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最近、少し考えていることがあります。
もしかしたら、日本人にとって伝統を守るということはそれほど厳密なことではないのではないかということです。
いや、むしろ、曖昧に、いい加減に伝えて、でも、「まぁいいか!」というような、その伝え方自体が伝統ではないのかということです。
例えば、先日、青山霊園の一条実良の墓へ行きました。一条実良という方は、幕末から明治にかけての公家で、明治天皇の正妻・昭憲皇太后のお兄様にあたる方で、当時の一条家の当主、右大臣にもなっています。それで、この人のお墓には家紋が彫ってあるのですが、それが一般的に紋帳に出ている一条下り藤(一条藤 左図)とは微妙に違うんですね。
葉っぱの形状がまばらな感じではなくて、普通の下り藤紋と同様の形状でした。ただ、中央から下に垂れ下がる蔓の部分の形状は同じです。
藤原五摂家という、人臣では最高位の家柄が使用する家紋にして、このように微妙な変化を、寛容している、僕はなんとなく、そういったところに日本の文化の伝承の特徴があるのではないかと想像したのでした。
勿論、これはあくまでも想像ですので、その変化にはなんらかの意味や意図があったのかもしれませんが、とりあえず、探求はしないでおきます。
ちなみに、昭憲皇太后の名前についてこんな話があるのをご存知でしょうか。本来であったら、天皇の正妻ですから、昭憲皇后となるべきなのですが、それが内宮大臣のミスによって、皇太后になってしまったというお話です。こちらの経緯に関しては、明治神宮のHPのQ&Aコーナーでも取り上げられています。
そういえば、以前も、多磨霊園にある西園寺公望の墓の巴紋が、左三つ巴ではなく、右三つ巴であることがちょっと気になったことがありました。西園寺家の巴紋といえば、11世紀の「愚管抄」にも著されており、最も古い家紋の一つといわれているのですが、それにして、いつの間にか、左が右となっておりました。
まぁ、日本の伝統の根源たる人々ですら、こういった感じなので、私達のような一般人は、それほど、形式にこだわって伝統を守ろうとしなくてもいいのかもしれないですね。
まさむね
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今日は11月30日、11月最後の日です。
実は、自分の今月の目標はとりあえず、1ヶ月間、毎日、一つづつエントリーをアップすることでした。
いくら、時間があるとはいえ、そして、何を書いてもいいとはいえ、1ヶ月間、毎日書くというのはそれなりに大変なことでした。新聞記者とか、作家とか、プロで毎日、文章を書かれている人って本当に凄いと思います。
というわけで、明日からは、また、元のペースに戻って、アニメなどについても書き始めたいと思います。アニメ修行100と言いながら、48で止まってしまっていましたからね。
さて、今日は、たまたま、外で人に会う用事があり、その前にちょっと青山霊園に足を運びました。
変に思われる方も多いかもしれませんが、僕にとっては青山霊園は都会のオアシスのような場所です。あそこに行くと、なんだかホッとします。
そういえば、今日、初めて気づいたことがありました。
青山霊園は、1種イ、1種ロ、2種イ、2種ロというように、墓所が、4つのランクで分かれています。2種よりも1種の方が、そしてロよりもイの方が、いい場所にあり、しかも、立派な墓も多いようです。
それで、気づいたことというのは、実は、青山霊園には、1種イ14という地区が存在しないのですね。1種ロ14や2種ロ14は存在するのにです。これはなんとなく、不気味ではないですか。
そういえば、その昔、ゲゲゲの鬼太郎に4階の存在しないビルというのが出てきたことがありました。そこには人間は行けません。確か、妖怪・達磨が住んでいたんですよね。そこで、僕は、この1種イ14には、何か別世界への入り口があり、普段は地図にも載っていないが誰も気づかないでいる...そんなエリアではないのではないかと想像してしまいました。
以前にも書いたことがある(4番ベッドの無い病院、13階の無いビルなど)のですが、僕は4番が存在しない場所やビルがなんだかとっても気になります。
例えば、毎週土曜日に、C型肝炎治療のために、ネオファーゲンの注射をしてもらいに、病院に行くのですが、そこの治療室には4番のベッドがありません。その治療室に入るたびに、今でも、3番ベッドと5番ベッドの間の”不在の4番ベッド”を見ちゃうんですよね。
まぁ、それはともかく、今日、撮ってきた家紋はまた、おいおい「有名人の家紋」にアップしたいと思います。また、伊地知彦次郎の家紋も撮影したので、こちらも、近々、「NHKドラマ「坂の上の雲」 主要登場人物 家紋一覧」の方へアップしたいと思います。
それでは、今日は疲れたので、このあたりで、お休みなさい。
まさむね
政治, 日常雑事 雑感 »
「青山繁晴の地獄の果てまで生ニコニコ」というニコニコ動画の番組を観ました。
ご存知の方も多いかと思いますが、青山氏は、元々は共同通信の記者だったのですが、退社後に、御自身のシンクタンク「独立総合研究所」を設立され、エネルギー政策などに独自の視点から提言を続けておられる方です。
僕は、『青山繁晴が答えて、答えて、答える!』というチャンネル桜の番組は、YOUTUBEなどで、よく拝見しているのですが、上記の番組はそれを拡大し、テンションを上げ、若干、若者向けのノリにしたようなエキサイティングな番組になっておりました。
さて、その番組の中で、視聴者からのこんな質問が紹介されました。
TPPはデメリットの方が大きいように感じるけれども、それでもなお、政府を始め、根強く推進派の政治家が多く存在します。それは、やはりアメリカの政治的圧力というものがあるのでしょうか。
それに対して、青山氏は以下のように答えていました。
アメリカの政治的圧力があるというならまだいいんです。そうじゃなくて、野田総理を始めとする保身に走った政治家が、勝手にアメリカを気にして、アメリカの言う事を聞かないと自分の将来がなくなると思い込んでいるから、それが圧力になっているだけであって、僕の知る限り、アメリカが直接圧力をかけてきた気配はほとんどないんですね。
(中略)
言われる前から、「はい、私はちゃんと、アメリカ様の気持ちをわかっていますよ」ということでやろうとしているのが日本の政治の実態だと思っています。
つまり、ここでは日本の政治家や官僚が、ある種の空気に従って行動することによって、自ら進んで、その主権を放棄しようとしているということですね。ついで言えば、彼らは、無意識的に、何を守ろうとしているのかと言えば、おそらく、戦後日本の体制であり、目の前の経済的繁栄という(敢て言えば)幻想になるのだろうと思います。
こういった無意識の空気に突き動かされるという日本人の気質は、長い間、閉鎖された島国で生きてきた僕らの習性なのでしょうか。
勿論、上記の例は、かなり情けない話なのですが、こういった習性は、「目的が明確である場合は、特に誰から指示されたわけでもないが、それぞれが適切な行動を取る」というようにポジティブに発揮されることもあり、実は、それほど悪い面だけではないということもあります。
このところ、連日引用している『忘れられた日本人』のなかにも、そういった行動を取る日本人達のことが出てきます。
それは、昭和の30年代の始め頃の、周防大島の農村での話です。
一年生くらいの男の子が、突然、居なくなってしまったのです。心配した家の人は、警防団の人に出てもらって、家の近所のお宮の森へ何十人もが探しに出ました。結局は子供は、家の戸袋の隅からひょっこりと出てきて事なきを得たということなのですが、著者(宮本常一氏)は、その時のことを驚きをもって以下のように書いています。
子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子供の友達の家を、Dは隣部落へという風に、子供の行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手分けしてそうしてもらったのでもなければ、申し合わせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、勝手に探しにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれその心当たりをさがしてくれたのであるが、あとで気がついてみると実に計画的に捜査がなされている。
(中略)
そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。
おそらく、日本人の連帯というのはこういった、目的が明確な時に最強に発揮されるのだろうと僕は思います。冒頭に紹介した同調圧力に弱いという日本人の欠点も、こうした場面では十分、美徳、あるいは力になり得るということですね。そして、311の震災の時の東北の被災された方々の行動にもこういった暗黙の行動規律があったようにも思いますね。
関係ないですが、この場面を読んで、僕は宮崎駿の「となりのトトロ」で、行方不明になったメイを村人が総出で探すシーンを思い出してしまいました。そして、もしかしたら、『忘れられた日本人』は、宮崎駿さんのネタ元だったのかもしれないと思いました。
話を戻します。
しかし、この日本人の特徴は、段々薄れてくるのではないかということも、実は、この『忘れられた日本人』には示唆されています。
一方で村人が真剣に探し回っている最中に、捜査に参加しようとせず、まったく他人事で、噂話だけをしている人々もいたということなのです。
そして、そういった人々は、新しく村人になったような人々で、普段は、旧住民と普通に交際しているのですが、いざというときには役に立たないのだと、宮本氏は述べているのです。
以前、僕は、「現代における「絆」とは? ~天皇陛下のご感想と飯島愛の死~」というエントリーを書きました。
そこで、危機的な状況の時に大事な「絆」は、お互いがお互いを縛るという性質のものであり、維持していくにはそれなりの「強制」がないといけないのではないか、というようなことを述べてました。
そして、この気持ちは、311以降、さらに強くなっています。抗しがたい歴史の流れの中で、人々がどのように「絆」を維持し、あるいは再生できるのかというのは、現代の日本人とって一番大事なことだと、今でも思っています。
そして、付け加えるならば、そうした絆がポジティブに発揮できるような、共通の目的を持たせること、それが政治家の大事な仕事だと僕は思います。
まさむね
※ここのところ、数回、引用してきた『忘れられた日本人』については、とりあえず、今日のエントリーで一旦離れようと思います。
明日からまた別のことについて書いてみようかな。
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かなり以前、友人と話をしているときに、「一体、教養とは何だ?」という話になったことがありました。もう、30年も前の話です。
確かに、「あの人は教養がある」というような言い方をするとき、その定義は曖昧ですね。
物知りというのは、教養というのに近い気がしますが、最近は、スマフォを携帯している人が多くて、知識の多さや、正確さは、ネットにはかないません。
なので、知識を頭の中に持つということの価値が以前に比べて、落ちてきているようにも思えます。
そこで、Wikipediaの「教養」の項を見てみることにしました。すると、このように書かれてあります。
一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。
なるほど、知識に加えて、人間力が必要ということでしょうか。これはなかなかハードルが高そうです。
また、日本における教養の箇所を見ると以下のように書かれてありました。
古代中国の影響を強く受ける形で、日本でも四書五経や漢詩は伝統的に重要視されてきている。やがて、日本独特の諸文芸や和歌がこれらと並ぶようになった。文人画などの絵画を自ら描く事も教養の一部を担っている。
それにしても、、現在の日本人に漢詩や和歌や文人画などを理解している人はどれだけいるのでしょうか。
でも、いつになるのかわかりませんが、出来れば、死ぬ間際に和歌(いわゆる辞世の歌)を残すというようなことぐらいはしてみたいものです。
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 柴田勝家
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢 豊臣秀吉
嬉しやと 再びさめて ひとねむり 浮き世の夢は あかつきの空 徳川家康
これらは、現在放送されている大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主人公・江の義父達がそれぞれ残した辞世の歌ですが、どの歌にも夢という言葉が入っているのが目に付きます。
あんなに激しい人生を生きた人々が最期に行き着く場所に、「この世は夢だった」という観念があるというのが極めて日本的ではないですか。
その和歌に関してなのですが、以前、どこかで渡部昇一先生が「日本には和歌の元の平等がある」というようなことを書かれていました。つまり、万葉の昔から、日本人は、歌を詠む歌人としては、庶民も天皇も平等だという意味でしょうか。これも日本文化のある側面を言い当てた言葉だと思いますね。
さて、最後に僕が数日前から話題にしている『忘れられた日本人』からの話です。
この本には、幕末から明治にかけての、何人かの庶民(特に放浪民)のインタビューで成り立っているのですが、そこに世間師という人々が登場します。
世間師というのは、旅から旅へと、様々なところに移動しながら情報や新しい知識を得たり、村々に伝えていった人々のことで、宮本先生も本の中で「こうした人々の存在によって村が遅ればせながらもようやく世の動きに着いていけたとも言える。そういうことからすれば過去の村々におけるこうした世間師の姿はもうすこし掘り起こされたによいように思える。」と述べておられます。
おそらく、彼らはその知識と人格によって、人々の役に立っていたのでしょう。その意味で、世間師と呼ばれた名も無き人々は、十分に教養人だったといえるのかもしれません。
そんな世間師からのインタビューには、以下のような気になるような箇所があったので記しておきます。
京都あたりにはおっとりとして風流のわかる女がたくさんいた。あるとき宿屋で気品のある女中がきたので、歌を書いてお膳の上にのせておいた。するとお膳をひきにきたとき、それをちょっと見て帯の間へはさんで出ていった。何も言わなんだが、夜ねていると、そっとやってきた。気品のある女には恋歌を書いてわたすと大抵は言うことをきいてくれたものである。
まるで、「源氏物語」のような男と女の関係が、昭和の時代にまで残っていたということでしょうか、なんとなく羨ましい限りです。
「いざというときに、さっと和歌が書けるような人が教養のある人である」
とりとめのない話で恐縮でしたが、とりあえず、今日の結論はこのくらいにしておきたいと思います。
まさむね
日常雑事 雑感 »
昨年のちょうど今頃、画家の有元利夫さんの展覧会「天空の音楽」が目黒の庭園美術館で開催されて絵を見に行ったことがあった。ぼくは有元さんの絵が以前から大好きで、ご存知の方も多いと思われますが、独特のフレスコ画のような風合いと極端にデフォルメされた女性たちの姿態に特徴がある。いずれも太った女性が多く、顔が極端に小さい。どこか天上的で、祈りに満ちていて、祝祭的かつ音楽的な画風で、何度見ても新鮮で飽きない。
左より「ある経験」「花火の日」「花降る日」「厳格なカノン」
あれからほぼ一年。一年後にこんな大震災が起きて、原発の事故が起きるなんて夢にも想像していなかったが。よく言われることだが、好むと好まざるとにかかわらず、たぶんいろんな作品が持つインパクトがおそらくこの3・11以前と以後で鑑賞の意味や評価が大きく分断されて変わってゆくだろうと思う。
震災以前に評価されていたものがあまり評価されなくなったり、逆に震災後により評価が高まる作品が出てくる可能性もあろう。そのように評価が高まる作品はもともと震災前から今日のカタストロフィ的なものを内在化していたり、どこか予見的で、先駆的だったりしていたとも言えるのだろう。
そういう意味でいえば、ぼくにとってはまさに有元さんの絵は震災以後なおいっそう輝きを増すような作品のひとつだ。いつになったら自分の家に帰ることができるか分からない避難地域の方々がまだまだ多い状況が続いていますが、そのような状況下でなおさらその静かな祈りにみちた作風が妙にリアルでなつかしいと思えます。
なかでも同展覧会でみた「花火の日」「七夕の夜」と「出現」に描かれていた慈愛にみちた聖母のような女性像にはその軽さと厳かさのすべてにおいて完璧無比で形容すべき言葉が見当たらない。ただ素晴らしい!としか言うことができない。
これらの絵の聖母の祈りのようなものがぜひ被災地の方々にも届くように。いつか当たり前に目にする機会が出現する日が早く来ることを! もうすぐ七夕だ、そして好むと好まざるとにかかわらずまた夏がやって来る。
左より「七夕の夜」「出現」「春の少女」「遊戯の部屋」
よしむね




