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[2 9 月 2010 | 2 Comments | | ]

日銀が金融緩和を行うことを決定した。国債を買い取って資金を供給するという仕組み。アメリカのFRBもすでに金融緩和を行っており、それに対する同調ということだろう。日銀はそうしたくなくても政府官僚筋(アメリカ追随派)の意向・圧力に押されたのだろう。過去この20年間、日本はどれだけの緩和策をやり続けてきたことか。その結果の借金体質とほとんど効果のなかった経済弱体化が続いているわけだ。
しかもほとんど0に近い金利施策を続け、貯金暮らしのお年寄りたちからどれだけのキャッシュを奪ってきたか。ぼくの父親もその影響を受けた世代だ。20年間もお金を預けていれば普通なら5%くらいのまともな金利がついていれば倍近い資産になっていてもよかったはず。これも所詮不労所得だけど。
緩和って言われるとなにかいいことのように受け取れて分かりにくいが、なんのことはない、あらたに輪転機等を回してお金を市場に流し込むことでしょう。リーマンショック以降、市場の危機を回避するという名目で、世界中でどれだけの金融緩和策がとられてきたことか。つまり流し込めるだけのお金が流し込まれたことになるだろう、世界中に。
これを続けていけば、当たり前の話だけど、お金の価値・ありがたみがなくなることは必至だろう。ヨーロッパはさすがにギリシャ等の財政危機を経てこれから金融引き締めに向かいつつあるようでもあるが、アメリカは引き締めに転じるかと思いきや、またも緩和と来た。
アメリカ・ドルは未だに世界の基軸通貨だからこんな野放図なドル大量印刷をやり続けていられるのかもしれないが、弱小国家ならもう国家破産のステージだろう。でもドルと米国債の余命もそんなに長くはないと思われる。奢れるもの久しからず。盛者必衰の理。いつまでも世界中からドルを買ってもらって実体よりも良い暮らしを続けることができるわけがない。
だから円高、ドル安になるのも長い観点で考えれば当然のことだ。ドルがこれだけあふれまわっていれば、ドルの価値が下がるのは当然。紙幣も所詮紙切れ。お金には魔的な商品としての側面もあるが、所詮信用関係(幻想)に基づいて価値が取引されている以上、無価値になることもありえる。それが進んでいけば超インフレになる。
それからいま問題なのは、これだけ大量に供給されたお金がいったい何に使われているのか、だろう。いまは誰もお金を大量に使うひとがいないのだ。まともな企業は手元資金が厚い状態だけど、新しい投資には積極的でない。というよりも誰もリスクをとってなにかをやろうというマインドではない。結局余ったお金の大半は再びの債権買い等に回っているだけというのが実情だろう。それから借金の返済に当てられているということ。
 こういう異常な状態が続いているのに、あいかわらず日々の新聞を筆頭にマスコミ各社がこういう状態を少しも異常とは報道しないようだ。聞かれるのは日本企業が円高につぶされるから緩和しろ緩和しろという報道ばかり。でもそんなその都度の小手先で円高が一時的に収束するようにみえても持続的な効果は限定的だろう。
 問題は長期的にドルの低下が明らかなことを認めて、ではどうやって為替に影響を受けにくい体質にしていくか、ドルからの自立(脱却)を模索してゆくかを考えるべきだろう。そのひとつの選択肢にドルに変わるアジアの域内だけで流通するような通貨とかがあってもいいし、商品をふくめたバケット取引とか等々があってもいい。もちろんそれには時間も手間暇もアイディアも必要だ。でもそうした根本的なデザインなしに、もはやその都度の対処療法ではもう限界に来ていると思われる。初期の鳩山首相には多少なりともそんな試みへの意気込みもあったように思う。
 そしてそれはまさむねさんが前回の記事で以下に述べたようなことと同じ趣旨にもつながる。
 「日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。」
 誰だって新しいシステムはたぶんこわい。それから弾かれる人にはなりたくないと考える。自立というとなにか居丈高な感じも強いが、ゆるやかな自立、少しずつの自立、助け合いながらの自立、相互的な自立、弱さをともなった静かな、漸進的な自立こそがこれから模索されるべきなのかもしれない。そうして最終的にはやはり自立した国になるべき。人もそうだろう。そのために何が起きているのか、正確に知ろうとする姿勢だけは開かれているべきだと思う。
よしむね

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[18 8 月 2010 | 2 Comments | | ]

人間は、いかにして、動物から人間になったのだろうか。
古い問いである。ある人はそれは言葉だといい、ある人は、道具だともいう。
しかしおそらく、人類だけが死者を畏怖し、それを弔うという儀式を持っているということが動物と違うところではないだろうか。そんな話をかなり前にどこかで読んだような気がする。多分、構造主義の本だったかとも思うが覚えていない。
昨今、社会問題化している偽装生存老人問題は、一つには社会や家族の底が抜けてしまった絆の問題でもあるだろうし、別の視点から見れば、偽装年金受け取り問題という行政システムの問題でもある。
しかし、僕らがそのニュースを聞いて震撼するのは、そういった事件の当事者達の死者に、対する畏怖が全く感じられないという点である。隣の部屋で死んでしまった母親をそのまま放置しただけとか、父が即身成仏したいといっていたので自由にさせてあげたとか、まるでわけがわからない。
つまり、なんだかんだ言ったとしても、結局は、そういう状況の人々にとって、死者を弔うということ、すなわち人間であろうとすることよりも、己が、死者を生きたままということにして、その年金もらい、細々と生き続けること方が重要だということなのだろう。
しかし、それは全くの他人事なのであろうか。正直なところ、そんな状況に陥った人々というのは別に特別な人ではないと思う。それは、もしかしたら将来の僕達かもしれないのである。
数年前に東浩紀が「動物化するポストモダン」という本を書いた。彼は、この著書の中で「動物化」という言葉で、消費社会において、複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向を説明したが、その究極のグロテスクな姿が、これらの偽装生存老人事件にあるように思える。東氏は、そのことをオタク文化(若者文化)を例にして語っていたが、僕らが今、目にしている「動物達」は、おそらく戦前、戦中に生まれたような「大人な」人々なのである。
日本人は、自らの手で何千年もかけて作り上げてきたユニークな文化、つまり、「死者は正しく弔わないと怨霊として生者を呪う。その死者に対する畏怖ゆえに、怨念を持って死んだ者こそ、盛大に奉り、護霊(御霊)として生者を護ってもらおう」という弔いの文化を無くそうとしているのだろうか。
現在、靖国神社を語る多くの言葉は、それが右から聞えようと、左から聞えようと、そのことよりも、死者に対する畏怖が感じられないことの方が問題なのではないかと僕は密かに思っている。
もしかしたら、日本人は、民族として動物への道をひた走っているのではないだろうか。
実は数日前の終戦記念日に、コミケでコスプレを見ながら、僕はそんなことを考えていたのであった。
まさむね

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[25 7 月 2010 | No Comment | | ]

今年の夏は、僕にとって初体験の「オタクの夏」になる予定。
7月25日 ワンダーフェスティバル 幕張メッセ
8月01日 ワールドコスプレサミット 名古屋大須
8月15日 コミックマーケット78 東京ビックサイト
そして、9月中旬の東京ゲームショウ... 幕張メッセ
今日はその初日のワンダーフェスティバルを見学しに幕張メッセに行った。
朝、9時半に会場に到着するも、すでに長蛇の列。みんなお目当てのフィギュアを買おうと汗だくになっている。さすが、歴戦のツワモノという感じだ。
僕は特にフィギュアには興味は無いが、参加者の情熱には敬意を表したい。やっぱり、日本は職人の国だ。
この日のために、手作りのフィギュアを持って日本全国から集まってきた人々、本当に楽しそうである。
その中で、自分の趣味と若干近い空間を発見した。
それは、木彫職人・西村宜繁氏の家紋彫刻承りますというブース(西村宜繁のアトリエにようこそ、、参照のこと)だ。
さすが、ワンダーフェスティバルだけあって、彫られていたサンプルはバイオハザード紋。
伊達家の仙台笹以外だったら、3万円で彫っていただけるそうだ。(ちなみに、仙台笹はその倍くらいとのこと...)
また、その隣にあったのが前田利長の木彫り人形。
兜の梅鉢がかわいい。
それにしても、ワンダーフェスティバルは凄い熱気だ。今でこそ、幕張メッセの第1ホール~第8ホールぶち抜き、総動員観客数が4万人(一日)のイベントにはなっているが、ここまで来るのに25年かかっているのだ。途中、業者間の過剰なライバル意識、アマチュア人形造型師の権利問題など、いろんな難関を乗り切って本日を迎えたことは素晴らしい。
しかし、もともとはプラモデルというメジャーなマーケットに対するインディとして徐々に成長していったという歴史のあるフィギュア界であるが、そのメインストリームたるプラモデル市場が段々細っているという大きな衰退の兆候があるという。
地道ではあっても、底辺の裾野を広げていくことが重要なのであろう。それは、アニメにしても、漫画にしても、どんなオタクジャンルにも共通した課題だ。
クールジャパンという日本のオタク文化の海外進出の流れが、一時の流行ではなく、ちゃんと製作者にメリットのある形で発展していくことが重要なのではないだろうか。
この夏、僕はそんなことを考えながら各会場を回ってみたいと思う。
まさむね

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[3 4 月 2010 | No Comment | | ]

日本の金融資産がまだ1,400兆円くらいあるとよく言われる。ついこの間も日経新聞に記事が出ていたね。だがこれはもう数字の嘘・まやかしであり、はっきり言って毎度毎度のこういう提示の仕方はやめたほうがいいと思う。いったい誰がどういう意図があってこんな公表をやっているのだろうか。
実際にはここから個人の負債やローン残高もあり、そうしたものを差し引くと、真水は400兆円とか600兆円あたりということでもあるらしい(真実はよく分からない)。しかも国・地方の借金があわせて1,000兆円近くとも言われているわけで、これを引いてしまえば実質マイナスなわけだ。仮に引かなくても、真水といわれているものだって将来収益とかも含まれているようなので、実質的には運用損でどれだけ残っているのかさえ怪しいものだ。特にわが日本では運用ビジネスはきわめて低劣だから。
こういう風にお金がたくさんあるように言いたくなるのは、本当は自分たちが金持ちだと思い込みたいからなのだろうか。日本という国はこれくらいあるのだと言い聞かせたいのだろうか。でもこれって裸の王様みたいなもので、本当はもう財産なんてたいして残ってないのにいつまでもあるように思うことで、どんなメリットがあるのだろう。
それよりもう皆、お金がないのだから、ムダ使いを止めようと言ってくれたほうがよほどすっきりするように思える。つまりお金のムダ使いを続けたい人がいて、その人たちがムダ使いを止めなくていいための方便にこそ使われているだけなのではないかと思えて仕方がない。
どっちにしても、以前まさむねさんが言っていたけど、今の日本はどっちの方向に向かうにしても、国際競争(ストレス)か衰退(できるだけストレス・フリーの過保護・高福祉)の2者択一の道くらいしかなく、どっちを考えることも嫌で思考停止しているのに似て、お金についても本当はもう残っていないことを考えたくないのだろうな。そんなことを考えても何もならないからとでもいうように。
でも、そろそろそんな思考停止はやめて、ニッチもサッチもいかないことから始めていくことを覚悟して考えないといけないのじゃないだろうか。そうしないと運用をどうしてゆくかみたいな基本的な肝心なことがいつまでも議論されず等閑にされて、ただただ放置されてゆきかねないように思うのだが。結局はいずれ損の落とし前が必要になるのだから。さしあたっては国として大量に買い込んでいる米国債とかどうするのだろう? 自分で買い支えている日本国債しかり。その他諸々、有象無象、奇奇怪怪。
そしてまずもっていい加減収入に見合った生活へのリサインジングの意識をちゃんと持つようにしないとね。今の日本は月給40万円の人が借金して100万円の生活を続けているわけだから。とにかく何とかしてくれみたいな要求ばかりで分相応ということがどこからもトンと聞かれなくなって久しいようにも思える。
このままだといったいぼくら国民はどれくらいのサイズ・規模の収支で満足しなきゃいけないのか、さっぱり見えてこない。これは民主党政権になっても基本変化なし。民主党ももうなにをしたいのかさっぱり分からない感じになってきているね。最初の志の変質か変局なのか。しだいに選挙対策と利益誘導の体質=かつての自民政治そのものへの回帰みたいにも見えてきているし。青年=志、老いやすしとはよく言ったものだ。でも老いには老いの知恵があることを期待したいが、それもあまり見えない。
とにかく国として肝心の議論がきらいなのにお金があるという幻想だけは持ち続けたいというのはどこかさびしいね。いずれ困ったときには空からお金が降ってくるという神風的な待望論・信仰心から抜け切れない国民性なのだろうか。それとも宵越しの金は持たないという潔い心持がなせる業からなのか。たしかに金は天下の回り物かもしれないが。このままだと小回りものにさえならずに終わりそうだけど。
よしむね

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[24 3 月 2010 | No Comment | | ]

ちょうど「We ARE THE WORLD」から25年めの今年、ハイチ・バージョンが出た。本当はマイケル・ジャクソンの死もあり25周年記念のようなものを考えていたところ、ハイチ地震があって、ハイチ・バージョンに変わったらしいけど。
家内がiPhoneを使って350円でダウンロードしてくれた映像を見ながら、音楽を聞いた。25年前とは歌手の顔ぶれもすっかり変わった。変わらないのはライオネル・リッチーとクインシー・ジョーンズがリーダーシップをとったことか。最後はラップ・ミュージックを基調にした曲調でエンディング。そして「WE ARE THE WORLD」を歌う要所要所では、故マイケル・ジャクソンの映像が挿入されていた。妹のジャネット・ジャクソンとのデュオという形で。皆さんの多くもすでにご覧になっているでしょうが。
前回同様に収益金は救済金として使われるわけだが、前回と異なるのは、最後にハイチでおそらく被災にあった子供たちの映像がながれ、現地で音楽にあわせて踊ったり、笑ったりしている姿が映し出されていたこと。辛いなかにあっても笑顔を見せるそのしぐさが、嘘がない感じでかえっていい。人は泣いてばかりいられないだろうからだ。
こうした映像をみていてつくづく思うのは、なぜ日本ではこのようなボランタリーな試みがすぐに行われないのだろうかということ。詳しいことは分からないが、所属事務所の違いとかレコード会社の問題、レーベルの問題とかいろいろ障壁が大きいのだろうか。加えてたしかにアメリカやイギリスと違い、ミュージックシーンにおけるインパクトの大きさの違いもあると思うが。もちろんこうしたバンド・エイドによって世界が変わるわけではないとしても。
でもクール・ジャパンの今なら、たとえばコスプレやアニメ、JPOPとジャパン・ファッション等のコラボ組み合わせで、WE ARE THE WORLD に匹敵するものを日本からの発信として流せるようにも思うけど。とにかく最近に至るまで日本に一貫して欠けているのは、ノーブレス・オブリージュ(騎士道に基づく奉仕精神)のようなもの。税制の優遇がないことも一因かもしれないが、日本人は金持ちほど寄付したがらない国。そしてボランタリーの欠如ということ。
欧米などに旅行してつくづく感じるのは、たとえば公共の場で一般の人たちが障害者の人たちに示す配慮のようなものの根強さのことだ。これだけは未だに日本では決定的に遅れていると思う。アメリカ人は大義が好きで、売名行為的なものが大好きだからというようにあえて意地悪く見るとしても、金儲け以外に、セレブを中心にして日本からボランタリーなことが世界に向けて依然として発信されていかないのはちょっとさびしいね。

次の25年めまで待つしかないのかなぁ。そのときはUSAで「WE ARE THE WORLD」の何バージョンが出るのか。そこでまたマイケル・ジャクソンの歌っている姿が挿入されるのだろうか。マイケル・ジャクソンはゾンビ(永遠)だからね。今回のハイチ・バージョンもきっと天国でゾンビとなったマイケル・ジャクソンの精神が生かされているのだろう。                            
よしむね

時事ネタ, 歴史・家紋 »

[12 2 月 2010 | 2 Comments | | ]

昨日は建国記念日だった。
テレビや新聞を見ない生活をしているので、それらがこういったマスメディアでどのように報じられているのかは知らないが、少なくともネット上での建国記念日に関する記事は、産経新聞は別にして、お寒い限りだ。
それぞれのニュースサイトで、”建国”で検索してみた。それぞれ最近の3つの記事の見出しを引いてみたが、下記のように、建国と言った場合、建国記念当日の検索ですら、現在の日本人の関心が「日本の建国」よりも、建国60周年を迎えた中国は云々といったの記事のほうが目立つのだ。
少なくとも、僕の子供の頃は、建国記念日を反対するにしても、その日を意識していたのは確かだ。そして、テレビでも、そのことが議論になっていたと記憶している。
しかし、現代ではそことすら、どうでもいいことになってしまっている。
勿論、この曖昧なままに、なんとなく、という雰囲気、原理原則にこだわらないという姿勢が日本的だとも言えるのだが...
個人的に最近、気になっているのは、なぜ、天照大神から、やっと五代目で神武天皇を生み出したのかという、その間の意味だ。
簡単に書くと、こんな系図になる。若干でもわかりやすくなるように男を青、女を赤で表した。
天照大神>アメノオシホミミ×高木神の娘・栲幡千千姫命>ニニギノミコト×大山祇神の娘・木花之開耶姫>山幸彦×海神の娘・豊玉姫>ウガヤフキアエズ×海神の娘・玉依姫>神武天皇
この中で、一応、長男は、アメノオシホミミとウガヤフキアエズ。ニニギは次男、山幸彦は三男、神武天皇は四男である。当時は末っ子相続だったのだろうか。このあたり、南方系の匂いがする。また、后の系列を見ると、栲幡千千姫命=創造の神の娘、木花之開耶姫=山の神の娘、豊玉姫=海の神の娘、玉依姫=海の神の娘というように、いわゆる異種族との婚姻が重ねられている。これは、それらの種族と婚姻を重ねることによって、ようやく天皇家が日本を統一する正当性を得たということなのであろう。
最近は、外国人をどのように受け入れるのかということは日本にとって一つの大きなテーマとなっているが、こうした「記紀」を見ると、そのあたりが比較的スムーズに平和裏に行われているところに、僕などは日本人の叡智を感じるのだ。
少なくとも一年に一度の建国記念日位、こういったことを頭の片隅で考えてもいいのではないかと思うが、いかがだろうか。
◎朝日新聞

「EC首脳会議では“無い袖は振れぬ”のが実際」【ドットコモディティ】 2010-02-10
asahi.com(朝日新聞社):フォトギャラリー一覧 2010-02-08
なぜ中国は「不機嫌」か プロデューサー・張氏に聞く 2010-02-02

3つのうち、二つが中国の建国記念にからむ話だ。一つ目は、ドットコモディティ社の社長のエッセイ、「ではまた明日。おっと明後日ですな。明日は建国記念日。」というところで出てくるだけだった。
◎読売新聞

ハイチ大地震支援策、新国家建設も議論…AU会議 2010.02.01
鳩山演説「労働なき富」にヤジ、「それはあんた…  2010.0131
読売新聞連載小説「草原の風」 宮城谷昌光さん… 2010.01.26

読売新聞では2月11日の建国記念日に関しては一切、検索できなかった。
ハイチでは地震を受けて、新しい国家を作らなければならないという話と、鳩山首相の演説で「インドの建国の父、ガンジー」が出てくる話と、新聞小説の作家のインタビューで「前漢の建国者、劉邦」というのが出てくるのがひっかかっただけである。
◎毎日新聞

英語クイズ:今日は建国記念の日。「建国記念の日」を英語で?2010.2.11
建国記念の日:きょう、佐伯大分で集会 /大分 2010.2.11
訪ねたい:銀幕有情 ラストエンペラー(中国故宮) 2010.2.10

毎日新聞は、まだまし。建国記念日のことを少しは意識している。それでも、3つ目の記事は中国の建国60周年の話である。
◎産経新聞

【主張】建国記念の日 神話が生きる国誇りたい 2010.2.11
【正論】文芸批評家 都留文科大学教授・新保祐司 2010.2.11
古代カルタゴとローマ展、11日開幕 京都文化博物館 2010.2.10

産経新聞はさすが「右寄り」といわれるだけであって、「国民の「建国」や「国の始まり」に対する意識は希薄化してしまうだろう。今後は、政府が率先して記念式典などを開催することを望みたい。」との主張を書いている。
◎日経新聞

連載企画:「日本サッカー世界への挑戦」・大住良之 2010.2.11
中国、元最高裁副長官に汚職で無期懲役 2010.1.19
中国のテレビ局にも市場化の波 動き出した「制作と放送」分離 2009.11.26

朝日新聞同様、3つの記事のうち二つが、中国の建国記念がらみの話。一つは、サッカーのエッセイの中で、「1981年2月11日。春を思わせる穏やかな陽光に恵まれた建国記念日だった。」と回想している箇所。悲惨だ。
まさむね

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[17 11 月 2009 | No Comment | | ]

最近、骨折快癒後の腰痛リハビリを兼ねて大江戸温泉に通っている。大江戸温泉が果たして本当の温泉なのか、なぜ大江戸温泉通いなのかにはとくに深い意味はない。比較的家から近いという利便性と手ごろさというのが選んだ理由の一番だ。それに湯による癒しは確かに腰痛には良いようだ。因みに僕の住まいは大田区だが、京浜地区にも近いエリアでいわゆる城南地区ということになる。
さて通いつめて常々思うのは、コンスタントに来ている外人客の存在だ。ここがどれほど日本在住の外人に知れ渡っているのか僕は知らないが、築地市場ほどとは言わないが、案外隠れ人気スポットだったりして! 来訪してくる外人の多様性もそれなりに面白い。会話から聞き取れるかぎりでも、いわゆるイングリッシュやアジア系(中国、台湾、韓国)に限らず、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語等々と思しきことばたちが結構渦巻いていたりするのだ。団体でやってくる客も結構いる。それだけ無国籍化しているわけだ。
この外人客の多さをグローバル化や経済の多様性と結びつけることもできようが、それよりも異邦人からみて大江戸温泉の持つコンセプトの分かり易さが一番の理由かもしれないな。温泉といういかにも日本的な「場」、しかもそこに江戸の持つ見世物屋的な雰囲気(因みにここでの浴衣は江戸時代の浮世絵を図案にした柄もの)が多少味付け演出されていること。そこにリトル・ジャパンのなにかの面影でも感じているのかどうか・・・・。造られているものは、どれも折衷的・ガラクタ的な模造建築でおよそ時代考証的にはいい加減な感じはするのだが。だがここではこれ以上大江戸温泉自体への考察は行わないつもり。
ぼくにとってむしろ興味惹かれるのは、大江戸温泉がいわゆる湾岸エリアの只中にある、という事実だ。江戸時代には存在しなかった海の上の埋め立て地に「大江戸」が存在するという皮肉、構図。
この湾岸というエリアは、特に90年代以降のパースペクティブのなかでは世界的に流行となった湾岸再開発のながれもあり、ほんとうは世紀末をまたいで輝かしい未来都市の何かにつながるはずだった。ウィリアム・ギブスンのSF「ニューロマンサー」のチバ・シティに代表されるような電脳空間のさきがけ、先端都市のイメージ。それをいま代表しているのはかろうじて世界のアキバかもしれないが。
だが結果として今ぼくらの目に映っている湾岸地帯とは、意味のない更地のうえに立つ空虚な記号としてのなにかの施設というビル建物だけとも言える。そこに大江戸温泉も位置しているのだ。たしかに未来にやってきて、ハコ(箱)だけが残ったのだ。
また無国籍化というと、ぼくも大好きなかつてのSF映画「ブレードランナー」(原作はフリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」)で描かれている未来都市のなかの屋台風景に通じるようなアジア的な混沌、猥雑なエネルギーみたいなものを想像したくなるが、お台場に代表されるのはそのような混沌とはおよそ対極にあるものだろう。むしろ無機的で人工的でそれがかもし出すどこか醒めた感じの匂いや距離感といったほうがより正確だろう。今では上海のガイタン地区に代表されるような中国沿岸部の成長性のほうが余程未来に通じる湾岸のイメージに近いであろうし、悲しいかなその意味で日本は国力の衰退をたどる以外に道はないともいえるかもしれないけど・・・・。
でも世の中に絶対というものはないし、かつてこうあれと思ったものが、そうなるとは限らない。今、若者を中心に、工場地帯を遊覧船で回る夜景クルーズツアーが流行っているという。工場地帯の持つ無機性に惹かれる若者が多いらしい。世代が違っても、ぼくもかれらの心情に通じるものは共有している。湾岸や工場がかもし出す廃墟を美しいと感じる心性たち、その群れ。それがまぎれもない今だとするなら、それが所詮かりそめの空虚な箱に過ぎないとしても、そこから出発するしかない、それを受け止めてゆくしかない、と思う。「未来の都市」なんてどこにも存在しないからだ。
よしむね

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[6 10 月 2009 | No Comment | | ]

2016年の夏のオリンピックがリオデジャネイロに決定、東京は落選でした。
日本人として一瞬はがっかりしたが基本的によかったと思う。実は、自分は昨年来、東京オリンピックには反対だったのである。ただ、10月18日の「若者世代の団塊世代以上に対する怨嗟は凄いのかも」というエントリーで、以下のように書いていたのだが、その後、関心がなくて正直忘れていただけなのだ。
先日、石原都知事がネットカフェ難民が1500円でネカフェに泊まるのはファッションの一種だ。山谷に行けば300円で泊まれるのに、って発言してネット上で大顰蹙を買ったけど、その彼は今、オリンピック誘致を推進しようとしている。
自分は決めて(手柄だけ取って)、作業は下の世代に押し付けとしているのだ。勘弁してほしい。僕は大反対だ。
石原軍団で、準備から警備まで勝手にやってくれというのが本音。
しかし、このたび、”めでたく”落選ということで思い出した次第。
後で聞いた話であるが、招致活動に150億円、都の職員も800人以上も動員したという。なんという無駄だろう。さっそく、そのあたりをどのように考えているのかを知りたくて招致委員会のサイトにアクセスするとブログが10月2日の最終プレゼン演説のところででプッツり途切れていた。
このまま、ある日、突然アクセス出来なくなる可能性大なので、一応何かの記念に、以下、最後のエントリーの文章だけを引用しておく。
コペンハーゲンで応援!東京応援ツアーの皆さんが無事、コペンハーゲンに到着!
朝は最終プレゼンテーションに向かう東京チームを盛大に見送った後、
市内中心部にある市庁舎前広場のパブリックビューイングで
さきほど終了した最終プレゼンテーションを固唾を飲んで見守りました。
プレゼンは大成功!
何度も「東京!東京!」と掛け声が沸き起こり、
コペンハーゲン現地の皆さんもこれに加わって、東京にエールを送ってくれました。
オリンピックって、こうして世界を一つに結んでくれるんですね。
さぁ、この後はIOC委員による運命の投票、そして開催都市の発表です。
投票開始は日本時間0時過ぎからです。
皆さん、日本からパワーを送ってください!
正確な世論調査の結果は知らないが、東京が落選したのは、「市民のバックアップが少なかったから」ということが大きな原因らしい。自分は東京在住だが、確かに、今回のオリンピックが話題になったことは少なくとも僕の周りでは皆無だった。それなのに、半ば、都知事の思いつきで強引に進めてこの結果だ。仕事の出来ない人の仕事の進め方の典型的なパターンを見るようだ。
さて、それではドブに捨てた150億円はどうしてくれるのだろうか。
まぁ済んでしまったことは仕方がないにしても、今の時代、ブログを突然辞めるのではなく、何が問題だったのかをちゃんと説明するのが行政の義務だろう。それに、東京オリンピックをするという前提で雇っていた都の職員も可哀相だが、当然、仕事が無くなったのだから不要、馘首に異存あるまい。民間企業がこれほど苦しい時代だもの、東京都だって、仕事もないのに雇っておくほどの財政的余裕はないはずだ。まさか、人が余っているからといって仕事をわざわざ作り出すことはないと思われるが...念を押しておくが当然のことながら、2020年のオリンピックに再度立候補っていうのは冗談だよね。
とにかく、その馘首の具体的なスケジュールをはやく発表して欲しいものである。
まさむね

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[26 9 月 2009 | No Comment | | ]

前原誠司国土交通相は、八ッ場ダム視察した。結局、地域住民とは会ってもらえなかったが、この視察にはそれなりの意味があった。
大局的に見れば、ダム建設中止に向けて一歩進んだと見ていいのであろう。日本全国の無駄な公共事業の中止をマニフェストとして掲げた民主党、今までの官僚が決めたことは絶対という硬直したシステムへの挑戦にはおおいに期待したいものである。
さて、客観的に見ても、ダム建設を進めるか、中止すべきかに関して言えば、単純にそのダム建設がどれだけの公益性が見込めるのかという点が重要なのは当たり前の話である。
しかし、民主党の説明によると、八ツ場ダムに関して言えば、治水、利水両面において、既にほとんど意味がなくなっているという。だとしたら、工事を中止するのが筋なのであろうが、その算定に関しては、今までの国交省の公式発表とは全く異なっているから話がややっこしいのだ。国交省によれば、ダムの費用対効果は3.4もあるという。今までの経験で言えば、行政の言うことは怪しいのでは?という推測は出来るが、実際はどちらの言うことが正しいのであろうか。
また、テレビでは既に工事の7割は完成しているというような説明があったが、社民党の保坂氏のブログなどで確認すると、それはただ、総工事見積もりの7割を既に使ったというだけの話らしい。地盤整備などの事業に対する見積もりが当初からかなりずれていて、実際には、2割程度の作業しかできていないという話もある。ということは、今後はさらに多額の費用がかかる可能性もあるということだ。これに関しても、はたして一体、どちらの見積もりが正しいのであろうか。
また、テレビでは、ダム建設中止反対住民という方が話しをしていたが、その理由は、大雑把に言って「今さら、中止というのは、私たちの今までの苦労はなんだったの?」という話だ。また、既に墓所まで移動させられていて、どうしてくれるのかというような人もいた。
しかし、ダム建設で住居移転を迫られた人々には、今までも、当然、補償がされていると思われる。
はたして、一体、どういった補償条件で移転を承諾したのだろうか?それがわからないので、テレビのこちら側としては、同情していいのか、それとも、そんなの我慢しろよという風に感じるべきなのかがよくわからないのである。
さらに言えば、、ダム建設には大きな利権がかかわっていると思われる。国交省OBの天下り団体とか、地元の土建屋とか、中止によって困る人々の具体的な声をテレビでは全く流してくれないのにも困ったものだ。いつもそうだが、利害当事者は、こういった時、一体、何を考えているのだろうか。なぜ、テレビはこういった人々の取材をしないのだろうか。あるいは、取材を断られたなら断られたということを教えてくれないのだろうか。
まぁ、ようするに、1)ダムを作ったほうが公共的な利益になるのか、2)作り続けた場合今後どれだけの費用がかかるのか、3)今まで住民はどのように補償され、今後ダム建設中止された場合にも、住民は具体的にどの程度補償され続けるのか、4)ダム建設中止によって国交省OBの天下り先はどれだけ困るのか等といった重要な点が、テレビではぼかして報道されているため、ただ、「国家権力が住民を翻弄している」という過去数十年にわたって見せられ続けてきた物語の別バージョンにしか見えないのだ。
ダム問題の帰結も勿論、重要なのだが、テレビが描く物語のつまらなさ、大雑把さの方に嫌気がさす。
勿論、これは、いつもの話ではあるが。
まさむね

時事ネタ »

[6 9 月 2009 | 4 Comments | | ]

先週の水曜日、9月2日にお台場に行く用事があったのでついでに等身大のガンダム立像を観てきた。
8月31日までのイベントの目玉企画だったこのガンダム像が、まさに解体されるということで、それを惜しむファンも沢山集まって、思い思いにカメラを向けていた。
中には、解体の過程をビデオにおさめようと、長回しでその全過程を撮ろうとするコアファンまでもいた。
左図のガンダム像の右手に写っているのは解体用のクレーンである。
いろんな事情があるのだろうが、彼らの無垢な横顔を見ていると、観光資源として残しておいてもよかったのではないかと思わずにはいられなかった。
視点は変わるが、僕は以前より、東京の東南部には、築地本願寺の墓地が和田堀に移転してしまった後に、霊的なエアポケットが出来てしまい、それをなんとかすべきだと、半分、本気で、半分、SFチックに語ってきたのだが、その霊的エアポケットを塞ぐ意味でもこのガンダム像は解体しないでもらいたかったとも思うのである。
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さて、久しぶりにお台場の地に足を運んだのであるが、どう見てもこのお台場という土地は、人が生きて、根を張るような街には思えなかった。勿論、もともと埋立地なのでそれは当然なのであるが、この土地は、どこか、人間に優しくないのである。
観光客が、自動車やモノレールでやってきて、テレビで観た光景を確認するだけで、そのまま帰っていく、そんな土地にしか思えないのだ。
今は、テレビ局の力と巨大資本の後ろ支えがあって、なんとか人を集める観光スポットとなっているが、それらがあるタイミングで退けば一気に寂れてしまうだろう。
おそらくここは巨大な廃墟になってしまうだろう。そんな近未来図を想像させるような、根無し草的な寒い空気がこの街には流れているような気がした。
自分としては神社=土地の霊が不在の街は、どこか心が落ち着かないが、逆に言えば、そんな殺伐とした運命を予感させる空気が、等身大ガンダム立像と見事にマッチしていたともいえるのである。
しかし、今回のこのガンダム像は、「GREEN TOKYOガンダムプロジェクト実行委員会」という緑溢れる都市再生と魅力ある街づくりを目指す団体の主催らしいが、そういった団体なら、彼らが本気ですべきなのは、ほんの一時期、ここにガンダムを建てて人を集めることではなく、300年単位の未来を考えて、ここに鬱蒼とした神社を建立し、そこの新しい守り神としてガンダムを勧進することだったのかもしれない。
まさむね