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大塚英志と東浩紀の対談本「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」を読了した。この本は2008年に出版されている。ということはもう、3年も前の出版物だ。
最近は時間の流れが異常に早い。3年前の本など古典とは言わないまでも古書である。
しかし、おそらく、僕が今年も関わるであろう「オタクの夏」を前に自分なりに、オタクに対する見方を固めておきたくて、タイトルにつられてこの本を手にとったのである。
ところが、この本はオタクを理解するための書というよりも世代を理解するための書、いや世代闘争の書であった。あとがきで、東氏も書いているが、この本の主題は、「大塚英志の東浩紀にたいする苛立ちの原因はどこにあるのか」ということになってしまっていたのである。
だから、対談というのは、一方では期待はずれであるが、他方、ものすごくエキサイティングなのだ。
それでは、大塚氏による東氏への苛立ちの場面を拾ってみよう。以下はあくまで僕の思いつきで選ばせてもらったところだ。しかも、話の流れの都合上、言葉尻を若干いじったり、かなり間をはしょったりさせてもらった。(興味のある方はこの本を買われるほうがいいかと思います。)
東:柄谷行人さんも、大塚さんも、宮台真司さんも、いまほとんどの知識人が異口同音に言っていることは、基本的には近代人としての教育を再強化すべきだということです。
大塚:君の言うとおり、ぼくはいちばん嫌っていた「啓蒙」という言葉を使いかけているし、「近代的な個人」の暫定的な維持という努力しか選択肢はないと、考えている。
東:(2000年代から、赤木智弘さんの「丸山真男をひっぱたきたい」という論文に象徴されるような嫉妬の感情が、特にネットで吹き荒れることに対して)、「お前をそういう悲惨な状態にしている奴がいるでしょう。搾取している奴がいるでしょう。そういう奴に対してこそ想像力をもたないとダメだ」ということは僕もまったくその通りだと思います。ただ、赤木さんの登場が意味しているのは、現にその想像力が共有されなくなったということです。
大塚:赤木君が体現しているルサンチマンや在り方は、もっとも統治しやすい大衆の典型だよね。だから左右問わずしてそれこそ「階級」を維持したい人たちには使い勝手がいい。
東:いまの日本という国が、大量の若い正規雇用を現実に受け入れられないという現実がある以上、ぼくたちは、正規雇用じゃないとダメだとか、正社員じゃないと人生が不安定できついという発想そのものを変えなきゃいけないんです。
大塚:でもそれだと、さっきのルサンチマンの問題と同様に、経営する側の論理とすごく整合性が出てきてしまう。
ようするに延々とこういった議論が続き、東氏は東氏で現実論を語り、大塚氏はその認識や処方箋に対して苛立つという展開が、この対談の流れなのである。
おそらく、これは物を書き始めたその時代の違いによるものだと僕は思う。それは簡単に言えば、ネットの存在を前提としているかいないかという世代間の違いということだ。
簡単に言ってしまえば、大塚氏は、論壇という狭い世界で通用する論理的整合性を重視し、一般の読者とは別格として存在することに意義を見出す批評家であり、東氏はネットの存在によって、批評家が、一段高いところに存在するということが、欺瞞であることが露呈してしまった後の存在であるということである。
例えば、昨年、NHKで放送された日本人と韓国人との討論番組において、リベラルを代表する崔洋一監督は、「日本は朝鮮を併合したのは当時の価値観で仕方がなかった」というような発言をしてした青年に対して「あなたは歴史を語る資格が無い」と発言し、その崔監督の発言に2chは炎上した。
僕には、大塚氏の東氏に対する苛立ちは、上記の例における崔監督のその青年に対する怒りとパラレルなように感じられるのだ。
極論するならば、戦後の言論や思想というものは、自分が認める意見以外を持つ人々を無視することによって成り立ってきたのだ。さらに言えば、一段高いところから、無知な大衆を啓蒙することを使命とするという建前を共有しながらも、実は大衆には伝わらない言葉で仲間同士で談合していたということなのだ。
それゆえに、そんな言論人たちのポジションの欺瞞をあばかれそうになるとムキになる、それが大塚氏の東氏に対する苛立ちの原因だと僕は思う。
大塚氏:東浩紀のポジションはどこにあるの?国家なんて、ある特定の人間が洗練されたシステムの中で運営していけばいい、残りの人間は考える必要もないと言ったときに、東浩紀は考えない側にいるの?それとも運営する側にいるの?それともそれを傍観する立場にいるの?
東氏:傍観する立場です。官僚でも政治家でもないですから。
大塚氏:うーん・・・それでも、批評家っていう仕事は成り立つの?
東氏:成り立たないかもしれませんね。
大塚氏:じゃあ、なんで批評家やってるの?
これを読んで多くの一般の読者は、大塚氏に「じゃあ、あなたは批評家として何かを変える事は出来たの?」と、聞きたくなるであろう。
残酷かもしれないが、批評家が普通の人に対してに出来ることは何も無い。
普通の人に近代人になれと啓蒙することは無駄である。
ただ、普通の人の中の一部の物好きが、批評家の書く本をエンターテイメントとして読んで、批評家の生活を支えているだけなのだ。
個人の趣味的には大塚氏の「物語消費論」は大好きな書物だ。彼のビックリマンチョコレートに関する考察=「偽史」に対する感性に僕は多くの影響を受けたと言ってもいい。
しかし、現時点での社会や自分自身に対する認識では東氏に軍配を上げざるを得ないし、信頼が置ける。
そして、僕らの課題は、どうやったら近代人などにならずに、自立して幸せになれるのかということ、つまり、どうやったら普通に生きられるのかということである。
まさむね
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「サンデルの政治哲学 とは何か」小林正弥著をようやく読み終えた。二週間もかかってしまった。
どうもこの歳になると、こういう観念的な本はしんどい。いや、正確に言えば、観念的だからしんどいというよりも、僕が学生の頃から馴染んできたフランス現代思想とは別の発想についていくのがしんどかったのかもしれない。
言うまでもなく、サンデルをはじめとするアメリカの哲学者はプラグラティックだ。そして、「真面目」だ。僕は、この「真面目」さに慣れるのに少々時間がかかったのかもしれない。
この本の中で、著者の小林先生は、僕が慣れ親しんでいたフランス思想=ポストモダン思想を一刀両断にしている。
ポストモダン思想においては、「私たちはどう生きるべきか」「政治経済はどうあるべきか」といった問いに建設的な答えを見出すことはできないように思われる。そもそもポスト・モダンは、そういった理想や真理の体系を批判する所から生まれた知だからである。原理的に理想を見出せない思想は、いわば知の自殺行為とも言えるのではないだろうか。
このセリフは、ポスト・モダンに対する批判であるとともに、学生時代にポストモダンに慣れ親しんだ僕らへの批判のようにもとれた。そういえば、僕らはかつて、哲学を生き方に役立てるような”セコさ”を嫌っていたように思う。そんな時代だったのである、80年代は。
しかし、それはそれとして、この本を読み進んでいくと、小林先生が解説するアメリカ哲学の流れ(功利主義→リベラリズム→リバタリアニズム→コミュニタリズム)が非常に分りやすく頭に入ってくる。僕はこの正月にサンデルの「白熱教室」をチラチラと見たが、その記憶が蘇ってくる。一人で本を読みながら考えるのもいいが、ああやって、その場を共有しているみんなで考えるというのも素晴らしいことだ。僕が30年遅く生まれていたら、サンデルにハマっていただろうと思う。
また、この政治哲学という学問を理解すると、例えば、戦後の日本の政治史が、一つの必然的な流れとして理解できるのが面白い。
例えば、戦後の池田隼人の所得倍増計画は、まさに功利主義的であった。
それに対して、田中角栄はリベラル、そして、その直系である小沢一郎もリベラル色の強い政治家だということが分る。
リベラルというのは、自由と同時に、格差是正を政策の中心の置く。
さらにいえば、政策から、いわゆる的要素を排除し、合理的な仕組みを作れば、市場(民間)が結果としていい社会を作るはずだ、あるいはそういった公平な仕組みによって出来た社会はいい社会だ、とする、小さな政府=構造改革派の小泉純一郎はリバタリアンであるということが、今更ながらよくわかる。
そして、この本を読む限り、小林先生は、リーマンショックでリバタリアン(経済的にはネオリベ)の矛盾が社会的に露呈した後に、登場した民主党を、コミュニタリズム=共和主義が一番、サンデルライクであることを言っているように思う。勿論、現在のグダグダの民主党ではなく、最初の2009年9月時点で、鳩山前首相が「お任せする政治から引き受ける政治」「新しい公共」「友愛」などといった言葉であり種の理想を目指そうとした民主党のことではあるが...
さて、僕はこの本を読んで、この政治哲学、そして「白熱教室」を一つのゲームに出来ないかと考えた。まず、ユーザーにいくつかの質問に答えてもらう。そうしてその人が先ほどの上げたいくつかの哲学(功利主義、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリズム、あるいは、共産主義、国家主義、保守主義など)のどの考え方に一番近いのかというそのスタンスを割り出す。
それを踏まえて、さらに複雑な状況を仮想空間などでシュミレートさせ、いろいろな人と議論をし、問題を解決しながら、自分の考えを深く理解する、つまり自分は一体、どのような思想に一番しっくりくるのかということを理解させるというのがこのゲームの目的というわけである。
もしかしたら、例えば、自分はリバタリアンだと思っていたのが、実はただの保守主義者だったなんていうことが分ったりしたら面白いのではないか。
まぁ、現時点では、かなりあやふやな構想ではあるが、ゲーム化力のあるクリエイターだったら、この「種」を果実にしてくれるのではないかと僕は妄想するのであった。
まさむね
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子供の頃に、親に買ってもらった玩具で遊びたくて、遊びたくて、学校が終わると走って家に帰って、夢中でそれで遊んだというような記憶は誰にでもあると思う。
実は僕はそんな子供と同じような気分を毎日味わっている。
今年で52歳になる僕のそんな「玩具」こそ「苗字から引く家紋の事典」(高澤等著)である。
この本は今月の24日に発売されるという情報があった。しかし、前々日、前日、そして当日になってもなかなかAmazonでの予約が出来ない。いつ入荷するのかわからないというのである。僕は、思わず出版社の東京堂出版のHPから、いつからAmazonで発売されるのかというお問い合わせをしてしまった。
それが夕方だったこともあり、24日には返事はいただけず、いてもたってもいられなくなってしまった僕は思わず、会社帰りに新宿の紀伊国屋に立ち寄り、この本を”本屋買い”してしまったのであった。帰りの西武新宿線は、勿論、空いている各駅停車に乗り、僕はこの本を1ページ1ページ眺めて至福の時間を過ごしたのであった。
おそらく、その車両に座っていた何人かの人は、その日、ニヤニヤして本に夢中になっている中年のオヤジを目撃したに違いない。
家に帰ると、目ざとく妻に見つかったこの本、次の朝、出勤時に持って出ようとしたのだが、さすがに止められた。
実はこの本には唯一の欠点があった。それは重いということである。腕の筋力に自信の無い僕は断念し、その本を家に置いて、家を出たのであった。
それ以来の数日間、僕は冒頭で書いたように小学生のような毎日を過ごしているのである。
さて、この本のが面白いのは、家紋というものを、時に家系図や家伝以上に、自分のルーツを暗黙のうちに語っているのではないかというその視点にある。
本の序文にはこう書かれてある。
しかし、家紋は系図上では失ってしまった真実を含んでいることもあり、時に本当の先祖を探るためのミッシングリンクの役目を果たすこともあるのだ。
これは僕が拙著『家紋主義宣言』でも言いたかったことよも通じる、それを僕の言葉で言えば、家紋こそ、「帰り道」の道標なのである。
例えば、僕の家の家紋は丸に片喰紋である。昨年、伯父さんに聞いたところ、祖母の紋付にその紋が着いていた、実はそれを唯一の手がかりにして、現在の西村家の墓石にその紋が彫られていたというのだ。
しかし、片喰紋は全国的にメジャーな紋である。その紋をして、先祖へのミッシングリンクを解き明かす強力ヒントになるとはとても思えない。
ところが、それが、苗字、そして家伝と組み合わせてみるとどうだろうか。
「苗字から引く家紋の事典」の西村姓のページを見てみる。
すると、丸に片喰紋は、滋賀県甲賀市/宇多源氏佐々木氏族とあるではないか。それは近江源氏の流れという家伝とも一致している。
そして、西村家は代々、塩を商い、屋号として塩屋を称していたというもう一つの伝承を手がかりを持って、その塩屋(塩谷、塩治)のページを見てみるとそこにも、丸に片喰紋があり、宇多源氏佐々木氏流とあるではないか。
お~、僕の頭の中で、西村、塩屋宇多源氏、丸に片喰紋という四つがリンクされた瞬間があった。
勿論、僕も以前、先祖探しの仕事に関わっていたこともあるので、「失われた知恵の輪」はそんなに単純ではないということは百も承知であるが、この著書が一つの道筋を太くしてくれたというのは確かであると思うのであった。それだけでも僕は大満足である。
さて、この著書は、僕が個人的に調査している「有名人の家紋」と見比べることによって、さらに想像の世界を広げてくれる、これは楽しい。
しばらく、僕の小学生生活は続きそうである。
まさむね
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以前のまさむねさんのエントリー記事「ノルウェイの森、小説と映画におけるテーマの違い」(2011年1月2日)のコメント欄で以下のような僕自身のムラカミ・ハルキ脱落体験について記した。
ぼくの村上春樹体験は「ノルウェイの森」の登場で終わりました。それ以前にはマイナー・ポエットの同時代作家として好きでずっとリアルタイムで読んでいたのです。「風の歌を聴け」もぼくは群像の本誌で読んでました。「ノルウェイの森」はたしか100%の恋愛小説という本人直伝のキャッチコピーで当時売り出されてましたよね。読後感はこれで村上さんもメジャーな作家になったと思いました。それと同時に、これからはもうあまり読まないだろうと思いました。実際その通りになってしまいましたが。
僕個人のムラカミ・ハルキ体験はあくまでも個人的なものである。その脱落体験に果たしてどれほどの意味があるか、そこに普遍的な何かがあるかは分からないが、図らずもまさむねさんも同じような体験を持たれていたということが分かった(偶然にも!)ので、自分なりに過去の体験について少し思い返してみたい。
ノルウェイの森で終わっているので、ぼくの村上春樹像も上記に要約した通りで、今もそこから一歩も抜け出ていないとも言える。その意味ではなんら深化しているわけではない。ハルキ・ムラカミはぼくにとっては依然としてマイナー・ポエットの作家であり、それ以上でも以下でもなく、ある時代・ある雰囲気の中でもっとも時代の風のようなものを代弁してくれていた作家であった、ということに尽きる。
その時代とは特に80年代前半からバブル期の全盛前夜辺りまでとなる。「ノルウェイの森」が出版されたのは1987年で、「風の歌を聴け」が1979年に群像に掲載されたので、この間ほぼ10年近く、ぼくはずっと村上春樹の小説をリアルタイムで読んでいた。
なぜ好きだったか? それは他の多くの作家が多かれ少なかれ自身の体験の重さや亀裂、あるいはその多寡によってどこか物語るような風潮がまだ残っていた中にあって(その代表が戦後の体験を小説にするような作家先生たちであった)、遅れてきた青年であるぼくらにとって、時代が透かして見せている何もないことの空虚さをそのまま代弁してくれていたからだったのではないかと思う。しかもストーリーテラーとしてはどこか未熟さが残り、どこか未完成の物語のにおいがして、そこが好きだったとも言える。
ぼくが高校生になったとき、すでに学生運動は終わっており、いわば宴の後だった。因みにぼくの出身高校はその当時某地方都市で最も学生運動が盛んな高校といわれていた高校だった。でもぼくが入学したとき、そんな運動は跡形もなく終わっており、それ以後もなにか社会全体の動きに巻き込まれていくような運動はいっさい起こらなかった。そういう時代である。
村上春樹さんはより正確にいえば、僕よりも上の、いわゆる全共闘や団塊の世代といわれる世代に属する。けれど、都市生活における消費することへのノスタルジーみたいなものや、全体として中流化・希薄化が進むなかでの空虚感のようなもの、そうしたオブラートのように纏わりついてくる些少なものへの目配せみたいなものをふくめて、村上さんの小説が持っている断片性がぼくを捉えていたのではないかと思う。その意味では村上春樹さんは徹頭徹尾、ぼくにとってはマイナーな作家であったのだ。
だが、「ノルウェイの森」の登場で、それは終わった。ぼくが変わったのか。村上春樹さんが変わったのか。どちらとも言えるし、どちらでもないかもしれない。ただ一つ言えるのは、ノルウェイの森はいかにも小説らしい小説の体裁になったということだ。大向こうの読者がたぶんより強く意識されるようになったとも言えるだろう。そして結末がどうあれ、小説は完成された物語の衣装に近づいたし、村上さん自身の小説家としての力量も成熟化したのだろう。
けれど、そのことによって僕にとっては村上さんの小説がリアルなものではなくなったのだ。なによりも物語になりきれないその不全さを愛していたのだから、たぶん。「羊をめぐる冒険」も「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」も然りだった。
またそれ以降の時代の流れということもおそらくあるだろう。やがて90年代を迎えてバブルがはじけ、現実がリアルに折り重なってくるなかで、その後僕自身も、仕事のことや自らの結婚や、人の死などにも直面し、いやおうなく自身のリアルに向き合わざるを得なくなったという現実的な理由もあるかもしれない。そうした中で僕個人の関心が完成された物語のようなもの、散文的なものから離れていったという嗜好の変化もあるだろう。
でも何も現実だけがリアルではないし、人はリアルさを感じるかぎりは付き合い続けるものだと思う。そういう意味でなら、ぼくにとっての90年代のリアルは、ハルキ・ムラカミの小説ではなく、「その男、凶暴につき」(89年)に始まり、「あの夏、いちばん静かな海」(91年)と「ソナチネ」(93年)を通って「菊次郎の夏」(99年)に至るまでの北野武の映画だったとも言える。
ぼくにとっての「ノルウェイの森」以降の村上春樹さんに対する雑駁な印象は、題材としてオウム真理教や阪神大震災や地下鉄サリン事件の擬似のようなものを選ぼうと、あるいは精神分析への興味・コミットのような形をとろうとも、彼の小説が醸し出すどこか書割的な事件性や物語性のイメージ臭に興味を失い(勝手な思いこみかもしれないが)、もう真に読みたい作家ではなくなったのだ。それは今日まで続いており、ぼくは「ねじまき鳥」も「海辺のカフカ」も「1Q84」も読んでいない。もちろんこの間にハルキ・ムラカミさんは世界的な作家になってゆくのだが。
最後に、先のコメントで、ぼくは村上さんの小説には本当の意味で他者性がないかもしれないとも書いた。同じキャラクターの分身の物語ではないか、とも。じゃ、ぼくが感じる他者性のある小説とは何か。それはたとえば島尾敏雄さんが書いた「死の棘」という小説だ。ずっと昔に読んだのでもう細かいあらすじはすっかり忘れてしまっているけど、要は浮気をした主人公のおかげで気が変になってしまった(なりかかった)奥さんと、それにとことん付きあい付き添ってゆくしかない男の話。しまいには主人公の男も気が変になりかかるような、ふたりがふたりで病んでゆくような、どちらが快癒してゆくか分からないような、そんな決して切り分けることのできない現実のなかで生き延びてゆく日々を書き続けたもの。その不分明さ。そういうものこそ実は本当の他者性ではないかと最近のぼくは思っている。
それに比べて村上さんの小説の登場人物たちはある種のスタイルとモードを守り、けっしてそこからはみ出すことがないようにも見える。でもこういうすべてのことは個人的な感想だ。冒頭に戻り繰り返しますが、僕個人のムラカミ・ハルキ体験はあくまでも個人的なものである。その脱落体験に果たしてどれほどの意味があるか、そこに普遍的な何かがあるかは分からない。当たり前だけど、人それぞれであり、人それぞれのハルキ・ムラカミさんがいるのだ。世界中に、今も。
よしむね
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「嫌消費」の研究~経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち~は、その題名よりも、「クルマ買うなんてバカじゃないの?」というキャッチコピーのインパクトにひかれて思わず買ってしまった本である。
この本が面白かったのは、今の20歳代後半の世代、名づけて「バブル後世代」の嫌消費現象をアンケートなどの客観的調査によって論理的に裏付けている点、そして、この世代の成長をその時の社会的事件、現象と平行して追い、そして、そこから浮かび上がる世代的特徴を割り出しているところであった。
簡単に言えば、この世代は、バブル崩壊を小中学生の頃に向かえており、それ以来の長い経済的停滞の時代がすっぽり、いわゆる青春期と重なっている。長期デフレによって、「今買わないと損!!」という経験をしていないということである。
一般的に言えば、彼らは非正規雇用等の影響によって、収入が低いために消費が低調なのだと思われているのだが、おそらく、そうではないとこの本は言う。
だから、景気が回復しても、消費は回復しないだろうという。
非正規雇用者、正規雇用者関係無く、嫌消費意識が強いというだ。実際の調査を元にした結論だけに説得力がある。
そして、彼らは「仲間から馬鹿にされないか」「他人がどう思うか」というという他者依存性が高く、一方で他者不審や被害者意識や劣等感が強い、そういった他者からの視線、自虐的な視線が自分の欲望以上に消費を決定付けているというのである。
僕は今の若い人が消費をしないことに対して、それが、個々人がそれぞれの価値観に従った結果ではないかとして評価をしていたのだが、もしも彼らが消費をしない理由が本書がいうように、他人の目を気にした結果だとしたら、その評価は全く逆になってしまう。
そして、むしろ、彼らが他者からの目を必要以上に気にしてしまうその心の抑圧を解いてあげたいとすら思う。
さらに、その抑圧の原因が、僕ら年長世代の振る舞い、あるいは存在自体にあるとしたら、何とかせねばと思う。
もちろん、僕らが20代後半だった頃の自分達が誉められた存在だったとは全く思わないが、不幸感は少なかったように思う。
悩みは沢山あったが、楽しいことも沢山あったように思う。
文芸評論の本を片手に毎月のようにプロレスを観に行って、週に一度は映画を観ていた。
ちょっと退いて自分を見ればそれは本当に、バカだったのかもしれない。
で、その名残りで、今でもTBC(東京墓石倶楽部)とか言いながら、朝の青山霊園で後藤象二郎の墓の家紋などを撮影しているのだから。
おそらく「クルマ買うなんてバカじゃないの?」と言われたら、「多分、そうだよ。」と言えればいい、ただそれだけのような気がする。
しかし、そのためには、そういう風に言える人間関係を作らなければならない。
それだけは、待っていても自然に出来上がるものではない。
まさむね




