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Articles in the 歴史・家紋 Category

歴史・家紋 »

[10 1 月 2011 | One Comment | | ]

今日は1月10日、福沢諭吉先生の誕生日である。
何故、それを知っているのかというと、実は僕は今年1月1日から、「あの人の家紋」と題して、その日が誕生日の著名人の家紋を紹介するというTwitterをはじめたからである。
ちなみに、1月8日は小泉純一郎や角川春樹、1月9日は岩崎弥太郎、そして今日は福沢諭吉、伴淳三郎、尾崎紅葉の誕生日である。
さて、福沢諭吉といえば、合理主義者としても知られている。子供の頃に、近所の神社のご神体であった石を祠から出してその辺に放り出したが、祟りもなにもなかったというようなことが「福翁自伝」に書いてあったような気がする。Wikipediaにもその「福翁自伝」から以下のような箇所が引用されていたので記しておこう。
幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした
そういえば、昨日からNHKの大河ドラマ「江 姫たちの戦国」が始まった。感想などはおいおい書かせていただくとして、第一回の放映の立役者・織田信長(豊川悦司)もこの福沢諭吉に負けず、神仏に対して合理的態度を取ったことが知られている。
例えば、巷で評判の祈祷師を城に呼んで、尋問してそのインチキをあばいたり、若い頃は近所の池に化け物(大蛇)が出るという噂を聞きつけ、自ら池に飛び込んで、そんなものは存在しなかったということを証明したりしている。
また、昨年の大河の主人公の坂本龍馬にも似たエピソードが残っている。それはこんな話だ。
龍馬が18歳の頃、念力によって神を現出するという修験者が城下にあらわれたという。龍馬はその胡散臭い男の正体を暴こうと、修験者にその神を出現させ、出てきたところを捕まえて退治したのである。言うまでもなく、その神とは、その修験者が変装していたのであった。
諭吉、信長、龍馬、いずれにしても、新しい時代の先駆者は不条理に対して、異常に潔癖な感性を持っているようだ。
それはある意味、反日本的だ。日本人はどうしても曖昧なもの、不条理なものをそのものとして認めてしまう傾向がある。勿論、これが日本的良さの源泉でもあるのだが、時代の変わり目に現れる天才には時としてこういった現実を無視する鈍感力が必要なのかもしれない。
さて、話を福沢先生に戻す。福沢先生の家紋は一般的には割り楓が知られている。複数残っている先生の肖像の紋付にはその家紋が見られるし、多磨霊園にある福沢桃介(福沢諭吉の養子)の墓にもこの割り楓紋(左)が見られる。ただ、先生の墓所である麻布の善福寺の墓所には、丸に抱き鷹の羽の紋(右)がついているのである。また、Wikipedia掲載のヨーロッパを視察して、ベルリンで撮影された写真にはまた別の紋付を着ている。一体、定紋は何なのであろうか。今度、塾職員の友人に確認してみよう。
また、僕が以前より、ささやかに疑問だったのは、福沢先生の家紋が、「割り」あるいは「抱き」であるのに、慶応義塾の校章は「違い」ペンであることだった。しかし、これは慶応義塾のHPで確認したらすぐにわかったのだ。あの校章は、「ペンは剣よりも強し」という塾のキャッチフレーズから、なんとなく学生達が決めたというのである。
まぁ、後の世に実体化される紋章の起源など、はもしかしたら、大体はこんな感じに決まるものなのだろう。
僕はそれぞれの家紋の起源に関して、あれこれと妄想するのが好きだが、現実というのは、意外に単純なのかもしれない。
最後に、福沢先生の言葉に、あまりにも有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのがあるが、僕が現役の学生の頃、南校舎の便所にあった「天は人の上に人を乗せて人を造る」という名落書きは今でも残っているのだろうか。そんなはずはないか。
まさむね

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[4 1 月 2011 | No Comment | | ]

お正月休みを利用して、いろんな本を読んでいる。
やっぱり長い休みは、次の日の朝を気にしないで本が読めるという意味でいい。
とりあえず、司馬遼太郎の作品群を手に取った。
以前より気になっていた国民作家・司馬遼太郎先生が家紋に対してどういうスタンスをとっていたのかを再確認してみたかったのである。例えば、「この国のかたち(二)」最初に「紋」というエッセイがある。その中にはこう書かれている。
家紋は、単に紋といい、定紋、紋所などともよばれる。日本のおもしろさは、家紋をもたない家ではないということである。
中国・韓国には家紋は存在せず、世界で家紋をもつ文化圏はヨーロッパの貴族社会と日本以外にはない。
この事実は日本人と家紋を考えるにあたって、第一の命題。踏まえておきたい点である。
当然、家紋主義者の僕は個人的にこの事実をもっと広く日本人に共有できたらと思っている。
司馬史観の大きな特徴は、歴史の中で自立した意識を持った人々に深く肩入れするところにある。それゆえ、平安時代の貴族などに対しては、それほど深い考察は無い。というか関心がないように思える。司馬さん的に言えば、「顔が見えない」ということだ。
それに対して、鎌倉時代、そして室町時代の武士、安土桃山時代の商人、江戸時代の職人、幕末の志士など、その時代にもっとも生き生きしていた層に気持ちが向く。
基本的に僕も共感する。僕も、家紋というものが自分達の手で土地を開拓していった自立心や冒険心の高い鎌倉武士の象徴という面に注目したいと思っている。
家紋という観点からみると、日本人らしさというのはそういった自立心であり、決して、従属心ではないように思えるのだ。
ちなみに、僕は、民主党政権が出来た時に、日本人が本来持っていた自立心を涵養する政策に期待したのだが、逆に、従属心を植えつけるような政策を進めるばかりに落胆せざるをえなかった。
司馬さんの「紋」に話を戻したい。司馬さんは室町時代の地侍と家紋を結びつけて以下のように書いている。
室町期でのあざやかな現象は、この地侍たちが本来農民でありながら家紋をもつようになったことである。またその一族郎党である惣の小農民たちも地侍と家紋を共有したり、独自の家紋をもったりした。家紋という問題を軸にしても、室町期における革命的な-というより多分に生物学的な-平均化運動の動態がうかがえる。
(中略)
社会の平均化は明治維新で成立したとはいえ、その遠くは、室町時代や惣の農民が紋章をもちいるようになったことに源流があるといってもいい。
つまり、司馬さんには、明治時代に日本が世界に飛躍したその基底部分に、「世界で唯一、庶民が家紋というものを持った日本人」という視点があるのだ。
そして、極言するならば、家紋というものは社会階層をダイナミックに混ぜっ返すようなパワーのを秘めていたということなのである。
これは、勝ち組、負け組というような社会階層の固定化にあえぐ人々に勇気を与えてくれる新しい視点だと思う。
それにしても司馬さん自身の家紋は何なのだろうか。
場所は忘れてしまったが、どこかにご自身の家紋はレアであること、赤穂四十七士のうち誰かの家紋と同じであることが書かれていたように思う。
そして、司馬遼太郎記念館にも電話をさせていただいたがご存じないという。
う~ん、ちょっと残念。
まさむね

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[31 12 月 2010 | No Comment | | ]

稲は、古来、日本人の主食であり、その生育をあずかる神は信仰に対象でもあった。
皇室の行事には稲の生育に関するものが多いのは日本人と稲との結びつきの深さを表している。
また、稲は、「実るほど、首を下げる稲穂かな」と言われるように、日本人の謙虚さの象徴もある。
全国にあるお稲荷さんの神紋。全国のお稲荷さんの境内の旗指物には必ず稲紋が見られる。
また、稲紋は、熊野権現の流れを汲む鈴木氏の代表紋でもある。それゆえに、鈴木姓の多い静岡県を中心に東海地方に多く見られる。
尺振八。1839年 - 1886年11月28日、教育者、英学者。
江戸佐久間町生まれ。幕府に出仕し遣欧使節団に翻訳方として同行した。予備校・共立学舎を両国に創設した。その後、大蔵省に出仕し、翻訳局長となる。「社会学」という言葉を初めて使用した。家紋は包み抱き稲紋。青山霊園の墓所にて撮影。

穂積陳重。1856年8月11日 - 1926年4月7日、司法官。
愛媛県宇和島市出身。読みは、ほづみのぶしげ。穂積家は伊達家譜第の家臣。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。民法典の起草にあたり枢密院議長も務める。家紋は変り抱き稲の丸紋。画像は谷中霊園にある義妹・穂積郷子墓で撮影。

珍田捨巳。1857年1月19日 - 1929年1月16日、外交官、侍従長。
弘前藩士珍田有孚の長男として弘前で生まれる。皇太子(のちの昭和天皇)の訪欧に際して訪欧供奉長となる。日露戦争後の講和条約締結交渉で小村寿太郎を補佐する。裕仁親王が即位3か月後に侍従長に就任。家紋は抱き稲紋。青山霊園の墓所にて撮影。

大佛次郎。1897年10月9日 - 1973年4月30日、作家・小説家。
本名:野尻清彦。神奈川県横浜市英町10番地の宮大工の家に生まれた。「大佛次郎」のペンネームは鎌倉大仏裏に住んでいたところから来る。『鞍馬天狗』シリーズの作者として有名。画像は鎌倉、寿福寺の墓所にある稲の丸紋。

田波靖男。1933年12月12日 - 2000年3月21日、脚本家・作家。
東京出身。ペンネームに「梅野かおる」「大井みなみ」がある。『ニッポン無責任時代』等、クレージーキャッツの映画の脚本を多数手がける。また、『青春とはなんだ』『太陽にほえろ!』等多くの人気テレビドラマの脚本も執筆。家紋は抱き結び稲紋。

藤村有弘。1934年3月6日 - 1982年3月16日 、俳優・声優。
東京府東京市神田区出身。喜劇役者として映画などで個性的な役柄を演じた。代表出演作は『日本一の男の中の男』『クレージーの大爆発』。『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョの声やインチキ外国語の芸で一世を風靡。家紋は包み抱き稲紋。

神田山陽(3代目)。1966年1月14日 - 、講釈師。
北海道常呂郡留辺蘂町出身。本名は稲荷啓之。落語芸術協会会員。文化庁芸術祭演芸部門新人賞受賞。2002年8月に真打となり、3代目 神田山陽を襲名。また、「にほんごであそぼ(NHK教育テレビ)」に出演し一躍、有名となる。家紋は稲荷抱き稲紋。
まさむね

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[31 12 月 2010 | One Comment | | ]

東北地方では、死者が出た家の門に、木を違えて立て、死者封じをしたという。
バッテンは洋の東西を問わず、死の世界と生の世界、異界と現実などを区切る印として用いられている。
また、藤原秀郷の百足退治伝説が家紋化した。棒は矢が簡略化したものと言われている。
二本松藩の丹羽氏の紋として有名だが、その由来は、丹羽氏の祖・長秀が血のついた刀を拭った紙を見た秀吉が、そのバッテンを家紋にするようにと命じたという伝説が伝わっている。
丹羽長秀。1535年10月16日 - 1585年5月15日、武将・大名。
尾張国春日井郡出身。丹羽長政の次男。信長の家臣として長篠の戦いや越前一向一揆征伐などで功を挙げる。本能寺の変後は秀吉派につく。江戸時代は代々二本松藩主として生き残る。家紋は丹羽違い木。画像は青山霊園の丹羽家墓所にて撮影。

遠山金四郎景元。1793年9月27日 - 1855年4月15日、旗本。
明知遠山氏の分家六代目にあたる。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。正式名は遠山左衛門尉景元。江戸北町奉行を務める。時代劇『遠山の金さん』のモデルとして知られる。家紋は九字直違紋、丸に二引き両紋。画像は巣鴨の本妙寺にて撮影。

広沢真臣。1834年2月7日 - 1871年2月27日、政治家。
長州藩士・柏村安利の四男として誕生(幼名は季之進)。大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力。維新の十傑の1人。維新後に刺客の襲撃によって暗殺された。『広沢真臣日記』は幕末維新史の一級資料として評価が高い。家紋は変り組違い棒紋。

丹羽基二。1919年9月5日 - 2006年8月7日、苗字研究家。
栃木県佐野市出身。國學院大学で柳田國男、折口信夫らに師事した。全国の100万基の墓を巡る。日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表 。家紋、墓、仏足石、紋様などの研究も行う。代表作品『日本の伝統紋様』『お墓のはなし』『日本苗字大辞典』。

大川橋蔵(2代目)。1929年4月9日 - 1984年12月7日、時代劇俳優。
柳橋の芸妓の子として生まれ小野家の養子となる。本名は丹羽富成。六代目尾上菊五郎の妻・寺島千代の養子となり、その実家の丹羽姓を継ぐ。『銭形平次』はあたり役として18年間シリーズが続く。家紋は丸に違い棒紋。画像は雑司が谷墓地にて撮影。
まさむね

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[31 12 月 2010 | No Comment | | ]

大陸から伝来した架空の花を紋章にしたのがこの唐花。
四弁の唐花は、花菱、花角ともいわれており、木瓜紋の中にも描かれている。
このページでは、四弁の唐花は扱わない。
宮崎県で22位、奈良県で27位、高知県で28位というのが比較的多いところ。
渋川春海。1639年12月27日 - 1715年11月1日、天文暦学者。
幕府碁方の安井算哲の子として京都四条室町に生まれた。初代幕府天文方に任ぜられ碁方は辞す。以降、天文方は世襲となる。地球儀、天球儀、渾天儀、百刻環などの天文機器を作成。画像は東京都品川区の東海寺の墓所にて。

伊能忠敬。1745年2月11日 - 1818年5月17日、測量家。
上総国山辺郡小関村出身。名主・小関五郎左衛門の子。測量・天文観測などを修めた後、17年をかけて全国を測量し精度の高い日本地図・「大日本沿海輿地全図」を作成。家紋は唐花紋と丸に鷹の羽紋。画像は上野・源空寺にて撮影。

税所篤。1827年12月22日- 1910年6月21日、武士、官僚。
薩摩藩士・税所篤倫の二男。若くして国学者・平田篤胤の門下となる。勘定所郡方に任じられ戊辰戦争では新政府軍の軍事費などの財政処理を務めた。関西の各県令・知事、霧島神社宮司を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋。画像は青山霊園にて撮影。

山内勝明。1848年 - 1912年、外交官、宮中顧問官。
幕臣として江戸に出生。パリ万国博覧会に出席する将軍名代徳川昭武に随行。維新後は明治政府に出仕。陸軍、外務省で勤務を行う。その後は宮内省に入り大膳亮・式部寮御用掛・式部官・宮中顧問官を歴任。家紋は三つ割唐花紋。青山霊園にて撮影。

南里文雄。1910年11月24日 - 1975年8月4日、トランペット奏者。
大阪市南久宝寺町生まれ。終戦後、ホットペッパーズを結成。ハナ肇、市村俊幸などがメンバーとして名を連ねた。「日本のサッチモ」と呼ばれた。ジャズの賞「南里文雄賞」は彼の名前に由来している。家紋は丸に唐花紋。画像は鎌倉霊園で撮影。

中村主水。江戸時代後期、江戸町奉行所の架空の同心。
職業は江戸町奉行所の同心。時代劇・必殺シリーズに登場する藤田まこと演じる侍。妻・りつ、姑・せんと三人で暮らす婿養子で、子供はいない。奥山神影流、御嶽新影流、小野派一刀流、一刀無心流の免許皆伝。奉行所では『昼行灯』を決め込んでいる。
まさむね