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内田樹の「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)を読んで、思わず自分が学生時代にこんな本があればいろいろと苦労しなかったのに、と思ってしまった。この本は、それほど、すんなりと構造主義がよくわかる本である。
僕が学生時代、「現代思想」という雑誌などでは構造主義はもてはやされていたが、大学の教室ではまだまだ、マルクス主義、実存主義が全盛だった。僕の指導教授も実存主義、マルクス主義の流れにある人だった。
僕らは真剣に、日本人に生まれたことはそれだけで、先の戦争に対する責任があるのだ、それがアンガージュマンというものだというようなことを話していた。また、他の学生はサルトルとかカミュとかが好きだったみたいでそういった作家を卒論のテーマとしていた。
ただ、僕は教室で、フーコー、レヴィストロースなどの名前を出してその教授に嫌な顔をされていた(多分)。
僕は本当に世間知らずだったのだ。
しかも、僕は構造主義もよく理解していなかった。だから、自分が考えていたことすらよく説明できなかった。
ただ、実存主義がなんだか変だということだけは直感でわかっていたのである。
しかし、あれから30年、僕は今、内田先生の本が平明に感じるようになった。
おそらく、現代という時代は、それほど、構造主義が常識になった時代なのである。
この本の中でレヴィストロースがサルトルに対してこう述べたという引用箇所がある。孫引きしてみよう。
サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される。それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである。逆に、民族学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう。
今読んでみると、当たり前にも感じるが凄い箇所だ。
時代の指導的立場にいたサルトルをいきなり博物館の標本みたいにしてしまったのだから。
こんな文章を、今から30年前の社会学のゼミで引用出来たらかっこよかったのにといまさら後悔するのでした。
まさむね
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よしむねさんも紹介されていて、以前から気になっていた「オーガニック革命」(高城剛著)を手にとってみた。
高城氏に関してはいろいろと感じるところがあるのだが、とりあえず、本の中身についてから語り出してみたいと思う。
高城氏も自身のブログで述べていたが、この「オーガニック革命」は売れているらしい。確かに、読みやすいし、中盤のイギリス経済の現代史などのところは、「こいつ只者ではない」感を十二分に感じることが出来た、その種の入門書としてはよくまとめられた読み物だと感じた。
また、本書20ページあたりにもある以下の指摘は面白い。
まずは「水・食料」「資源・エネルギー」「外交」「娯楽」の4つを最低限、個人で確保すべきということだ。
特に、4番目の「娯楽」の個人化という指摘は僕の見解とも重なるところが多い。例えば、高城氏はこう語る。
僕のいう娯楽とは、いま一般的に言われている娯楽とは少し違う。ある意味、宗教的なものというか、自分と向き合うためのあたらしい、”娯楽”が増えると思っている。人々は、いままで以上に自分自身について考えることになるだろう。
人間とはいったいなんなのか、ここにいる私とはいったい誰なのか。そんな自問自答こそが次世代の娯楽になる。時間は必要とするが、あまりお金はかからない。
勿論、先にあげたようなブログの中で高城氏が書く以下のようなレベルの話と僕が言っている話とは立ち位置が全く違うのだが、少なくとも、企業が社会やメディアが用意した”娯楽”ではなく、それぞれが自分自身を掘り下げて考えてみることが”娯楽”になるという点で僕と高城氏の認識は近いと思う。
おそらく、彼の場合、それが「オーガニック」であり僕の場合は「家紋主義」になるのであるが、僕の「家紋主義」に関しては、またいずれ別のエントリーでしてみたいと思う。
このロンドンの生活がなければ、いまだに僕は夜な夜な着飾ってパーティに繰り出し、高級ガソリン車を駆って、深夜営業の店を飛び回る二十世紀の囚人になっていたことだろう。
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実は、僕は彼の言う「オーガニック」というものにはそれほど興味があるわけではない。基本的にそれは、金持ちの思想的モビルスーツだと思っているからだ。僕ら通勤電車に毎日2時間揺られ、朝食もおにぎり2つ(ツナマヨ、タラコ等)、夕食は家庭料理みたいな生活をしていて、勿論、自動車も持っていない、毎週土曜日の午前中、C型肝炎の治療の帰りに自転車でマクドナルドのクォーターパウンダーを買いにいく(あるいは、1ヶ月に1回の都内霊園めぐりをする)のが楽しみみたいなレベルの層からしてみれば、彼の以下のような話は雲の上の話なのである。
例えば、高城氏はこう話す
数年後を目処に、僕は沖縄で食べ物とエネルギーを100%自給自足する、あたらしいシステムの構築を目指している。水を循環させ、電気は自家発電、さらにはミニ水田を作って食べ物もすべて自分で賄えるようにしたい。
「100%自給自足か、じゃあ、東京、あるいはオーストラリアから沖縄まで歩いて、あるいは海を泳いでいくのは大変ですね、その場にいなくても稲は育つんだ、台風とか来なければいいね。」というような意地悪も言いたくなってしまう。
もしかしたら、高城氏を前にした僕は大変偏狭な心の持ち主かもしれない。
意地悪ついでに言えば、おそらく高城氏は基本的には輸入業者なのだろう。世界中を飛び回って、新しい潮流を見つけてきては、日本に紹介する、外国は進んでいるのに、日本はこんなに遅れているということを言い立てる啓蒙家だ。
その輸入品が、あるときは、シリコンバレーのITだったり、イギリスのオーガニックだったりするだけなのだ。残念ながら、彼が作り出すもののオリジナリティはあまり無い、「チキチキマシン」とか。
さらに言えば、僕は彼のストリート系の人々や若い女性、いわゆる高感度な人々へのシンパシィに対して、微妙な欺瞞を感じている。
その欺瞞とは、例えば、メディアやネットで情報を取得しているようじゃだめだ!!、真実はストリートにあるから、自分の目と足で確認せよ、とのたまう(115ページあたり)割りに、この本に出てくるデータはほとんどネットや経済誌からのものというようなところである。
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さて、彼は今回の離婚騒動に関してブログでこう語る。
いま僕が日々対峙しているのは、本来対峙するべき人と違います
これはあくまでも想像だが、おそらく、相当タフな人々ともつき合わされているのだろう。
勝手ながら、同情申し上げます。
しかし、なんだかんだと言ったが僕は基本的に、高城氏の無邪気な少年性は尊敬に値すると思っている。
そのエネルギーと行動力と好奇心と矛盾をいとわない鈍感力はうらやましいとすら感じているのだ。
正直、現在の日本に必要なのは客観的に見れば、この高城氏的強引さだと思う。
だからこそ言いたい。がんばれ、高城!!
まさむね
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本を併読していると思わずそれらの本が頭の中でシンクロすることがある。
最近もそんなことがあった。
その2冊とは、「地図と家紋で知る名字のルーツ」(姓氏歴史研究会編)と「日本力」(松岡正剛、エバレット・ブラウン)である。
「地図と家紋」のほうは、今までの名字本とは異なり、それらの姓氏のルーツの土地を紹介しているところが新しい。
例えば、鈴木氏のページには和歌山県海南市の藤白神社、佐々木氏のページには、滋賀県蒲生郡の沙沙貴神社といった感じだ。地図も出ている。
一方、「日本力」のほうは、それこそ掘り下げてみたいテーマ満載のヒント本である。掲載されている写真もそのコメントも素晴らしい。さすが松岡正剛とエバレット・ブラウンだ。
さて、冒頭のシンクロという話だが、「日本力」の中の一つのテーマが「氏神復活」なのである。そして、自分の先祖の場所にとにかく行ってみようということなのだ。そして、「地図と家紋で知る名字のルーツ」はそのためのガイドブックなのである。
具体的にはエバレットは(266ページで)こう述べている。
だから、もし自分のおじいさんが鹿児島県出身だとわかったら、親戚がそこに住んでいなくてもその場所に行って、氏神を調べて、その土地をゆっくりと自分の足で歩いてみるのも、いいかもしれません。そうすると、もしかして何かを思い出したり、感じたりするかもしれない。
そうかもしれない。おそらく、現代日本人にとって一番大事なのは、先祖との絆、過去とのつながりを取り戻すことだ。
これが最大のテーマだ。僕もいつか山形の村上市に行ってみよう。
まさむね
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平川克美さんという現役の社長さんが書かれた本で講談社現代新書の一冊。この方はたしかフランス文学者の内田樹さんの小学校時代からのご友人だそう。内田さんとは共著で本を書かれているらしいが、ぼくは初めてこの方の本を読んだ。
途中やや抽象的すぎるような箇所もあるにはあるが、中味はきわめて至極当然のことで、われわれは、経済というものは、ほんとうに成長し続けなければならないのかへのアンチテーゼが伏流のようにながれて一貫している。人の一生には、少年期、青年期、壮年期、老年期があるのに、なぜ経済状態にはそうしたステージがあまり想定されないのか、いつも不思議に思っていた。経済にも春夏秋冬があっていいはず。その意味でも本書の示唆する内容は僕にはとても共感できた。
こうしたことが現場の第一線のビジネスマンから直接語られていることでより説得力が増している。というよりもビジネスの最前線で働いている人にこそ、こういう風に語ってほしかったと思う、そんな本のひとつだ。
その中で平川さんは2000年の夏から秋にかけてのいわゆるITバブル時代のさなかに、バブルの先棒を担いでいたご自身の過去の行いについても自戒をこめた形で回顧している。ちょうどその頃、ぼくも金融業界に移ったばかりで投資銀行の末端に近いところにもいたので、あのころの気分や周りの酔いしれ方、新興IT企業を巻き込んだ業界の浮沈のことが今もまざまざと思い出されるような気がする。あれから10年が過ぎた。
平川さんの筆先は、いろいろとうねりながら蛇行しながらも、経済成長という幻想・神話の終焉(剥離)を明らかにしていこうとする。それがエッセイとも論文とも異なる文の彩で語られてゆくわけだが、そのクロスオーバー的なところが本書の魅力のひとつともなっているし、同時にそれが好き嫌いの分かれ目にもなるかもしれない。
だが中味についてはもうこれくらいの紹介にとどめて、後は興味のある方にはぜひご一読をお勧めしたい。最後に、なるほどそうだなぁと頷せていただいた一説の幾つかを書き留めて終わりにしたい。
◎多くの人間は、未来を思い描いていると思っているが、実はただ自分が知っている過去をなぞっているだけなのではないか
◎出生率が低下し、人口が減少してゆく社会の未来は、必ずしも暗いものではなく、むしろ人口適正社会というべき状態を作り出し、人口増加社会が持っていた多くの問題を解決する
◎老いは退行であり、忌むべきものである。ゼロ成長モデルはうまくいかない。そう思うのは、老いもゼロ成長もまだ経験したことのない、未来だからである
いつの時代でも希望や可能性が最小限必要だとするなら、成長一辺倒という軸とは異なる可能性こそがこれからの未来において考えられていかなければならないように思う。世阿弥の花伝書ではないが、老いには老いにふさわしい舞いがあるはずだ。その時分、その時々の舞いを踊ることができればそれでよしとする潔さをせめて持っていたいと思うが、どうだろうか。
よしむね
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「近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」」(原田曜平著)を読んだ。実際に数多くの若者のインタビューに裏づけされたレポートはそれなりに説得力を持っているようにも思えた。
ここには、今の若者(多分、中学生〜20代前半くらい)はケータイネイティブと呼ばれている世代であるが、そういった世代の若者がいかに、それ以上の世代と考え方、行動パターンが違ってきているのかということが書かれている。
著者はこう述べる。
戦後、核家族化や都市圏への人口の流入、地域共同体の衰退、個人化・多様化が進行しましたが、ケータイが若者達をつないだことで、こうした戦後の日本人の動きとはまったく逆行するように、噂話や陰口が多く、出る杭は打たれ、他人の顔色をうかがい、空気を読むことが掟とされる、かつて日本にあった村社会が若者の間で復活したのです。
そんな新しい、村社会を原田氏は、新村社会と名づけるのだが、その新村社会に関して、こうも述べている。
つまるところ、この新村社会は、複雑な人間関係のしがらみに息苦しさを感じ、既視感によって視野や行動範囲を狭めてちぢこまる村人と、地域や偏差値や年代を超えて活動の幅を広げる村人との「ネットワーク格差」を生み出したのです。
ネットワークに脅える若者と、ネットワークを駆使する若者の、「人間力」の格差とも言えるでしょう。
若い彼らが社会の主役になる近未来、地域や偏差値や所得に関係なく、ネットワーク力のあるものが幸せを感じ、ない者がおちこぼれる社会が到来しているかもしれません。
たしかにネットワークが広ければ、イベントなどの動員は出来るのであろう。知り合いが多ければ、なにかと便利なことも多いのだろう。しかし、僕にはそんなにネットワークが広いことを素朴に善とする価値観、ネットワーク=幸せ、そうでない=おちこぼれ、という単純な図式はどうかと思う。
それで、本当に一人ひとりが安定した心持で生きられるのだろうか。あるいは、そうした懸念こそ、古臭いものなのだろうか。
おそらく、様々なビジネスを前提とすれば、そういった広いネットワークは資産になり、そういった人は有利に働くことは間違いない。確か、就職ジャーナリストの常見陽平氏も、「他人を巻き込む力が就活」にとって重要な力だと言っていたが、これからは人を巻き込む人と、人に巻き込まれる人、そして、人に巻き込んでもらえない人という3つの格差が広がっていくといくに違いない。その3つは別の角度から見れば、人の噂によく出てくる人、普通に人の噂をする人、誰からも噂もされなくなる人の3つのタイプに分かれるということなのだろう。
これからは、人に噂されながらも、鈍感力で乗り切り、ネットワーク構築を前向きに出来る人、そんな人が結果的に勝ち組になれるということなのである。
時代はますますタフになっていくということか。
しかし、本音を言えば、僕はネットワークが広い人よりも、一つのことに深く興味を持って、ユニークな見解を持っている人のほうが貴重だし、魅力的に感じる。流行に敏感になるよりも、一つのことにずっと関心を持って突き詰めていった末にあるときに、他の追随を許さないようになっている、そういった生き方のほうが、毎日、マメに何十人ものよく知りもしない人にメールを送って、つながりを維持していくよりも、結果として有意義なのではないかと思っている。あるいは思いたい。
この「近頃の若者はなぜだめなのか」にはもう一つ面白いエピソードが書かれていた。ある大学でレポートが出されたのだが、クラスの全員がほとんど同じ内容のレポートを書いてきたというのだ。それは、そのテーマについて全員がGoogleで検索をして上位5位くらいまでの検索結果の記事をコピペしてきたため、そういった結果が出てきたというのである。それを受けて、原田氏は、こう書いている。
大人たちが「若者はネットばかり見ている!」と眉をしかめたところで、彼らの内実は、いろいろな情報をネットから摂取している子は一部にすぎず、いくつかの検索結果や、せいぜいSNSニュースにある恋愛ネタや芸能ネタを見ている程度なのです。
大人が若者たちに言うべき言葉は、「もっとちゃんとネットを見ろ!」ということなのかもしれません。
そうなのだ。クラス全員が同じレポートを書く時代だからこそ、逆にチャンスがあるのだ、と僕も思う。
まさむね




