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歴史・家紋, 社会問題 »
武隈の松のことを調べていたら、本気で歌枕に関して興味が出てきてしまった。
これだから「おたく」という性分はタチが悪い。
荒俣宏氏の『歌伝枕詞』(世界文化社)では、陸奥の歌枕を、大和朝廷によってほろぼされた蝦夷の魂を鎮魂すると同時に、無害な文学イメージとして昇華させたものという捉え方をしている。一昨日のエントリー「歌枕「武隈の松」と「竹ノ熊さん祭り」、蝦夷と熊襲。にも引用しさせてもらった箇所をさらに、続けて引用させていただく。だって面白いんだもの。
歌枕が消し去った陸奥の古い実像とは、当時、高度の発達していた蝦夷独自の文化と、戦闘の傷跡である。とくに後者の戦争の記憶は、巧妙に抹殺されたに相違いない。官軍側を破ったアテルイのような英雄は、”悪路王”あるいは”鬼”として悪役に回され、他方、勝利をもたらした田村麻呂が英雄にまつりあげられるのだ。
つまり、田村麻呂伝承は、歌枕とセットになって、陸奥にまつわる蝦夷の真相を消すための美しいフィクションとしてかんがえだされた。ぼくには、どうしてもそのように思えてならないのだ。
じつは、この箇所が何故、面白いのかというと、僕は、家紋というものにも、ここで荒俣さんが歌枕に感じたのと同じように、「抹殺されたいまわしい過去の記憶」を消し去り、美化しようとする日本人的なメンタリティが潜んでいるのではないかと考えているからである。
例えば、梅紋(左絵は双葉山の梅鉢紋)というのは、もともとは菅原道真の怨念(逆に言えば、道真を追い落としたことに対する藤原氏の慙愧)というおどろおどろしい想念を、このかわいい紋に閉じ込めたようにも思える。
同じく、車紋というのは、これは源氏物語というフィクションの中での話しであるが、六条御息所の怨念を優美な源氏車に昇華した紋ではないかと僕は思っている。(右絵は佐藤栄作首相の源氏車。車輪が「六条の星」のようになっているところが、どこか意味深である。)
梅紋も車紋も、いずれも、都の公家社会という狭く窮屈な社会における権力欲に敗れた人々の怨念というおどろおどろしい陰の力を御霊化(真相を消し去ること)した結果ではないのかと思うのである。
過去の忌まわしい歴史を美化すること、これは別の視点からすれば決してほめられたものではないのかもしれない。しかし、人間というものはそうやって、過去を消し去り、御霊化してしか、新しい時代を作れないような存在なのであろう。
比喩的に言うのであれば、中国や朝鮮半島にどう謝罪するのかという問題、靖国神社をどうするのかという問題、それらは現代日本人が、民族の総意として「歌枕」や「家紋」を、どう作っていけばいいのかという問題、あるいは作りきれるのかという問題なのかもしれないのであるが、おそらく、それには時間はかかると思わざるをえない。
まさむね
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しかし暑い。天気はほんとうに夏らしい夏だけど!
ただ景気はどこか怪しいように見える。でも大元の真意はあいかわらず世界的に余りすぎているお金が行き場をなくして依然としてジャンク債や国債やどこかの通貨に群がっているということじゃないか。実体がそんなに極端に悪化しているわけではないのに、行き場をなくしたお金が株式から逃げ出して悲観的なムードが漂いだしていて、それに引きずられているのだろう。実体経済からするとたまったものじゃないが、問題は実体(必要)以上に出回っているお金がいつも世界的に多すぎることじゃないか。みんな引き伸ばしをするだけで誰もこの精算をちゃんとやっていないわけだ。この報いはやっぱり国債の暴落とインフレという結末に向かわざるを得ないのだろうか? ぼくにはよく分からないが。
それはさておき、ニホンがどうありたいのか、ふたたび思考停止に陥っているのがいまの状況なのかもしれないネ。政治的にも経済的にもメリハリをなくしているようだ。一時のニホンの無駄や停滞に対する問いかけもすっかり勢いをなくしているみたいだ。けっきょく多くのひとは転換することが嫌いなのだろう。誰だって自分の生活が根本から変わることを望まないということか。
民主党も菅総理になってからもう何をしたいのかさっぱり分からない感じだ。友愛を掲げて、沖縄から基地を外に出すことに拘りつづけた鳩山由紀夫のほうが遥かによかったと思う。管直人はけっきょくただの日和見の権力志向者に過ぎないとしか思えない。政策も寄木細工的、場当たり的で、ふたたび官僚主導に戻りつつあるように思える。けっきょく既得権益者(当然アメリカの意向も入る)たちによる一斉報道のマスコミを使った鳩山、小沢叩き(金銭問題をからめて)がうまく行ったということだろう。振り子がもとに戻りつつあるようにみえる。
総じて、いまのニホンは結局堕ちきることもできず、かといって自力回復はできず、やっぱり外需頼みという構図。その頼みの綱がアメリカから中国に変わりつつあるというだけか。ニホンはつくづく外需頼みの国になってしまったということなのだろう。自力ではなく、他力本願。どこか遠くにある日本という幻、主は今も海のむこうからやって来る(主は来ませり)と言うことか。
アクティブに外に対して働きかけるでもなく、かといってみずからの中で弱さを受けとめる力があるわけでもなく、なにか移ろいながらただただ落日の木漏れ日のように薄れてゆくイメージ。戦後65年。ニホンはそろそろ経済の浮き沈みから本気で自立したほうがいいのでは。まさむねさんが言っているようにいっそ鎖国のほうがいいかもしれないネ。
最近GDPの規模で、日本がついに中国に抜かれて世界二位の座を降りることが取り上げられている。でも一個人あたりのGDPでは日本はとっくに10何位だったかに落ちていて、もう効率的な経済大国ではなくなっているのだ。だから今更二位から落ちることがそれほどショッキングなことだとは思えない。
それよりもすべてがあまりにも経済的な経済的なことばかりに左右されすぎているように思える。新聞の論調もそれ一辺倒だし。やれ世界経済だ、成長のドライバーだ、金融危機だ、景気の波だ、云々。
ぼくが高校生のころは、まだ反戦ムードやロックの影響もあり、みんなの関心はもっと多岐にわたっていて、こんな風に経済一辺倒ではなかったように思う。いつからこんな経済(金儲け)ばかりを気にする集団になってしまったのだろう。それにもともと日本人は経済という名の世界で戦うことがそんなに得意じゃなかったのでは。たぶん世界のどこへ行ってもニホン企業としてオレ流にやってきただけじゃないだろうか。少なくともグローバル戦略なんてものがあったタメシがあったのだろうか。ぼくにはよく分からないが。
徒然なるままの世迷言は尽きないが、とにかく暑さだけが肌実感だね。あいまいなニホンの、暑い夏が終わろうとしている。
よしむね
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人生にはいくつもの「落とし穴」が開いている。
一人一人の人間は弱い。だからいつ、その「落とし穴」に落ちるのかは誰もわからない。
大阪の幼児死体遺棄事件はそんなことを僕に考えさせた。
彼女が悪いのは当たり前の話だ。ただ、僕にはそれだけで済ますことが出来ない。
柳田國男は『妹の力』の中でこう記したのは昭和15年だ。
(最近は)人が全体的にやさしくなったような感じがする。ことに目につくのは子供を大切にする風習である。以前は野放図にしておいて、自然に育つものだけが育つというありさまであったのが、もうそんな気楽な親は少なくなった。
これはあくまでも柳田國男の感想にすぎないが、昭和15年といえば、日独伊三国同盟が出来た年、この前年にはすでに第二次世界大戦は始まっており、翌年には太平洋戦争が勃発している。平成からの視点で言えば、この時代は子供に対するしつけも厳しかったような印象もあるが、実際にはどうだったのであろうか。
僕が気になったのは、さらにそれ以前は、子供は野放図にしていても育ったという何気ないところだ。おそらく、この時代、多くの家庭は大家族だ。三世代は当たり前で、しかも親戚なんかも一緒に住んでいたのだろう。だから、その中には暇な人もいて、子供達に対して何かと面倒を見ていたのかもしれない。あるいは、隣近所にもそんな人がいて、そういう人たちが子供達に目を配っていたのか。
いずれにしても、家族、地域社会が生きていた時代、子供はある意味、「自然」に育ったのである。しかし、戦後、こういった共同体がどんどんと解体されていった。
大雑把に言えば、日本人は「絆」よりも「自由」を選んだのである。それが時代の必然というものだったのだ。
そして、「自由」の思想は、「ここにいる私とは別の私」がどこかにいるに違いないという幻想を必然的に呼び寄せる。
さらに言えば、その幻想は同時に、「別の自分」を妨害しているのは「外部にいる何者か」であるという無責任につながっているようにも思える。
おそらく、そんな「自由の囚人」こそ最も「落し穴」に落ちやすいのではないだろうか。自由とリスクはいつだって隣り合わせだ。これは確かだと思う。
一方で、柳田国男が回想したような、野放図にしていても子供が育つような環境は、遥か昔にもう存在しない。
これは僕らにとってはノスタルジーだ。そしてこの状況は政治でなんとかなるような問題なのだろうか。
「下校拒否」が魅力的なのは、このノスタルジーと「自由」とが若干のペーソスを挟みながら強引につなぎあわせるようなパワーがあるからかもしれない。結局、今、僕らに必要なのはパワーなのか。
まさむね
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まさむねさんに「Body主義は家紋主義と対極にあるのかもしれない」というご返事の文章をいただいた。その中でまさむねさんが引用していた山田先生の「自分の仕事と家庭が流動化している現在、自分の肉体のみが、自分が生きている間続く唯一の自分の「持ち物」となる。自分が自分であるところの拠り所」という箇所。これなどは個がむき出しになっていてもはや頼るべきものがない現在のなかで、良い悪いは別にしてかろうじて自分を確認するために身体や暴力しかなくなっていることにも通じているのかもしれない。
時代はデジタル放送とか3D元年とかハイビジョンとか、とかく映像的なものが持てはやされるようなキライがなくもないが、実はその一方で今後ますます身体的なもの(取り残された身体)が横溢するシーンが増えてゆくかもしれない。マッチョや健康志向の身体ということではなく、実は身体こそもっとも不自由なもの、意のままにならないものとして再認識される可能性もあるように思うのだ。そういうものとしての身体、Bodyの再確認の必要性があるようにも思う。これはアメリカ流のBodyの文脈とは違うものとして。
それからすでに20世紀の後半以降21世紀を迎え、時代は紛れもなくアーカイブ(記憶)の世紀に入ったのだとぼくは思っている。どちらかと言うと20世紀前半からその終わり近くまでは映像の世紀(特に大衆映画とTVの登場以降)と定義できるとするなら、20世紀の最後の10年間以降からはむしろ記憶の世紀に重きが移ってきていると思う。PCや携帯電話やデジカメ等の新しいパーソナル・メディアが登場してから、ぼくらは意識するしないにかかわらず日毎夜毎に膨大なデータの蓄積と個人の履歴にさらされるようになっている。そして自分たちではその一々についてもはやどうにも意味づけできないためにとりあえずすべてを保存(アーカイブ)しておく必要性が生じてきている。
もっと大げさにいうなら、人類全体がやっぱり「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」をいろんな角度で知りたがるということ。今、世界遺産にかぎらずいろんな遺産がブームになってきているように思うのだ。仏像ブームにしろ平城京遷都1300年にせよ、環境や自然保護にせよ、いろんな履歴が横溢しているなかで、一度われわれの遺産が何だったのかを検証しておく必要性のようなもの。それが高まってきていると思う。膨大なデータ(記憶や遺産)が増えつつあるなかで間違いなくアーカイブの整理が主題になってきていると思えるのだ。もちろん個人単位を越えて、だ。
そしてそのひとつの寓話(整理整頓の手法の一つ)を汲み取るものとして、上記の風潮のなかに家紋主義が交差してくるポテンシャルがあるとも思えるのだ。まさむねさんが言うようにたしかに「日本人は代々続く家系という物語を失ったからBodyに関心を持つようになった」。また成長という神話ももはやその命脈は尽きかけている。それはそれで仕方ない。
だが、その一方でだからこそより多様なかたちで「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」を知るための手がかりが再び求められてくるようになるとも思える。自らのクラシック(古典)や過去などの来歴を知ること。帰り道を確認するための作業として。そのすべてに答えられるわけではないけど、その一隅を照らすようなものとして家紋主義が時代に交差してくるひとつの意味がある、とぼくは思う。だからこそ、あらためて時代は家紋(家紋的なもの)を求めてきているのだ、と繰り返し言いたい気がするが、如何でしょうか。
よしむね
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山田昌弘先生の「なぜ若者は保守化するのか」という本の中には、現代人がアイデンティティを確認する手段として、消費と同時に身体というのもがあるということを書いている。
よしむねさんの「DaddyとBody」を読ませていただき、山田先生の論がまず頭に浮かんだ。
その箇所(36ページあたり)を引用してみよう。
そしてもう一つのアイデンティティを確認させてくれる手段が「身体」なのである。バウマンは前近代社会では、職業や家庭は個人の肉体の時間を超えて続くものであったという。代々の職業、代々続く家系は、自分の人生を超えて続くはずのものであった。近代にあってしばらくの間は、仕事も家族も一度手に入れると、「一生もの」として、自分の人生と同じ時間続くとしてよかった。にほんではおおむね50歳以上の人は、そうした感覚を持っているだろう。それゆえリストラされたり離婚された中高年の男性の心理的ショックは大きく、自殺も増える。
しかし仕事と家庭が流動化している現在、自分の肉体のみが、自分が生きている間続く唯一の自分の「持ち物」となる。自分が自分であるところの拠り所として、身体への関心がたかまるのもこのような理由からである。
よしむねさんがおっしゃる通り、Bodyへの意識に関しては、アメリカが突出しているように思われるが昨今の日本の健康志向も、それと同じ地平にあるのは確かだ。
僕はC型肝炎で痛い目にあったが、実はそれほど身体に対する意識が高くはない。正直、あまり関心がないのである。僕はそれ以上に「意識」や「価値」といったものの方に関心がある。だから、自分の身体をどうこうしようというよりも、なぜ人は身体に対してこれほど異常に関心を持つのかということを考えることのほうに興味があるのである。
そういう意味で僕は真に「おたく(オタクではない)」だと思う。
さて、山田先生の論を大雑把に自分的に要約するならば、日本人は代々続く家系という物語を失ったからBodyに関心を持つようになったということである。ということは僕が家紋主義などと言って、家紋という過去への帰り道(物語)を日本人のアイデンティティとして重んじる志向と、自分の身体にそれほど興味が無いということはどこかでつながっているのかもしれない。
おそらく、歴史を徐々に忘れつつある日本人はこれからどんどん、身体重視の傾向になっていくに違いない。それは一方でアイデンティティを支える消費がしにくくなっているからでもあるが、反面、日本人が世界へ提示(輸出)できる価値として、低エネルギー消費のライフスタイル=オーガニック革命の伝統国であるというポジションが、さらにマスメディアなどによって喧伝されていくと予想されるからだ。
クールジャパンという流れは、現時点ではオタク文化、ファッションなどにフォーカスがあたっているようにも思えるが、実はフードライフスタイルのほうが需要があるのかもしれない。
では、家紋主義はそんな中でどこにスタンスを取るべきなのだろうか...これは僕のテーマだ。引き続き考えていきたいと思う。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技, 社会問題 »
大相撲が野球賭博問題で揺れている。
しかしよく考えてみれば、何がそれほど大きな問題なのだろうか。
僕は大相撲ファンとしてここでちょっと立ち止まらざるを得ない。
賭博行為だから悪いのか、それが常習的だから悪いのということか、掛け金が高額だから問題なのか、それとも、その行為の背後の怪しい影があるからか...
しかし少なくとも、背後関係に関しては、特別調査委では、力士らに直接的な暴力団関係者との関係はなかったと認定した上で「野球賭博の背後に暴力団と関係がないとは言えない」とも指摘したという。(6.27スポーツ報知)
これってようするに、背後関係に関して言えば、推定無罪ということではないのか。
それをいわゆる「世間を騒がせた」ということで、謹慎だ、解雇だとは、何事であろうか。僕はそれが納得できないのだ。
もちろん、内館牧子氏の「女はなぜ土俵にあがれないのか」にもあったが、大相撲協会というのは常に世間、あるいは権力にたいしておもねり、擦り寄ってきた体質的に弱い興行団体という一面がある。それゆえに、「世間様」が悪いと決め付ければ、「すみません」と頭を下げるというのが古来の体質なのだ。
だから、いつもたまたま渦中にいた誰かが犠牲になりそれで丸く治めようとする。僕はいまだに大麻騒動で犠牲になった露鵬と白露山を復帰させるべきだと考えている。
今回だって騒ぎが大きくなっただけで、事の本質はそれほど問題ではないというのが僕の見解である。たかが野球の試合に金を賭けたという話ではないのか。
NHKはこの事件に対して検証番組をするらしいが、ちょっと待った。それだったら、過去、記者クラブなどで賭け麻雀をした自社記者がいなかったのかを検証するのが先だし、筋だろう。
それに今回の特別調査委の座長の伊藤滋という方は、一方でパチンコ関連の「社会安全研究財団」の理事長もしているという。パチンコ三店方式という極めて胡散臭い民間賭博を擁護するポジションにありながら、一方で相撲賭博を断罪するこの方の神経はよくわからない。(いや、かなり遠回りだが、結局、民間賭博としてパチンコのみを生き残らせようとする深慮なのかもしれない。)
僕は別にパチンコ文化を否定するものではないし、こういった曖昧な文化こそ、日本的だと感心することもある。
しかし、ダブルスタンダードに対しては一言言っておかなければならないと考える。
ちなみに、この伊藤滋氏は、あの詩人の伊藤整氏の息子さん、つまり丸に立ち沢潟紋者(右絵)だ。
恥ずかしながら帰ってきた横井庄一、昭和の喜劇人・古川緑波、旺文社の赤尾好夫と同じである。
まさむね
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よしむねさんが、先日書かれた「ますます薄っぺらになったように見える経済という魔物」というエントリーのエンディングの一節、”お金なしでは生きられないが、いかにお金や経済の起伏と上手に別れていけるかも考えていきたい”というのは確かにそのとおりだと思う。
僕らは現代社会を生きていく上にどうしても、資本主義に最適に振舞わなくてはならない。
それは基本だ。
しかし、と同時にどこか現代の社会に嫌悪感を感じている。
つまり、僕らに求められているのは、何も考えずに社会人としてすべきことをするという行動力である一方で、僕らは、自分としてのかけがえへのなさに対するこだわりをどうしても捨てることが出来ない。
おそらく、これは古くからある問題意識だ。
四捨五入して言えばそれはマルクスの思想にも通低している考え方である。
マルクスは「経哲草稿」の中で労働から疎外されてしまう自分自身をとりもどすべきだと主張していたのではないかというのが僕の「読み」である。
実は、僕ら中高年のサラリーマンには一つの大きな課題がある。それはグローバルスタンダードを受け入れ、IT革命を経たた日本が、必然的に陥る労働価値の低下(終身雇用、年功序列といったいわゆる昭和的労働価値の崩壊)に対して、頭では理解しながら、しかし体では既得権益にしがみつかざるをえないという矛盾に対して、どうすべきかという点である。
おそらく、30歳代の多くのサラリーマンとは違って、ギリギリ逃げ切れそうな立場の僕たち。
もう一花咲かせるべく、勝負してみようと考えている人もいるかもしれないが、黙って、惰性に従ってズルズルあと10年を生きていこうと思っている人も多いのではないだろうか。
僕らはそんな人々の話をなるべく多く聞いてみたいと今思っている。
いずれにしても、今の時代、思想と行動を一致させることの困難さを感じざるを得ない。
僕らの使命としては、出来ることならば、次の世代に新しい生き方、考え方、そして日本のあり方を伝えていくべきなのだろう。
恥ずかしながら、6月中旬に発売する「家紋主義宣言」は、そういった問題意識のなかでもがく50歳の普通のサラリーマンの心の中の葛藤の物語になる予定である。
いかにお金や経済に上手に別れることが出来るか、そんなことの考えるヒントになっていればいいのだが。
まさむね
社会問題 »
最近、新聞紙上でけっこう経済が復調しつつあるような記事が目に付くようになった。前年比でやれ何%増益の企業が増加してきたとか街角景気の改善とか見通しの引き上げとか、等々。
たしかに実体経済レベルでは一時の最悪期(去年の春前後)を過ぎつつあることは事実かもしれない。ぼくが身を置いているハイテク関連業界でもかなり忙しい状況になっている。自動車業界、半導体や電子部品業界、精密機器業界、工作機械業界然りだろう。いわゆる実体経済といわれる部分については製造業という観点からみればかなり忙しくなってきていると思う。それもまるでジェット・コースターのようにダウンしたと思ったら急にアップし始めて、猫も杓子もという感じだ。ここに来て急にみんな一斉に、という感じかもしれない。
でも、果たして、と思ってしまう。これが実体というものだろうか? ある意味で実需に根ざしていると思われる実体経済がこんな風に急激に萎んだり膨らんだりするものだろうか。結局実体経済もきわめて虚の経済(レバレッジの効いたバブルチックな経済)に似てきているということなのだろうか。これがグローバルの正体なのかもしれない。悪くなるときはみんな一斉に悪くなり、良くなるときも一斉に良くなるように映って見え、世界での自動車やパソコンや携帯電話や液晶TVの売れ行きにすぐに左右され、みたいな・・・・。
結局グローバル化が進んだことで、経済というものがますます薄っぺらになり、何処も彼処も似たようなトレンドを受けざるを得なくなったということ。その意味で経済そのものに厚みがなく、奥行きや深みがなくなったのだろう。リーマンショック以後、ほんとうは従来の虚の経済から脱却しようという(それを考える)良い機会だったのかもしれないのだけど、やっぱりみんなは喉元すぎれば熱さを忘れるで、バブルチックなものが恋しいのである。というよりも裏返せば今の経済原理そのものがなにかのバブルなしには成立しにくくなっているということでもあるのだろう。麻薬なしでいられない患者たちが増えているのだ。
でも、果たしてとまた思ってしまう。リーマンショック以後の今の金融業界のみかけ上の復活って、ほんとうは証券業界が作ったジャンク債(ボロ屑と消える運命にある債券の群れ)の借金を国が肩代わりして、いっとき誤魔化しているだけじゃないだろうか。依然何も解決していないわけで、いずれこのかりそめのバブルも弾けるときが近いのでは?
今騒がれているギリシャに端を発したヨーロッパの経済危機にしても、誰かにババを引かせようとしているゲーム漬けの人たちの策略としか思えない。ギリシャだけが極端に悪いわけではない。借金漬けという意味では実体はアメリカも英国も似たようなものだ、もっと悪いだろう。だいいちユーロよりも米ドルが安全なわけがないじゃないか。
でも、まあこれくらいにしておこう。世の中が変わるときはたぶん一直線ではなく、蛇行しながら変化してゆくのだ。これは以前まさむねさんが小沢一郎について書いていた記事(1月28日)でも述べていたことと同じだけれど、ぼくもまったく同感だ。
人間はホモ・エコノミクスでもあるとおもうけど、でもやっぱり「パンのみに生くるにあらず」もほんとうだ。お金なしでは生きられないが、いかにお金や経済の起伏と上手に別れていけるかも考えていきたい、そう思う。
よしむね
社会問題 »
かつてNHKで「電子立国 日本の自叙伝」という名物番組があった。それは20世紀の話。こちらは21世紀の架空の談義、ある昼下がりの茶飲み話みたいなもの。テーマはデザイン立国・日本の自叙伝。
A:日本はものづくり、ものづくりって過剰に言い過ぎるね。これこそ戦後の成功体験にもとづく依怙地な理屈に思えるよ。資源のない国だから技術と生産しかないっていう。確かにモノはなくならないから、ものづくりは大事だが、よく言われることだけど、生産という意味ではひとつのプロダクト(産業分野)で企業が1社から2社あればいいよ。何社もあって多すぎるよ。とにかく過剰。みんな横並びになっちゃったし。
B:じゃ、他はどうするの? 食べていけなくなるよ。
A:これから日本はデザイン立国を目指すべき。それこそ小さなもの(半導体素子)から大きなもの(家、自動車、建築)まで、あらゆるもののデザイン・設計の仕事に特化してゆけばいい。日本人のセンスとか昔からのメンタリティー、縮み志向の文化といい、デザイン精神にあふれた民族性だと思うよ。アニメもファッションも、ファニチャーもみんなデザインがベースさ。デザインはアナログに近いし、なかなか真似できないよ。
B:デザインだけでペイするかな。
A:生産での物づくりについては、世界で戦うにはもう規模のメリット(大量生産)とローコストしか将来の道はやっぱりないよ。ここはもう日本の領域じゃない。付加価値品とかいっても無理だね。いずれ必ずコモディティー化してゆく。ここで戦うのは国内1社、2社くらいでいいよ。あとは小ぢんまりとした小規模単位のデザイン集団の会社になればいい。名とか面子とかを捨てて、黒子のデザイン・コンテンツ設計集団でいいじゃないか。できるだけ身軽であることが大事だよ。
B:これからは人口も減少してゆくからねぇ。
A:そうだよ。もう人も増えないんだから、集団や組織自体はだんだん小規模化していって、その連携を心がけでゆけばいいんだ。江戸時代の「連」みたいにね。かりに売上が伸びなくても、人口減以上の売上をキープできれば一人当たりの売上高は逆に増える。それでよしとしないと。そして一個人がより豊かになればいいじゃないか。
B:うまく行くかな。
A:中途半端が一番良くない。中庸は美徳じゃない。ここは思い切りだね。うまく行かなきゃまた修正すればいい。それからデザインとあわせて観光立国を目指すべき。とにかくアジアの人たちにバンバン来てもらおう。客へのもてなしとかサービスは日本人はまだ一流だと思うからね。微妙な心遣いとか絶品だと思うよ。環境面でも清潔だし。一人一人が豊かな気持ちで良い国になれば必ず訪れてくる人は沢山いるよ。
B:デザインと観光ね。けっきょくソフトだね。
A:いや、ぼくはソフトという言い方はあまり好きじゃないな。ちゃんとハード(モノや器、土地)を伴ったソフトサービスだよ。だから両方あるさ。デザイン心あふれるモノとサービス。でも、まあ、ほどほどでいいじゃない。その意味ではやっぱり中庸か。そして坂道を上るイメージよりは、ほんの少し下ってゆくような感じかな。そういう時のほうが人に優しく気遣いできるようにも思えるしね。
よしむね
社会問題 »
ずっとずっと昔、「岸辺のアルバム」というTVドラマがあった。若い人はまったく知らないと思うのだけれど。アラ筋はいわゆる新興住宅街(番組では多摩川沿い、田園都市沿線エリア)を舞台に崩壊してゆく家族の物語だった。ドラマのエンディングはたしか多摩川の決壊で、岸辺(川の土手)にたたずむ家族たちのシーンだったように記憶している。これはこれでその後の風潮や時代性(中流階級幻想とその崩壊?)を先取りするような良いドラマ(脚本は山田太一)だったと思う。岸辺ということでたまたま思い出して書いたままで、本題とはまったく関連のない導入になってしまったようです。ご免なさい。(最初から横道にそれてしまいました。)
実は今回はちょっと「デジタル」ということについて改めて書いてみたいと思っています。製品を作る側からとその需要を探し出す=マーケティングからみての、二通りの視点で捉えた場合のデジタル時代の難しさ、タフさについて。作るという立場からみた場合、アナログとデジタル製品の最大の違いは何か。よく言われていることで、あえて今更確認するまでもないかもしれないが、ひとことで言えば、デジタル製品になればなるほどアナログよりも差別化しにくくなる、ということに尽きるだろう。
デジタル(言うまでもなく0か1の世界)はどこまでいっても金太郎飴みたいなもので、それを寄せ集めても他の製品との違いを出すことが難しいということ。だからデジタル化のことをテクノロジーの農産物化と呼ぶ人もいるようだ。つまりそれだけ作りやすくなったという意味(実際の農作物が作りやすいかは別にして)。デジタルはアナログ表現のような諧調表現(グラデーションの世界、諧調やゾーン(幅)でしか示せない?)とは基本異なる。極端な言い方をすればそこでは日本企業が得意としてきた微妙な調整(ファイン・チューニング)みたいなものがほとんどいらず、デジタル対応の部品をつないでただ製品にすればよいという話になる。
したがって製造の観点でいえば、垂直統合(何から何まで自社で抱えて生産する)ではなく、水平分業(私=設計する人、あなた=作る人というように分けて行う生産の徹底)がより適しているというわけだ。それだけ大量に作り、規模のメリットを享受する必要性も高まることになる。このパターンは米国(ファブレス、設計に特化)と台湾を中心としたアジア勢(生産)が得意としている分業の領域で、この世界の競争では日本は完全に遅れつつある。というよりも、垂直統合にも未だこだわりを捨てきれず、どっちつかずの中途半端な状態と言えようか。いかにも日本らしいが。
さてではマーケティングはどうか。正直根拠があるわけではないけれど、なんとなく直感的に思えるのは、ひとことで言えばこれも経験則に基づいたようなマーケティングがあまり成り立たず、いかに先読みするか、イチかバチか的な当たり外れに賭けるような色彩がより際立つことになる、と言えそうな気がする。
こうしたマーケティングではかえって過去の成功体験は目を曇らせることになりがちで、むしろ過去にとらわれない発想がより求められるかもしれない。製品の性能さがあまりないため、いかに安いか、そのときの需要にフィットしているか、ブランド名が浸透しているか、大量に出回っているか、それが皆に急速に広がりつつあるか、などなどのムーブメント次第の構図がより強まる、ともいえようか。どちらにせよ、たぶん年功者や成功体験者の経験知などはあまり必要とされず、かつてのストックによる知見が効かない。ある意味では場当たり的、その場をしのぐフローが肝要。薄型テレビの展開じゃないけど、ますますフラット化して奥行きのいらない社会が要請されてゆくことになるのだろうか。欲望の先読みが過大視され、経験が希薄化してゆくような社会の到来。
こうした動きが金融をまきこんである面だけ先行加速していったのがそれこそリーマンショック前の一部の趨勢だったようにも思う。そしてリーマンショック以後を見ると、さすがにフロー一辺倒のような動きにも多少見直しが入りつつあるようにも思える。だが一度加速した動きがほんとうに巻き戻されるかどうか。人は昔とった杵柄がなかなか忘れられないものだ。
人は経験によって学ぶとはよく言われたきたことだ。だが、経験によって学ぶことができなくなったらどうなるか。当たり前のことだがいつも未知のことばかりに追われることになる。これはとても疲れるし、疲弊する。経験とはその意味で人の防波堤になってくれるありがたい面もあるわけだ。だが時代はやっぱりそうした経験というものを離れて、ますます漂流しつつある、ようにも思える、おそらく。
デジタルの岸辺ではこれからもたぶん既存の多くのものが毀れ、従来の勝者をふくめて崩壊してゆく。それはそれでいい。岸辺のアルバムじゃないけど、壊れるものはやがて壊れるのだ。そしてそんなデジタル時代をむかえて、世界の中での日本の立ち位置はますます難しいものになってゆくだろう。
そういう流れのなかで個人的にはアナログへのノスタルジーはあるとしても、アナログそのものの復権を叫びたいとは思わない。ただ時代遅れの周回遅れとして、ぼくはまだ無駄な奥行きと配置にはこだわりたいと思っている。ちょうどいろんな神社でみた奥行きみたいなものに。元々生まれてきたこと自体がアナログだし。
そんなことを書いていたら、携帯が鳴った。
「もしもし、もしもし・・・・誰ですか?」
その声には聞き覚えがあった。それを思い出した。その独特の抑揚、調子、等々。
人の声と思い出すという営みはまぎれもなくアナログだった。
「いやぁー、久し振りだねぇ・・・・どう元気?」
よしむね



