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先週末、ワールドコスプレサミットで名古屋に行ったついでに、墓マイラーとしての血が騒ぎ、鳴海のぎんさんの墓へ行ってきた。
というか、行こうとした。
最近、100歳以上の老人の消息が問題となっているようだが、ぎんさんは正真正銘の100歳老人だった。
正確には、107歳で大往生。19世紀、20世紀、21世紀の3世紀をまたいで生き続けたのである。
ちなみに、ぎんさんが生まれた1892年には、あの芥川龍之介も生まれている。
さて、ワールドコスプレサミットの会場のある栄から、ぎんさんの墓があると想定される(名墓録で確認)鳴海までは、金山という駅で乗り換えていくと、40分程度の距離だ。
僕は鳴海町というところを勝手に、小さな町だと勘違いし、行けばなんとかなると思っていた。ところが、この町はとんでもなく広い。
ていうか、緑区鳴海町というところが、沢山ある。
その昔、鳴海という地区をいくつかの行政区分に分けたときに、鳴海町として残った場所が点在しているのである。
いわゆる行政が仕切りきれなかった結果がこうなったのであろう。
それにしても一体、どこの鳴海町にぎんさんは眠っているのであろうか。
僕はとりあえず、その中で一番大きな霊園にタクシーで向かった。
そして、霊園に着くと、事務所の方にお願いして、データベースで蟹江家の墓を検索をしたもらった。
しかし、蟹江家の墓だけで15墓、全部で20000墓もある霊園で、彼女の墓を見つけるのは無理という結論に、僕は、結局、あきらめるしかなかった。
そういえば、僕って別にぎんさんのファンでもないし...
そうつぶやいて自分を慰めるしかなかった。
それにしても、せっかく、名古屋に来て、ぎんさんの墓にしか行こうとする場所が思いつかなかった僕って一体なんなんだろうか。
まさむね
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昨日は、TBC(東京墓石倶楽部)にて、鎌倉の寺々を回り、家紋採取を行った。
暑い中、本当によく歩いた。
北鎌倉駅→円覚寺→浄智寺→東慶寺→建長寺→鶴岡八幡宮→覚園寺→瑞泉寺→寿福寺→成福寺→大船駅という経路だ。途中、瑞泉寺から寿福寺だけはタクシーを利用したが、他は全て徒歩、いやはや。
さて、まずは、このエントリーでは円覚寺について語ってみたいと思う。
円覚寺には、田中絹代、小林正樹、佐田啓二、木下恵介、小津安二郎といった松竹系の大物の墓が多い。
境内に入ってすぐに左手に松嶺院という塔所があり、その裏山に墓所があり、田中絹代、小林正樹、佐田啓二等が眠っている。
佐田啓二はご存知の方も多いかと思うが、中井貴一の父、37歳の若さで交通事故で亡くなった往年の男前俳優である。
デビュー作は木下恵介監督の『不死鳥』、そこでいきなり当時の大女優・田中絹代の相手役として抜擢されたのだ。
その役柄は、結婚一週間後に出征して帰らない悲しい兵隊の役だ。しかし、その映画では二人の接吻シーンが一世を風靡し、後の佐田のスターへの道筋をつけたという。
僕が驚いた(感心した)のは、そんな佐田啓二の墓と田中絹代の墓が、まさしく背中合わせに建っていたということ。
つまり、佐田啓二と田中絹代は『不死鳥』と同様に、永遠に抱き合うことが出来ない悲しい運命を墓の位置が表現しているのである。亡くなった後も、二人は役柄の中では生きていて、僕らの想像を掻き立てる。根っからの俳優だということである。
これはちょうど、雑司が谷霊園で、15代目市村羽左衛門(斬られ与三郎役が役)と6代目尾上梅幸(お富さん役)の墓が並んでいるのと同じセンスである。(「切られ与三郎の三つ盛り揚羽蝶に江戸のイキを感じる」参照)
しかも、田中絹代の墓所は、監督・小林正樹の墓所でもある。ご存知の方も多いと思うが、この小林正樹は田中絹代の又従姉(はとこ)にあたり、田中の死の間際、身寄りのいない彼女の借金の返済などに奔走し、毎日映画コンクールに「田中絹代賞」を創設させた人物としても知られている。
おそらく、小林は大女優・田中絹代に対して、生涯、特別な愛情を抱いていたのであろう。佐田啓二の墓と背中合わせに彼女の墓を建て、後には田中の墓に、自分も入ったのである。
ちなみに、そんな佐田啓二、田中絹代、小林正樹の三人の墓を見護る位置に好奇心旺盛だった開高健の墓があるというのもちょっと笑わせる。
さて、そんな小林正樹が師匠として仰いだのが木下恵介だが、彼の墓は、同じ円覚寺の境内だが、山門から見て右手の奥の方にある。小林達の墓とは距離を置いているのだ。そこの墓は左図(墓所にあった地図を撮影)のような配置になっているが、これはこれで僕の想像(邪推)を掻き立てるものがある。
実は、その木下はホモセクシュアルだったという。一度、結婚をしているが、新婚旅行で見切りをつけ、性的関係のないまま離別したというのだ。彼の墓は、彼が長らく助監督を務めた小津安二郎(生涯独身)の墓の一列離れたそばにあり、小津の「無」と書いてある墓石を永遠に眺める位置にあるのである。
しかし、小津の墓にはおそらくファンが置いたのであろう酒瓶や花で埋まりにぎやかであったが、木下恵介の墓はどこかさびしそうに苔むしていたであった。
まさむね
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会社の近くの渋谷川にかかるこうしん橋の脇に庚申塚がある。
この橋供養碑は、寛政十一年(1799年)に建てられた橋供養塔であって数の少ない珍しいものです。
上部の青面金剛のほかに、四面すべてに橋講中世話役や万人講および、個人の名が多数きざまれてます。
渋谷区教育委員会がこう解説している。もともと庚申塚というのは、すごく簡単に言えば、「60日に一度の庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされる」(Wikiより)中国の民間信仰(道教)の俗信をネタに、その日に寝ずの宴会をしたことを記念に作られた塚である。
つまり、当時の庶民は、自分達の普段の些細な悪行を改めようとするのではなく、その悪行を伝えさせないようするという方法で罪にたいする罰を逃れようとしたのだ。
もちろん、それは、悪知恵というよりも、多少の洒落と解釈すべきだろう。僕はそんな人々のいいかげんな共犯的振る舞いこそ日本的だと思う立場である。
しかし、この庚申信仰は、明治政府が俗信として廃することによって、近代以降は廃れてしまったという。
近代そして現代という時代はこうして一つづつ、人々からおおらかさ、そしてそれに基づいた結びつきを奪っていった過程なのである。
僕はこの庚申塚を通るたびに、そんな古きよき風習のことに思いを馳せる。それにしても、この庚申塚は青面不動が掘ってあるのだが、そこには、世田谷、用賀、四谷千駄ヶ谷などの人々の名前が彫られているのが面白い。
おそらく、それらの比較的広い範囲の人々がこの渋谷川界隈を頻繁に通っていたのだろう。そしてそれらの人々は比較的裕福だったのだろう。だから、お布施としてこの石塔を建てたのだろう。
神社に行くと僕は周りを囲っている石塔に書いてある名前に注目することにしている。そうするとその土地のかつての有力者、いわゆるお大尽の家が分るのだ。例えば、新宿花園神社の石塔には「伊勢丹」の名前が彫られている。それによって、新宿という土地に歴史的にもっとも根付いている企業は「伊勢丹」だということをあらわしている。それは三越でも、丸井でも京王でも、小田急でも、西武でもないということなのだ。
そして、そういったお大尽が土地の人々に仕事を与える、いわゆる公共事業的な意味で、かつては寺社などが作られていたのであろう。それが日本中に寺社が存在していることの大きな理由だと思う。
なにせ、日本全国のコンビニの数よりも、稲荷神社の数の方が圧倒的に多い。それは日本人は信仰が篤いということと同時に、金をお大尽から庶民に回すためのシステムの結果なのである。
現在、民主党政権によって、かつてのそういった金回りのシステムがさらに壊されつつある。子供手当てや農業の個別支援策などがそうだ。そこには、村や町の「顔役つぶし」をする、そこには、日本のシステムを根本的に変えようとしているという大きなテーマがあるのだ。
僕も一時期はそういった地域社会の構造改革に対して支持をしていたが、最近は、いかがなものかと思うようになってきた。
おそらく、一人一人が自立して生きていけるほど、僕らは強くない。
お上(天帝)にゆるく逆らいながら、お互いの些細な悪行を許しあう共犯的な夜通しの宴会を楽しんできた、したたかな洒落っ気こそが僕らの伝統なのである。
まさむね
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先週の土曜日に海晏寺、天妙国寺とならんで、品川神社へ行ってきた。
ここは、板垣退助の墓があることでハカマイラーには知られている場所である。
確かに、神社の奥、境内外に板垣退助の墓はあった。僕の子供の頃は百円札の白髭の爺ということで有名だったが、最近の彼の認知度はいかばかりであろうか。戊辰戦争では、藩命に逆らってでも官軍に従軍したり、征韓論に敗れて下野し、自由民権運動では先頭に立って戦った。相当な烈士だったのだろう。
墓は小高い丘から下を見下ろす場所にあり、墓は悠然としているのだが、どこか寂しげでもある。
家紋は五三の桐。通称、土佐桐ともいうらしい。
先月、よしむねさんが「将軍的微笑の午後、品川神社まで歩く」というエントリーで以下のように書かれていた。
美術館にしても神社にしても必ずしも必要性からだけでは量れない形で、意味のないだだ広い空間が残っていたりするのがとてもいい。奥の院の配置とか、現代の建築の多くがたぶん失ってきたもののひとつだろう。
確かに、この品川神社は無用な場所が多い。そしてその場所に、近所の消防団の記念碑とか、ブランコとか、必ずしも必要とも思えないオブジェが雑然と残っている。「まぁいいか」の精神とでもいおうか。このいい加減さがなんとも心地よい。日本の神道のひとつの良さではないかと僕はひそかに思っている。
さて、この神社の大きな特徴の一つは、各時代の狛犬が一同に会していることかもしれない。
長い神社の階段の前にはいかにも大正末期~昭和初期のいわゆる軍国主義狛犬(右絵)と呼ばれる筋肉隆々で姿勢のいい狛犬がいる。一般的にはカッコいい部類に入ると思われる。ここの他では、乃木神社や東郷神社の狛犬が典型だ。
そして、長い階段を上がったところに見られるのが江戸の狛犬(左絵)だ。寛政という記録文字が見える。江戸の狛犬の特徴は姿勢が素朴なこと、躍動感はないがどこか愛嬌がある。どこか江戸のご隠居を髣髴させる趣がある。
そして、本堂の前にあるのが明治の狛犬(右絵)だ。この時期の狛犬の多くが子供を足元に遊ばせている。子供に対する愛情を感じさせる。富国強兵の時代の名残だろうか。彫刻的にも西洋風が入り込んでいて江戸の狛犬に比べると筋肉表現が巧みになっている。僕はこの時期の狛犬が一番好きだ。
さらに、これは余談、品川神社にはないのだが、戦後、昭和期の狛犬は機械彫りといって画一的な狛犬が多い。これも機械化の一つのメリットでもあり弊害でもある。そして、最近では平成の新芸術狛犬というのも出てきているらしい。これは聞いた話ではあるが、若き美術家たちが狛犬に自己表現の場を見つけているというのである。
まったくもって楽しみな話である。
まさむね
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去年タバコを止めてから体重の増量が進んでいることもあって、夕飯を食べてから、時々ウォーキングをやるようになっている。コースはいつも決まっていて、家を出て、呑川の川べり近くまで行き、そこからターンして池上本門寺の正門へまわってけっこう急峻な参道を登り、寺の裏にまわって、その近辺を散策しつつ家にもどってくるコース。
正味だいたい40分くらいか。本門寺の近くなのでいわゆる周りは寺町でもあり、お墓もけっこう多い。山あり谷あり、アップダウンも充実しており(この辺りはまた坂が大変多い)、それこそ幼稚園からお墓、坂道まで人生の一式が何でも揃っているコースなので、ぼくは「人生の並木道」と勝手に呼んでウォーキングに励んでいる。ただし雨降りの日は行かず、飲み会等があったりすると当然行かないということであまり真面目でない部分もあり、とくに最近はW杯が始まってしまい、ご無沙汰傾向ではあるのだが。
コース途中の教会(大森めぐみ教会内の講堂、幼稚園と隣接)では、去年日野原重明先生の講演会があり聞きにいったことがあった。先生はその前日に韓国から帰ってきたばかりということだったが、なんとも元気な感じでとても98歳の人には見えなかった! さすがいろんな方がおられるものだ。
そういえば、知っているひとで100歳まで生きることを前提に生活設計を考えているとおっしゃっていた方もいたっけ。200歳の少女がヒロインのホラー映画も近々公開されるはず。それはさておき、梅雨の合間でもし今夜も晴れていたら、人生の並木道をまた歩こうかな。
よしむね
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一昨日、6月のTBC(東京墓石倶楽部)で品川に行った話の続きだ。
海晏寺を出た僕らは、そこから数分の天妙国寺に向かった。この寺院は、名前に「妙」の字があることでもわかるとおり、日蓮宗系である。当然、寺紋は橘系の三つ寄せ橘(黒田橘)である。
この寺院の墓所の入り口には、墓所全部の地図が張り出されている。ハカマイラーにとっては、全部の寺院がこうだったら楽なのにと思った。
ここでの目当ては、歌舞伎の「斬られ与三郎」の元素材となった長唄の師匠・芳村伊三郎の墓である。
特に、芳村伊三郎=斬られ与三といえば、春日八郎の「お富さん」の元ネタだ。
この歌には、祖母が「自分の歌だ」と言って歌ってくれた思い出がある。僕の祖母はトミエという名前だったのだ。
それゆえに、僕が生まれる前のヒット曲ではあるが、大好きな歌なのである。
さて、この与三郎の墓の家紋は何であろう。
江戸時代に作られた墓は、石が摩滅していてよくわからない墓が多い。先日、青山の長谷寺でみた伊沢蘭軒の墓の家紋(=梅鉢)もそうだった。
しかし、この紋を近くでよくよく見てみると、なんと、三つ盛り揚羽蝶ではないか(左絵、クリックで拡大)!!
しかも、左下の蝶は反対向きになっているではないか。
これをわかりやすく絵にしてみると右のようになる。僕ははじめてこんなおしゃれな蝶を見た。
さすが、歌舞伎の題材として大当たりしただけのことはある。イキだ!!
これは、僕の家紋主義的妄想なのだが、蝶紋を家紋した男達は、ダンディだがどこか弱みのある御仁が多い。(拙著「家紋主義宣言」)例えば、織田信長、芹沢鴨、トニー谷、萬屋錦之助、中村獅童...そして、この系列に「斬られ与三郎」を加えることが出来たのは大きな収穫であった。
ちなみに、この与三郎とお富さんを題材にした演目は「与話情浮名横櫛」、通称「源氏店」という。ウィキペディアには以下のように書かれていた。
〜(前略)〜復活するのは明治末年になってからのことだった。15代目市村羽左衛門の与三郎、6代目尾上梅幸のお富、4代目尾上松助の蝙蝠安で「源氏店」が上演されるとこれが大評判となる。15代目羽左衛門のニンも与三郎にぴったり合ったのである。以後「源氏店」は大正から昭和のはじめを通じて繰り返し上演されるようになり、歌舞伎を代表する演目の一つとして定着した...
ハカマイラーとしては、15代目市村羽左衛門と6代目尾上梅幸といえば、雑司が谷霊園にその二人の墓が並んでいることを思い出さざるを得ない。
僕も何度も訪れた二人の墓ではあるが、それまでは、歴史上の有名人という位の認識であったが、それが「与三郎」と「お富」という関係だと知り、さらに深くあの場所に愛着を感じてしまうのであった。
ちなみに、二人の家紋であるが、市村羽左衛門は根上り橘(左絵)、尾上梅幸は杏葉菊紋(右絵)である。
まさむね
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6月のTBC(東京墓石倶楽部)は品川近辺の寺々での家紋採取であった。
大井町駅で待ち合わせ、海晏寺(かいあんじ)に向かう。
ウィキペディアによれば、この寺は、鎌倉時代幕府5代執権北条時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の開山により臨済宗の寺院として創建されたという。
墓地は麻布・善福寺と同様に、丘の斜面に作られていて、ここも昔は里山的な場所だったのではないかと想像させる。
僕のこの寺院での大きな目的は児島惟謙の墓である。松平春嶽や、由利公正、岩倉具視などの墓もあるらしいのだが、立ち入り禁止という。ここでの一般墓地の有名人というは彼くらいなのだ。
そして、ついに、児島惟謙の墓を発見。丘の中腹だ。(ちなみに発見したのは、やはり”神眼”を持つO君)
この児島惟謙は、明治時代の大審院長(今で言うところの最高裁判所長官)で、ロシアの皇太子が巡査・津田三蔵に斬りかかられた、いわゆる大津事件で、時の政府が国際関係上、大逆罪の適用を強く主張したのに対して、あくまでも司法の独立を守ったとして後世に名前を残すことになった人物である。
家紋は三つ鱗だ。これは、この寺院の創建者・北条家の紋。北条家と児島家のつながりを感じさせるではないか...と思ったら、児島の墓に(親類か?)緒方と名前が刻まれた墓を発見した。
以前、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生に教えていただいたが、三つ鱗は、緒方家の代表紋だ。それをもとに、拙著「家紋主義宣言」でも、w-inds.の緒方龍一の紋も三つ鱗ではないかと推定している。
おそらく、児島惟謙の三つ鱗紋は、緒方氏からのつながりかもしれない。しかも、惟謙の「惟」の字は、緒方の通字である。たとえば、源平の合戦で活躍した緒方惟栄、緒方洪庵の子、緒方惟準と緒方惟孝などが名前に「惟」の字が使われている。
また、児島惟謙の実父は、宇和島藩士の金子惟彬。金子家と緒方家、そして児島家の関係にも興味あるところである。ちなみに、ウィキペディアにはこう書かれていた。
大津事件に際する直前の明治23年3月10日、惟謙は本籍を北宇和郡三間村から内海村大字内海(赤水)586番戸に移している。 尚、同村須ノ川には「児島」の姓が多い事、父惟彬が金子家に養子に入る前に一時赤水の豊島家の養子に入っていた事などが児島姓を名乗る事に繋がったのではないかと言う説もある。 (新訂・内海村誌より)
今後、余裕があったらさらに調べてみたい。
まさむね
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先週末、新座の平林寺に行ってきた。
鬱蒼とした森の中にある臨済宗の禅寺である。
ここではまだ禅が生きている。多くの僧侶がここで修行している。そういった重みが境内に感じられた。
僕の目的は松永安左エ門の墓である。
この松永安左エ門は、「電力の鬼」とも言われた財界人であると同時に、耳庵(じあん)と号する茶人・古美術収集家としても知られた人物だ。福田和也の「人間の器量」にも取り上げられていた。
いわゆる大物である。
しかし、墓はいたってシンプルだ。ご自身と奥様の墓が並んで立っている。
そして、その墓所の中には扇家の墓という古い墓もある。おそらく、どこからか移されてきたのだろう。松永夫婦の墓よりもずっと年季が入っている。しかし、建立者として安左エ門自身の名前が刻まれていた。
これは松永氏の縁者の墓を、行き場がなくなってここに移したのだろうか。
愛人の墓なのだろうか...
家紋は下がり藤に扇紋。
これは、下がり藤が扇を守っているようにも見える。
墓所の家紋を見るとその向こうに、故人の人生も透けて見えることがある。
それを推理(時に邪推)するのが楽しみなのである。
時間があったら、調べてみたい。
まさむね
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北品川の原美術館で開催されていたヤン・フードンという中国人ビデオ作家の「将軍的微笑」というビデオ作品の展示(上映)を観に行ってきた。その他作品も上映されていたが、やはり標題の作品が一番良かった。
中味はかつて将軍だった人が、死の直前にあって最後の晩餐のようなものが開かれるというコンセプト。美少女たちに支えられて歩く映像シーンや古老のピアニストが暗い室内でピアノを弾くシーン、最後の晩餐のテーブルの映像、少女たちの退廃的なしぐさ、将軍が語る回想シーンやデスマスクの映像など、いろんな工夫趣向があって面白かった。
原美術館はいわゆるモダンアートの美術館として、80年代当時からけっこう有名だった。ぼくも今回久し振りに訪ねた。昨今の不景気のなかでもこういう単館的な美術館がいまも残っていて頑張っていてくれることはやはり嬉しい。これからも頑張ってほしいものだ。写真は原美術館の庭に展示(常設)されているオブジェ作品のようなものなのだけど、いわゆるトマソン(意味不明、摩訶不思議、無用の用、どこか味わい深いもの、等々)と思って取った次第。タイトルはたしか関係的条項とかいうのだったっけかな?
それからこの将軍的微笑のような午後に、その足で近くの品川神社まで行った。品川神社もなかなか良い。大きい通りから石段を上ってゆくのだが、境内に入るともう別世界だ。写真は前方にある鳥居のながめ。こんもりと樹が繁っていて異次元の時間がながれているのが分かる。神社の空間というのは不思議だ。ちょうど京都の吉田神社もそうだったが、神社の裏側の空間とか回りの空間とかがまた面白い。美術館にしても神社にしても必ずしも必要性からだけでは量れない形で、意味のないだだ広い空間が残っていたりするのがとてもいい。奥の院の配置とか、現代の建築の多くがたぶん失ってきたもののひとつだろう。
別の写真には石段前の狛犬と祀られている大黒天様もある。それから境内の端に富士塚があり、そこから東品川方面を見たときの風景。いまでこそ埋め立て地のビルしか見えないけど、昔(江戸時代)はこの辺からずっと向こう側はきっと海だったのだろうな。品川神社から見える海はさぞかし「ひねもすのたりとして」長閑だったろうなどと勝手に想像してみる。
この地にかつて将軍が訪ねてきたことがあるかどうかよく知らないが、まさに文字通り将軍的微笑のようなものがこぼれた静かな午後の神社めぐりだった。FIN
よしむね
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6月に発売予定の「家紋主義宣言」は、墓マイラー(家紋採取者)の散歩記という面もあります。お楽しみに。
★
さて、先週の週末にTBC(東京墓石倶楽部)で麻布近辺の墓を巡った。
このTBCは仕事関連の元同僚と作っている東京近辺の霊園や寺院を巡り、墓や墓に彫られている家紋を採取してまわる地味な倶楽部である。
最近は、墓巡りを趣味とされる方も増えてきたようで霊園などでカメラを肩から下げ、本を片手に墓を探している方々の姿をよく目にするようになった。
おそらく、この長引く不況によって、人々の娯楽に対する意識も徐々に変わっているのを実感する。もう一度、足元を見直してみれば、楽しいことはゴロゴロと転がっているのかもしれないのだ。決して、金をかけたからといって充実した休日をすごせるわけではない。よく考えてみれば、当たり前の話である。
さて、麻布近辺の寺でまず思い浮かぶのが、麻布十番にある善福寺だ。慶応義塾創設者の福沢諭吉先生夫妻の墓がある。家紋は丸に抱き鷹の羽(左画像)である。一般的に、映画などで福沢諭吉が描かれるときには割り楓紋の紋付を着ていることが多い。確か、柴田恭兵が主演の映画もそうだった。また、多磨霊園にある福沢桃介(福沢諭吉の養子)の墓では割り楓の紋(右画像)を見ることが出来る。
また、この善福寺には、福沢諭吉の墓のほか、源氏鶏太や鮎川信夫の墓もある。それらの墓は、福沢諭吉の墓の脇のちょっとした丘の斜面にある。おそらく、このエリアはその昔は里山的な場所だったのかもしれない。
麻布といえば、元麻布の賢崇寺の鍋島藩関連の墓も味わいがある。本堂に一番近いところに、鍋島忠直や歴代・鍋島家(三家)があり、その奥に家臣達の墓が並ぶ。一番奥に歴史学者の久米邦武、画家の久米桂一郎の墓があった。家紋は五つ銀杏である。
鍋島といえば、今で言うところの佐賀県、長崎県あたりの藩主である。一連の墓の中に、原口家や久間家の墓などがあったが、もしかしたら、現総務大臣・原口氏や元防衛大臣の久間氏の遠縁にあたる方がねむっているのかもしれない。
二人ともあのあたりの出身だ。そういったところを想像して歩くのも楽しい。
ちなみに、原口氏の墓所には違い鷹の羽、久間氏の墓には花菱の家紋が見られた。
麻布といえば、欠かせないのが新選組・沖田総司の墓がある専称寺であるが残念ながらここは墓所に立ち入ることが禁止されている。塀の外から写真をとることができるだけだ。ただ、丸に横木瓜という家紋だけは確認できた。よかった。
また、麻布における墓マイラーの最大の聖地が長谷寺である。このお寺は高樹町の交差点、フジフィルムの本社のすぐ近くにある曹洞宗のお寺さん、竜胆車の寺紋がみえる。
今までも何回か訪れたこともあったのだが、今回は、徳間書店社長の徳間康快氏の墓参と家紋採取が目的だった。こういった最近亡くなった大物の墓は新しく大きいという(当たり前)の文字通りの”定石”があるのだが、徳間氏の墓は、墓所の奥に一般の方と同じような墓であった。これでは今までわからなかったわけだ。家紋は三つ星に二つ引きであった。
また、この長谷寺には明治の元勲の一人・井上馨の墓があることでも知られているが、彼の墓所は大きい。そこに立っている石灯篭には、沢瀉のデザインが付されていた。そのあたり彼が長州閥であることをそれとなく知らせてくれる。
さらに今回の長谷寺参りで、TBCのH君が大発見をしてくれた。墓所の入り口近くに、江角家の墓を発見したのだ。建立者のところには平野真紀子の名前がある、間違いない。そして、江角家の家紋は丸に横木瓜であることも確認。
この横木瓜は、樋口一葉、平塚雷鳥、岡田嘉子、広末涼子など、何故か女性有名人が目立つ。そこに江角マキコも名前を連ねるわけである。
都内の墓所はどこもしっとりしていていい雰囲気だ。表通りの喧騒とグローバル化に比較すると、その寺々の静寂はなんとも心を落ち着かせてくれる。いい休日だった。
まさむね



