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Articles in the 政治 Category

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[31 8 月 2010 | 2 Comments | | ]

民主党の代表選挙が興味深い。
菅直人首相と小沢一郎前幹事長の一騎撃ちである。世論を味方につけた菅氏が、民主党という組織内での大勢を固めつつある小沢氏をどこまで追い上げることが出来るかというところが焦点になりそうだ。
僕は、小沢氏の「政治のカネ」の問題というのは政党政治が持つ裏の部分として、誰もが実は分っている事実を、”特定の勢力”が問題化した事案にすぎないと思っている。
おさらい的に振り返ってみれば、小沢氏の収支報告書には虚偽記載があったのは事実だ。小沢氏個人から政治団体の陸山会への金の移動の記載が事実より数ヶ月ずれていたのである。また、小沢氏個人が4億円もの現金を自宅に持っていたというのは不自然といえば不自然だ。しかし、不実記載は犯罪だが、形式犯であり、現金を持っていたということは「怪しい」のは確かだが、犯罪ではない。
今までは記載の間違いは修正で済んでいたのが、この小沢氏の件だけ大事になっているのは僕はちょっと納得がいかないのである。例えば、微罪でも罪は罪という人もいるが、そうであれば、自民党総裁の谷垣氏も、自身の資金管理団体の2003年分の光熱水費をゼロから2万円に訂正しているのである。それも形式的には犯罪ではないだろうか。
それゆえに、検察は何度も、小沢氏を起訴しようとしたが出来なかった。ようするに証拠がないのである。
そして、マスコミや野党は小沢氏に説明しろと迫るが、「何も法に触れたことはしていない」と言うしかないだろう。問題があるというのであれば、逆に問題があるという側が証拠をあげて説明するというのが筋ではないのか。
僕は小沢氏に対する検察(あるいはマスコミ)による攻撃は、ただ、小沢氏=悪というイメージを作り出すことが目的だったと理解している。そして、それにはある程度成功した。
現に小沢氏は選挙に勝つという目的のために、(悪くもないのに、)党代表や幹事長という職を辞さなくてはならなかったのだから。
さて、僕が今回の民主党代表選挙で注目したいのは、上記のような話ではなく、やはり、二人の政策のどこに違いがあり、その政策のための根本思想が、それぞれ何なのかという点である。
民主党が政権を奪取したとき、鳩山氏は、「自立と共生」という理念を掲げた。今でも忘れないが僕はその時、結構感動したのだ。(鳩山首相の施政方針演説に久しぶりに感動してしまった)。もしも、その理念を、現在でも小沢氏が共有しているのであれば(あくまでそうであればの話だが)、僕は小沢氏を支持したいと、今でも思っているのである。
日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。
大雑把に言ってしまえば、従来の自民党は、どの共同体にも存在する顔役(親分)に金をばら撒くことによって、なんとか社会を維持しようとしてきた。それが土建屋の親父だったり、農協だったり、独法理事長だったり、郵便局長であったわけであるが、それが上手く行かなくなった。バラ撒く原資がなくなってきたのだ。それに対して、小泉改革というのは、新自由主義という思想に基づいて、そういった既得権益を保持した共同体(古い親分=子分)の関係を壊し、個々人で競争するようなシステムを作ろうというものであった。しかし、多くの日本人はそういった競争社会を忌避した。日本人は、まだまだそれほど強くはなかったのだ。
そこで、民主党の登場だ。民主党は、税金を中間組織をすっ飛ばして、個々人に金をバラ撒くという方向を打ち出した。子供手当てや農家補償などだ。個々人に直接バラ撒くことによって、生活が出来るような基礎を作らせ、そういった個々人が自分の責任で、(多分ボランティアのような)新しい共同体を作っていくような社会を創造しようとしたのである。
その過程で、かつての親分=子分システム(既得権益集団)からはずされた人々、つまり弱者=マイノリティに対して篤くするのが第一弾だと考えているのだ。外国人参政権というのは一面、そういった文脈の政策なのである。
しかし、まだまだほとんどの人にとって、「自立と共生」という理念は十分に浸透しているとはいえない。マスコミがそういった理念を伝えることをしないというのも一因だが、民主党も、説明の努力をしたとは思えない。
先ほども述べたが、僕は小沢氏がもしも、再び「自立と共生」という彼の持論に基づく政策を体系だてて説明してくれれば、まだ、彼を支持したいと考えているのである。
ここからはおまけ...
ベイシックインカムなどによって最低限の弱者を救済し、国民総背番号制によって平等に税の負担を行わせ、天下り廃止や行政改革によって官僚支配を弱め、長い眼で見れば日米安保を見直して日本を自主独立国にし、中国や朝鮮半島と新しい関係を築き、地方分権によって中央に依存しない自主的(ボランティア)な起業家や地域を育て、経済一辺倒の価値観を徐々に排して、日本の技術力、伝統文化やオリジナルなオタク文化も育て、海外の人々も含めて日本をいい国、行って暮らしたくなるようなブランド力のある国にして...
これらを実行するには相当の抵抗があるに違いない。でも、このような可能性を考えていくと日本の将来はまだまだ捨てたものではないと僕は思う。
まさむね

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[10 8 月 2010 | No Comment | | ]

韓国への謝罪が正式に閣議決定されたようだ。
賠償問題はすでに日韓基本条約で完全に終わっているので、いまさら賠償という話はまさかないだろう。
僕自身は、今後数十年のスパンで見れば、日本からアメリカ軍は出て行くかざるをえない、そして、日本は自主防衛せざるをえないのではないかと思っている。そして、その時の下地作りとして日韓、あるいは日中の関係を緊密な信頼関係にしておくことが重要であると考えている。
その意味で、韓国への謝罪は、個人的な感情は別にして何度でもすべきであるという立場だ。もちろん、従軍慰安婦のような虚構に対しては謝罪する必要はないが、日本が戦前に朝鮮半島の文化をないがしろにしたことは事実なのだ。
よく、その時代には日本からの出資の方が多かったという論理で、日韓併合を正当化しようとする意見も見られるが、これは、経済の問題なのではなく、尊厳の問題なのだと僕は解釈している。
さらに言えば、日本という国は決して傲慢になるといいことがない。第一次世界大戦の後、バブル時期なんかがそうだ。
日本の美徳は謙譲ではなかったのか。
しかし、一方で、全閣僚が8月15日の靖国神社参拝を見合わせたという。これはどういうことだ。確か、原口総務大臣などは今まで毎年、参拝していたのではなかったか。「閣僚になったから行きません」では、今までのはただのポーズだと思われても仕方がないだろう。
実は、僕が靖国神社に参拝すべきというのは、靖国神社という神社が「無念にも勝つことが出来なかった兵士達を顕彰する場所」だからである。そして、それは無念にもA級戦犯として死刑になった人々にも言える話だ。
日本人は古来、そういった悔恨を残して死んでいった人々の怨念を奉ることで護霊(御霊)にかえることによって、現世に幸せをもたらしてもらおうとする宗教観をもっていたのだ。平将門や菅原道真が神田明神や天神になっていまだに信仰を集めているのはそのためである。
また、古事記において、勝負に負けたタケミナカタノミコトの諏訪大社の方が、勝ったタケミカヅチノミコトを奉る鹿島神宮よりも栄えているというのは、日本人のそういったユニークな宗教心の表れだと僕は考えている。
だって、普通の国では、勝者がなるべき武神に、敗者がなっているのだから、日本は。(←倒置法)
そういったユニークな宗教心を持つ日本だからこそ、その宗教心が生き続けている靖国神社に敬意を表するというのは国として絶対すべきだと思うのだ。
それゆえ、今回の韓国への謝罪は、同時に靖国に参拝してこそ、意味が出るのだと思う。日本人の今後100年に向けての謙虚な姿勢と古来からの宗教心を同時に他国に理解してもらうチャンスをみすみす逃す民主党政権は本当にセンスが無い。
まさむね

政治, 歴史・家紋 »

[14 6 月 2010 | No Comment | | ]

遅ればせながら、内閣総理大臣・菅直人にについて書かせていただく。
今度こそ、民主党は僕らを裏切らない政策をしてくれるのだろうか。
以前、菅氏は第三の道というようなことを言っていた。
それによると、バブル崩壊後、自民党は二つの失政をしたというのだ。一つ目は90年代、不要な公共投資によって、財政を悪化させた。そして、二つ目は、00年代前半、小泉政権における、小さな政府、規制緩和路線。これにより失業者が増大させた...
これらは民主党は正統化する「物語」だが、では、彼が言う第三の道とは何だろうか。
(僕の記憶だと、)それは、供給サイドではなく、需要サイドへ篤くする路線である。つまり、内需拡大のために、国民にバラまくということだ。「子供手当て」「農業手当て」「高速道路無料化」などがそこから導き出された政策である。
しかし、消費者がモノを購入しないというのは、彼らが金を持っていないからという理屈は、それ自体が間違っているようにも思える。
iPad狂騒を見てもわかるが、消費者は不要なものは不要だが、欲しいものは買いたいのである。当たり前の話だ。
そして、僕らが消費しないのは欲しいモノがないと同時に将来が不安だからだ。
社会保障が全然、保障になっていない現在、誰が金が配られたからといって、バカみたいに消費するというのだ。
「セックス・アンド・シティ」は海の向こうの「動物」の物語にすぎないのである。
しかし、参議院選挙を目前に控えた民主党のマニフェストには、先ほど説明した第三の道とは微妙に異なる政策、つまり、法人税を下げて、子供手当てを抑え、社会保障も強くするということが書かれているという。やっとマトモなことを言うようになってきた感じはある。というか、これは財界の発想と同じである。と同時に政治家の間でも、バラマキが決して票集めには繋がらないということが理解されてきたということだろう。
日本は民主国家だ。最終的に僕たち国民がの意思が政治=政策を動かすのである。
さて、話はグッと変わって、菅さんの家紋の話をしよう。
菅さんは美作菅党の流れである。ということは家紋は梅鉢のはずである。
梅紋ということで言えば、平賀源内、長岡半太郎、土井晩翠、前田夕暮、高塚竹堂、古今亭志ん生、仁科芳雄、倉田百三、浜田広介、梶井基次郎、柳家金語楼、永田雅一、植草甚一、岡本太郎、山下清、中村八大、筒井康隆、中上健次、堺正章、中井貴一といった文化人、教養人、学者、芸能人、芸術家の紋だ。
おそらく、菅原道真という文化人の末裔という潜在意識が彼らに武の道よりも文の道を選ばせたのかもしれない。
ただ、相撲取りにも梅紋者は多い。昭和の大横綱・双葉山、その双葉山の70連勝を阻止した安芸の海、春日野部屋を創立した栃木山、戦後の栃若時代で一世を風靡した栃錦等が梅紋力士だ。いずれも強さに加えて風格があったようにも思える。
また、政治家としては前田利家、副島種臣、榎本武揚達が梅紋である。真っ直ぐな人というよりも、二枚腰、三枚腰の現実主義者に多い。
総理大臣経験者では、幣原喜重郎(鞠はさみに梅鉢=左絵)、池田勇人(梅紋=右絵)がそうだ。幣原は吉田茂の傀儡だったが、池田勇人は「所得倍増計画」で歴史に名前を残した。
一方、菅さんは、つなぎの総理=幣原系で終わるのか、経済を立て直す(=池田系)ことが出来るのか。
僕はまだ後者であってほしいと期待している。
まさむね

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[12 5 月 2010 | No Comment | | ]

政治の普天間基地移設問題で揺れているらしい。
民主党政権になって今まで、知らない間に決まっていたことの過程が見えるようになった。
それは唯一、いいところかもしれない。
今回の件で、意外に政府あるいは官邸というのは、ダメな人たちがやっているんだということがわかった。
誰が考えても、沖縄の基地を本土に持ってくることは困難だ。あれだけの反対運動が起きてから、現地入りする首相というのも間抜けそのものだ。
五月中に決着をつけろという人もいるようだが、それは無理というものだ。
首相は米軍が沖縄にいることが「抑止力」になっていることを最近、勉強してわかったと言った。
「そんな当たり前のことを知らなかったのか」という人こそ、本当に「抑止力」というものがわかっているのだろうか。
少なくとも僕にはよくわからない。「抑止力」というものの実態がわからないのだ。
そういったものがあるといえばあるような気もするし、無いような気もする。
正直なところ、東京に住んでいる人のどれだけが、沖縄と徳之島の正確な位置関係がわかっているのだろうか。残念ながら、僕らにとって、基地が沖縄にあろうが徳之島にあろうが、実生活上あんまり関係ないのだ。
しかし、これでいいのだろうか。
少なくとも今回の件で、日本に米軍が存在することの是非、そして、米軍基地の7割が沖縄にあるということの不条理、そういったことが本土に住む僕らの意識にあがっただけでもよかったのかもしれない。
民主党が政権を取った時代、ネット社会が到来した時代でもある。それにしも、マスコミの欺瞞が目に余る。
原口大臣が記者会見でクロスオーナーシップ問題(新聞社がテレビ局の株を持つこと)の禁止を言ったとたんに、民主党を攻撃しだしたマスコミを誰が信用できるのか。
当然、大臣の記者会見はほとんど報道されていない。
記者クラブ問題、NHKの1万人訴訟問題にしてもそうだ。マスコミは自分の都合の悪いことは報道しない。
特に民放をたまに見るとそれはひどい。ただ、インパクトを与えればそれでいいといった感じのCM、くだらないバラエティ、僕はおととし、C型肝炎で自宅療養していたが、その時は毎日、テレビを見ていたがそれほど嫌悪感はなかった。
しかし、もうだめだ。ただつまらないだけならまだしも、不快だ。
小沢幹事長の問題についてもひどい。先日、検察審査会は、市民団体から政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で告発され、嫌疑不十分で不起訴処分となった小沢幹事長について、起訴相当と議決したそうだ。(この市民団体というのはどこの誰だろう。)
新しい証拠が出てきたわけではないのに、再度、事情聴取、2回目の検審で不起訴相当となったら、強制起訴されるという。
これはどう考えても疑問だ。
これなら、「悪い」というイメージのある人は誰だって起訴されてしまう。
「ようするに逮捕されたのだ。」というのは確か、カフカの「審判」の一節だが、それと同じようなことが起ころうとしているのではないだろうか。
しかし、それでも経済や社会は回っている。しかし、確実に国民の依存体質は増しながら、そして、国力は確実に下降線をたどりながらだが。多分。
まさむね

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[8 4 月 2010 | No Comment | | ]

平沼赳夫や与謝野馨が新党を立ち上げるという。
保守新党だそうだ。
経済対策と消費税が二本柱らしいが、一体どっちなのだろうか。
また、土建屋や天下りに金をばら撒くという話なのかそれとも財政規律をするという話なのか。
それにしても、保守といういうのなら、彼らは一体何を保守しようというのだろうか。保守という言葉を聞くとその疑問はいつも沸いてくる。
勿論、改革だってそうだ。改革をするという人は一体何を改革しようというのか。よくわからないことが多い。
僕は日本という国の特徴は、名字が異様に多いことでもわかるような独立性だと思っている。
韓国や中国では数百なのに、日本の名字は30万もあるのだ。それだけ、独立して新しい家を興そうという活気があったのだ、ある時期。
そのある時期というのは、鎌倉時代や明治時代だ。ちょうどその前の平安時代や江戸時代がどちらかといえば、うちに篭る時代だったのだが、それが政権交代して外に向かっていく時代になった。その時に独立しようという気分が蔓延したのだとうのは僕の想像だ。
歴史は繰り返す。100%悪い時代があるわけではないし、100%いい時代があるわけでもない。勿論、戦争の時代はつらいことも沢山あるが、それはいつかは終わる。戦後日本の繁栄は、太平洋戦争で多くの兵隊が必死に闘ったことによって、アメリカが日本に一目置いたこと、アメリカが日本に畏敬の念を持ったことが要因なのだ。
だから、靖国神社に行って、戦没者を国家として祀るというのが大事になるのだというのが、いわゆる保守派の意見である。
それはある意味、もっともだ。
しかし、一方で柳田國男が「先祖の話」で述べていたように日本人、一人ひとりが出来るのは、それぞれの家々で亡くなった人々を供養すること。
その積み重ねが国家として戦没者を祀るよりも日本人らしいということ。
中国は靖国神社の首相参拝を断固反対するが、中国人はその靖国神社に菊の紋章があることをどのように見るのだろうか。この花はもともと、平安時代(だったと思う)に、朝廷が中国の最新の美として輸入したものが家紋として転化したものだ。
それが、いろいろとあって、現代では靖国神社の門に大きくつけられている。
これはちょうど、日本人が見るワシントンの桜のようなものに感じるのだろうか。
日本の歴史とか伝統とか言ってもそれはあまりにも多種多様だ。
だから最初の話に戻ると「保守」と言っても何を保守するのかも多種多様にならざるをえない。
現状の既得権益社会をそのまま続けましょうというのもある意味保守であるし、アメリカ自由主義的に小さい政府でやっていこう、年金制度などやめてしまえというのも保守と言える。そんな制度は高々数十年のものだから、その前に帰れという言い方もありだ。
あるいは、靖国神社を大切にしたり、自主憲法を制定したりするのを保守という言い方もある。でもそれは保守というよりは国家主義だろう。
それだって、たかだか明治維新以来の話ではないのか。
今年も桜が咲いた。そしてまた散る。日本人は桜が大好きだ。「古事記」にはニニギノミコトがコノハナサクヤ姫(=桜の精)を選んだことにより、天皇家、そして日本人が永遠の命を失い、美を獲得する話(いわゆるバナナ型神話)が出てくるが、その頃から日本人の性向はある程度、決められていたのかもしれない。
ニニギというのは、天照大神の孫で天孫降臨した人だが、結局、面食いで嫉妬深いというだけの人(神?)だ。ほとんど人格と言ったらその程度の人だ。でも、結局、山幸彦という子孫を残す。さらに山幸彦はウガヤフキアエズを残し、そのウガヤフキアエズが、神武天皇を残し...そういうものだ。つなげたということが大事なのだ。
そういえば、平沼さんと与謝野さんの話だった。平沼さんの家紋は揚羽蝶、与謝野さんは桜だ。
蝶々が桜に寄ったというただそれだけの話なのかもしれない。上の画像は与謝野晶子の墓、下の画像は平沼麒一郎の墓で撮影したそれぞれの家紋である。
まったくゆるいエントリーになってしまった。なんか、引退した爺さんが書きそうな文章だ。
まさむね

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[19 3 月 2010 | No Comment | | ]

最近、鳩山政権の支持率低下が盛んに喧伝されるようになった。直近の世論調査ではたしか30%を割りこむところまで低下しているらしい。米国のオバマ大統領の陰りも然り。両者ともいわゆる蜜月期間をとうに過ぎて、マスコミによる容赦ない反撃のようなものをふくめて、支持率の下降局面に入ってきているというわけだ。
けれど翻って、では日本の自民党はどうかというと、自民党もトコトン冴えない。とてもかつて長く日本の政権の座にあった政党とは思えない。めぼしい発信もなく、この力のなさは何なのだろう。
民主党の施策に対して、それと対抗し封じ込めるような新しい戦略やビジョンがまったく出てこない。かといって新しい政党として出直してくるだけのポテンシャルがあるとも思えない。せいぜい小泉元首相の生意気な次男坊や、かわいすぎるといわれる女性の市議に出てもらって人気取りの街頭演説を行っているていたらくだ。
もともと自民党とはからっぽの政党だったのかもしれない。実はこの「からっぽさ」こそが長く政権の座にあった最大の理由だったのかもしれないとさえ思えてくる。つまり時の体制や長いものには巻かれろというようなイイトコドリ・日和見主義みたいな、言いなりになりやすいような優柔不断さこそが己の身を長く保つ最大の処世術だったということ。
今回民主党に変わったことで、あらためて自民党政権時代に日本がどれだけ既得権益で生きてきた人が多かったか、そのしがらみの多さが白日の下に垣間見える機会があっただけでも良かったのではないか、とぼくは思っている。それがなんとなく分かっただけでも民主党に政権が変わった意味がある、と。だから別に民主党の支持率が下がろうが別にいいじゃないか。
それよりも自民党というこんなポテンシャルの低い政党がながくゾンビのように時の政権の座にあったことが信じられない気がする。つくづくわれわれ国民の意識も低かったのだろう。また一方で、日本が劣化してきたことに相応して、政権与党である自民党自体もその内部において確実に劣化が進んでいたということなのだろう。自民党だってその初期には高邁なビジョンがあったはずだ。たとえば所得倍増計画を標榜した池田内閣あたりまでとか、は。
だが日本が経済と繁栄の軌道に乗ってからは、ただ惰性操舵のままに行けばよくなり次第に事なかれ主義になり、自らを変革する力を失い、ただただ劣化してもはや斬新な政策を打ち出す能力がほぼ皆無に等しい現在の状態になってしまったということなのかもしれない。でもそれでいいじゃないか。だって戦後60年以上もそうやって政権の座にあり続けたのだから。
だから自民党はいっそこのまま溶融して瓦解して粉々になってゆけばいいじゃないか。それがより望ましい姿というものだと思う。そしていつか人々がふりかえって、「20世紀の後半から21世紀前半にかけて、かつて、長く戦後の政権を担った、自民党という、政党が、あった」といわれる日が来れば、それで良しとすべきではないか。日々是好日。いい日旅立ち、自民党。良い意味でも悪い意味でも戦後の風潮が瓦解しつつあるように、自民党の役割もまた終わりつつあるのだ。
よしむね

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[16 3 月 2010 | No Comment | | ]

鳩山邦夫氏がまたやってくれた。
自民党を離党し、新党を結成するというのだ。
読売新聞によると、「与謝野(馨・元財務相)さん、舛添(要一・前厚生労働相)さん、みなが一緒になれるよう、私は坂本龍馬をやりたい」と言ったという。
そういえば、この人、総務大臣を辞職するときに、確か、「自分は西郷隆盛になる」と言っていたのではなかったのか。
あのときは、確か、征韓論論争で破れ、下野した西郷と、郵政問題で自分の意見が聞き入れられなくなり、(議員身分はそのままに)そそくさと選挙区に帰った自分をなぞった発言だったと記憶している。
それにしも節操がないというのはこのことだろう。
しかし、それに対して、民主党の兄・鳩山由紀夫首相も、先に裸一貫で自民党を離党したみんなの党の渡辺代表も連携は無いと明言した。
当たり前の話だろう。民主党にとって、この人が一人来ても、なんのメリットもない。それどころか、邦夫氏にしても母親からお子様手当てをもらっているのだ。ただ、「小物」ゆえにそれほど責められていないだけの話なのである。
一方、渡辺氏にしても、もともと、公務員改革をつぶそうとした御仁といまさら組めるわけがない。
一体、邦夫氏は何を考えているのだろうか。
「ポピュリズム(大衆迎合)政治では、景気、財政は悪化する。」と述べたようだが、この人の場合、ポピュリズムにすらなれないでいる。完全に大衆の空気を読めていないのだ。
勿論、こういったドンキホーテ(大衆の笑いもの)的な方も政治には必要だ。邦夫氏が、そういった捨石的な意味で行動を起こし、トリックスター的なポジションを敢えて死守するための今回の行動だとしたら、それはそれで遠謀深慮というべきかもしれない。..が何故、今なのだろうか。
まさむね
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[5 2 月 2010 | No Comment | | ]

本日、石川議員ら小沢一郎の元秘書三人が起訴、一方で、小沢一郎は不起訴となった。
朝日新聞によると、起訴の中身はこうだ。
起訴状などによると、陸山会は原資不明の4億円を元手にして、2004年10月29日に都内の土地を約3億5200万円で購入。石川議員は大久保秘書と共謀し、04年分の政治資金収支報告書の収入に算入せず、土地代金約3億5200万円も支出に入れずに虚偽の記載をしたとされる。
 池田元秘書と大久保秘書は共謀し、実際には04年に支出した土地代金を05年分の収支報告書に支出として記載。さらに4億円は07年に小沢氏に拠出されたが、同年の支出に記載しなかったとされる。石川議員と池田元秘書は容疑を認め、大久保秘書も両者から虚偽記載の報告を受けて了承したことは認めている。
それにしてもわかりにくい。初めて読んで理解できる人はほとんどいないだろう。
おそらく、記事の趣旨は、ただ、小沢さんや石川議員達がなんだか悪いことをしたという印象を持ってもらえばいいという感じの書き方だ。
しかし、よく調べてみるとようするに、陸山会で土地を購入した際に、小沢さんが立替え、その後に、銀行からお金を借りてその支払いのあてたというだけのことだ。だから、小沢さんからの借り入れと、返却を報告書に書かなかったのだ。
より、身近な例え話をすると、僕が会社にいたとき、着払いで荷物が届いた。ちょうど経理の人がいなかったので、自分が立て替えた。経理の人が帰ってきたので、領収書を渡して、立替分をもどしてもらった。その際の帳簿に僕の立替と返却を書かなかった、しかも、経理の人がたまたまその領収書を机の中に入れて忘れていて、次の月の会計に回した、というような話なのである。
確かに、記載が遅れたことは正確に言えば、問題なのかもしれない。ただ、今まではそれが訂正で済んでいたのに、今回の小沢さんの件だけは何故か、大ごとになった。
勿論、もともと持っていた4億円がどこから来たのかというのが今回、検察が探りたかったことなのだろうが、結局それはわからなかった。そして、石川議員は逮捕しちゃったから、とりあえず、起訴したということなのだ。
これを指して、秘書が起訴されたのだから、議員辞職すべきだというのは、まぁ正論としてはアリなのかもしれないが、それだったら今まで、何人の自民党の議員は収支報告書に「ウソの記載」をして、その訂正を行ってきたのかと逆に問いたい。
例えば、谷垣さんにしても、2003年に光熱費の2万円を書いていなくて後で訂正したではないか。厳格に言えば、これも「ウソの記載」をしたことになるのだ。
誰かが仕掛けたマスコミを使ったイメージ戦略とえばそうなのだろうが、あまりにも露骨で、稚拙だ。
まさむね

政治, 相撲/プロレス/格闘技 »

[30 1 月 2010 | No Comment | | ]

先日のエントリーで、小沢一郎は辞職して、ただの釣り好きの親父になるべきだということを書いたが、僕は一方で、彼にはしぶとく民主党幹事長、あるいは代議士を続けてもらいたいとも思っている。
勿論、それは僕が彼の無実を信じているなどということではない。それはいずれ明らかにされる、あるいは捏造される、舞台の向こう側の話だからだ。
最近、政治のニュースを見て、僕が不自然に感じるのはなぜ彼らはあんなにも毎日、闘っている、あるいは闘っている芝居をしているのだろうかということ。
そういえば、僕らの日常にはそういった戦いというものがない。ビジネスの世界でもライバル社と戦うのではなく、W-inW-inの関係を築くというのがブームなのかもしれない。微妙にこのW-inW-inという言い方が気持ち悪いのは気のせいか...
さて、おそらく、周囲の人に、「あなたは今、何と戦っていますか」とたずねてもほとんどの人は、何も答えられないだろう。あるいは、自分と戦っているといういうだろう。
ただ、自分と戦っているという人はおそらく、何も闘っていない人だ。
勿論、僕もそうだ。何とも自覚的に戦ってはいない。残念ながら。
話を戻す。僕が小沢一郎に辞職してもらいたくないのは、”権力にしがみつく老醜”というのも見世物として好きだから。それはちょうど、70年代にあった全日本プロレスのチャンピオンカーニバルでアブドーラ・ザ・ブッチャーが、優勝トロフィーを俺のものだとばかりに抱きかかえて舌なめずりをしたあのシーンを思い出す。
権力、名誉というものに固執する醜い男を表現することによって、逆に普通の庶民を精神的に安堵させるというのも、もしかしたら政治家の大事な役割かもしれない。
まさむね

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[28 1 月 2010 | No Comment | | ]

人間は自分自身の歴史を作るが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとで作るのである。
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものを作りだそうとしているかにみえる時、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間は己の用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである。
これは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中の一節である。
人間が世の中を変革しようとするとき、それは一直線にではない。それは必ず、蛇行するものだ。人間は意識しないがそれを行うのである。
小沢一郎という人物の歴史的役割は、選挙によって政権交代ができる、すなわち、日本を民意で政治を変えられるような国にすることだったのだと思う。
おそらく、数十年後から現在を見たとき、そんな人物として彼は評価(酷評も含めて)されると思う。
だから、彼の政策が「日本改造計画」時から、180度変化したことは当たり前のことなのだ。それは、常に反対側と逆のことをいうことによって、国民に選択肢をもたらすことを目的としているのだから。
90年代の彼は、小さな政府、自立した国民を政策の柱としたいわゆる新保守主義である。しかし、小泉政権によって、そのテーマが奪われると逆に、「国民の暮らしを守る政治」という大きな政府、国民に依存させる政策の道を進むようになった。それを指して、一貫性がないという人がいるが、確かに、そうだ。
しかし、いいのだ。彼の目的は政権交代が出来るような国にすることなのだから。
一方で小沢一郎は民主主義的ではないという。独裁者だという。しかし、僕ら一般の人から見れば、それはあんまり関係ないことだ。それでは、今までの自民党政治の時代は、僕らの意見は本当に政治に反映されていたのだろうか。僕らはその話しあいに一度だって参加などしたことがない。
いつも、官僚や政治家や財界、が談合して物事を決めてきただけだ。彼らの多くにとって、小沢一郎が独裁的に見えるだけであって、僕らからしてみれば、選挙で選んだ党が自分のやりたいことをやるという話にすぎないのだ。どこが悪いのだろうか。悪いとしたら小沢一郎ではなく、自分の意見を言わない人たちだろう。悪いとしたらね。
小沢一郎が独裁的だという人は、民主主義を談合主義だと思っているのだろう。それは日本的には民主的かもしれないが、はたしてどうなのだろうか。
しかし、僕は小沢一郎の歴史的役割はすでに終わったようにも思える。社会変革の第二段には彼の出る幕はないだろう。ここですっぱりと辞職すれば、それはそれで彼は男を上げると思うのだが、そうもいかないのだろうか。
モーニング娘。の名曲「ハッピーサマーウェディング」で中澤裕子が「だって、お父さんが『釣り好きの人には悪い人はいない』っていってたし」というせりふをいう箇所があるがあるが、小沢一郎は、ただの釣り好きの親父にもどればいいと思う。
まさむね