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Articles in the 歴史・家紋 Category

歴史・家紋 »

[8 12 月 2011 | No Comment | | ]

今日は青山霊園で見た二つの丸に違い鷹の羽紋についてのお話です。左が明治時代の文豪・尾崎紅葉、右が同時代の実業家・日比谷平左衛門の墓所にある丸に違い鷹の羽紋です。そして、真ん中は、現代標準的な均整の取れた丸に違い鷹の羽紋です(この三つの画像は、クリックすると若干大きく表示されます)。
よく見ていただくとわかるのですが、上に乗っている方の羽の上の方の線が無いんですね。
実は、私、以前から、尾崎紅葉の鷹の羽の上の方の線が無いのは、なんらかの意味があるのではないかと、ずっと思っていたのですが、先日、日比谷平左衛門の紋も同じようなデザインであることを発見し、「あ~これは、青山霊園御用達・石工さんのオリジナルデザインかぁ」と勝手に、納得した次第です。
いや、もしかしたら、その線を数本彫らなかったというのは、手抜きかもしれません。何故なら、それによってデザイン的に秀逸になったとも思えないからです。(ただ、これらの紋が彫られて数十年経た現在、これらの鷹の羽を改めて眺めてみると、なんとも手彫りの味がありますね。)
おそらく、このようにして、家紋デザインの改変がなされ、伝統として残り、後世、名付けられていく場合もあるのではないかと私は思います。
もっとも、昨日のエントリー(「日本人にとって伝統を守るということはそれほど厳密なことではないのではないか」)にも通じるのですが、私はこうした曖昧な伝統継承の寛容さにたいしては、むしろ好意的に感じています。そして、それが日本的ですらあると感じる今日、この頃です。
まさむね

日常雑事 雑感, 歴史・家紋 »

[7 12 月 2011 | 6 Comments | | ]

最近、少し考えていることがあります。
もしかしたら、日本人にとって伝統を守るということはそれほど厳密なことではないのではないかということです。
いや、むしろ、曖昧に、いい加減に伝えて、でも、「まぁいいか!」というような、その伝え方自体が伝統ではないのかということです。
例えば、先日、青山霊園の一条実良の墓へ行きました。一条実良という方は、幕末から明治にかけての公家で、明治天皇の正妻・昭憲皇太后のお兄様にあたる方で、当時の一条家の当主、右大臣にもなっています。それで、この人のお墓には家紋が彫ってあるのですが、それが一般的に紋帳に出ている一条下り藤(一条藤 左図)とは微妙に違うんですね。
葉っぱの形状がまばらな感じではなくて、普通の下り藤紋と同様の形状でした。ただ、中央から下に垂れ下がる蔓の部分の形状は同じです。
藤原五摂家という、人臣では最高位の家柄が使用する家紋にして、このように微妙な変化を、寛容している、僕はなんとなく、そういったところに日本の文化の伝承の特徴があるのではないかと想像したのでした。
勿論、これはあくまでも想像ですので、その変化にはなんらかの意味や意図があったのかもしれませんが、とりあえず、探求はしないでおきます。
ちなみに、昭憲皇太后の名前についてこんな話があるのをご存知でしょうか。本来であったら、天皇の正妻ですから、昭憲皇后となるべきなのですが、それが内宮大臣のミスによって、皇太后になってしまったというお話です。こちらの経緯に関しては、明治神宮のHPのQ&Aコーナーでも取り上げられています。
そういえば、以前も、多磨霊園にある西園寺公望の墓の巴紋が、左三つ巴ではなく、右三つ巴であることがちょっと気になったことがありました。西園寺家の巴紋といえば、11世紀の「愚管抄」にも著されており、最も古い家紋の一つといわれているのですが、それにして、いつの間にか、左が右となっておりました。
まぁ、日本の伝統の根源たる人々ですら、こういった感じなので、私達のような一般人は、それほど、形式にこだわって伝統を守ろうとしなくてもいいのかもしれないですね。
まさむね

テレビドラマ, 歴史・家紋 »

[28 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

「江」が終了し、12月より、「坂の上の雲」の第三部が始まります。それを記念して、ドラマ主要登場人物の家紋を一覧表にしてみました。

主人公関連人物(秋山家と正岡家)

秋山真之(あきやまさねゆき)
伊予国松山

1868年4月12日 - 1918年2月4日
海軍軍人

物語の主人公。日露開戦に際し連合艦隊参謀に就任。

丸に抱き茗荷
本木雅弘

秋山好古(あきやまよしふる)
伊予国松山

1859年2月9日- 1930年11月4日
陸軍軍人

真之の兄。日本騎兵の育成に尽力する。

丸に抱き茗荷
阿部寛

正岡子規(まさおかしき)
伊予国松山

1867年10月14日 - 1902年9月19日
俳人

真之の幼馴染。日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。

丸に三つ鱗(違い鷹の羽)※剣片喰、五三桐、三つ引両という説あり。
香川照之

海軍関連人物

広瀬武夫(ひろせたけお)
豊後国竹田

1868年7月16日 - 1904年3月27日
海軍軍人

日露戦争の第二次閉塞作戦の際に戦死する。

丸に並び鷹の羽
藤本隆宏

八代六郎(やしろろくろう)
尾張国丹羽郡楽田村

1860年1月25日 - 1930年6月30日
海軍軍人

真之に稲生季子を紹介し、結婚の際には仲人を務めた。

折敷に三の字
片岡鶴太郎

日高壮之丞(ひだかそうのじょう)
薩摩国

1848年4月26日 - 1932年7月24日
海軍軍人

日露戦争直前に常備艦隊司令長官を罷免される。

割り杏葉菊に違い鷹の羽
中尾彬

東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
薩摩国鹿児島城下

1848年1月27日 - 1934年5月30日
海軍軍人

日露開戦の時、連合艦隊司令長官に任命される。

丸に蔦
渡哲也

山本権兵衛(やまもとごんべえ)
薩摩国鹿児島郡

1852年11月26日 - 1933年12月8日
政治家

日露戦争時は海軍大臣。「日本海軍の父」と呼ばれた。

抱き鬼梶の葉
石坂浩二

加藤友三郎(かとうともざぶろう)
安芸国広島

1861年4月1日 - 1923年8月24日
軍人、政治家

日露戦争開戦時の第2艦隊参謀長。後に首相(第21代)。

蛇の目
草刈正雄

島村速雄(しまむらはやお)
土佐国

1858年10月26日 - 1923年1月8日
海軍軍人

日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀長。

丸に変り三つ蔓蔦
舘ひろし

有馬良橘(ありまりょうきつ)
紀伊国和歌山

1861年12月16日 - 1944年5月1日
海軍軍人

日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀。

丸に二引両
加藤雅也

財部彪(たからべたけし)
日向国都城

1867年5月10日 - 1949年1月13日
海軍軍人

広瀬と兵学校の同期。日清戦争後、英国への留学生に選ばれる。

丸に打板
飯田基祐

伊地知彦次郎(いちじひこじろう)
薩摩国

1860年1月6日 - 1912年1月4日
海軍軍人

日露戦争時には、連合艦隊旗艦「三笠」の艦長として従軍。

丸に隅立て組み井桁
ダンカン

山下源太郎(やましたげんたろう)
出羽国置賜郡

1863年8月26日 - 1931年2月18日
海軍軍人

日露戦争開戦時、佐世保に在泊する連合艦隊に命令書を手渡す。

五瓜に唐花
鷲生功

伊東祐亨(いとうすけゆき)
薩摩国鹿児島城下

1843年6月9日 - 1914年1月16日
海軍軍人

日露戦争時の海軍軍令部総長。

庵木瓜
山野史人

鈴木貫太郎(すずきかんたろう)
和泉国大鳥郡

1868年1月18日 - 1948年4月17日
軍人、政治家

大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に大きく貢献。後に首相(第42代)。

上がり藤
赤井英和

安保清種(あぼきよかず)
佐賀県

1870年11月8日 - 1948年6月8日
海軍軍人

日露戦争時、戦艦「三笠」の砲術長を務める

丸に実付き三つ柏
土平ドンペイ

陸軍関連人物

児玉源太郎(こだまげんたろう)
周防国都濃郡

1852年4月14日 - 1906年7月23日
武士、陸軍軍人

好古在学時に陸軍大学校の教官を務める。

唐団扇笹
高橋英樹

山県有朋(やまがたありとも)
長門国阿武郡川島村

1838年6月14日- 1922年2月1日
政治家、軍人

元老。枢密院議長。陸奥・川上の根回しで日清開戦を支持する。

丸に三つ鱗
江守徹

大山巌(おおやまいわお)
薩摩国鹿児島城下

1842年11月12日 - 1916年12月10日
政治家、軍人

日清戦争では第2軍司令として好古らを率いて旅順を攻略。

丸に隅立四つ目結
米倉斉加年

乃木希典(のぎまれすけ)
武蔵国江戸

1849年12月25日 - 1912年9月13日
軍人

日露戦争では第3軍司令官として旅順総攻撃を指揮する。

四つ持ち合い井筒(市松四つ目結い)
柄本明

明石元二郎(あかしもとじろう)
筑前国福岡

1864年9月1日 - 1919年10月26日
陸軍軍人

ロシア国内の革命勢力を支援しロシアを内部から揺さぶろうと画策。

丸に撫子
塚本晋也

川上操六(かわかみそうろく)
薩摩国

1848年12月6日 - 1899年5月11日
陸軍軍人、華族

日清戦争時の陸軍参謀次長。日清戦争開戦を主導。

丸に桔梗
國村隼

伊地知幸介(いちじこうすけ)
薩摩国

1854年2月3日 - 1917年1月23日
陸軍軍人

日清戦争時は第2軍参謀副長。日露戦争では旅順攻略を実施。

三ツ盛り山
村田雄浩

森林太郎(もりりんたろう)
石見国津和野

1862年2月17日 - 1922年7月9日
小説家、軍医

第2軍軍医部長。従軍記者として清国を訪れた子規と出会う。

乱れ追い重ね九枚柏
榎木孝明

有坂成章(ありさかなりあきら)
周防国岩国

1852年4月5日 - 1915年1月12日
陸軍軍人

参謀本部技術審査部長。三十年式歩兵銃の開発に成功。

五瓜に唐花
矢島健一

長岡外史(ながおかがいし)
周防国都濃郡末武村

1858年6月23日 - 1933年4月21日
陸軍軍人

軍大学校で好古の同期。日露戦争時は参謀本部次長。

丸に一文字に剣山の字
的場浩司

奥保鞏(おくやすかた)
豊前国小倉

1847年1月5日 - 1930年7月19日
陸軍軍人

日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征。

中陰五瓜に唐花
伊吹剛

落合豊三郎(おちあいとよさぶろう)
武蔵国江戸

1861年4月7日 - 1934年3月31日
陸軍軍人

第二軍参謀長。

丸に三つ柏
伊藤祥三郎

野津道貫(のづみちつら)
薩摩国鹿児島城下高麗町

1841年12月17日 - 1908年10月18日
軍人、政治家

第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。

六つ追い丁子
宗近晴見

政府関連人物

伊藤博文(いとうひろぶみ)
周防国熊毛郡束荷村

1841年10月16日 - 1909年10月26日
政治家

日清戦争時の首相。日露戦争では外交交渉に奔走。

上がり藤
加藤剛

高橋是清(たかはしこれきよ)
江戸芝中門前町

1854年9月19日 - 1936年2月26日
政治家

日露戦争時、日銀副総裁として戦費の調達に奔走する。

三つ追い沢瀉
西田敏行

小村寿太郎(こむらじゅたろう)
日向国飫肥

1855年10月26日 - 1911年11月26日
外務大臣

外務大臣として日英同盟の締結。一方、露国との交渉も行う。

丸に揚羽蝶
竹中直人

陸奥宗光(むつむねみつ)
紀伊国

1844年8月20日 - 1897年8月24日
政治家、外交官

外務大臣。川上参謀次長と組んで日清開戦を主導する。

仙台牡丹
大杉漣

井上馨(いのうえかおる)
周防国 湯田村

1836年1月16日 - 1915年9月1日
政治家、実業家

日清戦争が起こった第二次伊藤内閣では内務大臣を務める。

桜菱(割剣酢漿草菱)
大和田伸也

桂太郎(かつらたろう)
長門国阿武郡萩町

1848年1月4日 - 1913年10月10日
陸軍軍人、政治家

日英同盟成立を推進。日露戦争開戦時の首相。

花菱
綾田俊樹

金子堅太郎(かねこけんたろう)
筑前国早良郡鳥飼村

1853年3月13日 - 1942年5月16日
官僚・政治家

憲法の起草にも携わり、「伊藤博文の懐刀」とも呼ばれる。

高崎扇
緒形幹太

松方正義(まつかたまさよし)
薩摩国

1835年3月23日 - 1924年7月2日
政治家

日露戦争に関しては積極的に開戦を主張。

抱き菊の葉に抱き茗荷
大林丈史

伊集院彦吉(いじゅういんひこきち)
薩摩藩

1864年7月22日 - 1924年4月26日
外務大臣

明治、大正時代の外交官。後に外務大臣。

丸に三方剣花菱
亀山忍

皇室

明治天皇(めいじてんのう)
京都・中山忠能邸

1867年1月30日 - 1912年7月30日
第122代天皇

外交交渉の決裂を受け日露戦争開戦の聖断を下す。

十六八重表菊(画像は靖国神社)
尾上菊之助

市井の人々関連人物

陸羯南(くがかつなん)
陸奥国弘前

1857年11月30日 - 1907年9月2日
ジャーナリスト

新聞「日本」の社長。大学在学中から子規の面倒を見ていた。

幸い菱に花菱
佐野史郎

古島一念(一雄)(こじまいちねん)
但馬国豊岡

1865年9月20日 - 1952年5月26日
ジャーナリスト

雑誌「日本人」の記者。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助。

鶴の丸
建蔵

福本日南(ふくもとにちなん)
筑前国福岡

1857年6月14日 - 1921年9月2日
ジャーナリスト

陸羯南らと共に新聞『日本』を創刊。編集者として活躍。

五三桐
小林利也

高浜虚子(たかはまきょし)
愛媛県松山市長町

1874年2月22日 - 1959年4月8日
俳人、小説家

少年期は真之を慕い、後に子規を追って東京へ出る。

九曜
森脇史登

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)
愛媛県温泉郡

1873年2月26日 - 1937年2月1日
俳人・随筆家

少年期は真之を慕う。虚子と子規門下の双璧をなす。

丸に三つ鱗
大藏教義

内藤鳴雪(ないとうめいせつ)
伊予国松山

1847年4月15日 …

歴史・家紋, 相撲/プロレス/格闘技 »

[25 11 月 2011 | 4 Comments | | ]

大相撲九州場所で、白鵬が13日目にして早くも21回目の優勝を飾りました。
ほとんどの人が場所前に白鵬の優勝を予想していたと思いますが、その予想を裏切らないのブッチぎりの優勝。圧倒的な強さと言う外無いでしょう。
これで貴乃花の持つ22回優勝の記録にあと1回となりました。北の湖(24回)や、朝青龍(25回)の記録を破るのも時間の問題でしょう。さらに、千代の富士(31回)、大鵬(32回)の記録を超える日も来るかもしれません。本当に、凄い横綱です。
おそらく、大鵬の記録を破れないケースがあるとしたら、北の湖や貴乃花のように、負傷によって休場が重なり、引退を迫られるような場合だけではないでしょうか。
ただ、現在の体調を考えるとそんなケースもあまり考えられないようにも思えます。
というのも、晩年の北の湖や貴乃花はその体重によって、動きが鈍くなったという点があったように思うのですが、現在の白鵬は理想的な体躯をキープしているからです。
今にして思えば、ちょうど貴乃花の全盛期は、曙や武蔵丸といった大型突進系の力士の全盛期と重なっており、それに対抗するため、無理に体重を増やさざるを得なかったという巡りあわせがあったように思います。それを考えると、貴乃花は、時代が悪かったのではないかと僕は思っています。
さて、白鵬ですが、その強さに関して、昨年、NHKで白鵬を科学的に分析する番組がありました。
それによると、彼の反射神経は、あのオリンピック100m走優勝者のウサイン・ボルトと遜色ないという驚異的な記録をだしていました。また、白鵬は一つ一つの動きを始める瞬間、他の力士は、反動をつけるモーションをつけないと動けないのに対して、そういったモーションをほとんどつけなくても、次の動作に入れる運動神経を持っているというような実験もなされていました。
おそらく、そのあたりが、立会いの踏み込みの良さ、巻き替えの速さといった具体的な動きとなって相撲に生きているのでしょう。
本当に、彼の天才は、ミクロの身体能力によって支えられているのです。
今日の相撲もそうでした。一時は琴欧洲が得意の右四つになったのですが、一瞬攻めあぐねている隙に、もろ差しの体勢に持ち込み、次の瞬間、頭を琴欧洲の脇の下に入れて、まるで俵返しのような下手投げで、大きな大関を転がしてしまいました。こんな芸当が出来るのも、白鵬だけではないでしょうか。
これは僕のイメージなのですが、白鵬は、相手と組んだり、突き合っている時に、相手の身体のバランスの弱点を察知し、そこを一気に攻める、そんな芸当を0コンマ何秒かで自然にやってしまっているのではないでしょうか。
例えば、七日目の豊ノ島戦だったと思うのですが、あの重心の低い豊ノ島を一発の突きで、土俵の外に出してしまいました。それは、無理矢理に力で相手を突いたというのではなく、素人の僕には、自然の摂理に従って、相手の最弱点を見切り、ソコをちょっと押したという気孔のようにも見えました。
そういえば、以前、白鵬は、アナウンサー氏の「どのような相撲をとりたいか」というインタビューに答えて、「勝たないような相撲」と答えていました。アナウンサー氏は、聞き間違えた、あるいはネイティブではない白鵬が日本語を間違えたのかと勘違いしたのか、怪訝な顔をしていましたが、まさにそれは白鵬の相撲感を正しく表現している言葉だったのだと僕は思っています。
つまり、それは無理矢理、相手をねじ伏せて勝とうとするのではなく、相手がいつの間にか負けるように持って行く相撲をとりたい、という意味だったのではなかったでしょうか。
さて、そんな白鵬ですが、今後、誰が彼に対抗するような力士になっていくのでしょうか。現時点では全くわかりません。
個人的には、白鵬とは対極の体格と力で相手をつぶすような相撲をとる把瑠都に期待をしたいのですが、どうも、いい時と悪い時の差があっていけません。
今場所も、阿覧戦、鶴竜戦で豪快な吊りや、琴奨菊戦や稀勢の里戦で力にまかせた寄りを見せた一方で、昨日の日馬富士戦では、何も出来ずに土俵を割ってしまっていました。
また、現時点で白鵬が最も苦手としている稀勢の里はどうでしょうか。
今場所は、大関捕りがかかっているためでしょうか、前半の安定した取り口が、中日の琴欧洲戦あたりからガタガタに崩れてしまいました。まだまだ精神面に課題があるのでしょうか。残念ながら、今場所は11勝しても大関は難しいかもしれません。最低10勝を残して、来場所に期待したいと思います。
さらに、数年先になるかもしれませんが、現在、平幕の栃の若や妙義龍といった新興勢力に期待するしかないのかもしれません。
まぁ勝手なことを書かせていただきました。
月並みな言い方になりますが、先ほど書いたことを繰り返させていただきます。現時点では、白鵬の最大の敵は体調ということになると思います。
ようするに、それほど凄い横綱だということですね。
最後に、白鵬の家紋についての話です。
彼は優勝パレードの時に着る紋付には必ず丸に三つ鱗の家紋(左図)をつけています。
そして、この三つ鱗紋は、鎌倉幕府執権の北条家の家紋として知られています。実際は、北条家の紋は、丸は無く、若干ひしゃげた北条鱗という紋(右図)ですが、それでも白鵬と同系統の紋であることには変りありません。
僕は以前より、白鵬がこの三つ鱗紋を付けていることに謎を見ていました。
ご存知の通り、北条家というのは、元寇を追い払った武家の紋、つまりモンゴル民族にとっては宿敵の紋だからです。
そして、一般的には、外国人力士は親方の紋を付けるのが通例のようです。例えば、把瑠都は三保ヶ関親方(元大関・増位山)の丸に違い丁子紋、日馬富士は伊勢ヶ濱親方(元横綱・旭富士)の丸に抱き茗荷紋、琴欧洲は先代・佐渡ケ獄親方の琴桜の丸に蔦紋というようにです。また、ちなみに、白鵬の親方の宮城野親方(竹葉山)、宮城野部屋創設者の吉葉山はともに、丸に三つ柏紋です。
ということは、白鵬が三つ鱗紋を付けているというのはある「意図」に基づいていると考えるべきだと思ったのです。そして、私には、その「意図」が、非常に気になったというわけです。
実は、それに関して、以前、大相撲協会に問い合わせてみたのですが、全くラチがあきませんでした。また、機会を見て確認してみたいと思います。
まさむね
2011年九州場所関連エントリー
2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤
2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)
2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話
2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

書評, 歴史・家紋 »

[19 11 月 2011 | 4 Comments | | ]

高澤等先生が書かれた「家紋歳時記」を拝読いたしました。
この本は2009年に、一年間を通して、全国の地方紙で、先生が連載された『家紋歳時記』を改訂・加筆されたものですが、様々な家紋と絡めたかたちで、日本の四季折々の習慣・文化・風俗が綴られており、その内容は驚異の一言です。
一つ一つの家紋と、そして、その背景にある日本文化への愛情が一ページ毎に、いや、一言毎に込められた珠玉の一冊と言っても過言ではないと思います。
おそらく、その愛情は、極めて正確に、過去から現在にかけて、この国土において生活を営んできた名も無き日本人達の自然や、家族、先祖、そして輩(ともがら)への愛情の深さとリンクしているのだと思わざるを得ません。
本の「はじめに」には、次のように書かれています。
多くの災害にみまわれ、経済的な行き詰まりに自信をなくした時に、日本人自らを支えるものは知らずに身にまとっていた文化であると、誰もが気づくはずれある。
勿論、これは今年の311の大震災を踏まえた言葉です。
今回の大災害を目にして、私達、日本人は、自分達の短所を、嫌と言うほど知らされました。
しかし、その一方で、私達は、まさに「日本人自らを支えるものは知らずに身にまとっていた文化」であったということも改めて確認したのではないでしょうか。
抽象的な言い方になってしまいますが、日本人のいざという時の強さは、目に見えるような経済力や技術力もさることながら、その基層に厳然と存在した無意識の文化力であったということです。
そして、その文化力というものは、大声のシュプレヒコールや単純なイデオロギーなどでは掬いきれない、まさに、人々が育んできた、あるいは時には忘れ去ってきたようなものも含めた、多様な営みの総体だということを、この264個の歳時記は、静かに、教えてくれます。
さらには、日本文化の本質とは、愛国的言説が、勢い陥りがちな、日本文化の単一性や独自性といったものよりも、寛容さ、曖昧さ、謙虚さにあるという教えも、この本の中から、ささやくように、にじみ出てくるように思われます。
例えば、【宝船】の項では、「七福神はそれぞれ、仏教、ヒンドゥー教、道教、日本土着の神々であり、宝船という一つの船に集うように乗る姿は、多くの神を受容する日本の風土だからこそ生まれ得た平和のシンボルでもある。」と書かれています。
日本人は、この【宝船】に象徴されうるような、なにかを、今こそ、振り返ってみるべきではないでしょうか。
さらに、日本文化の素晴らしいところは、先ほど述べた多様な営みというものが、決して、バラバラに存在しているわけではなく、日本人であれば、必然的に持つある種の共感(美意識)によって、暗黙のうちに理解・共有されてきたということではないでしょうか。そして私達は、この本から、皇室から庶民まで、あらゆる階層が満遍なく所有しているこの美意識の結晶が、家紋文化というものだ、という主張を読み取ることが出来るのです。
おそらく、この本は一気に通して読むだけではなく、一年をかけて、じっくりと、その季節ごとに、一ページづつ、読むべき本に違いありません。
それゆえ、この一本気新聞においても、「家紋歳時記」の具体的な内容に関して、折々に触れて語っていきたいと思います。
まさむね