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昨日、歌舞伎町のロフトプラスワンで行われた「竹の熊さん祭り」に足を運んだ。
第一部は、淡路島の八百屋さん・のすふぇらとぅ氏が一人でこつことと作成したアニメの話、そして第二部は、竹熊さんご自身の話である。アニメの話はそれはそれで興味深いものがあったが、僕の目的はどちらかといえば、第二部にあった。
ちょっと前に、歌枕「武隈の松」と「竹ノ熊さん祭り」、蝦夷と熊襲。というエントリーを書いて、竹熊という姓と宮城県の武隈との関連があるのではないだろうかという指摘をしたが、ここでは、さらに別の角度で竹熊姓の可能性について考えてみたいと思う。
「竹の熊さん祭り」では、竹熊という姓の由来として、景行天皇が熊襲退治で熊本の地に来たおりに、3人の家来を置いてきており、そのなかの一人の「竹野熊」という人物の流れを汲んでいるのではないかという説が披露された。
僕は師匠の長谷川先生に、先祖探しに関して、どんなに客観的な資料があったとしても、一番尊重すべきなのは家伝であり、時として家伝の方が資料よりも真実を伝えていることがある、ということを教えられてきた。それゆえに、この説は、おそらく一番可能性の高い竹熊姓の由来ということにしたい。
しかし、それでも僕は敢えて、別の可能性に関して考えをめぐらしてみたいのだ。それが、妄想を楽しむ家紋主義者としての僕の性(サガ)なのである。
さて、ここで丹羽基ニ氏の「日本人の苗字」を紐解いてみよう。この本の69ページ〜に、歴代の各天皇から分かれた氏(うじ)の一覧が掲載されている。そして、この表の景行天皇の欄を見ると、犬上、池田、阿礼、讃岐と並んで、気になる名前があった。それは建部(たけるべ)である。この建部氏は、景行天皇が不遇の死をとげたヤマトタケルノミコトの魂を永遠に鎮魂することを目的に創氏した氏であるという。そして、滋賀県の大津には、建部大社という近江国一宮があるが、ここは、そのヤマトタケルノミコトを奉っているのである。
昔の権力者は、特に思い入れのある無縁者(子供のいない者)を未来永劫に供養しつづけるために、それを家業とする家を作ったのである。古代の氏(うじ)と現代の姓との連続性は単純ではないが、もしかしたら、元自民党の幹事長の武部勤氏もこの建部氏となんらかの関係があるのかもしれない。
さて、その建部(たけるべ)氏が古代天皇一族肝いりの氏族だとすれば、一方、それに対して、まつろわぬ(朝廷に対して反抗しつづけた)一族の代表が、東の蝦夷と西の熊襲である。そして竹熊一族が熊本に根を張ったということで、容易に想像されるのが、竹熊氏の「熊」は熊襲の「熊」ではないのかということだ。ちなみに、彼のブログ、たけくまメモの表紙にはパンダ=大熊猫が猟師を襲う画像が使われているが、僕は以前からこれは「熊襲」からの類推画だと思っていた。(勝手に拝借、失敬)
建部のタケと、熊襲のクマ。この対極的な二つの種族がいつの時代にか、運命的な婚姻によって出来た姓が竹熊氏ではないのだろうかというのがここでの僕の推理だ。
現代では、姓を作るのは法律的な手続きなど、複雑であるが、中世では、新しい家(名字)を作ることは、比較的容易であった。だから、新しく婚姻で出来た家が両家の出自(出身地)を姓に残すような創姓もたまにはあったようだ。例えば、俳優・尾美としのりの尾美は、尾張と美濃にあった両家の婚姻によって出来た可能性があるし、女優の相武紗季の相武は、相模と武蔵という国名をその起源に持っているかもしれない。(あくまでも可能性の話っす)
それにしても、天皇一族(天孫系)と熊襲(土着系)という二つの対極の流れを内蔵させている苗字というのはなんとも、意味深だ。それは弥生系と縄文系、農業系と狩猟系、A型とB型といった日本という国の底に流れる二つの流れをも象徴している。
僕は、竹熊健太郎さんご自身の、豪放磊落な面と、他面、几帳面な面とを、この竹熊姓に見てしまうのであった。
まさむね
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武隈の松のことを調べていたら、本気で歌枕に関して興味が出てきてしまった。
これだから「おたく」という性分はタチが悪い。
荒俣宏氏の『歌伝枕詞』(世界文化社)では、陸奥の歌枕を、大和朝廷によってほろぼされた蝦夷の魂を鎮魂すると同時に、無害な文学イメージとして昇華させたものという捉え方をしている。一昨日のエントリー「歌枕「武隈の松」と「竹ノ熊さん祭り」、蝦夷と熊襲。にも引用しさせてもらった箇所をさらに、続けて引用させていただく。だって面白いんだもの。
歌枕が消し去った陸奥の古い実像とは、当時、高度の発達していた蝦夷独自の文化と、戦闘の傷跡である。とくに後者の戦争の記憶は、巧妙に抹殺されたに相違いない。官軍側を破ったアテルイのような英雄は、”悪路王”あるいは”鬼”として悪役に回され、他方、勝利をもたらした田村麻呂が英雄にまつりあげられるのだ。
つまり、田村麻呂伝承は、歌枕とセットになって、陸奥にまつわる蝦夷の真相を消すための美しいフィクションとしてかんがえだされた。ぼくには、どうしてもそのように思えてならないのだ。
じつは、この箇所が何故、面白いのかというと、僕は、家紋というものにも、ここで荒俣さんが歌枕に感じたのと同じように、「抹殺されたいまわしい過去の記憶」を消し去り、美化しようとする日本人的なメンタリティが潜んでいるのではないかと考えているからである。
例えば、梅紋(左絵は双葉山の梅鉢紋)というのは、もともとは菅原道真の怨念(逆に言えば、道真を追い落としたことに対する藤原氏の慙愧)というおどろおどろしい想念を、このかわいい紋に閉じ込めたようにも思える。
同じく、車紋というのは、これは源氏物語というフィクションの中での話しであるが、六条御息所の怨念を優美な源氏車に昇華した紋ではないかと僕は思っている。(右絵は佐藤栄作首相の源氏車。車輪が「六条の星」のようになっているところが、どこか意味深である。)
梅紋も車紋も、いずれも、都の公家社会という狭く窮屈な社会における権力欲に敗れた人々の怨念というおどろおどろしい陰の力を御霊化(真相を消し去ること)した結果ではないのかと思うのである。
過去の忌まわしい歴史を美化すること、これは別の視点からすれば決してほめられたものではないのかもしれない。しかし、人間というものはそうやって、過去を消し去り、御霊化してしか、新しい時代を作れないような存在なのであろう。
比喩的に言うのであれば、中国や朝鮮半島にどう謝罪するのかという問題、靖国神社をどうするのかという問題、それらは現代日本人が、民族の総意として「歌枕」や「家紋」を、どう作っていけばいいのかという問題、あるいは作りきれるのかという問題なのかもしれないのであるが、おそらく、それには時間はかかると思わざるをえない。
まさむね
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家紋中学生ことしんゆうさんが、「日本家紋普及協会」を立ち上げた。中学生として、この思いっきりは快挙である。
リアルな世界であったら、50才の僕が、まだお会いしたこともない15才の彼の作った会に参じるということはありえないであろうが、あり得ないことが起きるのがネットのいいところだ。
僕は躊躇無く、彼の意思に賛同して、会員にさせていただいた。身分は旗本だ。
今後、彼の活動を見守りながら、出来ることがある限り、支援していくつもりである。
まずは、「日本家紋普及協会」への祝辞を書かせていただいた。
この一本気新聞上でも披露させていただきたく思い、ここに転載いたします。
★
先日、祖母の33回忌があり、親戚一同が会しました。
その時、先祖の話になりました。実は、私の家は、山形の村山市楯岡というところに代々住んでいました。
この楯岡は、あの蝦夷地探検で名を馳せた最上徳内の故郷でもあります。実は、うちの先祖はこの徳内と寺子屋で席を同じくしたという家伝が残っているのです。
そして徳内は農家でしたが、私の先祖は商家だったようです。これは先日の法要で初めて叔父から聞いた話です。
さらにいえば、先祖は、近江から楯岡に流れてきたらしいです。ということは、僕の先祖は、丸紅 、西武、伊藤忠、高島屋などと同じ近江商人の端くれだったのです。
そして、何を商っていたのかとうと「塩」。実は、うちの先祖は代々塩屋佐平(しおやさへい)という屋号を名乗っていたということです。
僕もいつか、この屋号を名乗ってみたいというのがささやかな夢の一つになりました。
さて、そんな塩屋ですが、時代が下り、明治時代なると、塩は政府の専売となり、塩屋たちは職を新しく求めるざるを得なくなっていきます。これも時代の流れでしかたのない話です。
僕の祖父は農林省の技官という職を得て、その後、長野県の松本、山梨県の小淵沢と転々とします。いずれの地も蚕産が盛んだった土地です。戦前、日本の主な輸出品であった蚕産振興のため、祖父は少しでも日本のためにと働いていたのです。
さて、話はかわりますが、我家の墓は小平霊園にあります。僕はその近くということもあって現在は西東京市に住んでいます。墓には丸に片喰紋が刻まれています。
先日の法要ではこの家紋の話にもなりました。残念ながら、そこには深い云われはありませんでした。物知りの叔父さんの話でも、ただ、祖母の紋付にその紋がついていたからというのが、現在、墓の家紋の由来だというのです。
でも、自分にとっても大好きだった祖母の背中にずっとついていたこの丸に片喰紋は、それだけでも、僕にとって大好きな紋です。
平和を愛すること、子孫繁栄を祈願すること、雑草のように強く生きること...片喰紋にはいろんな意味が込められていると聞きます。
でも、そんな中でも、僕はこの紋に感じる諧謔性が好きなのです。
題名は忘れてしまったのですが、僕が学生時代に聞いた落語でこの片喰紋が出てきました。「あのおケツを三つつけたような紋」というような滑稽な形容をされていたのを覚えています。でも、その形をよく見ると徳川家の葵の御紋にも似ているのです。
おそらく、江戸の庶民達は片喰をおケツと笑いながら、同時に徳川の御紋をも笑っていたことでしょう。これはあくまでも僕の想像です。
でも、この普通の庶民のちょっとした洒落心、片喰紋に僕が惹かれるのはそんな庶民の「柔らかな反骨精神」なのです。
自分も「一本気新聞」というつたないブログをやっていおりますが、そこではこの諧謔性を忘れないということを一つのポリシーにしております。それはこれが片喰紋をつけている僕の精神だと思っているからです。
ちなみに、僕が調べた限りですが、僕と同じ、丸に片喰紋をつけている有名人にはこんな人がいます。
江戸の侠客・幡随院長兵衛
天才左官職人・入江長八
街道一の親分・清水次郎長
司馬遼太郎の『峠』で有名な河井継之助
庶民の味方、足尾銅山鉱毒事件を告発した田中正造
日本で最初に「万歳」を発明(?)した外山正一
大日本帝国憲法起草した伊東巳代治
夏目漱石も『三四郎』の中にも出てくる三代目の柳家小さん
第30代内閣総理大臣・斎藤実
『武蔵野』の作者、自然主義文学の国木田独歩
落語家として始めて渡米して興行を行った五代目・三遊亭圓生
浅草生まれの粋な作家・久保田万太郎
映画界の「第4の巨匠」成瀬巳喜男
戦後の日本人に希望を与え続けた『青い山脈』の作曲者・服部良一
山野美容専門学校開校者・山野愛子
橋幸夫の『霧氷』を作曲した利根一郎
『にんげんだもの』で有名な詩人・相田みつを
『どらえもん』の生みの親、漫画家の藤子・F・不二雄
当代一の色男、歌舞伎役者の坂東三津五郎
そしてジャイアント馬場の物真似でもお馴染みコメディアンの関根勤...
こんな素敵な人たちと同じ紋を持つ僕はやっぱり、この紋を持っていてよかったと思っています。
今回は、「日本家紋普及協会」発足に寄せてということなので、ちょっと力を入れて書かせていただきました。
これからも、一会員として「日本家紋普及協会」の発展のため、出来る限り頑張っていきますので皆様よろしくお願いいたします。
まさむね
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今月の28日に、ロフトプラスワンで、旧友・竹熊健太郎君の「竹ノ熊さん祭り」があるという。
先日、コミケでお会いした際に、うかがう約束をした。今から楽しみだ。
さて、その際には、竹熊君のお父様のビデオが上映されるという話を聞いた。お父様はすでに80歳越だそうだ。
話によると竹熊一族は、景行天皇の部下の「タケノクマ」という人物の末裔という。
僕はその場で、タケクマという名前はむしろ、熊襲の末裔を思わせるのではないかとの話をした。つまり、景行天皇の息子のヤマトタケルが熊襲退治に熊本の地に来たという古事記の一節が頭をよぎったのだ。
たしか、もともと、この地にいたクマソタケルを倒すことによって、ヤマトタケルは、それまでの小碓命(おうすのみこと)という名前をヤマトタケルという名前に変えるのである。
しかし、その時の戦いは正々堂々というよりも、宴会で女装してクマソタケルに近づき、酒を飲ませ、酔ったところを殺すというどちらかといえば卑怯な戦法であったという。
大和民族が熊襲や、蝦夷を倒すときは、こういった酒席での「裏切り」が常套手段である。たしか、坂上田村麻呂が東北のアテルイ軍を倒したときにも、そんな逸話があったような。ちょっと記憶が曖昧だが...
話を戻す。そして、コミケでは、僕は自分の興味に引きつけて「お父様に家紋が何か聞いておいてくださいね、それでは、竹ノ熊さん祭りでまた。」という挨拶をして別れた。
しかし、一方的に聞いてきてくださいというのもアレなので、僕も一応、竹熊一族のことを調べてみた。まずは家紋だ。『都道府県別 姓氏家紋大事典』(柏書房)によれば、熊本県の竹熊氏は藤原秀郷流、家紋は下がり藤が代表的とのことだ。
そして僕は次に、タケクマという地名を探した。僕の師匠の長谷川順音先生は、名字というのは9割が地名から来ていると言われていた。だから、先祖を探すときにはそれと同じ地名を探すのが第一なのである。
すると、タケクマという地名は、宮城県の岩沼市にあるではないか。
しかも、それは「歌枕」にまでなっている有名な土地だったのである。
そして、さらに言えば、そこには名所特有の名物があった。それは「武隈の松」という松である。
★
平安時代に能因法師という歌人がいた。彼は生涯、放浪しつづけた最初の歌人としても知られている。彼はこの武隈の松をこう詠んでいる。
武隈の松はこのたび跡もなし 千歳を経てや我は来つらん
(武隈の松はもう跡形もない、長い時間を経て、私はここに来たのに...)(まさむね適当訳)
また、あの西行もこの松を詠んでいる。
枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひても甲斐なかるべし
(武隈には、すでに枯れてしまった松の跡しかない。「幹=見来」と言っても来たかいがないなぁ)(まさむね適当訳)
★
さて、この「歌枕」という言葉はどこか魅力的だ。荒俣宏氏もその『歌伝枕説』(世界文化社)の冒頭でこのように述べている。
歌枕とは、ふしぎに想像力を刺激する、なんとも絶妙な用語だと思う。
そして、荒俣氏は、この本の随所で歌枕となった土地が蝦夷、縄文、鬼など、まつろわぬ民の滅亡の記憶と関係があるのではないかと繰り返している。例えば、136ページ。
東北の歌枕は、どれも滅亡した過去のおもかげを伝えている。その過去とは、亡びた蝦夷であり、消された歴史上の敗者であり、また汚された聖地のことである。
また、151ページ。
歌枕が消し去った陸奥の古い実像とは、当時、高度の発達していた蝦夷独自の文化と、戦闘の傷跡である。とくに後者の戦争の記憶は、巧妙に抹殺されたに相違いない。官軍側を破ったアテルイのような英雄は、”悪路王”あるいは”鬼”として悪役に回され、他方、勝利をもたらした田村麻呂が英雄にまつりあげられるのだ。
そのことが明確に論証されるところまではいっていないのは残念だが、この荒俣氏のドタ勘は鋭い。
確かに、さきほど引用した能因と西行の歌の中の「武隈の松」はそんな過去の記憶の残骸として歌われている。それはいずれも、「武隈の松」を見に来たのだが、すでにそれはなかったという追憶の歌なのである。
しかし、武隈という土地には確かに、遠い過去に「何か」があったに違いない。
だから歌枕として残されたのだろうし、僕らの想像を掻き立てるのである。
ここからは僕の勝手な想像だ。
この武隈の地は、多賀城のすぐ手前の地だ。おそらく、大和朝廷軍と蝦夷軍の激しい戦闘があったのだ。そして、蝦夷軍は敗れ、多くの戦士がここに倒れたのである。
その後、この地に巨大な松が植える。松という植物は、正月の門松や羽衣でも知られているが天の神を地上に降ろす依代(よりしろ)であると同時に、地霊を天に昇らせる。つまり、地と天との霊的な通路なのだ。人々は、この地に生えた松を見上げることによって、遠い昔に倒れた地霊が天に上って御霊となったという幻想を見たのではないだろうか。
武隈というのはそんな蝦夷にとっての怨念の地=聖なる地だったのではないだろうか。(画像は現在、この地に植えられた武隈の松。岩沼市のHPより)
そして、そこに住んでいた蝦夷の末裔は、ある時期、一族そろって、新しい土地を求めて、西国のもう一つのまつろわぬ土地=熊襲に、自分達の第二の故郷を見つける。それが熊本の竹熊一族なのではないのだろうか。
名字というのは、多くの場合、本貫の地(もともと一族がいた土地)を現している。例えば、かつての自民党の実力者・二階堂進は、鎌倉の二階堂(鶴岡八幡宮の裏あたり)にいた一族が薩摩に移住した一族だ。
同様に、竹熊という名前は、陸奥の武隈から来た人々ということの刻印なのかもしれないと僕は思うのであった。
蝦夷、熊襲、いずれにしても、日本のまつろわぬ一族と、なんらかの関係性を感じさせる竹熊一族。
その一族に代々伝わる「竹ノ熊さん祭り」とは何か。
「たけくまメモ」には、こう書かれている。
俺の父親の口から、竹熊家に代々伝わっている謎の奇祭「竹ノ熊さん祭り」の真相について赤裸々に語られることでしょう!
ますます楽しみだ。
まさむね
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歴史読本9月号、高澤等先生の「家紋拾遺譚」を読ませていただいた。
この論文で高澤先生は次のように書かれている。
本来、西郷氏は菊池氏の一族として「違い鷹の羽」を用いることが多い。一方、西郷隆盛の家紋は「抱き菊の葉に菊」を用いており、隆盛が用いたことから別名を「南州菊」とも呼ばれている。家伝ではこの家紋は明治天皇より下賜されたもので、本来は菊花紋のない「菊の葉」を用いてきたと云われるが、実際に隆盛が「抱き菊の葉に菊」を用いていたことを示す資料を筆者は見たことがない。
僕はハッとした。確かに西郷隆盛が「抱き菊の葉に菊」をつけていたという資料は僕もみたことがない。ただ、現在、目に出来る家紋関係の書籍の多くには、天皇から西郷に菊花紋が下賜されたという伝については、記されているのだ。
手元にある本をいくつかめくってみると、例えば、丹羽基ニ先生の「家紋逸話事典」ではこのように書かれている。
明治のはじめ、天皇は西郷隆盛に菊紋を下賜したとの伝がある。私は鹿児島まで行き、さらに関係の方々にお伺いして真相を調べたが、記録としてはない。ただ、伝としてはある。
西郷家は、肥後の菊池氏流を称し、三つ葉菊を使用している。陛下は、とくに西郷を召され、
「汝によい紋を与えよう」
と申されて、新しい紋を考案され贈られたという。
(中略)
隆盛は恐懼(きょうく)して退下というが、家人を集め、そのいわくを話し、「この紋は、おいが戴いたのだからおい一代のものでごわす。汝らは使用してはならぬぞ」と、よくよくいましめた、という。
隆盛の言い回しまでもが、記述されているのは丹羽先生独特の愛嬌だろう。ある意味、微笑ましい。
また、楠戸義昭氏の「日本人の心がみえる家紋」にも同様にこうある。
しかし、この明治維新、十六カ弁の菊紋を臣下でもらった男がいた。西郷隆盛である。西南戦争で逆賊とされても、明治天皇の隆盛への信頼の情はあつく、その遺児にも心を痛めている。ところで隆盛はあまりに恐れ多いとしてこの下賜紋を終生使わなかった。
さらに、「家紋散策」の一文も引用しておこう。これはおそらく、先に引用した丹羽基ニ先生の書物を参照したものと思われる。
ところで、明治維新の功臣である西郷隆盛も菊花紋を賜った。それは明治天皇自らが考案されたもので、「抱き菊の葉に菊」紋であり、天皇を左右から補佐せよというものであった。隆盛は恐懼して退下し、家人を集め、そのいわくを話し「この紋は一代のもの」と戒めたという。だから子孫の家には伝わっていない。
先月、「篤姫」から「龍馬伝」に繋がる家紋ミスを深読みするというエントリーで、「龍馬伝」において、禁門の変の時点で西郷隆盛が家紋が「抱き菊の葉に菊」を使用していたことが間違っているのではないかということを書いたが、これらの箇所を総合すると、使用時期どころか、この「抱き菊の葉に菊」を西郷が使用したことがあったかどうか自体も、実は、未確認なのであった。
★
しかし、その一方でこんなことも考えてみた。
実は、僕はかねてから、西郷家の家伝の「強さ」に関して疑問を持っていたのである。それは青山霊園の西郷家の墓所にある西郷家の奥津城に「抱き菊の葉に菊」が彫られている(左図)からだ。西郷隆盛一代にのみ許された(はずの)家紋が西郷家の墓に彫られている。
これはどういうことであろうか。
もしかしたら、この「抱き菊の葉に菊」は、もともと西郷家の家紋だったのではないだろうか。
そして、さらに想像を重ねるのならば、西南戦争で賊軍の汚名を着せられてしまった西郷家が、敢えて「抱き菊の葉に菊」紋は、天皇から下賜されたという伝説を残したのかもしれない...
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冒頭に引用した高澤先生の文章は次のように続く。
(前略)西郷一族では隆盛以前にも菊花紋を用いていた様子がうかがわれ、また「抱き菊の葉に菊」は西郷家だけに見られる家紋というわけではない。
この一行は、僕の想像力をさらに喚起させてくれるがここでは内緒。
いずれにしても、家紋をネタに歴史を想像するというのは本当に楽しい。
まさむね




