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先週のはじめに、西宮神社の福男選びがあった。
いつの間にか、西宮だけではなく、全国的に有名な正月明けの行事となった感がある。確かに、見ていて面白い。
僕は以前、イザナミとイザナギの第一子でありながら、不具(足が立たない)であったため海に流された蛭子を祭る神社なのに、何故、足を競うような神事を境内で行うのだろうというような疑問を持っていた。
一応、足の悪い恵比寿(蛭子)さんの太っ腹を示す意味があるのではないかなどと勝手な解釈をしたが、今度、機会があったら、是非、現地の宮司さんや氏子さんとかに聞いてみたいものである。
さて、恵比寿といえば、最近、読んだ「妖怪ハンター水の巻」(諸星大二郎著)で描かれていたエビス様は不気味であった。この漫画では、エビス様は岸辺に流れ着いた死体(つまり土左衛門)だったと表現されている。
おそらく、福というものは、海の向こうに代表されるような異界からやって来るものという古来からの日本人の信仰をベースにしているのであろうが、その信仰が本来持っていた「毒」をこの漫画は本当によく表現しているのである。
ここで「毒」というのは、日本においては信仰される対象は、必ずしも美しかったり、崇高だったりするのではなく、逆に醜悪だったり、忌避される存在だったという逆説が表現されているという意味である。
さて、興味深いのは、この巻に収録された「六福神」という短編である。そこに描かれている神々も毒を持っている、決して善良な神々ではないのだ。それどころか、露悪的なほど、邪悪な様相を呈している。とても、子供の漫画雑誌に掲載さえていたということが簡単に信じられるような代物ではない。例えば、宝舟の上では、大黒は、福禄寿の長い頭をちぎって喰らい、布袋はテレビゲームにうつつをぬかし、毘沙門天と弁財天とは常時、くんずほぐれつSEXをしているのである。
おそらく、舞台となった地方は、日本海側の寒漁村であろう。そこには、「七福神」ではなく、「六福神」という言い伝えがあるというところから話は始まる。この地方では、年の暮れに六福神を描いた絵を海に流し、正月に七福神の絵を神社で買ってくるというのだ。
そして、この六福神は、忌み嫌われる存在で、村から人をさらっていくという不気味な伝承もあったりもするのである。しかし、それが正月になり、ひとり増えて七福神となると、がらりとめでたい福の神になるという。
ドラマはこのような世界で展開していくのであるが、僕には、このドラマ以上に、六が不吉で、七がめでたいという、その観念に興味を持った。家紋の世界もそうであるが、日本人(東洋人)にとって幸福な数字は偶数ではなく、奇数なのである。例えば、竹笹紋や星紋などは、圧倒的に奇数の葉や星の家紋が多い。また、大相撲の本場所が奇数月にのみに行われるのも、一月一日、三月三日、五月五日...など奇数月のぞろ目にのみ重要な日が当てられているというのも、ある種の縁起をかついでいるのであろう。ちなみに、この「妖怪ハンター水の巻」の巻頭の話「産女の来る夜」は旅の巡礼(六部)殺し伝説がもとになった話であるが、ここで登場する「六部」という存在にも、六という数字にまつわる不吉さを嗅ぎ取ることが出来る。
これは僕の推理であるが、このように偶数が持つ座りの悪さ(安定感の無さ)が、「六福神」を不気味な存在とし、「七福神」をめでたい存在にしているのではないだろうか。そこには、二で割り切れてしまうということが、組織内の和を乱しがちになるという日本人の長年の知恵があるのかもしれない。
さて、この漫画では、七人目の福神として宝舟に乗っていたという「福助五郎」というちょっと変った風体の男が登場する。いうなれば、彼は異形の男である。
異形と言えば、かつてのプロレスには、この異形の人々が持っている福を呼ぶ超人的な力を感じさせる何かがあった。
今、思えば、正月には必ずブッチャーを呼んでいた馬場さんのセンスには感心せざるをえない。七福神プロレス。これが、かつての全日本プロレス・新春ジャイアントシリーズの隠しテーマだったのではないだろうか、と今、改めて思う。
布袋、恵比寿、大黒としてのブッチャー、毘沙門天としてのハンセン、(そして、自ら)福禄寿、あるいは寿老人としての馬場...
最後に、この「妖怪ハンター水の巻」の「鏡島」に登場してくる海モッコについてだが、この海モッコで思い出したのが、例えば、以下のような渡部昇一氏の話である。
祖母は無学な東北の百姓でしたから、元寇も蒙古も知らないんです、しかし、世の中で 一番こわいものはモッコなのだと、東北の山村で語り継がれてきたんです。
700年以上前の元寇に対する恐怖が妖怪化したのがモッコだというわけだ。保守陣営の重鎮らしい面白い説である。
まさむね
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三ヶ月ぶりのアニメ修行復活である。
それでは、この三ヶ月間、別に何か特別な意義深いことをしていたかというとそうでもなかった。
ただ、時間が過ぎてゆくだけだったような気もする。それを考えるに人間というものは、常に何かをしようとし続けないといけないものなのだろう。
さて、アニメ修行の話だが、僕が49作目に選んだのは『精霊の守り人』という、かつてNHKBS-2で放映されたアジアン風味のアドベンチャーファンタジー。原作は上橋菜穂子さん、監督は「攻殻機動隊 S.A.C」「東のエデン」の神山健治さんの作品である。
以下、読んでいただく方には、ネタバレどころか、このアニメを既にご覧になられた方にしか理解できないであろう事、ご了解下さい。
まずは、この物語において興味深いのは世界観である。そこは地球のようであって地球ではない、どこか別の惑星での話である。空には月が二つ出ており、地球上では見られるようで見られない動物(例:右画のナージ)が登場する。また、この世界では、人間の現世界(サグ)と、精霊が棲む幻想世界(ナユグ)が並存していて、呪術師と呼ばれる人々はその二つの世界を行き来出来るでのである。
舞台となる地域は、かつての秦や唐のような絶対王権を持つ国家(ヨゴ皇国)によって統治されている。そして、この国は、頂点である帝(みかど)の下、星読み博士と呼ばれる占星術師達が政(まつりごと)を行い、武人が周囲を固める、いうなれば宗教的軍事専制国家なのである。
一方、この皇国がこの地を統治する以前、ここには、ヤクーという別の部族が住んでいた。彼らは現在でもヨゴ皇国の周辺地域で昔ながらの生活を営んでいる。そして、ヨゴ皇国の統治は、星読み博士が行うのに対して、ヤクーには、口伝の物語、民謡、呪術が(だいぶ消滅したとはいえ)残っており、それによって宗教的伝統や人々の暮らしが守られているのだ。
この物語の面白さは、こうした世界観に、日本をメインにしたアジア各国の習俗や伝説、神話のカケラがちりばめられており、その世界をそこはかとなく豊かにしているところである。
例えば、ヨゴ国の夏至祭りで、民草(庶民)が灯す松明が、後半に登場するラルンガ=卵喰い(右画)という怪物の弱点を突くための武器の名残だったというような設定は、ちょうど、正月を直前にしてこの作品を観た僕に「門松が歳神様を家に迎え入れるための依代である」というような記憶をも甦らせたのであった。
あるいは、ヨゴ皇国とヤクーの関係は、大和民族(日本)とアイヌ民族(蝦夷)との関係をも思わたり、そのヤクーの田植え唄の中に、100年に一度だけ生まれ変わるという水の精霊(ニュンガ・ロ・イム)誕生時の真実が隠されていたりと、民俗学に少しでも興味を抱いたことのある人であれば、必ずや背筋に何かが走るような演出が、そこかしこに観られるのである。
また、このアニメには格闘技マニアにとっても垂涎シーンがあったことも記しておきたい。それは村祭りの際に行われる格闘技大会(ルチャ大会)において、ロタという遊牧民族の選手が、ボクシング+関節技のようなスタイルで攻めてくるのに対して、ヨゴの民が行う、遊びの延長のような格闘技=ルチャがまるで歯が立たなかったというところ。
しかし、そのルチャのルールが土俵から出たら負けということを活かし、さらにロタの気質の粗さを逆用して、ヨゴの皇太子のチャグムが、挑発の末に、体をかわして、相手を土俵の下に落とすくだりなど、いわゆる異種格闘技戦の醍醐味(エッセンス)を熟知した格闘技ファンの神山氏ならではの演出のように見えた。
ついでに神山氏の演出で言えば、例えば『攻殻機動隊 S.A.C』シリーズの第1話「公安9課 SECTION-9」で、暴走したサイボーグ芸者が政府要人にかけるチョークスリーパー(左画)や、『攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG』の第21話「敗走 EMBARRASSMENT」でクゼがバトーの足を破壊するアンクルホールド(右画)などにも、彼のプロレス、格闘技好きが垣間見られたことも、ここでついでに記しておきたい。
さて、上記のように話のディテイルについて、一つ一つ、突っついていく楽しみはそれはそれであるのだが、きりが無いので、このあたりで物語全体の構成について話を進めたいと思う。
僕は、第二皇太子(チャグム)がその体に水妖の卵(孵化すると土地に旱魃をもたらすという)を宿すという宿命を背負うことによって帝(みかど)から命を狙われて、各地を放浪するという展開の下敷きには、記紀のヤマトタケル、あるいはエディプスといった神話があるのではないかと想像した。また、そのチャグムが、この宿命を覚悟して生きるという生き方を、王宮の外における様々な体験によって獲得するという展開も、冒険小説やロールプレイングゲームの典型だと思った。
おそらく、この『精霊の守り人』の安定感はそうした典型をしぜんな形で取り込んでいるからに他ならない。
しかし、一方でそういった典型を取り込みつつ、他方では、実は、その卵は、旱魃をもたらす水妖のものではなく、水の恵みをもたらす精霊のものであったということが判明し、さらに、その事実が、建国神話では、初代皇帝(とその周囲の武人達)の建国を正統化するように捻じ曲げられていたことが暴かれる。
そして、その建国神話による事実捏造をリセットし、新帝・チャグムが水の恵みをもたらしたという新しい伝説と同時に新しく、真に正統な国を創るために、今度は、チャグムが帝になるという新たなる宿命を引き受け、ある意味で、国の礎たる「生贄」となる覚悟をするという流れは、ユニークでオリジナルな展開ではないかと感心させられた。
つまり、ヨゴ皇国の、現在に至るまでの武断的な体質は、水妖を武力によって倒したという建国神話によって正統化されていたのであるが、チャグムという正統な王位継承者が、水の精霊を宿していたという新たな正統性に基づく、武力に依存しない(平和的な)国創りが今後、行われるであろう事が予感されるようなエンディングとなっているのである。それゆえに、用心棒のバルサは、その必然としてヨゴの国を去らねばならなかったのであり、彼女は今度は己の魂を救う旅に出ざるをえなかったのだ。
思えば、一国の建国神話は、その国の民族を特徴付けるような逸話が盛り込まれているものである。例えば、記紀において、天照大神の孫のニニギノミコトは、それまで日本を支配していた大国主命と話し合うことによって「国譲り」を受ける。それがゆえに、この談合主義は、連綿と続く日本の伝統となっているのだ。
さて、建国神話とその後の国民性の関連性という文脈で、この『精霊の守り人』に対して、敢えて現代的な意義を見つけるとするならば、敗戦後に出来た戦後体制を正統化している物語(戦前は不幸であった、軍部が国民を戦争に駆り立てた、日本の植民地政策は間違っていた、戦後日本は民主主義国家として喜んで生まれ変わったなど)の欺瞞を廃して、戦後体制自体をリセットするためには、なんらかの「生贄」を踏まえた、新しい価値観を提示するような物語が必要なのではないか?ということを示唆しているところかもしれない。
また、その新しい物語のヒントは、海の外からやってくるのではなく、口伝や伝説のような、古くからその土地に根差したモノの中にこそ、見出されるべきであるということを教えてくれるところでもあると、僕は思う。
まさむね
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先日、友人のI君に諸星大二郎の「暗黒神話」を借りて読みました。
この漫画は、記紀からはじまり、古代史、邪馬台国神話、民間伝承、仏教説話、そしてしまいには、天文学をも巻き込んだ壮大なSF物語です。
諸星先生自身もこの作品について「緻密で壮大なジクソーパズルをしてみたかった」と言われていたということですが、まさにこの「暗黒神話」は、それらの膨大な歴史文書から抜き取られた様々なピースが諸星大二郎の頭脳の中で、強引かつ、奇跡的に一枚絵に組みあがったような作品なのです。
話の大きな枠組みとしては、一人の普通の少年が、未知の異世界に巻き込まれてゆく、というSFとしてはよくあるパターンなのですが、そのスケールの大きさと、ネタの豊富さが凡百の物語を完全に凌駕しています。おそらく、この作品を書くにあたっては、その構想に相当な時間を必要としたのではないかと想像されます。とにかく凄すぎます。
そして、さらに驚くのは、この漫画が最初に連載されたのが週刊「少年ジャンプ」(1979年)だったということです。読者層が、小学生高学年から、せいぜい大学生位の少年誌に、堂々とこんな複雑怪奇な漫画が連載されていたということですから。
勿論、小学生が読んだとしてもその全貌はつかめないと思われるのですが、それでも「ここに描かれていることは何だか凄い!」という感覚はつかめるでしょう。
この感覚は、「自分は今は知らないけど、なんだかこの日本(世界)には大きな謎があるに違いない!」という感覚に近いかもしれません。
そして、この漫画を読んだ子供達が、その感覚を元にして歴史や日本文化に興味を持ち、徐々に知識を得ていくということもありえるでしょう。さらに、ある程度、勉強した段階で、再読してみて、さらに感激する...そういった読者の成長に合わせて何度でも読み返せる作品、それがこの「暗黒神話」だと僕は思います。
つまり、この漫画の中に潜む様々なネタ元を、読者が自分なりに想像してみるという楽しみこそ、この物語の醍醐味ではないでしょうか。
例えば、主人公の山門武が、様々な場所で身体に受ける聖痕(スティグマ)は、「平家物語」にも登場する緒方惟栄(この物語にも緒方家が出てきます)の身体にあったという蛇の鱗の痣を想像させます。また、その武が八つ聖痕(スティグマ)を身体に刻んだとたんにオリオン座に存在する馬頭星雲に近づき、ブラフマンと一体化して、その「天の馬」を自由にあやつる超能力を与えられるという展開は、平将門が乱を起こしたときに、天から七つの星が降って来て黒馬となり祝福したという話とどこか繋がっているようにも思われるのです。
また、SF関連の影響か?というシーンで言えば、弟橘媛がカプセルから蘇った途端に体が崩れてしまうシーンは、手塚治虫の「火の鳥(未来編)」で猿田博士が作った生命維持装置から外に出た途端に溶解してしまう人造人間・アダムの姿と酷似していますし、56億7千万年後の地球に戻ってきた武が、石の馬とそれに群がる餓鬼を見て、そこが地球だと認識するという設定は、地球に帰ってきた宇宙飛行士が、砂に埋まった自由の女神を見て、そこが地球だとわかる、あの「猿の惑星」の衝撃のラストシーンを思い出させます。
さて、これはある種の都市伝説なのかもしれませんが、最近の子供達の間では、小説を読むなんていうのはトンでもない、それどころか、漫画を読めることが、「頭のいい子」ということになっているといいます。
でも、このような活字、あるいは漫画離れ現象というのは、実は、漫画作品自体が発する「よくわからないけど、何か凄いという」オーラというものが減ってきているというのも原因のひとつなのではないでしょうか。この「暗黒神話」を読んでそんなことが想像されました。
また、良作に出会った時に感じるオーラのもう一つの機能は、それによって読者が、自分でも同じようなモノを描いてみたくなる衝動を沸き起こすことだと思います。あるいは、そこまで行かなくても、その物語が持つ求心力が、読者それぞれの頭の中に、次々と別の連想を沸き起こさせるということです。
例えば、この物語で重要な役割を果たすのがスサノウなのですが、そのスサノウ繋がりで言えば...
スサノウを祭神としている八坂神社の神紋である五瓜紋は、織田信長の紋でもあるので、信長の超人的な力もスサノウの力を体現していたのではないか?とか...
八坂神社は、秦氏の氏神、その秦氏が奉ずる広隆寺の元々の本尊であった弥勒菩薩は、まさに56億7千万年後の武の姿ではないか?とか...
さらに、その広隆寺の牛祭の祭神である摩多羅神の象徴である茗荷紋は、秋山真之、村山槐多、水木しげる、三島由紀夫、角川春樹、北野武の家紋だから、彼らも物語に動員出来るのではないか?とか...
さらに、メチャクチャついでに...
例えば、先ほど上げた緒方惟栄の蛇の鱗の痣の話は、その後、緒方家に広く伝承される三つ鱗紋に結びつき、さらにさかのぼれば、三輪山の大物主(蛇神)にも行き着きますが、その蛇神の怒りが台風12号@2011を起こしたのではないのか、とか...
さらに、黒馬の話は、将門の子孫(と称する人々)、特に相馬家の繋ぎ馬紋と結びついてしまいますが、その相馬一族の本拠地(旧相馬藩)にあったのが、あの福島第一原発で、その現状はまるで、放たれた暴れ馬のようだったり、とか...
そんな、不謹慎で身勝手な連想が頭の中をかけめぐったりもしてしまうのです。
いずれにしても、こういった頭の中をかき乱すような漫画こそ、豊潤と呼ぶにふさわしいと僕は思います。
多分、しばらくは、「暗黒神話」の呪縛から離れられそうにありません。
まさむね
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つい先日のことですが、Yahoo!のトピックで『「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ』という記事が話題になっていました。
これは、asahi.comの中の小原篤さんのコラム『「若者は夢を持つな」と監督が言った』の中でも紹介されていますが、押井さんが、ある講演会で、以下のように述べたことが物議を醸したというちょっとした事件でした。
僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない
実際、このような意見は、最近、僕の近くのアニメファンからも多々、聞くことがあります。
その背景としては、現代のアニメ製作者達の多くが、育ってくる過程で、アニメ、ゲーム、漫画といったいわゆる「オタクコンテンツ」のみを受容して来ているということがあると言われています。
例えば、岡田斗司夫さん等が、その著作「オタクはすでに死んでいる」なんかで主張していることとも近いのですが、かつてのアニメ製作者達は、「オタクコンテンツ」以外にも、SFや映画、文学、哲学等を幅広く勉強し、しかも、個々人がいくつかの深い得意ジャンルを持っていました。そして、それらの教養をバックボーンとして、作品を作っていました。
ところが、近年、そういった製作者側の教養の幅が、オタク周辺ジャンルに偏って、来たことによって、その同じ狭いオタク文化的知識や嗜好を共有している「仲間」には受け入れられても、なかなかその外に通用するコンテンツが生み出せない、いわゆる「先鋭化」が進んでいるというようなことですね。
勿論、アニメなどの作品は、例えば、文部省などからの補助金によって、文化事業の一環として作られるというのなら別ですが、ある面で、商品として存在せざるをえません。それは真理であり現実です。
そのため、視聴者の嗜好に添った作品になっていくというのは仕方が無いことだとも言えます。
例えば、僕も、アニメの歴史というのは、男性キャラの存在感、(あるいはマッチョ主義)がどんどん希薄になっていく歴史ではないかと考えていますが(「「けいおん!」という商品をぎりぎりのところで作品に踏みとどまらせたもの」)、それも、こうしたコンテンツ製作者及び、視聴者が共に、先鋭化していることが原因だと思われます。
ただ、僕は、一見、そうした概観を持っているアニメであっても、その中には、1ミリでも、新しい試みや、時代の息吹、そして、作品としての意地のようなものを感じ取ることが出来るのではないかと思っています。そして、むしろそうした可能性を見出すことこそ、作品を鑑賞することではないかとすら考えています。まぁ、それはそれで、結構、疲れる鑑賞法ではあるのですが...
さて、それはともかく、こういったアニメの先鋭化は、作品の質の問題もそうなのですが、同時にマーケットをも狭めているという指摘もあり、むしろ、こっちの方が大きな問題なのです。そのためには、マーケットがある程度、大きい現段階にこそ、様々な可能性を試してみることが重要になってくると思います。マーケットが縮小してしまってからでは、多分、遅いのではないでしょうか。
しかし、様々な可能性と言っても、それはなかなか難しい、人間は、知らず知らずのうちに固定観念の枠に嵌められてしまうと、その外がなかなか見えなくなってしまうからです。
話は変りますが、先日、立川談志さんが亡くなりました。僕は談志さんのファンだったので、そのタイミングでYOUTUBEにアップされている談志さんの動画をいくつか観てみました。すると、その中に、談志さんと上岡龍太郎さんと長嶋茂雄さんの三人が鼎談をしている動画がありました。
そこで、長嶋さんは、自分が現役時代にセカンドゴロを二つ捕ったことがあるというような話をして、談志さんと上岡さんはそれを聞いて大笑いしていました。
勿論、それは常識外の、むしろ、想定外のプレイなわけです。つまり、当時、一緒に内野を守っていたであろう広岡さんだったら最も嫌がるようなプレイだったということですね。
ただ、その時、僕は思いました。おそらく、長嶋さんという人は、野球が野球という制度になる以前の、なにか別のものになる可能性を感じ取れる人だったんだなぁと。長嶋さんが天才と呼ばれるのは、おそらくそうした感覚においてだと僕は確信しました。それは、決して、彼が残した記録によってではないと。
そして、その話に続けて長嶋さんは、野球選手は、野球を専門にする以前に、バスケットボールやサッカーや格闘技など、様々な別ジャンルのスポーツをすべきだと、そのためには、プロ野球にも一軍、二軍に加えて、三軍を作るべきだと...
話を強引にアニメに戻すと、今、アニメ界に必要なのは、こういった長嶋的な感覚ではないでしょうか。もしかしたら、アニメがアニメという制度になる以前のなにかを感じ取れる製作者は、それまでアニメとは全く関係の無いことをしていた人々の中にいるのかもしれません。
あるいは、そのヒントは、アニメがアニメという制度になる以前に作られたアニメを観ることかもしれません。その意味では、例えば、1973年にフランスのアニメ作家・ルネ・ラルーによって作られた「ファンタスティック・プラネット」こそ、現代のアニメ製作者が見るべきアニメだと僕は思います。
このアニメについては、別途語ってみたいと思いますが、このエントリーでは、現代の日本に生きる僕らの感覚とは完全にねじれた位置に存在する異物のようなアニメであること、つまり、アニメというジャンルが、もう一つ別の「なにものか」になりえる可能性を秘めているアニメだということだけお伝えしておきたい思います。
まさむね
※この「ファンタスティック・プラネット」は、アニオタ保守本流の古谷経衡さんに教えていただきました。




