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この間の週末、奈良・京都の小旅行の際、京都の吉田神社にも行ってきた。もともと私の姓と同じであり、家紋の話(これについてはまさむねさんが専門家)などからもこの辺り一帯が祖先のルーツ(出)かもしれないという興味もあって訪ねてみた。吉田神社そのものは有名かつ立派な神社なので特にここで紹介めいたことは書くつもりはない。
今回行ってみて改めて思ったのは、以下のような二つのこと。
神社や寺に限らず、良い空間というのは、かならず「奥の院」のような配置、いわゆる奥行きを持っているということ。それが本当の奥でなくてもいいし、周りに散らされていてもいいのだが、そうした適度な散らばりや広がりがあること(庭園もこれに加えていいと思う)がとても気持ちが良いということ。歩き回る楽しさがある。
それから、関連したことだけれど、日本には何もない空間をいわゆる「やしろ」として崇める慣習があったと言われているようだが、同じように良い空間にはかならずそうした意味のない空間を寿ぐような場所があるということ。ゆとりともいえるだろうし、遊びの空間とも、赤瀬川原平さんならそれこそまさに「トマソン」だとおっしゃるかもしれないような場所。添付写真は吉田神社で見られた「やしろ」のような空間の数々。これについては神聖化している理由はちゃんとあるのかもしれないが。
いずれにしても吉田神社には上記のような空間がたしかにあった。それから、君が代で歌われている「さざれ石」の原形(?)を祭っていることを知ることができたのも僥倖だった。
神社の空間というのは、まさむねさんも以前言っていたのだけれど本来誰にでも開かれた空間なわけで、その何もないといえば言える空間だからこそ面白い。現代の都市開発も先祖がえりじゃないけど、効率性ばかりを追求してきた反転として一見無意味とみえる空間(無駄な遊びの空間)をいかに上手に設けるかに回帰しつつあるようにも思える。
因みに「トマソン」とは、赤瀬川さんによって、当時読売ジャイアンツに高額の契約金で雇われたゲーリー・トマソン選手が役に立たなかったことにちなみ、「超芸術トマソン」と命名されたことに起因する造語。いわゆる役に立たないもの、無意味なもの、不思議なものから来る妙なおかしさ、翻って貴重さ等々の広い意味に捉えることができると筆者は勝手に拡大理解しています。
よしむね
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平城京の遷都1300年ということで、この週末に奈良(その後京都入り)に行ってきた。コースは大体お決まりの奈良公園あたりを皮切りに東大寺大仏様から薬師寺、唐招提寺、法隆寺へいたる行程。薬師寺は高校の修学旅行以来行っておらず、その時、空に融けてゆくような塔の優美さにいたく感動した記憶があり、ぜひもう一度行ってみたかったところ。今回行ってみての主な感想は以下箇条書きの通り。
1)まず奈良の拝観料が全般的にちょっと高すぎること。800円から1000円くらいなのだが、京都の金閣寺は400円だった。京都と奈良では人の出入りの絶対数が違うということがあるかもしれないが、いくら世界遺産とはいえせめて500円くらいでないと。特に昨今の不景気を考えれば、もう少し抑えてほしいところ。学生諸君も大変ではないか。団体割引かもしれないが。因みに金閣寺は2度めの拝観見直しもできた。素晴らしい、なんと寛容な心遣い!
2)薬師寺は東塔が改築中。全体的に壁や建築物の朱色の塗り直しがあったのか、高校時代の記憶のイメージよりも、ずっと華美な色調が目立つ感じで、正直あまり感動しなかった。なんとなく期待はずれ。もっとくすんでいて落ち着いた美しさがあったような気がしていたのだが。ぼくの記憶違いだったのかな、あるいは東塔が改築中で、バランスよく全体を俯瞰できなかったからか。少し失望(寺社の方には大変失礼かもしれませんが)。
3)それよりも、唐招提寺と法隆寺が良かった。天平の甍たちの質素な美しさ、力強さ。天平時代の建築群の、均整のとれた無駄のない配置、庭園や空間処理の見事さ。けっして贅沢ではないのだが、貧相でなく十分に優美であり、かつ極めてシンプルな建築そのものの造り(たぶん考え抜かれた設計配慮の徹底さ)にあらためて感動した。材木や屋根のふるめかしさもいい。とにかく古い木(構造体)が美しいのだ!
4)それから法隆寺の大宝蔵院でみた百済観音像は圧巻だった。ぼくは仏像にはまったく詳しくないのだが、百済観音像には感動した。通常の仏像はどこか威厳がありいかめしさやふくよかさに起因したある種の近寄りがたさがあると思う(どこか天上的で威圧的な)のだが、百済観音像はそれらの仏像とはおよそ対極的な所作を持っているように見えた。まるでジャコメッティの線的な人物彫刻のようでもあり、イコン画から抜け出してきた聖人のようでもあり、それこそグレコの描く聖人像にも似ており、とにかく全体的にきわめて細い躯体から、少しも威圧的でない、やわらかさが滲みでている感じだった。しかも天上的だがすこしも近寄りがたい感じではなく、どこまでも優しいのだ。百済というくらいだから、どこか大陸系・朝鮮の人たちに似た顔立ちのようでもあり、半目開きの物静かな面差しといい、正直こんな仏像を目にしたのは初めてのような気がした。見ていない方がおられたら、ぜひ一度ご覧になってみてください。
5)最後に中国の旧正月(春節)休みとも近かったからか、とにかく中国人の観光旅行者が奈良も京都でもやたら多かったこと! 躍進する中国さまさまか。国力の昇竜ブームにのった勢いのかずかず。これからの日本にはとても大事なお客様たち。
さて旅にはいつも終わりはなく、どこで終わるともいえず、いつ終わったとも言えないのだが、最後は法隆寺の外郭の土塀あたりを散策しつつ、傾きかけた午後の日ざしのなかで、なんとなく懐かしいような小道(奈良も京都もやはり路地がいい)をふらつきながら、添付写真のような土塀のなかに、きっと透明人間になって消えていって誰でもないひととして紛れていって終わるのだろうな。皆さん、そこでゆっくり昼寝でもしましょうね、そして良い夢をみましょう。
よしむね
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先日、馬込に足を運んだ。
この辺りは、大正から昭和にかけて、馬込文士村といって、たくさんの文学者が住んでいたという。
尾崎士郎、宇野千代、山本周五郎、室生犀星、三島由紀夫、和辻哲郎、稲垣足穂などだ。
残念ながら、現在は跡形もない。三島由紀夫の白い洋館が残されているだけである。
街のいたるところには、地元の教育委員会が立てた案内板のようなものはあって、往年をしのばせるが、それはあくまで案内板であって、当時の雰囲気を残すものではなかった。
西馬込の駅近くには、JAがあったので、おそらく、ここは比較的最近まで田園地帯だったのだろう。それがおそらく、戦後、住宅街になったということが想像できる。
僕は初めての土地に行くと、そこの神社にも行ってみるようにしているのだが、この街にも湯殿神社という古そうな神社があった。
ちょっとした小山の上にある神社だ。狛犬を見ると、製作年が大正時代だという。狛犬は昭和に入ると軍国主義の影響もあって、筋肉隆々で勇ましい感じになるのだが、この時代の狛犬にはまだ、どこかユーモラスなところが残っている。
また、普通、都内の神社にはその由来などを示す看板などが立っているのだが、ここの神社にはそういったものは無かった。
湯殿という名前から想像するに、出羽三山の湯殿山から勧進されたものだろうか。おそらく、祭神は、大国主命=大己貴神といったところだろう。
その雰囲気はいかにも、古い神社という感じ、僕の好みだ。それにしてもここの銀杏は大きいな。
最近は、セキュリティの関係上、夜にはると、あるいは昼間でも部外者立ち入り禁止の場所が増えたが、神社の多くはいつでも誰でもが入れる場所として残されているのは嬉しい。
東京都内にもまだまだ、こういう古風な場所が残っている。それも住宅街の中にエアポケットのようにして。
近所の子供達は、たまにはここで遊ぶのだろうか。もし、この神社の境内で居眠りでもしたら、「千と千尋の神隠し」ライクな夢でも見そうだ、なんてことを想像してしまった。
まさむね
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連休の最後の日ということで、妻と出掛けることになった。
どこでもよかったのだが、若い頃に妻が住んでいたという本郷に行ってみようということになった。
地下鉄丸の内線の本郷三丁目を降りて、東大の赤門の方向へ向う。
そういえば、丸の内線には新宿三丁目、四谷三丁目、本郷三丁目と三丁目が沢山ある。
三という数字はどこか不気味だ。都市伝説の元祖・トイレの花子さんも元々は、「三番目の花子さん」と言われ、三鷹や三軒茶屋等、三のつく場所に出ガチという話を聞いたことがある。丸の内線に三丁目が多いのもなんとなく不気味だな。四谷怪談のお岩稲荷は四谷三丁目だし、唐十郎の黒テントで有名な花園神社は新宿三丁目にあるし...なんてことを考えて歩いていた。いつもの妄想である。
しばらく歩いていくと、一葉忌という横断幕が張られている。そうか、今日は樋口一葉の祥月命日なのだ。ちょうど、東大の赤門の前にある法真寺は、一葉忌の会場になっていて、沢山の人だかりが出来ていた。ここは、一葉が幼少期を過ごした場所だそうだ。後にこのあたりを「桜木の宿」と呼んだのは有名である。
とりあえず、人ごみにつられて中に入る。寺の本堂の中に一葉の写真まで飾ってのお祭り騒ぎだ。改めて、彼女の人気を知る。
樋口一葉は、その短い生涯でまるで春の桜のようなはかなく、みずみずしい短編をいくつか残して亡くなった女流作家だ。彼の父は、元々は百姓だったらしいが、同心株を取得、しかしすぐに明治維新になってしまい、士族とはなるが、東京市の下級官吏として細々と暮らしていたらしい。しかし、「俺は士族だ」というプライドもあって、何かと出費も多く、借金を重ねてしまい、一家の生活はかなり苦しかったようである。父の死後、一家の大黒柱となった一葉が借金の無心に通ったという質屋も近くにあり、いまでは観光名所になっていた。
江戸の文学は、西鶴にしても馬琴にしてもストーリー重視だった。いわゆる読み本だ。少女の微妙な心情など文学の対象ではなかった。若い女性が、幼い子供のはかない恋心以前の微妙な心情を描いた「たけくらべ」はそういう意味で斬新だったのである。
文学の進化というものは、必ず、今まで言葉にならなかったような心情をリアルに言葉にする瞬間に起こるが、一葉はそんな瞬間を描き出せるような新しい筆を天性に持って生まれた少女だったのであろう。そして、その才能と引き換えにするように、彼女は短すぎる一生を文学にささげたのかもしれない。
さて、それから妻の案内で、一葉が暮らした坂の途中の木造屋、彼女が使ったという井戸などをめぐり、その足で白山の源覚寺まで歩く。この源覚寺は、「こんにゃくえんま」という民間伝説を持つ寺らしい。閻魔様が信仰の篤い老婆に片目をあげ、そのかわりにその老婆は好きだったこんにゃくを閻魔様に捧げたというのだ。だから、ここの閻魔様は隻眼だという。
閻魔様ってそんな事してくれる神様だっけ?という感じがしないでもないが、いかにも庶民的で面白い。昔は、無料でこんにゃくを食べさせてくれたらしいが、今は100円だ。それを教えてくれた妻はちょっと残念そうだった。
勿論、僕の興味は寺の墓地にある有名人の墓、そしてそこについている家紋だ。源覚寺には、小栗虫太郎という昭和初期に活躍した探偵小説家の墓があった。この小栗虫太郎は、「黒死館殺人事件」という長編奇書を残したペダンチックな作家だ。
家紋は茗荷だった。この茗荷紋は、三島由紀夫や北野武、角川春樹等もそうだが、心の中にディオニソス的悪魔を秘めた鬼才に多い家紋だと僕は個人的に思っていたのだが、やっぱりこの虫太郎先生もそうだったのである。
特に目的も無く古い街を歩くこと。大通り沿いにはマンションやオフィスビルが立ち並んでいるのだが、一歩入ると、重層的な歴史や物語が垣間見れる。なぎら健壱ではないが、東京にはまだまだ見るべきところが多いということを改めて感じさせられた。
まさむね
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先日、多磨霊園に行った。新たな家紋収集と、さらに新たな「チャレンジ」のためだ。
勿論、TBC(東京墓石倶楽部)のメンバーと一緒である。
多磨霊園は奥が深いというか、とうてい1日で回りきれる場所ではない。自身何度も足を運んでいるがそれでも、まだまだ新しい墓の発見がある。今回は、南俊二(昭和の億万長者)、宮川竹馬(四国の電力王)、秦勉造(北大医学部功労者)、酒井勝軍(日ユ同祖論を唱えたオカルティスト)、徳大寺実則(明治天皇侍従長)、大下宇陀児(探偵小説家)、穴水熊雄(京王電鉄社長)、阿部泰蔵(明治生命設立者)、小倉常吉(日本の石油王)、湯浅治郎(社会運動家)、島耕二(映画監督)、木戸幸一(内大臣)等、比較的地味ではあるが、日本の近代の発展に大きく貢献した面々の墓参り、家紋撮影をさせていただいた。
おそらく、故人達は、それぞれの人生を、それこそ、一生懸命に生き抜いたことであろう。墓とそこに刻まれた家紋は、生前のご活躍を偲ばせる記念碑のようなものだ。どの墓も個性的で奥ゆかしい。一日歩き通しだと、さすがに足は棒のようになってしまうが、それでも墓巡りはやめられない。
僕の、そしておそらくTBCのメンバーにとっても一ヶ月に一度の、別世界へワープする貴重な時間だからである。
さて、今回の多磨霊園散策には実は、もう一つ別の目的があった。9月に一般リリースされ、IT業界ではSecondLife、Twitter、Tumblerに続く話題のセカイカメラを多磨霊園に持ち込んでみたのである。
ご存知かと思うがセカイカメラとは一種のAR(拡張現実実現ソフト)だ。Wikiにはこう書かれている。
セカイカメラを起動すると、iPhone内蔵のデジタルカメラによって目の前の景色が画面上に映し出された上に、その場所・対象物(建物・看板など)に関連する「エアタグ」と呼ばれる付加情報(文字・画像・音声)が重ねて表示される。エアタグはユーザーが自由に付加することができ、ユーザー間で共有される。
そこで僕らは、多磨霊園にある有名人の墓にこのエアタグを設定し、墓参者にその墓の場所(方向)がセカイカメラで認識できるようにしてみたのである。
今回設定したのは以下の人々の墓である。
岡本太郎、三島由紀夫、ライシャワー、長谷川町子、吉川英治、北原白秋、大平正芳、大山康晴...ベテランの墓マイラーの方々にはおなじみの墓所であるが、多磨霊園の右も左もわからない初心者には嬉しい機能の(はず)だ。
しかし、今回の試みで逆にセカイカメラの現時点での限界点が見えてきたのも事実だ。まず、エアタグの認識範囲が300メートルと限定されていること。渋谷や新宿などの大都会ではおそらくその認識範囲で十分過ぎるのであろうが、多磨霊園のような広大な場所だと、それでカバーできるのは1区画か2区画が限度だ。エアタグを設定し終わり、霊園の正門のところで、振り返ってセカイカメラを起動してみたら、出入り口の近くにある外人墓所のライシャワーのエアタグがかろうじて認識できるだけだった。
また、予想されたことではあるが、セカイカメラはバッテリーを食う。予定では、もっと多くのエアタグを立てるつもりでいたのだが、結局は十数名でバッテリーがほとんど無くなってしまった。このあたりは、セカイカメラというよりもiPhoneの問題なのかもしれないが、今後の課題かもしれない。
いずれにしても、iPhoneをお持ちの方は是非、多磨霊園へ出向いて、セカイカメラを起動させてみて欲しい。そこには新しいセカイカメラの可能性がある(と思う)。
もしかしたら、まるで地縛霊のようにも見えるエアタグはそれはそれで、そこに眠る偉人達の「霊魂」のメタファのようにも感じられるかも知れない。
まさむね
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このシルバーウィークの中日の月曜日、川越に行ってきた。
川越は、江戸時代は川越藩の城下町として盛えた都市である。戦災を免れたため、歴史的な街並や寺院などが多く残されており、「小江戸」とも言われている。
確かに、蔵の町というエリアは、古くからの商家が並んでいて、味のある町並みになっている。現在は、NHKの朝の連続テレビドラマ「つばさ」の舞台になっているだけあって、時の人気スポットとして、いつも以上に混雑していた。これは、町の振興にとってはいいことなのであろうが、風情という意味では、どうなのだろうか。
しかし、この混雑を差し引いても、この町は魅力的だ。特に僕のような家紋マニアにとっては、まだ家紋が生きているこの町にいるだけで、そこはまるでディズニーランドのような楽しさなのである。
このページに掲載させてもらった写真は、今回の川越ぶらり旅で撮影した商家の家紋だ。
車紋は、川越まつり会館の創作紋。この紋は、川越祭りの山車の車を表現しているのではないだろうか。また、丸に三つ引両は、時の鐘の目の前にある近長という魚屋さんの紋、三盛り亀甲は、亀屋という和菓子屋さんの紋だ。
ここの写真の他、桔梗紋、竜胆紋、丸に十字紋、鷹の羽紋、蔦柏紋なども散見されたが、残念ながらこういう時に限って、携帯カメラの電源が切れて、それらは僕の記憶の中だけのものとなってしまった。
ここで、長喜院という寺の入り口の「陶路子」(「つばさ」のヒロインの実家に使われたという)という名前のお食事処兼甘味屋に入る。僕はクリームあんみつ、妻は抹茶宇治金時を頼む。一般的には観光地での食事は値段が高くてあまり美味しくないというのが相場かと思っていたのだが、そんな話は今は昔、これらの甘味は十分、二人の舌を楽しませてくれた。
最近、テレビではこういった観光地中心のグルメ番組が増えているが、その影響であろうか、心ある店は必死に勉強と工夫を重ねているのであろう。味にしても、接客にしても、そのレベルはどんどん上がっているように思える。
こういった日本中の観光地の小さな努力の積み重ねが次の時代に日本が観光大国になるための底力となっていくに違いない。頼もしい限りだ。
さて一休みした後は、寺巡りだ。寺紋を確認しながら、その寺の歴史を想像するのが楽しい。近所にあった法善寺の寺紋は、長野や青山の善光寺と同じ立て葵だった。確か、あの善光寺は天台宗と浄土宗、そしてこの法善寺は浄土真宗系だ。宗派が違うということは法善寺が善光寺の末寺というわけではないであろう。なのに、この寺紋、起源が気になるところだ。今度、調べてみよう。
また、さらに駅の方に歩いた右側に、蓮馨寺があった。この寺には三つ葉葵紋と三つ鱗紋が目立つ。(左写真はwikiより)社伝には「天文十八年(1549)、川越城主、大道寺駿河守政繁の母君、蓮馨大姉が、民衆の心の安らぎの場として、当山を創建しました。」とあるが、この大道寺家は後北条家の重鎮の家柄だ。おそらく三つ鱗紋は、その流れで使用されているのだろう。後に、江戸時代、この蓮馨寺は芝増上寺との結びつきを強め、三つ葉葵紋を寺紋とするに至ったことが想像されるが、その後も、寺の起源を大事にする意味があってかこの三つ鱗紋が平成の世にも受け継がれている。それがなんだか嬉しかった。
特になにか目的があっての川越への日帰り旅行というわけではなかったが、それなりに楽しい休日であった。
今度は、携帯カメラの電池を確認してから出かけよう。
まさむね
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先週末、川崎方面の墓巡りをしたついでに、川崎大師と近くの若宮八幡宮へも行ってきた。
それぞれの寺紋、神紋を確認するためだ。
川崎大師・平間寺は、元々真言宗智山派の大本山である。京都の総本山智積院の寺紋は桔梗であるが、関東にある大本山はそれぞれが異なった寺紋を使用している。
成田山新勝寺は、元々、朝廷が平将門を調伏するために、千葉の地に不動明王を奉ったのが始まりである。そのため、長い間、菊紋を使用していたらしいのであるが、明治以降、菊紋の使用が禁止されたため、菊の花をはばかり、葉菊をあしらった牡丹をその紋所にしたという。成田山の葉牡丹(左上図)といえば有名だ。
また、高尾山薬王院も智山派の大本山だが、ここの寺紋は三つ紅葉紋だ。見方によっては、天狗の葉団扇のようにも見えるのは、山伏の山岳信仰を根っこに持っている寺院だからだろう。
そして、川崎大師の寺紋は、三つ柏である。柏は、宗像神社や恵比寿神社も、神紋として使用しているが、どちらかといえば、海の民に神聖視された植物である。ここ川崎大師もその山門の大提灯は、漁業関係者によって奉納されたようだ。寄進者には佃島関係、網元関係者の名前まで見ることが出来た。(写真は本堂内の大提灯の柏紋)
しかし、この川崎大師・平間寺は、漁業関係者だけの寺ではない。それを端的に表しているのは、寺の屋根に飾られた菊紋、桐紋だ。やはり、どこかで皇室とつながることによって、広く一般市民の厄除け寺として発展したのであろう。
そんな歴史が、屋根の上のそれらの紋に垣間見られた。
また、今日(20日)は、秋の大祭があるということだが、そのポスターでは桔梗を使用していた。
勿論、それは、先ほど述べた、智山派・総本山の智積院の寺紋を意識ているのかどうかということは不明である。
しかし、僕は個人的に、桔梗という花が土地の霊・平将門を調伏する朝廷勢力のシンボル的な紋所として、成田山の影紋であると信じているのだが、成田山と並んぶ関東の庶民派の大寺院の川崎大師も、どこかで桔梗という花を意識しているのではないかと思うのであった。(「平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史」参照の事)
川崎大師のすぐ近くにあるのが、「かなまら祭」で有名な金山神社を境内に持つ若宮八幡宮だ。この「かなまら祭」は、ピンクの巨大なマラ容をした御輿を担いで、練り歩くので有名である。
ここに奉られている金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の二柱を祭神は、元々は、鍛冶や鉱山の神であると同時に、子授け・夫婦和合、性病避けの神であるが、最近はエイズよけの意味もあるということだ。信仰が時代によって変わっていくことは、その信仰が生きているということ、結構な話だと思う。
さて、この金山神社の社殿には、弁天様の象徴である波に三つ鱗紋(左写真)があった。どこかで、女神の弁天様と習合したのではないかというのは、私の想像だ。また、社殿のすぐ近くにはレプリカの黒光りしたマラ(左上写真)があり、来社した善男善女の薄ら笑いを誘う。
こういった土着的なおおらかさは僕は好きだ。明治以降、近代国家を目指した日本は、全国の神社を格付けして、こういった土着的な想像力豊かな神々を排除し、忘却しようとした。しかし民間信仰というのは力強いものだ。平成のこの世にもどっこい生きているではないか。
少子化対策の一環として、こういった神社の振興が実は大事ではないのだろうか。
まさむね
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寺や墓地を廻り、有名人の墓を探す。
僕の趣味の一つである。
先日、新宿区界隈の墓をめぐってきた。
一つ一つの寺は決して有名とはいえない。しかし、それぞれ足を運んでみると味のあるいいお寺さんだ。
今日のエントリーではそれらを紹介してみたい。
★
まずは、牛込神楽坂から徒歩5分のところに、ちょうど、日本書籍出版協会の向かいにある光照寺だ。
ここは、浄土宗。増上寺の末寺ということもあって、本堂の前の賽銭箱には、下り藤の三つ葉葵の紋がついている。
出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺だったため酒井家歴代藩主の墓が残るが、すでに鬱蒼とした草の中に埋もれている感じだ。
一緒に行ったK君が思わず「まるでカンボジアだ」とつぶやくのもわかる。
ここには「月山」や「意味の変容」で有名な芥川賞作家の森敦の墓がある。墓場の入り口のすぐ近くだ。
奥のほうには、便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)という江戸時代の狂歌師の墓があった。狂歌師といえば大田南畝が有名だが、狂歌自体がいまやほとんど過去に埋もれている。
例えば、こんな歌が教科書に載っているくらいだろうか。
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず
「べんべんかんこりう」、その名前の響きが面白いので、思わず口の中でつぶやいてみる。
しかしそれだけだ。
大江戸線に乗り、隣の牛込柳町まで行く。大久保通りを神楽坂方面に100メートル程、戻る。小学校の手前の道を左に折れると常敬寺があった。
ここは、海老一染太郎師匠が眠ってる。
浄土真宗系の寺だけあって、親鸞聖人の立派な銅像があった。
墓地は、その銅像の脇を通った奥にある。
比較的整然とした雰囲気の墓地だった。
そこを出て北にむかうと、すぐに林羅山が眠る林氏専用墓地がある。しかし、鍵がかかっていて中に入れない。
ご存知の通り、林羅山は、朱子学を幕府の官学とした大学者だ。
「朱子学って先祖崇拝は否定しているんじゃないの?」というのはO君の素朴な疑問だ。
まぁ、そのあたりの曖昧さが日本的なところか。
さらに北に向かい、ちょっと左に折れて外苑東通りに出ると、松井須磨子が眠る多聞院と、関孝和の墓と大きく出ている浄輪寺が並んであった。
それぞれ、多聞院は、真言宗、浄輪寺は日蓮宗の寺院だ。
松井須磨子の墓は墓地に足を入れるとすぐにわかる。右斜め前方にその名前が刻まれた墓石が見えた。
日本の近代演劇界の礎を築いた一人・松井須磨子の墓だけあって、大きくて目立つ。さすが墓石にも「花」があるというか...
一方、関孝和の墓は、墓地の一番奥にあるが、新宿区教育委員会の案内板があるからすぐにわかる。
墓石はかなり古く、風化しているのが、うっすらと鶴紋が見えて取れる。江戸時代の墓で家紋が残っているものは比較的少ないがこういう有名人の墓に家紋を発見すると嬉しいものである。
浄輪寺を出て、外苑東通りを南に向かい、大久保通りとの交差点に戻る。大久保通りを大久保方面へちょっと行き、オートバイ屋さんの敷地を通らせてもらって幸国寺へ行く。
この幸国寺も日蓮宗系の寺院である。
ちょうど工事中でバタバタした感じだが、墓地は独特の鄙びた感じがいい。
大都会東京の中にもこんな場所があるんだとこの「取り残され」感を味わう。
東京の無名な寺の墓場を訪問すると、時としてこういう雰囲気に出会うことがある。これが墓巡りの醍醐味の一つである。
さて、この墓地に眠っているのが加太こうじだ。加太姓の墓石が並ぶ。明らかに加太氏はここの檀家の一つである。
特に、墓地を入ってすぐ左側に加太家の墓地があるところをみると、かなり有力な家だったのだろう。
有力な檀家ほど本堂の近くに墓があるというのは墓巡りの常識のようなものだ。
そして次に向かうのが月桂寺だ。ここには、明治の朝日新聞主筆の池辺三山とデンスケの墓がある。
この月桂寺は臨済宗の寺だ。本堂にはその名前を表すかのように月星の大きな紋がついていた。
墓地は広い。しかも、木々で鬱蒼としている。いい雰囲気を残している。
池辺三山の墓は入り口のすぐ近くにあるが、デンスケの墓は奥のほうだ。勿論、デンスケではなく、墓には、恒川家とだけ書いてあった。
両方の墓とも、ここの墓守さんが親切に教えてくれた。
ちょうど池辺三山の墓とデンスケの墓の間の比較的広い場所に柳澤家の墓所があり、そこには花菱のついた墓が沢山あったが、どれも苔むしていた。
この後、タクシーでちょっと離れた愛住町の浄運寺という墓へ向かう。
ここの墓地の奥には、ゴジラの原作者として知られる香山滋(本名:山田鉀治)の墓がある。
また墓地の入り口には、立派なお地蔵さんがあった。
墓地は比較的高台にあるため、お地蔵さんを手前にして向こうは眺めがよくなっている。ちょっと得した気分になった。
また、この寺院の近くには「たんきり地蔵」というセキや気管支炎に効能があるというお地蔵さんがあった。
前日、w-inds.の橘慶太がステージで歌っている途中で気管支炎で病院に直行するという大変な事故があったという。
僕は思わず、このお地蔵さんに「慶太の回復」を願ってしまった。
★
なぎら健壱が出ている東京新聞の宣伝ではないが、東京は広い。そして奥が深い。
まだまだ知らない場所が沢山ある。そして、その土地には、土着の人々が沢山暮らしている。
当たり前の事だが、電車を降りて、歩いてみると改めてそんなことがわかる。
まさむね
散歩, 歴史・家紋 »
烏山の寺町は東京の中でも特異な場所である。
関東大震災によって浅草をはじめとした江戸の寺院が震災にあって、この地に移ってきたという。
浄土真宗、浄土宗、日蓮宗など、様々な宗派の寺々が集まっている独特の雰囲気があるのだ。(写真は高源寺の鴨池)
勿論、それぞれの寺には、有名人が眠っている。
高源院には漫画家の園山俊二氏、幸龍寺には漫才師の内海好江師匠、専光寺には浮世絵師の喜多川歌麿、永隆寺には五代目と六代目の三遊亭圓生師匠、常栄寺には将棋名人の升田幸三、妙高寺には天保の改革で有名な老中・水野忠邦といった具合だ。
それらの墓を一巡りするだけでもちょっとした歴史散策と健康のためのウォーキング、一石二鳥のお得コースである。
★
僕は、それらの墓と同時に寺紋にも興味を持ってみて歩いたのだが、一つ気になることがあったのでこれを機会に記してみたいと思う。
それは、茗荷紋と杏葉紋のことである。
杏葉紋は、もともと、九州戦国大名の雄・大友家の家紋であったのだが、戦乱の中、その紋に憧れる多くの他家の紋となって九州全般に広まっていった。特に、大友氏が耳川の戦いで島津氏に敗れると、それを機に乗じた龍造寺家が、大友氏を圧倒し、同時にこの杏葉紋も奪ったというのは有名な話である。
しかし、この杏葉紋は、一見すると茗荷紋に似ているのだ。よく見ると、杏葉紋には、茗荷にあるような葉脈が描かれていない等の違いはあるのだが、特に注意していないと混乱するのも無理は無い。実際、杏葉紋の本家、大友氏自身が自家の紋を茗荷紋と記している書物もあるらしい。それほど、似ているのだ。
尤も、逆に言えば、多くの人にとっては家紋というものはそれほどこだわるものではなかったという事かもしれないのだ。
僕は上記の杏葉紋と茗荷紋の混乱の話は、家紋関連の本で読んで、知識としては知っていたのであるが、烏山の専光寺で、はじめてこの目で確認することが出来た。
専光寺は、浄土宗の寺院である。浄土宗の開祖である法然が大友氏の出ということで、浄土宗系の寺院ではこの杏葉紋がシンボルとして飾られている事がよくある。伊能忠敬が眠る上野の源空寺でもそうだった。
確かに、烏山の専光寺の門には、立派な杏葉紋が付けれらていた(左上図)。
しかし、寺の境内に入ってみると、火除け水鉢には、杏葉紋ではなく、立派な茗荷紋があるではないか(左下図)。
勿論、僕はここでそれをあげつらいたいわけではない。
それどころか、細かいところにこだわらない日本人のおおらかな精神を尊重したいのである。
もしかしたら、火除け水鉢を受注した職人さんが茗荷紋にしてしまったのにたいして、住職さんは笑顔でありがとうと言って、その職人さんのミスをかばったのかもしれない。そんな物語すら逆に想像してしまうのであった。
★
僕は家紋が好きで、いろんな墓を巡っているが、時に、家紋帳にある規則とは違った家紋に対するご先達のおおらかな態度に出会うことがある。
そしてそんな時、何故だかわからないが、必ずといっていいほど、「いい加減だなぁ」と感じるよりも、「おおらかだなぁ」とほほえましく、暖かい心持にさせられる。
最近、何かと他者に、特に、その失敗に対して、厳しい風潮があるが、そういう態度は決して日本人らしくないのではないかと、杏葉紋と茗荷紋との混同を見て思う烏山での休日であった。
まさむね
散歩 »
先日、御茶ノ水に行った際に、湯島天神に行こうと思い立ったのだが、実際にたどり着いたのは湯島聖堂だった。
僕は御茶ノ水駅のすぐ近くにある湯島聖堂をずっと湯島天神だと思っていたのだ。
明らかな勘違いである。
その日、僕は湯島聖堂にいた。でもまだ自分はそこが湯島天神だと思い込んでいた。
境内には、「第8回藩校サミット」という催しを告知するノボリがそこかしこに立てられている。
そこには、三つ柏の紋が。
天神様(梅紋の聖地)のお膝元でこれほど多くの柏というのも変だなぁと思ったのだが、まぁそういうこともあるのかと、境内の奥へと足を進める。孔子様の大きな銅像が。
人間の勘違いというのは恐ろしいものだ。それでも僕はまだここは湯島天神だと思っていたのだ。
同行していた妻が言う。「なんか長崎の孔子廟みたいな雰囲気だね」
確かに、境内を見ても神社の雰囲気は全く感じられない。
だが、それでもまだ自分の誤解に気づかない僕。僕は自分の習性に従って、家紋を探す。道の脇に防火用の水貯めがあるが、そこにつけられていたのはなんと、三つ葉葵が。
後で知ったのだが、湯島聖堂は、江戸の初期、幕府が儒学を普及させるために創った施設だ。
そのため、三つ葉葵があっても不思議ではない。
しかし、時代の流れとはいえ、半ば捨てられたような水貯めについた三つ葉葵。わびしい雰囲気を出していた。
さらに、屋根の瓦を見る。多くの寺社、旧家では、屋根の瓦に、定紋があるからだ。
ただ、火避けのために巴紋がある場合もある。
しかし、そこにも梅ではなく、別の紋が。
でも、僕がそこを天神じゃなかったと気づいたのは実は家に帰って、ネットで確認してからだった。
なんということか。
★
さて、その後、近くの神田明神にも足を伸ばす。
道路沿いにはは、神田明神祭礼のノボリが。お祭りが近いらしい。
神田明神の境内は明るい。いわゆる神社特有の鬱蒼とした感じはないが、一般の人が気軽に入れる雰囲気がある。
これぞ、下町の空気だ。それ自体は悪くない。
ちょうど、神前結婚式の記念撮影をしていた。
花婿さんの紋付は鷹の羽紋。花婿さんのお母様は揚羽蝶、お嫁さんのお母様の紋付も揚羽蝶。花婿さんとお母様の紋が違うのは、お母様の紋が女紋だから?それとも貸衣装?などと余計なことを考えてしまった。
さて、神社の中は巴紋で溢れている。
ここの巴は、流れ三つ巴といわれる独特の巻き方をしている。巻き足が長いのだ。
江戸屋猫八師匠の紋も近いが、巴の頭の部分の形状が若干違う。神田明神の流れ巴は頭が丸くないのである。
また、神田明神には狛犬がたくさんいる。
特に本堂の脇にある狛犬は筋肉隆々、強そうで立派だ。狛犬も時代に即した流行があるのだ。形状は上野の下谷神社の狛犬と酷似している。もしかしたら、同じ職人が作ったのかもしれない。(最近、ちょっと神社の狛犬が気になっている)
本堂の脇には八雲神社、そこの狛犬はやや大人し目、コケが生していていい雰囲気を出していた。
神田明神の大鳥居から、短い表参道を通って、左にまがりまっすぐ、そのまま秋葉原駅へ向かった。
秋葉原はいつもの秋葉原だ。神田明神とは全く違う人種が沢山いる。それにしても若者が多い。秋葉原ってそんなに面白い場所か?まぁいいけど。
このあたりは、御茶ノ水、神田、神保町、秋葉原と、ブロック一つ違うと文化圏も変わる東京でもユニークなエリアだ。
散歩すると楽しいよね。
まさむね


