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[31 1 月 2012 | No Comment | | ]

1月15日の報道ステーションサンデーにおける橋下徹市長の山口二郎北大大学院教授に対する圧勝を受けて、27日深夜の朝まで生テレビでは、さらに、橋下市長を批判する面々(精神医学者の香山リカさん、社会学者の薬師院仁志教授、共産党の山下芳生参院議員など)による弔い合戦的討論が展開された。
しかし、結果から言えば明らかな「返り討ち」であった。
僕が見たところ、橋下市長は、反橋下陣営の面々に比べて、経験でも、論理でも、知識でも、下準備でも、頭の回転の速さでも、弁舌でも、顔でも、器でも、人間的魅力でも、とにかくあらゆる面で上回っていたように見えたのである。
前回の山口教授との対論に関するエントリー(橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~)でも書いたが、橋下市長が主張していることはあまりにも「普通」のことであった。しかし、それが、何故か日本では「悪」と思われているようなことなのである。
単純に言ってしまえば彼が主張しているのは、全ての物事の決定のプロセスを以下のようにするシステムを作ろうということだ。
ある政治的問題が起きる⇒議論を尽くす⇒決定権者が(時に多数決で)決定を行う⇒実行する⇒政策の結果が出る⇒市民が選挙で決定権者を審判する
ところが、現状は以下のようになってしまっている。それは、大阪府や大阪市だけではなない。おそらく、日本中が、そうなっているのではないかと僕は想像する。
ある政治的問題が起きる⇒談合が行われる⇒形式的な議論をする⇒妥協案(=金銭的手当て)が通る⇒問題が先送りになる⇒公共の借金が増える
勿論、経済が右肩上がりで、財政に余裕のある時は、従来の解決方法で問題はなかった。そして、それがゆえに、昭和の古き良き時代、こうした談合民主主義(=日本型民主主義)は生きながらえてきたのである。
しかし、バブル崩壊から、山一ショック、リーマンショック、311震災などを経て、いつまで続くかも判らない平成不況の渦の中、日本人は誰もが、これまでの決定方法ではダメだということがわかってきた。そして、インターネットによる新しい情報の流れは、そんな人々の了解を後押しした。
勿論、僕自身、古いもの、日本独自のものに対しては人一倍愛着があり、改革によっていつの間にか古き良きものが無くなってしまうことに懸念を感じないわけではないが、優先順位の問題として、日本は、現在こそ、「普通」の民主主義システムにギアチェンジすべきときだと思っているのである。
さて、先の朝生の討論について話を戻す。よくよく議論を聞いていると、反橋下論者達は、決して橋下市長が唱える大阪都構想に反対しているわけではないようであった。ただ、彼の手法が、独裁的で危険な臭いがすると言っているだけなのである、あるいは、ただ、彼が気に食わないと言っているだけなのである...というように僕には見えた。
橋下市長のディベートが上手なのは、そうした彼らが抱く「橋下は相手の言うことを聞かない」というイメージ(それを彼らはファシズムに掛けて「ハシズム」と呼んでいる)を一瞬にして逆手に取るその「返し技」がゆえなのである。
(僕は番組を一回しか見ていないので、以下は、あくまで記憶の中での話であることをご了解下さい)
ある論者が「大阪都構想というキャッチフレーズはあまりに単純化しすぎ」だと批判する。
それに対して橋下市長は「じゃあ、あなたはどうしたらいいとお考えですか。」と切り返す。
当然、その相手はただ、市長を批判したいだけなので、具体的な案など持っていない。一瞬、言葉につまる。そして、困る。なにせ、番組は全国放送だ。
そのスキに、橋下市長は、大阪都構想が必然的政策であることをスラスラと説明する。
相手は、何もいえなくて困っていたもんだから、橋下市長の言う事をさえぎるどころか、(むしろ内心、安心して)聞く立場になってしまうのである。
つまり、論者にしてみれば、橋下市長に対する「相手の話を聞かない」という批判がデマであったことが、自分が「噛ませ犬」となりながら証明されてしまうと同時に、橋下市長の主張の方が説得力を持っているということが、(そして、批判者たちの方が実は何も考えていなかったのだということが)視聴者に対して瞬時にアピールされてしまうのである。
おそらく、多くの論者にとって、ガチの論戦というのはそれほど、慣れた場所ではない。今までの朝生にしても、結局は、「あの人はこういう」ので、「私はこう返す」、論理が平行線になって怒鳴りあうと田原氏がCMを入れる、といった予定調和的な討論プロレスに過ぎなかったということである。
勿論、多くの視聴者はそんなことは百も承知で見ているのであろうが、橋下市長の登場は、そんなプロレスリングに、突然、格闘家のヒクソン・グレイシーが現れたような、そんな鮮烈さがあったように僕には見えた。
そして、それはちょうど、先に述べたような、橋下市長が目指す『談合民主主義(プロレス)から、「普通」の民主主義(格闘技)への移行』とパラレルなところが、僕にとっては面白かったのである。
さて、話をさらに変える。「橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~」というエントリーのコメントにも書いたのだが、僕は橋下市長のこういった民主主義のルールを正すことが自分の役割だという認識は、小沢一郎氏の発想に酷似しているのではないかと思っている。
ただ、小沢氏の場合、「普通」の民主主義を実現するための多数を獲得する手法があまりにも旧態然としていたこと、そして、ディベートがそれほど得意ではないこと、それがゆえに、既得権益者だけではなく、多くの国民にも、全く人気がない(一部の熱烈な支持者は別にして)という意味で、橋下市長とは全く別モノのように見られることも多いが、僕は本質的には、橋下市長は小沢氏が目指す方向と同じ流れにあると考えている。
その証拠に、橋下氏は、大阪都構想のシステムを作った暁には、その職を辞して、別のステージに行くことを宣言している。そのステージが国政なのかどうなのか、現時点ではよくわからないが、自分の役割をシステム創りと規定するその姿勢は確かであろう。それゆえに、僕は、橋下氏が組むべきは、石原氏や亀井氏ではなく、(民主党を抜けた)小沢氏であるべきだと思っているのである。
最後の一言。
歴史と言うものは、なんども挫折しながら、ジグザグで進まざるをえないものである。時に、マルクスが言ったように「思うようには創れない」ものだったりもする。そして、その評価は後世からしかできないものでもある。
よく、橋下市長の「君が代起立問題」に対する態度をして、彼を愛国者というようなことを言う人がいるが、僕は、そういった表面的なところよりも、彼が持っている「とにかく前に進んでみる、ダメだったら次の世代が、修正してくれるに違いない」というような、現在から未来にかけての日本人に対する明るい信頼感にこそ、愛国者としての資質を見るのである。
まさむね

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[18 1 月 2012 | 7 Comments | | ]

今週の日曜日の昼間に放送された報道ステーションサンデーというニュースショーで行われた橋下徹大阪市長と山口二郎北大大学院教授との対談が話題になっているようだ。
僕は生では見ていないのだが、YOUTUBEなどで確認した。内容は、Twitterや2chなどで多くの人々が指摘されているように、橋下市長の圧勝だったといわざるを得なかった。山口氏の反論をことごとく、論破する橋下市長。これだけ一方的な論戦というのを僕は始めてみたような気がする。(『橋下市長と山口教授がテレビ直接対決 終始劣勢山口氏は「難儀なことでした」』参照)
僕には、橋本市長が主張する、二重行政の無駄排除、チェック機能が効かない教育委員会制度の改正、区長の権限の明確化など、全て正論のように思われた。それに対して、新自由主義的政策に対する教科書的な空理空論的批判を橋下市長にぶつけ、その度に具体的知識の無さを露呈する山口教授は哀れでもあった。
さて、具体的な政策論争はさておき、論戦の中で、僕が特に興味を抱いたのが橋下市長の以下の発言であった。これは明らかに、日本的民主主義(戦後民主主義)を否定する言葉であったからである。
僕は民主主義の考え方を変えないといけないと思うんですよ。
少数の意見に配慮をする、少数の意見に耳を傾ける、これは当たり前です。これは言うとカッコいいからねぇ、インテリぶった人はみんな言うんですよ。
しかし、民主主義の根幹は、多数の意見を尊重するっていう事なんですよ。
日本人はそこを勇気を持っていえなかった。
元々、日本人には、話し合い絶対主義という信仰にも似た思想がある。
それは、「古事記」における大国主命によるニニギノミコトへの話し合いによる国譲りや、聖徳太子の時代の十七条の憲法の「和をもって尊しとなす」という第一章にも見られるくらい長い歴史があるのだが、とにかく大事なのは「話し合い」であり、話合いを重ねていけば、自ずと正しい解決策が見つかるはずだ!というものである。
逆に、力ずくで相手の意見を押さえつけるというのは、「悪」であり、現代社会における力とは言うまでも無く、「数」であるがゆえに、話し合いで決着をつけずに、多数決で物事を決めるというのは、日本的な価値観で言えば「悪」になってしまうのだ。
そして、それに対して話し合いで決着がつかない場合には、お互いの意見をすり合わせて中庸な意見を採用し、最終的に全員がとりあえず納得する形で物事を決めるというのが「善」なのである。
だから、他国の民主主義では当たり前に採用される採決が、日本では、何故か「強行採決」という「悪」い言葉になってしまうのだ。
しかし、よく考えてみれば、人の意見は多様だ。それを前提とすれば、多くの主張を多数決という形で一つにまとめるという発想は、決して強引でも、ましてやファシズムでもない、それは普通の民主主義なのである。
それに対して、日本人は、今まで、相手の気持ちを察して、相手が怒らないように(相手の怨念が残らないように)話をまとめることを(本来の)民主主義と勘違いしてきたのではないだろうか。そして、その相手の気持ちを察するということ(=空気を読むということ)が行き過ぎると、極端な話、責任者が不在のまま、誰もが反対だと思っていることがいつの間にか決まってしまい、後で聞いてみると、誰一人として賛成していなかったというようなことが起きるのである。
それこそが、かつて政治学者の丸山昌男氏が言っていた「戦争が起きたメカニズム」なのであり、そして、これこそが、山本七平氏が言ったところの「日本教」の弊害なのである。
勿論、こうしたメンタリティに日本人特有の優しさや、日本人らしさを感じて、シミジミするような瞬間が無いわけではないが、現代の状況は、橋下市長が言うように、それほど甘い状況ではないのかもしれない。
そして、橋下市長が提示した危機を乗り越える武器こそが、日本的民主主義ではない普通の民主主義ということである。
国と地方の財政はどんどん悪化して借金がかさみ、しかも誰も責任を取らない。誰からもチェックされない(出来ない)蛸壺のような無数の組織がいつの間にか隠然たる既得権と権力を持ち、社会の財産を食い潰している。臆病な現状維持政策で多くの貧困を生み出している。そして、自分だけがよければいいという発想で、税金を食い潰すことが権利であるかのような人々を大量に生み出している。そんな社会になってしまっているではないか。
そこで出てきた橋下市長的多数決の論理によって、国も地方も、その硬直したシステムを、強引に変えなければならない時期なのではないだろうか。
敢えて言うならば、少なくとも、この2012年の今現在、それらの改革は、「日本の良き伝統を維持すること」よりも優先度の高い喫緊の課題なのではないかと、僕は思ったりもする。残念ながら、日本的民主主義(談合主義、利益調整主義)による漸進的改善では、現状に対してあまりにも無力ではないのか。
もっとも、僕らは日本人の良さとをどのように残したらいいのかという事、あるいは、日本人の良さとは何かという事すら、よく考えてこなかったのかもしれない。雇用慣行や中央集権主義に代表されるような、たかだか戦後(あるいは明治以降)の慣習を日本人の伝統だと思い込み、それを墨守しようとしてきたといことだってあるのではないだろうか。
おそらく、良いと思われるものは、一時的に、衰退しても、未来の日本人が再発見し、時代にあった形で新たに成長させるだろうし、不要と思った慣習は消えていくに違いない。今、僕らが下す判断が間違っていたとしたら、それは未来の日本人が修正してくれるに違いない。僕らに必要なのは、まずは、そんな未来の日本人を信じて、とりあえず、目の前の課題から逃げずに前に進むことである。
橋下市長の「悪」さに僕は期待したい。僕は今、そんな気分である。
まさむね

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[15 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

日本における選挙の勝敗に最も影響があるのは何でしょうか。
少なくとも90年以降の日本政府の政策の大きな流れを見ていると、それは有権者の目先の繁栄を継続させること、(あるいは昨日と同じような明日をむかえるようにすること)、そして、スキャンダルが無いようにするすること、この2点だったのだと思います。
大局から見て日本の国益とは何かといえば、人によって意見は異なることでしょうが、僕は日本の真の意味での独立だと思っています。これには、憲法改正や、自主防衛(=米軍撤退)なのですが、これには大変、時間がかかるので、どうしてもズルズル先延ばしになってしまいます。しかも、これらの政策を選挙公約として前面に出しても、あまり盛り上がるとは思えないですね。
一方で、日本のデフレは信じられないくらい継続していますが、政府や日銀は、そこから脱却する有効な対策を打とうとしているように見えません。しかし、有権者として力のある層(地方の高齢者層)にとってはデフレというのは、いい政策なのかもしれないですね。物価が下っていくのですから。
また、傾向としての円高が続いていますが、経団連の所属する多くの企業にとっては、生産拠点を海外に移せるという意味では、円高というは、良策でしょうね。
また、クリーンな政治は、勿論、悪いことではないのですが、それが国民の生活や、国益にとって、いいことなのかどうかというのは、よくわかりません。
マスコミによって、選挙の焦点がそこに集中すると、政治家がどんどん、クリーンだけど、実力の無いタイプ、いわゆる小粒になっていくというようなひとを言う人もいます。
勿論、何が正しい判断なのかというは難しいのですが、有権者の判断というのは、決して、国益に沿ってはいないように思います。
今回のTPPに対する有権者の判断も、いろんな世論調査を見ると、4割以上が支持で、反対あるいは慎重派を超えていますが、政府の説明が十分かどうかという問いに対しては、8割以上が不十分という答えをしています。
つまり、国民の声は「よくわからないけど、いいんじゃない」程度の認識なのだと思います。
もしこれが、具体的に自分が経営している会社の判断を迫られる場面だとしたら、当然、慎重になるような場面だと思うのですが、大抵の人にとっては、政治とは他人事ということですね。
というような偉そうなことを書いてしまいましたが、かくいう僕も、その時の空気に完全に流されて、郵政選挙の時は、自民党に投票したし、民主党政権奪取の時には民主党に投票してしまったということを正直に告白しておきます。
そう考えると、現在の選挙制度自体が、根本的に問題なのかもしれないと思います。ヨーロッパの地方政党だったと思いますが、全ての政策に対して、支持者からの事前アンケートで、政治家が投票を決めるという政党があるというのを聞いたことがあります。政治家は、政治家としてのポリシーを持つのではなく、ただ、それぞれのアンケート結果をもとに、議会の時に投票するという政党です。
まぁ、そんなことを実験的にでもやってみれば、国民は一つ一つの政策に関して、もう少し自分のことのように考えるようになるかもしれないと思ったりします。
まさむね

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[14 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

昨日アップした「日本人的無意識の行動の困った点と美徳」というエントリーに対して高澤先生よりいただいたコメントが提起される問題ついて、改めてエントリーを立ち上げて考えてみたいと思います。僕自身、普段、それほど真面目に考えているテーマではないので、勘違いや思い込み等あるかもしれないことご了承下さい。
まず、以下の点に関してです。
アメリカの機嫌を取ることが政治家として、また政党として保身になるのかということが具体的に全く語られないのがとても気持ちが悪いですね。
仰る通りに、誠にもって気持ちの悪い現象ですよね。僕もそう思います。
これに関して、僕が理解している範囲で自分なりに書いてみたいと思います。いわゆる巷で言われている話ですが、一応、自分の中の整理のつもりで書かせていただきます。
自分の印象では、アメリカに機嫌を取る必要があるような政治家というのは、かなり実力者だと思われます。首相か、次期首相候補、それくらいのベテランですね。
彼らは、勿論、地元で当選回数を重ねてきており、それなりの実績を積んでいます。そして、官界、政界、財界にそれなりのコネクションを持ち、影響力を行使出来るようになった政治家です。
おそらく、そういった人が最も恐れるのは、スキャンダルでしょう。明らかな収賄や不正な献金に加え、時には親からのお小遣いや漢字の読み間違いなど、そのレベルは様々ですが、マスコミからなんらかの「叩かれる」材料を極力避けようとします。当たり前の話ですね。
しかし、本人の自覚や行動をはるかに超えて、そういったスキャンダルが降りかかってくるということも今まで何度もあったように思います。
それらは、あとから考えると、不条理であり、言いがかりであったというような事件が少なくありません。戦後政治史において、この手のもので最大の事件はロッキード事件でしょう。
この事件は、70年代の半ば頃に起きた事件で、アメリカのロッキード社が、全日空の旅客機に自社製品を買わせる為に、代理人の児玉誉士夫を通して、当時の首相・田中角栄に5億円を渡したという収賄事件ですね。
ちょうど、僕が高校1年生位の時で、国会の証人喚問に呼ばれたの小佐野賢治の「記憶にありません」という台詞が流行したのを覚えています。
そして、ここからは、誰もが一度は耳にしたことのあるような推測なのですが、この事件は、当時、日中国交正常化で、アメリカから距離を置こうとした田中首相に対して、ピンポイントで、CIAが仕掛けた罠というわけです。
本来だったら、児玉誉士夫が受け取った30億円のうち、田中角栄が受け取ったとされる5億円以外の25億円の行方についても捜査するのが公平なはずなのですが、検察はそういった捜査をうやむやにして、結果として、大物政治家としては田中角栄だけが逮捕されるという結末となります。
そして、いわゆる親米派と言われていた中曽根康弘や、岸信介、福田赳夫のラインは、怪しいといわれながらも、難を逃れた恰好になりました。
これを機に、アメリカCIA=検察 VS 親中=田中派との戦いがあるという話が、なんとなくイメージされたのですね。
繰り返しますが、勿論、僕は真相をつかんでいるというわけではありません。これはあくまでも一般的に語られていることで、インターネット上で例えば、「ロッキード事件」でググれば、一ページ目に出てくるような噂話にすぎません。
そして、その後、先ほど名前を出した中曽根氏や、福田氏の直系の小泉氏がアメリカと良好な関係を保ち(逆に言えば、アメリカの言いなりになって)、長期政権を築く一方で、田中派直系の小沢一郎氏は、90年代~ゼロ年代にかけて、常に政界の中心にいながらも、政治資金規正法違反という微罪で3人の秘書が逮捕され、自身も強制起訴されてしまいました。これに関しても、小沢氏が中国と接近し、アメリカと距離を置いたことが原因という話があります。
詳しくは書きませんが、僕自身は、この小沢氏の件は、検察と、それに加担したマスコミの横暴だと思っています。ただ、現在でも、世論調査では、8割以上の人が小沢氏に対して、いまだ批判的なのを見ると、検察やマスコミの目的は達成された感はあります。そして、彼の政治生命は風前の灯で、もはや復活の目は無いように見えます。
ちなみに、検察という組織も戦後、GHQによって作られたものであり、マスコミもGHQの検閲下から、戦後、新しく生まれ変わっています。
少し長くなってしまいましたが、ようするに、こういった戦後、アメリカから見て、御しがたいと思われた政界の実力者達の失墜劇を見るにつけ、いつの間にか、親米でないと長期政権を維持できないというどこまで本当かわからないけど、なんとなくリアリティがあるような、いわゆる「神話」が出来上ったのでしょうね。
考えてみれば、こうした「神話」は、民主党政権になって、自民党政権以上に語られるようになりました。普天間問題で失敗した鳩山氏は、アメリカに嫌われ、その後の菅氏は、とにかく親米=政権維持を貫いてそこそこ延命し、そして野田氏や次を狙う前原氏も親米と言われています。確かに、TPPに対しても、鳩山氏は反対、菅、野田、前原各氏は賛成でしたね。
さて、TPPに関してですが、今年2月の一般教書演説でオバマ大統領は、とにかく国内の雇用改善を第一課題とすると宣言しました。
そこから考えると、アメリカが今回の日本のTPP参加で期待するのは、モノの輸出を促進するというよりも、日本の高い各種規制を撤廃(緩和)させることによって活性化され得るサービス分野における、輸出市場を確保することによって雇用を改善させる道筋をつけることだというのは明らかなように思います。
現在、日米間ではコメ以外の関税障壁はそれほど無いと言われています。工業製品の多くは既に、現地生産が進み、それ以外の品目でも為替操作(対日ドル安誘導)によって、関税面での障壁はそれほど問題ではなくなっているようです。それゆえに、アメリカは、モノを日本に輸出するというより、保険や金融といったサービスを直接・投資することを考えている、それゆえに、それらの国のシステムをアメリカ化したいのだといわれています。
勿論、アメリカは、それらを日本の国力を衰退させるためにするわけではないでしょう。しかし、実質的な失業率が10%を超え、主要国の中で最大の格差社会になってしまったアメリカ(特にオバマ政権)にとっては、アジア市場拡大(TPP推進)は、その実質的な成果はともかく、来年の大統領選挙再選のための大きなPR材料にしたいのだと思います。
また、アメリカも日本と同様に高齢化が進んでいます。そして、60歳以上の高齢者はアメリカ経済の足を引っ張ります。米軍の沖縄からグアムの移転という話も、別に沖縄の負担軽減のためにするのではなく、その余裕がなくなってきたと見るべきだと思います。
さらに、アメリカが、日本を始めとして環太平洋地域のルールをアメリカ化した後に、狙うのは当然、巨大な中国市場でしょう。もう少し長いスパンで見れば、アメリカにとっての攻めるべき本丸は、日本ではなく、規模感の違う中国ということですね。
もっとも、上記の展望はあくまでも物語に過ぎません。ただ、現時点では、物語でいいのだと思います。オバマ政権にとっては、国内向けに、雇用改善のための展望を示すということが、直近、大事なのであり、野田さんはその脇役としてハワイのAPECで(とりあえず)参加表明をすることが必要だったのでしょう。
そして、このあたりの話はさらに、想像となってしまうのですが、その背景には、日本はアメリカ軍(の核)によって守られているという動かしがたい現実があるのだと思います。
続きは明日以降、書こうと思います。
まさむね

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[13 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

「青山繁晴の地獄の果てまで生ニコニコ」というニコニコ動画の番組を観ました。
ご存知の方も多いかと思いますが、青山氏は、元々は共同通信の記者だったのですが、退社後に、御自身のシンクタンク「独立総合研究所」を設立され、エネルギー政策などに独自の視点から提言を続けておられる方です。
僕は、『青山繁晴が答えて、答えて、答える!』というチャンネル桜の番組は、YOUTUBEなどで、よく拝見しているのですが、上記の番組はそれを拡大し、テンションを上げ、若干、若者向けのノリにしたようなエキサイティングな番組になっておりました。
さて、その番組の中で、視聴者からのこんな質問が紹介されました。

TPPはデメリットの方が大きいように感じるけれども、それでもなお、政府を始め、根強く推進派の政治家が多く存在します。それは、やはりアメリカの政治的圧力というものがあるのでしょうか。

それに対して、青山氏は以下のように答えていました。

アメリカの政治的圧力があるというならまだいいんです。そうじゃなくて、野田総理を始めとする保身に走った政治家が、勝手にアメリカを気にして、アメリカの言う事を聞かないと自分の将来がなくなると思い込んでいるから、それが圧力になっているだけであって、僕の知る限り、アメリカが直接圧力をかけてきた気配はほとんどないんですね。
(中略)
言われる前から、「はい、私はちゃんと、アメリカ様の気持ちをわかっていますよ」ということでやろうとしているのが日本の政治の実態だと思っています。

つまり、ここでは日本の政治家や官僚が、ある種の空気に従って行動することによって、自ら進んで、その主権を放棄しようとしているということですね。ついで言えば、彼らは、無意識的に、何を守ろうとしているのかと言えば、おそらく、戦後日本の体制であり、目の前の経済的繁栄という(敢て言えば)幻想になるのだろうと思います。
こういった無意識の空気に突き動かされるという日本人の気質は、長い間、閉鎖された島国で生きてきた僕らの習性なのでしょうか。
勿論、上記の例は、かなり情けない話なのですが、こういった習性は、「目的が明確である場合は、特に誰から指示されたわけでもないが、それぞれが適切な行動を取る」というようにポジティブに発揮されることもあり、実は、それほど悪い面だけではないということもあります。
このところ、連日引用している『忘れられた日本人』のなかにも、そういった行動を取る日本人達のことが出てきます。
それは、昭和の30年代の始め頃の、周防大島の農村での話です。
一年生くらいの男の子が、突然、居なくなってしまったのです。心配した家の人は、警防団の人に出てもらって、家の近所のお宮の森へ何十人もが探しに出ました。結局は子供は、家の戸袋の隅からひょっこりと出てきて事なきを得たということなのですが、著者(宮本常一氏)は、その時のことを驚きをもって以下のように書いています。

子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子供の友達の家を、Dは隣部落へという風に、子供の行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手分けしてそうしてもらったのでもなければ、申し合わせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、勝手に探しにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれその心当たりをさがしてくれたのであるが、あとで気がついてみると実に計画的に捜査がなされている。
(中略)
そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。

おそらく、日本人の連帯というのはこういった、目的が明確な時に最強に発揮されるのだろうと僕は思います。冒頭に紹介した同調圧力に弱いという日本人の欠点も、こうした場面では十分、美徳、あるいは力になり得るということですね。そして、311の震災の時の東北の被災された方々の行動にもこういった暗黙の行動規律があったようにも思いますね。
関係ないですが、この場面を読んで、僕は宮崎駿の「となりのトトロ」で、行方不明になったメイを村人が総出で探すシーンを思い出してしまいました。そして、もしかしたら、『忘れられた日本人』は、宮崎駿さんのネタ元だったのかもしれないと思いました。
話を戻します。
しかし、この日本人の特徴は、段々薄れてくるのではないかということも、実は、この『忘れられた日本人』には示唆されています。
一方で村人が真剣に探し回っている最中に、捜査に参加しようとせず、まったく他人事で、噂話だけをしている人々もいたということなのです。
そして、そういった人々は、新しく村人になったような人々で、普段は、旧住民と普通に交際しているのですが、いざというときには役に立たないのだと、宮本氏は述べているのです。
以前、僕は、「現代における「絆」とは? ~天皇陛下のご感想と飯島愛の死~」というエントリーを書きました。
そこで、危機的な状況の時に大事な「絆」は、お互いがお互いを縛るという性質のものであり、維持していくにはそれなりの「強制」がないといけないのではないか、というようなことを述べてました。
そして、この気持ちは、311以降、さらに強くなっています。抗しがたい歴史の流れの中で、人々がどのように「絆」を維持し、あるいは再生できるのかというのは、現代の日本人とって一番大事なことだと、今でも思っています。
そして、付け加えるならば、そうした絆がポジティブに発揮できるような、共通の目的を持たせること、それが政治家の大事な仕事だと僕は思います。
まさむね
※ここのところ、数回、引用してきた『忘れられた日本人』については、とりあえず、今日のエントリーで一旦離れようと思います。
明日からまた別のことについて書いてみようかな。