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沖田総司の墓を後にした僕らは、次に麻布、三田近辺の寺寺に足を運んだ。このあたりは中国大使館をはじめ、各国の大使館が多いエリアである。
道行く人々も上品な外国人が多いような気がする。
まずは、賢崇寺。ここは、肥前・鍋島家の菩提寺で、家臣達の墓も一緒にある。僕は都内の墓所の中でも、ここの墓所が好きだ。静かで緑も多いからだ。
この日の目的は宇都宮太郎陸軍大将の墓である。ご存知通り、衆議院議員・宇都宮徳馬氏の父親である。
以前、写真を見たときに、宇都宮家の家紋は桔梗のように見えたのだが、実際に見てみると桜紋であった。やっぱり、微妙なところは写真ではわからないことが多い。
ちなみに、この宇都宮家は、筑後国柳川城主の蒲池氏の家老・蒲池鎮久の子の蒲池貞久を祖とする諫早宇都宮氏の流れを汲んでいる。
ということは、松田聖子(蒲池法子)の遠縁にあたるということか。ただし、血のつながりはないようである。
さて、次に僕らが向ったのは三田である。ここには、荻生徂徠が眠る長松寺や、永井龍男の斎海寺がある。
ところが、僕らの足が途中で止まった。御田いずみ霊園という新しい装いの霊園があったからだ。それは墓石の形、デザインでわかる。
最近の墓には、亡くなられた方の記憶を墓石に彫るような、家の墓というよりも個人の墓という意義の強いものが多い。「風」「笑顔」「やすらぎ」などという文字や、ペットの絵、歌の歌詞、俳句などが描かれたものも見かける。これも時代の流れであろうか。
普通だったら、こういう霊園は通り過ぎるところなのであるが、O君が「入ってみましょうか」という。彼は無口だが、墓に関する勘が鋭い。なにか、発見があるかもしれないと僕らはその霊園に足を踏み入れた。
先ほども述べたように、個性的な墓が並ぶこの霊園だが、その中でもさらに、一際目立つ墓を見つけた。
赤いハート型の墓石に「好きさ♪好きさ♪好きさ♪」と彫られている。
お~、これは「好きさ好きさ好きさ」で一斉を風靡したザ・カーナビーツのドラム兼ボーカリスト、アイ高野の墓ではないか!!
歌の中の「お前のすべて~♪」という箇所で、右手で耳を押さえながら、左手でドラムスティックを突き出すパフォーマンスは今でも覚えている方も多いのではないか。(YOUTUBEに、後年、収録した動画があったので、リンクを貼っておきます。)
このザ・カーナビーツは、いわゆるGS(グループサウンズ)ブームの火付け役ともいえるバンドで、このデビュー曲「好きさ好きさ好きさ」は120万枚のミリオンヒットを記録してる。
当時(1967年)、アイ高野は16歳、おそらく普通の少年だった彼はこの曲で一躍アイドルになるのである。
しかし、その後、1969年にザ・カーナビーツは解散。その後は、アイドルから転進、ロックミュージシャンとしてザ・ゴールデンカップスのドラマー、クリエイションのボーカルと、活躍の場所を移す。そして、80年代以降は、アニメの主題歌などもリリース、しかし、2006年に急性心不全で、55歳という短い人生を終えている。
実は、僕は高野さんのこのような経歴を知っていたわけではない。偶然、墓を見つけてそれから調べたものである。
ここからは僕の想像であるが、16歳という人生のあまりに早い時期に突然の大成功を手にした高野さん、そのインパクトがあまりにも強烈だったため、おそらく、その後の人生において、ファンが、高野さんに一方的に求め続けるイメージと、実際に彼がやろうとしていた音楽のギャップに悩まされた時期もあったのかもしれない。人間というものは、一つの場所に留まることの出来ない生き物だからだ。
これもYOUTUBEにアップされていた後年のインタビューで高野さんは、ザ・カーナビーツを振り返り、「スレッドなバンド、メチャクチャなバンドだった」というような自己評価をされている。また、当時、日本のキースムーン(ザ・フーのドラマー)と言われていたことに対して、「(そのイメージを)ぶっ壊したかったね(笑)」と述べている。つまり、彼自身、あの時代の自分に対して、全面肯定しているわけではなく、どちらかといえば、脱皮したい”なにものか”だったようにも思えるのだ。
しかし、高野さんは、結局は、ファンが求める「お前のすべて~♪」を死ぬまで、いや、死んでまでも、演じ続ける人生を選らんだのではないだろうか。墓石に刻まれた「好きさ♪好きさ♪好きさ♪」の言葉は僕にそんなことを想像させるに十分であった。
正直言って、最初、晩年の「好きだ好きだ好きだ」を歌うアイ高野をYOUTUBEで観た時、僕は、カッコいいとは思えなかった。むしろ、「無理しているなぁ。」とすら感じてしまった。
しかし、高野さんに関することを調べ、彼の人生をシュミレートし、さらに繰り返してその動画を観ていくうちに、死んでも16歳の時のままのアイドル・アイ高野であろうとする、そんな高野さんのスタイルを、僕は、一周半してカッコいいと思えるようになった。さらに、敬意すら感じるようになった。
誤解を恐れず、極論するならば、現在、僕の一番お気に入りのミュージシャンはアイ高野である。
まさむね
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現在、放送されている「JIN」や昨年の大河ドラマ「龍馬伝」もそうであるが、幕末ドラマを観ると僕はいつも疑問に思うことがある。
それは、あの激動の時代、中高年の武士達、つまり志士の上司達は一体、何を考え、何をしていたのかということである。
あの時代に活躍した有名人達は、みんなあまりにも若いのである。
明治維新があった1867年にそれぞれが何歳だったのかを見てみよう。
名前
当時の年齢
勝海舟
44歳
西郷隆盛
39歳
大久保利通
37歳
木戸孝允
34歳
江藤新平
33歳
近藤勇
33歳
土方歳三
32歳
榎本武揚
31歳
坂本龍馬
31歳
後藤象二郎
29歳
高杉晋作
28歳
伊藤博文
26歳
幕府の全権を委ねられ、江戸城開場を決めた勝先生はさすがに40歳を超えているが、他はすべて20歳代~30歳代というのに今更驚く。
勿論、現在に比べると、平均寿命は短いというのはわかる。さらに、脱藩浪人として、ある意味、自由な立場で活躍した坂本龍馬が31歳というのはわからなくもないが、270年も続いた巨大組織である幕府の軍艦を率いて蝦夷地に逃走して、一時的にでも蝦夷島政府を宣言した榎本武揚も、龍馬と同じ歳の生まれ・1867年には、31歳なのである。これはいくら、榎本が優秀だったとしても、若すぎやしないか。
しかも付け加えて言えば、榎本はその父の代に、榎本家の株を購入したばかりの俄か幕臣なのである(勝海舟も同じようなものだ)。
一体、彼よりも年長の、そして、いわゆる三河以来の旗本・直参達は、何をしていたのだろうか。
さて、ひるがえって、現代について考えてみたいと思う。山野車輪さんの「若者奴隷時代」にも詳細が書かれているのであるが、現在の若者は、高齢者の生活を支えるためにまるで奴隷のように、身動きすら取れない状況で働かされているではないか。勿論、若者達が現状を満足し、幸せならばそれはそれでいいのかもしれないが、けっしてそんなことはない。就職難、ワーキングプア、ニートなど、様々な問題が彼らの世代を直撃しているではないか。
おそらく、若者達はチャンスを与えられれば、それなりに活躍できる能力があるのであろうが、その上の世代(僕も含めて)が大量に現役として存在しているがゆえに、くすぶらざるを得ないのである。
僕ら中高年は、今こそ若者に対して、「近頃の若者はダメだ、試練を乗り越えて、頑張れ!!」などと無責任なことを言うのではなく、上手に若者にチャンスを与えつつ、少しづつ身を引くべきなのではないだろうか。
組織に居座って、若者の邪魔をしながら、搾取している場合ではないのである。
不安の時代、激動の時代だからこそ、むしろ、そうすべきなのだ。
その意味で、幕末という時代に学ぶべきなのは、当時の志士と同年代の若者ではなく、むしろ、僕ら中高年なのではないかと思う。
それは、何をすべきかを学ぶのではなく、いかに出しゃばらずに、そして、いかに何もしなかったのかを学ぶべきなのである。
まさむね
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いくつか自分の中のテーマが錯綜して、ここ数日間、ブログの更新すらままならなかった。
一本気新聞復活といっていた自分が少し恥ずかしい今日、この頃である。
かと言って、何も書かないで日々が無為に過ぎてしまうのもアレなので、とりあえず今日はなにかを書こうかとおもってPCの前に座っている。
さて、そのテーマというのは次のいくつかだ。
1)日本で何故、マンガが大人にまで浸透したのだろうか。
2)「魔法少女まどか☆マギカ」と「フラクタル」の比較で見えてきた内から外に出るということはどういうことか。
3)上記の問題と日本にだけ家紋文化が発展した理由にはどこか通底はないものか。
4)震災後、日本人の意識はどのように変化したのか。
まぁ、時間があるというのは、本当にいいことだ。こんな何の役にも立ちそうもないことが頭の中を駆け巡っても、一応、誰の迷惑にもならないのだから。
とりあえず、僕は「内から外に出る思想を考え直してみよう」ということで、80年代によく読んだ柄谷行人をパラパラとめくってみることにした。「マルクス、その可能性の中心」「隠喩としての建築」「日本近代文学の起源」などである。
当時僕は、これらの本で気になったところを線を引きながら読んでいた。そして友人にも貸して、友人にも線を引いてもらった返してもらうことにしていた。自分と友人との興味のズレが楽しかったからである。
さて、その中で特に僕の目に止まったのが、「日本近代文学の起源」の中の「風景の発見」という章であった。そこには、日本が江戸時代から明治になった時に、それまで、日本人が見えていなかった「風景」が見えてきたというようなことが書かれていた。
「風景の発見」は、過去から今日にいたる線的な歴史において在るのではなく、あるねじれた、転倒した時間性においてある。
「山水画」において、画家は「もの」をみるのではなく、ある先験的な概念をみるのである。
風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう。
なるほど、今、読み返してみても鋭い。よくわからないが鋭い。確か、東浩紀が、日本の文芸批評は「日本近代文学の起源」で止まっているというようなことをどこかで書いていたが、その位、インパクトある言い切りである。
これを僕なりに解釈すると、現代(明治以降)、僕らが当たり前だと思っている概念の多く(柄谷行人は、この「日本近代文学の起源」のなかでそのようなものとして「風景」「内面」「児童」などをあげている)、しかもそれが歴史的にも普遍的だと思っているものの多くが実は、歴史的に作られてきたものであるということである。
僕はその中でも「風景」に興味を持ったのは、それがマンガや家紋という画像の日本における独自性を解き明かすヒントを与えてくれそうだからだ。
確かに、絵画は、明治以前と明治以降とでは、その大きな変化がわかりやすい。例えば、女性を描いた作品でも、江戸時代に描かれた歌麿の美人画と明治31年に描かれた黒田清輝の「湖畔」では、上手い下手の問題というよりも、絵を描くということの意味が全く違うように思える。そして、僕らは既に黒田清輝と同じ地平に存在しているがゆえに、彼の絵を「自然」に思え、浮世絵を何か別なもののように感じるのだ。
簡単に言えば、浮世絵では、「女性」という概念を描いているのであり、黒田清輝は女性そのものを描いているということなのだろう。
そして、柄谷行人は、この絵画における近代以前-以降の違いを文学について、書いている。わかりやすい例で言えば、松尾芭蕉の「奥の細道」は旅行記ではあるが、東北の人々や風景が活写されているわけではない。元々、芭蕉にとって、現在の僕らが「自然」と書いてしまうような旅行記など想像も出来なかったのではないか。彼が東北旅行で見たのは歌枕、つまり、過去の文学的概念だったということなのである。
そして、明治二十年代頃、言文一致運動とかもあり、日本人は近代文学を自分で書けるようになる。つまり、普通の人の普通の生活を「小説」という形式で表現することが、当たり前になったというわけである。
実は、橋本治も「江戸にフランス革命を!」の中で、同じようなことを言っている。それは江戸時代の様々な意匠についてだ。
例えば、四角いパターンというのがあったとする。いわゆる市松模様だ。僕らだったら、そのパターン、それ自体がカッコいいとか、イケてないとかいって採用したり不採用にしたりするのだが、江戸の職人さんたちは違うというのである。
”四角”がただの四角であって言い訳がない。だから”四角いもの”があったら、「これは石畳だ」と思う訳さ。四角い石が敷石となって地面に置いてあるっていうのが、その”四角いパターン”の正解になる訳ね。デザインの前にまず、”意味”がある。「江戸のデザイナーは最初に物語を作っちゃう」っていうのはこれなんだけどね。
橋本治独特のわかり易いようでわかり難い文章であるが、ようするに、江戸の人々はすべてのものを「意味」=「概念」としてみていたということだと思う。だから、市松模様の手ぬぐいがあったとして、それの模様は石畳だと、そして石畳は人工的なもので、しかもそれは「美」とは遠いものだ、だからそれをデザインしたものは、とても「粋」なものとは言えない、しかし、そんな「粋」じゃないものを敢えて手ぬぐいにするというミスマッチの行為自体は、「乙」だ、だから、それもアリなのだ...というような回りくどい思考回路(無意識としても)を通って、デザインとして流行っていくということなのだろう、多分。ちなみに、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦の墓にはこの石畳紋が刻まれている。さすがに乙である。
しかし、日本人が長年培ってきた、概念を通して世界を見るという見方は、江戸から明治となっても、そう簡単に霧散したわけではないのではないかというのが僕が、最近、考えていることである。
そして、僕は、この、現実そのものではなく、概念を通して現実を見るという見方そのものが、日本人をして家紋という文化を発展させたのであり、ゆくゆくはマンガというフィクショナルメディアを発展させた一因ではないかと仮定したいのである。
例えば、松は長寿、片喰は正直、桐は高貴、鷹の羽は尚武...というようにデザインと意味というのが表裏一体になっていたところに、それぞれの意匠を家のシンボルとする文化が発展したのではないかということである。
また、マンガというのも、世界のパーツパーツを記号化(概念化)することによって成り立っている、これ自体、極めて日本的センスだと思わざるを得ないのだ。
(申し訳ないが、今日は、この考え方を展開する準備はないのでここまで。ここからはちょっと飛躍!!)
そして、この日本的世界の見方(概念を通して世界を見る)のおかげで、日本人は尊皇攘夷とか、富国強兵とか、鬼畜米英とか、一億玉砕とか、高度経済成長とか、反戦平和とか、バブルとか、失われた10年とか、規制緩和とか、原発反対とかいう次々と出てくる新しい概念にあわせて「自然」に頭を切り替えることが出来るのではないかということも考えられないだろうか。
もしかしたら、僕らは論理的に思考するよりも、ある概念の内部に身をゆだねるほうが楽だし、いろんな意味で有利だということを知らず知らずのうちに考えてしまう民族なのではないだろうか。ということである。
なんていうことをここ数日考えていたのでした。
まさむね
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東北地方太平洋沖地震、被害にあわれた方には心からお悔やみ申し上げます。
改めて、大自然の力の大きさ、恐ろしさを知りました。
金曜日、僕は新宿から恵比寿、恵比寿から池袋まで歩いて移動しました。
多くの人々は整然と、黙々と歩いていました。
けっして、人を押しのけようともせず、譲り合いながら、休んでいる人にみんなで声を掛け合っていました。
僕も、何度も人からいろんな情報や道順(僕は方向音痴です)を教えてもらいました。
そんな見ず知らずの優しい人々に関して、この場を借りてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。
これは日本民族に対する大きな試練ですが、きっと乗り越えられると信じています。
そして、僕も、この試練に何が出来るのか、考えたいと思います。
みんなで力をあわせて頑張りましょう。
まさむね




