論、それは僕が彼の無実を信じているなどということではない。それはいずれ明らかにされる、あるいは捏造される、舞台の向こう側の話だからだ。
最近、政治のニュースを見て、僕が不自然に感じるのはなぜ彼らはあんなにも毎日、闘っている、あるいは闘っている芝居をしているのだろうかということ。
そういえば、僕らの日常にはそういった戦いというものがない。ビジネスの世界でもライバル社と戦うのではなく、W-inW-inの関係を築くというのがブームなのかもしれない。微妙にこのW-inW-inという言い方が気持ち悪いのは気のせいか...
さて、おそらく、周囲の人に、「あなたは今、何と戦っていますか」とたずねてもほとんどの人は、何も答えられないだろう。あるいは、自分と戦っているといういうだろう。
ただ、自分と戦っているという人はおそらく、何も闘っていない人だ。
勿論、僕もそうだ。何とも自覚的に戦ってはいない。残念ながら。
話を戻す。僕が小沢一郎に辞職してもらいたくないのは、”権力にしがみつく老醜”というのも見世物として好きだから。それはちょうど、70年代にあった全日本プロレスのチャンピオンカーニバルでアブドーラ・ザ・ブッチャーが、優勝トロフィーを俺のものだとばかりに抱きかかえて舌なめずりをしたあのシーンを思い出す。
権力、名誉というものに固執する醜い男を表現することによって、逆に普通の庶民を精神的に安堵させるというのも、もしかしたら政治家の大事な役割かもしれない。
まさむね
政治 »
人間は自分自身の歴史を作るが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとで作るのである。
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものを作りだそうとしているかにみえる時、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間は己の用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである。
これは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中の一節である。
人間が世の中を変革しようとするとき、それは一直線にではない。それは必ず、蛇行するものだ。人間は意識しないがそれを行うのである。
小沢一郎という人物の歴史的役割は、選挙によって政権交代ができる、すなわち、日本を民意で政治を変えられるような国にすることだったのだと思う。
おそらく、数十年後から現在を見たとき、そんな人物として彼は評価(酷評も含めて)されると思う。
だから、彼の政策が「日本改造計画」時から、180度変化したことは当たり前のことなのだ。それは、常に反対側と逆のことをいうことによって、国民に選択肢をもたらすことを目的としているのだから。
90年代の彼は、小さな政府、自立した国民を政策の柱としたいわゆる新保守主義である。しかし、小泉政権によって、そのテーマが奪われると逆に、「国民の暮らしを守る政治」という大きな政府、国民に依存させる政策の道を進むようになった。それを指して、一貫性がないという人がいるが、確かに、そうだ。
しかし、いいのだ。彼の目的は政権交代が出来るような国にすることなのだから。
一方で小沢一郎は民主主義的ではないという。独裁者だという。しかし、僕ら一般の人から見れば、それはあんまり関係ないことだ。それでは、今までの自民党政治の時代は、僕らの意見は本当に政治に反映されていたのだろうか。僕らはその話しあいに一度だって参加などしたことがない。
いつも、官僚や政治家や財界、が談合して物事を決めてきただけだ。彼らの多くにとって、小沢一郎が独裁的に見えるだけであって、僕らからしてみれば、選挙で選んだ党が自分のやりたいことをやるという話にすぎないのだ。どこが悪いのだろうか。悪いとしたら小沢一郎ではなく、自分の意見を言わない人たちだろう。悪いとしたらね。
小沢一郎が独裁的だという人は、民主主義を談合主義だと思っているのだろう。それは日本的には民主的かもしれないが、はたしてどうなのだろうか。
しかし、僕は小沢一郎の歴史的役割はすでに終わったようにも思える。社会変革の第二段には彼の出る幕はないだろう。ここですっぱりと辞職すれば、それはそれで彼は男を上げると思うのだが、そうもいかないのだろうか。
モーニング娘。の名曲「ハッピーサマーウェディング」で中澤裕子が「だって、お父さんが『釣り好きの人には悪い人はいない』っていってたし」というせりふをいう箇所があるがあるが、小沢一郎は、ただの釣り好きの親父にもどればいいと思う。
まさむね
政治 »
民主党政権の施策について不満に思うことは、大きく以下の3点だ。たぶん一般的によく言われていることとかなり重なると思うのだけど。
①八方美人すぎて、結局なにをしたいのかよく分からないということ
②やや後ろ(下位、下から)目線が強すぎること
これは社会でわりと経済的には弱者に近いカテゴリーにあるような方々への配分を厚くしすぎているキライがあるように思えること。コンクリートから人へ、人に優しい施策ということかもしれないが、表現が悪いけど、貧乏人の子沢山の喩えではないが、子供手当てのような充実が今ほんとうに必要なのか。養育や教育費の問題は切実なのかもしれないが、長い目でみて本当はその人の始末と責任で育てているのに単に子供がいるというだけで上からお金をもらえるという安易さに居座ってしまうことにならないか。だいいちそんなに継続的に大判振る舞いできる余裕があるのだろうか。
やっぱり上への目線で、社会を引っ張っていく人たちや社会をうまく回転させる要因へのインセンティブをもっと効かせてゆく、その自律化をうながす施策の必要性があるのではないか。皆で並べば恐くないじゃないけど、でも本当に皆が下位に並んでしまったらどうしようもなくなるだろうと思うのだが。どうだろうか?
③やっていることがどうも一貫していないようにみえること
たとえばせっかく事業仕分けをしても、それがそのまま最終的に各省庁の予算削減で通ったわけではないらしいという事実。二重の結果。そうすると、われわれ第三者からみると、どこにほんとうの判断基準があったのか、最終の決定者が誰だったのか、事後まったく分からないことになってしまう。
閑話休題。それはそれとして、小沢一郎についてしつこいくらいの検察の捜査と報道が続いている。先週土曜日には小沢本人への事情聴取とその後の会見も行われている。結局その真偽は分からないし、小沢一郎に嘘がないといえるかも分からない。小沢一郎は正しくないかもしれない。しかし、この一連の捜査と報道のあり方は異常だと思う。
長く時の政権の中枢にあった自民党議員のほうが、政治献金の効果という視点からみても、たかが最近政権の座に着いた民主党議員よりもよほど多くを享受してきたのは普通に考えてもまったく当たり前のことではないかと思うのだ。この事件のかなめは標的として取り上げられるかどうかという恣意性以外の何ものでもないように思えてならない。小沢一郎よりも、だ。たとえば元首相の方々などもふくめて、大物はもっと沢山いるのではないか。そうした関連への捜査が行われている気配がなく報道もなされず、一方的に小沢捜査とそれをめぐる報道のみがあるという構図はどこか空恐ろしい。
現代日本では、けっきょく小沢一郎的なものが具現するものを、嫌いな人たちが大勢いるということなのだろう。彼らの思いとは何か。とにかく今までと変わらないこと、変わりたくない、ということ。既得権益にしがみついてきた人たちが、とにかく従来のやり方を変えようとしている小沢一郎に必死に抵抗しようとして追い討ちをかけているのかもしれない。そこには軍産一体化を背景にしたアメリカの意向などもあるかもしれない。
改革とか変革とかキレイごとをいっても、日本はやはり変わりたくない(=今のままでい)人たちが大勢いる社会だということなのだろうな。
よしむね
政治, J-POP »
いろんな音楽ヒットチャートがある。
オリコンの週間ランキング、ミュージックステーションでのランキング、CDTVランキング…
しかし、最近は、CDの売り上げだけではなく、着うた、着うたフル、itunesなどのダウンロードランキングの要素もあり、ヒット曲というものの性格が変わってきたのは確かだ。
以前のようなCD(パッケージ)のミリオンセラーが全くでなくなってきた。
『千の風になって』がヒットしたのが、2006年だから、あれから3年間もそういった類のヒットがないということになる。おそらく、これからもよほどのことが無い限り、ミリオンヒットというのは生まれないのだろう。
残念なことではあるが、それが時代の流れというものだ。
さて、そんな中で僕が注目しているランキングが、携帯のDAMのカラオケランキングだ。
例えば、(12.20~12.26)のランキングを見てみよう。
順位
楽曲名
アーティスト名
今年
紅白
1位
ふたつの唇
EXILE
◎
2位
白い恋人
桑田圭祐
3位
春夏秋冬
ヒルクライム
◎
4位
もっと・・・
西野カナ
◎
5位
粉雪
レミオロメン
◎
6位
キセキ
GReeeeN
7位
Ti Amo
EXILE
8位
Lover Again
EXILE
9位
Love Forever
加藤ミリヤ×清水翔太
◎
10位
いちょう
遊助
◎
これは直近の週間ランキングであるが、けっして、最新のヒット曲だけで占められているだけではない。
今年発表された曲は「ふたつの唇」「春夏秋冬」「もっと・・・」「Love Forever」「いちょう」の5曲。ちょうど半分だ。
勿論、季節が季節だけに「白い恋人」「粉雪」などが上位に来ているが、これは、このサイトのトップページに推薦曲として貼られていたためだ。しかし、それにしても、これらの曲は、若者の間で歌い継がれている曲だ。
僕はここのランキングにのるような曲こそが、「広く」という以上に、「深く」根付いている楽曲として評価したいと思っている。
それは、これらの曲は、多くのユーザーがいわゆる「自分の曲」として歌いたい曲だからである。ある意味、真のヒット曲といえると思う。
例えば、9位の加藤ミリヤ×清水翔太の「Love Forever」。これは、今年の5月、僕がちょうど「w-inds.とモーニング娘。どちらが勝っても嬉しいし悔しい僕」というエントリーでw-inds.の「Rain is fallin’」とモーニング娘。の「しょうがない 夢追い人」のトップ争いについて書いたと同じ週に、発表された曲だ。その週には上記、2曲の後塵を拝したのだが、見事、この時期にまで歌い継がれている。本当に勝ったのは、この曲だったかもしれない。
さて、そんなこれらの名曲達だが、残念ながら、今年の紅白歌合戦には、EXILEとレミオロメンと遊助の3組しか選ばれなかった。しかも、そこで歌われる予定の楽曲で、このベスト10に入っているのは、レミオロメンの「粉雪」だけなのだ(EXILEは「Someday」、遊助は「ひまわり」)。勿論、GReeeeNや桑田さんなどは、紅白出場を「丁重にお断り」したのだろうが、それにしても、ヒルクライムや西野カナなど、僕の中では今年の世相を反映した名曲が選に漏れているのが不可解だ。
NHKも紅白の視聴率を気にするのならば、まともに人選、そして選曲をすべきではないが、ちなみに、和田アキ子という既得権益者が、初出場の「NYC boys」に関して、「私は知らない」と毒づいたらしいが、僕などは逆に何故、この人が紅白に出れるのかを聞きたかった。
それでは、何故、「春夏秋冬」(ヒルクライム)と「もっと・・・」(西野カナ)が今年の世相を反映しているのか。
今年は、おそらく、民主党が政権を奪取した年として、後世から記憶されるだろうが、民主党の政策の大きな柱である内需拡大政策、それが「春夏秋冬」と連動しているのだ。日本の四季折々の風物を車や電車で彼女と一緒に旅行しようという国内旅行推進ソングなのだ。そして、彼女と長い時間を共有して幸せを築こうという、誠にもってこじんまりとした価値観を歌った曲なのである。歳を取るまで一緒にいようという姿勢は、湘南乃風の「純恋歌」やGReeeeNの「愛唄」にも通じる、地方在住土着層の心情を表しているが、歌詞の内容がさらにストレートに相手に語りかけるようになっているのが特徴だ。
ちなみに、ヒルクライムは新潟県出身のヒップホップユニットであるが、今年は、NHKの大河ドラマで「天地人」でも、新潟が舞台になったし、夏の甲子園大会では、大会史上初めて新潟県勢(日本文理)が決勝に進出した。今年は新潟県の年だったのかもしれない。
一方、西野カナの「もっと・・・」は、加藤ミリヤの「AITAI」やMISIAの「逢いたくていま 」と同様、ストレートな歌詞がここまできたのかという究極的肉食女子曲である。とにかく、一曲を通して、自分の気持ちだけを延々と歌っているのだ。
今すぐ会いたい もっと声が聞きたい
こんなにも君だけ想ってるのに
「もっと・・・」(西野カナ)
会いたい会いたい会いたい会えない
私だけを見て欲しいよ
「AITAI」(加藤ミリヤ)
今 逢いたい あたなに
伝えたいことが たくさんある
ねえ 逢いたい 逢いたい
「逢いたくていま」(MISIA)
そこには、状況というものが一切描かれていない。自分の欲望だけなのだ。例えば、90年代の小室哲哉の詞には、少なくとも、歌の世界がどんな状況なのかが描かれていた。浜崎あゆみの詞には、内面の苦悩の物語が歌われていた。
しかし、これが、2009年の特徴なのであろうか。ここには、歌われている女性の客観的な状況の描写どころか、相手すら見えない盲目な欲求しかないように思える。
もっとも、このあまりにもストレートな表現というのが、若者の台詞だけだったら、それはそんなこともあるだろう。あのジョン・レノンにしても、オノ・ヨーコとの恋愛中には、「I Want You」というただ、「欲しい、欲しい」というだけのブルースを作っているのである。
しかし、この西野カナ的な「曖昧なセリフじゃもう足りないから」という余裕の無いストレートさは、時代の雰囲気として大人の世界にも共通している。とにかく、わかりやすければいいという風潮が見え隠れしてはいないか。
今年、衆議院選挙で政権の座を降りたとはいえ、長年、日本の保守政治の中心にいた自民党が12月に発表した党綱領の「政治理念・政策の基本」の項目にはこんなことが掲げられていた。
(1)品性ある国民、品格ある日本
(イ)頑張れるものは頑張る
(ロ)それでもだめなら皆で助ける
(後略)
(2)不必要なことをせぬ政治
(イ)自分だけ良ければ良いのではない
(ロ)今だけ良ければ良いのではない
(後略)
これって、「ようするに、これってそういうこと」というのをいきなり書いてしまったような文章なのだ。確かに、難しい言葉を並べればいいというものではない。しかし、ここには格調もプライドも美も無い。
これって、小学生への諸注意か!?
最近、僕がよく読んでいる内田樹先生は「言いたいことは言葉のあとに存在しはじめる」というエッセイこう言っている。
リアルなのは言葉だけである。言葉の向こうには何もない。けれども言葉は「言葉の向こう」があるという仮象をつくりだすことができる。
「言葉以上のものがある」と信じさせることは言葉にしかできない。それが言葉の力なのである。
どうすればいいのか、にわかにはわからないが、明らかにいろんなものが変わってしまったのではないだろうか。
まさむね
政治 »
先日、日経の国際・アジア研究グループ主任研究員をしている大学時代の友人と飯を食った。
彼の話によると、中国と日本とではすでに経済的な勝負はついてしまったという。
確かに、地力という意味で言えば、10億の人口と広大な国土を持つ中国と日本とでは、長い目で見れば勝負にならない。
例えば、経済力の一つの指標であるGDPで言えば、来年、中国は確実に日本を抜く。
そして、今後、日本は中国に依存しなければ生きて行けないような立場になる。
いい、悪い、好き、嫌いは別にしてこれも確実だ。
先日、小沢一郎が衆議院議員140名を引き連れて胡錦濤詣出をした。さらに、次の主席と目される習近平副主席を天皇陛下と半ば強引に会見させるという一連の動きがあったが、もろもろを四捨五入して、あれも、将来の日本のためと言わざるを得ないのかもしれない。
それに対して、各方面から様々な批判があったが、その多くの批判が、おそらく日本が置かれている立場に対する現状認識の甘さから来ているように感じられる。
日本は既にかつての日本ではないし、中国はかつての中国ではないのだ。
先の友人も言っていた。中国の日本に対する憧れの視線は既に無い。中国の目は明らかにアメリカに向いている。日本は今、今までのような大国路線で行くのか、小さくても存在感のある独自の道を選ぶのか、その選択肢を迫られている。彼自身の見解としては、日本は大国である必要は、もう無いのではないかということだった。
さて、話はかわるが、先日、日銀の白川総裁がWBSに出演していて、今の日本経済に関して必要な施策として、大きく言えば、規制改革、労働市場改革、セーフティネットの整備の3つが必要との話をされていた。今後の日本人の生活レベルを現状維持していこうとの前提に立てば、それは至極、真っ当な意見だ。
しかし、民主党政権は、三番目のセーフティネットの整備は別として、後の2点に関して、明らかに別の方向に舵を切ろうとしている。白川総裁とは別の方向を向いているのだ。ということは、日本という国を、人々が気づかないくらい、少しづつ沈ませようとしていると考えるしかない。
おそらく、事業仕分けという舞台は、やる気と才能のある人々を海外に追い出すためにの儀式として必要なのだ。これは皮肉で言っているのではない。最近の若者はあらゆる面で意欲が無いというが、彼らも今後の日本の進むべき方向を無意識的に選択しているのではないだろうか。そして、若者だけではない。日本には大国主義を捨てて、世界の第一線の競争から降りて、独自の幸せを追求する社会主義の国にすべきという人が徐々に増えてきているのかもしれない。
だとしたら、民主党政権が、まず、すべきなのは、白川総裁の真っ当さに対して、「それはこれまでの日本を続けるには正しい選択であるが、多くの国民は、それを望んでいないようです。徐々にみんなで沈んでいくような幸せな安楽衰退を望んでいるようです。競争をして、よりよい生活をしたい人は、中国やシンガポールに行っていただきます。」という明確な意思表示をすることだ。
そして、その意思表示して初めて、その安楽衰退に賛成するのか、それとも、それでも日本は競争をつづけ、世界の一等国にとどまり続けようとするのか、という二者択一が真剣な論争になっていくのだ。
一番まずいのは、口では日本の成長を言いながらやっていることは衰退を促進しているというようなゴマカシだ。
小沢一郎もここまで憎まれ役を買って出たのなら、ここは一つ正直に、一番言いにくいことではあるが、「これから、民主党は日本衰退路線で行きますがいいですしょうか」との問いかけを国民にしてしてほしい。
それが実力者にふさわしい、彼の唯一の仕事だと思う。
まさむね
政治, 歴史・家紋 »
内田樹氏は『日本辺境論』(新潮新書)の中でこう語っている。
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います。
そして、さらにあとの部分ではこう語る。
辺境人の宗教性は独特のしかたで構造化されています。辺境人はこんなふうに考えます。私たちの外部、遠方のどこかに卓越した霊的センターがある。そこから「光」が同心円的に広がり、この夷蛮の地にまで波及してきている。けれども、その光はまだ十分には私たちを照らしてくれてはいない。
勿論、ここで言っている辺境人とは日本人のことだ。そして、ここでは宗教に関して語っているが、日本人にとっては、それは文化一般にも言える。日本人にとって、真理や叡智や美は常に海の向こうにあるというのはおそらく真実だ。
そして、その海の向こうに憧れを抱く時、実は、日本人が一番光っている時なのである。
古くは「古事記」において、大国主命(オオクニヌシノミコト)は海のかなたからやってきた少彦名(スクナヒコ)の知恵と技術の協力を得ることによって、はじめて、日本の国作りを完成するのだ。
また、山幸彦が海幸彦から借りた釣り針を探しに海底にある綿津見神の国に行き、そこの姫・豊玉毘売神(トヨタマヒメ)と結ばれる。さらに、その子・鵜茅不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)は、豊玉毘売神(トヨタマヒメ)の妹の玉依姫神(タマヨリヒメ)と結婚し、カムヤマトイワレビコを生み、彼が後の神武天皇となるのだ。
ようするに、神武天皇の祖母、母と2代にわたって母系に海の向こうの「血の力」が必要だったということだろう。
さらに、時代が下り、奈良時代の鑑真和尚。海の向こうから仏教の戒壇をもたらし、平安時代になると、伝教大師、弘法大師の二人が密教を持ち帰る。
遣唐使が廃止された後には、さらに海の向こうは理想化され、補陀洛渡海(ふだらくとかい)、西方浄土という思想として、海の向こうはさらに神格、理想化される。折口信夫がいう日本土着のマレビト信仰はこれらの変種に他ならない。
この流れは、武士の世の中になっても、清盛の宋に対する、義満の明に対する、信長のヨーロッパに対する憧れとして続いていく。その後、江戸時代には鎖国をするのだが、黒船来航、明治時代から、第二次世界大戦をはさんで、昭和の時代一杯、日本人が光り輝いた時代にはいつも「海の向こうへの憧れ」があったことが確認できるのである。
最近、僕は、塩澤幸登氏の『平凡パンチの時代』(河出書房新社)というドキュメンタリを読んだ。この本は、平凡パンチが一番輝いていた60年代へのオマージュがつまった力作だが、あの時代、日本の若者のエネルギー源の一つに、ベトナム反戦運動、フリーセックス、ウーマンリブ、ヒッピーカルチャー等、アメリカ文化への憧れがあったということが見事に描き出されている。
1960年当時の日本人の夢と希望は、まさに海の向こうにあったのである。
それは、ちょうどNHKの歴史ドラマとして始まった「坂の上の雲」の時代、海の向こうへ追いつき追い越すことを全国民的パワーにし得た明治時代と同様、活気ある時代だったのだ。
しかし、「坂の上の雲」を目指して上を向いて進んだ時代が、第一次世界大戦を越えたあたりから、謙虚さを失い、傲慢になり、国際的な孤立を深めて太平洋戦争に突入していくのとパラレルに、60年のパワーは、~80年代のジャパンアズナンバーワンの時代で経済力も傲慢な心も頂点を迎えるが、その後のバブル崩壊によって、昭和とともに消えてしまうのだ。
やはり日本という国は内田樹氏が言うように、世界の辺境に住む者として、とことん辺境人で行くしかないのであろうか。
そして、辺境人としての「憧れ」と「謙虚さ」を忘れないでいることが日本人にとって最も大切な倫理であり、生き方なのであろうか。
しかし、最近の日本の一人負け状態の不況、気の遠くなるような借金、日米首脳の微妙なズレ、本当の危機を伝えないマスコミ...そして、それでも世界の一流国という幻想から目を覚ませない、どうしても謙虚になれない日本人。
これから僕らは、一体どうなっていくのであろうか。
そういえば、先ごろ、小沢一郎民主党幹事長が、総勢140名の国会議員を引き連れて中国共産党へ「朝貢」をした。そして、その見返りとばかりに、中国の副首相を天皇陛下に強引に会わせるという力技を見せた。さらに、韓国では、外国人地方参政権の来年の通常国会での提出を公言してきたとも言われている。
確かに、彼の一連の行動は、いつまでも世界の一流国でありたい僕ら日本人の神経を逆なでするようなものであったと言えなくもない。
しかし、一歩引いて、鳩山氏の迷走ぶりや、小沢氏の行動を最大限に善意に解釈するならば、それは現在の日本が国内外で置かれている危うい位置を、強引に納得させるための、彼ら一流の荒業的デモンストレーションなのかもしれない。
本当にヤバイところにまで来ないと目が覚めないという日本人のもう一つの特徴を逆利用しようとしている...というのはうがちすぎか。
まさむね
政治 »
経済対策の7.2兆円が決定したようだ。
亀井金融担当大臣がゴネた結果、1000億円の土建屋へのバラ巻きが乗せられた。勿論、財源は国債である。
今年度の国債発行額見通しは、53.5兆円という。僕らには想像も出来ない金額だが、税収の1.5倍という多さだ。
なんということだろう。民主党は、無駄を省いて財源を確保するのではなかったのか。
選挙前に調子のいいことを言って、結局は借金か。
これは緊急措置だというが、そんなことをいつまで続けているのだろう。
雇用調整助成金で、社内失業者を雇い続けることに将来的な意味はあるのだろうか。それよりも、雇用の流動性を高めて、失業してもすぐに再就職できるような社会にすべきではないのか。それこそ、成長戦略ではないのか。
既に、過去のものとなってしまった人材過剰のゾンビ業界に税金で中高年の正社員をしがみつかせて、日本にとって、社会にとって本当にいいことなのだろうか。
割を食う若手の非正規労働者はいつまでもスキルが身に付かず、キャリアも積めず、歳ばかりとってしまう。
城繁幸さんに聞くまでも無く、そんな不公平な社会がいいはずがない。誰が考えてもわかる話だ。
日本の借金に関して、財務省のHPの一コーナー「日本の財政を考える」を覗いてみた。あきれた話というのはこういうことを言うのだろう。
まるで他人事なのだ。
わが国の厳しい財政状況を放置すると、さまざまな問題が生じ、国民の皆さんの生活にもおおきな影響を与えかねません。・・・(中略)・・・さらに、借金はやがて税金でかえさなければならず、公債発行による借金は、将来世代への負担の先送りにほかなりません。私たちの子供や孫といった世代が、借金の返済に苦しむことになるのです。
確かに作文としては100点かもしれない。言っていることは正しいのだろう。ただ、責任感が全く感じられない。僕の理解が正しければ、簡単に言えば、財務省というのは、各省から上がってきた予算案を吟味して、赤字にならないようにやりくりするところではないのか。「しかたがなくて借金だらけになりました。このまま行くと大変で~す」では、今まで何をやっていたというのか。ノーパンしゃぶしゃぶや居酒屋タクシーどころの騒ぎではない。今まで全く仕事をしていなかったと言われても仕方がないのではないか。
民主党も民主党だ。そんな官僚の甘え体質をなんとかするというのが公約だったのではないか。
僕は今でも鳩山首相の施政方針演説の「自立と共生」を評価しているが、共生はともかく、自立を促すような政策が今まで全く見られないのはどうしたものか。
国民をどんどん依存体質にさせるようなことばかりしている。全く、僕の期待とは逆だ。借金をして金をバラ巻くことなど誰にだって出来る。僕らが望むのは知恵をしぼって、具体的な成長戦略に基づいき、将来、役に立つような投資をすることだ。
その意味では、今回の民主党の凡庸な経済対策よりも、麻生元首相が打ち出した国立「アニメの殿堂」の方がまだましだったような気がする。
話は変わるが、9日はw-inds.のニューシングル「New World」「Truth」のCD発売日だった。
この「Truth」でw-inds.は素晴らしいメッセージを投げかけている。
だって、もう放っておけない事実。
根拠なく「大丈夫」と言い合って
曖昧にしてきた結果が現在(いま)のすべて。
愛も資源も有限 we must waste’em
現実なんて矛盾で構成されてる
でも目の前にある”問題”にはまず取り組んでみなくちゃ
解決できなくても後回しにもうしない
草の根分け、打て”対策”を・・・
w-inds.の方が、鳩山首相よりもよっぽどわかっているではないか。
わかる人はわかっている。
金をバラ巻いても日本経済は決してよくならないことを。
人々の生活が決してよくならないことを。
喩は古いが、「八時だよ全員集合」だったら、既にいかりや長介が「だめだ、こりゃ」って言って、
ちゃちゃか♪ちゃっちゃかちゃっちゃ♪っていう音楽とともに、舞台は回ってるよ、今頃...
まさむね
テレビドラマ, 政治 »
科学技術の事業仕分けに遭遇して、大学の総長たちが集まって危機感の表明会見を行おうと、ノーベル賞の学者先生があつまって反対意見を述べようと、そこに欠けているのは、ではあなたたちは大学教育をどう考えているのか、どうありたいのですか、技術立国というなら、あなた方はそのあるべき姿についてどうデザインしているのか、まずそれを大上段に愚直に常日頃から発信してほしいということだ。…(中略)…だが、ぼくらの目に映るのは、まずもって「これ以上削られたらもう大変なんだ、大変なんだ、競争できなくなるんだ」という大合唱の光景のようにしかみえない。
科学技術が明日の日本にとって大事だというような大命題は、誰も反対はしないだろう。それはそうだ。
しかし、一方で、よしむねさんが「たしかにガラパゴス化した国で皆が子泣き爺になっているようだ」で述べている上記のように、あの場面、彼らのみっともなさは筆舌につくしがたいものであった。
大学の学長達の姿にはおおよそ知性も、戦略も、そしてプライドも感じることが出来なかった。あれは、ただの物乞い的な脅迫に過ぎない...というのは言い過ぎだろうか。
大体、みんなで集っての記者会見という発想が情けない。
しかし、百歩譲って、その集いが国立大学の面々だけなら自分もまだ我慢が出来たかもしれない。元々彼らは国の予算の中で、国のために研究する機関だからだ。そういった旧帝大という明治以来の遺伝子が脈々と生きていたとしても、それはそれでしかたがない。僕がさらに違和感を感じたのは、その旧帝大の学長連中の末席に加えてもらったかのように同席していた(自称)私学の雄・早稲田と陸の王者(笑)慶応の学長と塾長の体たらくだ。彼らがリーマンショックでドブに捨てたといわれる何百億円のことを納税者の僕らは忘れたとでも思っているのだろうか。
そもそも、福沢先生が設立した慶応義塾は「独立自尊」を旗印にしていたのではなかったのか。大隈先生が創った早稲田は「学の独立」を謳っていたのではないか。あのような姿をさらすのなら、今すぐに学校に帰って「慶応賛歌」や「都の西北」の歌詞を「独立自尊」から「従属依存」へ、「学の独立」を「学の服属」に書き変えて欲しい。おそらく、そう思った両大学の心あるOBは沢山いたのでないだろうか。
先週土曜日、あの事業仕分けの科学技術予算削減勧告直後に放送された「報道特集」を見た。今回の結果を受けて、現場の人々がどのような感想を持ったのかがよくわかった。仕分け人の「生活保護」という言葉に敏感に反発していた20代の研究者のとまどい、3人の子供の母親研究者の心配、時代遅れになった巨大技術施設の管理者の諦めなど...
しかし、一見、かわいそうな彼らではあるが、暴論を覚悟で言えば、結局、好きでやっていることだろう。今の時代、何かを得られれば何かを捨てなければならないのは当然だ。
「科学技術予算を削減すると日本は没落する」という脅迫によって生き延びようとしているという点で言えば、残酷なことにも、悪名高き独立法人の天下り連中と一蓮托生なのだ。
はたして、僕らが直面している問題は、どこかにいる悪いヤツ、ズルイヤツを退治すれば、それで解決するのだろうか。
そういったことを改めて考えさせてくれただけでも事業仕分けは画期的だったと僕は思う。
さて、日曜日に放送された「JIN-仁」。ちょうど予算を削られそうになって大慌ての大学の学長達に見せたい内容だった。ペニシリンを作るためにどうしても四百両が必要となった21世紀の現代からタイムスリップして幕末にやってきた医師・南方仁(大沢たかお)と、それを助けようとする坂本龍馬(内野陽聖)、旗本の橘恭太郎(小出恵介)とその妹・橘咲(綾瀬はるか)、そして花魁の野風(中谷美紀)達の命を賭けた想いと努力と行動力。
この話を、ただのフィクションという人は恐らく何もわかっていない。問題は、今、僕ら日本人に必要なのは、共有すべき強固な物語である。そして、その物語を創ろうとする努力も見られず、ただ物乞い的な脅迫をするしか知恵のない学長達にどうして明日の日本を任せるための膨大な科学技術予算など預けられようか。そして、そんなクレクレタコラ達に共感など出来ようか。
まさむね
政治, 社会問題 »
まさむねさんが「デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在」で書いているように「事業仕分けの流れでも明らかなように、これまでの日本はあまりにも公共的なバラマキ予算で食べてきた人が多すぎたということなのである。そして、その結果としての900兆円の借金なのである。社会の役に立つ仕事をしていたと思っていた多くの”善意の人”が、実は政府に食べさせてもらっていただけの”子泣き爺”(=お荷物)だったということが白日の下にバレてしまったのだ。」という感想にはぼくもまったく同感だ。
昨今の報道のサマを見ていると、国民の側も報道する側も、税金を取られるほうも取るほうも皆が皆でまとまって、国全体がもう病的なまでにお金の取り合いのことを考えるしかないような袋小路に追い詰められているようにみえてならない。清貧の思想が良いとは思わないが、どこかに、凛として、節度あり、いわゆる自分の分をわきまえ、ほどほどを知る、という引き算の姿勢があってもいいような気がするし(この主題についてはいつかまとまってまさむねさんと一緒に考察してみたいところだ)、一方もっと大きな視点で、つねにどこかに全体最適から考えていくような発想が抜け落ちていると、必ず瑣末な論議の積み重ねで、どこにも出口のない堂々巡りに落ちてゆくことになりかねないとも思えるからだ。
そもそも事業仕分けの前半戦をわりと好意的に報道していたTV局の姿勢も、後半のいわゆる科学技術の事業仕分けに入ってきた段階で、その報道姿勢をやや批判的なトーンに変えだしてきている。ムダの一掃とばかりに、いわゆる科学のような「現在」の役に立たないものを「ムダの視点」だけで切っていいのか、将来の発展のためにはムダもまた必要なのではないかという論調だ。
だが、民放に代表されるTV局自体がいわゆる長年の電波行政の規制の御蔭で競争にさらされることもなく格段に高いサラリーを享受できてきた業界であり、まさにそれこそ事業仕分けの対象にふさわしい存在だろう。さすがに昨今は景気低迷の影響もあり広告収入の大幅な落ち込みと番組の質と視聴率の低下、ネット広告の脅威などで安閑としてはいられなくなってきているようだが。
ここで問題にしたいのは、その報道の仕方に首尾一貫したものがなく、場当たり的なことなのだ。もちろん何が正しいかは確かに誰にも分からないが、たとえば事業仕分けについていうなら、とにもかくにも、そのテーマにかかわりなく聖域なく皆の前で議論する機会になっていることは以前の政治風土よりは良しとするような一貫した評価の姿勢があってもいいし、その逆に批判し続ける姿勢があってもいい。要は、マスコミ自体にはもうまったく主体性がなく、その時々でいいといってみたり、悪いといってみたりする傾向があまりにも強すぎるのだ。近年はその傾向に拍車がかかってきているように思えてならない。
皆が子泣き爺になっているこの国で、たぶんいまもっとも必要なのは、全体をデザインする力=構想力=グランド・デザイン力なのだと、ぼくは個人的に勝手に思っている。それを愚直に発信していくような場こそが必要だと思う。なぜ日本でiPhoneが作れなかったのか。iPhoneを構成している電子部品のほとんどは日本製だったのに、というあまりにも有名な命題・疑問。その答えもまたあまりにもしばしば言われすぎていて、今更繰り返してもしょうがないかもしれないが、日本にはそれを作りあげる構想力を持った人がいなかった、アップルのスティーブ・ジョブスがいなかった、というのがその一番の答えだということに尽きるだろう。
科学技術の事業仕分けに遭遇して、大学の総長たちが集まって危機感の表明会見を行おうと、ノーベル賞の学者先生があつまって反対意見を述べようと、そこに欠けているのは、ではあなたたちは大学教育をどう考えているのか、どうありたいのですか、技術立国というなら、あなた方はそのあるべき姿についてどうデザインしているのか、まずそれを大上段に愚直に常日頃から発信してほしいということだ。その一環で予算削減について批判的に述べるのならそれはそれでいい。だが、ぼくらの目に映るのは、まずもって「これ以上削られたらもう大変なんだ、大変なんだ、競争できなくなるんだ」という大合唱の光景のようにしかみえない。これで生活している研究者たちの暮らしをなんとか支えてほしいという願いが透けてみえるようで悲しい。科学する心の大切さを漫然と話されても心には響かないのだ。
そもそもの何の疑いもないかのように、日本を技術立国と呼ぶこと自体があやしいものだとぼくは思っている。技術立国と呼んでいるその根拠について話せる人がどれだけいるのだろうか、なにをもって技術立国と定義しているのか。ハイテクの先端である半導体や液晶ディスプレイ産業を例にとるなら、製造業としての日本はもう上位の座を韓国、台湾のメーカーに奪われており競争力を失って久しい。携帯電話然り、PC産業然りである。かろうじてその川上に位置する部品産業はまだ競争優位を保っているようだが、需要の盛衰という意味では完全に新興国であるBRICs頼みの構図となっている。
ニホン人の多くが日本でしか通用しない規制に守られて、日本というガラパゴス島のなかで独自の進化を遂げ、独自になんとか生きてきたが、今、それが壊れつつあり、多かれ少なかれみんなが子泣き爺と化して既得権益にしがみつこうとしているのだ(悲しいかな、ぼくもその一部に含まれているのだろう。)
かつて幕末の志士たちにはなによりも次の時代をどうしようかという構想力があったと思う。それがいいか悪いか、正しいか正しくないかは別にして。デザイン力だけはみずみずしいまでに溢れていたと思うのだ。今の日本にはそれがない、というのはとてもさびしい。ものづくり、よりは、むしろデザイン力の復権こそ、とぼくは言いたい。
よしむね


