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伊東忠太という建築家がいる。
明治の人だ。漱石、露伴などと同じ年代の人だ。
TBC(東京墓石倶楽部)のO君がその伊藤忠太の家紋を送ってくれた。
ただ、その家紋は僕はまだみたことのないものだ。形状は平凡なのだが、何でもない。不思議な紋である。
その伊東忠太の仕事を改めて振り返ってみると、その多作に驚かされる。
その中で注目すべきものを上げてみる(Wikiより)
1)明治神宮(1920年)
2)神田神社(1926年)
3)遊就館(1930年)
4)靖国神社神門(1933年)
5)新勝寺太子堂・開山堂(1936年)
ここで注目すべきというのは、それぞれの建物は、東京における闇の闘いの根拠地と考えている場所だからだ。
過去のエントリーでも書いているが僕は東京には闇の闘いがあると思っているのである。
そして、1)、3)、4)、5)に関しては天皇系の建物なのに対して、2)神田明神だけが反天皇系の建物なのだ。
伊藤忠太という建築家は一体、どちらに組する建築家なのであろうか。
それに関してだが、あくまでもWikiからの情報だが、その中の記述で面白いものを見つけた。
新しい建築物像を模索する中でも、神社に関しては「神霊住ます宮居であり、木造である」と述べ、神社の設計に関しては古典的なスタンスを指向していた節がある。しかしながら1926年に関東大震災で消失した神田神社復興の設計顧問(設計監督は大江新太郎)に迎えられた際には、不燃耐震化の必要性から鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用している。
つまり、伊東氏は、神田神社の設計を請負いながら、木造にしなかった。そして木造にしなかったことによって、逆に神霊を住まわせないような建物にしたとは考えられないだろうか。ということは、天皇系の伊東氏が敢えて、神田神社を請け負い、そこには神(つまり将門)が住めないような場所にしたのか...
そういえば、残念ながら僕には神田明神には聖性を感じない。それは伊東氏がその建物を木造ではなく、鉄筋にしたからかもしれないのである。
フッとそんなことを感じたのでとりあえず、本日のエントリーにしておきました。
まさむね
2011.1.13首都圏にある「京」の字がつく私鉄(京成、京急、京王)の秘密
2009.4.03 平将門魔方陣と明治政府魔方陣が交錯する都市・東京
2009.3.28 平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史
2009.3.18 東京・闇の戦いの図式 〜『東京魔界案内』を読んで〜
2009.3.15 靖国問題は将門の桔梗への怨念が起しているの(かも)
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枝野官房長官が記者会見をする画像が頻繁にテレビに映る今日この頃、彼の胸に輝く五七の桐紋が気になる人も多いようである。
この桐紋は、鎌倉時代位より、天皇家の副紋として使用されていたものであるが、その後、特に功労のあった臣下に下賜されるようになった。
後醍醐天皇が足利尊氏へ、または後陽成天皇が豊臣秀吉へ賜ったのが特に有名である。
さらに、その桐紋を下賜された者はさらに、その家臣にその紋を下賜するという、「孫下賜」「曾孫下賜」によってこの家紋は、それ以降、どんどん広まった。
また、江戸時代には、この桐紋使用に関しては特に規制がなかったということもあり、一般庶民もこの紋を使用するようになった。
おそらく、ある者はそのデザインに惹かれ、また、別の者は家やご先祖を権威付けるために、いわゆる猫も杓子もこの紋を使用したと思われる。
その意味で桐紋は、日本人の流行や権威に対しての弱さを、表している紋ということもいえるかも知れない。かくいう私の母方の紋もこの桐紋である。
さらに、この桐紋は明治時代以降、為政者を表現する紋として、政府関係機関で使用されるようになった。パスポートや、司法関連の書類等、日常生活でもこの紋を目にすることも多い。おそらく、首相官邸作業服の胸の五七桐紋、同様に鑑定のTwitterのアイコンにも使用されるようになったのである。
さて、この桐紋に関してであるが、先月僕は「「江〜姫たちの戦国〜」は痛快ではあるが、受験生にはオススメできない」というエントリーの中で、秀吉が山崎合戦の時点で桐紋を使用していることに関して疑問を提示していた。そして、NHKにも質問メールをしてみた。
すると数日前のNHKから返事のメールをいただいた。大変、丁寧なメールであった。ここにご紹介したいと思う。
いつもNHKの番組やニュースをご視聴いただき、ありがとうございます。
お問い合わせの件についてご連絡いたします。
秀吉「桐紋」については、これまでの大河ドラマでも、豊臣姓を天皇から頂く前から使用しております。
秀吉がこの桐紋をいつから使用し始めたのかについては、時代考証の先生方に以前の大河ドラマ制作の際にも調べていただいたのですが、一次史料はみつけられませんでした。
考証の先生方は、そもそも、この桐紋は天皇からいただいたものではなく、信長からもらったものではないかと考えております。信長は足利義昭を連れて上洛したあと、褒美として義昭からもらい、それを家臣に下賜しており、秀吉の桐紋はそれであると考えて、当番組では使用しています。
今後とも、NHKをご支援いただきますようお願いいたします。
お便りありがとうございました。
NHKふれあいセンター(放送)
なるほど、NHKには、今までの慣例によって使用しているということか。僕はそう思い、自宅にある本をさらにいくつか調べてみた。すると、足利義昭>織田信長>羽柴秀吉という流れで桐紋が下賜されたというように書かれている書物もあった。引用してみよう。
豊臣秀吉は、桐紋を二度与えられている。一度目は主君である織田信長から、二度目は後陽成天皇からである。
皇室、足利家に桐紋を与えていた。室町幕府の誕生の時のことである。そして足利義昭が、織田信長に桐紋を授けた。このあと信長は、主な家臣に気前よく桐紋の使用を許した。秀吉は天正元年(一五七三年)に近江国長浜城主となったときに桐紋を与えられたとされる。(179P)
「家紋に残された戦国武将五つの謎」武光誠著
秀吉の家紋は「桐紋」が有名。木下姓のときは「沢瀉紋」、羽柴姓を名乗った頃には信長から「五三桐」を与えられている。
「家紋から日本の歴史をさぐる」インデックス編集部編
ちなみに、僕は、元々誇れるような家の出ではない秀吉が、信長から桐紋を下賜された時に、自家を権威付けるためと、同時に、信長に気に入られるために喜んで使用したということはありえるのではないかと思っている。(恋人からもらった時計を、次回からその恋人と会うときに装着するという心理に近い?)
さて、僕が桐紋のことを語るときに、いつも思い至るのはこの紋が、「聖天子が出現するときに、この世に現れるといわれている鳳凰は桐の木だけに止まる」という古代シナの言い伝えから来ているということである。そして、中国の言い伝えにおける桐は、梧桐(アオギリ)なのに、日本で文様として使用された頃には、いつのまにか、白桐(しろぎり)になってしまっていたということである。そして勘違いされたまま、桐は天皇家の家紋となり、為政者の家紋として現在、官邸のマークとなっているということである。
その意味で、桐紋は、実は、大陸と日本との間に横たわる目に見えない溝(誤解)の象徴ではないかとも思えるのである。
ちなみに、朝鮮出兵(唐入り)に失敗した豊臣秀吉、アジア主義者の黒幕・頭山満、思想家・大川周明(左図)、そして大陸生まれにして一時はその世界でトップに立ちながらも、日本の習慣になじめなかった力道山(右図)や朝青龍も桐紋をその印としていた。
まさむね
上記と同じような論考は『家紋主義宣言』にもございます。←これ宣伝。
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Twitterで毎日、その日に生まれた著名人の家紋に関して紹介をしている。
本日の対象者は、プロレタリア文学者の葛西善蔵(=三つ柏紋)、政治家の椎名悦三郎(=丸に違い鷹の羽紋)、元東京都知事の東龍太郎(=丸に隅立て四つ目結紋)、明治の元老・井上馨(=桜菱紋)、詩人の伊藤整(丸に立ち沢瀉紋)、そして、幕末の佐賀藩主・鍋島直正(=抱き杏葉紋)であった。
僕は昨年の11月に佐賀に行った。その時、佐賀や肥前鹿島の街には抱き杏葉の紋が沢山あることが気になっていた。
そのことをいつか書こうと思っていたのだが、本日はちょうど、鍋島直正の誕生日なので書いてみたいと思う。
言うまでもなく、鍋島家は肥前藩(=鍋島藩)の殿様である。江戸時代、この藩は教育の厳しいことで有名であったという。藩士は弘道館という藩校での成績が悪いと家禄の八割を削られたそうだ。しかも、その藩の学問は朱子学イデオロギーに凝り固まっており、非常に窮屈だったという。
山本常朝の「葉隠」もそんな肥前の風土の中から出てきた。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という有名な文句があり、最近、評論家の青山繁晴氏などは、これは「武士道とは(他人のために)死ぬこと」であると拡大解釈をされているようだが、実は要するに、藩のために死ねということだったらしい。
先ほども述べたが佐賀には杏葉紋がいたるところにある。
佐賀城などの武家施設だけではない。例えば、肥前鹿島の祐徳稲荷神社(右画)や佐賀伊勢神社の神紋も杏葉紋であった。
しかし、その話を地元の方にしたら、「そうでしたっけ?」と言われていた。
おそらく、意識をするまでもなく自然にそうなのだろうと僕は解釈した。
さて、そんな鍋島藩の教育水準の高さが一番発揮されたのは、戊辰戦争におけるアームストロング砲と、明治政府における人材の供給であったことはよく知られている。藩によって幕末に志士としての活動を制限されていた藩士たちが活躍したのが、維新後であったのは仕方のないことであった。
実は、高杉晋作よりも大隈重信の方が早く生まれているのである。僕もそうだが、多くの人にとって、これは、ちょっと意外な事実だと思う。
そして、鍋島藩時代の詰め込み教育の反動か、その大隈重信が創立した早稲田大学は学問の自由をその精神にしていた。
ちなみに、大隈重信の紋といえば、剣花菱紋であるが、大隈講堂の門扉には、その家紋がデザインされている。
まさむね
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僕は地図を見るのが好きだ。なにか目的があるというわけではないが、たまに時間があると何時間でも地図を見ていることもある。ずっと見ていると何かが見えてくることがあるのだ。
先日も東京の地図を見ていて一つ気づいたことがあったので、ここに記しておきたい。
東京近辺には、「京」という字を使用している私鉄が三つある。
言うまでもないが、京急、京成、京王の三線である。
僕は、突然、ピンと来た。
そしてそれぞれの鉄道が出来る経緯を調べてみたのである。
時は明治の後半だ。この頃、東京郊外にある神社仏閣への参拝のために、私鉄を敷設するというブームがあったらしい。
まずは、京急。この鉄道の始まりは、川崎大師へ向かう参拝客のための電車(大師電気鉄道)であった。
次は京成。こちらも、東京からの参拝客を成田山・新勝寺へ運ぶために作られた。
そして、京王。こちらは、笹塚から調布までの電車が元であったが、その後、高幡不動を経由して薬王院のある高尾山口まで路線を延ばすのだ。
実はここで僕は「京」が名前につく私鉄は、全て、特定の寺院と東京とを繋ぐために作られた、あるいは結果として繋ぐことになったという事実を発見してしまったのである。
ここで出てくる寺院をもう一度整理してみよう。
川崎大師・平間寺
成田山・新勝寺
高尾山・薬王院
高幡不動尊
実はこれらの寺院が所属する宗派は、すべて、真言宗智山派の寺だったのである。
しかも参考までに社格はこうだ。
川崎大師・平間寺=大本山
成田山・新勝寺=大本山
高尾山・薬王院=大本山
高幡不動・金剛寺=別格本山
全てが関東地区における智山派トップの寺院なのである。
僕は以前、平将門と桔梗紋との闇の闘いのことを考えたことがあった。
平将門を土地の守り神として霊的布陣を敷いて江戸の街を守ろうとした徳川家康。
その家康の霊的布陣を靖国神社を中心として雑司が谷霊園、谷中霊園、青山霊園などの墓所によって再編成しようとした明治政府。
この徳川幕府と明治政府にそれぞれ代表される闇の勢力として、平将門の怨霊と桔梗紋者という二つが頭に浮かんだのである。
平将門派・・・平将門、徳川幕府、アメリカ、朝日新聞
桔梗紋派・・・桔梗姫、太田道灌、明智光秀、加藤清正、土岐一族、坂本龍馬、大村益次郎、靖国神社、明治政府
そんなことをマジメに考えていたのだ。
そして今回、新たに発見したのは、その一方の勢力の一つ、明治政府が、東京の外輪にある智山派寺院を「京」の字を持つ私鉄で結び、人々の信仰をそちらに向けようとしていたという事実である。
ちなみに、先ほど上げた寺院が所属する智山派寺院の正式な寺紋は桔梗紋であった。
そして、いまさら言うまでもないが、上記の中の寺院の一つ、成田山・新勝寺は、平将門調伏を目的として建てられた寺である。
まさむね
参考エントリー
2011.1.13首都圏にある「京」の字がつく私鉄(京成、京急、京王)の秘密
2009.4.03 平将門魔方陣と明治政府魔方陣が交錯する都市・東京
2009.3.28 平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史
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2009.3.15 靖国問題は将門の桔梗への怨念が起しているの(かも)
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竹田恒泰氏の「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」で一番、インパクトがあったのは次の一言である。
かつてアーノルドトインビーは「十二、三歳くらまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と書いた。民族を滅亡させるには軍隊は必要ない。ただ、神話を教えなければ、それだけで必ず滅ぶのだ。日本は戦後まさにその道を歩んできた。
じつは、この一節を思い出したのは、先日、「千と千尋の神隠し」について考えたからである。
多くの人が指摘しているがこのアニメには様々な神話の断片がちりばめられている。例えば、千尋が「向こうの世界」になじむためにはそこの食物を食べる必要があった。
それはちょうど、古事記においてイザナミが黄泉の国の食べ物を食べることによってその国でしか生きられなくなってしまったことを髣髴させる。
同様に、最後の場面で、ハクに見送られて、その「向こうの世界」から脱出するとき、ハクが後ろを振り返ってはいけないと言うが、それは、イザナギがイザナミを連れて黄泉の国から出ようとする時に、イザナミから決して振り返ってはいけないと言われるシーンと同じだ。
ちなみに、イザナギはその約束を破って振り返って、イザナミを見てしまったがゆえに、黄泉醜女になったイザナミに追われてしまうのだが、千尋は、無事に現実世界に戻ることが出来たのであった。
おそらく、宮崎監督も、神話を深く意識してこのアニメを作ったということは想像に難くない。
(※また、先日、私が書いた「「千と千尋の神隠し」の最後で、なぜ千尋は豚達の中に父母がいないことがわかったのか」というエントリーのコメントで、宮崎監督がチベットの「死者の書」に傾倒していたという話をJUN LEMONさんに教えていただいた)
ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史をもたない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う。
これは、「千と千尋の神隠し」の映画パンフレットの一節であるが、冒頭に紹介した竹田恒泰氏の話と通底している。
いずれにしても、日本人が今、必要としているものは、神話=共通の物語に違いないと僕は思う。そこには民族が元々どういった価値観を持っていたのか、どういう倫理観を持っていたのかというようなことが書かれている。
僕は暇があると「古事記」を読み返してみるのだが、最高神の天照大神が決して人格者ではないことに、いつも驚く。天岩戸の神話にしても、天孫降臨の神話にしても、そこには人格的に優れた描写は一切描かれていない。むしろ、自分勝手だったりするのだ。でも、周りの人に励まされたり、なだめすかされたりしてようやく最高神を演じるのである。
僕はそんな天照大神はなんて人間らしいのだろうと思う。そして、その人間らしい天照大神を支えようとする神々の連係プレイにこそ、集団としての日本人らしさがあるのではないかとすら思うのである。
一方で、男神のスサノウは泣き虫だったり、大国主命はマザコンのいじめられっ子だったり、ヤマトタケルは粗暴だったりと、彼らは決して人格者なんかではないところが逆に親近感とおおらかさを感じる。
戦後、公教育においては一切、そういった神話は教材とはならなくなった。勿論、僕もその経緯は知っている。ただ、そろそろ、日本人の祖先はかつて、こういう神話を持っていたという形でもいいので復活して欲しいと願うのである。
さて、日本の神話と同時に、僕が自分のテーマとして考えているのが、日本人が誰でも持っている家紋にまつわる物語をそれぞれが共有することによって、忘れられた過去を取り戻すキッカケにしたらどうだろうかということである。
最近、Twitter上で、多くの若い人が家紋に関する話題をしているのを見かける。
ここ数日間でいえば、、大河ドラマも「江 姫たちの戦国」となり、戦国武将の家紋の話がよく飛び出す。浅井家の三つ盛亀甲、織田信長の五瓜、明智光秀の桔梗、羽柴秀吉の五七の桐、それらは現代でも多くの人の家紋の中に生きている。勿論、直線的ではないにしろ、自分の家紋がそれらの戦国武将と同じあるいは類似であることを意識するだけでも、彼らの歴史の目を開かせることが出来るだろうと思う。
民族の神話、過去は、大人たちが忘れちゃいけないと危機感を感じる以上に、若い人々の内的欲求として出てきているという事実は少し救いだと思う。
まさむね




