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「いつも何か失う予感があると彼女はそういった」
この台詞で突然始まる「雲のむこう、約束の場所」。
よしむねさんの昨日のエントリー夏のアニメ①「雲のむこう、約束の場所」―ストーリーにはいろいろ異論があるかもしれないが、煌くようなはかない夏の描写が好きだを受けてアニメ修行中の僕も早速、この作品を観た。確かに、よしむねさんが書かれている通り、この作品に関して言えば、そのストーリーや、SF的設定を云々するのは野暮だと、僕もそう感じる。
いや、それどころか、僕もよしむねさんの下記の言葉に付け加えることはほとんど持たない。
全体に流れる孤独感のトーン、夏のはかなさ、短い夏の煌きのなかで、もしかしたら誰にでもありえた、行き場のないような、結晶した時のような、ひと夏のたゆたい、その体験の翳のリアリティーにこそ、このアニメが依って立つすべてがあるようにも思う
こういったあの暑い夏の、「やり残したこと」、「果たせずに来た約束」、「置いてきてしまったもの」。そんな世界を現在のアニメファン用の意匠でつつんで発表したのがこの「雲のむこう、約束の場所」なのだと僕も思う。
それゆえに、この作品を他の夏アニメ、例えば、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」や「マイマイ新子と千年の魔法」といった作品と同列に並べ、いわゆる業界的に、その凡庸を語るよりも、むしろ、詩、例えば、有名ところで言えば谷川俊太郎の「かなしみ」の横に並べて、ある種の普遍を感じるほうがむしろ正しいのではないだろうかと思う。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
さらに、このアニメの舞台となった青森・寺山修司の下記のような短歌との通底に僕は思いをはせてしまう。
わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子被りて眠る
遠き帆とわれとつなぎて吹く風に孤りを誇りいし少年時
わが胸を夏蝶ひとつ抜けゆくは言葉のごとし失いし日の
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
さて、上記は主に、このアニメにおける残酷な時間に対する恨みについて感じてみたのであるが、一方で、僕が興味を持ったのがこのアニメの空間(コスモロジー)の捉え方である。
先ほども少し述べたがこのアニメの主舞台は青森(の津軽)のとある町である。
学校や住宅がある、いわゆる人々が暮らすエリアから、いわゆる共同体の境界線の象徴である墓地を通過すると、そこには、過去に捨てられた駅があり、彼らだけの秘密の場所がある。さらに、そこから海の向うを眺めると謎の塔がそびえている。つまり、現世→境界→理想卿→異界というコスモロジーがそこにはあるのだ。
よしむねさんも書かれていたが、この塔はあらゆるものの象徴となるようなオブジェ。そこに希望を見るものはそれは希望の象徴だし、そこに絶望を見えれば、それは絶望の象徴になるようなものである。
そして、夏のあの日、三人であの塔に自作飛行機で行こうとしたのだが、結局、その約束は果たされないまま、中学生生活は終わり、主人公の浩紀は悔恨を胸に抱えたまま、逃げるようにして、東京の高校へ行くのだ。しかし、晴れた日には、東京からも、なんとその塔が見えてしまうのであった。
つまり、悔恨の念はその象徴とともに、どこまでも、浩紀について来る。
実際に、北海道(エゾ)の建築物が、物理的に東京から、見える見えないという論議は置くとして、少なくとも心象風景としては、それは、確実に、北に存在するのである。
そして、雲の向うのあの場所へ行くという約束を果たすと同時に、この北の異物を破壊することによって、彼女が覚醒し、彼が心に抱えた悔恨は解消されるという展開は、まさに、このアニメが「物語」ではなく、「詩歌」だからこそ許される暴挙なのだと僕は感じてみたい。
さすれば、ここでも寺山修司のこんな歌が僕の耳の中で起動し、このアニメとシンクロをはじめるのである。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
そして、寺山や谷川の詩をこのアニメの横に置くと、冒頭のこの一行も、実は、立派な一行詩に見えてくるのである。
いつも何か失う予感があると彼女はそういった
まさむね
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最初にお断りしますが、夏のアニメと銘打ってはいるが、特に意図があるわけではありません。舞台が夏だけとは限らない設定も多いが、比較的夏が取り上げられていれば一応夏アニメとくくったまで。またこれから取り上げる作品の順番にも特に優劣はつけていない。この後も一応夏アニメとしていくつか取り上げたい作品があります。
まず第一弾は「雲のむこう、約束の場所」(新海誠監督、2004年)。評判は聞いていたが、実は観たのは今回が初めてで自宅でDVDを観た。いわゆるセカイ系の定義をぼくはよく知らないのだが、登場人物たち(藤沢浩紀、白川拓也、沢渡佐由理の三人が主要人物)がみんな孤独感を生きていて、いきなり世界の異相(ユニオンの塔というものが出てくる、これはいろんなものの暗喩か。併行世界とも呼ばれ、政治の亀裂や戦いの暗喩でもあり、不可侵のなにかのようでもあり、なにかの夢の形象のようでもあり、おそらくさまざまな意味を包含しているのだろう)と直結しているようなストーリー構成は、広義には本アニメもセカイ系と呼ばれる部類に入るのかもしれない。
ストーリーについては現実味がないとか、ロジック構成に真実味が感じられないとか、沢渡佐由理の声が典型的なアニメ声で嫌いだとか、おそらく異論も多いと思う。
そうしたストーリーとしての無理さはさておき、ぼくがとても惹かれるのは、やはり細部の描写だ。特に夏の青空と入道雲と夕焼けを背景にした、それこそひと夏の男女3人による、予感だけにみちた、どこか終末的な、退嬰的な、描写がたまらなくいい。うらぶれた駅舎や線路、壊れかけた廃屋や倉庫、静まり返った水面・・・。「神は細部に宿る」ではないけど、こうしたひとつひとつへのデッサンが妙にリアルでなつかしいのだ。
これらの夏の風物詩を見る(それこそ目にまとわりつくように観る)だけでもいいと思う。そしてラストの解釈もいろいろあるだろうが、ぼくなりに思うのはひとまず「ありえたかもしれない仮想の世界」に別れをつげてひとりの人を受け入れる(引き受ける)ことで始まる現実の再生の物語のように受け止めたのだが、いかがだろうか。
ただ何度も繰り返すがストーリーにはさして興味がない。全体に流れる孤独感のトーン、夏のはかなさ、短い夏の煌きのなかで、もしかしたら誰にでもありえた、行き場のないような、結晶した時のような、ひと夏のたゆたい、その体験の翳のリアリティーにこそ、このアニメが依って立つすべてがあるようにも思うのだ。それからあのユニオンの塔の存在が、最近の原発事故以後を思うとき、また違った意味で妙にリアルでもあるように感じられた。なにはともあれ夏の青空と雲にささえられたような一片の作品!
よしむね
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「タイガー&バニー」の第9話「Spare the rod and spoil the child. (かわいい子には旅をさせよ)」に、一旦泣き出すと、その部屋にある物がどんどん壊れていくというやっかいな超能力を持つ赤ちゃんが登場するのを見て、なんとなくどこかで観たことがあるような気がして、いろいろと思い出してみた。
そういえば、僕が子供の頃に観たアニメの多くにそういった種類の赤ちゃん(幼児)が登場していたっけ。ある子は泣いて、そして、ある子は超能力や魔法で、世界を破壊し、周りの大人を困らせる。まさしく、「泣く子と◎◎にはかなわない」というやつである。
以下、Wikiからの引用。
①サイボーグ009の001(イワン・ウイスキーという名前のロシア人の赤ちゃん)
...ほぼ的中する良からぬ予知夢を見た際は、激しい夜泣きとともに、ポルターガイストを引き起こす。
②オバケのQ太郎の弟のO二郎
...「ボム!」または「パァ!」と叫ぶことで目の前のあらゆる物を爆発させる特技の持ち主
左から001、O二郎、チビ丸、子泣き爺、坊
③花のピュンピュン丸の弟のチビ丸
...「ビエー」という擬声語付きの泣き声であらゆるものを破壊する
④ゲゲゲの鬼太郎に出てくる子泣き爺(と同類の妖怪)
...これが泣くと地震が起こるともいう
⑤千と千尋の神隠しの湯婆婆の子供の坊
...癇癪を起こすと暴れ泣き喚き、その威力は部屋を破壊するほどである。
ご存知の通り、原作者は①石の森章太郎、②藤子不二雄、③つのだじろう、④水木しげる、⑤宮崎駿というそうそうたる戦後日本のマンガ、アニメ史を彩った人々である。
もしかしたら、こういった一連の想像力は日本民族特有なものなのだろうか。
それとも海外にもそういった赤ちゃんの号泣が、世界を破壊するというおとぎ話は多いのだろうか。
例えば、あのビートルズにも「Cry Baby Cry」という歌があるしね。
泣け 赤子よ 泣け 母親にため息をつかせるんだ
Cry baby cry,Make your mother sigh
勿論、残念ながら、その起源に関してここで明確に出来ることは出来ないが、どうしても思い出さざるを得ないのが、「古事記」におけるスサノウの号泣である。手元にある「古事記物語」(社会思想社)から、その箇所を引用してみよう。
(スサノウは)はげしく泣きに泣いてやみませんでした。その泣き方のようすと申しますと、青々と繁った山を全く枯死した山にするまでに、はげしく泣き続けて水をからしてしまい、水をゆたかにたたえた川や海が全部乾上ってしまうまでに、はげしく泣き続けて水をほしてしまうというありさまでした。
う~ん、古代人の想像力と現代の漫画家、アニメ作家とはどこか通底しているにちがない。
まさむね
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先日書いた「「あの花」に観られるプロダクトプレイスメントの自然化の流れ」というエントリーへのコメントで、よぽんさんから紹介いただいた「タイガー&バニー」の現時点での放映分を一気に観た。
公式サイトをみていただくとよくわかるのだが、アニメ自体が協賛企業とのタイアップを強く打ち出している。とても、斬新な試みだ。
協賛されている企業は、SoftBank、サントリー(ペプシ)、BANDAI(ANIMEドットアニメ)、牛角、DMM.com、カルビー、USTREAM、富士通(FMV)などで、登場人物(ヒーロー)の衣装(ヒーロースーツ)にはそれぞれの会社のロゴマークがデザインされている。
ストーリーは、近未来都市を舞台に繰り広げられる勧善懲悪のヒーローモノであり、全体のテイストはアメコミ風である。勿論、一番の売りはサンライズ得意のメカニックアクションであるが、ストーリーの中には、そこかしこに人間ドラマも織り込まれていて、全く飽きずに1話から14話を楽しむことが出来た。
僕は今年に入ってアニメ修行をしているのだが、こういうアニメは決して「下らない」などと思って見てはいけない。
そんな僕の敵は「偏見」なのである。
おそらく楽しむコツはその世界に入り込むことだ。すると僕のようなオジサンにもワクワク出来る要素はたくさんある、言うまでもなく僕だってかつては子供だったのだから。
正直なところ、僕がこういったアクションアニメをリアルタイムで楽しんだのは、小学生の頃だから約40年も前の話。実は、エヴァも、マクロスも、ガンダムも、マジンガーZも通り越して、ジャイアントロボとか、ウルトラセブンの時代になってしまうのであった。
さて、それはともかく、僕がワクワク感という子供心と同時並行に持って楽しんだのは、やはり、広告がいかに、アニメと絡んで展開されていくのかという部分であった。
繰り返しになるがこのアニメは、当初から企業のタイアップありきで進められたようだ。そのため、ヒーロースーツーには上の画像のように、それぞれの企業のロゴが恥ずかしげも無く登場する。
しかも、ストーリーの中でも、これらのヒーローは、実際に起きた事件を解決するという警察的な役割と同時に、「HERO-TV」というテレビ番組のタレントとしての側面を持つ。それゆえに、彼らが企業スポンサーのおかげで収入を得ていることが臆面もなく出されているのだ。例えば、「スポンサー様のために、テレビ映りのいい場面に登場しなきゃ」的な皮肉たっぷりな台詞がところどころ登場してくるのである。
それゆえ、それぞれのヒーローはお互い協力をしながら、しかし、オイシイ場面では、ライバルとなるという関係もであるのだ。
そして、この高度資本主義的なヒーローの計算高いありかたを、主人公のタイガーに批判させるという用意周到さで、広告タイアップの胡散臭さを若干でも薄めようとする意図も見え隠れしている。しかし、そのあたりは逆に、日本におけるタイアップ広告の垢抜けなさを物語ってしまっているのだ。
ちなみに、その「HERO-TV」という番組は、2008年に日本テレビで放映された『ザ・クイズショウ』というドラマの中の架空のクイズ番組と、テレビ業界の自己批判をメタ的に描くという点において酷似している。特に、常に高視聴率やそして「オイシイ絵」を求め続ける冷酷な女プロデューサー・アニエス(左画)は、『ザ・クイズショウ』で真矢みきが演じた冴島涼子とそっくりであった。
しかも、「タイガー&バニー」の舞台は、近未来の都市であり、そこには現在の日本とは一線を画している、誰が見てもその世界は、ニューヨークの延長上に存在する都市に見えるだろう。
つまり、そうした現実とはかけ離れた時代(近未来)・場所(アメリカ)設定がゆえに、広告タイアップがようやく「リアリティ」を得られる、あるいは許されるというヨミが見えるのである。(それはちょうど、WWEのプロレスが武道館ではなく、MSGだからこそ許されるという感覚に近い。)
その意味で、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(通称:あの花)に描かれた現在の埼玉県・秩父の日常生活でのプロダクトプレイスメントとは似て非なる広告とアニメのスタンスというべきかもしれない。
おそらく、こうした思い切ったタイアップであるがゆえに、放送メディアは、毎日放送(MBS)TOKYO MX、BS11、USTREAMといった、言い方は悪いがマイナーな場所なのであろうことも想像される。つまり、失敗したときのリスクヘッジ(あるいは実験)がされているというわけである。
しかし、ヒーロースーツに描かれた企業ロゴによって、いつの間にか企業イメージアップを刷り込まれるほど、僕らは素朴ではないのも確かである。
例えば、主人公のタイガー(日系)のスーツに描かれているのはSoftBankのロゴなのは、脇役の中国系ヒーローの両耳に書かれたDMM.comとカルビーや、一応、ヒーローのキャラとイメージ的に重なってはいるものの、ほとんど活躍をしない力頼みのヒーローのロゴである牛角に比べると、より多額の番組スポンサー料を提供しているからということは容易に想像出来てしまい、それはそれで、視聴者によっては、シラける要素ともなりかねないし、彼らのヒーロースーツに企業ロゴが入っているのを見た瞬間に、「今後、裏切りをするなどといったストーリー展開は有り得ないな!」というようなことをもに容易に想像させてしまう...という懸念点がないわけではない。
さて、先日書いた同じエントリーのコメントにおいて、じつにさんから、そして、Twitterのメッセージで僕のアニメ師匠であるすがりさんからご紹介いただいた映画評論家・町山智浩氏が紹介する「POMワンダフル・プレゼンツ ザ・グレイテスト・ムービー・エバー・ソールド」批評では、プロダクトプレイスメントの過剰がギャグでしか成立し得ない広告とハリウッド映画の微妙な現況が解説されているが、そこには、今後、明らかに映像と広告が融合していくに違いない「明日の日本」が予告されているようにも思える。
問題は、こういった動きを批判し、毛嫌いするだけではなく(勿論、それも大事だが)、作品自身の楽しさに加えて、そういった広告と作品の関係の微妙な水準を楽しむリテラシーが求められるのだろうと思う。
そしてそのリテラシーとは、僕には、ちょうど、プロレス的感性と通底するようにも思えるのだ。
つまり、何が本当で、何が嘘か、どう観れば楽しくみれて、どう見れば野暮になってしまうか、そしてどの嘘ならば騙されてもいいけど、どこからは警戒しなければならないか...などといったことを、視聴者それぞれが自覚しながら、しかも眼の前のアクションを純粋に楽しむという複雑怪奇な感性が必要ということである。
ちなみに、上記の町山さんは、僕が別冊宝島の「プロレスにささげるバラード(1992年)」にプロレスの記事を初めて書かせていただいた時の担当編集者で、このエントリーを、今、書いているのは、その時、彼とはじめてお会いしたその部屋である。
まさむね
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3.11の東北東日本大震災以降、各人にとって何が大事なのかということを、僕らはそれぞれ考え始めている。
直接被災された地域の方々のことを考えると本当に胸が痛むが、そこから敢えて教訓のようなものをいただくとしたら、大事なものとは、「人と人との絆」ということなのだということを、改めて思う。
しかし、いざというときのために、普段から、いか他人との信頼関係を築いておくのかということ...現代人にとっては簡単そうで実は、なかなか難しいテーマがここにはあるような気がする。
日本は、明治以来、結果として、そういった信頼関係(地縁、血縁コミュニティ)が無くても生きていけるような社会を目指してきた。それが近代化というものだ。そして、その近代化の果実としての自由や便利さといったものと引き換えに多くのものを失ってきてしまったのである。
いまさら、他人との絆を取り戻そうと言われても、どこから、どうしたらいいのだろうか...
先月まで放送されていた深夜アニメの「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(通称:あの花)は、「絆とは、何か?」という漠然としたテーマ、しかし、現代日本人にとって最も大事なテーマについて改めて考えさせてくれる良質な作品であった。
幼馴染6人組(男3人、女3人)が、夏のある日、その中の一人の女の子(めんま)の突然の事故死によって、それまでの固い結束が崩れ、なんとなく、個々人がその事故の精神的後遺症(トラウマ)を抱えながら、過ごす高校一年生の夏に、亡くなったはずの女の子が突然、その中のリーダーだった男の子(仁太)の前に姿を現し、「願い事を叶えてほしい」と告げるところから始まる。
場所は、埼玉県の秩父である。
ちなみに秩父は池袋に出るのにはちょっと遠い、関東平野のどん詰まりの地。市街地からちょっと離れると里山が広がっており、秩父三十四ヶ所観音霊場で有名な、いわゆる山霊の里としても知られている場所、そして同時に、日本史以来最大の民衆の反乱事件=秩父事件の発祥地でもある。
そんな土地で生まれた少年・少女達がいかにして、かつての栄光の絆を取り戻すのか、僕はこの「あの花」をそういった視点でもう一度見直してみたかったのである。
さて、物語は、突然現れた幽霊のめんま(仁太にだけ見える)のお願いとは何なのかを、仁太が考え始めるところから、展開する。そして、いやいやながら、かつての幼馴染と連絡を取り、それをみんなで考え、解決していくというストーリーである。
しかし、物事はそう簡単ではない。実はかつてリーダーだった仁太は今は、登校拒否の引き篭もり生活をしているのだ。そしてそれぞれのメンバーも、今では別々の生活を送り、そこにはもう「絆」と呼べるようなものはなかったのである。
それどころか、それぞれは、あの忌まわしい事故によって、何かを喪失し、閉塞的な日常を送っているのだ。(幼馴染達の閉塞状況に関する詳細は別のエントリー「深夜アニメ『あの花』で描かれたフロイト的人間観の可能性」で書かせていただいたのでご興味のある方はコチラをご覧下さい。)
さて、めんまのお願いを叶えようとする過程で、それぞれの内側に秘めたエゴイスティックな想い、変体趣味、コンプレックス、そして恋愛感情を爆発させる幼馴染達。しかし、最終的に、彼らは、それまでの殻を脱ぎ捨て、裸の人間となってお互いが向き合うことで、新しい絆を構築していこうとする。「あの花」はそんな物語なのである。
★
最終回の後半、この物語は怒涛のようなラストをむかえる。
思い出が詰まった秘密基地に集まった幼馴染達だが、それまでは仁太にだけは見えていたはずのめんまの姿が見えない。
めんまを探しに山に飛び出る仁太、それを追う幼馴染達。
そこから、全員で、里山を走り回ってめんまを探す夜通しのかくれんぼが始まるのである。
そしてついに朝になってしまうのだが、それでもめんまは見つからない。
しかし、フッと見ると、地面にはめんまから、各人へへ宛てた「大好き」のメッセージが書かれた日記の切れ端が残されていた。
一人一人、めんまからのメッセージを読み、涙する幼馴染達。もう、つまらないわだかまりやエゴは無かった...
実は、この瞬間こそが、めんまのお願いが成就した瞬間だったのである。
つまり、めんまのお願いとは、かつて、バラバラになってしまった仲間の絆の再構築だったのだ。
そして、その瞬間、それまで仁太にしか見えていなかっためんまが、他のメンバーに見えたのである。
しかし、残酷にも、まさにその瞬間、めんまは朝日の中で、徐々に消えていく。なぜなら、願いの成就=成仏を意味するからだ。
そしてみんなは気づく。
「そうだ、あの夏の日、めんまは事故によって死んでしまったのではなかったのだ、かくれんぼをして隠れていただけだったのだ!!」
「めんま!み~つけた!!」一斉に叫ぶ、幼馴染達。
そして、めんまは朝日の中で消えていく。
そこには花瓶にさした花だけが残る...
あの日に亡くなっためんまは、これからも、名も無き花として、いつでもみんなのそばにいて、みんなが絆を持ち続けることを願っているに違いないのである。
★
おそらく、日本人は、身の回りにあるかわいらしい花や小鳥、そして土地や風に対してでも、独特の愛情を持ち続けてきた民族である。だからこそ、「あの花」を観て、違和感なく、涙できる民族なのである。
その意味で、敢えて極論するのであれば、「あの花」は、太古の昔から連綿と続く日本人のDNAを呼び覚ますような作品の一つだったと言えるであろう。この物語が、太古からの人々の生活が営まれてきた土地・秩父を舞台にした根拠の一つがここにあるのだと思う。
勿論、このアニメの結末を、あまりにも美しすぎるという批判もあるのかもしれない。そんな方は、このアニメの陰画として次の歌を声をだして詠んでみればいい。
かくれんぼの鬼 解かれざる まま老いて 誰をさがしにくる村祭
これは、青森生れのアーティスト・寺山修司の不気味な歌だが、日本文化は一方で「あの花」というファンタジーを生み出しながら、一方で、「寺山修司という邪悪」を生み出すほど豊潤で多様な国なのである、とも言えなくはないだろうか。
あるいは、この寺山の短歌が詠まれた時代と「あの花」が放映された現代との間に横たわる40年余りの歳月に、個人と共同体の関係性の落差を感じることも出来るかも知れない。一方では、かくれんぼにおいて放置された鬼が突然、復讐しに現れるという、共同体への怨念歌なのに対して、他方では、その鬼自体が、共同体再生のための契機になっているからである。
★
さて、最後にこれはうがち過ぎかもしれないが、僕はこの「あの花」を観て、幼馴染達の境遇はちょうど、現代の日本とも重ね合わせて観てしまった、ということも付け加えておきたい。
今から66年前、日本という国が総力を上げて闘い、そして敗れた戦争があった。
そして、戦後、欺瞞的な物語によって、贖罪意識を植え付けられてきた日本人。
その物語とは、日本が一方的に悪かったという物語であり、しかもそれは、一部の軍部=権力者だけが悪い戦争だったという嘘の物語である。
もちろん、その物語の土台の上に、戦後の日本が奇跡的な発展を遂げたのは事実だろう。
しかし、一方で、その欺瞞がある限り、現在のような危機の時に、その原因を自分達で引き受けるのではなく、”お上”にかぶせようとし続けててしまうのではないだろうか。
もしかしたら、僕らは先の戦争の贖罪意識をどこかで浄化したい、あるいは、してもらいたがっているのかもしれない。
それはちょうど、「あの花」において、幼馴染達がめんまに感じていた贖罪意識を、めんまによる「みんな大好き!!」という言葉によって浄化してもらったように。
ただ、それがいいことなのか、悪いことなのかは、僕にはまだわからない。
まさむね
参考エントリー「深夜アニメ『あの花』で描かれたフロイト的人間観の可能性」
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。




