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[3 1 月 2011 | 4 Comments | | ]

昨日のエントリーでも書かせていただいたが、昨日「ノルウェイの森」を観にいった。
久しぶりの映画である。
80年代〜90年代にかけてはよく映画を観にいったが、最近はトンと映画館に足を運ばなくなってしまった。
この「ノルウェイの森」は以前より、妻と一緒に行く約束をしていた映画だ。
僕自身、ビートルズ、村上春樹と来たからには、どうしてもトライ・アン・ユンも押さえておきたかったのである。個人的に「ノルウェイの森」三部作の最終章というわけだ。
一方で妻も事前に小説を読んだり、ネットで情報を収集したりして、準備万端だったようだ。僕のこの映画に対する雑感は昨日の「「ノルウェイの森」、小説と映画におけるテーマの違い」で記したので、今日、ここに書きたいのは妻が抱いた「ノルウェイの森」評を中心とした話である。
        ★
妻の観方は、直子(菊地凛子)からみた視点であった。
当然といえば、当然であるが、僕は男性ゆえに、主人公のワタナベ(松山ケンイチ)にシンパサイズしてこの映画を観ていた。
しかし、彼女は違った。徹底的に直子からの視点で、スクリーンを見ていたのである。
僕らは家に帰ってきて、自然と、今、観た映画の話になった。僕は直子の死因は、キズキとワタナベに対する罪ではないかと思っていたが、彼女の観方は微妙に違った。
直子は、男性を好きなると、逆に体が閉じてしまうという悲しい精神をした女の子だ。キズキの死もそのことが原因であるという自覚を持っている。つまり、罪の意識に囚われているのである。
また、直子はワタナベに対しても、心が惹かれていくに連れて、体は閉じてしまう。そして、その自分の精神の宿命に対して、思い詰めて病んでいくのだ。多分、ここまでは僕と妻の観方はほぼ同じだと思う。しかし、最終的に、直子がその命を絶つ理由の解釈が微妙に違っていたのだ。
僕はある意味、単純に罪の意識が生きる意欲を凌駕した時点に彼女の死があったのではないかと考えていたのであるが、妻は、罪による死という以上に、自分の21歳の時の姿を永遠にワタナベの中に刻印するために死んだのではないかというのだ、例えば、ル・コントの「髪結いの亭主」において妻・マチルドが幸せの絶頂で死を選んだのと同じように...
なるほど、でもそれって女性(直子)にとっては最高の死であっても、一方の男性(ワタナベ)にとっては残酷すぎる結果にしかならないのではないの?と僕。
17歳のままのキズキ、21歳のままの直子を心の中に刻印しながら生きていくことを選択しなきゃいけないワタナベ。それが残された者の道でしょ、と妻。
しかし、妻はそれも究極の愛の形だというのである。
プラトニック恋愛の至高形を「死」で示した直子、その一方で、愛情と肉体とが矛盾無く連動しているダイナミックな「生」の世界に生きている女の子・ミドリ(水原希子)、そして愛情とを全く無関係なものとしてセックスをする永沢(玉山鉄二)。異なる3つの世界(「死」の世界、「生」の世界、「快楽」の世界)を流されるように放浪させられた存在がワタナベなのではないかと、そして、最後のワタナベの「僕はどこにいるんだ?」というセリフは、そんなワタナベが今までの放浪から生還し、自分が生きていくべき世界はミドリのいる世界であることに覚醒した瞬間としてとらえるべきではないかと言うのである。
        ★
一つの映画を観た後に、思いっきり語るというのは楽しい。
誰の意見が正しいとか間違っているとかは置いておいて、いろんな観方が出来るような映画はやっぱり名作といってもいいと思う。
どの映画とは言わないが、「愛する人が不治の病になって死んでしまう」というような映画は確かに、涙を誘うが、それはある意味、一面的で強引だ。
むしろ、泣けない死を描いた「ノルウェイの森」こそ映画らしい映画というべきではないのだろうか。
「これはヒットしないね」
僕と妻の共通の一言はそれであった。
まさむね
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[2 1 月 2011 | 2 Comments | | ]

村上春樹の「ノルウェイの森」のテーマは何か。
僕はそれは、共同体が崩壊した後、人は突然に死んだ隣人を弔うことが出来るのだろうかというということだと思っている。
そして、死の比喩として草原にぽっかり空いた井戸の話が出てくるのだ。おそらく、それは必然的な挿話である。
引用してみよう。
直子がその井戸の話をしてくれた後では、僕はその井戸の姿なしには草原の風景を思い出すことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。(中略)僕に唯一わかるのはそれがとにかく おそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が-世の中のあらゆる種類の暗黒を煮詰めたような濃厚な暗黒が-つまっている...
今まで隣を一緒に歩いていた恋人がいきなり深い井戸に堕ちてしまう(突然、死んでしまう)。残された者は、わけが分からずに、言うにいわれぬ喪失感を抱き、泣き、悲しむ。
しかし、現代人には死者を弔う作法が既にない。
日本人は長らく、村落共同体を基本にして生きてきた。そこでは共同体の作法を無視しては生きてはいけない。村八分という言葉があるが、仲間はずれになった家でも、火事の消化と葬式だけは付き合ってもらえたということだ。逆に言えば、村落にとって火事の類焼と死者の穢れを共同体の外へ捨てる儀式だけは、仲間はずれにされた家の問題というよりも共同体の問題として片付けなければならないと考えられたということなのである。
しかし、近代以降、多くの学生や労働者が都会へ出てきた。つまり、共同体の作法が希薄な世界に身を置くことになった。そして、そこで生じたのが(共同体ではなく)個々人が「死者を弔うことは可能なのか」という課題である。
そして、村上春樹の「ノルウェイの森」は、都市生活者にとっての隣人の唐突自死への対応の不可能を真正面から取り上げた小説である。
しかし、トラン・アン・ユンが解釈し、映画化した「ノルウェイの森」には、上記の草原の穴のエピソードはまるっと抜けていた。
なぜ、彼は映画でその場面を抜かしたのであろうか。
それが本エントリーのテーマである。
さて、ストーリーを簡単に追ってみよう。(とりあえず、本エントリーに不要な部分は、だいぶ省略していることをご了解下さい)
ワタナベとキズキと直子の3人は、高校時代いつも一緒にいた。キズキと直子は幼馴染であると同時に恋人でもある。だから、3人で一緒にいるとは言っても、その二人とワタナベの間には微妙な距離があった。ある日、キズキとワタナベがビリヤードをした夜にキズキはガス自殺をしてしまう。それは何の前触れも無く突然の出来事であった。
ワタナベはその日から、喪失感というよりも、逆に「ぼんやりとした空気のかたまりのようなもの」を抱えて生きていくようになる。そして彼は東京に出て、大学生となり漠然とした日々を生きている。
しかし、ある日、偶然に直子と再会するのだ。それ以来、徐々に、親しくなってゆく直子とワタナベ、そして直子の二十歳の誕生日に二人は寝るのである。
しかし、その後、直子はワタナベの前から姿を消し、京都の山奥の療養所に入ってしまう。
そして、数ヶ月後にワタナベはその療養所を訪れ、直子と再会し、直子からキズキとの秘密の話を聞く。
それは、直子はキズキとは一度もセックスをしていなかったということである。しかも、それは、しようとしなかったということではなく、直子の体が決してキズキを受け入れようとしなかったというのだ。
心では愛していても、体は拒絶してしまうというダブルバインド(心と体の分離状態)を気に病む直子。そしてキズキの死。
直子は、キズキの死を自分のせいであるという罪を背負って生きていたのである。
そんな直子の前に、キズキのとの思い出を共有しているワタナベが出現。
そして直子は、ワタナベとセックスをすることによって、つまり、ワタナベと一緒にキズキを裏切ることによって、罪、そして死の穢れを共有しようとするのだ。
しかし、その後、直子はワタナベにも体を開くことが出来なくなっていた。
つまり、直子は、キズキへの罪の意識に加えてワタナベへの罪の意識をも抱くようになる。そして、抱えきれなくなった時に、自らの命を絶ってしまうのだ。
東京で彼女の死を知らされたワタナベ。
彼はキズキの死と直子の死という二つの罪による穢れを負わされ、悲しみの中で放浪する。
そして東京に戻ると、京都の山奥の療養所で同室だったレイコさんがワタナベのアパートを訪ねてくる。
キズキの死を直子とワタナベが共有しているのと全く同じように、レイコさんはワタナベと直子の死を共有している友達である。
ワタナベとレイコさんは、直子とワタナベがしたように、寝る。
レイコさんは、ワタナベに「寝るべき」といい、ワタナベは拒絶できずに言われたままに、彼女と寝るのである。
おそらくレイコさんが、ワタナベの体に溜まったキズキと直子の死の穢れを、セックスという「共犯的儀式」によって自分の身にまとわせて、遠く(旭川)に去る(おそらく死ぬ)ことによって、ワタナベの罪と穢れを浄化しようとしたのだ。
トラン・アン・ユンにおける「ノルウェイの森」のテーマは共犯的セックスによる死者の弔い(罪と穢れの浄化)ということだと僕は解釈する。
実は、映画では、レイコさんがワタナベと半強制的に寝るように描かれているが、原作では違う。二人は、レイコさんが弾くビートルズの曲によって音楽葬を行い、その後、お互いの気持ちから出たセックスをするのである。
引用してみよう。
「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ。」と弾き終わったあとでレイコさんが小さな声で言った。
「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えていたんです。」
また、映画では、ワタナベが一方出来に旭川に遊びに行きます、というのだが、原作では、レイコさんが「いつか旭川に遊びに来てくれる?」と誘っているのである。
つまり、原作ではレイコさんとワタナベの性関係と、レイコさんの遠方への旅立ちには特別な意味が付与されていないようにも読めるのだが、それに対して映画では、レイコさんは自ら罪と穢れを引き受け、別世界に旅立とうとする、まさに自覚的な犠牲者としての役を担っているのである。
そして、最後のシーンにおいて、アパートの赤電話からすがるように電話をするワタナベに対して、「生の象徴」である緑が電話に出る。
それによって、ワタナベは死の穢れた場所から抜け出し、いつの間にか、生き生きとした世界に生まれ変わっていたことが示されるのだ。
緑がワタナベにたずねる。
「あなた今、どこにいるの?」
ワタナベが答える。
「僕はどこにいるんだ?」
さらにいえば、原作のラストシーンでは、ワタナベは人ごみの雑踏の中で電話をするという設定だったのに対して映画ではアパートからの電話という設定になっていた。
この設定変更においても、個々人がバラバラになってしまった現代社会における問題という僕が原作で特に意識したテーマは、トライ・アン・ユンはそれほど重要視はしていないということを読み取ることが出来るのではないだろうか。
共同体が崩壊した後の現代社会において、隣人の突然の死を弔うことは出来るのかという自問に対して、「どのような強さも愛する人を亡くした哀しみを癒すことは出来ない」と、絶対的な哀しみを抱えて生きざるを得ない、つまり弔いの不可能性を提示したのが村上春樹の「ノルウェイの森」だとすれば、トラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」には、自殺に対する残された者の贖罪意識とその浄化という、敢えて言えば極めて西洋的なテーマが強く出た作品になっていたというのが僕の解釈だ。
つまり、草原の穴のエピソードを削除したのは、トラン・アン・ユンにとって、そのシーンはむしろ邪魔だったからだというのが僕の結論である。
そして、さらに言えば、彼の作品には、もう一つの「ノルウェーの森」、つまりビートルズの原曲も入る余地はなかった。
だから、エンドロールでしか流せなかったのである。
まさむね
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[30 12 月 2010 | No Comment | | ]

人間というものは、はたして成長することが出来るのだろうか。
20歳の時、30歳の頃、40歳になって、そして今50歳を越えて、実は何も変っていないのではないかと思うことがある。
今日、テレビで「少年メリケンサック」を観た。
伝説のパンクバンドが25年の歳を経て復活するという話だ。
もちろん、官九郎の本だから、シビアな話の中にもオリジナルなギャグがあるが、全体的に重い。
しかし、宮崎あおいだけは活き活きとしている。この映画が、一方で「篤姫」の撮影時期に重なるというのだからやっぱり彼女は天才だ。
いや、逆に一方で「篤姫」になっていたからこそ、ここで、徹底的にパンクな女子になれるのかもしれない。
いずれにしても彼女は天才だ。
パンクというのは、人間が意地と欲望と本能と激情に近い場所でいかに生きること出来るのかという人体実験みたいなところがある。
それは世間に対して徒党を組んで挑む、無謀な戦いである。
しかし、僕ら日本人は人がいい。だからどうしてもパンクになりきれない。
反体制であるべき話が、いつの間にか友情や兄弟愛の話になってしまう。
それは民族的限界か、あるいは、僕らはまだそこまで追い詰められていないのか。
映画の中でも、彼らは、敗れ去った25年前の青春を乗り越えることが出来なかった。結局、同じことを繰り返してしまうのだ。
でも、だからこそまたパンクな人々=「絶対に成功しない人々」は永遠にいとおしい。
現実世界において僕らの多くはパンクロッカーではない。だか、心のどこかにやり残した過去の想いを抱きながら生きている。
そしていつか、その心の傷に復讐できないだろうかと考え続けている。
しかし、結果としては、再び、敗れてしまうにちがいない...
おそらく、この再び敗れ去る青春、これこそが官九郎の大きなテーマに違いない。「木更津キャッツアイ」もそういった繰り返しの話であった、確か。
「少年メリケンサック」を観ながらそんなことを考えた。
映画の内容は多分、1ヶ月もすれば忘れてしまうだろうが、今日、この映画を見て想った事からはしばらく自由になれないだろう。
人間とはなんて不自由なものか。とりあえず、それが結論である。
まさむね

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[10 11 月 2010 | 2 Comments | | ]

映画「シングルマン」を見た。バイセクシャルの話なのだが、そうした題材というよりも、描かれている当たり前の個人としての孤独感に共感できるし、ぼくはとても好きな部類に入る映画だ。監督がファッション・デザイナーのトム・フォード(ぼくはこの人の眼鏡のデザインが好きだ)ということもあり、映像がスタイリッシュで抑制が効いていてかつ最小限の美しさにあふれているような感じもいい。どこかノスタルジックな映像表現だ。もちろん映像だけではなく、人物や状況の描写も優れていると思う。
だが、それよりも一番良かったのは1960年代のアメリカという舞台設定だ。ちょうどキューバ危機の前後この当時のアメリカのおそらくミドルクラス以上の生活風景。芝生つきの広い家。モータリゼーション(自動車)の進展期。主人公が運転するアナログ的なインパネをもつ4ドア自動車がまたいいのだ。これはイーストウッドの「グラン・トリノ」の世界にも通じるもの。そして銀行での顧客サービス。すべてにおいてまだ上品で余裕があった時代のアメリカ白人社会が透けてみえるようだ。
総じて中流やや以上の暮らしが中心なのだろうが、それこそあの時代もっとも全世界があこがれていたに違いないアメリカの暮らし。冷蔵庫とTVと自動車と広い庭つきの白亜の家(それは空虚と裏腹だとしても)。そしてリビングの風景、60年代のファッション。女性の髪形の編み上げかたの面白さ。ポップだった時代。とくにジュリアン・ムーアのパーマネント・ウェイブがまたあの時代のポップな感じを想わせていい。ツイッギーみたいな感じか。ビートルズもこの時代の申し子。
いずれにしてもその功罪は別にして、それらはどういう時代であれまず貧しい国が成長を目指す過程でかならず思い描くであろう日常生活としての欲望のかたちにつながっている。そして映画のなかでの自信にみちて明るく紳士的・淑女的にみえる登場人物たち(もちろん登場人物たちの性格のねじれはあるのだが)。いっぽうで個人によってはどこか破滅的になりつつある(主人公が感じている核戦争の危機による世界の終わり)予感もある。

そうした諸々の変化に取り巻かれながらも、まだ健全で強く、退廃的であることが許されていたアメリカの古き良き時代。それは「トゥルーマン・ショー」の管理社会まではまだずっと遠い時代でもあり、登場人物はみんなやたらとタバコを吸っていたりするのだ。
最近読んだ関川夏央さんの「坂の上の雲と日本人」によると、司馬遼太郎さんの見方でもあるのだろうが、日本は日露戦争までの坂に至るまでは健康で明るい国だった(いわゆる偉大な明治だった)が、その達成以降劣化してゆくということになる。
その言い方にならえば世界史的にみればおそらくアメリカの全盛時代は1950年代から60年代前半あたりまで(ケネディ大統領が暗殺される辺りまで)で、それ以降はベトナム戦争への没入とともに劣化していくことになるといえるのかもしれない。そしてもっと広げていえば西欧やアメリカを中心とした先進国が文化的にも成長という意味でもまだ全的に輝いて見えた時代とはおそらく60年代までということになるのではないか。文化史的にみればフーコーとかラカン、バルトとかレヴィ=ストロースなどの一連のいわゆる構造主義者の著作が目白押しだったのが1966年という年だった(文化的にエポックの年)という指摘もあるようだ。
そしてこの辺りを境に日本でも世界でも学生運動が頻発し、その挫折とともにどこか停滞のステージに入っていく。70年代は石油危機が起こり、ローマクラブからは「成長の限界」というレポートが出るDecadeでもあった。先進国での人口増加のカーブ曲線もこの辺りをピークに変局していくともいわれている。ぼくが中学生から大人になってゆくのはこれ以降の時代だ。
没落の予感に怯えつつ、でもまだ日常生活の風景(消費社会)としてはアメリカが頂上の栄華を極めていた時代。だいぶ蛇足が長くなってしまったが、そのように紛れもなくある時代の「ひとつの坂の上」の雰囲気と、どこかそこはかとなく漂っているノスタルジーの感覚がとてもよく描かれていたということだけでも、「シングルマン」を見る価値はあるように思う。そしてそこにひとりの個人史の生と死もオーバーラップされて刻まれているのだ。
よしむね

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[4 9 月 2010 | 2 Comments | | ]

アニメ映画「借りぐらしのアリエッティ」を観た。それほど期待していたわけじゃなかったのだが、実際に観て小粒だけど佳品、そういって良い作品だと思った。監督は米林宏昌。宮崎駿監督ご指名の期待の新人(一番弟子)監督だという。
軒下で暮らす小人と人間の出会いの物語で、とにかく小人の性格(人物?)描写もふくめて、細かい部分が丁寧に描かれている。物語としてのリアルさ(浮ついた感じのなさ)もしっかり根付いていたと思う。ここでは粗筋の説明はこれくらいにしておくが、そのファンタジー的なお話はさておき、舞台となっている場所が妙に懐かしくていいのだ。
その場所とは、家の庭先であり、縁側であり、住まいとしての軒下であり、窓辺であり、小人たちからみての巨大な空間としての家の内部の部屋の様子や道具や置物であるのだが、それらがことごとく懐かしい輝きを帯びていてとてもいい。時代がかならずしも特定されていないように思われるのだけれど、どこか昭和半ば頃の日本の中流(上流)家屋のようであり、それがまたトトロに通じるような、いわゆるまわりの雰囲気の懐かしさと静かさと穏やかさを醸し出している。
そして考えてみれば、ぼくらがちっちゃい子供のころ庭は巨大で、いつまでも飽かずに虫探しをしたりしたものだ。その時家の軒下はどこか秘密めいた感じで、なにか不思議な物語に通じてゆくような闇としてあった。それは家のなかでも同じで、たとえば押入れの中とか、天井の上とか、いわゆる家のなかでの闇の部分について子供心に空想を煽られたものだ。いったいそこには何が潜んでいるのだろう、ひょっとして鬼や妖怪でもいるのじゃないか、みたいな。
アリエッティではまさにその闇(軒下)が影の主人公だといってもいいと思う。その空間描写の見事さ。洗濯物を干したりしているシーンがあるのだが、それが小さな小さな生活を思わせてまた可愛い。アリエッティを威嚇しようとした猫もどこか隣のトトロの猫バスの表情を想像させるキャラクターだ。こんな風に細部をあげてゆくと霧がないので、これくらいにしておくが。いずれにしても物語は細部に宿るということ、神は細部に宿るとはよく言ったものだ。
閑話休題。でもここまで書いてきて、上記の家の描写が懐かしいと感じたりするのは、昭和の頃に子供時代を過ごしたぼくたちだからで、果たしていまの都会の子供たちがこの映画を見たらどう感じるのだろうかとふと思った。彼ら、マンションでしか暮らしたことがない子供たちにとって、たとえば軒下とか縁側とか、庭先とか、天井裏への感触がどれくらい実感できるのだろうか? いまはたぶんすべてがクリアーで清潔で明るい。無駄がない空間も多い。コンビニの中の照度といったら一日中昼の明るさだ。かようにも住まいの近くから闇が消去されつつある。
でも田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家に行けばまだ庭先や縁側は残っているか。あるいは都会だって探せばそういう闇のワンダーランドはまだまだたくさん残っているか。ひとつ言えるのは、子供にとってはよく分からない闇があると感じることがとても大事だと思うことだ。この世には分からないことがあり、どちらとも決めることのできないものがある。グレーなもの。空間で喩えれば縁側がそういうものだ。縁側は外でもあり内でもある。限りなく中間に近いもの。昔のひとはそこで談笑しあったわけだ。
そういうものやことへ滞留できる感性が実はとても大事な気がする。日本家屋がなくなってマンションに切り替わってゆくとき、一番大きな消失物は案外そういうものなのかもしれない。軒下のあまりにも懐かしい想像の感触に、ついついそんなことを思ったのでした。
そういえばこの間、江戸東京博物館に行ったのだが、そこで昭和初期だったかの日本家屋の平屋(模造?)が展示されていたっけ。ゲゲゲの女房のヒットもあるし、日本家屋と妖怪への先祖帰りもまたいいか。
よしむね