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ビートルズ, 映画 »

[15 7 月 2010 | 4 Comments | | ]

この冬に封切りされる映画『ノルウェイの森』の主題歌にビートルズの「ノルウェイの森」の原盤が使用することに決まったという。
それ自体は、大変、嬉しいことである。ビートルズの楽曲がまたより多くの人の耳に触れるからだ。
しかも、僕が70年代後半に自由が丘の場末の映画館でみた「全共闘ポルノ」で「レットイットビー」が流れていたのとは違う。
ちゃんと権利をクリアしたということなのである。
僕は以前より、村上春樹の【ノルウェイの森】とビートルズの「ノルウェイの森」との間には、共通の世界観があると感じていた(「村上春樹とビートルズの「ノルウェイの森」における共通点」参照のこと)が、これに映画『ノルウェイの森』も加わったと考えていいのだろう。ますます楽しみだ...
しかし、ここですんなり喜べないのが僕の性格の悪いところ。
この記事(「交渉1年超、映画『ノルウェイの森』主題歌にビートルズ「ノルウェーの森」」)に微妙に違和感を感じてしまったのである。そこを少し指摘しておきたい。
まず、下記の部分。
しかし、1年以上にわたる交渉が実を結んだ小川真司プロデューサーは、「原作では冒頭でビートルズの曲が流れ、主人公のワタナベはそれまでの出来事のすべてを振り返り、時の流れを思い起こします。映画で生のビートルズのメロディを聴くと、原作の大人になったワタナベのかき乱されるような感情を実感できると思います」と確かな手応えを得ている。
えっ!?、小説の冒頭の「ノルウェイの森」は、ビートルズの原盤ではないんじゃないだろうか。
その部分を引用してみよう。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
しかも、冒頭だけではない。実は、この小説に出てくる「ノルウェイの森」は、ここ以外は(多分)、レイコさんが弾くギターの「ノルウェイの森」なのであり、ビートルズのレコードの楽曲は使われていないのだ。
しかし、記事はこう続けられる。
原作を知る者なら、「原盤を起用するのは必然的なことでした」というトラン・アン・ユン監督の言葉にも納得するに違いない。
僕はビートルズの楽曲が使われることが嬉しいというのとは、別次元で一抹の不安も感じたのであった。
残念ながら「原作を知る者なら、原盤を起用するのは必然的ではないこと」を知っているからである。
まぁ、僕の「イジワル心」を作品全体のすばらしさが吹き飛ばしてくれることを望むばかり、封切りが楽しみだ。
まさむね
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2010.07.15 原作を知る者なら、原盤を映画に起用するのは必然的ではない「ノルウェイの森」

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[14 7 月 2010 | 2 Comments | | ]

最近観た二つの映画でともに暴力描写に際立つ特徴があった。何も介在させずに直接的な暴力が偶発するような世界。これもリーマン・ショック後の世相の何ほどかの影響なのかもしれないなとも思う。もちろんそれがすべてではないにしても。
ひとつはデンゼル・ワシントンが主演しているSF的な映画「ザ・ウォーカー」(原題はイーライの本)。その結末の内容自体はいかにもアメリカ流の真・善をめぐる話なのでそれほど特筆すべきものはないかもしれないが、ここで描かれている荒涼とした風景はやはり見ものだ。おそらく核戦争後(ないしはそのトラブル後)の世界が舞台と思われるのだけど、こうした風景が題材になるだけでもリーマン・ショック後の荒れた世情がいまも去っていないアメリカの現状が垣間見えるように思われる。
砂漠地帯と化した中をひたすら旅する主人公。西へ西へ。CG的な要素を除けば最近の華美なハリウッド映画に慣れた目からみるとそのストーリーからはまるでベトナム戦争後の70年代のアメリカ映画復活のように見えなくもない。時代はふたたび一周して元に戻りつつあるのかもしれない。
そしてならず者たちが割拠する世界。そこでの剥き出しの暴力。それと対峙して自らも身を守るために暴力の発露を生きざるを得ない主人公。アメリカの失業率が10%弱といってもたしか雇用を諦めている人まで加えれば実態は15%くらいとも言われているらしい。そして州のほとんどが財政破綻している現状。地方銀行のたて続けの倒産ラッシュも収まっていない。
うまく報道規制(?)が敷かれているためか、最近の日本ではあまりそうしたネガティブな報道がなされなくなっているが、「ザ・ウォーカー」などが生まれてきた背景を思うと、いまだ危機去らない荒んだ国アメリカの現状が透けて見えるようだ。そして清貧の思想ではないけど、もう一度慎ましい生活(プロテスタントの原点)へ返れというように伏流のごとくながれているその主題。これも時代の趨勢からだろうか。
もうひとつは北野武の「アウトレイジ」。こちらはもともと突然の暴力の湧き上がりにその特徴があった監督による、久々の暴力が横溢する映画となっている。みずからもう暴力映画はとらないと言っていた監督による再びの暴力への回帰。同じ監督による同様のシチュエーション設定に近いものとしては「ソナチネ」がある。
だが、「ソナチネ」と今回の「アウトレイジ」の最大の違いはその詩情性のなさにあると思う。「アウトレイジ」ではむしろそのポエジー性が意図的に排除されているように思われる。そこで描かれているヤクザ社会はまるで日本の社会構図そのままに依然にも増して出世と金に縛られた息苦しい社会として描かれているのだ。
ぼくは個人的には「ソナチネ」のほうがはるかに好きだ。たとえばヤクザ社会でアウトローとなった主人公が沖縄に逃れて行って過ごす無為の時間にはまぎれもなくポエジーがあった。だがアウトレイジではそうしたポエジーがまったく影を潜め、ひたすら金儲け(経済原理)と権力闘争に囚われている様がより辛らつに描かれている。そこには北野武の現代日本に対する批評眼として、リーマン・ショックの後いまだ落ち込んでいる景気のなかで価値転換できずにいる日本人への辛らつな想いがあるのかもしれない。
ポエジーなき日本の深まる構図。救いも無いが死すべき死も大義もない社会。だからソナチネのときのように主人公はもう自ら死を選ぼうとはしないのだ。最後は獄中で同じやくざに殺されて終わる。いずれにしても未だリーマン・ショック後の針路が定まらず、漂流を続けている社会に共通する何かとして、むき出しの暴力(多様な暴力)だけがとりあえず確かだとでも言うように、ふたつの映画があったように思う。
よしむね

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[8 6 月 2010 | No Comment | | ]

80年代の映画ではないのだけど、久し振りにビデオでフェリーニの「サテュリコン」(イタリア映画、1969年公開)を見直した。やっぱり凄い。グロテスクだけどかつセンシブルな映像美といい、幻想的な物語構成といい、少しも古臭くない、というよりも古い新しいということが問題にならない。因みにぼくは「サテュリコン」はさすがにリアルタイムでは劇場で観ていない世代。
 最近出版された松岡正剛氏の対談本「日本力」のなかで対談者のエバレット・ブラウンさんがイタリア人には古代ローマの感覚がいまも生きているみたいなことをおっしゃっている箇所があったと思うのだが、フェリーニの映画などを観ると、現代イタリア人の身体感覚にはいまだに古代ローマの感覚が連綿と生きているのだろうなあということがほんとうに納得される気がする。おそらく、ついそこに、まだ古代ローマの感覚があるのだ。
 だからフェリーニが古代ローマの物語を題材にしていても、実はその群像はまさに現代ローマの若者たち(その当時のパンクな若者たち)を描いているのとなんら変わりないということが今回見直してみてあらためてわかった気がする。
 主人公エンコルピオが彷徨を重ねても、どこへもたどり着かず、川岸の野原で空にむかって叫ぶシーンがある。「なんと目的地から離れてしまっていることか!」。因みにこの映像シーンのなんと切なく美しいこと! だが目的地などあったためしはないし、いつの時代もそうに違いない。行き着くことのない空虚感。これこそまさに「サテュリコン」をながれる通奏低音だと思う。
 「恋々風塵」の切なさから「サテュリコン」の空虚さ、まで。これこそがいつの時代も変わらない若者のすべてだと思う。ぼくらはそのように生きてきたのではないだろうか。
 そういえば映画のラストでエンコルピオはアフリカ行きの船に乗ろうとする。あえて強引なこじつけだが、これは今の若い人たちが湾岸地帯の工場夜景クルーズで船に乗り込むシーンと置き換えてもよいかもしれない、もちろん新大陸と廃墟や無機への憧れ・好奇という違いはあるけど。どういう時であれ若者は移動する船を目指すのだ。
よしむね

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[6 6 月 2010 | No Comment | | ]

昨晩、フジテレビの土曜プレミアムで「セックス・アンド・ザ・シティ」を観た。
今更という感じもなくはないが、面白かった。
僕は、「家紋主義宣言」で青山霊園から六本木を眺める視線を提唱したのだが、六本木の先に世界最強の都市、ニューヨークがあるということを思い知らされた。
そこは、物質主義(消費至上主義)の究極の世界だ。
しかし、俗物主義という一言で片付けるには「セックス・アンド・ザ・シティ」の吸引力はあまりにも強い。そして魅力的だ。
シニカルでありながら繊細で(面長というより馬面の)キャリー
自分第一主義のセックスアニマルで(太り気味の)サマンサ
お嬢様で内向的な面もあり、(目が大きい)シャーロット
知的でプライドが高く(首が長い)ミランダ
彼女達の意地と友情と欲望、つまり颯爽としたエネルギーは凄い。自由になりたい世界中の女性が彼女達にあこがれるのはよくわかる。
特に、閉塞感のある日本社会の女性が「セックス・アンド・ザ・シティ」に夢中になるのは自然だし、むしろ健康的かもしれない。
僕は、マーチンスコセッシの「タクシードライバー」にあこがれて、80年代後半に何度かニューヨークに行ったことがあるが、その頃のニューヨークは汚くて怖なかった。ジュリアーニが市長になる前、タイムズスクエアには大きなSONYの看板が出ていた時代だ。
しかし、あれからもう20年も経っているが、「セックス・アンド・ザ・シティ」の画面の端々を見ていると、例えば、ゴージャスなパーティが開かれている会場から一歩外に出るとストリートに何をするでもなくただ佇む貧困層の目の暗さ、というようなものは、「タクシードライバー」の時代から変わっていないようにも思われた。
おそらく、「セックス・アンド・ザ・シティ」と「タクシードライバー」の落差から生じるダイナミズムこそ、今でもニューヨークの活力源なのだ。そしてそれは、夢と現実の落差と言い換えてもいいかもしれない。(ちなみに、シリーズ5のオープニングでは、街を歩くキャリーが、自分の写真が大きく側面に描かれている公営バスに泥水をかけられるというシーンが流されるが、それまさしく、現実の彼女が、幻想として一人歩きした彼女に冷や水を浴びせかけられるという暗喩になっている。)
頭ではグローバルスタンダードを受け入れなければならないと考えていながら、心のどこかで「鎖国」をしたいと願っている。その一方で「セックス・アンド・ザ・シティ」に惹かれながらも、日本人として、先祖からの繋がりを物語化しなければいけないと考えている。世界中の多くの貧困にあえぐ人々に同情の気持ちを持つと同時に、一度はニューヨークでゴージャスな生活も経験してみたいと思っている。
「セックス・アンド・ザ・シティ」など観なければよかったと思いながら、今日はGYAOでシリーズ5のテレビシリーズを続けて観てしまった僕は明らかに迷っている。
しかし、この迷いは、けっして僕だけのものではないような気もしているのだがいかがだろうか。
まさむね

1987 »

[26 5 月 2010 | 2 Comments | | ]

まさむねさんとなるべく重ならないように80年代の映画について取り上げる予定なのだが、この「恋々風塵」だけはちょっと例外ということで、ぼくも書かせていただくことにした。というのももし今まで見た青春(恋愛)映画でベスト3を上げろと言われたら、間違いなくそのひとつにこの映画を上げるだろうからだ。とても好きな映画だ。
 もう細かいことやあらすじについては触れない。ただあのラストで、お爺さんと主人公が言葉を交わす(実はあまり交わさない)シーン。山の気に包まれたなかで、お爺さんは失恋した主人公に対して仔細はなにも尋ねず、ただ今年はさつまいもが不作だとか良くできたとか、そんな話をするだけだ。お爺さんは多分分かっているのだけど、なにも言わない。
誰もどうすることもできないからだ。ただみんなそうしてきたように、ひとりで黙って泣くしかないし耐えてゆくしかない。映像はどこまでも静かで凛としている。そしてもの悲しい。山の気の張り詰めたような美しさ。老人と青年のふたりだけがいて・・・。
こんなシーンに出会えたことのなんという至福! 映画を観るとはまさにこういう瞬間に出会うことだと思わせてくれた、そういう作品。
人を好きになることはときに悲しい。ぼくももうあの少年少女たちからは遠く離れたところに来ているけど、今もときどきこの映画のいくつかのシーンを思い出す。切ないことや思いっきり楽しかったこと、ワルをしたり、そんなこんな誰にでもあったに違いない小さな出来事の数々。今も恋々風塵は走馬灯のようにそれらを浮かべて回っているのだと思う。
よしむね