Articles in the 時事ネタ Category
散歩, 時事ネタ, 歴史・家紋 »
最近、家紋に関して気になる動きが二つあった。
一つ目は、東亜日報に掲載された[オピニオン]宗家の紋章という記事だ。
これによると、「韓国で、宗家が最も多い、慶尚北道(キョンサンプクト)が、道内の宗家に家を象徴する紋章を作り、関心を集めている。」とのこと。つまり、最近になって、韓国でもそれぞれの家が家紋というアイテムを作り始めたということである。現在、いくつかが公開されている(左絵)、残念ながら日本の家紋のデザインには遠く及ばないように見えるのは気のせいだろうか。
そうは言っても、日本にしても、家紋の初期、例えば鎌倉時代の家紋を見ると洗練されているとは言えないものも多い。例えば、頼朝から賜ったという畠山氏の村濃紋(右図)という家紋はその時期を代表する家紋デザインではあるが、いかにも古風だ。韓国の新しい家紋を見たとき、とっさに、その村濃紋を思い出してしまった。
しかし、僕は韓国に家紋が発生し、それが定着していければ、それはそれでいいことだと思っている。
逆に韓国でも日本の家紋が認知されるきっかけになる可能性があるからだ。
今後、日本民族の草の根的デザインの結晶である家紋も参考にしていただき、韓国人が家紋をどのように韓国風に発展させていくのか、楽しみですらある。
それにしても、この「[オピニオン]宗家の紋章」という記事は大雑把というか、間違いあるいは誤解が多いのはちょっといただけない。
例えば、以下、日本の家紋に関する説明だが、佐竹義宣は、戦国時代の武将で、頼朝の時代とは完全にずれている。また、ひまわり紋とは一体何を指しているのだろうか。もしかしたら、あるのかもしれないが、僕は知らない。十六八重菊紋あるいは九曜紋の見間違いか...
ちなみに、林檎やひまわりなど、家紋にあまりなっていない植物の多くは、日本にやってくるのが遅かった植物である。
武士の文化が発達した日本でも、紋章が花咲いた。
明治天皇が、王権強化に貢献した西郷隆盛に下賜した菊の紋章、鎌倉幕府を開いた源頼朝が大名の佐竹義宣に与えた扇の紋章が有名だ。
日本の紋章には、桐、ひまわり、藤などの植物が多く使われた。
さて、二つ目は、都営地下鉄線で始まった小冊子「龍馬と幕末」と連動した家紋スタンプラリーという企画だ。これは幕末に活躍した人々にゆかりの土地に近い都営地下鉄線の駅でその人々の家紋のスタンプを押下できるという面白い企画だ。
例えば、以下のような感じである。
近藤勇
丸に三つ引両紋
牛込柳町駅
大久保一翁
上り藤に大文字紋
牛込神楽坂駅
吉田松陰
五葉木瓜に卍紋
新御徒町駅
岩崎弥太郎
重ね三階菱紋
上野御徒町駅
勝海舟
丸に剣花菱紋
蔵前駅
徳川家茂
三つ葉葵紋
両国駅
坂本龍馬
組み合い角に桔梗紋
築地市場駅
山内容堂
細三つ葉柏紋
汐留駅
西郷隆盛
抱き菊の葉に菊紋
赤羽橋駅
桂小五郎
葉菊菱紋
六本木駅
こうして、徐々にでも、家紋や歴史上の人物達が親しみやすいものになっていくというのは家紋主義者の僕としてもうれしい。
戦後、どちらかといえば、学校教育は古き良き日本文化を教えてこなかった。
それが今、こうして少しづつではあるが、こうしたものが人々の関心を集め始めている。
しかも、変なイデオロギーが後ろに控えているとも思えない。
たんに一人一人の足と好奇心で、東京の街を電車で回ろうという話だからだ。
決して派手ではないささやかなエンターテイメントではあるが、素晴らしい試みだと僕は思う。
まさむね
時事ネタ, TV番組 マスメディア »
尖閣ビデオがYOUTUBEに流出した。金曜日の朝からネットでも凄い。2チャンネルのニュース速報+のスレッドも150に届く勢いだ。
僕は土曜日の朝はいつも病院に行く。先週末は、長い待ち時間の時間つぶしに、朝日新聞を買ってみた。
久しぶりに新聞に目を通す。
やはり、このタイミングでは尖閣ビデオの流出問題が気になる。勿論の社説のテーマもこの事件に関してだ。
政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない。
と書いている。さらに続ける。
映像を公開し、漁船が故意にぶつけてきた証拠をつきつけたとしても、中国政府が態度を変えることはあるまい。
基本的に、流出に関する政府の情報管理体制を批判した上で、全面公開に対してはあくまでも慎重にすべきという立場、つまり、中国が態度を変えないのだから、ビデオを公開しても無駄だ。だから、公開するなという立場である。
まぁ、「人民日報 東京支社」とも揶揄される朝日新聞らしい論法はである。ようするに、あくまでも日中友好が大目的なのだ。
さて、実は、土曜日のこの「尖閣ビデオ流出 冷徹、慎重に対処せよ」という社説に関して、僕が言いたいのは上記以上に次の箇所でだ。
仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない。
ちょっと待って欲しい。これは政府や国会の意思に反する情報流出=リークはすべて許されない、ということなのか。
僕は目を疑った。
いまや、政治家の「政治と金」の事件などの記事、そして、官僚の腐敗などの記事は、検察など現場の公務員のリーク情報によって成立していることなど世間の常識だ。
朝日新聞の記事の多くだって、そういったリークという「犯罪行為」によって成立しているのだろう。
そして、世間はそういった事情も踏まえながら、知りたい情報を得るために「犯罪行為」を黙認しているのだ。
それにもかかわらず、この社説では政府の意思に反する行為だから、許されないと言っている。
民主党政権に気兼ねしてそのように言っているのだろうか、あるいは、自分達マスコミにリークさせる分にはいいか、動画投稿サイトへの掲載は許されないということを言いたいのであろうか。
もし、後者だとしたら、リークする方法や相手によって、リークの是非が判断されるというのは、自分達の特権というものに無自覚になっているかというあまりにも恥ずかしいことではないのか。
この映像が無記名で新聞社やテレビ局などマスメディアに送りつけられてきたという形の情報流出だったら、どうなっていたのだろうか。
僕は少しだけ、興味深い。
まさむね
時事ネタ »
この8月、9月とそれぞれランダムだったのだけど、週末に工場夜景クルーズと恐竜展に行ってきた。工場夜景クルーズは以前から興味があり、一度行きたかったもの。横浜の赤レンガ倉庫脇の桟橋から出航して京浜運河地帯を周航するコース。化学コンビナートのプラントやLNG基地、オイルターミナル、発電所などを経巡りした。
乗船している客も多く、カップルたちだけではなくて、いわゆる家族で来ている人たちもふくめて、それこそ老若男女。幅広い人気を窺わせた。たしかに夜の湾岸にうかぶ工場群は幻想的でどこか未来的・SF的な映像の乱舞に見えた。配管が剥き出しになった光景などは一番イメージに近いのはSF映画「エイリアン」のギーガーが製作した無機的な(有機と無機の混合のような異種たちがかもし出す)映像風景かあるいは塚本晋也監督の「鉄男」の風景に近いかもしれない。
一方の恐竜展は六本木ヒルズの森アーツギャラリーで開催されていたもの。こちらは子供を連れた家族中心でかなり混雑・盛況だった。恐竜には個人的に興味があり(僕が子供のころ、ご多聞に洩れず恐竜のフィギュアを集めたものだった、ゴジラとか全盛だったし)、地球最古の恐竜展というネーミングにもひかれて行ったのだ。展示自体はすこし期待はずれだったが(CGやフィギュアが多く、化石がやや少なかった印象)、まあよしとしよう。
この二つに行ってみてから後日改めて思ったことがある。それは二つの共通項だ。どちらも終わりをめぐる物語だということ。無人の工場はいってみればモノとしての終極のすがただと思う。僕らが夜景の工場群を幻想的だと思うのはそれが昼の労働や機能・実用性から離れて浮遊していっていわば最終のモノそれ自体になってしまったからだと思う。
有機をはなれて無機的なモノになってしまうと逆にすべてのものが妙に美しく幻想的にみえるから不思議だ。フロイトならばそういう無機的なものへの憧れの傾向を死への衝動というらしい。だとしたらぼくら都市生活者である現代人は多かれ少なかれ死の衝動を秘めた人たちということになるのだろうか。
それから恐竜展についてもそれがこんなに根強い人気がある(夏休みというとどこかで恐竜展のたぐいをやっているように思うのだが)のは、恐竜という、かつて最強だったものが滅びて今はいないという、これもまた終わりを秘めた物語だからではないか。そこにぼくらはある種の郷愁のようなものを感じるのではないだろうか。
しかもその物語はさらに色付けされて最強伝説の物語になっているのだ。時は三畳紀の古代、ある夏の日に幅10キロメートルの隕石がメキシコ湾、ユカタン半島沖に落下。それが引き金となって巨大な天変地異となり、恐竜が絶滅したという。驕れるもの久しからず。地上最強といわれたティラノザウルスも滅びぬ。最強のものもいつか滅びる(終局が来る)というこの手のストーリーは延々とハリウッド映画でも踏襲されていることは言うまでもない。
さてこうした企画がぼくを含めてたぶん多くの人に人気があるのはどうしてなのだろう。別に答えがあるわけじゃないのだけど、僕なりにひとつ思えるのは今の多くの日本人たちが終わりを見たがっているんじゃないだろうかということだ。あるいはなにかの終わりに自分たちの履歴を重ねたがっているのかもしれない。
失われた10年とも20年ともいわれ、平成ダラダラ不況が続き、いつ何かが始まるのか終わるのかがまったく見えなくなった時代。混迷の果てがわからなくなった時代。せめて心情的にだけでもなにかが終わるということをこの目で見届けたいのではないか。そんなことをふと思った次第。まわりはもうすっかり秋の夜長になってしまったなあ。恐竜も遠くなりにけり、か・・・・。
よしむね
時事ネタ »
日銀が金融緩和を行うことを決定した。国債を買い取って資金を供給するという仕組み。アメリカのFRBもすでに金融緩和を行っており、それに対する同調ということだろう。日銀はそうしたくなくても政府官僚筋(アメリカ追随派)の意向・圧力に押されたのだろう。過去この20年間、日本はどれだけの緩和策をやり続けてきたことか。その結果の借金体質とほとんど効果のなかった経済弱体化が続いているわけだ。
しかもほとんど0に近い金利施策を続け、貯金暮らしのお年寄りたちからどれだけのキャッシュを奪ってきたか。ぼくの父親もその影響を受けた世代だ。20年間もお金を預けていれば普通なら5%くらいのまともな金利がついていれば倍近い資産になっていてもよかったはず。これも所詮不労所得だけど。
緩和って言われるとなにかいいことのように受け取れて分かりにくいが、なんのことはない、あらたに輪転機等を回してお金を市場に流し込むことでしょう。リーマンショック以降、市場の危機を回避するという名目で、世界中でどれだけの金融緩和策がとられてきたことか。つまり流し込めるだけのお金が流し込まれたことになるだろう、世界中に。
これを続けていけば、当たり前の話だけど、お金の価値・ありがたみがなくなることは必至だろう。ヨーロッパはさすがにギリシャ等の財政危機を経てこれから金融引き締めに向かいつつあるようでもあるが、アメリカは引き締めに転じるかと思いきや、またも緩和と来た。
アメリカ・ドルは未だに世界の基軸通貨だからこんな野放図なドル大量印刷をやり続けていられるのかもしれないが、弱小国家ならもう国家破産のステージだろう。でもドルと米国債の余命もそんなに長くはないと思われる。奢れるもの久しからず。盛者必衰の理。いつまでも世界中からドルを買ってもらって実体よりも良い暮らしを続けることができるわけがない。
だから円高、ドル安になるのも長い観点で考えれば当然のことだ。ドルがこれだけあふれまわっていれば、ドルの価値が下がるのは当然。紙幣も所詮紙切れ。お金には魔的な商品としての側面もあるが、所詮信用関係(幻想)に基づいて価値が取引されている以上、無価値になることもありえる。それが進んでいけば超インフレになる。
それからいま問題なのは、これだけ大量に供給されたお金がいったい何に使われているのか、だろう。いまは誰もお金を大量に使うひとがいないのだ。まともな企業は手元資金が厚い状態だけど、新しい投資には積極的でない。というよりも誰もリスクをとってなにかをやろうというマインドではない。結局余ったお金の大半は再びの債権買い等に回っているだけというのが実情だろう。それから借金の返済に当てられているということ。
こういう異常な状態が続いているのに、あいかわらず日々の新聞を筆頭にマスコミ各社がこういう状態を少しも異常とは報道しないようだ。聞かれるのは日本企業が円高につぶされるから緩和しろ緩和しろという報道ばかり。でもそんなその都度の小手先で円高が一時的に収束するようにみえても持続的な効果は限定的だろう。
問題は長期的にドルの低下が明らかなことを認めて、ではどうやって為替に影響を受けにくい体質にしていくか、ドルからの自立(脱却)を模索してゆくかを考えるべきだろう。そのひとつの選択肢にドルに変わるアジアの域内だけで流通するような通貨とかがあってもいいし、商品をふくめたバケット取引とか等々があってもいい。もちろんそれには時間も手間暇もアイディアも必要だ。でもそうした根本的なデザインなしに、もはやその都度の対処療法ではもう限界に来ていると思われる。初期の鳩山首相には多少なりともそんな試みへの意気込みもあったように思う。
そしてそれはまさむねさんが前回の記事で以下に述べたようなことと同じ趣旨にもつながる。
「日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。」
誰だって新しいシステムはたぶんこわい。それから弾かれる人にはなりたくないと考える。自立というとなにか居丈高な感じも強いが、ゆるやかな自立、少しずつの自立、助け合いながらの自立、相互的な自立、弱さをともなった静かな、漸進的な自立こそがこれから模索されるべきなのかもしれない。そうして最終的にはやはり自立した国になるべき。人もそうだろう。そのために何が起きているのか、正確に知ろうとする姿勢だけは開かれているべきだと思う。
よしむね
時事ネタ »
人間は、いかにして、動物から人間になったのだろうか。
古い問いである。ある人はそれは言葉だといい、ある人は、道具だともいう。
しかしおそらく、人類だけが死者を畏怖し、それを弔うという儀式を持っているということが動物と違うところではないだろうか。そんな話をかなり前にどこかで読んだような気がする。多分、構造主義の本だったかとも思うが覚えていない。
昨今、社会問題化している偽装生存老人問題は、一つには社会や家族の底が抜けてしまった絆の問題でもあるだろうし、別の視点から見れば、偽装年金受け取り問題という行政システムの問題でもある。
しかし、僕らがそのニュースを聞いて震撼するのは、そういった事件の当事者達の死者に、対する畏怖が全く感じられないという点である。隣の部屋で死んでしまった母親をそのまま放置しただけとか、父が即身成仏したいといっていたので自由にさせてあげたとか、まるでわけがわからない。
つまり、なんだかんだ言ったとしても、結局は、そういう状況の人々にとって、死者を弔うということ、すなわち人間であろうとすることよりも、己が、死者を生きたままということにして、その年金もらい、細々と生き続けること方が重要だということなのだろう。
しかし、それは全くの他人事なのであろうか。正直なところ、そんな状況に陥った人々というのは別に特別な人ではないと思う。それは、もしかしたら将来の僕達かもしれないのである。
数年前に東浩紀が「動物化するポストモダン」という本を書いた。彼は、この著書の中で「動物化」という言葉で、消費社会において、複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向を説明したが、その究極のグロテスクな姿が、これらの偽装生存老人事件にあるように思える。東氏は、そのことをオタク文化(若者文化)を例にして語っていたが、僕らが今、目にしている「動物達」は、おそらく戦前、戦中に生まれたような「大人な」人々なのである。
日本人は、自らの手で何千年もかけて作り上げてきたユニークな文化、つまり、「死者は正しく弔わないと怨霊として生者を呪う。その死者に対する畏怖ゆえに、怨念を持って死んだ者こそ、盛大に奉り、護霊(御霊)として生者を護ってもらおう」という弔いの文化を無くそうとしているのだろうか。
現在、靖国神社を語る多くの言葉は、それが右から聞えようと、左から聞えようと、そのことよりも、死者に対する畏怖が感じられないことの方が問題なのではないかと僕は密かに思っている。
もしかしたら、日本人は、民族として動物への道をひた走っているのではないだろうか。
実は数日前の終戦記念日に、コミケでコスプレを見ながら、僕はそんなことを考えていたのであった。
まさむね




