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歴史・家紋 »

[19 1 月 2009 | One Comment | | ]
橘紋 -桜とは好対象、生命力と長寿の象徴-

平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右には橘の樹、左には桜の樹があった。
一般に、右近の橘、左近の桜と対比される。
桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方、橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。
橘という植物は柑橘類、和歌山県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に自生している。
橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。
和歌山県、高知県で3位、奈良県、広島県、宮崎県で4位とやはり橘が自生している地域に広く分布している。特に、黒岩涙香、幸徳秋水、弘田龍太郎、朝潮など、高知県人の多さが目立つ。
歴史上で、橘紋と言えば有名なのは、日蓮。
1222年の安房国長狭郡東条郷片海の小湊で誕生。
比叡山で学び、後に「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、日蓮宗の開祖となった。
そのため、日蓮宗関係の寺院では、この橘紋を使用するとところが多い。
写真は、谷崎潤一郎が眠る慈眼寺の寺門の井桁に橘紋を撮影したもの。
日蓮宗系の立正佼成会の関連施設である佼成学園の記章にも橘紋が使用されている。
また、奈良飛鳥地方に、聖徳太子生誕の地・橘寺があるが、そこの寺紋も橘紋だ。
そもそも、日本書紀によると、この橘とは、田道間守(たじまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めて持ち帰った種をまいて芽が出てきた植物であった。
そして、その種をまいた地を橘と呼ぶようになっとのこと。
その橘寺には、聖徳太子が乗ったという黒駒像があり、胴に橘紋がついていた。
日蓮、山中鹿之助、井伊直弼、勝新太郎、江川卓、小和田家、北島康介...なんとなく、意志の強い系譜を感じさせる。
さて、橘紋を持つ有名人は以下。
宇佐美定満。1489年 - 1564年8月11日、戦国時代の武将。
宇佐美氏は伊豆国宇佐美荘から出た一族である。
越後上杉氏の家臣。上杉謙信の軍師「宇佐美定行」の名で知られる。
坂戸城近くの野尻池で政景と共に溺死し、死後に宇佐美氏は没落して枇杷島城も廃城になった。上杉二十五将、上杉四天王の一人であり、後世に越後十七将に数えられる。

前田玄以。1539年 - 1602年7月9日、僧侶・武将・大名。
前田基光の子として美濃で生まれる。
比叡山延暦寺に入ったが、織田信長に招聘されてその家臣となる。
後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。
豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主である。

山中鹿之介。1545年9月20日 - 1578年8月20日、武将。
出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。
尼子氏の家臣。 本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。

山鹿素行。1622年9月21日 - 1685年10月23日、儒学者・兵学者。
陸奥国会津(福島県会津若松市)に生まれる。
朱子学を批判し、播磨国赤穂藩へ流罪となり、赤穂藩士の教育などを行う。
後に、吉田松陰等に影響を与えた。
主著は『中朝事実』『武家事紀』等。

井伊直弼。1815年11月29日 - 1860年3月24日、江戸幕府の大老。
第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城で生まれる。
安政の大獄により多数の志士や公卿らを粛清。
尊攘派の怨嗟をうけ、安政7年(1860年)3月3日に水戸藩、薩摩藩浪士により、江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。

沖牙太郎。1848年5月10日 - 1906年5月29日、技術者・実業家。
広島県沼田郡新庄村に生まれる。
実家の農業を嫌い27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。
我が国で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。
明工舎(沖電気の前身)創業者。

黒岩涙香。1862年11月20日 - 1920年10月6日、作家、翻訳家、探偵小説家、報道記者。
土佐国安芸郡川北村大字前島に生まれる。
『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊。紙名には「よろず重宝」の意味がかけられていた。
幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが参画し、一時は東京一の発行部数を誇り、最大発行部数は30万部となった。紙面で『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』等を翻訳発表する。

幸徳秋水。1871年11月5日 - 1911年1月24日 、ジャーナリスト、思想家、アナキスト。
高知県幡多郡中村町に生まれる。本名は幸徳傳次郎。
中江兆民の門弟となり、黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は幸徳秋水が書いた。無政府主義に傾き、大逆事件(幸徳事件)」において逮捕。翌年に死刑判決を受ける。

本因坊秀哉。1874年 6月24日- 1940年1月18日、囲碁の棋士。
東京都出身。本名は田村保寿(やすひさ)。
家元本因坊家の21世で、終身名人制の最後の名人。法名は日温。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。
画像は本妙寺にて撮影。家紋は、三つ葉橘。

(十五代目)市村羽左衛門。1874年11月5日 - 1945年5月6日、歌舞伎役者。
本名は市村録太郎。屋号は橘屋。家紋は根上り橘。東京生れ。旧福井藩主で、幕末には幕府政事総裁職の池田絲とフランス系アメリカ人との混血。
当時を代表する美男子で、そのあまりもの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。『義経千本桜・すし屋』のいがみの権太、、助六、『勧進帳』の富樫などが主な当り役。

弘田龍太郎。1892年6月30日 - 1952年11月17日、作曲家。
高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった。
児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、「赤い鳥運動」に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲した。代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『春よこい』『叱られて』など。
家紋は丸に橘。

井伏鱒二。1898年2月15日 - 1993年7月10日、小説家。
広島県福山市加茂町の生まれ。本名は、井伏満壽二(いぶし ますじ)。
『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞。『本日休診』などで第1回読売文学賞小説賞。
1966年、野間文芸賞を受賞。同年に文化勲章も受章した。
主な作品は「山椒魚」「駅前旅館」「黒い雨 」など。

三遊亭圓生(6代目)。1900年9月3日 - 1979年9月3日、落語家、舞台俳優。
父は松田万助、母はさだの長男として、大阪市西区で生まれる。本名は山崎松尾。
演目数は落語史上最も多かったのではないか言われている。100以上もの演目をすべてLP化した。上野のパンダのリンリンと同日に亡くなったため、死亡記事は小さかった。
NHK連続ドラマ『おはなはん』等に出演。「バカウマ」という言葉を流行語にする。

高橋掬太郎。1901年4月25日 - 1970年4月9日、作詞家。
北海道根室市出身。北海道の国後島で漁師の息子。
「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー。その後も、昭和の名曲を数多く手がけた。
代表曲『酒は涙か溜息か』『船頭可愛や』『ここに幸あり』等。
家紋は丸に橘紋。画像は小平霊園の墓所にて。

ジョージ川口。1927年6月15日 - 2003年11月1日、ドラム奏者。
京都市出身。本名は川口譲二。終戦直後、松本英彦、中村八大、小野満と共にバンド「ビッグ4」を結成して活躍。大衆的人気を誇った。越路吹雪のバンド「ロイヤルポップスオーケストラ」のドラムとしても活躍。日本のジャズメンの中でも極め付きの「ほら吹き」として知られた。
芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章などを受賞している。

花形敬。1930年 - 1963年9月27日、ヤクザ、安藤組大幹部。
千歳中学校を自主退学。国士舘中学校において後の住吉会住吉一家石井会会長・石井福造と番長争いを演じた。
安藤組組長・安藤昇にもっとも可愛がられた。前科7犯、22回の逮捕歴がある。「素手喧嘩(ステゴロ)」と呼ばれ、喧嘩に武器は一切持たない主義であったという伝説がある。

勝新太郎。1931年11月29日 - 1997年6月21日、俳優。
長唄三味線の杵屋勝東治の次男。本名:奥村利夫、愛称:かつしん。
妻は二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。
映画関係者には勝の熱狂的ファンは多く原理主義的傾向を持つ信奉者が多い。
代表作は『兵隊やくざ』『座頭市』『悪名』『顔役』『人斬り』など。家紋は菊座橘。

池坊専永。1933年7月21日 - 、華道家。
華道家元四十四世池坊専威の長男。妻は衆議院議員の池坊保子。もともと池坊の坊名は、聖徳太子が水浴したという池にちなんでつけられた。国際科学技術博覧会で「いけばなときものの交響詩」で舞台用の超大作を制作する。全国に広がる池坊家の華道教室『橘会』は家紋の橘紋からと思われる。画像は鎌倉・東慶寺の東池坊家の墓所にて撮影。

梅若万三郎。1941年 - 、シテ方観世流能楽師。
1941年、梅若万三郎 (2世)の長男として生まれる。本名万紀夫。
1997年、大阪文化祭本賞受賞。2001年、三世梅若万三郎を襲名。
1967年、第一回日本能楽団欧州公演に加わって以来、積極的に海外公演を行っている。
家紋は丸に橘紋。画像は品川・海晏寺の梅若家墓所にて撮影。

三遊亭楽太郎。1950年2月8日 - 、落語家。
東京都墨田区出身の落語家。円楽一門会所属。
師匠の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名予定。
1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。
家紋は、圓楽一門の定紋である三ツ組橘。(六代目三遊亭圓生と同じ形)

江川卓。1955年5月25日 - 、元プロ野球選手(巨人所属)、野球解説者。
福島県いわき市生まれ、栃木県小山市育ち。
作新学院高等学校のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回を記録。六大学野球では、法政大学で、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録。プロでは1981年に、最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振、最多完封の投手五冠に輝く。

朝潮太郎 (4代)。1955年12月9日 - 、元大相撲力士。
高知県安芸郡出身。本名は 長岡末弘。
高砂部屋所属。最高位は大関。北の湖に強かった。
現在は7代目高砂親方として協会役員待遇委員兼審判部副部長。
横綱朝青龍、朝赤龍等を育てた。

徳仁親王妃雅子。1963年12月9日 - 、皇太子徳仁親王の妃。
外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門病院にて誕生。
1993年6月9日、皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる。
2001年12月1日、敬宮愛子内親王を出産。
写真は、雅子様、ご先祖の墓参りの際の写真より転載。

琴光喜啓司。1976年4月11日 - 、佐渡ケ嶽部屋所属の現役大相撲力士。
愛知県岡崎市出身。本名は田宮啓司(たみや けいじ)。
最高位は東大関。
敬宮愛子内親王のお気に入り力士としても有名。
デヴィ夫人からは化粧回しが贈られている。

北島康介。1982年9月22日 - 、男子競泳の選手。
東京都荒川区出身で、実家は西日暮里の道灌山通りにある精肉店「肉のきたじま」(株式会社北島商店)を経営。アテネオリンピック並びに北京オリンピック100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。また、100m及び200m平泳ぎの世界記録保持者。
画像は実家の北島商店名物のメンチカツサンドのパッケージについた橘紋。

豪栄道豪太郎。1986年4月6日 - 、境川部屋の大相撲力士。
大阪府寝屋川市出身。本名は、澤井 豪太郎。家紋は丸に橘。高校では高校横綱、世界ジュニア相撲選手権大会無差別級優勝など11個の個人タイトルを獲得。小結・両国の境川部屋に入門し、高校卒業を待たずに2005年1月場所に初土俵を踏んだ。
2009年5月場所に新関脇となる。
まさむね

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[19 1 月 2009 | No Comment | | ]
沢瀉紋 -武人の心に芽生えた一時の優しさを表す紋-

沢瀉は、全国の池や沼に自生する水草のこと。
戦国時代の武士。それこそ、地を這いずり回りながら戦いに明け暮れていた。
そんな時に、ふと水辺の水草にある沢瀉に目をやる。一時のやすらぎの時間だ。
あの毛利元就も、若い頃、出陣の際に沢瀉に蜻蛉が止まったのを見て「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍を鼓舞したというが、それを元に、この植物を紋として採用したという。
いずれにしても、猛々しい武人の心に芽生えた優しさ、そんなロマンチックな想像をさせてくれるのが、この沢瀉紋である。
全国的には、17位。長野県で5位、山梨県で7位。群馬県で8位。栃木県、愛知県、岐阜県で10位。
日本の中央部分の山間部に多いようである。
毛利元就。1497年4月16日 - 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。
安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。
家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。

福島正則。1561年 - 1624年8月26日、武将・大名。
福島正信の長男として現在の愛知県海部郡美和町で生まれる。
幼少より秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いのときは一番槍として大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた。
九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。家紋は福島沢潟。

水野忠邦。1794年6月23日 - 1851年2月10日、大名・老中。
唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位。その後、老中首座に抜擢され、天保の改革(人返し令、株仲間の解散、上知令)を断行しようとするが各方面からの反対に逢い、失敗。強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。

高橋是清。1854年9月19日 - 1936年2月26日、第20代内閣総理大臣。
嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。
大蔵大臣の際に、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。
二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺された。

前田慧雲。1855年3月2日 - 1930年4月29日、学僧、教育者。
伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身。
尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となる。
東洋大学(明治39年)、龍谷大学(大正11年)の学長を歴任。
主著は『大日本続蔵経』『大乗仏教史論』『仏教思想講話』など。

中島力造。1858年 - 1918年、倫理学者。
新島襄の要請を受けて学農社の教師として中島を東京に送り出す。
第一高等学校講師を経て帝国大学文科大学教授に就任。
倫理学の拡充を図り、倫理学の学としての独立性を確立した。
家紋は丸に立ち沢瀉紋。雑司が谷霊園にて撮影。

穴水熊雄。1880年 - 1958年、実業家。
山梨県出身。旧姓は興水。穴水家の養子となり実家を継ぐ。
刻苦と努力を重ね、大日本電力株式会社社長、更に京王電気軌道株式会社(現・京王電鉄)社長となる。沿線の乗客誘致政策が積極化し、桜上水駅、聖蹟桜ヶ丘駅、高幡駅→高幡不動駅などの駅名変更を行う。経営した事業は二十数社に及んだ。家紋は、丸に立ち沢瀉紋。

鶴見祐輔。1885年1月3日 - 1973年11月1日、官僚・政治家・著述家。
岡山県生まれ。旗本水谷氏備中布賀知行所代官鶴見家の子孫。
1953年に参議院議員に当選し1期務めた。第1次鳩山内閣では厚生大臣に就任した。
鶴見和子(社会学者)・鶴見俊輔(哲学者)の父親としても知られている。主な著作は『母』『ナポレオン』など。

高碕達之助。1885年2月7日 - 1964年2月24日、政治家・実業家。
大阪府高槻市で百姓兼紺屋に7人兄弟の3番目として生まれた。
電源開発総裁に就任。満州重工業開発総裁に就任。
鳩山一郎内閣で経済審議庁長官・通商産業大臣を務めた。初代経済企画庁長官に就任。
岸信介内閣でも通商産業大臣・経済企画庁長官・科学技術庁長官を兼任して入閣。

宮崎郁雨。1885年4月5日 - 1962年3月29日、歌人。
新潟県北蒲原郡出身。本名は宮崎大四郎。石川啄木夫人の義弟にあたる。石川啄木の死後、函館図書館啄木文庫を設立。『函館の砂-啄木の歌と私と-』『函館と啄木』等、啄木関連の著作多数。函館の社会事業の功労者として、函館厚生院相談役なども務める。
この略歴では、歴史が眠る多磨霊園を参照させていただきました。

古川緑波。1903年8月13日 - 1961年1月16日、コメディアン。
男爵加藤照麿の六男(元東京帝国大学総長加藤弘之の孫)として生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。
1933年浅草で夢声らと劇団「笑(わらひ)の王国」を旗揚げ。
喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称せられる。

伊藤整。1905年1月16日 - 1969年11月15日、評論家、詩人、小説家。
北海道松前郡に生まれ、1906年に塩谷村(現在の小樽市塩谷町)へ移住。
20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。私小説的文学の理論化をめざす。
代表小説は『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』などがある。

水田三喜男。1905年4月13日 - 1976年12月22日、政治家。
千葉県曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐から移住。
大蔵大臣を数度に渡って務め、戦後日本の代表的な財政家である。
1965年に城西大学を創立した。
家紋は沢瀉に水。

赤尾好夫。1907年 - 1985年、出版人、放送人。
山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)出身。
歐文社(現在の旺文社)を設立。文化放送や日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)の創業や、放送大学の設立にも貢献。射撃においてはアジア大会や世界選手権に出場するほどの腕前。
画像は、多磨霊園の墓所にて撮影された丸に立ち沢瀉紋。

横井庄一。1915年3月31日 - 1997年9月22日、元日本兵。
愛知県海部郡富田村(現:名古屋市)出身。
大東亜戦争のため再召集され、満州を経て、グアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属。
太平洋戦争終結から28年目、グアム島で地元の猟師に発見された。
帰国の際の第一声は「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」。

内田るり子。1920年8月8日 - 1992年5月1日、声楽家。
東京出身。本名は内田留里子。父は応用化学者の内田壮。
童謡歌手として『待ちぼうけ』雨降りお月』等を歌う。
国立音楽大学教授、日本歌謡学会理事、東洋音楽会監事等も務める。
この略歴では、歴史が眠る多磨霊園を参照させていただきました。

荻昌弘。1925年8月25日 - 1988年7月2日、映画評論家。
東京都出身。開成高等学校を経て東京大学文学部国文学科卒業。
TBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者を長年務めた。
長年日本レコード大賞の審査員を務めた。
食通としても知られ、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。

天知茂。1931年3月4日 - 1985年7月27日、俳優。
愛知県名古屋市出身。本名、臼井 登。
ニヒルの代表格で、死後20年以上経っても「ニヒルといえば天知茂」といわれている。
代表出演作は『ザ・ガードマン』『非情のライセンス』『土曜ワイド劇場』等
家紋は丸に抱き沢瀉だが、これは旗本・水野十郎左衛門の子孫だからか。

若林正俊。1934年7月4日 - 、政治家。
長野県長野市(旧篠ノ井市内)出身。家紋は丸に抱き沢瀉紋
安倍内閣で環境大臣(8代)、農林水産大臣(44代、46代、47代)。
不祥事を起こした農林水産大臣の後のリリーフ役としてのイメージが定着。
2009年9月16日に行われた内閣総理大臣指名選挙で自民党の首班候補となる。
まさむね

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[19 1 月 2009 | No Comment | | ]
目結紋 -人と人との団結の強さの象徴-

目結とは、人と人との団結を意味する。
もともとは、コウケチという染めかたの事を目結染と言った。そこから来ている。
目結紋は、宇多源氏=近江源氏・佐々木一族の代表紋として知られているが、それは同時に一族の結束の強さをも表現しようとしていたのである。
絆への願望というのは現代の一つのテーマである。
それは、崩れつつあるものへのノスタルジーではないか。
そのノスタルジーは、この紋が持っている、無骨な安定感へのそこはかとない親しみに通じているようにも思える。
この紋は、全国で10位。特に青森県、岩手県で2位、宮城県で3位、北海道で4位。
これらの地域は、佐々木一族が移り住んだ地である。
逆に少ないところは、山梨県、愛媛県で19位。長野県で18位、兵庫県、岡山県で17位。
有名人では以下。
佐々木道誉。1296年 - 1373年9月12日、南北朝時代の武将。
近江国の地頭である佐々木京極氏に生まれる。家紋は、四つ目結紋。
外祖父である佐々木宗綱の後を継いで家督を継承する。
南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされる。
『太平記』(NHK大河ドラマ)では、陣内孝則 が演じた。

尼子経久。1458年12月25日 - 1541年11月30日、武将・大名。出雲守護代。
尼子清定の嫡男として生まれる。幼名は又四郎。本姓は源氏。
室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領、勢力を広げる。
一代で尼子氏を中国地方11ヶ国の太守にのしあげた。
家紋は平四つ目。

佐々成政。1536年2月6日 - 1588年7月7日、武将。
佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族。
織田信長に仕え、馬廻りから戦功を重ねて頭角を表す。
九州平定で功をあげたことを契機に、秀吉から肥後国一国を与えられたが統治に失敗し改易される。家紋は隅立て四つ目、棕櫚。馬印は金の三階菅笠。

京極高次。1563年 - 1609年6月4日、武将、大名。
名門京極氏に生まれる。豊臣秀吉の側室である淀殿の妹である妻・初の七光りで出世した事から蛍大名とささやかれた。
関ヶ原の戦いの際には居城の大津城に篭もり、一万を超える西軍を引き付ける。
若狭国小浜藩初代藩主。丸亀藩京極家初代。家紋は平四つ目。画像は墓所。

木村重成。1593年 - 1615年6月2日、武将。
木村重茲の子とも言われている。
母、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。
家紋は四つ目菱。

佐々木小次郎。生年不詳 - 1612年5月13日、剣客。
豊前国田川郡副田庄に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる。
「秘剣燕返し」は福井市にある一乗谷で身につけ、中条流富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。
宮本武蔵と巌流島(船島、山口県下関市)で決闘し、敗死したとされる。

桂昌院。1627年 - 1705年8月11日、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室。
京都の大徳寺付近で産まれる。大根売りの妹、畳屋の娘等の説もある。兄の北小路道芳は後に本庄姓を賜る。御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、綱吉を産んだ。
女性最高位の従一位の官位を賜る。家紋は、繋ぎ九つ目。

堀部安兵衛。1670年- 1703年3月20日、赤穂浪士四十七士の一人。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男。
四十七士の中では一番の剣客で、大石内蔵助に匹敵する人気を誇る人物。
江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格だった。
家紋は家紋は捻り四つ目二ツ。

間宮林蔵。1780年 - 1844年4月13日、探検家。
常陸国筑波郡上平柳村の農民(そして幕府隠密をつとめた役人)の子に生まれる。
近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
樺太が島である事、すなわち、間宮海峡を発見。
水戸藩へも出入りし、川路聖謨らと交友。徳川斉昭や藤田東湖にも献策。

津田真道。1829年7月25日 - 1903年9月3日、官僚、啓蒙学者。
美作国津山藩林田の生まれ。佐久間象山に兵学を学ぶ。
幕府の目付役になり、大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想。
福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと明六社を結成。
1896年(明治29年)に勅選貴族院議員となる。男爵、法学博士。

佐々木高行。1830年11月26日 - 1910年3月2日、土佐藩士、明治時代の政府高官。
土佐国吾川郡瀬戸村生まれ。藩主山内豊信の側近として藩政をリードし、大政奉還の建白について協議している。
岩倉使節団の一員として欧米各国に渡り、その後、宮中や元老院を舞台に谷干城・元田永孚らともに「天皇親政運動」を主導した。家紋は隅立て四つ目結紋。

加藤弘之。1836年8月5日 - 1916年2月9日、政治学者。
但馬国に、出石藩士加藤正照、錫子の長男として生まれる。
福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、西村茂樹、津田真道らと、明六社を結成。
はじめは啓蒙思想の傾向が強かったが、後に社会進化論の立場をとるに至った。終生唯物論者であった。哲学館(現東洋大学)創立時の顧問。

大山巌。1842年11月12日 - 1916年12月10日、政治家、元老、軍人。
薩摩国鹿児島城下加治屋町に生まれた。家紋は丸に隅立四目結紋。
西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。
陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内務大臣なども歴任。
陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが総理大臣就任は避け続ける。

箕作麟祥。1846年9月19日 - 1897年11月29日、啓蒙思想家、法学者。
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸に生まれた。
東京学士院会員・元老院議官・法典調査会主査委員・貴族院議員等を歴任。
ナポレオン法典を5年間の歳月をかけて全訳した『仏蘭西法律書』が著名。
家紋は平四目。

上原勇作。1856年12月6日 - 1933年11月8日、軍人。
日向国都城出身。都城島津家家臣・龍岡資弦の次男として生まれる。
1875年、上原家の養子となる。1881年に渡仏、フランス陸軍に学び、工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて経験した。家紋は隅立て四つ目結。

植木枝盛。1857年2月14日 - 1892年1月23日、自由民権運動の理論的指導者。
土佐国土佐郡井口村出身。土佐藩士・植木直枝の子。
私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。
著作に『民権自由論』『言論自由論』などがある。
家紋は、丸に剣三つ目紋。画像は青山霊園にて撮影。

佐佐木信綱。1872年7月8日 - 1963年12月2日、歌人、国文学者。
三重県鈴鹿郡石薬師村にて歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。
息子の佐佐木治綱も歌人。同じく歌人の佐佐木幸綱(俵万智の師匠)は治綱の息子。
与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。
岩波文庫『新訓・万葉集』、『新古今和歌集』等の編者。

田部重治。1884年8月4日 - 1972年9月22日、英文学者・登山家。
富山県富山市生まれ、旧姓は南日。
登山家として日本アルプス、秩父山地を歩き、『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行。
後に『山と渓谷』として出版される。
画像は、多磨霊園の墓所で撮影。隅立て四つ目結紋。

東龍太郎。1893年1月16日 - 1983年5月26日、東京都知事。
大阪府出身。結核予防会理事、厚生省医務局長、茨城大学長を歴任。
自由民主党の推薦で東京都知事に立候補、当選。2期務める。
IOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ東京オリンピックの誘致に深く関わる。
ただ、民生に対する施策が欠けていた面が強かった。

獅子文六。1893年7月1日 - 1969年12月13日、小説家、劇作家、演出家。
横浜弁天通の岩田商会に生まれる。実父は中津藩士。本名:岩田豊雄。
岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。
日本芸術院賞受賞、芸術院会員、文化勲章受章、文化功労者。
代表作は『てんやわんや』『自由学校』『ちんちん電車』など。

片岡鉄兵。1894年2月2日 - 1944年12月25日、小説家。
岡山県苫田郡鏡野町に生まれる。
新感覚派の一員として文学活動に入るが後に左傾化し、プロレタリア作家として活動。
主著は『歩きつづける男』『左傾について』『朱と緑』
画像は多磨霊園にて。家紋は重ね四つ目車。

佐々木味津三。1896年3月18日 - 1934年2月6日、小説家。
愛知県北設楽郡下津具村出身。本名・光三。
1919年『大観』に載せた「馬を殴り殺した少年」で菊池寛に見出される。
代表作は『右門捕物帖』『旗本退屈男』など。
旗本退屈男は映画やテレビドラマ化され高い人気を得た。

小津安二郎。1903年12月12日 - 1963年12月12日、映画監督。
東京深川の下町に、豪商湯浅屋の番頭の次男として生まれた。
本籍は、三重県の松阪。親類のつてで松竹蒲田撮影所に入社。
日本を代表する映画監督として活躍。代表作は『大学は出たけれど』『晩春』『麦秋』『東京物語』等。家紋は、丸四つ目結紋。

櫻内義雄。1912年5月8日 - 2003年7月5日、政治家。
島根県能義郡広瀬町(現安来市)出身。
櫻内家は江戸時代、代々広瀬藩士として松平家に仕えた。
外務大臣、農林大臣、建設大臣、第67代衆議院議長等を歴任。
世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第9代会長。

荒正人。1913年1月1日 - 1979年6月9日、文芸評論家。
福島県生まれ。マルキシズムの学生運動に熱中。
戦後、埴谷雄高・平野謙・本多秋五らと『近代文学』を創刊。
漱石の生涯を詳細に調べた『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞。
第14回までの江戸川乱歩賞の選考委員をつとめた。

横山新次郎。五代目山崎家一家・総長。
稲川会総裁(初代会長)稲川聖城の兄貴分として知られる。
横綱の大鵬とプロレスラーの力道山を招いて、素人相撲大会を開催したという。
松方弘樹主演「修羅の群れ」(東映、1984年。監督・山下耕作)では、鶴田浩二が演じている。
家紋は丸に隅立て四つ目結い。

水木しげる。1922年3月8日 - 、漫画家。
鳥取県境港市出身。本名は武良茂(むらしげる)。武良家は隠岐島の名族。
アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長。妖怪漫画の第一人者として活躍。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』等。家紋は、丸四つ目結紋。

日沼倫太郎。1925年7月3日 - 1968年7月14日、文芸評論家。
栃木県出身。本名は生沼正三。
独自の生活実感にもとづく批評を展開。
著作に『横光利一論』『文学の転換』『病める時代』がある。
「理解は誤解だ」という有名な言葉を残している。

沼澤康一郎。1930年8月15日 - 1989年5月18日、プロ野球選手、野球解説者。
北海道函館市生まれ。
早稲田大学、毎日オリオンズで活躍。
南海ホークス、ヤクルトスワローズでコーチを務める。
次男、沼澤尚は世界的なドラマー。

寺山修司。1935年12月10日 - 1983年5月4日、歌人、演出家、映画監督。
青森県弘前市紺屋町生まれ。 本籍地は青森県上北郡六戸村(現:三沢市)。
本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と言っていたが、メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
代表映画「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」など。家紋は丸に四つ目菱。

亀井静香。1936年11月1日 - 、警察官僚、政治家。
広島県庄原市で農業・亀井素一の次男として生まれる。家紋は、四目結紋。
自民党出身ながら、社会民主主義傾向が強くチェ・ゲバラの思想に心酔。
運輸大臣(第69代)、建設大臣(第64代)、自由民主党政務調査会長、国民新党代表、内閣府特命担当大臣(金融担当)・郵政改革担当大臣などを歴任。

亀井亜紀子。1965年5月14日 - 、政治家。参議院議員。
国民新党幹事長亀井久興の長女。東京都生まれ。本籍地は島根県鹿足郡津和野町。
旧津和野藩藩主亀井家の子孫にあたる。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に国民新党公認・民主党推薦・社会民主党県連支持で島根県選挙区より出馬。自由民主党の前職・景山俊太郎を破り初当選を果たした。家紋は隅立て四つ目結。亀井静香は遠縁。

貴ノ浪貞博。1971年10月27日 - 、二子山部屋所属の元大相撲力士。
青森県三沢市出身。本名は浪岡 貞博。
1994年(平成6年)1月場所は大関となる。
幕内戦歴 647勝473敗8休。幕内最高優勝2回。
現在は年寄・音羽山。家紋は丸に隅立て四目結。

貴乃花光司。1972年8月12日 - 、第65代横綱。貴乃花部屋(二所ノ関一門)の師匠。
父は元大関の貴ノ花利彰、母は女優の藤田憲子。本名:花田光司。
元フジテレビアナウンサーの河野景子と結婚。
優勝22回は歴代4位タイの記録であり、平成の大横綱と称されている。
日本相撲協会の役員待遇委員・審判部副部長。

和泉元彌。1974年6月4日 - 、能楽師狂言方。
和泉流19世宗家・和泉元秀(画像は元秀の墓)の長男として生まれる。本名、山脇元彌。
株式会社和泉宗家取締役・和泉流宗家宗家会在籍。妻はタレントの羽野晶紀。
大河ドラマ「北条時宗」で主役を務める。所得隠し、接触事故等でワイドショーを騒がせる事がしばしばあり人気低迷している。和泉家の門には、雪輪に平四つ目結の家紋が飾られている。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
紅葉紋 -敢えて散りゆく紅葉を選ぶ粋な美意識-

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ  藤原定家
日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。
だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。
使用している有名人は以下。
福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。

市川門之助。1862年 - 1914年8月20日、歌舞伎役者。
出雲国(現在の島根県)松江の出身。本名・荒川清太郎。
『大森彦七』で師の彦七に千早姫をつとめ生涯最大の当り役となる。
「酒屋」のお園、「鏡山」の尾上などの丸本物を得意とした。
家紋は、四つ紅葉。画像は雑司が谷霊園の墓所にて撮影。

いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。
泉鏡花。1873年11月4日 - 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
団扇紋 -悪鬼を払い、霊威を呼び寄せる神具-

団扇紋にはいくつか種類がある。
1)普通の団扇(うちわ)紋
2)大相撲の行司が持つのと同じ、軍配扇紋
3)天狗が持つという羽団扇紋
この中で数が多いのが軍配扇紋。
平安時代の武士勃興時代に関東で幅を利かせた児玉党武士団が使用しはじめたといわれる。
多くの家紋の中でも歴史が古い部類に入る。
軍配の采配一つによって、自らの武士団の運命が左右される重要な道具だ。
と同時に、古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきたのである。

羽団扇紋(左画像)は、駿河の浅間神社の神紋として知られている。
浅間神社は木花咲耶姫命を奉っているが、富士山信仰と深い結びつきがある。
団扇紋を使用はそれほど多くない。全国分布では、福井県で27位、埼玉県で28位。
有名人は以下。
米津常春。1524年 - 1612年年、戦国時代の武将。
三河国碧海郡米津出身。幼名は藤蔵、三十郎。小大夫。米津氏は松平氏の古くから譜代の家臣で、父勝信と共に松平広忠、元康(徳川家康)に仕えた。徳川十六神将に数えられる。桶狭間の戦いの際にも三河衆の先鋒として従軍。三河一向一揆鎮圧にも功があった。米津氏の子孫は武蔵久喜藩、出羽長瀞藩主として明治まで存続。家紋は羽団扇紋(棕櫚紋)。

奥平信昌。1555年 - 1615年4月11日、戦国時代から江戸時代にかけての武将。
三河国作手の有力国人・奥平貞能の長男として生まれる。
徳川家康の長女・亀姫を正室としたので、家康の娘婿として重用されるようになる。
長篠の合戦時に、長篠城で篭城し武田軍を苦しめる武功を上げ、信長より信昌という名前を賜る。奥平家は、豊前国中津藩幕末をむかえる。

児玉源太郎。1852年4月14日 - 1906年7月23日、武士、陸軍軍人。
周防国都濃郡徳山村に、徳山藩の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男として生まれる。
日露戦争全体の戦略の立案を担当。英雄として有名。
「太陽にほえろ!」等のテレビ映画監督で有名な児玉進は曾孫。
家紋は、唐団扇笹。多磨霊園で撮影。

加藤高明。1860年1月25日 - 1926年1月28日、外交官、政治家。
第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。
尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。
首相在任中に、治安維持法、普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立する。東京日日新聞(後の毎日新聞)社長も務めている。家紋は六つ唐団扇。

万年東一。1908年9月10日 - 1985年3月28日、右翼活動家、総会屋。
山形県飽海郡松嶺町で生まれ。終戦後、愚連隊・万年一派の頭領となる。
その後、松永高司が全日本女子プロレスを設立すると、初代会長に就任。
右翼団体「大日本一誠会」を結成。総会屋としても活動する。
家紋は、丸に羽団扇紋。

福田康夫。1936年7月16日 - 、内閣総理大臣(第91代)。
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。
『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。
2008年9月1日、記者会見で「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明。
「あなたと違うんです」という名セリフを残した。

久米宏。1944年7月14日 - 、フリーアナウンサー・タレント・司会者。
埼玉県浦和市生まれ。戦時中は埼玉県児玉郡に疎開。疎開先の児玉郡は、武蔵七党の児玉党の本貫。その嫡流・久米氏は唐軍扇紋。
祖・時国の時に、佐渡へ流された日蓮を久米川まで見送った事から久米氏を称するようになったという。代表出演番組『ザ・ベストテン』『報道ステーション』等。

鞍馬天狗。幕末期の勤王志士。
大佛次郎の大正・昭和期における時代小説の主人公。
幕末期を舞台にし、剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが定かではない。
何度も映画化され、特にアラカンこと嵐寛寿郎(写真)が主役の映画作品は有名。
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[18 1 月 2009 | Comments Off | | ]
車紋 -車輪に隠れる六条御息所の怨念-

この紋の図柄を見ると、車紋というよりも車輪紋である。
言うまでもなく、車輪というのは乗り物を、そして乗り物に乗っている人を支えるものである。
車紋の使用氏として一番有名な一族は藤原秀郷流の佐藤氏であるが、一族の中で「人を支えた」人物と言えば、源義経に遣えた佐藤継信、忠信兄弟を思い出す。
また、車紋は別名、源氏車とも言われている。
また、源氏車といえば、「源氏物語」9帖の『葵』における六条御息所と葵上の車争いを連想させる。そして、その車争いで敗れた六条御息所の怨念が車に取り憑き、朧車という妖怪になったという伝説もある。左図は鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より。
車紋の車輪はただの車輪ではない。様々な人々の思いがつまっているのだ。
    ◆
さて、この紋は全国ではそれほど、普及している紋ではない。ただ、東北地方では散見される。
特に、秋田県では18位だ。
これは秋田県で、佐藤姓が多い事と関係していると思われる。
また、東北地方以外では唯一三重県でベスト30位に入っている。これはこの地が伊勢神宮のお膝元だからか。
車紋を持つ有名人は以下。
佐藤継信。1158年? - 1185年3月22日、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。
出身は奥州信夫郡(現在の福島市飯坂町)。佐藤忠信の兄。
義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行し、平氏追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。
写真は福島県福島市飯坂町の井王院にある墓所の門の写真。

中川清秀。1542年 - 1583年6月10日、戦国時代の武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。
本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。
家紋は中川車(右)。中川柏(左)

榊原康政。1548年 - 1606年6月19日、武将・大名。
榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫である。
家康の家臣として姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の戦いになど数々の戦いで戦功を立てた。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
家紋は榊原源氏車。

服部半蔵。戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。
松平氏〜徳川氏の麾下で活躍。家紋は、源氏輪に並び切り竹矢筈。
半蔵門は、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称(半蔵)に由来する。
「伊賀の影丸」「あずみ」「サムライスピリッツ」などのフィクションに登場。藤子不二夫の「忍者ハットリくん」は服部半蔵の子孫。画像は護国寺の服部家の墓所にて撮影。

佐藤信淵。1769年7月18日 - 1850年2月17日、思想家、経世家(経済学者)。
出羽国雄勝郡郡山村出身。通称は百祐。家紋は源氏車。
平田篤胤に入門し、『農政本論』を著す。
渡辺崋山、高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座するがすぐに許される。
流通を幕府の手によって直接統制し、流通過程からの収奪による富国策を提示。

佐藤彦五郎。1827年11月14日 - 1902年9月17日、日野宿組合名主、新選組の後援者。
武蔵国多摩郡日野宿で生まれる。日野本郷名主。
自邸東側の一角に日野宿では初となる出稽古用の道場を設け、後の新撰組の母体となる近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れていたという。
明治維新後は、新選組隊士の復権と顕彰に尽力した。

榊原健吉。1830年12月19日 - 1894年9月11日、幕臣、剣客。
江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人榊原益太郎友直、5人兄弟の長男。 名は友善。
男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。
天覧兜割などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。
家紋は榊原車。

竹添進一郎。1842年 - 1917年3月29日、外交官・漢学者。
熊本藩士。藩の参謀として活躍。天津領事となる。
1882年の壬午の変の後、朝鮮弁理公使となり、甲申政変を起こす。
東京大学教授となり、『桟雲峡雨日記』『左氏会箋』を残す。
家紋は、源氏車紋。護国寺の墓所にて撮影。

林董。1850年4月11日 - 1913年7月20日、外交官、政治家。
下総国佐倉藩の蘭医佐藤泰然の子として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子となる。董三郎とも。変名、佐藤 東三郎。箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。敗戦後、香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。在英日本公使としてロンドンで日英同盟を調印した。

河口慧海。1866年2月26日 - 1945年2月24日、仏教学者、探検家。
泉州堺生まれ。黄檗宗の寺で出家。
ネパール、チベット地域を探検すし、ネパールでは梵語仏典を、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集した。
著作に『西藏旅行記』『チベット旅行記』等がある。家紋は源氏車に法の字紋。

野中到。1867年 - 1955年2月28日、気象学者。
福岡に生まれる。母方の従妹である福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子と結婚。
富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。著作に『富士案内 芙蓉日記』がある。家紋は、御殿場馬車鉄道の社章からの転用か?この紋の判別に関しては、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

大下宇陀児。1896年11月15日 - 1966年8月11日、探偵小説作家。
長野県上伊那郡箕輪町に生まれる。本名、木下龍夫。別名、XYZ。
『新青年』を舞台に、江戸川乱歩や夢野久作と並ぶ探偵小説の人気作家として活躍。
戦後は、NHKの人気ラジオ番組『二十の扉』の解答者として人気を博した。
1951年、『石の下の記録』で第4回探偵作家クラブ賞を受賞。家紋は丸に片輪車紋。

石坂洋次郎。1900年1月25日 - 1986年10月7日、小説家。
青森県弘前市代官町生まれ。
戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。第14回菊池寛賞を受ける。
代表作は『陽のあたる坂道 』『若い人』『青い山脈 』など。

佐藤栄作。1901年3月27日 - 1975年6月3日、政治家。
現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業・佐藤秀助、茂世(もよ)の三男として生まれた。
第61、62、63代内閣総理大臣。
日韓基本条約の批准、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現。
非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて授賞。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]

人間のとって最も大事なものは生命の源・水である。
古来、人々は、その水が地中から湧き出る泉、そして井戸をどれだけありがたがったことであろうか。
この井桁紋、井筒紋は、そんな日本人の地から湧き出る水の神秘さと感謝を紋所にしたものである。
井桁紋は菱形、井筒紋は正方形。
全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。
使用している有名人は以下。
住友政友。1585年12月31日 - 1652年、商人。
住友家の初代。住友政行の子。住友財閥の祖。平家の末裔といわれている。
京都で、「富士屋嘉休」とも名乗って、薬舗・書林の店「富士屋」を開いた。
商人の心得を説いた『文殊院旨意書』を残す。
その教えは今も「住友精神」の基礎となっている。

三井高利。1622年 - 1694年5月29日、商人。
六角氏の旧臣と言われている三井高安の長男・高俊が元和のはじめころ武士をすて伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業したところから始まる。なお三井家の姓は藤原を称する。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋(のちの三越)とする。後に両替商も開業する。

司馬江漢。1747年 - 1818年11月19日、絵師。蘭学者。
鈴木春重は同一人物。本名は安藤峻。浮世絵師だったが、後に洋風画を描くに至った。天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち、日本に紹介した。安藤広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある。家紋は、「六つ追い重ね井筒紋」。この紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

並木胤繁。1825年 - 1871年、剣豪。
武州田無村に生まれる。千葉周作の北辰一刀流で免許皆伝する。
一般的に、多摩地域は天然理心流の地盤といわれているが田無村は北辰一刀流の流れが根付かせる。門下生が建てた墓が、田無芝久保墓地に残っている。
家紋は井桁に花菱紋。

今井信郎。1841年11月14日 - 1919年6月25日、武士。
幕府講武所の柔術師範だった窪田鎮勝から扱心流体術を習い、榊原鍵吉から直心影流剣術を習い、講武所の剣術師範代を勤めた。京都見廻組に参加しており、近江屋事件で暗躍したとされている。近江屋事件での坂本龍馬暗殺の犯人は、自分であると証言。
家紋は、丸に井桁紋。

乃木希典。1849年12月25日 - 1912年9月13日、軍人。
長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
明治天皇の後を追って殉死。家紋は、四つ持ち合い井筒。
青山墓地にある乃木家墓所にて撮影。もう一つ別に五瓜も使用。

湯本武比古。1856年1月8日 - 1925年9月27日、教育学者。
信濃国下高井郡科野村出身。文部省にて「読書(よみかき)入門」を編集。東宮御用掛もつとめる。学習院・東京高師(東京教育大)教授を務める。、「教育時論」を主幹。著書・訳書などによってヘルバルト教育学普及の一翼を担った。
この略歴では、歴史が眠る多磨霊園、kotobank.jpを参照させていただきました。

酒井勝軍。1874年3月15日 - 1940年7月6日、オカルティスト。
山形県上山町で生まれる。幼名、山下勇吉。後に酒井姓を継ぐ。
元々は、キリスト教伝道者であったが、後に日本人とユダヤ人は、共通の先祖を持つ兄弟民族であるという日ユ同祖論を唱える。また、飛騨高山でピラミッド上野平を「発見」し、『太古日本のピラミッド』(国教宣明団)出版する。また、「竹内文書」の世界を主張し続けた。

前田山英五郎。1914年5月4日 - 1971年8月17日、大相撲の第39代横綱。
本名・萩森 金松。愛媛県西宇和郡喜須来村出身。
大関羽黒山、横綱双葉山を相次いで張り手戦法でくだし「前田山の張り手旋風」と呼ばれた。
横綱としては休場が多く、横綱通算勝率が5割未満であった。
横綱・朝潮、大関・前の山、高見山(東関親方)の師匠としても知られている。

井上靖。1907年5月6日 - 1991年1月29日、小説家、詩人、文化功労者。
北海道旭川町(現・旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。
井上家は静岡県伊豆湯ヶ島で代々続く医家。家紋は丸に隅立て井桁。
1950年 『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。
代表作『天平の甍』『おろしや国酔夢譚』『風林火山』等

井深大。1908年4月11日 - 1997年12月19日、実業家。
栃木県日光町出身。飯盛山で自刃した白虎隊士井深茂太郎の一族の末裔。
盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。
戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名である。トランジスタラジオ、トリニトロンテレビ等を世に送り出す。家紋は丸に隅立て組み井桁紋。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
松紋 -長寿への願いを込めた紋-

松は長寿の象徴である。
例えば、『高砂』は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でて、人世を言祝ぐ能である。
日本人は松の木の悠然としていて変らない緑に、長寿という普遍的な願望をこの松に託したのである。
香川県は、松の多い土地柄として有名だが、やはりこの松紋の所有者も多い。[1]
その昔、讃岐の国司となってこの地に下った藤原氏がこの松紋を採用、土地に根付き一族を広げていった。
全国では22位だが、香川県でだけ10位に入っているのである。
松紋所有の有名人は以下。
大原孫三郎。1880年7月28日 - 1943年1月18日、実業家。
岡山県倉敷市の大地主・大原孝四郎の三男として生まれる。
倉敷紡績、中国合同銀行、中国水力電気会社の社長を務め、大原財閥を築き上げる。
また、大原美術館を設立等文化事業にも力を入れる。
画像は、大原美術館内にある丸に向かい二つ松紋。

丸山敏雄。1892年5月5日 - 1951年12月14日、宗教家、社会教育家。
福岡県豊前市合河町出身。
もともと、『扶桑教 ひとのみち教団』に所属していたが、倫理研究所の前身である『新世文化研究所』を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。

徳川夢声。1894年4月13日 - 1971年8月1日、弁士、漫談家、作家、俳優。
島根県益田市に生まれ、東京に育つ。本名は福原駿雄。
日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。
「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。
家紋は三つ松毬紋。

松本清張。1909年12月21日 - 1992年8月4日、小説家。
福岡県企救郡板櫃村出身。
「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。
代表作は「砂の器」「点と線」「黒革の手帖 」など多数。
家紋は三つ重ね松紋。

木下惠介。1912年12月5日 - 1998年12月30日、映画監督、脚本家。
静岡県浜松市伝馬町で食料品店を営む家の4男として生まれる。『二十四の瞳』で、ブルーリボン賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞。『木下惠介劇場』『木下惠介アワー』などの固定枠を提供されて多くのテレビドラマを制作。ほとんど性描写をしない演出が特徴的。家紋は右寄り三階松。画像は鎌倉・円覚寺の墓所にて撮影。

高島忠夫。1930年7月27日 - 、タレント・俳優・司会者。
兵庫県武庫郡出身。妻は女優の寿美花代。俳優の高嶋政宏・高嶋政伸は実子。
料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』など長期に渡る人気番組の司会を担当。『ゴールデン洋画劇場』では映画解説を担当した。
出演作は『細うで繁盛記』『ふたりっ子』『ゴジラvsメカゴジラ』等。家紋は三つ松。

立川談志(7代目)。1936年1月2日 - 、落語立川流家元、国会議員と総理府の政務次官。
東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。 本名:松岡 克由。
1971年 - 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。
古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されている。
丸に左三蓋松は、立川流の定紋。

細野晴臣。1947年7月9日 - 、ミュージシャン。
東京都港区生まれ。祖父は日本人で唯一豪華客船タイタニック号に乗船し、事故から生還した細野正文。、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを、坂本龍一、高橋幸宏とイエローマジックオーケストラ(Y.M.O)を結成し、それぞれ成功を収める。家紋は丸に右寄り三階松。画像は多磨霊園で正文氏の墓所。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花-

元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。
例えば...
古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。
そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。
しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。
  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。
これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。
有名人で桜紋を使用しているのは以下。
細川忠興。1563年11月28日 - 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔にあたる。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。ただし、細川桜と九曜は、忠興の代より使用。

花柳壽輔(初代)。1821年2月19日 - 1903年1月28日、日本舞踊家、振付師。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男として生まれる。
日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。
『勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。
家紋は花柳桜。画像は、谷中霊園の墓所の灯篭より。

井上馨。1836年1月16日 - 1915年9月1日、長州藩士、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・100石)の次男として生まれる。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。
外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。
彼の遺産を元にした井上育英会の親睦会はこの紋の名前をとって「桜菱会」という。

山県有朋。1838年6月14日- 1922年2月1日、政治家、軍人。第3代、第9代内閣総理大臣。
萩城下近郊の阿武郡川島村に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。
足軽以下の中間身分。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現わす。明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺の山縣有朋墓所にて撮影。

原敬。1856年3月15日 - 1921年11月4日、政治家。
盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。
分家として独立する際に、平民となる。その際、家紋も「三つ割桜」とする。
政界に進出し、大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満65歳没。

吉田茂。1878年9月22日 - 1967年10月20日、戦後の内閣総理大臣。
高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(現・東京都千代田区)に生まれる。
サンフランシスコ平和条約を締結。日米安全保障条約を結んだ。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。

与謝野晶子。1878年12月7日 - 1942年5月29日、歌人、作家、思想家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として誕生。
日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。
代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』
夫は与謝野鉄幹。現(2009年)財務大臣の与謝野馨は孫にあたる。

埴谷雄高。1909年12月19日 - 1997年2月19日、作家、評論家。
本名は、般若豊。台湾の新竹に生まれる。
代表作は、存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。
晩年は吉本隆明と、コム・デ・ギャルソン論争で激しく対決した。

吉永小百合。1945年3月13日 - 、女優。
東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。本名:岡田小百合。
浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。
代表出演作『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』『母べえ』等
家紋は雪輪に山桜紋。

狩野英孝。1982年2月22日 - 、お笑いタレント。
宮城県栗原市栗駒(旧・栗原郡栗駒町)出身。
実家は約1500年続いているといわれる櫻田山神社。神紋は桜。
「ホストネタ」をメインの芸とするが、イジられキャラでもある。「ラーメン、ツケメン、ぼくイケメン」「スタッフゥ~」「赤貝・ミル貝・ナイスガイ」等のギャグを持っている。
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[16 1 月 2009 | One Comment | | ]
鷹の羽紋 -爪を隠した優美な紋-

ヨーロッパのファミリークレスト(紋章)と日本の家紋を比べて大きく3つの点で異なっている。
1)ファミリークレストは貴族階級のみ所持するが、家紋は一般庶民にまで広まった。
2)ファミリークレストの図柄は写実的なものが多いが、家紋はデザインが洗練され、抽象化されているものが多い。
3)ファミリークレストでは動物、猛禽類が素材に使われるが、日本ではそれらが使われるのは稀である。
そんな日本の家紋の中で、例外的に猛禽類を家紋として、かなり広まっているのが、この鷹の羽なのである。
しかし、鷹は鷹でもこの紋は、鷹の姿ではなく、鷹の羽を家紋化するところが特徴だ。
獰猛、精悍な姿(いわゆる爪)を隠して、その羽を優美な紋所とする、そのセンスは、どこか、軍隊を自衛隊と言い繕う感覚と通底している。
ごまかしと言うのか、慎み深いと言うのかは、立場によって違うとは思うがいずれにしても日本的といえるだろう。
しかも、この家紋は全国では3位だ。
目立つ地域は、群馬県、千葉県、神奈川県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県で1位。
茨城県、栃木県、埼玉県、東京都、山梨県、長野県、愛知県、滋賀県、奈良県、京都府、兵庫県、福岡県、佐賀県、長崎県で2位。
関東と九州で特に多いことがわかる。一方で、比較的少ないのが、青森県(10位)、石川県(8位)、浅野家、阿部家のお膝元広島県の9位。
九州では名族・菊池一族の家紋だったことが大きく影響しているからと言われているが、一方、関東に多いのは、この地域では比較的広い荘園を支配した武士の紋を、そのまま農民が多く使用したからでないだろうか。
それに対して、関西、中国四国の村々では、それぞれの家紋を持った比較的力の強い家族が集まった共同体的性格が強かったのではないだろうか。
さて、鷹の羽を持つ有名人は以下。
菊池武光。1319年 - 1373年12月29日、鎌倉時代末期、南北朝時代の武将。
菊池氏の第15代当主。南朝・後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。一色、少弐、両者を倒して九州における南朝勢力の隆盛を確立した。
家紋は並び鷹の羽。

阿蘇惟豊。1493年 - 1559年12月5日、阿蘇氏の18代当主。
阿蘇惟憲の子。阿蘇惟将・惟種の父。
甲斐親宣・親直(宗運)父子の補佐を受け、阿蘇氏の最盛期を築いた。阿蘇五ヶ所衆の一人。
後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し、阿蘇上宮に社納したという。
阿蘇神社大宮司でもある。家紋は違い鷹の羽。画像は阿蘇神社の神紋。

浅野長矩。1667年 - 1701年、大名。播磨赤穂藩の第3代藩主。
赤穂浅野家は、広島浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男長重を祖とする家柄である。
幕府から江戸下向が予定される勅使の饗応役に任じられた際に、殿中刃傷を起こし、切腹させられ、赤穂浪士の復讐へとつながる。
後に、「忠臣蔵」「峠の群像」「元禄繚乱」などのドラマや映画で扱われる。

阿部正弘。1819年12月3日 - 1857年8月6日、備後福山藩第7代藩主。
江戸幕府老中首座。幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。
第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。
老中首座の在任中にペリーが来航。日米和親条約締結を行う。優柔不断とも言われるが、一方で講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などの創設をしている。

福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は善福寺の墓所で撮影した丸に抱き鷹の羽紋。割り楓紋の替紋と思われる。

長與專齋。1838年10月16日 - 1902年9月8日、医師、医学者、官僚。
肥前国大村藩に代々仕える漢方医の家系に生まれる。本姓は藤原。
オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。
文部省医務局長に就任。また東京医学校の校長を兼務。
衛生思想の普及に尽力。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用した。

尾崎紅葉。1868年1月10日 - 明治36年10月30日、
江戸芝中門前町(現在の浜松町)に生れる。父は根付師。本名、徳太郎。
幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。
代表作は「金色夜叉」「多情多恨」「二人比丘尼 色懺悔」など。
泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声などは門下生。

広瀬武夫。1868年7月16日 - 1904年3月27日、大日本帝国海軍軍人。
岡藩士・広瀬友之允の次男として生まれる。家紋は丸に並び鷹の羽。
日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。
部下を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で敵軍砲弾の直撃を受け戦死。
日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には広瀬神社が創建された。

大下藤次郎。1870年7月9日 - 1911年10月10日、水彩画家。
東京で、旅人宿、馬宿、馬車問屋を営む家に生まれる。
家業を手伝うかたわら美術界へ進むことを決意、原田直次郎について絵を学ぶ。技法書の『水彩画之栞』を刊行し、ベストセラーとなる。 美術雑誌『みづゑ』を刊行する。 家紋は、丸に並び鷹の羽紋。画像は雑司が谷墓地にて撮影。

内田良平。1874年2月11日 - 1937年7月26日、国家主義者・右翼運動家・アジア主義者。
旧福岡藩士内田良五郎の三男。幼名良助、のち甲(きのえ)。後に良平と改名した。
叔父の平岡浩太郎の影響により国家主義(右翼)運動の指導者となった。日本の朝鮮、中国への勢力拡大に強い関心を持ち、黒龍会を結成、主幹となり、日韓合邦論を主張し、日韓が力を合わせ白人の東洋侵略に対抗するべく運動を展開した。

鈴木梅太郎。1874年4月7日 - 1943年9月20日、農芸化学者。
静岡県榛原郡堀野新田村[1]にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。
東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章受章者。
世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見した。
また、1922年には合成清酒を発明している。

高木貞治。1875年4月21日 - 1960年2月28日、近世日本初の国際的数学者。
岐阜県本巣郡数屋村(現・本巣市)に生まれる。
ドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。
代数的整数論の研究では類体論を確立し、クロネッカーの青春の夢を解決した。
著書に『初等整数論講義』『代数的整数論』『近世数学史談』がある。

野間清治。1878年12月17日 - 1938年10月16日、実業家。
群馬県桐生市出身 。
講談社創業者であり、元報知新聞社社長。
「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。
主な刊行雑誌『少年倶楽部』『キング』『少女倶楽部』

石橋湛山。1884年9月25日 - 1973年4月25日、政治家。第55代内閣総理大臣。
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた。
ただし、母方の石橋家を継ぐ。その石橋家は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋。
総理大臣就任直後、脳梗塞で倒れ、首相在任期間は65日。東久邇宮稔彦王、羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短命政権であった。

木下杢太郎。1885年8月1日 - 1945年10月15日、。医学者、詩人、作家。
静岡県伊東市生まれ。本名は太田正雄。石川啄木創刊の「スバル」、杢太郎・白秋・長田秀雄3人の「屋上庭園」等に詩を発表した。また、「パンの会」(青年文芸・美術家の懇談会)を主催する。パンの会には、永井荷風、高村光太郎、谷崎潤一郎等が参会している。さらに、文名を高めながら、医学の道にも専念し、皮膚科を専攻し、らい病の権威となる。

早川雪洲。1886年6月10日 - 1973年11月23日、俳優。
千葉県安房郡千倉町千田の裕福な網元の家に生まれる。本名は早川金太郎。
日本人としてもっとも早い時代に活躍した国際的映画俳優である。
日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされる。
代表出演作は『新しき土』『南海漂流』『戦場にかける橋』等。家紋は丸に違い鷹の羽。

菊池寛。1888年12月26日 - 1948年3月6日、小説家。
香川県高松市生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。
文藝春秋社を創設し、芥川賞、直木賞を設立し、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。
代表作は「父帰る 」「恩讐の彼方に 」「真珠夫人」など。

川島正次郎。1890年7月10日 - 1970年11月9日、政治家。
生母とは早くに死別し、東京の下町で鼈甲屋を営む母方の叔父のもとで幼少期を過ごす。
自民党幹事長・副総裁を歴任。専修大学総長、成田山奉賛会初代会長、日本プロレスリングコミッショナーを始め日本学生卓球連盟会長、日本ボウリング協議会総裁、日本消防協会会長、江戸消防記念会名誉会長、畠山みどりの後援会長などの要職を務めた。

大村能章。1893年12月13日 - 1962年1月23日、作曲家。
出身は山口県防府市多々良。米穀商の家に生まれる。本名は大村秀弌。
日本音楽著作者組合(後の日本音楽著作権協会)を設立。
代表作『旅笠道中』『麦と兵隊』『同期の桜』『明治一代女』等
「同期の桜」については、死ぬまで自分が作曲したとは口にしなかった。

常ノ花寛市。1896年11月23日 - 1960年11月28日、第31代横綱。
岡山県岡山市生まれ。本名:山野辺 寛一。
13歳で出羽ノ海部屋に入門。幕内最高優勝:10回。
初めて優勝回数を2桁に乗せた力士だった。
幕内通算成績:221勝58敗8分6預68休 勝率.792。

椎名悦三郎。1898年1月16日 - 1979年9月30日、官僚、政治家。
岩手県水沢町出身。父の後藤広は小学校の教師から後に、更に水沢町長を10年間務めた。
自民党副総裁、外相、通産相を歴任した。日韓基本条約の締結に向けて韓国側と交渉。
田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した「椎名裁定」で知られる。
椎名素夫は二男。衆議院議員を4期、参議院議員を2期務め、知米派、国際派として活躍した。

山手樹一郎。1899年2月11日 - 1978年3月16日、小説家。
栃木県生まれ。本名は、井口長次。孫は詩人の井坂洋子。
博文館に入社し、編集者を経て『少年少女譚海』編集長。
1939年より専業作家。前後して長谷川伸の門下。翌年より新聞連載した「桃太郎侍」で人気を得る。歴史小説である『崋山と長英』で第4回野間文芸賞を受賞。

中村汀女。1900年4月11日 - 1988年9月20日、俳人。
熊本県飽託郡画図村に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。
本名:斉藤破魔子。
ホトトギス同人となり、最初の句集『春雪』を発表。
俳誌『風花』を創刊した。1980年文化功労者、84年日本芸術院賞受賞。

安西浩。1901年10月6日 - 1990年4月12日、実業家。
千葉県勝浦市に生れる。
東京ガス社長・会長。東京ガスの最高実力者として20年以上も君臨し「法王」と呼ばれる。
クリーン・エネルギー、液化天然ガス(LNG)の価値にいち早く気付き、海外からの本格的導入に成功。「ミスターLNG」と呼ばれた。

吉田秀雄。1903年 - 1963年、実業家。
福岡県出身。家紋は、丸に鷹の羽紋。
電通入社。1947年電通の第4代代表取締役社長就任。
「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。
死後、吉田秀雄財団が創設される。

榎本健一。1904年10月11日 - 1970年1月7日、俳優、歌手、コメディアン。
東京都港区青山の出身。
当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で大活躍した。
出演映画『エノケンの青春酔虎伝』『エノケンの猿飛佐助』『エノケンの弥次喜多』など。

川島雄三。1918年2月4日 - 1963年6月11日、映画監督。
青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。
小津安二郎等の助監督を経て『還って来た男』で監督デビュー。
代表作は『洲崎パラダイス 赤信号』『幕末太陽傳』『女は二度生まれる』等。
筋萎縮性側索硬化症に冒され歩行困難だったといわれている。家紋は違い鷹の羽。

大山康晴。1923年3月13日 - 1992年7月26日、将棋棋士。
岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。公式タイトル獲得80期(歴代1位)、棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)などの偉大な記録を立てた。十五世名人、および、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という、5つの永世称号を保持。日本将棋連盟会長としても、将棋の普及や連盟の運営にも業績を残す。

千代の山。1926年6月2日 - 1977年10月29日、第41代横綱。
北海道松前郡福島町に生まれる。本名は杉村昌治。
出羽の海部屋に入門。新入幕の場所で全勝(当時は10勝)。翌場所4日目に初めて負けるまで13連勝を記録。現在でも破られていない。
幕内最高優勝:6回。親方としても横綱・北の富士を育て、千代の富士をスカウトした。

田久保英夫。1928年1月25日 - 2001年4月14日、小説家。
東京都台東区浅草生れ。下町の料亭で育つ。
「緑の年」を『新潮』に発表し文壇デビューするが、幼少時の体験を描いた「解禁」(1961年)で芥川賞候補、1969年、「深い河」で芥川賞を受賞する。
代表作は『深い河』『木霊集』『触媒』『辻火』等。

朝潮太郎。1929年11月13日 - 1988年10月23日、大相撲の第46代横綱。
本名・米川 文敏、鹿児島県徳之島出身。高砂部屋所属。
幕内最高優勝 5回。
引退後、高砂部屋を継承し、先代から引き継いだ高見山、富士櫻、自分の代に入門した朝潮、小錦、水戸泉らを育てた。

宇津井健。1931年10月24日 - 、俳優。
東京都出身。新東宝に入社し、若手スターとして大活躍、各方面からの注目を集める。『鋼鉄の巨人シリーズ』での主演は今でも語り継がれる。
代表出演作『ザ・ガードマン』『「赤い」シリーズ』『渡る世間は鬼ばかり』など。
藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴では乾杯の音頭を取った。

園山俊二。1935年4月23日 - 1993年1月20日、漫画家。
島根県松江市生まれ。
「シッカ」など、ユーモラスな擬音を多く用いた。
代表作は『ギャートルズ』『ペエスケ』『がんばれゴンベ』など。
家紋は、丸に違い鷹の羽。

羽田孜。1935年8月24日 - 、政治家。第80代内閣総理大臣。
東京都大田区にて羽田武嗣郎の長男として生まれる。父・武嗣郎は衆議院議員。
羽田家は秦氏の末裔と言われている。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵大臣(第88代)、副総理(細川内閣)、外務大臣(第120代)、新生党党首、新進党副党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表などを歴任。家紋は丸に違い鷹の羽。

赤塚不二夫。1935年9月14日 - 2008年8月2日、漫画家。
満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。
1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。
代表作は「もーれつア太郎」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「レッツラゴン」「ワルワルワールド」など。

梶原一騎。1936年9月4日 - 1987年1月21日、漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。
東京市浅草区石浜に生まれる。本名は、高森朝雄。
格闘技やスポーツを題材に、話題作を次々と生み出した。
代表作品は、『空手バカ一代』『タイガーマスク』『ジャイアント台風』『柔道一直線』『プロレススーパースター列伝』『巨人の星』『愛と誠』『あしたのジョー』等。

日色ともえ。1941年6月4日 - 、劇団民藝所属の女優。
東京都出身。父親は東京新聞社社員で、将棋観戦記者・演芸評論家であった日色恵。
NHK朝の連続テレビ小説『旅路』のヒロイン。 近年は農業教室も開いており、自ら栽培し収穫した米は「ともゑ米」の銘柄にもなっている。丹羽基二著「家紋と家系」事典には、茗荷紋として紹介されているが、春秋苑にある生前墓には画像のような鷹の羽紋が刻まれている。

小泉純一郎。1942年1月8日 - 、政治家、第87代~89代内閣総理大臣。
神奈川県横須賀市に小泉純也・芳江夫妻の長男として出生。画像は宝樹院、純也の墓石。
母方の祖父、小泉又次郎は、逓信大臣、父の純也は防衛庁長官、息子の小泉孝太郎は、俳優として知られている。「官から民へ」「聖域無き構造改革」「三位一体改革」等のキャッチフレーズを多用し、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、小泉劇場と呼ばれた。

星野仙一。1947年1月22日 - 、プロ野球監督、野球解説者。
岡山県倉敷市出身。父は戦前、三菱航空機製作所の工場長だった。
現役時代は中日のエースとして、巨人キラーといわれる。
監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たすがいずれも日本シリーズ敗退。
2008年には日本代表監督としてオリンピック出場するが惨敗。家紋は違い鷹の羽。

三重ノ海剛司。1948年2月4日 - …