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アニメ映画「借りぐらしのアリエッティ」を観た。それほど期待していたわけじゃなかったのだが、実際に観て小粒だけど佳品、そういって良い作品だと思った。監督は米林宏昌。宮崎駿監督ご指名の期待の新人(一番弟子)監督だという。
軒下で暮らす小人と人間の出会いの物語で、とにかく小人の性格(人物?)描写もふくめて、細かい部分が丁寧に描かれている。物語としてのリアルさ(浮ついた感じのなさ)もしっかり根付いていたと思う。ここでは粗筋の説明はこれくらいにしておくが、そのファンタジー的なお話はさておき、舞台となっている場所が妙に懐かしくていいのだ。
その場所とは、家の庭先であり、縁側であり、住まいとしての軒下であり、窓辺であり、小人たちからみての巨大な空間としての家の内部の部屋の様子や道具や置物であるのだが、それらがことごとく懐かしい輝きを帯びていてとてもいい。時代がかならずしも特定されていないように思われるのだけれど、どこか昭和半ば頃の日本の中流(上流)家屋のようであり、それがまたトトロに通じるような、いわゆるまわりの雰囲気の懐かしさと静かさと穏やかさを醸し出している。
そして考えてみれば、ぼくらがちっちゃい子供のころ庭は巨大で、いつまでも飽かずに虫探しをしたりしたものだ。その時家の軒下はどこか秘密めいた感じで、なにか不思議な物語に通じてゆくような闇としてあった。それは家のなかでも同じで、たとえば押入れの中とか、天井の上とか、いわゆる家のなかでの闇の部分について子供心に空想を煽られたものだ。いったいそこには何が潜んでいるのだろう、ひょっとして鬼や妖怪でもいるのじゃないか、みたいな。
アリエッティではまさにその闇(軒下)が影の主人公だといってもいいと思う。その空間描写の見事さ。洗濯物を干したりしているシーンがあるのだが、それが小さな小さな生活を思わせてまた可愛い。アリエッティを威嚇しようとした猫もどこか隣のトトロの猫バスの表情を想像させるキャラクターだ。こんな風に細部をあげてゆくと霧がないので、これくらいにしておくが。いずれにしても物語は細部に宿るということ、神は細部に宿るとはよく言ったものだ。
閑話休題。でもここまで書いてきて、上記の家の描写が懐かしいと感じたりするのは、昭和の頃に子供時代を過ごしたぼくたちだからで、果たしていまの都会の子供たちがこの映画を見たらどう感じるのだろうかとふと思った。彼ら、マンションでしか暮らしたことがない子供たちにとって、たとえば軒下とか縁側とか、庭先とか、天井裏への感触がどれくらい実感できるのだろうか? いまはたぶんすべてがクリアーで清潔で明るい。無駄がない空間も多い。コンビニの中の照度といったら一日中昼の明るさだ。かようにも住まいの近くから闇が消去されつつある。
でも田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家に行けばまだ庭先や縁側は残っているか。あるいは都会だって探せばそういう闇のワンダーランドはまだまだたくさん残っているか。ひとつ言えるのは、子供にとってはよく分からない闇があると感じることがとても大事だと思うことだ。この世には分からないことがあり、どちらとも決めることのできないものがある。グレーなもの。空間で喩えれば縁側がそういうものだ。縁側は外でもあり内でもある。限りなく中間に近いもの。昔のひとはそこで談笑しあったわけだ。
そういうものやことへ滞留できる感性が実はとても大事な気がする。日本家屋がなくなってマンションに切り替わってゆくとき、一番大きな消失物は案外そういうものなのかもしれない。軒下のあまりにも懐かしい想像の感触に、ついついそんなことを思ったのでした。
そういえばこの間、江戸東京博物館に行ったのだが、そこで昭和初期だったかの日本家屋の平屋(模造?)が展示されていたっけ。ゲゲゲの女房のヒットもあるし、日本家屋と妖怪への先祖帰りもまたいいか。
よしむね
ビートルズ, 映画 »
この冬に封切りされる映画『ノルウェイの森』の主題歌にビートルズの「ノルウェイの森」の原盤が使用することに決まったという。
それ自体は、大変、嬉しいことである。ビートルズの楽曲がまたより多くの人の耳に触れるからだ。
しかも、僕が70年代後半に自由が丘の場末の映画館でみた「全共闘ポルノ」で「レットイットビー」が流れていたのとは違う。
ちゃんと権利をクリアしたということなのである。
僕は以前より、村上春樹の【ノルウェイの森】とビートルズの「ノルウェイの森」との間には、共通の世界観があると感じていた(「村上春樹とビートルズの「ノルウェイの森」における共通点」参照のこと)が、これに映画『ノルウェイの森』も加わったと考えていいのだろう。ますます楽しみだ...
しかし、ここですんなり喜べないのが僕の性格の悪いところ。
この記事(「交渉1年超、映画『ノルウェイの森』主題歌にビートルズ「ノルウェーの森」」)に微妙に違和感を感じてしまったのである。そこを少し指摘しておきたい。
まず、下記の部分。
しかし、1年以上にわたる交渉が実を結んだ小川真司プロデューサーは、「原作では冒頭でビートルズの曲が流れ、主人公のワタナベはそれまでの出来事のすべてを振り返り、時の流れを思い起こします。映画で生のビートルズのメロディを聴くと、原作の大人になったワタナベのかき乱されるような感情を実感できると思います」と確かな手応えを得ている。
えっ!?、小説の冒頭の「ノルウェイの森」は、ビートルズの原盤ではないんじゃないだろうか。
その部分を引用してみよう。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
しかも、冒頭だけではない。実は、この小説に出てくる「ノルウェイの森」は、ここ以外は(多分)、レイコさんが弾くギターの「ノルウェイの森」なのであり、ビートルズのレコードの楽曲は使われていないのだ。
しかし、記事はこう続けられる。
原作を知る者なら、「原盤を起用するのは必然的なことでした」というトラン・アン・ユン監督の言葉にも納得するに違いない。
僕はビートルズの楽曲が使われることが嬉しいというのとは、別次元で一抹の不安も感じたのであった。
残念ながら「原作を知る者なら、原盤を起用するのは必然的ではないこと」を知っているからである。
まぁ、僕の「イジワル心」を作品全体のすばらしさが吹き飛ばしてくれることを望むばかり、封切りが楽しみだ。
まさむね
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最近観た二つの映画でともに暴力描写に際立つ特徴があった。何も介在させずに直接的な暴力が偶発するような世界。これもリーマン・ショック後の世相の何ほどかの影響なのかもしれないなとも思う。もちろんそれがすべてではないにしても。
ひとつはデンゼル・ワシントンが主演しているSF的な映画「ザ・ウォーカー」(原題はイーライの本)。その結末の内容自体はいかにもアメリカ流の真・善をめぐる話なのでそれほど特筆すべきものはないかもしれないが、ここで描かれている荒涼とした風景はやはり見ものだ。おそらく核戦争後(ないしはそのトラブル後)の世界が舞台と思われるのだけど、こうした風景が題材になるだけでもリーマン・ショック後の荒れた世情がいまも去っていないアメリカの現状が垣間見えるように思われる。
砂漠地帯と化した中をひたすら旅する主人公。西へ西へ。CG的な要素を除けば最近の華美なハリウッド映画に慣れた目からみるとそのストーリーからはまるでベトナム戦争後の70年代のアメリカ映画復活のように見えなくもない。時代はふたたび一周して元に戻りつつあるのかもしれない。
そしてならず者たちが割拠する世界。そこでの剥き出しの暴力。それと対峙して自らも身を守るために暴力の発露を生きざるを得ない主人公。アメリカの失業率が10%弱といってもたしか雇用を諦めている人まで加えれば実態は15%くらいとも言われているらしい。そして州のほとんどが財政破綻している現状。地方銀行のたて続けの倒産ラッシュも収まっていない。
うまく報道規制(?)が敷かれているためか、最近の日本ではあまりそうしたネガティブな報道がなされなくなっているが、「ザ・ウォーカー」などが生まれてきた背景を思うと、いまだ危機去らない荒んだ国アメリカの現状が透けて見えるようだ。そして清貧の思想ではないけど、もう一度慎ましい生活(プロテスタントの原点)へ返れというように伏流のごとくながれているその主題。これも時代の趨勢からだろうか。
もうひとつは北野武の「アウトレイジ」。こちらはもともと突然の暴力の湧き上がりにその特徴があった監督による、久々の暴力が横溢する映画となっている。みずからもう暴力映画はとらないと言っていた監督による再びの暴力への回帰。同じ監督による同様のシチュエーション設定に近いものとしては「ソナチネ」がある。
だが、「ソナチネ」と今回の「アウトレイジ」の最大の違いはその詩情性のなさにあると思う。「アウトレイジ」ではむしろそのポエジー性が意図的に排除されているように思われる。そこで描かれているヤクザ社会はまるで日本の社会構図そのままに依然にも増して出世と金に縛られた息苦しい社会として描かれているのだ。
ぼくは個人的には「ソナチネ」のほうがはるかに好きだ。たとえばヤクザ社会でアウトローとなった主人公が沖縄に逃れて行って過ごす無為の時間にはまぎれもなくポエジーがあった。だがアウトレイジではそうしたポエジーがまったく影を潜め、ひたすら金儲け(経済原理)と権力闘争に囚われている様がより辛らつに描かれている。そこには北野武の現代日本に対する批評眼として、リーマン・ショックの後いまだ落ち込んでいる景気のなかで価値転換できずにいる日本人への辛らつな想いがあるのかもしれない。
ポエジーなき日本の深まる構図。救いも無いが死すべき死も大義もない社会。だからソナチネのときのように主人公はもう自ら死を選ぼうとはしないのだ。最後は獄中で同じやくざに殺されて終わる。いずれにしても未だリーマン・ショック後の針路が定まらず、漂流を続けている社会に共通する何かとして、むき出しの暴力(多様な暴力)だけがとりあえず確かだとでも言うように、ふたつの映画があったように思う。
よしむね
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80年代の映画ではないのだけど、久し振りにビデオでフェリーニの「サテュリコン」(イタリア映画、1969年公開)を見直した。やっぱり凄い。グロテスクだけどかつセンシブルな映像美といい、幻想的な物語構成といい、少しも古臭くない、というよりも古い新しいということが問題にならない。因みにぼくは「サテュリコン」はさすがにリアルタイムでは劇場で観ていない世代。
最近出版された松岡正剛氏の対談本「日本力」のなかで対談者のエバレット・ブラウンさんがイタリア人には古代ローマの感覚がいまも生きているみたいなことをおっしゃっている箇所があったと思うのだが、フェリーニの映画などを観ると、現代イタリア人の身体感覚にはいまだに古代ローマの感覚が連綿と生きているのだろうなあということがほんとうに納得される気がする。おそらく、ついそこに、まだ古代ローマの感覚があるのだ。
だからフェリーニが古代ローマの物語を題材にしていても、実はその群像はまさに現代ローマの若者たち(その当時のパンクな若者たち)を描いているのとなんら変わりないということが今回見直してみてあらためてわかった気がする。
主人公エンコルピオが彷徨を重ねても、どこへもたどり着かず、川岸の野原で空にむかって叫ぶシーンがある。「なんと目的地から離れてしまっていることか!」。因みにこの映像シーンのなんと切なく美しいこと! だが目的地などあったためしはないし、いつの時代もそうに違いない。行き着くことのない空虚感。これこそまさに「サテュリコン」をながれる通奏低音だと思う。
「恋々風塵」の切なさから「サテュリコン」の空虚さ、まで。これこそがいつの時代も変わらない若者のすべてだと思う。ぼくらはそのように生きてきたのではないだろうか。
そういえば映画のラストでエンコルピオはアフリカ行きの船に乗ろうとする。あえて強引なこじつけだが、これは今の若い人たちが湾岸地帯の工場夜景クルーズで船に乗り込むシーンと置き換えてもよいかもしれない、もちろん新大陸と廃墟や無機への憧れ・好奇という違いはあるけど。どういう時であれ若者は移動する船を目指すのだ。
よしむね
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昨晩、フジテレビの土曜プレミアムで「セックス・アンド・ザ・シティ」を観た。
今更という感じもなくはないが、面白かった。
僕は、「家紋主義宣言」で青山霊園から六本木を眺める視線を提唱したのだが、六本木の先に世界最強の都市、ニューヨークがあるということを思い知らされた。
そこは、物質主義(消費至上主義)の究極の世界だ。
しかし、俗物主義という一言で片付けるには「セックス・アンド・ザ・シティ」の吸引力はあまりにも強い。そして魅力的だ。
シニカルでありながら繊細で(面長というより馬面の)キャリー
自分第一主義のセックスアニマルで(太り気味の)サマンサ
お嬢様で内向的な面もあり、(目が大きい)シャーロット
知的でプライドが高く(首が長い)ミランダ
彼女達の意地と友情と欲望、つまり颯爽としたエネルギーは凄い。自由になりたい世界中の女性が彼女達にあこがれるのはよくわかる。
特に、閉塞感のある日本社会の女性が「セックス・アンド・ザ・シティ」に夢中になるのは自然だし、むしろ健康的かもしれない。
僕は、マーチンスコセッシの「タクシードライバー」にあこがれて、80年代後半に何度かニューヨークに行ったことがあるが、その頃のニューヨークは汚くて怖なかった。ジュリアーニが市長になる前、タイムズスクエアには大きなSONYの看板が出ていた時代だ。
しかし、あれからもう20年も経っているが、「セックス・アンド・ザ・シティ」の画面の端々を見ていると、例えば、ゴージャスなパーティが開かれている会場から一歩外に出るとストリートに何をするでもなくただ佇む貧困層の目の暗さ、というようなものは、「タクシードライバー」の時代から変わっていないようにも思われた。
おそらく、「セックス・アンド・ザ・シティ」と「タクシードライバー」の落差から生じるダイナミズムこそ、今でもニューヨークの活力源なのだ。そしてそれは、夢と現実の落差と言い換えてもいいかもしれない。(ちなみに、シリーズ5のオープニングでは、街を歩くキャリーが、自分の写真が大きく側面に描かれている公営バスに泥水をかけられるというシーンが流されるが、それまさしく、現実の彼女が、幻想として一人歩きした彼女に冷や水を浴びせかけられるという暗喩になっている。)
頭ではグローバルスタンダードを受け入れなければならないと考えていながら、心のどこかで「鎖国」をしたいと願っている。その一方で「セックス・アンド・ザ・シティ」に惹かれながらも、日本人として、先祖からの繋がりを物語化しなければいけないと考えている。世界中の多くの貧困にあえぐ人々に同情の気持ちを持つと同時に、一度はニューヨークでゴージャスな生活も経験してみたいと思っている。
「セックス・アンド・ザ・シティ」など観なければよかったと思いながら、今日はGYAOでシリーズ5のテレビシリーズを続けて観てしまった僕は明らかに迷っている。
しかし、この迷いは、けっして僕だけのものではないような気もしているのだがいかがだろうか。
まさむね
1987 »
まさむねさんとなるべく重ならないように80年代の映画について取り上げる予定なのだが、この「恋々風塵」だけはちょっと例外ということで、ぼくも書かせていただくことにした。というのももし今まで見た青春(恋愛)映画でベスト3を上げろと言われたら、間違いなくそのひとつにこの映画を上げるだろうからだ。とても好きな映画だ。
もう細かいことやあらすじについては触れない。ただあのラストで、お爺さんと主人公が言葉を交わす(実はあまり交わさない)シーン。山の気に包まれたなかで、お爺さんは失恋した主人公に対して仔細はなにも尋ねず、ただ今年はさつまいもが不作だとか良くできたとか、そんな話をするだけだ。お爺さんは多分分かっているのだけど、なにも言わない。
誰もどうすることもできないからだ。ただみんなそうしてきたように、ひとりで黙って泣くしかないし耐えてゆくしかない。映像はどこまでも静かで凛としている。そしてもの悲しい。山の気の張り詰めたような美しさ。老人と青年のふたりだけがいて・・・。
こんなシーンに出会えたことのなんという至福! 映画を観るとはまさにこういう瞬間に出会うことだと思わせてくれた、そういう作品。
人を好きになることはときに悲しい。ぼくももうあの少年少女たちからは遠く離れたところに来ているけど、今もときどきこの映画のいくつかのシーンを思い出す。切ないことや思いっきり楽しかったこと、ワルをしたり、そんなこんな誰にでもあったに違いない小さな出来事の数々。今も恋々風塵は走馬灯のようにそれらを浮かべて回っているのだと思う。
よしむね
1981 »
ジャン=ジャック=ベネックス監督の作品。この監督の作品では「ベティー・ブルー」も有名だが、ぼくは「ディーバ」のほうが好きだ。公開は1981年でたしか六本木シネ・ヴィヴァンで上映されたと思うが(この辺は記憶が曖昧)、公開時に観た。
今回あらためてビデオで見なおしてみたのだが、ストーリ自体には少しも古い感じがしない。出てくるパリの風景や女性の服装や髪型にはさすがに80年代のものを感じる部分もある(メディアとしての録音テープ等もそうである)が、奇妙な味わいといい、スタイリッシュな映像や、妙な可笑しさといい、誤解を恐れずにいえば3Dという話題性があるにせよ画一的な作品であるアバターなんかよりもよほど飽きない。サスペンスフルで奇妙でスタイリッシュで恋愛的でと、なんでもある。主人公とディーバが連れ立ってデートする雨のなかの寡黙なシーンなんかとても良い。けっして平板ではない。こうした映画をみると、80年代の映画ってやっぱり面白かったなと思う。
しかも今回改めて気づいたのは、ベトナム人の女の子が出てきたり、ギリシャ人の謎の男や黒人であるディーバ(歌姫)が出てくるところなど、いわゆるパリの中の異邦性がすでに映画として取り上げられていたこと。今でこそというか90年代くらいからはヨーロッパに旅行してもパリやロンドンなどの大都市での黒人の多さが当たり前に目につくようにはなっていたと思うけど、80年当初からフランス映画の中でこんな風に都市のなかでの異邦性や無国籍性を取り上げたものはあまりなかったようにも思う。その意味でも先駆的。
当時この映画をみて、東京でもまったく違和感のない、共振する時代感覚のようなシンパシーを感じたのを覚えている。それから余談だけど、ぼくはこの映画ではじめてカタラーニのオペラ「ワリー」を知って、なんて素晴らしい曲なんだと思ったものだった。今ではサラ・ブライトンなんかがさんざん歌っているので、とても有名になってしまったと思うけど。
いろんな意味で2010年になって時代はふたたびディーバに追いついたのかもしれない。
よしむね
1980, 相撲/プロレス/格闘技 »
ラッシャー木村が亡くなった。
また、一人、昭和の名レスラーとお別れだ。
ラッシャーには大きく分けて、三つの時代があった。国際プロレスのエースの時代、新日本プロレスのヒールの時代、そして全日本プロレス以降のコメディアンの時代だ。
僕の中で、彼の晩年のリング上での姿はロバートデニーロの「レイジングブル」とだぶる。
格闘家はどこかコメディアンと似ているのだ。
それにしても、彼ほど、人間味を感じさせるレスラーもいなかった。
本来、格闘技に「人間味」など必要なかったのかもしれないが、僕らファンには彼の味がいつの間にか病みつきになっていた。
彼は確実にプロレスという芸能の幅を広げた名人だったと思う。
来月発売予定の「家紋主義宣言」でも馬場さんや、三沢さんについて書かせていただいた。
僕は自分の処女作に、いろんなことを教えていただいた(あくまでリング上の姿で)レスラーのことをどうしても記しておきたかったのからだ。
こうなるんだったら、ラッシャーについても書いておくべきだった...
亡くなったレスラーはなぜ、いつまでも僕らの心を締め付けるのだろうか。
さようならラッシャー木村。
まさむね
1989 »
1980年代最後に登場した画期的な映画、それが北野武の「その男凶暴につき」であった。
映画の歴史は、作品と制度との戦いの歴史でもある。
いい映画は、どれも”映画という制度”と戦っている。その意味で、この「その男凶暴につき」はいい映画だったと思う。
この映画が戦っていたのは、それまでの映画の中の暴力という制度である。
現実世界での暴力は常に唐突だ。しかし、この映画までの映画の中の暴力は、まるでプロレスの技のような「芸」に過ぎなかった。
この映画で、ヤクザの流れ弾に当たって死んだ女子高校生、この瞬間、映画は進化したのだと、僕はこの映画を観たときに思ったものだ。
しかし、この唐突の暴力は北野武の「芸」だったということを後で知った。
やはり彼は天才だ。
この映画のラスト近くのシーンで、アズマは気の狂った妹(川上麻衣子)を銃殺した。凄いシーンだった。
映画における兄と妹、僕はそのシーンで「寅さん」を思い出した。
「その男凶暴につき」は「寅さん」の陰画だというのがそのときの直感である...が、おそらく、それは正しくなかった。
僕の直感は大抵が間違える。
そして、この映画はその間違いの一つと一緒に僕の心の中に残った。
まさむね
1986 »
人生をなんとかしなければというようなことは誰でも考えたことはあるだろう。
おそらくその観念こそが”若さ”ということなのだ、とすら思う。
「汚れた血」のアレックス(ドニ・ラヴァン)はこの映画全編で、そんな自分自身からの脱出を試みようとする。
今で言うところの”自分探し”の極限バージョンである。
この映画は、彼の顔、そして存在感を見るだけで十分な映画だ。
「アバター」真っ青な彼の素顔は、逃れようもない運命すら感じさせる。
確か、この映画の中盤でデヴィッドボウイの歌にあわせて彼が疾走するシーンがある。
彼は彼自身から、逃れようともがくが、しかし、当然のこと、彼の肉体、そして彼の血は、彼そのものという当たり前のことから逃れられない...
彼の内的時間が映画の中でゆがむそのシーンは、ちょうど、北野武の「ソナチネ」の沖縄のシーンで時間が止まるシーンの対極だ。その意味で、「汚れた血」は、僕の中で北野映画と結びつく。優れた映画監督は時間を制御できるのだ。
ついでに言えば、この映画のアレックスは、一連の北野映画における武の存在感と似ている。
いずれにしても、多分、北野武は、カラックスの子供だ。
この映画(そして、「ボーイミーツガール」)は、後に公開された「ポンヌフの恋人」の封切り時になにかの特別上映で観たような気がする。だから、80年代映画といいながら、僕にとっては90年代映画なのかもしれない。
映画館を出たとき、この映画で数度繰り返されるジュリエットビノシュが下唇をちょっと突き出して前髪に息を吹き上げる癖の真似をしたっけ。
ちなみに、「存在の耐えられない軽さ」の中の1シーンでも、彼女はその前髪息吹き上げをする。
まさむね



