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[9 6 月 2011 | 6 Comments | | ]

この間のGW連休中に遅ればせながら伊勢神宮にはじめて行ってきた。伊勢神宮はご存知のように内宮と外宮に分かれていて、式年遷宮という20年毎の更新・再生(今で言うシステム交換)が行われることで有名だ。ここではこの式年遷宮という非常にユニークで、ある意味で今のエコ時代の先を行くような再生とリサイクルのシステム化についてこれ以上触れるつもりはないが、単なる経済合理性とは画然と異なり、人智を尽くして考えぬかれたようなその再生のシステムをあらためて凄いと思う。
ところでガイドさんのお世話になりながら内宮と外宮を参拝してまわったのだが、内宮には御正宮と荒祭宮という好対照のふたつの宮がある。これはどんな宮でも多かれ少なかれ備えているはずの、いわば神のふたつの顔、正と負、陰と陽をあらわしているものだそうだ。
この定義でいえば御正宮(天照大神)は性格的には正しき大人しき神を具現化しており、荒祭宮は躍動的で、好奇心にあふれる荒ぶる神ということになるようだ。そうしてその性格の違いから御正宮には御礼を述べること、お願いは荒祭宮にしてください、とガイドさんに教えていただいた。むべなるかな、だ。
ここから話はいきなり飛躍するのだけど、今回の震災以後の原発事故において、初動のまずさやその後に明らかになってきた新事実(?)など列挙したら霧がないのはご承知の通りだ。これ以上起こった事象などについて言及しないが、自戒の意味もこめてあらためて言っておきたいのは以下のことだけだ。
いつからかぼくら日本人の多くは経済合理性だけを追いかけるような便益に溺れてしまっていて、本来荒ぶる神が持っているようなものへの畏れや怖さ、祓い、崇め奉りのような意識を失ってしまっていたのではないかということ。
たとえば原発の是非はどうあれ、あるいはリスク管理や危機管理なんてことをわざわざ持ち出さなくても、原発という根本的にも科学的にも制御不能の怖いものを扱っているという意識がどこかにちゃんとあったら、もっと崇め奉るような厳しい意識で細心の気配りと日常の務めのなかで相対してきたのではないかと思えるからだ。ごく当たり前に。
しかし現場の意識は日用と経済のルーチンのなかにオペレーションが溶け込んで埋没してしまっていたのだろう。だからそうした日常を超えるようなことは起こるはずがない、という「想定外」の排除姿勢だけが蔓延してしまったともいえるのかもしれない。それはおそらく「侍の意識」と対極にある考えかただろう。なによりも優れた侍の特質とは平時に有事を想定できるような能力のことだと思うから。葉隠れじゃないが。
いずれにせよ、先祖返りじゃないけど、昔の日本人の多くが持っていたなにか荒ぶるものへの畏怖の意識をもう一度蘇らせることがとても大事なことのように思える。きわめて当たり前なこととして。それは津波や地震対策についても当てはまると思う。
とにもかくにも事態がいまだなんら収束の見通しが立っていないことにとどまらず、仮に終息したとしても核廃棄物処理といういまだ処理の解決メドが立っていない、手付かずの、長い長い(天文学的な?)管理が必要なことは変わらない。
それこそ荒ぶる神を崇めるような細心の意識の持続が求められるのだろう。いつまでも、気が遠くなる先まで。
よしむね

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[6 3 月 2011 | No Comment | | ]

僕の会社員としての、最近の仕事はネット通販サイトの立ち上げ、運営である。
昨年末に楽天市場内に立ち上げ、それ以降も少しづつ拡充してきたが、軌道に乗せるというのは難しい。まだまだやらなければならないことが多い。
ネットで店を立ち上げるということは比較的簡単であるが、それを告知し、宣伝し、儲かるようにするのは大変なことだ。
それを今、切実に感じている。
GoogleやYahooでの検索結果としてサイトを上位に表示させるためのSEO対策、そして、リスティング広告、Twitterやfacebook上でのプロモーション、YOUTUBEからの顧客誘導、ユーザーブログへの口コミエントリーのためのイベント、そして、楽天市場内でのPRやSEO、検索時のプルダウン候補表示...
毎日のように営業の電話をもらう。彼らの電話越しの声を聞いていると、ネット上での広告はホットな競争世界であることがわかる。みんな必死なのだ。
どこが最終的に勝つのだろうか、あるいは、勝ったと思ってもそれは一瞬のことで、すぐに次の勝者が現れる世界なのであろうか。
しかし、だからこそチャンスもある世界、おそらく規制に守られた旧来の産業界とは大違いだ。
そういえば、先日、平成23年度の予算案が衆参両議院を通過した。そして、これから予算関連法案の審議に入る。
しかし、民主党内での造反勢力や野党の反発は必至で、参議院で可決されるか、あるいは衆議院で三分の二の賛成が得られるかどうかかなり微妙な状況だという。
そして、この法案、特に、「関連法案のうち特例公債法が成立しなければ、国の借金である赤字国債を発行できず、歳入不足で予算執行に支障が出ると、更に混乱が広がる恐れがある。」(毎日新聞)という。
そうすると具体的にどうなるのか。
それは例えば、石油石炭税の免税が3月末で失効し、「漁船の燃料やビニールハウスの加温用燃料の価格が上昇。イカ釣り漁船では、年18万円の負担増になる。」(同新聞)というのだ。
まぁ、イカ釣り業の方々にとっては大変なことなのであろうが、規制や保護の対象から外れたネットの世界から見ると、「そういうところに税金が使われていたのか。」というのが正直な感覚である。
しかし、実際には、財務省サイトにある図でわかるように92兆円とも言われる予算総額の22%が借金の返済額であり、19%が地方交付税、30%が社会保障費なのである。
しかも社会保障費は前年比でかなり伸びている。
思いっきりご無体な発言をさせていただけるとすれば、いっその事、国がお金を使わなくなったら、現実的に誰がどう困るのかを見てみたい気もする。そうすれば、それぞれの人々がこのヤバイ状況を認識して、本当に真面目に考え出すかもしれない。
尤も、じゃあどうすればいいのかといえば、少なくともこのままの日本の国力、あるいは人々の生活水準の維持が一番大事だと考えるのならば、素人の僕がみても、お金を刷りまくるか、消費税を思い切って増税するか、年金を減額するか、そのくらいしか案が思い浮かばない。
おそらく、そういう前提にたってこそ、TPPという無謀な政策で国を組み替えてしまえというアイディアがリアリティを持ってくるのであろう。
おそらく、僕らはもう一度、何が一番大事で、何が実は不要なのかという価値について考え、国民的コンセンサスに近づくことが必要なのだ。
僕は正直に言って、冒頭に書いたような、激しくタフな競争の世界に多くの人が付いて行けるとも思えない。
だとするならば、衰退を所与の条件として受け入れていく中でどうしたら、個々人が幸せになれるのかを考えるべき時期に来ているのだと思う。
まさむね

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[6 2 月 2011 | 2 Comments | | ]

新卒者の内定率が70%を切ったというようなニュースがあった。
菅直人首相は一に雇用、二に雇用、三に雇用というようなことを言っていたが、どのように責任をとるつもりだろうか...などといっても仕方がない。
これは政府が何とかできるような問題、あるいはすべき問題ではないからである。
よく考えてみれば、大企業が生涯数億円とも言われている新卒者を、顔や大学名だけで購入する時代は終わりかけているのだ。
一方で新卒者が、公務員になったり、大企業に就職したいと考えるのは当たり前で、それを「保守的」だなどと批判しても、おそらく無意味だ。社会に出てみればわかるが、誰でも知っているような会社に一度でも籍を置くというのはいかにその人の財産になるのかということは極めて常識的なことである、多分。それはその人のやる気とか実力とは別なレベルでの財産なのだ、多分。
新卒採用にリスクを感じはじめている大企業と、大企業にしか就職したくない新卒者がいれば就職率がさがるのは当たり前なのである。
しかし、さらに考えてみれば、新卒者が就職できないということは、日本社会にはすでに労働力があり余っているということとも言えるのではないだろうか。日本全体のGDPは既に、日本人全員を食べていかせるのに十分に達してしまい、労働力はもう必要とされていないのかもしれないのである。
そう考えると、世の中には無駄な仕事があまりにもおおい。
例えば、Eコマースの世界での話、インターネット中にはすでに数十万店もの出店がある。そんなにEコマースの店は必要なのだろうか。
勿論、適度は競争は必要だろうが、例えば、書店などを考えてみれば、AMAZONがあるのだから、その他、2〜3社、サービスのいいシステムがあればそれで十分ではないのか。
そう考えると、ネットに出店している数十万店のうち、どれだけの店が日本社会としての無駄なのか、少しは想像はつく。
一方で、さらに無駄なのは公共事業だろう。何年か前に「私の仕事館」という子供に仕事とは何かを教えるための施設の無駄が話題になったことがあったが、もしかしたら、あの館は、日本における仕事のほどんどは、無駄を無駄と思わせない所作であるというメタメッセージを送るための館だったのかもしれない、とすら思うのであった。
最近、ネットなどで話題になっているベーシックインカムというシステムに興味がある。これは政府が、最低限生きられるだけのお金(例えば、5万円とか7万円とか)を無条件に国民に与えるという極めて単純な制度である。まだ、この地球上には存在しない理念的な制度であるが、僕は、マジに、このベーシックインカムというのはいいシステムではないのかと思うようになっている。
だって、先ほども述べたように、日本に存在する多くの仕事は実は、既に不必要になっているからだ。だから、この際、世の中を、労働に生きがいを感じて、一生懸命働いて、しかも必要な仕事をして、相応に儲ける人と、そうでない、最低限の生存を保障され、家で自分の好きなことをする人に分けてしまうというのはいいのかもしれない。
おそらく、多くの人はやりたくもない仕事を生活のためにやっているに違いない。現代社会に生きるそんな人々は一体幸せなのだろうか。また、一方でそうすれば、仕事を生きがいにしている人々も、嫌々仕事をしている人の顔を見ることもなくなり、ストレスは軽減するのではないだろうか。
僕は大学時代にマルクスの「ドイツイデオロギー」という著書を勉強した。卒論も、その本がテーマであった。そこには、理想社会では労働=自己実現になるべき、というようなことが書かれていた。
生きるための労働(=苦役)を一旦、見直し、最低限、生きられる保障を与えた上で、それぞれがそれぞれの人生を考え直す、というマルクスが理想とした社会が実は近づいているのかもしれないとすら考えるのである。そのための科学技術はかなり進歩しているのではないだろうか、実は。
もし、最低限の生活が保障されると、多くの若者は社会のために尽くそうと考えるのはちょっとオプティミスティックだろうか?
しかし、「人間は働かなければならない」という呪縛から逃れた瞬間に、幸せを感じる人は多いというのは事実のようにも思える。再び、大学時代の話だが、僕はゼミの教授から、「本当の幸せとは、社会とのふれあい、そして労働をする中で、その成果によって得られる尊いものだ」というようなことを言われ、心の中では、「仕事をしないで好きなことが出来ることが幸せ」ではないかと思いながらも、そんなものかと思ったという記憶がある。
あれから、30年も経ったが、教授が言われたことに、今でもそれほど納得しているわけではない。
もしかしたら、自分の方が正しかったのではないかとすら考えている。少なくとも、政府が無理矢理に仕事を作って、環境破壊をし、国の借金を増やすよりも、同じく借金を増やすのなら、ただ、国民にカネを巻いたほうが、公務員の仕事(裁量)も減るだろうし、多くの国民は幸せになるのではないかと夢想する日々である。違うかなぁ?
まさむね

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[25 1 月 2011 | 4 Comments | | ]

コミュニケーション能力という言葉がある。
人と上手くやっていく力、交渉する力、空気を読む力、様々な文脈でいろいろに使われる言葉である。
例えば、大学の新卒者の就職難が言われる昨今、大事なのは学力ではなく、コミュニケーション能力であると。
また、定年退職した中高年が、地域に溶け込めないでいる、彼は会社員としてのポジションはあったが、真のコミュニケーション能力がなかったため、老後は孤立するしかないと。
しかし、僕は最近、このコミュニケーション能力という言葉がとても胡散臭く感じる。というか、それは人間の様々な能力の一つに過ぎない、逆にこのコミュニケーション能力が無いことがそんなに致命的なことなのかという思いがあるのだ。
これは僕の想像ではあるが、日本人は農耕民族である。江戸時代には八割以上の人が農民であった。彼らは、日々、自分の田畑を耕し、作業をする。
そこでは、そんなにコミュニケーション能力など必要は無かったはずなのだ。少なくとも、タフな交渉術などは不要な人がほとんどだったのではないだろうか。
他人に騙されることもなければ、他人の機嫌をとる必要もそれほどない、各人が決められたしきたりの中で、それぞれの日常をそれほど、選択肢も無い中で生きていたというが僕の想像なのである。
そんな僕らが、幕末の開国を皮切りに、富国強兵の明治、昭和初期を経て、戦後の高度経済成長、そして平成の大不況を迎えた。もちろん、その間、飛躍的な技術革新があり、僕らは他人とのわずらわしいかかわりなく生きていけるような社会を作ってきた。
それが家族解体(核家族化)であり、自由の獲得である。それは、おそらく、僕らが望んで来た道なのである。確かに、得たものがあれば、失うものもある、それが世の常である限り、僕らはその道程で、過去に大切な何かを失ってきたという感慨を抱いている。それは一つの真実だ。
しかし、その一方で、僕らはもう後戻りは出来ない。いや、したくもないというのが多くの人の本音だと思う。
たとえば、徳富蘆花の「ほととぎす」という明治期の大ベストセラーがある。Wikipediaを引用するとそれはこんな感じの小説である。
片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は日本近代文学を代表する名セリフの一つとなった。

ようするに、家という古い制度(共同体)の中で、苦しむ個人の叫びがこの小説の主題なのである(かなり端折りすぎか?)。
おそらく、いくら共同体を憧憬するといっても、浪子のような人生がうらやましいと思うような人はもういないだろう。
それは過去の忌まわしき遺物なのである。
おそらく、こういった過去の共同体の崩壊にともなって、僕らにとって必須になってきた力、それがコミュニケーション能力なのである。そして、このコミュニケーション能力がなければ、これからのタフな時代は生き抜いていけない、そして充実した生活も送れない、みんなそのように思い込まされているのだ。
先日、「任侠ヘルパー」という草なぎ剛主演のテレビドラマを見た。そこには、まさに絵に描いたような寂しい老人が出てきた。定年退職後に社会とのつながりを失った、男、妻にも離婚され、かつての仕事仲間とも疎遠になった男、彼が過去のプライドを捨て、老人達と新しいコミュニケーションを築き、めでたし、めでたしという話であった。
たしかに、そのようにして絆の中から新しい幸せをつかむ人々もいるだろうし、それを非難する気は全く無いが、僕はそれだけが生き方ではないような気がする。
逆に生暖かい老人ホームのコミュニティから一人でて、自分を見つけるという老人を描くようなドラマがあってもいいのではないかと思うのだ。
同じようなことはいわゆる「ひきこもり諸君」にも言える。たいていの場合、彼らの「幸せ」の結末は、社会に出て、人と触れ合うことによって、孤立から脱するというものだと思うが、果たして一律それが、そんな諸君の幸せなのだろうか。
それはただ、より多くの人から税金を徴収したい公共機関の宣伝にすぎないのではないだろうか。あるいは、イヤイヤながら低賃金で仕事をさせられている多くの人々の嫉妬が生み出したイデオロギーにすぎないのではないだろうか。
おそらく、現代人は自主的な動機でしか、社会参加に意義を見出すことの出来ない動物である。このままではマズイと感じる「ひきこもり諸君」や、孤独老人には社会参加を促すようなシステムは必要なのかもしれないが、そう感じない人をほっておける社会、それこそ僕は暮らしやすい社会ではないかと思うこともあるのだ。
土曜日の朝日新聞に「弧族の国」というコーナーがあって、そこにある大学教授がこんなことを書いていた。
地域社会の再建は大切だが、住民同士の支え合いだけでは限界がある。見守りやサロン活動の網にかからない部分で、孤独死などの問題が発生している。地域包括支援センターの役割は大きいが、職員の数が少なく、出来ることは限られている。援助を拒否している人たちにも介入できる「公的ヘルパー」のような制度が必要と考える。

”援助を拒否している人たちにも介入できる「公的ヘルパー」のような制度”という押し付けに唖然とするばかりだ。
毎日、郵便物や電気メーターをチェックされて、定期的に生存確認をして欲しい人はされればいいが、コミュニケーションを拒否して、「ぽっくり死」を日々願い、自分だけの世界をそっとしておいて欲しい人にはそっとしておいてあげたい。
みんなでタンバリンを叩くだけが幸せではないと思う。
まさむね

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[26 12 月 2010 | 4 Comments | | ]

今年は、多くの日本人にとって、日本とは何かということを改めて考えさせられた一年だったように思う。
勿論、一番の事件は9月に起きた尖閣事件である。
あの事件によって、今まで自明のように思っていた日本という国が実は危ういバランスの上に成り立っていたものだったということが白日の元にさらされた。
政府やマスメディアは、あの事件を隠そうとしたが、そうはいかなかった。
日本人は確実に、目覚めの第一歩を記した。2010年は、おそらくそうした年として長く記憶されることであろう。
その意味で、逆説的ではあるが、民主党が政権を取っていたというのはよかったのかもしれない。
みんなが期待(勿論、僕も)した新しい政権が、統治能力に欠けていて、何も出来ないことが明白になったということは、政治家への期待というもの自体は破壊したが、逆に一人一人で日本を何とかしなければならないという気にさせたようにも思えるのだ。
それでは、僕らが守ろうとする、あるいは僕らが抱くべき「日本」というものの実体は何なのであろうか。
かつて三島由紀夫は、このように述べた。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。『文化防衛論』
今から40年も前の話である。三島由紀夫が亡くなった時、僕は小学校5年生だった。先生が授業でそのことにふれた。三島由紀夫の思想に共鳴して自殺した人がいる(多分、森田必勝のこと?)ということを話してくれたと思う。その時、僕は可笑しくて一人で笑い出してしまった。
記憶の世界だから確かではないかもしれないが、クラスの中で僕だけが大声を出して笑っていた。おそらくそうだった。
笑った理由は、「三島由紀夫の自死という勘違い」に連動して死ぬことが、あまりにも愚かに感じたからだったと思う、多分。
実は、僕が小学校5年生の授業中の出来事で覚えているのは、この瞬間だけだ。それだけ、あの笑いは僕の中にずっと残り続けていたのだ。
しかし、今思い返してみると、三島由紀夫のなんと正しかったことか。そのことは、上記の文章を今、読み返してみると明白だ。
僕は40年を経過して、やっとそのことに気づいたように思える。そして、今、あの時の笑いを僕は恥じている。笑われるべきだったむしろ、僕だったのだと。
多分、僕の「記憶」は、そんな自分を反省する日が来ることを知っていたのかもしれないとすら思うのであった。
さて、先ほどの疑問に戻ろう。僕らが守るべき「日本」とは一体なんなのであろうか。
そして、僕らは何をすることが日本のためになるのだろうか。
それを僕はこれから少しづつ考えていきたい。
幸か不幸か、僕は自分のテーマとして、家紋というものを見つけることができた。家紋は日本オリジナルな文化である。確かに、西洋にもエンブレムというものがあるが、一般庶民にまでシンボルマークが普及している国は、おそらく日本だけである。
僕はこの家紋というものに日本の独自性があると考えている。つまり、家紋というものを考えることが日本を考えることにつながると信じているのだ。
家紋には、日本人の独立心や美意識や、集団意識や、ブランド志向や、怨霊志向や、言霊主義や、海外への憧れ、和の精神、中央と地方との関係、クールジャパンの源...など、いろんな日本人的な性格がつまっているのだ。今、思えば、僕が今年の前半に書いた『家紋主義宣言』という本は、家紋を通して、日本人というものを考えようとした本であった。
来年は、さらにこの考え方を進めてみたいと考えている。
まさむね