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民主党が政権を取って、今までの様々な公共事業の無駄が暴かれ始めている。
その代表的なものが八ツ場ダムや川辺川ダムであるが、こうしてみると、いかに自民党政権が地方の土建屋や既得権益者のための政権だったのかということが改めてわかる。
そして、マスコミはそういった公共事業の実態に関して、ほとんど報道してこなかった。その罪もあまりにも大きい。勿論、それらは法律違反というようなレベルの問題ではないが、僕等の知らない間に、僕等の税金がそれほど必要とも思われないところに多額に使われていたということのだ。そして、いつの間にか、国の借金は800兆円を超え、一人当たり600万円以上にも増えてしまっているのだ。どうしてくれるのか?とはまさにこのことである。
思えば、今回のリーマンショック以降の100年に一度の大不況、小泉政権の失政による地域格差の拡大、そういったフレーズに乗って組まれた15兆円の補正予算、こんなことをしても景気が上向かないことなど、90年代に散々経験したはずではなかったのか。
地域格差というのは、戦後、地方の農家の次男、三男が都会に出てきて、都会の人口が爆発的に増え、産業も発展する過程で徐々に広がってきたものだ。おそらく、そのようにして人口集中が起こらないと日本が世界に伍して経済大国になることもなったに違いない。だから、その意味で、人を都会に集めるという自民党の政策はある時期までは正しかったのだろう。先ごろ、放送されていた「官僚たちの夏」の時代まではだ。
しかし、その後、70年代の日本列島改造計画、80年代のバブル、そしてその崩壊の90年代まで、逆に地方はどんどん過疎化が進んでしまった。すなわち、地域格差の実体はどんどんと進んでいたのだ。
ただ、その格差は、国からの補助金というシステムによって、隠蔽されていただけだったのである。
おそらく、元々、地方と都会の生活を同じにしようとするのに無理があったのではないか。
地方は自然が豊かだが不便、一方、都会は便利でファッショナブルだがコンパクト、そういった環境の違いがあるのに、それらの差をなくそうとしてきたツケが今、補助金カットという現実によって、目に見える形で現れているのではないだろうか。
地方には地方の、都会には都会のそれぞれの価値観をはぐくんでこなかったのが問題なのである。
実は、都会にいても、たまに地方の様子をテレビで見ることが出来る。夕方になるとほとんど人通りが無くなった街を元スターが尋ね歩く「田舎に泊まろう」や、ヨネスケが晩御飯を食べ歩く「隣の晩御飯」などの番組だ。
しかし、そこで見る田舎の生活は都会に比べてあまりにも豊かだと僕はいつも感じていた。勿論、そういった番組写りのいいようなところしか放送しないのかもしれないし、事前に話がつけられているのかもしれないが、田舎の人々の生活は都会に比べてとても豊かである。勿論、それは人と人とのつながりがまだ存在しているという点もあるのだが、(自動車が一家に数台あるなど)同時に物質的にも豊かなように感じられるのである。
例えばある日(2008年9月4日)の「隣の晩御飯」では彼等(漁師さん一家)の夕食は以下のようなものだった。
1.アジのなめろう
2.瓜の漬物
3.エビチリ
4.ハンバーグ
5.巻き寿司
6.主食のカレーライス(何もなかったということで出前した:お母さん談)
都会民にしてみたらなんという贅沢か。
リーマンショック以来の地域格差拡大というのがどういったことなのか、僕は具体的にはよくわからない。しかし、敢えて憎まれ口を叩くのなら、自民党は今まで、このような生活をしている人々に補助金を出してきたのではないかと思わざる得ない。勿論、これは豊かな一例であり、実態としてはこうした地方の表の顔ではない別なところに皺寄せが行っているのだろうが、それが具体的にはわからない。
もしも、地域格差是正というのが、地方の生活、そして価値観を現状のままキープするための補助金漬けの政策であれば、それはもう、止めるべきだ。
それは地方が自分達の力で生きていけるような政策にならないと、長い目で見て意味がない。
しかし、それが道州制なのか、規制緩和なのか、高速道路無料化なのか、勿論、やってみなければわからないのは確かであるが、今までと同じような競争をする必要のない社会が続くという幻想だけは抱くべきでないと僕は思う。
まさむね
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政府による補正予算の見直しが進んでいる。
最終的には、執行停止額、三兆円を目指すそうだ。政権が新しくなったのだから、当たり前の話だが、予算を削らされそうになって、それによって、当然のように受益されると思っていた面々は戦々恐々だろう。
ところで、数ヶ月前に話題になった「アニメの殿堂」も当然のように建設中止のようだ。しかし、今考えてみれば、ちょっと残念な気もする。(画像は、アニメ好きと言われていた麻生元首相。全体的に残念な人だった)
観光資源として、「アニメの殿堂」はとりあえず、足を運ぶ価値があるものになる可能性があったはずだからだ。わざわざアメリカからやってきて、山奥のダムを見学する物好きはいないだろうが、「アニメの殿堂」には行ってみようと思う”外オタ”はいたかもしれない。
勿論、中身の議論はこれからなのだろうが、やりようによっては、田舎の農道工事のような、将来的には、あまり意味があるとは思えない補助金投入よりもよっぽど効果が期待できたと思うのである。
これからの日本の各産業の中で数少ない成長が見込める業界だったのに、その成長の芽の一つをつぶしてしまったのだ。まだまだ、アニメなど霞ヶ関から見たらマイナーな分野なのだろう。
勿論、そういった世間(体制)からの無視のされ方が逆にオタク心をくすぐるという面もあるので、一概に「アニメの殿堂」建設中止は悪とも言えないのだが、民主党による中止はそこまで考えた上での政策ではないのは確かなようだ。
しかし、その一方で、アニメ業界の労働条件の悲惨さという現実もあるのは事実だ。「好きなことしてるんだから」といういい訳はあるものの、給料は安い(月収手取り15万円程度)、家に帰れない(週3回は会社宿泊)、しかも世間に認められないという三重苦のアニメ業界、この業界は、確実にワーキングプアの一翼を担っている。
ちなみに、ここでいう「世間に認められない」というのは具体的に言えば、婚約者の母親の目を見て自分の職業が言えないという程度の意味である。
「アニメの殿堂」中止問題とは全く別に、こうした彼等の労働条件の改善問題は、民主党政権になって少しは改善されるのであろうか。川端文科相の「アニメ番組1本にスポンサーは数千万円払うが、現場の一番下で請け負う人たちには数百万円しか渡らない。生活できず、若い人材が辞めていく現状があることも承知している」という「セリフ」にとりあえず、期待したいが、実は、問題は経済的なことじゃないのかもしれない。
実は、彼等のことを考えると日本というのはまだまだ、不平等な社会だと思わざるを得ないのだ。減反政策とかで、休耕田を作ると補助金がもらえる人々がいる、つまり、仕事をしないことによってお金がもらえる業界がある一方で、どんなに働いても貧しいままの人々がいる。
行政は明らかに、アニメよりも農業の方が尊い職業だとみなしているということではないのか。
先日来、亀井静香金融大臣が、不況に苦しむ中小企業救済ということで「貸し渋り・貸しはがし対策法案(仮称)」を検討しているという。「かわいそう」な人々をなんとかするのが政治だとしたら、これはそれなりに正しい政策なのだろうが、問題は、どういった人が「かわいそう」なのかを判断する基準が曖昧という点だろう。
田舎、老人、町工場、母子家庭、介護者、被差別者...確かに彼等はかわいそうかもしれない。
しかし、おそらく、この「かわいそう」な人々にアニメ業界の若者は入っているようで、まだ入っていない。
まさむね
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10月1日付けの産経ニュースに、「【主張】夫婦別姓 家族の絆を壊しかねない」という記事があがっていた。(以下、このエントリーでの引用はその記事より)
夫婦が別の姓でも婚姻関係を保てるとする選択的夫婦別姓制を導入する民法改正案が来年の通常国会に提出される見通しになった。推進派の千葉景子法相と福島瑞穂男女共同参画担当相が早期法改正に意欲を見せているためだ。
この夫婦別姓問題に関して、以前より様々な問題点が指摘されている。婚家主義から生家主義的傾向が強くなるとか、家族の絆が弱まるとか、離婚がしやすくなるとか...
しかし、それらの多くは、漠然とした懸念の域を出ていないように思える。上記の記事の中にも以下のような指摘があった。
家族は夫婦だけではない。親の都合だけで考えれば、別姓で支障がないかもしれないが、子供は必ずしもそれを望んでいないのだ。親子の絆(きずな)を強めるには、やはり夫婦が同姓でいることが教育上、好ましいことは言うまでもない。
何故、「教育上、好ましいことは言うまでもない」のかが全くわからず、反論のしようもない感じだが、こういった感慨を抱く中高年が多いことは想像は出来る。
そして、おそらく、夫婦別姓を反対する人々を「保守層」とか言うのだろう。
しかし、こうした議論が出てくる際に、いつも感じることではあるが、それらの「保守層」は一体何を保守しようとしているのだろうか?それが、今ひとつ不明なのである。
姓に関して言えば、日本は世界で二番目に数が多い国として知られている。一位は、アメリカである。それは移民が多く、世界各国の姓を持つ人が集まっているためという理由は納得しやすい。それでは、何故、日本ではこれほど姓が多い(一説によると300,000と言われている)のであろうか。
古代日本には氏姓制度というのがあって、その頃は、氏は天皇が下々に与えるものであった。蘇我氏、物部氏、藤原氏、源氏、平氏などというのがそれだ。そして、その氏というものは、基本的(公式的)には父系の氏を受け継ぐものであった。
しかし、それだと、例えば、藤原氏なら藤原氏を姓とする人が多くなりすぎて、朝廷近辺の狭い人間関係社会だけならまだしも、日本全国に人々が広がりだすと、どこの藤原氏だかわからなくなってしまう。それで、平安時代に、都落ちした貴族の末裔(いわゆる武士)はそれぞれの開拓地の名前を「氏」とは別の「名字」として私称しはじめる。これが名字の始まりである。
勿論、その後、古代からの「姓」を、名字として使用し続けた人々もいたり、地名とは関係なく、自分で勝手に名字を作った人も多くいた。だから、日本の名字は多いのである。
逆にお隣の朝鮮やシナでは、儒教的な、「姓は天から授かり物」的な観念が強く、それによるしばりが強かったため、名字という「自己申告的な名前」ようなものは発生しなかった。
だから、例えば、韓国では現在、200余りしか姓は無いし、中国(漢族)では2000程度しかないといわれている。
ようするに、日本ではなしくずしに名字が増えていったのである。それはある意味では、日本人のルーズさを表しているし、べつな意味では、自立心の強さ、日本社会の中央権力の弱さ等をも表している。
「なんとなく既成事実が積み重ねられて、自然成立したかのように物事が作られて行き、さらにその歴史すら忘れられていく」、あるいは、「理念にとらわれずに、それぞれの裁量と冒険心をもって人間関係を作り、たくましく生きていく」という、僕はそういった風土こそ極めて日本的だと思う。だから、日本に名字が多いことは、日本人のそういったたくましい伝統の証だとすら思っているのだ。
したがって、基本的には政府が法律で名字に対する規制をしていることは、本来の日本の伝統からは反していると思う。よく、江戸時代には、武士以外には名字を持たなかったといわれているが、それは間違いで、実は、大多数の庶民も名字を持っていたのだ。ただ、公式にはそれを持っていないことになっていただけなのである。逆に言えば、お上は下々の名字などに対しては、全く不干渉だったとも言えるのである。
僕は、そういった意味で、逆に夫婦同姓という明治以降の中央集権国家的な規制は反日本的であると思うし、だからこそ、それを積極的に肯定したいとは思わないのである。
また、全然、別の観点だが、日本人の豊富な名字を守っていくには、夫婦別姓の方が有利という点も見逃せない。同姓を強制されることによって、希少姓が消滅してしまうのは極めて残念だったが、これで残されていく可能性が増えたのである。これだって一つの伝統を保守することになるのではないのか。
話を戻すが、だいたい「家族の絆」をお上に守ってもらおうという発想自体が古代から歴史を視野に入れた時に、「日本的」ではない。それは個々人の問題であり、「どういった家族のあり方が幸せか」などということをお上に決めてもらわなくても結構だ。名字が親子で違うと絆が損なわれると思う人は同じにすればいいではないか。それだけの話である。
さらに言えば、おそらく、現在、夫婦同姓という規制があることによって、不自由な人々がいるのであろう。特に結婚によって、片方(特に女性)が名義を書き換えたりすることは多大な面倒になっているのではないかと想像される。
そういった事をわずらわしいと思う人々が少しでも生きやすい社会になるのに、関係ない人が何故、反対するのかがよくわからないのだ。
ただ、夫婦別姓が認められると、本人同士は、同姓にしたかったのに、例えば、結婚を認めたくない片方の親から、無理やりに別姓を強制されたお嫁さんが、結婚後、何年にも渡って自分が夫と違う名字を見るたびに、逆に差別されたようにとか、あるいは、夫の家に認めてもらえないなどとと感じてしまうようなことも起こるかもしれない。制度を利用した新しい不幸が生まれてしまう可能性だったありうるということだ。
しかし、どんな制度だって、いいところもあれば、悪いところもある。それは、それぞれが乗り越えていく問題なのだと僕は思う。
まさむね
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「差別と日本人」(野中務 辛淑玉)は毒のある書物である。
僕たち、日本人にとって、見たくはない歴史、現実をあまりにも鋭く突きつけるからだ。
おそらく、部落差別問題のなんたるかを全く知らない人が読んだら、この毒のせいで、しばらくは放心状態になってしまうのではないだろうか。特に二人の対談の合間に入る、辛淑玉の書く太字の解説文が持つ毒は、新書の域を超えている、と僕は思う。
おそらくこの本を読めば、ある人は「お前に言われたくない」と、怒るだろうし、ある人は、人間とはそういうものだと、一般論に逃げ込もうとするだろうし、ある人は、「そんな事はあり得ない」と問題から目をそらそうとするだろう。
しかし、辛淑玉は言う。
差別とは、富や資源の配分において格差をもうけることがその本質で、その格差を合理化する(自分がおいしい思いをする)ための理由は、実はなんでもいいのだ。部落だから、外国籍だから、朝鮮人だから、沖縄だから、女だから・・・。自分たちの利権を確保するために資源配分の不平等を合理化さえ出来れば、その理由などなんでもいい。
彼女が言っているのは、差別とは、個々人の倫理の問題を超えた社会の問題であるということである。
そして、日本という社会が、その根本に差別構造を内包しているということなのである。
さらに言えば、必然として、その差別構造の上に乗っかって、僕たち、日本人の平穏な生活があるということなのである。
そこまで現実を突きつけてくるこの本を僕等はどのような覚悟で読めばいいのだろうか。
また、この本は、皇室に対しても、かなり踏み込んだ発言をしている。
大正年間に「神武天皇稜」を上から見下ろす位置にあった被差別部落は、家だけではなく、墓や「遺骸」までをも根こそぎ強制的に移動させられたという事実が語られているのである。そして、天皇制により、部落の人々はより貶められていったと結論付けられる。
しかし、その一方で、被差別者の失われたアイデンティティを補償する存在として皇室の存在が、被差別部落民を支えたというのだ。
皇室の対極として必然的に生み出された部落差別と、その被差別部落民の心をささえた皇室という、二つの極の複雑な関係性は、部落差別問題の複雑さそのものなのであろう。
おそらく、辛淑玉が語る部落差別根絶の論理の結末は、反天皇制にならざるを得ない。
この論理を目の前にしたとき、僕等はどういった態度を取るべきなのか。差別をなくすことと、皇室を存続させることの両立は可能なのであろうか。例えば、宮台真司が言うように、日本人が、他ではない、まさに日本人であり続けるために、天皇という機能的な装置(システムとしての外部)を要請する時、その装置の裏側に被差別部落が貼り付いているということになりはしないのだろうか。
しかし、ここで、辛淑玉は、井沢元彦がいうところの日本人の「穢れ」という宗教観念、そしてそれが部落差別を生むという日本人独特の構造については触れてはいない。あくまで、先の引用部分でもあきらかなように、差別というものを経済格差を温存するための(無意識な)イデオロギーとしてのみ捉えているように思う。
勿論、差別が打倒すべきものであるならば、彼女の見立ては正しいのであろうが、僕が思うに、差別は打倒するというよりも、社会の仕組みを変えることによってのみ、乗り越えられていくものなのではないのだろうか。
かつて、浅田彰は昭和天皇が亡くなる直前に皇居で土下座する人々を指して「土人」と言ったが、比喩的に言えば、日本人が差別を乗り越えるためには、「土人」としての日本人は「市民」にならなければならないのだろう。
そして、それは、社会を自覚的に作り直す意志を持たなければならないということだ。別の言い方をすれば、社会をそのままにして、部落差別だけをなくすというのは難しいということだと思う。
いささか、楽観的にすぎるかもしれないが、民主党が政権を奪取したことによって、日本人は一歩だけその方向に進んだといえるのかもしれない。
鳩山由紀夫氏は、新総理としての記者会見で、国民に対して「政権に参画してもらいたい。」と言ったが、それは、実は、大変難しいことなのだとこれからわかってくるのだ、と僕は思う。
本エントリーの文脈とは全く関係ないが、この本を読んで野中務という人物の心の広さ、人間の大きさを感じることが出来た。彼のような懐の深い政治家は、今、国会にどの残っているのであろうか。誰か教えて欲しい。
まさむね
テクノロジー・ビジネス, 社会問題 »
若干古いデータ(「Tumblrの国内UU拡大 Twitterは35~49歳が半数」)ではあるが、TwitterとTumblrの年代別普及度を見て、微妙な「痛み」を感じた。
ユーザー層を見てみると、Twitterは男性が58%、女性が42%、Tumblrは男性が65%、女性が35%。
年齢別で見ると、Twitterは35~49歳が最も多く45%、次いで20~34歳が33%、50歳以上が17%。
Tumblrは20~34歳が39%、35~40歳が30%、50歳以上が25%と、50代の利用が多い。
本来であれば、こういった新しいサイトに対しては、圧倒的に若い層が飛びつくように思われるのだが、両サイトとも、50歳代の利用が思いのほか多いのである。
僕も来月から50歳代の仲間入りをするからというわけでもないが、その理由がなんとなくわかる。
ようするに、彼らには暇なのである。会社の中でそれなりのポジションを与えられているとはいえ、やることがないのである。
かといえって、何もしないわけにはいかず、とりあえず、ネットで「次に来ると思われる」ものに登録して、「つぶやいて」みる。無料だからだ。
そして、なんとなくは理解し、ビジネスに使えるかどうかをボンヤリと考えるが、何も浮かばない。
そして、派遣で来ている若手が手を休めた隙を見て...
「Tumblrって知ってる?Twitterやってる?」
とか言って近づくのだ。若手は、すでにmixiなどでコミュニティ化して、今さら、TumblrやTwitterの必要性がないことを直感的にわかっている。しかも、忙しい。
だから...
「さすが○×さん、若いですねww俺なんか、全然わかんないっすよ。(さぁ仕事しよう...)」
という感じでやりすごす。
そんな日本中で繰り広げられる風景が目に浮かび、それが僕に「痛み」を感じさせるのである。
今、日本社会の最大の雇用問題は、城繁幸(左画)や池田信夫が言うように、ノンワーキングリッチの中高年が既得権益化し、若年層のワーキングプア化の大きな原因になっているということである。
ようするに、忙しくて貧しい若者と、暇で豊かな老人の格差問題だ。
IT革命は、業務の能率化、コストダウン化を促進したが、それは結果として、現在のこういったいびつな格差社会を生み出したのである。
しかし、この社会構造を民主党政権が是正できるとは思えない。
民主党は、体質的にノンワーキングリッチ層(大企業の労働組合)の力を背景にした政権だからだ。
問題解決には、雇用の流動性を増加させるしかないのであるが、やろうとしているのは、逆に雇用規制の強化だ。
おそらく現実的には、日本は借金を増やしながら、そういった既得権益層が引退するまで事なかれ主義でジリジリ進むしかないのだろう。
そして、現代の貧しい若者が、昇給もせずに貧しいまま中高年になるあと数十年後に、ようやく自然にこの格差問題が解決するのを待つだけになるのであろう。
問題は、そうこうしている間に、日本の国力、経済力は徐々に低下し、いつの間にか、その頃の若者が上海やシンガポールやバンガロールに単純労働者として出稼ぎに行き、国内には老人ばかりの国になってしまう可能性もあるということだ。
セカンドライフ(バーチャル空間)が、本当のセカンドライフ(第二の人生)化してしまったように、TwitterやTumblerの高齢化は、明日の日本そのものの姿の先取りかもしれないのである。
まさむね
書評, 社会問題 »
民主党が政権を取った。
政策の目玉の一つが高速道路の原則無料化である。
これが実現すると、大喜びする個人(田舎のコロガシ系のヤンキー)、流通業者は多いだろうが、逆に地方都市の中小商店主は今以上のダメージを受ける可能性がある。今でさえ、旧市街地のシャッター街化が進んでいるというのに、それはさらに加速化する。自動車交通の便のいい大手ショッピングセンターだけが繁盛し、中途半端に自動車が乗り入れできる地方都市はさらに寂れることは目に見えているではないか。6日の毎日jpでも、そのあたりの悲喜こもごもが記事になっていた。
左上の写真は、高速道路無料化によって、寂れることが予想され、不安な心持ちの国道沿いにある食堂を経営する夫婦である。
これが、今回の選挙で、地方の人々の選択の結果なのだから仕方が無いといえば、仕方が無いが、今後、この政策によって不利益をこうむる人々の生活は、一体どうなってしまうのであろうか。
★
「道路整備事業の大罪」(服部圭郎著)は、道路が整備されることによって、逆に地方が寂れてゆくことに警鐘を鳴らす。
行政は道路が人々を豊かにすると考え、高額の予算を執行して道路を整備する。しかし、道路を整備された地区の住民は、どんどん家や集落を捨ててそこから出て行く。これは不思議な現象だが、不思議と思ってしまっているわれわれが何か重要なことを見落としているのではないか。
それは、人々は道路を、そこでの生活の利便性をもたらすものとして捉えるのではなく、そこでの生活から脱却させてくれる出口として捉えるのではないか、ということだ。
おそらく誰が悪いという話ではないのだろう。人々には生活がある、そのためには仕事が必要だ。そして道路建設という、ある意味、安易な公共事業が日本全国にばら撒かれてきた。勿論、それによって、一部の地主は何もしないで潤っただろうし、多くの地方在住者は職を得てきただろう。それのどこが悪いという話ではない。
しかし、90年代に国や地方自治体の財政が悪化し、そういった公共事業が思うように発注できなくなってきた今日、結果として残ったのは、そういった公共事業に頼り切って生きてきた地方の疲弊と高齢化という残酷な風景である。
服部圭郎氏の話の延長で考えるのならば、民主党の高速道路の無料化政策は、そんな悲惨な状況をさらに加速させてしまうかもしれない。
★
一方で、山崎養世氏のいうように、高速道路の無料化が、外需中心の工業化社会から、地域振興、農林水産業の発展、観光、教育の充実につながるという意見もあるにはある。しかし、この人は話し方もそうだが、根っからポジティブなキャラクタなのだろう。
夢のような話に聞こえてしまうのは、山崎氏が言うように、「そんなことできるはずがない」とか「そんなうまい話があるはずがない」といった「常識の壁」に阻まれて、僕が、いつの間にかネガティブになっているだけなのであろうか。
とりあえず、これからは、田舎の土建屋のためだけの道路拡張には反対する御両人だが、高速道路無料化によって服部圭郎氏が懸念するような明日になってしまうのか、山崎養世氏が期待するような明日が来るのか、僕にはわからない。
じっくりと見守っていきたい。
まさむね
政治, 社会問題 »
民主党が予想外の圧勝をした。
とりあえずは期待したいと思う。
そういえば、選挙当日の夜、テレビ(テレビ東京の討論番組)を見ていたら、早くも民主党の雇用対策に対する不安に関して議論がされていた。
主なところで民主党の雇用対策は以下の3つだという。
1)職業訓練中の10万円支給
2)2ヶ月以内の派遣の禁止
3)1000円の最低賃金
確かに、1)~3)まで、どれをとっても、一見、悪い政策のようには思えない。
しかし、よく考えてみれば、これで、本当に雇用は増えるのだろうかと不安を感じざるを得ない。
誰が考えてもそうだが、雇用を拡大するには、経済が成長しなければならない。民主党のマニフェストには、そこがすっぽりと抜け落ちているのだ。
勿論、政府が主導で経済成長が実現されるような時代は既に終わっている。
政府に出来るのは、その仕組みを作ることだけだろう。
しかし、竹中平蔵氏が言うように、法人税減税と、規制緩和、霞ヶ関依存からの脱却、本来の意味での地方分権、これが民主党に出来るか。
日本経済の活性化はそのことにかかっているようにも思える。
また、成長戦略に関しての具体策を求められた鳩山・民主党代表は、子供手当てや高速道路の無料化などの個人への直接支給に言及されていたが、前にも書いたがそれは、都会のオタクから田舎のヤンキーへの所得移転の話であって、使える金の総量が増えるわけではない。
わかりやすく言えば、海洋堂の売り上げがオートバックスの利益に変わるだけの話ではないのか。
それなら、まだいいが、子供手当て支給で、子供とは関係の無い京楽やキリンビールの売り上げが増えたら、民主党は、どう責任をとってくれるのだろうか。
さて、鳩山代表は、さらに、経済成長に関して、宇宙開発、海洋開発などと夢のような話をされていたが、本当に雇用問題が切実な中高年にとって、今更、ロケット産業などにどうかかわればいいのか、不安は全く解消されないだろう。
★
残念ながら『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』の著者の城繁幸氏がそれこそ一本ネタで繰り返す日本の会社の雇用形態、つまり、中高年のノンワーキングリッチのせいで、若者のワーキングプア、あるいは失業が生み出されているという構造、この世代間の問題は、民主党政権になっても解決しそうではない。
民主党の主な支持団体が連合だからだ。
連合は、それこそ、組合員の正社員の利益を守ることが第一である。
確かに、非組合員労働者に対しても同情し、共闘のポーズを見せてはいる。
しかし、派遣の禁止、正社員化との主張は本気でなされているとは思えない。
労働賃金を分配する財布は一つなのだ。現在の派遣社員、非正社員を正社員にしたら、当然、現在の正社員の給料を減らさざるを得ない。そんな状況を連合の人々が認めるはずが無いではないか。
誰でもわかる算数の問題である。
結局は派遣が規制されれば、今までの派遣の人々は職を失い、その分、正社員が忙しくなる、残業が増える。そして、残念ながら、働きすぎる一部の正社員と、暇(失業)で貧乏なその他の人々という構図は変わらないのではないかと思われる。
★
実は、僕は、現在は正社員である。だから既得権益者の立場にいるということは認めざるを得ない。
しかし、僕たちだって、雇用の流動性が無ければ、その立場を退くわけにはいかないということもわかってほしい。
さらに言えば、この10月で50歳になる。若者よりもよっぽど厳しい崖っぷちに立たされているのだ。
もしも、失業したら、それこそ若者の何倍も厳しい就活が待っているのである。
城繁幸氏の主張する世代間の不公平という議論はわからないではないが、体が動かない。
いつの間にか、子泣き爺化している僕ら中高年達、そのしがみつく手を離せないという状況に自己嫌悪すら感じる毎日である。
中高年の正規社員、いわゆる半分、不良債権化した既得権益者は、じゃあどうすればいいのだろうか。
ノンワーキングリッチと言われないように、若者以上に必死に働いくしかないのだろうか。
逆に、城氏に聞いてみたい。
まさむね
社会問題 »
ついに民主党が政権を奪取した。
官僚や、特殊法人、地方の土建屋、農協等、国と一般市民との間で既得権益者として利益を中抜きしてきた面々を一掃するという民主党の唯一の意味のありそうな公約をどのように実行してくれるのだろうか。
まずはこういった既得権益者(勿論、もうすぐ50歳になろうとしている僕も、この日本という制度の中では自覚、無自覚はともかく、なんらかの意味で既得権益者であることを踏まえつつも)ののさばりを排除すること。
僕が民主党に期待するのはただ、その一点である。
しかし、それ以外の政策に不安が無いわけではない。
例えば、あの構造改革はどうなってしまうのだろうか。
もともと、国の借金が800兆円を超え、今までのような地方への再配分が不可能になったことを受けての規制緩和、補助金カット、小さな政府を目指すというのが構造改革の主旨だったはずだが、それが、道半ばにして、いわゆる格差問題につぶされる格好で、いつの間にか、改革は後ずさりした印象すら受ける。
確かに構造改革からくる痛みはあるだろう。小泉元首相もそのあたりは何度も口にしていたはずだ。
しかし、おそらく、格差問題の根はもっと深い。
戦後史を振り返ると、輸出産業でGDPを押し上げてきた日本経済の余剰部分を、生産性の低い農村に再配分してきたのが、もう持たなくなってしまった、ようするに、昔から隠れ格差はあったのだ。簡単に言えばそういうことだと僕は認識している。
そして、小泉以降、彼の後を継いだ面々がいつのまにか市場原理主義=悪というマスコミの論調に押され、大量の借金に目をつぶる形で、自民党を元の再配分(バラマキ)政党に戻そうとしてしまったのである。
今回の選挙結果は、変えるフリをして結局、変わらなかった自民党への批判という面もあると僕は思っている。
★
それにしても、今後、民主党政権になって、どうなっていくのであろうか。
おそらく、政権奪取のための、いわゆるバラマキと言われた公約を本当に実行してしまうのだろう。
子供手当て、高速道路の無料化(首都高は例外)、農民への所得保障、田舎のヤンキー支援策に対して、都会の独身サラリーマンは政権奪取のコストとして見守るしかないのであろうか。
そういえば、民主党の公約の一つに後期老人医療制度の廃止というのもあった。
これは、これからどんどん増えていくことが予想される老人医療費に対する現役世代からの支払いに、とりあえずの歯止めをかけるという意味で大変、意義深い政策であったが、老人いじめとか、自動引き落としは残酷などという感情的な批判で元に戻ろうとしているのだ。
確かに、現在の老人達はこの制度廃止で安心感と利益を得るだろう。
しかし、これからの世代にとっては老人の医療費というのはさらに重荷になっていくに違いない。
そしていつか、現役世代が老人世代を支えくれなくなるような時代が必ず来るのである。
それでいいのであろうか。
子泣き爺(こなきじじい)という妖怪がいる。
山の中で泣いている赤ん坊。可哀相に思って、抱き上げると、その赤ん坊は爺に化けて急に強い力でしがみつき、みるみると体重が重くなっていく。そして、親切に抱き上げた人をつぶしてしまうという恐ろしい妖怪だ。
最初はいいかもしれない。しかし、時間がたつにしたがって徐々に日本全体を沈没させかねない老人の医療費(さらに年金も)、それはまさに子泣き爺のようなものだ。
子泣き爺を抱きながら一緒につぶれていくのか、それとも、とりあえず子泣き爺が小さいうちに、手から離してから、対策を考えるのか、今、日本はその瀬戸際に来ているようにも思えるのだが。
まさむね
社会問題 »
最近、減税という話を聞くとなんか胡散臭く聞こえる。
例えば、TOYOTAの「こども店長」のCM。
エコカー減税で補助金もと謳われているけど...
「店長!結局これって、車に乗らない人が後で減税分を別の税金で払うんじゃないんでしょうか。」
「店長!エコという意味で言えば、むしろ車を持たないで毎日、電車で通勤している人々にこそ、電車手当てとかを支給すべきなんじゃないでしょうか。」
思わず、そんな意地悪な質問を店長にぶつけてみたくなる。
勿論、僕は自動車を持っていない。東京で暮らすサラリーマンだから自動車は必要ないのだ。
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それにしても、何故、車に乗らない人が、新車を買う人のために、税金を使われるのだろうか。
確かに、自動車産業は日本の重要産業だから、国として保護しなければならないとか、自動車産業はその周辺の事業も含めると多くの人々が従事しているから、傾いたら影響が大きすぎる、だから補助するのだ。という話はわからなくもないが、逆にいえば、ついに自動車産業までもが国の援助が必要になったのか、すなわち、「自立」出来なくなったのかと思わざるを得ない。
勿論、自動車産業がこれからもずっと日本の経済をささえていけるのなら、問題はないのだが、例えば、経営学者の村沢義久教授は「今後、ガソリン車が電気自動車に移行し、それまで大量の部品を扱うことによって、日本のいわゆる”すりあわせ技術”が有利に働いていた自動車産業という分野が、外国に追いつき、追い越される可能性が高い」ことを示唆している。
ようするに、今後、自動車産業では、日本型労働形態の優位性が無くなって行くという予想をされているのだ。
だとすると、政府による自動車産業保護政策は、これまた、かつて別の分野で見たような「衰退産業」への無駄な投資(タレ流し)にならないという保証はどこにあるのだろうか。かつてミルトン・フリードマンは政府の補助は『死の接吻』と言ったというが...
「官僚たちの夏」における風越信吾(佐藤浩市)の「このままでは日本の自動車産業はダメになってしまいます。それを、指をくわえて見ていろというのですか。」といういつもの叫び声がどこからともなく聞こえてくるのは気のせいだろうか。
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しかし、自民党がエコカー減税+補助金だとすれば、民主党はさらに、高速道路の無料化(首都高は例外)だ。
この政策って、山崎養世氏の年来の主張だが、ただ、ETCを扱う天下り法人・道路システム高度化推進機構などの道路族の利権をはがすことだけが目的なのだろうか?勿論、それはそれでいいことなんだろうけど、僕には、”伝票はこっち回し”のただのばら撒きに見えなくもない。
さらに言えば、田舎のヤンキー大喜びのこの政策のどこに、民主党が優先課題としてかかげる環境への配慮があるのだろうか。
そして、これによって、田舎の人々は地域の地場商店ではなく、他県の国道沿いの大型店舗で買物をするようになって、駅前はますますシャッター通り化するんじゃないだろうか。
だとするならば、民主党の主張するところの「絆のある社会」という理念とどこで、どうリンクするのか、ちゃんと”目”を見て説明して欲しい。
まさむね
社会問題 »
最近、感じるのだが、コンビニのおにぎりが美味しくなった。
一昔前だったら、腹が空いたからしかたなく食べるものの代表がコンビニのおにぎりだったが、今はとてもそんなレベルではない。
中に入っている具も、以前だったら、タラコとシャケと梅くらいだったのが、今では、シャケもグレードアップし、ハラミとかになっているし、ご飯もただの白米じゃなくて、チャーハンとか、オムライスとか鶏五目とかの種類も豊富だ。
そりゃ、全国に何千店舗もあるチェーン店が金をかけてマーケッティングし、生産開発させ、価格も抑えてというようなことをやれば、自然と高品質のものが出来るだろう。
家族経営のおにぎり屋も、最初はユニークな味とか量の多さで対抗できたとしても、長い目で見れば徐々に押されていくのはしかたがないのかもしれない。勿論、個人的にはそういった家族経営店を応援したいという気持ちが無いわけではないが、残念ながらいつの間にか足はコンビニに向かってしまう。そんなユーザーが多いのではと想像する。
日本には元々、そういった町々の小さな商店が沢山あって、地域に根付いた商売をしていたのだが、それが90年代以降の大店法改正などによって、徐々に大手スーパーなどに市場を奪われていった。
これを自然の流れというにはあまりにも、残酷な結果だが、このいわゆる自由化の波によって、町の商店街はどこもシャッター街となってしまった。
僕はかつて(今から5年位前)、ある取材で、プロレス興行に付いて行って、南は熊本から北は北海道まで、日本海側を車で移動したことがあったが、熊本、臼杵、福岡、広島、出雲、福井、上越、酒井、秋田、釧路、旭川...どこもかしこも似たような感じだった。国道沿いには、どこにも大型ビデオレンタル店やファミレスや大型パチンコ店が並び、逆に駅前の通りは閑散としていた。
最近はさらに、画一化、過疎化が進んでしまっているのだろうか。
経済学者や社会学者は日本国内で回るような地域社会を作らなければならないと言うが、その社会を作るための思想がヨーロッパ的なスローライフの思想になるとは思いづらい。
民主党が政権を取ったら、NPO設立など、「良きこと」をしたい人にはいい世の中になるのかもしれないが、そういった善意はどれだけ浸透していくものなのだろうか。
今までは、補助金という形で、地域の「顔役」に回っていて、そこから一般の人々になんらかの形で配られていたお金が、直接、個々の家庭や個人に回ると、地域の地場産業は益々苦しくなりそうな気もする。ガソリンの暫定税が廃止され、高速道路が無料化されると、若者はさらに、大型店や都会に出て消費するようになるかもしれない。
その結果、小さい商店は益々やっていけなくなって、店のオヤジたちは、いつの間にか大きなスーパーの店員になってそれで幸せなのだろうか。
そのうち、隣の晩御飯でヨネスケが行く家々、どこへ行ってもスーパーのお惣菜が並ぶようになってしまっているかもしれないのだ。
東京でサラリーマンをして暮らしていると、いろんな事がわからなくなる。
コンビニのおにぎりが美味しくなったと言って、喜んでいる場合ではないのかもしれない。
まさむね



