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最近、仕事の関係上、何人かの若い農業者と話をする機会があった。
彼らは、みな、先祖伝来の土地や環境の土台の上に、それぞれが創意工夫をこらし、努力をして、新しい日本の農業を作ろうと頑張っている。
自分が何をすべきなのかを分っている人の姿は凛々しい。そして、頼もしい。
ある米作農家の方は言っていた。(若干の創作あり)
米は手をかければかけるほど、美味しく成長する。今年の夏は暑かったでしょ。だから、二日に一度、田んぼに出ました。秋になって収穫の時、残念ながら米の発育はあまりよくなかった。でも食べてみたら思ったよりも美味しいんですよ、いつもの年よりも。僕は稲に感謝しました
もしかしたら彼が言わんとしていたこととは違うかもしれないが、「人間は稲を育てるだけで、最終的には稲がどう育つのかは稲が決める」というようなことではないかと僕は解釈した。
そして、その時に、僕の中にもある日本人としての長年の遺伝子と彼の言葉とが共鳴したような気がした。
これは大げさな話ではない。
そうだ、僕らの先祖も何千年にもわたって、こうやって、農業をやりつづけてきたのだ。
人事を尽くして天命を待つ、それは農耕民族であった僕らのあるべき生き方なのである。
今、日本の農業が危機だと言われている。しかし、僕が何人かの若い農業従事者に会って感じたのは、そんなこととは全く無縁なたくましさであった。
おそらく、大多数の兼業農家、そして農業者であるという「特権」にしがみつく人、さらに言えば、農業の周りに巣くう利権を持つ人々や団体、彼らにとってみれば、例えば、貿易の自由化は死活問題なのであろうが、本当に農業を発展させようと日々努力している農家にとっては逆に大きなチャンスにもなる話なのである。外国産の農産物が入ってくれば逆に彼らが作っているブランド品の価値があがるのは確かだ。しかも、彼らの農産物は海外へとも展開できるに違いない。
彼らの農産物は決して価格で勝負するようなレベルのものではないからだ。
そこから必然的にいえるのは、日本の農業政策は、彼らやる気のある若者がより、やる気が出るような方向に進めていくべきだということである。それは、決して、金をばら撒くことではないはずだ。
民主党の農家への個別補償政策が、単なる集票政策であることが明らかになった。一部では食えたものではないような小麦(のようなもの)の生産が、書類上の農業として補助金目当てで大量に作られているという。また、以前からの自民党による減反政策により、米を作らないと補助金が出るというシステムに安住してしまっている農家も多いという。
一体、いつからこんなふうになってしまったのだろうか。
勿論、そういった日本の農業に関してろくに考えもせず、生ごみを出し続けている僕ら都会の消費者もおおいに問題である。我ながら、何様のつもりだろうか。
おそらく、大事なのは、それぞれが、先祖伝来の日本文化を意識すること、そして、その基本に農業というものがあったということ、それを基点にして、日本全体のことを考えるような習慣を持つこと、さらに自分にとってというよりも日本にとってなにをすべきかを考える視点を持つことである。
そして、とりあえず明日から、食べる前にちゃんと「いただきます」ということ。まずはそこからはじめるべきなのかもしれないと思った。
まさむね
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9月に埼玉東南部の高校の演劇部が集う演劇祭に行った。
そこでいくつか見た演目のうちのひとつに強いインパクトを受けた。
だがきっと今後どこかで上演・発表されることはないだろう。それはちょっと惜しいので、ここでぜひ紹介したい。春日部女子高校演劇部の『ひまわり』という作品だ。脚本も演出も演劇部自身よるという。
舞台は高校の教室。出演者は女子ばかりだから、女子高という設定か。
大きく2つの部分からなる。
前半はいじめの場面。登場人物は5人で、仮にA、B、C、D、Eとする。
被害者Aが加害者C、D、Eからいじめられている。
BはAの友人で、Aがいじめられている境遇に心を痛めている。
A=被害者
B=Aの友人。後に被害者
C=加害者(首謀者)
D=加害者
E=加害者
やがてAはいじめを苦にして、登校しなくなる。
すると、加害者CDEは次にBを標的にする。
いじめは構造であり要素は入れ替え可能だという説の通りに事態は進行する。
Bは加害者グループからの陰湿ないじめに耐えかねて(カッターナイフをつきつけて「死んでくれる?」と脅すおぞましい場面もある)、転校を決意する。
だが、Bが逃げおおせたとして、そのあとに残されたAにはどんな苦難が待ち受けているだろうか。
BはAに対して負い目を感じて、途方にくれる。
ここで唐突にストーリーは後半に移る。
移るきっかけは、
「はいカーット!」
という声。
舞台が明るくなり、みんなががやがやと集まってくる。
おお! 今までのお話は演劇部員たちによる稽古の場面だったのだ。
つまりいじめはすべてお芝居であり、架空の世界のできごとだった。
我々は陰湿な暴力から解放された。
一転して、笑いのある明るい世界が現われる。
でも明るいのは表面だけだった。ここにもいじめはあったからだ。
いじめ構造は説話次元をも超えて存続しつづけるからだ。
ただし世界が変わったら構造内の構成要素がシャッフルしてしまった。いじめ被害者と加害者が逆転したのだ。
劇中劇内でいじめられて登校拒否したAはここからは加害者。そして加害者の中心人物だったCは被害者であることが明らかになる。まるで芝居内容への復讐であるかのようだ。さっきまであんなに憎憎しい悪の塊にしか見えなかったCは、ここからは弱くてナイーブな少女にしか見えない。
またいじめに加担していたD、Eはここでは傍観者(という名の加害者)だ。
そして劇中劇でAをかばってその後被害者に転じたBはいじめ構造から逃れているらしい。
Bは演劇部の部長である。部を統率する役割を担っているにも関わらず、部内を蝕むいじめの存在に気づいていない。
部長がいるときは明るく活気のある演劇部だが、部長が姿を消すととたんに暴力が顔を出す。
A=加害者
B=演劇部部長
C=被害者
D=傍観者
E=傍観者
AがCを執拗に追い詰める。
「最近ものがなくなるのよね。あんたが犯人としか思えないのよね」
傍観者たちも、そういえば自分たちのものもなくなった、と同調する。
身に覚えのない罪を着せられて、傷つくC。
Cはなぜか部長に苦難の状況を打ち明けない。たしかにいじめ被害を受ける子供がなかなか親に打ち明けられないという実態を我々は知っている。
Aが机に放置されたCの服をカッターで切り裂くシーンが痛い。
だが、とうとう部長は暴力の証拠を発見し、部内にいじめがあることを認識する。
部長はきびしく加害者Aを追及し、結局Aは反省して謝罪する。被害者は許す。部に平和が戻る。
だが劇はまだ終わらない。
部員がみんな去った部室で、ひとり残った部長がどこからか袋をひっぱり出す。
袋を逆さにすると、床に物が散らばる。傘や文房具やいろいろな小物。
「最近ものがなくなる」と彼女らが言っていた、あのものたちだ。
部長が犯人であり、いじめの元凶だったのだ。
「面白かったな!」と部長。激しく笑う。
だが、まだまだ劇は終わらない。
舞台に現れたDとE。
「あいつら面白すぎだ。あはははあは」
Cが立っている。
「悲劇のヒロインぶるの楽しかったのになあ。あんなやつ好きじゃないっての。あははははは」
Aが携帯電話で話している。
「もしもし、今部活終わった、ほんと今日はむかついた。あははははは」
全員、身をよじって激しく笑う。
そして、いっせいに独り言をいう、「あ~あ。みんな……」
舞台、暗くなる。
全員が叫ぶ、「死んじゃえばいいのに!」
幕。
破壊的な結末だ。観客はあっけにとられた。なんと加害者も被害者もみんなワルだったのか。
叫びの内容を見れば憎悪を読み取るしかないのだが、唱和の響きからはなんだかすがすがしさを感じる。したたかさ、力強さを感じる。この力強さはいじめ解決のヒントにつながるのか?
もちろん構造からは逃げられない。内部にとどまることしかできない。せめて一斉に叫んで孤立した共闘で、構造への抵抗を示そう、ということか。
TBSラジオ「ニュース探求番組Dig」で7月に「”いじめ”を構造から考える」という話題が放送された。たいへんに刺激的な内容だった。
内藤朝雄さんという学者が、明晰でラディカルな議論を展開していた。
TBSラジオの方針変更によって現在Podcastを聞き返すことができないのだが、議論の内容は自身のブログに掲載されている。「内藤朝雄HP -いじめと現代社会BLOG-」の「2010-08-27 いじめの直し方」というエントリー。
内藤さんによると、学校という制度こそいじめの原因であることは、狭いスペースに長時間監禁すると暴力的な異常行動を起こすラットなどの動物実験からも明らかだという。学校を解体しない限り、いじめはなくならないのだ。
じつに
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僕は外国人地方参政権に関しては、基本的な流れとしては賛成である。
と同時に、僕らは移民に関しても、より、寛容になるべきだと思っている。
正直なところ、僕の中には、一方で、鎖国に対して心情的に惹かれる部分もあるのだが、他方、日本にとって、移民を入れるというのももう一つの伝統であるということも指摘しておきたいとも思っている。
それは、日本という国は、長い歴史の中で、多くの移民を受け入れ、彼らの新しい技術や思想を吸収し、自分達独自のものとして発展させてきたという歴史を持っているからである。
古くは、神話時代の話であるが、僕はアマテラスオオミカミの孫のニニギノミコトが日本という国をオオクニヌシノミコトから譲られてから、神武天皇が誕生するまで、ホオリノミコト(山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコトと間に二代はさまっていることが不思議でならなかった。何故、アマテラスの孫がすぐに神武天皇ではないのだろうか。
おそらく、彼らの妻にその鍵がある。ニニギも含めると、上記の三代にわたって、山の神と海の神達の血を入れなければ天皇家が初代を迎えることが出来なかったのではないかというのが僕の想像である。
つまり、山の神(国内の土豪)と海の神(海外の勢力)からの力なくしては、日本の国は出来なかったということを物語っているということなのである。
もう一つ例を挙げよう。平安時代の初期に書かれた「新撰姓氏録」という戸籍のような記録には、日本人の三十パーセントが渡来系の氏族だと記されているのである。その意味で、平城や平安の都は、現代以上に国際的な雰囲気があったに違いない。
しかし、その後、日本に渡ってきた帰化人(渡来人といってもいいけど)は、土着し、日本はいつの間にか「鎖国状態」となり、平安時代の末期には、ほとんどの氏族は源平藤橘の姓を名乗るようになった。僕には、それが日本という国の懐の深さではないかと思うのである。
しかし、いわゆる保守的な人々はこの外国人地方参政権に対して、かなりのアレルギーを持っているようだ。僕は(鎖国をしたいというようなことをたまに思ったりするもんだから)彼らの心情はわからないでもない。しかし、こんな時代だからこそ、逆に日本の風土、日本の国柄、そして日本の懐の深さ、そして日本人自身を信じることこそ、保守の名前に値するのではないかとも、一方で思うのであるがいかがであろうか。
まさむね
歴史・家紋, 社会問題 »
武隈の松のことを調べていたら、本気で歌枕に関して興味が出てきてしまった。
これだから「おたく」という性分はタチが悪い。
荒俣宏氏の『歌伝枕詞』(世界文化社)では、陸奥の歌枕を、大和朝廷によってほろぼされた蝦夷の魂を鎮魂すると同時に、無害な文学イメージとして昇華させたものという捉え方をしている。一昨日のエントリー「歌枕「武隈の松」と「竹ノ熊さん祭り」、蝦夷と熊襲。にも引用しさせてもらった箇所をさらに、続けて引用させていただく。だって面白いんだもの。
歌枕が消し去った陸奥の古い実像とは、当時、高度の発達していた蝦夷独自の文化と、戦闘の傷跡である。とくに後者の戦争の記憶は、巧妙に抹殺されたに相違いない。官軍側を破ったアテルイのような英雄は、”悪路王”あるいは”鬼”として悪役に回され、他方、勝利をもたらした田村麻呂が英雄にまつりあげられるのだ。
つまり、田村麻呂伝承は、歌枕とセットになって、陸奥にまつわる蝦夷の真相を消すための美しいフィクションとしてかんがえだされた。ぼくには、どうしてもそのように思えてならないのだ。
じつは、この箇所が何故、面白いのかというと、僕は、家紋というものにも、ここで荒俣さんが歌枕に感じたのと同じように、「抹殺されたいまわしい過去の記憶」を消し去り、美化しようとする日本人的なメンタリティが潜んでいるのではないかと考えているからである。
例えば、梅紋(左絵は双葉山の梅鉢紋)というのは、もともとは菅原道真の怨念(逆に言えば、道真を追い落としたことに対する藤原氏の慙愧)というおどろおどろしい想念を、このかわいい紋に閉じ込めたようにも思える。
同じく、車紋というのは、これは源氏物語というフィクションの中での話しであるが、六条御息所の怨念を優美な源氏車に昇華した紋ではないかと僕は思っている。(右絵は佐藤栄作首相の源氏車。車輪が「六条の星」のようになっているところが、どこか意味深である。)
梅紋も車紋も、いずれも、都の公家社会という狭く窮屈な社会における権力欲に敗れた人々の怨念というおどろおどろしい陰の力を御霊化(真相を消し去ること)した結果ではないのかと思うのである。
過去の忌まわしい歴史を美化すること、これは別の視点からすれば決してほめられたものではないのかもしれない。しかし、人間というものはそうやって、過去を消し去り、御霊化してしか、新しい時代を作れないような存在なのであろう。
比喩的に言うのであれば、中国や朝鮮半島にどう謝罪するのかという問題、靖国神社をどうするのかという問題、それらは現代日本人が、民族の総意として「歌枕」や「家紋」を、どう作っていけばいいのかという問題、あるいは作りきれるのかという問題なのかもしれないのであるが、おそらく、それには時間はかかると思わざるをえない。
まさむね
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しかし暑い。天気はほんとうに夏らしい夏だけど!
ただ景気はどこか怪しいように見える。でも大元の真意はあいかわらず世界的に余りすぎているお金が行き場をなくして依然としてジャンク債や国債やどこかの通貨に群がっているということじゃないか。実体がそんなに極端に悪化しているわけではないのに、行き場をなくしたお金が株式から逃げ出して悲観的なムードが漂いだしていて、それに引きずられているのだろう。実体経済からするとたまったものじゃないが、問題は実体(必要)以上に出回っているお金がいつも世界的に多すぎることじゃないか。みんな引き伸ばしをするだけで誰もこの精算をちゃんとやっていないわけだ。この報いはやっぱり国債の暴落とインフレという結末に向かわざるを得ないのだろうか? ぼくにはよく分からないが。
それはさておき、ニホンがどうありたいのか、ふたたび思考停止に陥っているのがいまの状況なのかもしれないネ。政治的にも経済的にもメリハリをなくしているようだ。一時のニホンの無駄や停滞に対する問いかけもすっかり勢いをなくしているみたいだ。けっきょく多くのひとは転換することが嫌いなのだろう。誰だって自分の生活が根本から変わることを望まないということか。
民主党も菅総理になってからもう何をしたいのかさっぱり分からない感じだ。友愛を掲げて、沖縄から基地を外に出すことに拘りつづけた鳩山由紀夫のほうが遥かによかったと思う。管直人はけっきょくただの日和見の権力志向者に過ぎないとしか思えない。政策も寄木細工的、場当たり的で、ふたたび官僚主導に戻りつつあるように思える。けっきょく既得権益者(当然アメリカの意向も入る)たちによる一斉報道のマスコミを使った鳩山、小沢叩き(金銭問題をからめて)がうまく行ったということだろう。振り子がもとに戻りつつあるようにみえる。
総じて、いまのニホンは結局堕ちきることもできず、かといって自力回復はできず、やっぱり外需頼みという構図。その頼みの綱がアメリカから中国に変わりつつあるというだけか。ニホンはつくづく外需頼みの国になってしまったということなのだろう。自力ではなく、他力本願。どこか遠くにある日本という幻、主は今も海のむこうからやって来る(主は来ませり)と言うことか。
アクティブに外に対して働きかけるでもなく、かといってみずからの中で弱さを受けとめる力があるわけでもなく、なにか移ろいながらただただ落日の木漏れ日のように薄れてゆくイメージ。戦後65年。ニホンはそろそろ経済の浮き沈みから本気で自立したほうがいいのでは。まさむねさんが言っているようにいっそ鎖国のほうがいいかもしれないネ。
最近GDPの規模で、日本がついに中国に抜かれて世界二位の座を降りることが取り上げられている。でも一個人あたりのGDPでは日本はとっくに10何位だったかに落ちていて、もう効率的な経済大国ではなくなっているのだ。だから今更二位から落ちることがそれほどショッキングなことだとは思えない。
それよりもすべてがあまりにも経済的な経済的なことばかりに左右されすぎているように思える。新聞の論調もそれ一辺倒だし。やれ世界経済だ、成長のドライバーだ、金融危機だ、景気の波だ、云々。
ぼくが高校生のころは、まだ反戦ムードやロックの影響もあり、みんなの関心はもっと多岐にわたっていて、こんな風に経済一辺倒ではなかったように思う。いつからこんな経済(金儲け)ばかりを気にする集団になってしまったのだろう。それにもともと日本人は経済という名の世界で戦うことがそんなに得意じゃなかったのでは。たぶん世界のどこへ行ってもニホン企業としてオレ流にやってきただけじゃないだろうか。少なくともグローバル戦略なんてものがあったタメシがあったのだろうか。ぼくにはよく分からないが。
徒然なるままの世迷言は尽きないが、とにかく暑さだけが肌実感だね。あいまいなニホンの、暑い夏が終わろうとしている。
よしむね




