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今年の夏は、僕にとって初体験の「オタクの夏」になる予定。
7月25日 ワンダーフェスティバル 幕張メッセ
8月01日 ワールドコスプレサミット 名古屋大須
8月15日 コミックマーケット78 東京ビックサイト
そして、9月中旬の東京ゲームショウ... 幕張メッセ
今日はその初日のワンダーフェスティバルを見学しに幕張メッセに行った。
朝、9時半に会場に到着するも、すでに長蛇の列。みんなお目当てのフィギュアを買おうと汗だくになっている。さすが、歴戦のツワモノという感じだ。
僕は特にフィギュアには興味は無いが、参加者の情熱には敬意を表したい。やっぱり、日本は職人の国だ。
この日のために、手作りのフィギュアを持って日本全国から集まってきた人々、本当に楽しそうである。
その中で、自分の趣味と若干近い空間を発見した。
それは、木彫職人・西村宜繁氏の家紋彫刻承りますというブース(西村宜繁のアトリエにようこそ、、参照のこと)だ。
さすが、ワンダーフェスティバルだけあって、彫られていたサンプルはバイオハザード紋。
伊達家の仙台笹以外だったら、3万円で彫っていただけるそうだ。(ちなみに、仙台笹はその倍くらいとのこと...)
また、その隣にあったのが前田利長の木彫り人形。
兜の梅鉢がかわいい。
それにしても、ワンダーフェスティバルは凄い熱気だ。今でこそ、幕張メッセの第1ホール~第8ホールぶち抜き、総動員観客数が4万人(一日)のイベントにはなっているが、ここまで来るのに25年かかっているのだ。途中、業者間の過剰なライバル意識、アマチュア人形造型師の権利問題など、いろんな難関を乗り切って本日を迎えたことは素晴らしい。
しかし、もともとはプラモデルというメジャーなマーケットに対するインディとして徐々に成長していったという歴史のあるフィギュア界であるが、そのメインストリームたるプラモデル市場が段々細っているという大きな衰退の兆候があるという。
地道ではあっても、底辺の裾野を広げていくことが重要なのであろう。それは、アニメにしても、漫画にしても、どんなオタクジャンルにも共通した課題だ。
クールジャパンという日本のオタク文化の海外進出の流れが、一時の流行ではなく、ちゃんと製作者にメリットのある形で発展していくことが重要なのではないだろうか。
この夏、僕はそんなことを考えながら各会場を回ってみたいと思う。
まさむね
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日本の金融資産がまだ1,400兆円くらいあるとよく言われる。ついこの間も日経新聞に記事が出ていたね。だがこれはもう数字の嘘・まやかしであり、はっきり言って毎度毎度のこういう提示の仕方はやめたほうがいいと思う。いったい誰がどういう意図があってこんな公表をやっているのだろうか。
実際にはここから個人の負債やローン残高もあり、そうしたものを差し引くと、真水は400兆円とか600兆円あたりということでもあるらしい(真実はよく分からない)。しかも国・地方の借金があわせて1,000兆円近くとも言われているわけで、これを引いてしまえば実質マイナスなわけだ。仮に引かなくても、真水といわれているものだって将来収益とかも含まれているようなので、実質的には運用損でどれだけ残っているのかさえ怪しいものだ。特にわが日本では運用ビジネスはきわめて低劣だから。
こういう風にお金がたくさんあるように言いたくなるのは、本当は自分たちが金持ちだと思い込みたいからなのだろうか。日本という国はこれくらいあるのだと言い聞かせたいのだろうか。でもこれって裸の王様みたいなもので、本当はもう財産なんてたいして残ってないのにいつまでもあるように思うことで、どんなメリットがあるのだろう。
それよりもう皆、お金がないのだから、ムダ使いを止めようと言ってくれたほうがよほどすっきりするように思える。つまりお金のムダ使いを続けたい人がいて、その人たちがムダ使いを止めなくていいための方便にこそ使われているだけなのではないかと思えて仕方がない。
どっちにしても、以前まさむねさんが言っていたけど、今の日本はどっちの方向に向かうにしても、国際競争(ストレス)か衰退(できるだけストレス・フリーの過保護・高福祉)の2者択一の道くらいしかなく、どっちを考えることも嫌で思考停止しているのに似て、お金についても本当はもう残っていないことを考えたくないのだろうな。そんなことを考えても何もならないからとでもいうように。
でも、そろそろそんな思考停止はやめて、ニッチもサッチもいかないことから始めていくことを覚悟して考えないといけないのじゃないだろうか。そうしないと運用をどうしてゆくかみたいな基本的な肝心なことがいつまでも議論されず等閑にされて、ただただ放置されてゆきかねないように思うのだが。結局はいずれ損の落とし前が必要になるのだから。さしあたっては国として大量に買い込んでいる米国債とかどうするのだろう? 自分で買い支えている日本国債しかり。その他諸々、有象無象、奇奇怪怪。
そしてまずもっていい加減収入に見合った生活へのリサインジングの意識をちゃんと持つようにしないとね。今の日本は月給40万円の人が借金して100万円の生活を続けているわけだから。とにかく何とかしてくれみたいな要求ばかりで分相応ということがどこからもトンと聞かれなくなって久しいようにも思える。
このままだといったいぼくら国民はどれくらいのサイズ・規模の収支で満足しなきゃいけないのか、さっぱり見えてこない。これは民主党政権になっても基本変化なし。民主党ももうなにをしたいのかさっぱり分からない感じになってきているね。最初の志の変質か変局なのか。しだいに選挙対策と利益誘導の体質=かつての自民政治そのものへの回帰みたいにも見えてきているし。青年=志、老いやすしとはよく言ったものだ。でも老いには老いの知恵があることを期待したいが、それもあまり見えない。
とにかく国として肝心の議論がきらいなのにお金があるという幻想だけは持ち続けたいというのはどこかさびしいね。いずれ困ったときには空からお金が降ってくるという神風的な待望論・信仰心から抜け切れない国民性なのだろうか。それとも宵越しの金は持たないという潔い心持がなせる業からなのか。たしかに金は天下の回り物かもしれないが。このままだと小回りものにさえならずに終わりそうだけど。
よしむね
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ちょうど「We ARE THE WORLD」から25年めの今年、ハイチ・バージョンが出た。本当はマイケル・ジャクソンの死もあり25周年記念のようなものを考えていたところ、ハイチ地震があって、ハイチ・バージョンに変わったらしいけど。
家内がiPhoneを使って350円でダウンロードしてくれた映像を見ながら、音楽を聞いた。25年前とは歌手の顔ぶれもすっかり変わった。変わらないのはライオネル・リッチーとクインシー・ジョーンズがリーダーシップをとったことか。最後はラップ・ミュージックを基調にした曲調でエンディング。そして「WE ARE THE WORLD」を歌う要所要所では、故マイケル・ジャクソンの映像が挿入されていた。妹のジャネット・ジャクソンとのデュオという形で。皆さんの多くもすでにご覧になっているでしょうが。
前回同様に収益金は救済金として使われるわけだが、前回と異なるのは、最後にハイチでおそらく被災にあった子供たちの映像がながれ、現地で音楽にあわせて踊ったり、笑ったりしている姿が映し出されていたこと。辛いなかにあっても笑顔を見せるそのしぐさが、嘘がない感じでかえっていい。人は泣いてばかりいられないだろうからだ。
こうした映像をみていてつくづく思うのは、なぜ日本ではこのようなボランタリーな試みがすぐに行われないのだろうかということ。詳しいことは分からないが、所属事務所の違いとかレコード会社の問題、レーベルの問題とかいろいろ障壁が大きいのだろうか。加えてたしかにアメリカやイギリスと違い、ミュージックシーンにおけるインパクトの大きさの違いもあると思うが。もちろんこうしたバンド・エイドによって世界が変わるわけではないとしても。
でもクール・ジャパンの今なら、たとえばコスプレやアニメ、JPOPとジャパン・ファッション等のコラボ組み合わせで、WE ARE THE WORLD に匹敵するものを日本からの発信として流せるようにも思うけど。とにかく最近に至るまで日本に一貫して欠けているのは、ノーブレス・オブリージュ(騎士道に基づく奉仕精神)のようなもの。税制の優遇がないことも一因かもしれないが、日本人は金持ちほど寄付したがらない国。そしてボランタリーの欠如ということ。
欧米などに旅行してつくづく感じるのは、たとえば公共の場で一般の人たちが障害者の人たちに示す配慮のようなものの根強さのことだ。これだけは未だに日本では決定的に遅れていると思う。アメリカ人は大義が好きで、売名行為的なものが大好きだからというようにあえて意地悪く見るとしても、金儲け以外に、セレブを中心にして日本からボランタリーなことが世界に向けて依然として発信されていかないのはちょっとさびしいね。
次の25年めまで待つしかないのかなぁ。そのときはUSAで「WE ARE THE WORLD」の何バージョンが出るのか。そこでまたマイケル・ジャクソンの歌っている姿が挿入されるのだろうか。マイケル・ジャクソンはゾンビ(永遠)だからね。今回のハイチ・バージョンもきっと天国でゾンビとなったマイケル・ジャクソンの精神が生かされているのだろう。
よしむね
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昨日は建国記念日だった。
テレビや新聞を見ない生活をしているので、それらがこういったマスメディアでどのように報じられているのかは知らないが、少なくともネット上での建国記念日に関する記事は、産経新聞は別にして、お寒い限りだ。
それぞれのニュースサイトで、”建国”で検索してみた。それぞれ最近の3つの記事の見出しを引いてみたが、下記のように、建国と言った場合、建国記念当日の検索ですら、現在の日本人の関心が「日本の建国」よりも、建国60周年を迎えた中国は云々といったの記事のほうが目立つのだ。
少なくとも、僕の子供の頃は、建国記念日を反対するにしても、その日を意識していたのは確かだ。そして、テレビでも、そのことが議論になっていたと記憶している。
しかし、現代ではそことすら、どうでもいいことになってしまっている。
勿論、この曖昧なままに、なんとなく、という雰囲気、原理原則にこだわらないという姿勢が日本的だとも言えるのだが...
個人的に最近、気になっているのは、なぜ、天照大神から、やっと五代目で神武天皇を生み出したのかという、その間の意味だ。
簡単に書くと、こんな系図になる。若干でもわかりやすくなるように男を青、女を赤で表した。
天照大神>アメノオシホミミ×高木神の娘・栲幡千千姫命>ニニギノミコト×大山祇神の娘・木花之開耶姫>山幸彦×海神の娘・豊玉姫>ウガヤフキアエズ×海神の娘・玉依姫>神武天皇
この中で、一応、長男は、アメノオシホミミとウガヤフキアエズ。ニニギは次男、山幸彦は三男、神武天皇は四男である。当時は末っ子相続だったのだろうか。このあたり、南方系の匂いがする。また、后の系列を見ると、栲幡千千姫命=創造の神の娘、木花之開耶姫=山の神の娘、豊玉姫=海の神の娘、玉依姫=海の神の娘というように、いわゆる異種族との婚姻が重ねられている。これは、それらの種族と婚姻を重ねることによって、ようやく天皇家が日本を統一する正当性を得たということなのであろう。
最近は、外国人をどのように受け入れるのかということは日本にとって一つの大きなテーマとなっているが、こうした「記紀」を見ると、そのあたりが比較的スムーズに平和裏に行われているところに、僕などは日本人の叡智を感じるのだ。
少なくとも一年に一度の建国記念日位、こういったことを頭の片隅で考えてもいいのではないかと思うが、いかがだろうか。
◎朝日新聞
「EC首脳会議では“無い袖は振れぬ”のが実際」【ドットコモディティ】 2010-02-10
asahi.com(朝日新聞社):フォトギャラリー一覧 2010-02-08
なぜ中国は「不機嫌」か プロデューサー・張氏に聞く 2010-02-02
3つのうち、二つが中国の建国記念にからむ話だ。一つ目は、ドットコモディティ社の社長のエッセイ、「ではまた明日。おっと明後日ですな。明日は建国記念日。」というところで出てくるだけだった。
◎読売新聞
ハイチ大地震支援策、新国家建設も議論…AU会議 2010.02.01
鳩山演説「労働なき富」にヤジ、「それはあんた… 2010.0131
読売新聞連載小説「草原の風」 宮城谷昌光さん… 2010.01.26
読売新聞では2月11日の建国記念日に関しては一切、検索できなかった。
ハイチでは地震を受けて、新しい国家を作らなければならないという話と、鳩山首相の演説で「インドの建国の父、ガンジー」が出てくる話と、新聞小説の作家のインタビューで「前漢の建国者、劉邦」というのが出てくるのがひっかかっただけである。
◎毎日新聞
英語クイズ:今日は建国記念の日。「建国記念の日」を英語で?2010.2.11
建国記念の日:きょう、佐伯大分で集会 /大分 2010.2.11
訪ねたい:銀幕有情 ラストエンペラー(中国故宮) 2010.2.10
毎日新聞は、まだまし。建国記念日のことを少しは意識している。それでも、3つ目の記事は中国の建国60周年の話である。
◎産経新聞
【主張】建国記念の日 神話が生きる国誇りたい 2010.2.11
【正論】文芸批評家 都留文科大学教授・新保祐司 2010.2.11
古代カルタゴとローマ展、11日開幕 京都文化博物館 2010.2.10
産経新聞はさすが「右寄り」といわれるだけであって、「国民の「建国」や「国の始まり」に対する意識は希薄化してしまうだろう。今後は、政府が率先して記念式典などを開催することを望みたい。」との主張を書いている。
◎日経新聞
連載企画:「日本サッカー世界への挑戦」・大住良之 2010.2.11
中国、元最高裁副長官に汚職で無期懲役 2010.1.19
中国のテレビ局にも市場化の波 動き出した「制作と放送」分離 2009.11.26
朝日新聞同様、3つの記事のうち二つが、中国の建国記念がらみの話。一つは、サッカーのエッセイの中で、「1981年2月11日。春を思わせる穏やかな陽光に恵まれた建国記念日だった。」と回想している箇所。悲惨だ。
まさむね
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最近、骨折快癒後の腰痛リハビリを兼ねて大江戸温泉に通っている。大江戸温泉が果たして本当の温泉なのか、なぜ大江戸温泉通いなのかにはとくに深い意味はない。比較的家から近いという利便性と手ごろさというのが選んだ理由の一番だ。それに湯による癒しは確かに腰痛には良いようだ。因みに僕の住まいは大田区だが、京浜地区にも近いエリアでいわゆる城南地区ということになる。
さて通いつめて常々思うのは、コンスタントに来ている外人客の存在だ。ここがどれほど日本在住の外人に知れ渡っているのか僕は知らないが、築地市場ほどとは言わないが、案外隠れ人気スポットだったりして! 来訪してくる外人の多様性もそれなりに面白い。会話から聞き取れるかぎりでも、いわゆるイングリッシュやアジア系(中国、台湾、韓国)に限らず、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語等々と思しきことばたちが結構渦巻いていたりするのだ。団体でやってくる客も結構いる。それだけ無国籍化しているわけだ。
この外人客の多さをグローバル化や経済の多様性と結びつけることもできようが、それよりも異邦人からみて大江戸温泉の持つコンセプトの分かり易さが一番の理由かもしれないな。温泉といういかにも日本的な「場」、しかもそこに江戸の持つ見世物屋的な雰囲気(因みにここでの浴衣は江戸時代の浮世絵を図案にした柄もの)が多少味付け演出されていること。そこにリトル・ジャパンのなにかの面影でも感じているのかどうか・・・・。造られているものは、どれも折衷的・ガラクタ的な模造建築でおよそ時代考証的にはいい加減な感じはするのだが。だがここではこれ以上大江戸温泉自体への考察は行わないつもり。
ぼくにとってむしろ興味惹かれるのは、大江戸温泉がいわゆる湾岸エリアの只中にある、という事実だ。江戸時代には存在しなかった海の上の埋め立て地に「大江戸」が存在するという皮肉、構図。
この湾岸というエリアは、特に90年代以降のパースペクティブのなかでは世界的に流行となった湾岸再開発のながれもあり、ほんとうは世紀末をまたいで輝かしい未来都市の何かにつながるはずだった。ウィリアム・ギブスンのSF「ニューロマンサー」のチバ・シティに代表されるような電脳空間のさきがけ、先端都市のイメージ。それをいま代表しているのはかろうじて世界のアキバかもしれないが。
だが結果として今ぼくらの目に映っている湾岸地帯とは、意味のない更地のうえに立つ空虚な記号としてのなにかの施設というビル建物だけとも言える。そこに大江戸温泉も位置しているのだ。たしかに未来にやってきて、ハコ(箱)だけが残ったのだ。
また無国籍化というと、ぼくも大好きなかつてのSF映画「ブレードランナー」(原作はフリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」)で描かれている未来都市のなかの屋台風景に通じるようなアジア的な混沌、猥雑なエネルギーみたいなものを想像したくなるが、お台場に代表されるのはそのような混沌とはおよそ対極にあるものだろう。むしろ無機的で人工的でそれがかもし出すどこか醒めた感じの匂いや距離感といったほうがより正確だろう。今では上海のガイタン地区に代表されるような中国沿岸部の成長性のほうが余程未来に通じる湾岸のイメージに近いであろうし、悲しいかなその意味で日本は国力の衰退をたどる以外に道はないともいえるかもしれないけど・・・・。
でも世の中に絶対というものはないし、かつてこうあれと思ったものが、そうなるとは限らない。今、若者を中心に、工場地帯を遊覧船で回る夜景クルーズツアーが流行っているという。工場地帯の持つ無機性に惹かれる若者が多いらしい。世代が違っても、ぼくもかれらの心情に通じるものは共有している。湾岸や工場がかもし出す廃墟を美しいと感じる心性たち、その群れ。それがまぎれもない今だとするなら、それが所詮かりそめの空虚な箱に過ぎないとしても、そこから出発するしかない、それを受け止めてゆくしかない、と思う。「未来の都市」なんてどこにも存在しないからだ。
よしむね




