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「マイマイ新子と千年の魔法」は二つの時間軸がパラレルに進行するアニメである。
ひとつは昭和30年、そしてもう一つが約1000年前の平安時代だ。
場所は山口県の防府市国衙。平安時代、この地は周防国と言われていた。そこに中央から国司として赴任してきたのが、清原元輔という中流貴族であり、その娘が後の清少納言である。
彼らは別格の威容(服装、香り、従者達)で土地の人々を圧倒する。それらの外見は土地の人を支配するには十分なギミックだったに違いない。
そして中央貴族の最大の象徴だったのが、牛車、そして車輪であった。庶民は荘厳な牛車が通ると、それだけで自分たちとは違う貴人の空気を感じていたのである。
「マイマイ新子と千年の魔法」の中でも、千年前の少女・諾子(少女時代の清少納言)がその牛車を花で飾り、市場の目抜き通りを通るシーンが出てくるが、そこでも多くの庶民はその牛車に驚愕し、その神々しさに思わず微笑むのである。(左画像がそのシーン)
さて、一方で家紋として残されている車輪はいわゆる源氏車と言われている。藤原秀郷を祖とする佐藤氏の代表紋だ。たとえば、戦後の代表的な首相の一人である佐藤栄作、江戸時代の経済学者・佐藤信淵、新撰組の後援者・佐藤彦五郎等がこの紋を持っている(右画像が佐藤栄作の六本骨源氏車紋)。その他、車紋の著名人はコチラ。
おそらく、国衙の役人として任官してきた中央の貴族が土地の人々に対してその貴さをアピールするため、藤原氏の流れを汲む「佐藤」という名字を名乗り、家紋を、源氏車にしたのであろう。あるいは、土地の豪族が藤原氏を自称することによって、土地の支配を正当化した例もたくさんあったに違いない。
ちなみに、名字には音読みの名字と訓読みの名字があるが、佐藤、工藤、後藤、斉藤、近藤等の音読みの名前には藤原系の名前が圧倒的に多い。
これは僕の想像であるが、音読み=大陸系ということで、当時は、それらの名字はモダン=高貴=先進に感じられたのではないだろうか。例は悪いかもしれないが、今で言うならば、テリー伊藤とか、ジャッキー佐藤とか、ターザン後藤とか...違うか。
さて、源氏車紋が上記のように、庶民に対しては、高貴さの象徴という面があったのであるが、僕はその反面に、地方の貴族達が護符としてこの紋を付けていたのではないかと考えている。
「源氏物語」を読まれた方ならば誰でも、源氏車といえば思い出すシーンがある。それは、車争いのシーンである。
簡単に描写するとこうだ。
光源氏の愛人の六条御息所は賀茂の新斎院の御禊に牛車で見物に出かけ、そこで正妻の葵上(左大臣家出身)の牛車と鉢合わせになるが、時の勢いがそのまま二つの牛車の勝ち負けに反映してしまう。御息所の車は隅に追いやられてしまい、公衆の面前におおいに恥をかかされてしまうのであった。
この六条御息所はかつては東宮妃として、次代の皇后が約束された地位にあったのだが、東宮が死んでしまい、運命が閉ざされてしまう。そして、身も心も源氏に奪われていくのであるが、しょせん、彼女は愛人の一人である。悶々とした毎日を送らざるを得なかった。
そして、そんなタイミングで起きたのがこの車争いでの敗北である。しかし、もともと高貴な御息所は自分の気持ちをあくまで抑えようとする。しかし、抑えようとすればするほど、嫉妬の気持ちが湧き上がり、ついに生霊となって、葵上を呪い殺してしまうのである。
寝ている間に、幽体離脱した自らの嫉妬が生霊となって、ライバルに憑り付いてしまっているという事を自らの体に染み付いた芥子の香りで気が付くのである。
ちなみに、芥子は、病魔退散のために、密教の護摩で焚かれるものである。
そして、その生霊は、今際の際の葵上の口からこんな歌を絞り出させる。
なげきわび 空に乱るるわが魂を 結びとどめよ したがひのつま
(嫉妬に狂って、幽体離脱してしまう私の魂を、体から抜け出さないように、しっかりとどめておいてくれ、私の下着の褄よ...)
それにしても、生霊になり、相手に憑り付いているくせに、あくまでも自制している姿勢を見せようとし続ける、平安貴族のプライドの高さはなんということか。
普通だったら、生霊は、化け物となって相手に襲い掛かろうというものであるが、さすが、気高い六条御息所である。
しかし、この六条御息所の怨念は一つの伝説を生んだ。さらに、中空をさまよう彼女の怨念が、その牛車に憑りつき、「朧車」という妖怪までをも生み出したというのである(左は水木しげる先生が描いた朧車)。源氏物語を当然の教養としていた当時の貴族達や武家にとって、源氏車とは、ただの美しい車輪ではなかった。僕は、彼らは、源氏車の図柄、そしてその言葉の響きに六条御息所の怨念を見たに違いないと思うのである。
そして、怨霊→供養→御霊化という日本人特有の神道によって源氏車は護符として、連綿と身に付けられたのではないだろうか。
さて、源氏車に嫉妬の怨霊が込められているという観念。僕は最近、この観念の復活を思わぬところで発見してしまった。
それが、「魔法少女 まどか☆マギカ」のSAYAKAが変身した人魚の魔女のシーンなのである。これは全く根拠の無い話ではない。実は、このアニメは、他の箇所でも、細かいところで古今東西の文化遺産のカケラが顔を出すからである。たとえば、第6話には、MADOKAが見るPCの画面にマザーグースの歌詞が出てきていたり(左画像)、第10話のHOMURAが歩く舗道が、彼女が魔女の結界に入ってしまった瞬間にいつの間にかピカソのゲルニカ調の絵になっていたり(右画像)するからである。
ご覧になった方には今更説明する必要もないが、SAYAKAは、幼馴染の恭介の手の怪我を治して、再度、バイオリンが弾けるようにしてもらうことと引き換えにインキュベーターのキュうべいと契約して魔法少女になるわけであるが、それは同時に、人間としての肉体を失うということを意味していた。つまり、彼女は魔法少女になった時点で男性に愛されるということを放棄せざるを得ない状態になっていたということなのである。
しかも、同時に親友の仁美が恭介に告白したいとSAYAKAに告げる。しかし、自分が恭介の愛を得るためではなく、あくまでも恭介自身のために契約をしたのだと自分自身を説得したいSAYAKAは自分の本心と建前の間で煩悶する。そして、いつの間にか、抑圧していた嫉妬のエネルギーがソウルジェムを穢して、魔女になってしまうのである。
嫉妬というものは、恐ろしい。六条御息所が苦しんだように、その気持ちは、倫理的、あるいは意識的には抑圧できたとしても、無意識において怨霊=生霊となって、空中にさまよい出てしまうものなのである。
SAYAKAの場合もそうだ。押し殺そうとするその想いは、他者のために生きようと、魔女(遣い魔)と闘い続ければ続けるほど、逆に無意識の嫉妬が彼女を追い詰めるのだ。
そして臨界点を超えたところで彼女は魔女となってしまい、もうMADOKAやKYOKOの声の届かない存在になってしまうのである。
そして、そんな魔女となった元SAYAKAの武器が車輪なのである。その車輪は、交響楽をBGMにKYOKOに襲いかかる。もちろん、この魔女の交響楽は、SAYAKAの天才バイオリニスト・恭介に対する愛の裏返しなのである。
また、SAYAKAが人魚の魔女になることの背景には、「声を失ったために、自分が王子を救ったということを結局伝えることができずに、自殺してしまう」アンデルセンの人魚姫の童話があることは疑いの余地のないところであろう。そして、ここの場面は、このアニメでもっとも切ない魔女と魔法少女との戦いのシーンであるが、ここに車輪が登場する背景に、六条御息所の怨念が乗り移った車輪、そしてその怨霊が御霊のままでいてほしいとの願いを込めて、人々を守る家紋となった源氏車紋の影に隠れた物語を想像させるのだ、本当に、ニクい演出である。
まさむね
魔法少女 まどか☆マギカ関連エントリー
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「魔法少女 まどか☆マギカ」における虚しい承認欲求の果てに見た悟り
「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。
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今日は久しぶりに涼しかった。
もう、秋かと思わせるような天気だった。
秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
「古今和歌集」の藤原敏行朝臣の歌である。訳すまでもないだろう。今日のような日は、1000年以上も前に創られたこんな歌が口をついて出てくる。おそらく日本人ならば誰でも理解できる感覚だと思う。
ちなみに、この藤原敏行(朝臣)は、藤原(朝臣)敏行ではないということで、比較的位の低い公家だったことがわかる。井沢元彦的に言えば、この藤原敏行朝臣のように「三十六歌仙」というようなところに選ばれるような人は、どこか不遇だったのかもしれない。彼の不遇な人生がそこはかとなく、この歌から感じとれないだろうか。
さて、話を戻す。こんな日だから敢えて言っておきたい。
日本の伝統というのはこういった歌に対する感性の連続性にあるのであって、明治維新以降ににわかに出来上がった偏狭なナショナリズムイデオロギーとは一線を画するものであると僕は思う。
さらにいえば、小学生に英語やコンピュータ、それに金融の初歩を学ばせようなどという目先のソロバン勘定よりも、こういった歌を一つでも多く、覚えさせたほうがよっぽど深い人生を生きられるのではないだろうか。
ただし、そのことを理解するのには、このような歌を30年間位、体の中で眠らせて醸造させなければならないのだ。
僕は個人的には、中学、高校と古典というのが全く苦手だった。むしろ、苦痛だった。なんで、こんなものを学ばされるのかとすら思った。だからこそ、今、後悔して、こんなことを言っているのである。
まさむね
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三連休ということで、久しぶりに「古事記」を手に取った。
あの坂本龍一は「時間がある時は柳田国男の全集を読む」というようなことをどこかで言っていたが、僕の場合、「古事記」が、たまに帰ってくる「場所」のようなものだ。
特に神武天皇が生まれるまでの「上巻」(「古事記物語」現代教養文庫)が好きだ。というより、ほとんどいつも上巻しか読まないと言ったほうがいいかもしれない。特に理由があるわけではないが、だいたいこのあたりで飽きてしまうからである。「源氏物語」でも”須磨帰り”と言って、源氏が須磨に流されるあたりでいつも読むのを止めてしまう人がいるらしいが、だいたい似たようなものである。
今回、この「古事記」(上巻)を読んでみて気になったのが海幸彦と山幸彦の話だ。簡単に言えばこんな話だ。
ににぎの命と木花咲耶姫との間に、長男・海幸と次男と三男・山幸という三人兄弟がいた。長兄・海幸は海で漁を、末弟・山幸は山で猟をするのを生業としていたが、ある時、山幸が海幸に対して、道具を交換して、それぞれの猟(漁)をしてみようと誘う。兄・海幸はあまり気が進まなかったがとりあえず、言うことをきく。
しかし、結果は悲惨、山幸は海幸の釣り針を失くしてしまう。山幸は、なんとか別の針でもって償おうとするが、海幸はなんとしてでも返せと迫る。
困った山幸は、塩椎爺からの助言通り、海神のところへ行く。山幸は、そこで海神の娘・豊玉姫と結ばれる。そして、海神に自分が何故ここに来たのかを伝える。海神は、海中の魚を集めて、山幸の失くした釣り針を探すように言う。すると鯛の口にその釣り針が刺さっているのを見つけ、無事、山幸はその釣り針を手に入れる。
そして、海神は、山幸にその針を返す時に、「後ろ向きで『この釣り針は、ぼんやりする針、落ち着かない針、貧しくなる針、愚かになる針』といいながら、この針を渡せ」と言う。そして、針と一緒に、海の潮の満干を自由に操れる玉をに渡す。
山幸は、海神の言った通りにして海幸の元に帰って釣り針を返す。
その後、海幸はどんどん貧しくなり、遂には、山幸に攻めてくるが、山幸は海神にもらった玉を使って、海幸を溺れさせ、平伏させる。
後に、山幸は天皇家の先祖となり、海幸は隼人の先祖となるのだが、皇室の儀式の時の隼人の舞いは、海幸が溺れるときの仕草が取り入れられている。
全体を通して読めば、「他人には寛容であれ」という道徳譚として読める。確かに、子供の頃に読んだ絵本は、そういった文脈で書かれていたように記憶している。しかし、元々、嫌がる兄を無理やり説得して弓矢と釣り針を交換したのは弟・山幸のほうだ。そしてその針をなくしたのだから、それなりの咎を受けるのは当たり前だ。
それなのに、逆に兄を不幸に陥れる。元祖逆ギレ状態ではないのか。
それはともかく、古事記の登場人物たちは、周囲から助けられる存在として描かれることが多いということにも気づく。
大国主命は、兄達に殺されるが母親の祈りで生き返るし、ヤマトタケルは妻の力で海を渡ることが出来る。そして、この山幸も、義父に助けられるのだ。
敢えてこのように読んでみると、日本神話の大きな主題は「周囲に恵まれることが以下に大事なことか」なのかもしれない。
ただ今回、この山幸、海幸の部分を読んで気になったのは、いくつかのディテイルである。
例えば、海幸と山幸は実は三人兄弟だったということ。一体、二番目の兄はどこへいってしまったのだろうか。僕は逆にこういった、ある意味無駄な設定にリアリティを感じてしまうのだ。
古事記が、最初から物語として創作した話だとすれば、二番目の兄の存在を記す必要などなかったはずだからだ。
また、海神が山幸に対して、後ろ向きに呪文を唱えろというアドバイスをするところ。これは相手からの怨念を受けないための姿勢なのであろう。よく、ドラマなどで上司が部下に対して、「君はクビだ」的な辛い言葉を投げかける時に後ろ向きに伝える場面があるが、その神話学的な起源がここにあるような気がするのである。
そして、最後に、海幸の子孫の隼人が天皇家の前で披露する隼人舞い。被征服民が支配者の前で踊りを披露して、その忠誠を示すということなのだろう。それは、負け犬が勝ち犬に対して「腹を見せる」のと同様な服属儀式だ。
僕が何故か思い出すのが、小泉純一郎が、ブッシュ大統領の前でプレスリーの真似をして踊ったあのシーン。
今さらながら、神話学的にもっと糾弾されてしかるべき場面だったのかもしれないと思った。
まさむね
源氏物語 古典文学, 漫画・アニメ »
源氏物語関連での最近のニュース(11/12)にこんなのがあった。
フジテレビで09年1月から木曜深夜のアニメ枠「ノイタミナ」で放送予定だった、「源氏物語」の世界を描くテレビアニメ「あさきゆめみし」のアニメ化が中止となり、「源氏物語」を原作としたオリジナル作品「源氏物語千年紀 Genji」を制作することに変更されたというのだ。
僕は、アニメの源氏物語というのは、今まで見た事がないが、映像化された源氏物語にいつも幻滅を感じさせられてきた。
例えば、2000年に公開された『千年の恋 ひかる源氏物語』(主演:吉永小百合、天海祐希)は鳴り物入りでの登場だったが、残念な結果だった。
僕が思うに、源氏物語を映像化する際に問題となる点は以下の3点だ。
1)オカルトシーン(葵上が六条御息所の生霊に殺されるシーン等)の処理が難しい
2)数々の姫の元に通い続ける光源氏の身勝手さに感情移入させるのが難しい
3)光源氏が紫君を誘拐したり、夕顔が腹上死したりするシーン等の唐突さの処理が難しい
しかし、一方で、源氏物語を将来的にも渡って人々の心に残していくには、秀逸な映像化源氏、アニメ化源氏の誕生が不可欠だと思う。
特に、今後、日本に多くの外国人が移住してきた際、彼らに、日本文化の源泉を理解させるという意味でも、これは、重要な文化的事業ではないだろうか。
今回の企画には、是非、以上3点を克服した新しい源氏の世界を見せてほしいものである。
まさむね
源氏物語 古典文学, J-POP »
CDのミリオンセラー(シングル)が出なくなったよね。
このままで行けば、今年は一曲も出ないかもしれない。
おそらく、こんなことは、1990年以降では初めての状況である。
でも、こんな時代ではあるけど、現在、最も、今日的なメジャーアーティストは誰かと問うならば、EXILEという答えに異存無い人は多いと思う。それほど、彼らの楽曲はヒットチャートの常連なのである。
さて、このEXILEであるが、その特徴はR&Bを基礎とした官能的なサウンドと世界観にある。
わかりやすい言葉で言えば、その世界は「不在の彼女(彼氏)が残していったぬくもりを愛おしく思う一瞬」を歌にした感じだ。
例えば、彼らの代表曲「ただ・・・逢いたくて」。
ただ逢いたくて…もう逢えなくて
くちびる噛みしめて泣いてた。
今逢いたくて…忘れられないまま
過ごした時間だけがまた一人にさせる
そして、昨年のヒット曲「I believe」。
君のもとへ飛んで行きたい
いつもそばで感じていたい
瞳閉じて君を映し出す
今だけは寄り添って 君だけを感じたい
繋いだその手を 離さないように
君がいる季節は 何よりも輝いて
優しく包んでくれるから
さらに、最新のヒット曲「Ti amo」。
日曜日の夜は ベッドが広い 眠らない想い 抱いたまま朝を待つ
帰る場所がある あなたのこと 好きになってはいけない わかってたはじめから
どれだけの想いならば 愛と呼んでいいのでしょうか?
この胸をしめつけてる この気持ちに名前をください
これらの歌詞には、くちびる、瞳、手、胸という肉体的な言葉がちりばめられているが、それが彼らの創り出す世界をなまめかしくしているんじゃないかな。
相手の不在を想い、心を焦がすというのは、恋の基本シチュエーションだが、このEXILEの世界の艶かしさって、どこかであったなぁと思い返してみると、実は日本の伝統、平安王朝の和歌の世界がまさにそれなんだよね。言うまでもないんだけど、平安時代の貴族階級ってのは、通い婚なんだよね。男が女の屋敷に夜這いをかけるのが唯一の逢う方法。だから、女は待つしかない。その待つ身の切なさが平安文学を生む土壌にあるんだよね。
例えば、その代表歌が、待賢門院堀河の有名な一首。百人一首にも引かれてるから知ってる人も多いと思う。
ながからむ心もしらず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ
(ずっと好きだよって言うあなたの気持ちも、本当かなぁって思ってしまう。あなたが行ってしまった朝の寝乱れた黒髪のように心が乱れるんだから)
また、同じく百人一首にある藤原道綱の母の一首。
嘆きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る
(また、来てくれなかったあなたのことを嘆きながら過ごす独り寝の夜が、こんなに長いなんて、あなた、わかってるのかしら)
ねっ、EXILEの世界と通底しているでしょ。
EXILEが、現代日本で受けているのは、R&Bのリズムと日本独特の平安貴族の感性の融合が生み出す肉体性(官能性)なんじゃないかな。
だから、昨年の日本レコード大賞の授賞式で、最優秀歌唱賞受賞の瞬間、ATSUSHIの後ろで作り笑いをしていたパフォーマーの面々、そんな顔をする必要は無いんだよ。
パフォーマー達のダンスがあるからこそ、EXILEの世界の肉体性がリアリティを帯びるんだからね。
まさむね




