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Articles in the 日常雑事 雑感 Category

日常雑事 雑感 »

[4 12 月 2010 | 3 Comments | | ]

僕が通っている病院の診察のベッドには4番ベッドが無い。
僕は毎週、土曜日に注射を打たれるたび、にその存在しない4番のベッドのことを考える。
ここに寝ている人はこの世に存在しない人なのだと。
それ以来僕は、四の不在について、あらゆる場所で気になるようになった。
先日、佐賀の肥前鹿島の駅前のビジネスホテルで、4がつく部屋が無いのを見つけ思わず写メを撮ってしまった。
さて、僕はずっとこの「4」の忌避は日本独特の言霊のせいだと思っていたら、実は韓国にも似たような風習があるという。
「韓国人の作法」にこんな一節があったのだ。
エレベーターが設置されている高層建築で四階はたいていFで表記されるか、ない場合がある。これは四という数字の発音が感じの死の発音と同じであるからだ。一つの数字の発音が全然違う意味と関連されるのは、ただの迷信だといいたいが相変わらず多くの韓国人はエレベータに乗りながら死を連想させる四という数字を押したがらない。
なるほど。ただ、この風習は日本の植民地時代に始まったという話もあり、この数字に対する異常な忌避感覚が韓国文化に根深いものなのかは、この本を読んだだけではよくわからなかった。ちょっと残念だ。
さて、そんなことを頭の片隅において毎日を過ごしていた僕は先日、面白いビルに入った。そのビルは都内某所、外国人用に建てられたマンションである。
そのビルのエレベータには13階が無かったのである。
もしかしたら、外国人に気を遣った日本人のビル設計者が13階をなくしたのかも知れない。
「ありがた迷惑?」ちょっとそんな言葉が頭をよぎった。
まさむね

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[28 11 月 2010 | No Comment | | ]

先週あたり、Twitter上でホリエモンが、久留米大学附設高校の先輩である孫正義氏に噛み付いたという小事件が話題となった。
「そんなことよりソフトバンクの基地局増やしてくれよーとか思ってしまうんですけど。。。iPhone電波悪すぎ」
「光の道とかじゃなく、そこに労力割けよって話」
「iPhoneじゃなかったらSB回線になんか絶対!しないもんな」
それに対して、孫正義氏は、こう答えたという。
「電波は私の命をかけて必ずドコモを超える。見ていて下さい」
「命がけで取り組める事が有る人生は幸せな人生だ」
なるほど。これはこれでちょっとしたネタとして面白い。
それに対して、docomoが最近ははじめた渡辺謙が出演している「Galaxy Tab」のCMがズレすぎていて唖然としてしまった。片や、SB回線の遅さ、つながらなさが話題になっている一方で、渡辺謙にこのCMでこう言わせているのだ。
「遅くなるかもしれない。いや、遅くなる...」
勿論、このセリフの文脈は回線のスピードの話ではない。しかし、スマートフォンのCMにこのフレーズは禁句ではないのか。どういうセンスをしているのであろうかdocomoは。あるいは余裕?
話は変わるが家紋主義の僕は孫正義氏のiPhoneの裏が凄く気になっているのだ。
韓国から帰化した孫氏ゆえに、家紋はお持ちでないのだろうが、坂本龍馬の熱烈ファンとして、ソフトバンクのマークを海援隊の二引にしたまではいいとして、敢えて、桔梗紋というのはちょっと嫌な予感がしているのである。
太田道灌、明智光秀、山県大弐、坂本龍馬、大村益次郎など、英雄的な桔梗紋者は全て「刺されて」亡くなっている。
また、川上眉山、大辻司郎は自殺、野呂栄太郎は獄死...
いろいろと敵も多いと聞く孫正義氏、大丈夫か。
さらに関係ないが、このdocomoのCMにでてくる「渡辺謙の主人」の岡田将生クン。
Canonの新プリンターのCMにも登場。
新しいポスターは紋付姿で、胸には石持ち地抜き三つ兎紋が、僕はこうした細かい演出が大好きだ。
もう、来年は兎年か。
まさむね

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[11 11 月 2010 | No Comment | | ]

黒沢清が「日本的想像力の未来~クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)」の第三章「日本映画と未成熟」の中で、未成熟こそが日本的表現ではないかというような事を言っている。
つまり、映画をはじめとする日本的表現の多くは、自分勝手な子供が親に接する時のように未成熟だと思われてもしかたないのかもしれないというのだ。
何かを表現する上で、もしはっきりした「狙い」があるんだったら、それは徹底してあからさまに狙って、その目的を果たすのが成熟した大人の態度であり、またもし自分は何一つ狙っていないと言うなら、徹底して自分ひとりの価値観を貫けばいいのであって、相手に何かを期待するのは筋違い。
この欧米における子供&大人観が正しいとするならば、「成熟」の中身が日本と欧米とは全く逆ということになる。
これはある意味で面白い見方だと思った。
例えば、俳句の世界などでは、対象をいかにぼかして表現するか、つまり「ボケ」こそが達人の極意とされている。しかもそれは、ちょっとやそっとで達成できるような生半可なものではない。修行に修行を重ねて、ようやく、「ボケ」のリアリティを獲得できるのである。
逆に子供はいつもわかりやすい事を言う。ぼかして言わない。でも、それは子供の作法だから許される。
もしかしたら、大人になるというのは、こうやって自然に「ボケ」ることを身に着けることなのか。小林秀雄は、年をとれば、常識というのは自然に身につくと言ったが、それは曖昧な存在になっていくということに違いないのである。
家紋に話を移す。家紋というのは徹底的に具象的な世界だ。片喰、桐、藤、牡丹、茗荷、桜、梅、桔梗...みんな分りやすい植物である。
勿論、木瓜や巴のような謎の紋もあるが、ほとんどは、現実世界に存在するものを形象化したものである。
しかし、それぞれの紋にはそれぞれの物語がある。僕は拙著『家紋主義宣言』の中でそういった物語について語った。
片喰はソフトな反骨心であり、桐は大陸との齟齬、そして藤は地方の中央への依存と反発、茗荷は抑圧された願望、桜は死と国家主義、梅は怨念、そして桔梗は日本史を貫く天皇VSアンチ天皇の戦い、そういった様々な物語を内包しているのが家紋ではないのかという、この本は、ちょっとパラノイアチックな本なのだ。
しかし、そういった物語の一つ一つに日本人の特性が現れているところが面白いのである。
何故、西洋のエンブレムに描かれた鷲が、日本では鷹の羽として描かれてしまうのだろうか。これこそ、日本民族の個性ではないのか。
などと考えていたのだが、先日、とある方よりメールを頂き、古代朝鮮にも家紋のようなものがあったらしいという話をうかがった。
これは衝撃的な話だ。そして同時になんと興味深い話か。
可能であれば、古代朝鮮の家紋集を見てみたい。それは僕ら家紋主義者の想像心を楽しませてくれるに違いない。
家紋のルーツが古代朝鮮にあったとしたら、それはそれで僕は逆に朝鮮に対して親近感を覚える。
日本と大陸の全くちがった関係性を模索し、大陸と日本列島の地図を上下逆にしてみせたのは網野義彦氏であるが、僕はその話を聞いたとき、地図を見た時以来のワクワク感を覚えた。
まさむね

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[7 10 月 2010 | 2 Comments | | ]

よしむねさんの「管総理再選に思う、「何もしないことの歓び」について」を、イタリアが2000年かけてゆっくりと衰退していく中で、独自の存在感を身につけたという話として読んだ僕は、それ以来、イタリア文化について興味を持つようになり、意識するようになった。
そうすると僕らが学生だった70年代の頃にアメリカから入ってきた多くの文化が実はイタリア臭がするものだったということに気がついた。
まずは、MSGの帝王、WWWF世界チャンピオンのブルーノサンマルチノ。彼は人間発電所と呼ばれ、ベアハッグ(熊の抱きつき技)を得意とするレスラーだった。身長は180cmそこそこだったが、2mを越す馬場さんのライバルとして、決して小さくは見えなかった。彼の全盛時代は60年代~70年代前半であった。
次に、よく家族で見たテレビドラマの「刑事コロンボ」。主役のピータフォークはイタリア人ではなかったが、コロンボはまさしくイタリア人であった。彼の口癖は「刑事というは因果な商売」であったが、いつもヨレヨレのコートを着た彼がエリートであるワスプ達の犯罪を暴く展開は僕ら日本人にも共感を与えてくれた。
70年代の映画といえば思い出すのが「タクシードライバー」(1976年)だ。主役のロバートデニーロもイタリア系である。ニューヨークという街の最下層のどうしようもないベトナム帰りのイタリア人の起死回生の活躍と孤独、切なさは今でも僕の胸の中に残り続けている。
同じ時代に思いっきりアメリカ人であることの意味を問うたロッカーのブルース・スプリングスティーンもイタリア人の血が流れている。出世作「明日なき暴走 (Born To Run) 」は1975年の作品である。
そして、極めつけは「ロッキー」だろう。これは、1976年の映画だが、勿論、主役のシルベスタ・スターロンはイタリア系である。50年台~60年代のいわゆる黄金のアメリカ映画の時代が、ニューシネマムーブメントと平行するようにエンタテイメントとしては落ち込みでいた時代に、起死回生の映画として大ヒットした。
どのスターも作品も、社会の底辺の人々の心情を汲み取ることによって、一流になりえたものばかりだ。特徴を一言で言えば泥臭い。
何十年か後、いや何百年後、日本人もこれらイタリア人のように世界中の人々の心を揺さぶれるような民族になっていけるのだろうか。
まさむね

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[29 9 月 2010 | 4 Comments | | ]

10月からタバコが大幅に値上げするという。喫煙者にとってはつらいことかもしれない。これを機に止めようという方もおられるだろう。かく言うぼくも去年までは結構なスモーカーだった。足かけ30年くらい吸っていたので肺は依然きれいになっていないだろうけど。
去年止めたのは骨折の怪我をして自宅療養していたときに自然に止めてしまったというのが実態に近い。自ら喫煙している整形外科の担当先生は骨の発育とタバコの有害さが医学的に証明されているわけではないので、吸いたければ許可しますよ、とおっしゃっていた。それなのに止めたのは、べつにからだの健康を考えて止めたというのではなく、単にあるときタバコがとてもまずいと感じて、そのまま止めてしまったというのが一番正確なところだ。だから苦労して止めたとか、意識的に止めていったというわけではない。
もしかしたらまた吸い始めることもありえる。最近の嫌煙をめぐる風潮についてはファシズムとの兼ね合いでモノ申す意見や、健康オタク主義への行き過ぎ、タバコの悪が本当に医学的・科学的に証明されているのか(地球温暖化説の真贋然り、自動車の排気ガスのほうがよほど肺に悪いかもしれない)などまだまだ反諸説も多いと思う。
ここではその是非について論じることはしない。ただ実際にたばこを止めて思うのは、流れてくる煙の匂いはたしかに嫌だなと感じることだ。だから吸うひとはなるべく礼儀をわきまえてまわりに注意して最低限吸ってよい場所で吸ってほしいとは思う。
でも健康という着眼点からのみたばこを断罪するという視点には今でもどうしても加担する気になれない。たばこを吸っているとき紛れもなくα波が出ているという実験を以前のTV番組で見たことがある。それに追加するわけではないが、別に人は健康のためだけに生きているわけではないだろう。悪いと知っていてもやめられないことは沢山あるにちがいない。麻薬なんかもそうかもしれない。
もしそれで死んでも構わないと思って意志的に吸っているのだとしたなら、まわりがいろんな理屈で説得しようとしてもしょうがないと思う。個人の責任と罰に帰着することで、そういう類のものについては一律の「べき論」はしたくないというのがぼくの現在の考え方で、一律のあるべき論には安易に組したくないとも思うのです。
それよりも今たばこをやめてつくづく良かったなと思うのは、逆説的だけどタバコを吸わないことでストレスから自由になれたからだ。今はとにかくタバコを吸えないことが即ストレスになることのほうが多いように思える。街のなかで吸える場所を探して彷徨ったり、レストランや喫茶店でも吸えない場所が多くなり、離席して外に吸いに行ったりと、かえってイライラの原因が増えてきているようだ。それだけたばこを吸う人は肩身が狭くなっているわけだけど。
むかし聞いた話で、本当か嘘かわからないが、夜中にたばこを切らした人が小銭がなくて自販機のたばこを買えず、寝床でモンモンとしているうちにテーブルの角かなにかに頭を打ちつけて死んでしまったという話を聞いたことがある。果たしてブラックユーモアとして笑っていいのか分からないが、とにかく斯様にいまタバコを吸うことに関してはよりストレスフルになることも覚悟しなければならないというのは一面の真実と言えるのではないか。ただでさえいろんなストレスに囲まれているなかで、ひとつでもストレスから自由になれたこと、それがタバコを止めたぼくにとっての最大の恵みかもしれないな。でもこれはあくまでもぼく個人にとってというに過ぎないが。
よしむね