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Articles in the 書評 Category

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[7 12 月 2010 | 2 Comments | | ]

中山康樹氏の本は本当に面白い。
先日、「ビートルズとボブ・ディラン」を手にとった。
この本には、新しい事実が書かれているわけではないし、新説が展開されているわけではない。しかし、ビートルズとディランの動きを対比しながら意味ありげに書いていくだけで、そこに深みが出てくるから不思議である。
例えば、ビートルズがコンサーツツアーをやめ、ディランが交通事故に遭った時期の状況について中山氏は次のようにまとめる。
ボブ・ディランは、その事故の実態がどのようなものであれ、公衆の面前から姿を消した。ビートルズもまたコンサート活動を打ち切るというかたちで、スタジオの奥深い森の住人となる。12月には、ビートルズにとって現役時代の最初で最後となるベスト盤『オールディーズ』が発売される。翌67年3月には、ディランも初のベスト盤『グレーテスト・ヒッツ』を発売する。
何かが終わり、そして何かが始まる。
また、次の年についてこう書く。
ビートルズがペパー軍曹率いるロンリー・ハーツ・クラブ・バンドに扮し、幻想の世界を夢見心地で浮遊しているとき、ディランはウッドストックの小さな村に住み、子供達と大地に寝そべり、隣人と町の雑貨店に食糧の買出しに行っていた。
あとは、中山氏が作った「空白の箱」に何を入れるのかは、僕ら読者にまかされる。この放り出し方こそ、中山流文体の個性である。結論を書いてしまうのではなく、結論を想像させる、その技術はユニークだ。
僕は以前、「中山康樹はターザン山本だ ~『ビートルズの謎』書評~」というエントリーを書いたことがあったが、その考えは今も変わらない。二人の煽り方は、熱烈なファンを生む一方で、他方、嫌悪の対象ともなってしまう点が似ているのである。
勿論、僕は、二人の意味深な煽りの大ファンである。
まさむね

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[17 11 月 2010 | 2 Comments | | ]

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」は世紀のベストセラーだけあってさすがに面白かった。
エンターテイメントとして完成度の高い小説であるだけでなく、ところどころに入ってくるドラッガーの「マネイジメント」が効果的に小説の中に溶け込んでいる。しかも、そのドラッガーの理論と、それを実践しようとする生身の人間達との葛藤がことごとく、リアルに書かれているのである。Amazonのレビューには文章が稚拙という評価が目立つが、おそらくそういった人々には平明に書くということの困難さがわかっていないのだろう。まぁいい。
僕はいつの間にか、主人公のみなみを応援してしまっていたくらいだ。
いろいろと書きたい点はあるのだが、ここでは一つの場面にだけ触れてみたい。
きりがなくなっちゃうからね。
それは、地区予選の決勝戦、最後の打者の場面だ。
詳細は述べないが、みなみが小学校野球少女だった時に体験した感動の場面が再現されるシーン。
その場面で、みなみは、前の日に亡くなった親友の夕紀と同じように、マネージャーの立場でベンチにいる。
そして、横には、幼馴染の次郎が、かつて、夕紀に吐いたのとと同じセリフを吐くのである。
ちょっと長いが、その場面を引用してみよう。
−これなら期待できるかもしれない。
と、みなみが思ったときだった。隣に座っていた次郎が、こんなふうに言った。
「ああ、ダメだよ。あれじゃあ。」それから、隣のみなみを見ると、こう言った。「あんなに大振りしてちゃ、打てないよ。もっと、狙い球をしぼっていかなきゃ」
それを聞いて、みなみは、相変わらず間の抜けたことを言うやつだと思った。
ここは、素直にその積極性を評価してやれないのか。
そんなふうに、うんざりしかけた、その時だった。不意に、心にコツンと、小石の当たるような感覚を覚えた。
それで、思わず次郎に言った。
「今、なんて言った?」
「え?」と次郎は、みなみのその勢いに面食らったような顔をした。「何って?」
「今言った言葉よ」
−あ
とみなみは、しかし次郎が答える前に、それに気が付いた。
そして、バッターは快音を残す...
実は、このバッターの最初の空振りは、(かつて小学生の時のみなみがそうだったのと同じに)演技だったである。
ところがその瞬間、みなみはそのことに気づいていない。そして、全然別な解釈をしている。
マネージャーに立場が変ることによって、プレイヤーのときの気持ちを完全に失っているのだ。
これは別な言い方をすれば、マネージャーがプレイヤーの内面を理解していないでマネイジメントをしているということになる。
しかし、それでもいいのだ。その証拠に最終的にはバッターはサヨナラヒットを放ち、彼らの目標は達成されるのである。
この場面、ドラッガーの「マネイジメント」を日本人が解釈するときに、おそらく最大の障害になるであろう点をドラマとして乗り越えているように僕には思えた。
もう少し詳しく説明してみよう。
日本人は、古来、和を重んじる民族だと言われている。そして、それぞれが以心伝心で分かり合い、仲睦まじい組織こそが、実力を発揮すると考えてきた。
ところが、ドラッガーの理論にはそういった日本的共同体の姿が「すばらしい」とか「良い」などとは、一切か書かれていない。それどころか、ドラッガーは、お互いを褒めることすら時には害になると言っているのだ。
つまり、直感的に、多くの日本人が違和感を抱くであろうこと=相互の内面理解は「マネイジメント」とは無関係だということ、その最重要点をあえてドラマの最重要場面で象徴的に表現しているのである。
そこが面白かったのだ。
さらに僕は上記に引用した場面で、こんなところにも感心する。
「心にコツンと小石の当るような感覚を覚えた」とあるこの箇所、野暮な書き手であれば、”前日に亡くなった夕紀がみなみに何かを伝えようとした”というように、「超越的に」深堀して書いてしまいそうなのだが、岩崎夏海氏は、あえてそこをサラっと流しているのだ。
確か、九鬼周造は『「いき」の構造』の中で、超越的(=霊的=形而上学的)世界のギリギリ手前でとどまる姿勢に「いき」=「粋」を見ていたが、それと全く同じ意味で、岩崎夏海氏はこの場面を表面的な描写だけに踏みとどめることで、この作品を「粋」にしているのではないだろうか。
只者ではない。
さて、これは余談だが、僕は、次の甲子園あたりで、もし、女子マネージャーが「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を読んだら実際どうなるのかを見せてくれるような野球チームの出現を期待してしまう。
まさむね

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[11 11 月 2010 | No Comment | | ]

黒沢清が「日本的想像力の未来~クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)」の第三章「日本映画と未成熟」の中で、未成熟こそが日本的表現ではないかというような事を言っている。
つまり、映画をはじめとする日本的表現の多くは、自分勝手な子供が親に接する時のように未成熟だと思われてもしかたないのかもしれないというのだ。
何かを表現する上で、もしはっきりした「狙い」があるんだったら、それは徹底してあからさまに狙って、その目的を果たすのが成熟した大人の態度であり、またもし自分は何一つ狙っていないと言うなら、徹底して自分ひとりの価値観を貫けばいいのであって、相手に何かを期待するのは筋違い。
この欧米における子供&大人観が正しいとするならば、「成熟」の中身が日本と欧米とは全く逆ということになる。
これはある意味で面白い見方だと思った。
例えば、俳句の世界などでは、対象をいかにぼかして表現するか、つまり「ボケ」こそが達人の極意とされている。しかもそれは、ちょっとやそっとで達成できるような生半可なものではない。修行に修行を重ねて、ようやく、「ボケ」のリアリティを獲得できるのである。
逆に子供はいつもわかりやすい事を言う。ぼかして言わない。でも、それは子供の作法だから許される。
もしかしたら、大人になるというのは、こうやって自然に「ボケ」ることを身に着けることなのか。小林秀雄は、年をとれば、常識というのは自然に身につくと言ったが、それは曖昧な存在になっていくということに違いないのである。
家紋に話を移す。家紋というのは徹底的に具象的な世界だ。片喰、桐、藤、牡丹、茗荷、桜、梅、桔梗...みんな分りやすい植物である。
勿論、木瓜や巴のような謎の紋もあるが、ほとんどは、現実世界に存在するものを形象化したものである。
しかし、それぞれの紋にはそれぞれの物語がある。僕は拙著『家紋主義宣言』の中でそういった物語について語った。
片喰はソフトな反骨心であり、桐は大陸との齟齬、そして藤は地方の中央への依存と反発、茗荷は抑圧された願望、桜は死と国家主義、梅は怨念、そして桔梗は日本史を貫く天皇VSアンチ天皇の戦い、そういった様々な物語を内包しているのが家紋ではないのかという、この本は、ちょっとパラノイアチックな本なのだ。
しかし、そういった物語の一つ一つに日本人の特性が現れているところが面白いのである。
何故、西洋のエンブレムに描かれた鷲が、日本では鷹の羽として描かれてしまうのだろうか。これこそ、日本民族の個性ではないのか。
などと考えていたのだが、先日、とある方よりメールを頂き、古代朝鮮にも家紋のようなものがあったらしいという話をうかがった。
これは衝撃的な話だ。そして同時になんと興味深い話か。
可能であれば、古代朝鮮の家紋集を見てみたい。それは僕ら家紋主義者の想像心を楽しませてくれるに違いない。
家紋のルーツが古代朝鮮にあったとしたら、それはそれで僕は逆に朝鮮に対して親近感を覚える。
日本と大陸の全くちがった関係性を模索し、大陸と日本列島の地図を上下逆にしてみせたのは網野義彦氏であるが、僕はその話を聞いたとき、地図を見た時以来のワクワク感を覚えた。
まさむね

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[2 11 月 2010 | 2 Comments | | ]

目から鱗が落ちる本というのはこういう本のことを言うのだろう。
それがこの「デフレの正体 経済は「人口の波」で動く」である。
作者の藻谷浩介氏は、日本政策投資銀行に務める地域エコノミストである。学者ではない。しかし、本の奥付によると「平成合併前の約3200市町村の99.9%、海外59ヶ国を概ね私費で訪問した経験を持つという。それでは、この本は足で稼いで書いた本かというとそうではない。勿論、この本の背景となる見識にはそういった経験がおおいに生かされているのだが、この本はそういったことの体験談ではない。むしろ、ネット上でも公表されている公的機関発表のデータを素直に読むところからストレートに話が始まり、思索によって自然に結論に達している。
その意味で、この本は普通のことを普通に考えて、普通に結論にいたった”普通の本”とすら言えるであろう。
しかし、天才とは次の時代のスタンダード(=普通)を考え出す人という言い方があるが、もしかしたら、藻谷氏は天才に値する人物かもしれない。それほど、”目鱗度”の高い本であったのだ、この本は。
そして、この本では、なんと、結論が第1講の2ページ目に惜しげもなく書かれているのだ。それは、「デフレの正体」とは日本人の人口の波に現れた結果だと言っているのである。
簡単に言えば、一般に90年代の初頭にバブルが崩壊し、その後、失われた10年が経過し、小泉改革を経て、いわゆる戦後最大の景気回復があったにも関わらず、人々の実感は伴わず、リーマンショックでさらに100年に一度の大不況が来たというような景気変動の物語が実は、ウソとまでは言わないが、物事のほんの一面を捉えただけのものだったということをこの本は書いているのだ。
実はこういった物語は、人口推移で説明できてしまうということなのである。例えば、90年初頭の土地バブル崩壊とは、人口の最も多い団塊の世代が概ね40歳を過ぎて、住宅供給需要が減少したから起きたというような分りやすい説明がなされるのだ。
さらに、この本のテーマ、つまり、ゼロ年代以降の「数字上は好景気、でも実感は不景気」という状況を、日本が輸出によって儲けた資金のほとんどが、従業員の賃金に反映されずに、金融機関を通して、それほど消費をしない裕福な高齢者の手に渡り、塩漬けになったせいだというのである。
なんとわかりやすい話ではないか。日本の個人貯蓄(金融資産)の70%以上を65歳以上の高齢者が所有している、そして、さらに、彼らに対しては、国の借金の主因である莫大な年金が支払われている、しかし、彼らはさらなる老後の不安に備えて消費をしない、そしてますます貯蓄額が高まる...そういった連鎖がこの不況の大きな原因という「当たり前」の話をこの本は普通に語っているのである。
今考えてみれば、03年〜07年頃のいざなぎ以来の好景気が実感出来ないことの主因は、企業の内部留保だ=企業が儲けすぎている=悪いのは企業だといったいわゆる共産党的な、別な言い方をすれば森永卓郎的=マスコミ的な言い方で、僕らはだまされてきたのではないだろうか。
よしむねさんが先日、書かれていたが、最近、特にマスコミの劣化が激しいように感じられるのは、今までは情報のソースがマスコミしかなかったので、僕らはそれを信じるしかなかったのだが、現在はインターネットで様々な情報にアクセス出来るようになり、マスコミが言っていたことが実は手心が加えられたイデオロギーだったということがバレてしまったというのが大きいのではないかと思う。
極論になるかもしれないが、マスコミが、己のメインユーザーである老人=弱者≒善人といった図式を無自覚に生き延びさせたというのも現在の不況の大きな要因にあるかもしれないのだ。
同様の事は、例えば、沖縄(地方)=弱者≒善人という図式にも当てはまる。「デフレの正体」によれば、90年以降、一番元気な地方(個人所得、就業者数が伸びている唯一の県)が沖縄なのである。しかし、マスコミは個人所得の伸び、就業者数の伸びといった普通の実数を使わず、有効求人倍率、失業率といった相対的な比率を使うことによって現実を見えにくくしているというのだ。具体的に、藻谷氏はこう指摘する。
第一に地域経済を左右するのはなんと言っても雇用の増減であり、第二に失業率だの有効求人倍率だのは定義上も現実にも必ずしも雇用の増減とは連動しないものだからです。(中略)パンダが増えているか減っているかを調べたかったら、いちいちパンダの落した毛とか巣穴とかを数えるのではなく、パンダの数を数えるべきですね。同じように地域の雇用が増えているか減っているかを見たかったら、何よりも働いている人(=就業者)が増えているのか減っているのかを見るのが正解なのです。
わかり易すぎるではないか...そして、この本が提示する解決案はさらに普通だ。
日本の経済を回復させるには、ちゃんと消費するような人々にお金を回すような仕組みをつくること、それに尽きるというのである。
具体的に言えば、年功序列崩壊を促す、高齢者の生前相続を促す、女性の就労を促す、外国人観光客を促す、そして個々の企業に対しては、価格競争に走るのではなく、ブランドを作るように頭を使わせるといったところだ。
そんな当たり前の話があたり前の論理で書かれている。それが、何で今までわからなかったのだろうか!?
そう思わせるところが、この本の凄いところ、そしてベストセラーになった理由だと僕は思う。
ただ、アジア諸国との問題に対する態度があまりにも楽観的にすぎないか。尖閣事件の解釈をうかがってみたいな。
まさむね

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[30 10 月 2010 | No Comment | | ]

神谷さんの「ゴールドマン・サックス研究」を読んで、前回に続いての感想。神谷さんの指摘にぼくもまったく同感なのだが、たとえば以下のような結論。
① ゼロ金利を続けても意味がない。そこで余ったお金はただ国債やその他債権などの買いに使われているだけで、資金を必要としている民間に回っているのではない(これはいまの世界の金融市場でも同様)
② 長い間のゼロ金利施策によって民間からの収奪(民間貯蓄からの所得移転)が起こっただけ。そのお金の使い道の大半は上記の通りで、あとは銀行等の不良債権処理に使われただけ
③ その結果といえばこの20年間で日本のGDPは470兆円でほとんど変わらず、ただ借金が増えただけ、GDPの2倍の借金になり、元との比較では3倍になった、等々。
じゃどうするかといえば、まず当たり前のところに戻すしかないと思う。適正な金利に戻すこと。その過程でいろんな取捨選択が起こり、振り落としが起こるかもしれない。でもそれは仕方がないと思う。
いま問題なのは一億総助け合い・相互互助的になって共倒れしそうで誰も先頭に行きたがらずリスクもとりたがらず、無責任にみんなで負債の先送りをし続けているとしか思えないことだ。多少リスクをとってでも投資をしたい人はそれを行い、利率を上回るリターンを目指すように頑張る風土にすることは必要だろう。それが健全だと思う。だから例えばただ利息が低いからというような理由で家を買うというのは本来間違っているはず。買える人が買えばいいのだ。そこに冷たいルールがあるとしてもそれは自己責任だから仕方ないだろう。
民主党に多少なりとも期待したことがあったとしたら、そういう当たり前のことに転換する道筋をつけてくれるかもしれない、との思いがぼくなりにあったからだ。でもどうやらそれは徒な期待に終わりそうだ。民主党も所詮は人気取り優先でかつて来た道の按分(富もないのに再配分をやろうということ)をただひた走ろうとしているようだ。
いまがどういう時代で、これからどうなるのかは分からないが、まさむねさんがエントリー記事で言っているように各個人がリア充を図ってゆく時代になるのかもしれない。以下その抜粋。
「例えば、今の若者の間には、「リア充」という言葉がある。それはリアル社会で充実している人々という意味らしいのだが、その充実の要素には決して、出世や物欲などは含まれてはいないという。それよりも、友達と楽しく時を過ごすセンスの方が大事だというのだ。もしそれが、次の時代の日本社会の価値観だとするならば、それはそれで、決して住みにくい世の中ではないのではないか。」
ぼくもそう思う。だが、そういう若者たちが当たり前に暮らせるようにするためにも、せめて負債(借金)の世代間押し付けだけは止めておかないといけないだろう。自分たちが使いたいだけ使って贅沢して、後の借金は君たちが払えというのはあまりにも虫が良すぎると思うからだ。これはわれわれみんなへの自戒。当たり前に貧しくなっていく(お金を切り詰めてゆく)ことに慣れてゆくことも大事だろう、楽しいことは楽しみながら、だ。
よしむね