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昨日は、少し時間が合ったので中野の近辺の寺に行ってきました。
僕は中野区の小学校に行っていたので、子供の頃、授業で、このあたりに寺町があるという話を思い出しました。確か、明治時代の区画整理や、関東大震災後に、浅草近辺にあった寺の多くが、ここ中野や、世田谷区の烏山に越してきたということを聞いたことがあります。
ただ、その前からこの中野に存在した寺の代表格が、宝仙寺です。ここは有名人の葬儀・告別式がよく行われることでも知られており、確か、プロレスラーの三沢光晴選手や、漫画家の赤塚不二夫さんの告別式もここで執り行われました。
かの有名な武家の棟梁・八幡太郎義家(源義家)によって開かれたと伝わり、杉並区の大宮八幡宮の別当寺ということで、江戸時代には相当広い土地を領していたらしいですね。
ここに眠るのが、丸井の創業者・青井忠治氏。さすが名士だけあって、本堂近くの特別な場所に墓を構えています。
一般的に、大企業の創業家(大社長)の墓は、例えば、大日本印刷の北島家(吉祥寺)、西武の堤家(鎌倉霊園)、安田財閥の安田善次郎(護国寺)なんかもそうですが、このように墓所も大きく別格扱いされていることがありますね。今でも多くの人が参拝するからでしょう。
また、その他、ここには文化人類学者の石田英一郎の墓がありましたが、残念ながら墓には家紋はありませんでした。
さらに、結構広い墓域を周り、墓を見て回りました。当たり前の話ですが、代々、土地に根付いた家の墓は同じ名字で、沢山ありますね。ちなみに宝仙寺では、高橋とか飯塚といった名字の墓が多いようでした。
次に訪れたのが、この宝仙寺から、少し歩くのですが、上高田の高徳寺です。ここには、江戸時代の学者政治家・新井白石の墓、山野美容学院の創設者・山野愛子の墓、長門裕之・南田陽子夫妻が眠る加藤家の墓があります。
ただ、今日の目的は、もう、25年も前にNHKの朝ドラ「はね駒」のヒロイン(斉藤由貴)のモデルとなった磯村春子の墓です。文学者や女性の墓はどちらかといえば、大企業の創業者や政治家に比べると、こじんまりとした墓が多いので、探すのに苦労することがありますが、この磯村春子の墓は、新井白石の墓のすぐそばにありました。
これも不思議なのですが、先日行った総持寺の猪木家、大西瀧治郎、益田孝の墓もそうですが、有名人の墓は比較的、近接していることが多いですね。
有名なところでは、三鷹・禅林寺の太宰治の墓と森鴎外の墓、巣鴨・慈眼寺の芥川龍之介の墓と谷崎潤一郎の墓、鎌倉霊園の川端康成の墓と堀口大學の墓とかでしょうか。
時間があまりなかったので、昨日はそれくらい。ただ、ここは西武新宿線・中井駅からの歩ける場所なのでまた来ようと思いました。
また、僕は寺社を回るとそこの寺紋、神紋、そして近所の街中にある家紋も撮影し、以下に掲載しています。
よろしければ、こちらもご覧下さい。
日本家紋地図(街中の家紋)
全国寺社紋地図
まさむね
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池上本門寺は素晴らしいお寺さんです。
僕は、階段を上がった丘の上にある寺社はなんとなく信用できるんですね。麻布の元神明宮とか、品川神社とか、赤坂の日枝神社とか...
その昔、寺社の近くにあるコンピュータのデータセンターは、安心という話を聞いたことがあります。
長い歴史の中で、古人は、地盤の固いところ、地震に強いところに古社を作ったに違いないからという理由です。なんとなく納得できる話だと僕は思いました。
そして、この池上本門寺も長い階段を上がらないと境内にたどり着けません。登りきるとちょっと息が切れました。
さて、本門寺の墓所の話をしましょうか。
ここは総持寺に比べると、それほど広くはないのですが、多士済々の墓を拝むことが出来ます。
有名なところでは、幸田露伴、市川雷蔵、片岡仁左衛門(11代)、松本幸四郎(7代)、映画監督の溝口健二、そして我らがスーパースターの力道山。
ご存知の方は多いかと思いますが、池上本門寺は、力道山の生前から、日本プロレス界と深いつながりがあったらしく、山門の仁王像のモデルは若き日のアントニオ猪木だそうです。
その他にも、日本プロレスコミッショナーの大野伴睦自民党副総裁、リキエンタープライズの山本社長、東京スポーツ会長の太刀川恒夫の太刀川家の墓もここにあります。
それらの墓の中でも特に目立つのが大野伴睦先生の墓所にある虎の石像ですね。東海道新幹線に無理矢理、岐阜羽島駅を作らせたというその強引さは、この墓のデザインにも現れているようにも思います。
また、ここの墓所の、三重塔から力道山の墓へかけての道沿いには、戦後日本社会の黒幕・児玉誉士夫を始め、大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた大映オーナーの永田雅一、元自民党幹事長の斎藤邦吉、東京ガスのドン・安西浩、日本赤十字社社長の花房義質、閔妃殺害事件で投獄された岡本柳之助、稲川組の石井会長や、東声会の町井会長等の墓が左右に並んでいるんですね。これだけの大物を集めるというのもある意味、日蓮上人の威徳でしょうか...
僕は、自分の頭の中で、墓参をするときに生前のその方のイメージを沸かせて参るのですが、この道は、東京の様々な墓所の中でも屈指の”大物ストリート”で、そんな大物達の間を歩いていくというのは、イメージだけの話ではありますが、ちょっとビビります!!まぁそれが墓マイラーの醍醐味でもあるんですがww。
というわけで、今日は、池上本門寺の墓所はいつ来ても、身が引き締まり、しかも、楽しいというお話でした。
まさむね
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昨日、久しぶりに鶴見の総持寺と池上の本門寺に、TBC(東京墓石クラブ)のO君と二人で行きました。
勿論、家紋を有名人の家紋を確認、撮影するためです。
今日のエントリーでは、総持寺について書いてみたいと思います。
ご存知の方も多いかと思いますが、総持寺は、曹洞宗大本山(寺紋は五七の桐紋)で大変広い敷地を持っています。それゆえ、墓地も広いですね。
今回の目的はの第一は、「特攻隊の父」といわれた大西瀧治郎の墓、その隣にあるといわれている猪木家(アントニオ猪木の)の墓です。これに関しては、こちらのブログ(愉快痛快奇奇怪怪)を参考にさせていただきました。
さらに、僕にとっては、参考書的なサイト=名簿録に載っていた情報ですが、往年の名将・水原茂さんの墓ですね。また、例えば、コチラのブログ=カームラサンの奥之院興廃記にも書かれていますが、音楽家・黛敏郎氏の墓です。
さて、総持寺の墓地ですが、入り口から見て大きく分けて、左のエリア、正面のエリア、右のエリアがあります。
左のエリアの代表墓は何と言っても石原裕次郎さんの墓でしょう。墓地にも「裕ちゃんの墓→」という案内板が出ています。さすがスーパースターですね。
裕ちゃんの墓の他、このエリアには、哲学者の岩元禎、日本画家の前田青邨、建築家の伊東忠太等の墓があります。今回は、その他に言語政策提案者の山下芳太郎さんの墓を見つけました。この方は、横書きのカタカナ普及のために尽力した方で、墓の名前まで横書きのカタカナで彫られています。ここまで徹底しているというは、ある意味、素晴らしいですね。家紋は剣片喰い紋でした。
また、正面のエリアは、以前行った時にかなり回ったので今回は後回しにする作戦を立てました。ちなみに、このエリアには堺利彦や前田山、川上貞奴、浅野セメント会長の墓などがあります。
そして、僕らは、今回のメインターゲット、右のエリアに足を運びました。うれしいことに愉快痛快奇奇怪怪には墓の写真が掲載されてありました。僕らはこのエリアで、写真に写りこんでいる墓の背景の場所を探しました。
そうしたら、ありました、ありました。写真には、大祖堂の端が写っているじゃないですか。
O君はその情報を元に早速、墓を発見。さすが、彼は広大な墓所から墓を見つける天才です。
そして、家紋をゲット!大西瀧治郎中将の家紋は鞠挟みに違い鷹の羽紋。鞠挟みの中に何か入っている有名人の家紋は、幣原外交で有名な幣原喜重郎氏の鞠挟みに梅鉢以来の出会いです。
そして、その隣は、憧れの天才レスラーアントニオ猪木の実家・猪木家の墓がありました。猪木さんは鶴見の出身、家は、相当の資産家だったようですね。
家紋は、丸に横木瓜、猪木さんのエキセントリックなたたずまいからみると、木瓜というのは意外に「普通」な感じがしました。
ちなみに、猪木さんと同じ丸に横木瓜紋の有名人は、沖田総司、樋口一葉、豊田佐吉、坂本九、森喜朗...。ご興味のある方はコチラをご覧下さい。
そして、オマケと言っては何ですが、偶然、見つかったのは、それらの墓の前にあった益田孝氏(三井物産創設者)の墓です。これはラッキー。益田家の家紋は、三つ割り菊紋でした。
さて、残るは水原茂氏と、黛敏郎氏の墓です。あとは、二人でしらみつぶして歩いて探すしかないです。
そして、今回の重点エリア(右エリア)の最も端の壁際の列に、水原茂氏の墓を発見しました。目的の墓を発見した瞬間というのは、本当に嬉しいですね。これだから、墓マイラーは辞められません。
そして、家紋の撮影ですが、その前に、お墓に彫られている茂氏の名前と死亡年月日を読み、ご本人と確認、これは必須の手順です。
驚いたのは、その家紋が丸に右荒枝付き三階松に株竹紋だったことです。この家紋は、森本景一氏の「家紋を探る」でも、幻の家紋と評されていた家紋です。僕にとっても、初めて出会った家紋でした。
ちなみに、右寄り三階松というくくりで言えば、映画監督・木下惠介やミュージシャンの細野晴臣、X-APANのhideの家紋でもあります。ご興味のある方は、コチラをご覧下さい。
それから二人別々に、墓所を歩き回ったのですが、結局、黛敏郎の墓は見つけることは出来ませんでした。
まぁ、またいつか来ればいいや、墓探しは深追いは禁物です。心の中で両手を合わせ、頭を下げて、総持寺を去りました。
次の池上本門寺が待っていますからね。
まさむね
※本門寺探訪に関しては明日のエントリーで書こうと思います。
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先月行った青山霊園に関して、書こう、書こうと思いながら、時間ばかりが経ってしまった。
やっぱり、ブログは思い立った時に書かないとダメだ。
で、まず、何を書こうとしたかと言うと、青山霊園が、自ら墓マイラーへのPR作戦を大々的にはじめているということである。
なんと、事務所に行くと、詳細な地図と、有名人の墓の案内パンフレットを無料で配ってくれるのだ。以前の地図に比べると数段、豪華になっているではないか。
特にこの地図は、わかりやすい。霊園はとにかく、どこもそうだが、1種、2種、イ、ロみたいに複雑な符番制になっているので、こういった詳細な地図が(しかも無料で)あるととっても嬉しい。
墓マイラーの方は是非、事務所に立ち寄られることをおススメしたい。
ちなみに、一般的に、霊園の中でも青山霊園や春秋苑のように、墓マイラーに好意的なところと、例えば、横浜・日野公園墓地みたいにそうでもないところのポリシーの違いが明確にあるようだが、僕らとしては是非、多くの霊園で、公式ツアーマップのご用意をお願いしたいところだ。
また、今回、青山霊園に行って驚いたことが一つ、なんと、トップレベルの名所だった吉田茂の墓が無くなっているのである。なんでも、横浜市の久保山墓地に移転されたそうであるが、さびしい限りである。当然のことではあるが、有名人の墓を一つのウリにしたい青山霊園としても、墓の移動は個々の家の判断なのでいかんともしがたいのだろう。今後、青山霊園名所化には一つの課題かもしれない。
また、今回の墓参りで一つ発見をした。それは橋本龍太郎の墓を見つけたことだ。もしも、橋本龍太郎が存命だったら現在の政局をどのように評されただろうか、興味深いところである。橋本龍太郎は生前、剣道の達人としても知られていた。確か、海外の要人が来られた時にも、その腕前を披露していたような。
これは僕の想像であるが、橋本龍太郎の墓が、大日本武徳会を結成し、近代剣道の確立に尽力した渡邊昇と同じ並びに構えられているというのも、そのあたりを意識してのことだろうか。
さて、最後に家紋関連のこと。
僕は今まで、第4代、6代内閣総理大臣の松方正義の家紋は抱き菊の葉だと思っていたのだが、よく見ると、抱き葉の中に、抱き茗荷が隠れていたのだ。以前、見たときに、見逃していたのだ。まったくもって恥ずかしいことである。(画像クリックで拡大)
まさむね
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昨日、25日は新撰組の人気者・沖田総司の「総司忌」ということで六本木・専称寺に行ってきた。(左が沖田総司の家紋の丸に木瓜紋、右が沖田総司の肖像画)
このお寺は、普段は墓地を開放していない。
それゆえ、この日は、多くの新撰組ファン、沖田総司ファンでお寺の周りには行列が出来ていた。
ざっと数えたところ、300名位はいたであろうか。ほとんどが若い女性であった。
一般的に沖田総司といえば、純情、美青年、剣の達人、しかも夭折というようなキーワードが思い浮かぶ。
歴史物語的には、池田屋事件で尊皇攘夷の志士を襲撃したときに、結核のため吐血したシーンに鮮烈な印象がある。(子母澤寛の創作という話もあるが...)
ただし、現在残っている肖像画は、はっきり言って、美青年とは言えない。(これは後世、親類の子供を元に書かれたものだそうだ。)美人薄命というが、男性に関しても、同じようなことがいえるのかもしれない。
そして、この肖像画を無視し、当然のごとく、映画やドラマでは、戦後一貫して、トップクラスのイケメンが沖田総司役を演じている。下の表を見ていただければ一目瞭然、女性のファンが沖田総司に対して、ある種のイメージを抱くのは自然なことであろう。
作品
年代
媒体
俳優名
壮烈新選組 幕末の動乱
1960年
映画
若山富三郎
新撰組
1969年
映画
北大路欣也
沖田総司
1974年
映画
草刈正雄
沖田総司 華麗なる暗殺者
1982年
TVドラマ
郷ひろみ
燃えて散る 炎の剣士 沖田総司
1984年
TVドラマ
田原俊彦
新撰組
1987年
TVドラマ
東山紀之
幕末純情伝
1991年
映画
牧瀬里穂
御法度
1999年
映画
武田真治
新選組!
2004年
大河ドラマ
藤原竜也
矜持I
2006年
映画
加勢大周
実録 新選組
2006年
OV
大沢樹生
さて、先月、僕は「「新撰組」の人気の秘密について」というエントリーを書いたのだが、その中で司馬遼太郎さんの次の言葉を引用させていただいた。
近藤と土方、この二人は出身についての劣等感があっただけに必要以上に士道的な美意識を持っていた。
人は劣等感があると、無意識的にでも、過剰にその役割を演じるものかもしれない。ここでは、司馬さんは近藤と土方の生き方について語っているのだが、本日、NHK大河ドラマ「江」の中での秀吉にもそのことが言えるのかもしれない。彼は農民(あるいは下級武士)階級出身という出自ゆえに、より過剰に関白になろうとしたのである。
同様のことは、三種の神器のうち、刀剣無くして天皇となられた後鳥羽天皇が、武断的なふるまいをされたとか、いわゆるくじ引きで将軍となった足利義教が、強い将軍を目指し、残忍な振る舞いを行ったのも、通底する心理かもしれないと僕は思う。
(あるいは、最近ではオカマ芸人が、女性よりも女性らしく振舞おうとするのも、その一連の流れか?!)
話を新撰組に戻す。
彼らは、過剰に士道的美意識にこだわった反面、内部粛清の手段は思いのほか陰険だったようにも思える。近藤、土方達は芹沢鴨を暗殺したときも、伊東甲子太郎を闇討ちした時(油小路事件)も、その前に酒を飲ませて、相手を泥酔させているではないか。これは、江戸中期以降の武士道には見られない振る舞いである。
しかし、彼らの酒を利用しての卑怯さは、ある意味、日本の伝統かもしれない。古くは古事記において、スサノウがヤマタノオロチを退治した場面、ヤマトタケルが熊襲タケルを倒した場面、いずれも酒を飲ませて油断したところを討っている。時代が下れば、平安時代の源頼光とその四天王による酒呑童子退治の逸話、室町時代の赤松満祐が足利義教を討った嘉吉の乱、江戸時代初期の松前藩がアイヌのシャクシャインを騙し討ちした事件なども、いずれも酒の席での話である。酒の席というのはその意味で、暗殺”特区”なのだろうか。
これは西洋でも同じだが、乾杯をして、誰彼もが一緒に杯を傾けるのは、そういった暗い記憶が残した形式なのかもしれないと思う。
どうしても新撰組から話がずれてしまう。さて、沖田総司の話だった。
彼は戊辰戦争の最中に、結核に倒れる。近藤勇を戦場に送り出す病床で、涙したとも伝えられている。本当に感情の豊かな青年だったのでろう。
しかし、当時は結核は死に至る病である。沖田総司は、そのまま病床で息絶える。あの時代、結核で倒れた偉人といえば、高杉晋作も思い浮かぶ。でも高杉の場合はまだ救われる。彼の意思は次の世にも引き継がれるのだから...
しかし、歴史の”優しさ”とでもいうべきか。新撰組は歴史の藻屑と消えたが、あの専称寺の長蛇の列を見るにつけ、沖田総司は死して、確実に伝説を残したようだ。
さて、幕末の乱世が通り過ぎた明治以降、結核は、文学者の生き方と大きく関わっていく。結核こそ、上品さや繊細さの指標となっていったのである。正岡子規、石川啄木、中原中也、立原道造...夭折の詩人はみな結核による死とともに、伝説を残すのだ。
ちなみに、太宰治も、結核にあこがれて、汚水を飲んだことがあるという話もどこかで読んだような気がするが覚えていない。
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