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社会問題 »

[16 7 月 2009 | No Comment | | ]

雨宮処凛というライターがいる。彼女の『「生きる」ために反撃するぞ!』(筑摩書房)等の著書や、テレビ等の発言は、徹底して働く者の側に立つ。その活躍ぶりは「プレカリアートのマリア」(朝日新聞命名)とでもいうべき存在感である。
ご存知かとは思うが、彼女自身、かつてはリストカッター、そして右翼少女、ゴスロリファッションの小説家など、紆余曲折の人生を送っている。ちょっとした来歴だけを見てもわかる。彼女は、凄い人なのである。
しかし、僕はそんな彼女のインタビュー記事「無茶な要求に応えようと、がんばりすぎる正社員たちダメな人でも安心して働ける社会であってほしい」を読んで微妙な違和感を覚えた。
       ★
確かに、彼女がここで言っているように、現代日本社会は、労働者にとって過酷な状況にある。サービス残業や休日出勤などによる長時間労働は、労働者の心身を徐々に蝕んでいく。しかも、労働者は、そんな状況にありながらも、社会や企業の価値観に過剰に適用しようとして、さらにスキルアップや過剰労働に身を捧げてしまうという悪循環である。
しかし、その反面、人間というものは、ある種、限界状況でこそインパクトのある生き方が出来るという困った習性があるのも事実なのである。
おそらく、雨宮氏も様々な限界的な人生経験から、現在の道をつかんだのであろう。その宿命にも似た彼女の道程を思うと、頭の下る思いがするが、一方で、彼女自身が本当に大事だと思っている自身の価値観と、彼女が世間の人々に勧めるような生き方のズレが僕には気になるのだ。
誤解を恐れずに敢て言わせていただけるのならば、彼女は、自身のインパクトのある人生のために、他の多くの労働者には凡庸な生き方を勧めているように僕には見えるのである。
そしてもうひとつ、彼女のこのインタビュー記事が掲載されているのが、求人情報サイトというのも違和感を覚えたひとつの理由である。
彼女がここで「労働状況の告発」を行うことは、読者の転職を勧めることにつながり、そうすると、多くの場合より過酷な労働条件に人々を追い込む結果に助力することになってしまうという残酷な循環に彼女はどれだけ自覚的なのだろうか、それが違和感の内実である。
       ★
しかし、上記の事をとりあえげて彼女を攻めるのも酷だろう。それが資本主義社会を生きる僕たちの宿命なのだから。
小泉改革を批判しながら、反面で自分の癌をネタに、新自由主義の尖兵である外資系生保会社のCMに出続ける鳥越俊太郎氏を許すのと同様に、僕は彼女もギリギリ許したいと思う。
まさむね

歴史・家紋, 社会問題 »

[18 6 月 2009 | No Comment | | ]

先日、ある公営墓地の管理事務所で、ある有名人Mさんの墓所を尋ねたところ、教えることは教えてくれたのだが、その後、一言、個人情報保護法によって、あんまり墓の場所は教えられないんだよね。と嫌味を言われてしまった。
ちなみに、個人情報保護法令では、その定義の冒頭にこう書かれている。
この法律において「個人情報」とは、生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる 氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と容易に照合 することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)をいう。
これは生存者にのみ適用される法律なのだ。
僕もそのことは以前より知っていたのだが、墓守さんから、個人情報保護法によりって言われた時、口論するほど、気が強くないので、思わず、「申し訳ありません。ありがとうございます。」と言って、その場を去ってしまった。
しかし、微妙な違和感だけが残ったのである。
今のところ、有名人の墓に関して、明らかにそれは公開されているし、別段それが問題になっているようにも思えない。
青山霊園や生田の春秋苑では有名人墓所の地図を配布しているし、寺山修司が眠るは高尾霊園では、案内地図板に「寺山修司の墓」と書かれていた。また、石原裕次郎の墓がある総持寺では、「裕ちゃんの墓」と矢印看板が出ている。
また、中央霊園や本願寺和田堀廟所では、HPで埋葬されている偉人を紹介している。画像は、武者小路実篤墓を紹介している中央霊園のHPより。
しかし、今後、有名人の墓に落書きをするようなイタズラが発生し、それが無責任に報道でもされれば、墓所の場所告知にまで、個人情報保護法が拡大適用されるといった傾向は一気に広まらないとも限らない。
あくまで、個人的な趣味の範囲の問題ではあるが、微妙に困ったものだと思う。
まさむね

日常雑事 雑感, 漫画・アニメ, 社会問題 »

[8 6 月 2009 | 4 Comments | | ]

昨日の『サザエさん』でちょっと気になるシーンがあった。
サザエさんが洋裁に凝ってしまい、晩御飯の仕度をフネをまかせっきりにしてしまったのだ。
それに対して、夫のマスオが、サザエさんの実母のフネに謝るのである。
何気ないシーンであるが僕は微妙な違和感を感じた。
例えば、自分の体験では、妻が何かマズいことをした時、妻の母が僕に謝ることはあっても、僕が妻の母に謝るということは考えられないからだ。
逆に、僕が妻に対して、何か悪い事をしてしまった時は、僕は義母に謝るのは当然といった意識はある。
つまり、僕の場合、サザエさん的世界とは、謝る人と謝られる人関係が逆になっているのだ。
妻にその事を話したら、「それは所有意識の差よ。」と言われた。なるほど、そういう意味では妻はまだ義母さんのものなのか?
しかし、いつから、サザエさん的世界が「現代」になったのだろうか。
最近、浅野忠信や宮沢りえが、大人になったカツオやワカメに扮するCMがあったが、それによると、2008年にカツオが36歳、テレビアニメの時代はカツオが11歳だから...
ようするに、そこから計算すると、テレビアニメは、1983年の出来事ということになる。
そういえば、昨日の放送回では、たまたま電話というのが一つのテーマだったからよく覚えているのだが、サザエさんの家の電話は手回しの黒電話だったが、モダンな友達の家の電話はプッシュフォンだった。
黒電話とプッシュフォンの混在、これは1983年という時代の状況として正しい。
という事は、妻の失態に夫が母に謝るのか、母が夫に謝るのかという変化は、バブル以降の出来事なのだろうか。
大雑把に言えば、その間、男女雇用機会均等法の成立、女性の経済的自立、精神的自立、男女共同参画社会基本法成立という流れがある。
そして、いつの間にか、サザエさんの時代が「現代」になってしまっているのであった。
妻がこの現象を説明するときに使った「所有」という概念だが、それで思い出すのが、夫婦別姓に関わる民法の改正案だ。
結局、この夫婦別姓問題の本質って、女性の自立という問題ではなく、女性の所有意識を夫が持つか、母が持ち続けるのかということなのかもしれない。
そして、現代の母優勢の流れが夫婦別姓の盛り上がりの背景にあるのは間違いない..と思う。
さらに言えば、娘を夫から母が取り戻す運動が、夫婦別姓運動なのかもしれないのだ。
しかし、実は、元々、日本人には、夫婦別姓的DNAがあるという見解もある。
例えば、僕の興味の対象の「家紋」の世界では、関西を中心に女紋という伝統がある。それは、女性が旦那の家に入っても家紋は、実家の母の紋を使用し続けるという風習だ。
また、詳細はまたの機会に書くが、源平藤橘を代表とする「氏」というのは、嫁ぎ先の「氏」ではなく、生家の「氏」を引き継ぐものなのである。
それにしても、僕たちはいつまでサザエさんをリアリティある世界として見続けられるのだろうか。
ちなみに、テクノロジーで言えば、サザエさんの世界にはまだ、パソコンも携帯電話もない。
とりあえず、なんとなく毎週見ている番組だ、初めてサザエさんに携帯電話が登場する歴史的瞬間は見逃すまいと思う。
まさむね

社会問題 »

[3 6 月 2009 | 5 Comments | | ]

雇用問題というのは、自分達の世代にとって、最も触れたくない問題の一つである。
自分達の世代というのは、現在40代後半~50代前半の世代という意味だ。
ちなみに、僕は1959年生まれで、現在49歳である。
では、何故触れたくないのか。それは、最近の若年層の雇用状況、すなわち失業問題やワーキングプア問題の根本的な原因の一つに、我々の世代の安定雇用のしわ寄せが若者に行っているという問題があるからだ。
現在の雇用問題の本質は、実はパイの奪い合い問題だと僕は思っている。
勿論、そういった世代間対立を、連合などの労働組合は隠そうとする。この問題をいまだに資本家と労働者の対立が原因だと言い張ろうとするのだ。
勿論、大企業の役員達の報酬がここ数年で暴騰したというような話を聞いたことがある。森永卓郎氏などがいつも言う話だ。しかし、現代の雇用問題の本質は労使問題という「おとぎ話」にはもう付き合えないという感じが僕にはする。今は1970年代ではないのだ。
あるいは、この世代間対立を、新自由主義のせいにしようとする人々もいる。そういった人々は、日本の古来からの良き伝統とやらを持ち出し、それを壊したのが新自由主義だと言う。しかし、はたしてそうなのだろうか。例えば昭和初期の普通の中小企業の社長は、社員の生涯の生活を守るために、終身雇用を守ろうとしたのだろうか。これらの慣行(らしきもの)は高度経済成長期、つまり企業が労働力を欲しくて欲しくてたまらなかった時期に、社員に逃げられないために考え出した餌にすぎなかったのではないか。
何に関してもそうだが、その起源が忘れ去れて、あたかもずっと続いてきた伝統のように感じられてしまう慣行、観念にもっと敏感になる事、歴史を学ぶとは本来そういった感性を養うことである。
しかし、こんな事を僕が言ったとして、自分で自分の身を切れるのだろうか。それがこのエントリーの問題提起である。正規雇用に守られた中高年は、じゃあどうすればいいのか。その具体的な身の処し方を教えて欲しい。
とりあえず、風当たりが自分に向かないように身をすくめていればいいのか。
あいもかわらず、最近の若者は覇気がないと、加齢臭を振り撒きながら息巻けばいいのか。
それとも、上記のように、問題をすりかえて、経団連、組合、新自由主義者などを仮想敵として攻撃する身振りを見せればいいのか。
あるいは、若者達の「何倍」も働こうと、とりあえず、意欲を燃やし、結果、腰でも痛めるべきなのか。
とりあえず、世の流れに身を任せて、これが社会というものだと達観すればいいのだろうか。
僕にはまだ答えが無い。
まさむね

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[19 5 月 2009 | No Comment | | ]

民主党の新しい代表が決まった。鳩山由紀夫である。
実質的には小沢一郎の傀儡とも言われているが、どうなのだろうか。
基本的な政策路線は継承するようだから、とりあえずヨシとして、見守りたい。
しかし、僕は以前から、民主党の反官僚姿勢は評価するが、ヤンキーに対するばら撒きはいかがなものかと思ってきた。
もしも民主党が時期衆議院選挙で勝てば、子供一人に付き月額2万6千円の支援という政策は実現されるということである。
そうすると、それによって、一つ微妙な問題が発生する。
あの大家族モノのテレビ番組はどうなってしまうのだろうか。という問題だ。
たとえば、テレビ朝日の名物番組「ビッグダディ」は4男、4女&三つ子&赤ん坊の12人兄弟は、その生活の苦しさゆえにお話として成立しているのだが、それが毎月、12人×26,000円=312,000円が無条件に、毎月この家に支給されるのである。
おそらく現在の親父の収入よりも多い金額が、ポンポン毎月入ってくることになるのだ。
こんな状態になったらこの番組は、番組として成立するのであろうか。
確か、4月に放送したときの番組のキャッチフレーズは「ビッグダディの家族に100年に一度の大不況が吹き荒れる」とかであった。
しかし、これまでは一つのアンパンの奪い合いがドラマを生んだのだが、民主党が政権をとった暁には、子供たちは、「今日は焼肉にするか、刺身にするか」でもめるようになるのであろうか。
そういった家族を見ながら、はたして我々は楽しめるのであろうか。
僕は、今から心配してしまうのであった。
       ★
話は変わるが、以前、こんな注意文書が栃木県の 地域安全情報の配信(下野警察署)という。

2008年11月11日(火)午後4時か午後4時30分ころ、下野市石橋地内の路上において、歩きの男が女子小学生に対し「おはよう」等と声をかける事案が発生。男は、30〜40歳、身長170センチ位、やせ型、髪短め、黒色タートルネック、灰色ベスト、クリーム色ズボン、黒色手提げバッグ所持。〔ワンポイントアドバイス〕知らない
人に声をかけられても相手にせず逃げる、防犯ブザーを鳴らす、すぐに警察に通報する等、ご家庭でもお子さんにご指導願います。(下野警察署)
他人の子供に話しかけたら通報されかねない世の中で、その他所の子供のために黙って税金だけは払えっていうのは、やはり何かおかしい。
まさむね

政治, 社会問題 »

[30 4 月 2009 | No Comment | | ]

日本人は、何故、ヤンキーに優しいのだろうか。
その前にヤンキーの定義だが、「ヤンキー進化論」(難波功士)によると、以下のようなファクターを帯びているのがヤンキーということらしい。
1)階層的には下(とみなされがち)
2)旧来の男女性役割(男性は女性に対して性的でありかつ家庭的であることを求める。概して早熟・早婚)
3)ドメスティック(自国的)やネイバーフード(地元)志向
サブカル的に言えば、60年代から面々と続く、ハリスの風、花の応援団、男一匹ガキ大将、横浜銀蝿、工藤静香、浜崎あゆみ、下妻物語、EXILE的なもの。メディアの一角を占め続けている勢力である。
だから、上記の定義で言えば、叶姉妹(ハイソ)や、はるな愛(反ジェンダー)、爆笑問題(サヨク)等は微妙にヤンキーではないのであろう。
僕個人としては、心のどこかで惹かれるものがないといったら嘘になる(「木更津キャッツアイ」や「ROOKIES」は好き)が、どっぷりと「好きだ」とは言いにくいジャンルではある。残念なことに、僕はヤンキーになれなかったのである。その昔「ワンパクでもいい。たくましく育ってほしい」というハムのCMがあったが、自分はワンパクにもなれなかったし、たくましくもなかったのである。
それを踏まえて、再び、問いたい。日本人は、何故、ヤンキーに優しいのだろうか。
確かに、オタクやサブカル系の若者は何を考えているのかわからないのに対して、ヤンキーはある意味、わかりやすいし、ノウハウさえ会得すれば御しやすい存在だろう。日本人にはどうも、こういう偽悪的なモノには優しい視線を投げかける文化は根強いように思える。わかりやすい悪には寛大なのだ。
       ★
特に日本の政治は、常にヤンキーの味方だったような気がするし、逆に言えば、ヤンキー的な政治家を持ち上げてきた。東国原や橋元等の人気を見ていて思う。政治家にとって、「昔悪かった」というのは、実質的に汚点ではなく、武勇伝なのだろう。
僕は以前より、官僚支配を崩してくれるという一点の期待から、民主党支持なのだが、その民主党は、どうもその代償としてかどうか知らないが、ヤンキーに対して篤すぎるのが実は気になっているのだ。具体的な政策を見ると、民主党は、明らかにヤンキー支援党なのである。
勿論、自民党は、もともと、地方の土木作業員支援党の傾向が強かったが、民主党も負けてはいない。そのマニフェストを見ると、子育て支援(子供一人に毎月2万6千円)、高速道路無料化、農業所得保障等、どれもこれも地方ヤンキーに、無条件に手篤いのだ。
もともと、イメージ的には、民主党は反ヤンキーのはずではなかったのか。サラリーマン層をターゲットユーザーとし、男女雇用機会均等法や、外国人参政権等、いわゆる進歩的な政策を推し進める勢力ではなかったのだろうか。よくわからないが...
まぁ、いずれにしても日本では政権を取るためにはヤンキーに擦り寄るしかないということなのだろうが、だとすれば、民主党のイメージもいっその事、ヤンキー好みにしてしまってはどうだろうか。
おそらく、ヤンキーにとっては、中途半端で、ウンコを踏むような、しかもメソメソ泣くようなヤツは一番、ダサく見えているに違いない。もともとヒール顔の小沢さんなのだから、思い切ってイメージコーディネーターをつけて、ヤンキー仕様にしちゃえばいいのに。
まさむね

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[25 4 月 2009 | No Comment | | ]

今週の日曜日の「マイドキュメント」という番組で、半田健人が団塊の世代の人々に会って話を聞くというドキュメンタリをやっていた。
あの全共闘で戦った人々は今、どこで何をしているのか。誠に興味深いテーマである。
ちなみに、僕はその団塊の世代よりも10歳位年下の世代である。彼らに対しては、実は憧れと反発という矛盾する感情をもった世代である。
しかし、僕は彼らの話を聞いていくにつれ段々と怒りが込み上げてきた。
特に、当時、日大闘争をやっていたという男性。今は愛媛県で悠々と暮らしている。彼は言った。
何故、最近の若者は戦わないのだと。
自分は命を賭けた戦いをしただと。
そして、今だに俺は青春だと。
半田君にはそれらの熱い言葉に対抗するだけの言葉はなかった。ただ、感心するだけといった流れだ。
しかし、僕は団塊の男性の言葉に聞き捨てなら無いものを感じた。(以下、若干興奮気味の記憶で書いているのでディテイルは違っているという前提で読んでくだっさい。)
半田君は質問する。
「どうして、学生運動をはじめたですのか?」
するとその男性はこう答えたのだ。
「友達が機動隊につかまり、学生たちからの投石の盾にされたのを黙ってみていられなかった。それで思わず体が動いた。」
...えっ!?ちょっと待て。じゃあ、機動隊の人たちは標的にされたもいいのか?
怪我をしても、それは、いわゆる「権力の犬」だからいいとでも言うのか。
誤解を恐れずあえて言うならば、全共闘運動はこういった明らかなる差別意識を前提に成り立っていた単なる甘えである。他の多くの地元の同級生たちとは違って大学進学した俺たちだが、思ったような就職先が無い、すぐに社会の指導者になれるわけではない、そういった欲求不満を、反戦とか、反権威といったイデオロギーで身を包み、正当化して「一人じゃ出来ないから、みんなで」暴れただけの話ではないのか。
近年、団塊の世代が定年を迎えつつある。おそらく、今、彼らにも自分を振り返る時間も出来たことだろう。是非とも、正直なる自身の「総括」をしてもらいたい。僕は、彼らの生の言葉を聞いてみたいし、読んでみたいのである。
「次世代ウェブ グーグルの次のモデル (光文社新書)」には団塊世代の定年によって、ブログは益々活況を呈するというような予想がされていたが、今のところ、そういった流れはないようだ(少なくとも僕はあまり感じられない)。
まさむね

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[10 4 月 2009 | 2 Comments | | ]

木更津という土地はかわいそうな土地である。
アクアラインで川崎とつながったはいいが、逆に廃れてしまった。
観光客が来るかと思ったら、多くの住民がそのアクアラインを通って、神奈川、東京の方へ買物に出るようになってしまった。
それに伴って、それまで市の中心地にあったそごうや西友が撤退し、空洞化してしまったのである。
おそらく、多くの伝統的商店街は活気を失った状態なのだろう。
今日、放送された映画「木更津キャッツアイ・ワールドシリーズ」(2006年作品)はそんな木更津を舞台にした青春ドラマである。
        ★
テレビドラマシリーズ(2002年1月18日~2002年3月15日)においてぶっさん(岡田准一)が死んでから、早くも3年が経っている。それまで、まったりと退屈な時間を過ごしていた仲間は、既にバラバラになっている。
マスター(佐藤隆太)は、木更津の飲み屋をたたみ、大阪で屋台のたこ焼屋を、アニ(塚本高史)は秋葉原でIT関連(?)の仕事をし、ウッチー(岡田義徳)はどこかへいなくなっている。
一人、バンビ(櫻井翔)だけが木更津に残り、市役所の役人となっているのだ。
そして時は市長選挙の真っ只中。バンビは現市長(高田純次)の側近としてこき使われている。
その市長が木更津市内の空き地(森と草原)にショッピングモールを作ることを公約としているのだが、バンビは何故か気乗りがしない。
そんな時に、バンビは突然、天の声を聞くのであった。
「If you build it, he will come(それを作れば彼がやって来る)」
それはぶっさんの声(?)だった。バンビは一念発起し、マスターとアニを木更津に連れ戻し、なんとか「それ」を作り、死んだぶっさんを呼び戻そうとするのであった。
そして、ぶっさんがいう「それ」が野球場だということに気付いた3人は、市長がショッピングセンターにしようとしていた空き地に必死に野球場を作る。
そして、遂にぶっさんをこの世に復活させ、その野球場で(女子野球チームと)試合をするのである。
まぁ、他にもキャッツアイ独特のゴチャゴチャした話は沢山あるのだが、はしょって言えばこんな感じで試合が進み、試合は延長10回表、バッターボックスには強打者の杉本文子(栗山千明)が立っている。
そして、マウンドに集まるメンバー達...
そこでぶっさんと他のメンバーとの意見が割れる。
みんなは「普通」に考えて敬遠をしろという。
ぶっさんは絶対に勝負だという。
ここでみんながフッと気付く。
ぶっさんはもうこの世の人間ではないのだ。
自分達はぶっさんの意見に振り回されないで、自分自身の生き方をしなければならないということを。
そして、アニはついに、ぶっさんに「もう帰ってくれ」と言ってしまう。ある意味、この映画のクライマックスシーンである。
確かに、ぶっさんが生きていた時代は、みんなが一番楽しかった時代、みんなが一番輝いていた時代だ。
でも、もう、その時代は過ぎた。まだ「何にもなっていない」ジモティ仲間の馴れ合いのまったりとした時間はもう戻らないのだ。
そりゃあ、ぶっさんは死んでしまったから(逆に)いいゼ。
でも、俺達は、最高の時代が終わった後でも、現実的で「普通の」時間を「普通に」生きていかなくてはならない。彼等は一斉にその事に気付くのだ。
そして、試合は終わった。杉本文子の打ったホームラン性の打球を追って、ぶっさんはまた森へ帰っていってしまったのだ。
後で、ぶっさんを追って森に入っていった面々は、森の中で「ばいばい」と書いたボールを握りしめているキャッチャーミットを発見して呆然とするのであった。
過ぎ去った青春時代を思い出す時に、どこからともなく吹いてくる、あのさわやかで、しかも切ない風を感じる一瞬。
これがこの「木更津キャッツアイ・ワールドシリーズ」の第一のテーマである。
        ★
そして、二つ目のテーマは...
ぶっさんは木更津という土地に帰ってしまった。それはまさしく、土地の守護霊のように。
その守護霊は、木更津という土地をあくまで、そこに住む人々のための土地であってほしいと願う。そして、いつまでも自分の事を忘れないでと願う。
もっと言えば、ここで、ぶっさんは、いや、地霊は、空いた土地だからといって、目先の利益を追って、ショッピングセンターにしようとする浅はかな資本主義を批判しているのだ。
木更津の土地を木更津の人々のために使うこと。いつまでもここが何処でもない、木更津だってことを忘れないでほしいと願うこと。
だからこそ、ぶっさんの霊は、大阪や東京に行ってしまったマスターやアニを見守り、結局は、彼等を再び木更津の土地に呼び戻したのだ。
逆にいえば、彼等は、ぶっさん(土地の霊)のおかげでまた戻ることが出来たのである。
        ★
実は実際、木更津市では、イオン木更津ショッピングセンターの建設が頓挫しているのである。
まさしく、この「木更津キャッツアイ・ワールドシリーズ」で描いた状況が現実に起こってしまっているのだ。
当初は2007年か2008年に、木更津市郊外の新日本製鉄の所有地(埋立地帯遊休地60h)に開店するはずだったショッピングセンターが、いまだ建たない。
wikiによると、「現段階(2009年2月現在)では建築許可でさえ取得されていないため、明確な開業時期は明らかにされていない。」とのことなのである。
詳しい事情はわからないが、この映画を見た後では、ぶっさん(土地の霊)が建てさせないのでは?との錯覚さえ覚える。
まさに、シンクロニシティである。
確かに、イオンショッピングセンターが出来れば、市は活気付くかもしれない。しかし、それは、木更津がまた一歩、木更津ではなくなってしまうことも意味する。
日本中、どこにでもある凡庸な土地になることを意味している。
そんな結論は目に見えているのだ。
この映画は、そんな木更津の凡庸化に対して土地の霊が待ったをかける物語ではないのだろうか。
ところが、この映画番組の提供はイオンだった。こんな皮肉はあるだろうか。
        ★
また、もう一つ加えれば、この映画はディズニーリゾートも提供に名を連ねていた。(ちなみに、ぶっさんがミッキーマウスのトレーナーを着ていた。)
全世界の誰でもが楽しめるグローバルスタンダードな遊戯施設、それがディズニーランドだ。
若干の悪意を込めていえば、千葉県にある東京ディズニーランドは、千葉という土地を千葉らしくなくしている象徴たる場所である。
もしも、千葉の地の霊というものがいれば、最も忌み嫌ってしかるべき場所なのである。
木更津から木更津臭を排除しようとしているイオンと、千葉を最も千葉らしくなくそうとしているディズニーが、「千葉、そして木更津の土地の霊の叫びを主題とする映画」のスポンサーをしているという皮肉。
おそらく、そのネジレこそが、今日の「木更津キャッツアイ・ワールドシリーズ」の最大のテーマではなかっただろうか。
まさむね

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[1 3 月 2009 | No Comment | | ]

実は、僕もこの「未納者が増えると年金が破綻する」って誰が言った?を読む前まで、未納者が増えると年金が破綻すると思っていた。
だから、日本の、そして自分の将来がとても不安だった。
先日、僕のところにも年金確認便が来て、送り返したが、実際にもらえるのだろうか...という不安にかられていた。
しかも、テレビをつければ、年金記録が消えたとか、改竄されたとか、もらえるはずが年金もらえない人がいるとか、年金の運用資金が5兆円も減った、みたいな話のオンパレードだ。
コメンテーターはそれに乗じて、「だから現金で持っていなさい」というような事を叫ぶ。
こんな情報ばっかり流されたら、普通の人は、どうしよう、やっぱり節約しようとなるのは当然である。
現在の不況の根底には、そういった将来に対する不安があるのは誰が考えても明らかだ。
だから、日本の消費を上向かせるためには、年金問題の解決が一番だと思っていた。
しかし、この本を読んで、日本の年金問題というのは、そのほとんどがマスコミの無理解と、それゆえに不安を煽ることによって生じているものだということが理解できた。そういったマスコミの報道の背景に、情報番組の提供の外資系保険会社の意図があるのでは?とすら疑えるようになった。
また、年金の税方式は、その不安を解消するといういう意味でいいアイディアかと思っていたのだが、それは一方で、その分、医療や介護への負担が増してしまうこと、そしてそれが、厚生年金の半分を払い続けることをためらう経済界からの要求だったというカラクリ、年金未納問題とは、国民全体の問題というよりも、年金未納者の将来にとっての問題であったということ、さらに、国民年金の納付率が65%の場合でも、90%の場合でも、年金財政にはほとんど影響を及ぼさないということも理解できた。
だから、日本が不況から抜け出すためには、年金問題の解決ではなく、年金不安問題の解消が一番だということがとってもよく理解できたのである。
今、政府が第一にすべきなのは、全員に給付金を配ることではなく、国民に年金の正しい姿をちゃんと理解させ、安心してもらうことなのである。
こんなにあっさり納得しちゃう僕って、情弱かな?でも、それが「どうしてそうなるの?」ということを知りたい方は是非、この本を読んでご自分で判断していただきたいと思う。
      ★
著者の細野さんは、相当に賢い。そして、その賢さというのは、知識があるとか他人が考え付かないことが思いつくというようなことではない。
物事をちゃんと論理的に組み立てて考えられるということだ。
例えば、僕は論理的に物事を考えるのが苦手だ。だから文章を書くのも苦手だ。
でも、それは「脳」の性能の問題ではなかった。ましてや地縛霊のせいではなかった。
普通の論理の積み重ねを面倒くさくてしていなかっただけだった。
いろんな本を読んでも、理解は出来ていても、習得はしていなかったのだ。
それはただ、記憶力が悪かっただけではない、習得する術を身に付けていなかったのだ。
その論理の習得術のことを細野さんは「数学的思考」と呼んでいる。
さっそく、地元の西東京市図書館に『数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身につく本』を予約しようとしたら、2冊しかないその本に48人が既に予約を入れていた。
同じようなことを考えてる人は多い、のかも。
まさむね

社会問題, TV番組 マスメディア »

[6 2 月 2009 | No Comment | | ]
孤独死は本当に悲惨?-水曜ノンフィクションを見て-

今週の水曜日の「水曜ノンフィクション」で孤独死がテーマになっていた。
都会の団地で一人暮らしのお年寄りが亡くなる。
一人暮らしだから、すぐには分からなくて、ひどい場合だと数年位経ってから白骨死体になって発見されるという。
番組では、残された遺品を整理する専門業者を密着取材。
さらに、常盤台団地の、一人暮らしの老人を対象とした「気兼ねなくコミュニケーションできるサロン」、すなわち孤独死予防センターの活動も紹介していた。
孤独死する老人は悲惨だから、地域の人々が新たなコミュニティを作らなければならないのでは...という結論。
でも、実のところ、僕には違和感を禁じえなかった。
おそらく、そういったボランティアをされている方々は全くの善意の人々なんだろう。
その活動というのが、一人暮らしの老人のところに、突然「ピンポーン♪」って押しかけて、「最近どうですか」とか話かけるのだ。
いきなり来られて、嬉しい人もいるかもしれないが、自分だったらどうだろうかと考えてしまった。
とりあえず、作り笑いをして、「大丈夫です。ありがとうございます。」と言って、その場を取繕うに違いない。
それは、僕がまだ「孤独」ではないからそう思うのだろうか。
さらに、そういったボランティア達は、一人暮らしの老人の電気メーターの回り具合や、洗濯物、郵便物までチャックして下さるそうだ。
なんて、ありがたい事を(笑)。
    ◆
これは僕の想像だけど、孤独死する人って、多くは突然死だ。
寝たきりで一瞬でも治療を怠ったら死んでしまうような人は、介護スタッフが巡回しているだろうし、それどころか入院している。
とりあえず、一人暮らしの老人っていうのは、健康上、そこまでの状態ではないんだと思う。
それが風呂とかに入っていて、突然、脳梗塞とかで亡くなってしまうのである。
そして、誰にも気づかれず...というパターンが多いのだと思う。
でも、ちょっと待って。
都会の団地の孤独死というものが、本当に一番、悲惨な死に方なのだろうか。
    ◆
思えば、昔から、日本には「ぽっくり寺信仰」というのがあって、突然死への切なる願いがあった。
例えば、八王子の龍泉寺にはぽっくり観音というのがあるらしい。
この観音様に祈願すると、下の世話にならずに、寝込むことなく、寿命の尽きる時まで健やかに暮らすことができると言い伝えられています。
ようするに、これは、みんなに迷惑をかけながら、毎日痛い思いをしながら、病床で寝たきりになるよりも、ぽっくり死なせてほしいという信仰。
僕は、それは、極めてまっとうな信仰だと思う。
勿論、孤独死でぽっくり死なれても残された団地の人々は嫌な思いをするだろうけど、それは仕方ないと諦めるしかない。
ちょっと言い過ぎかもしれないけど、極論すれば、死んだ者勝ち。
それよりも、20世紀末から3万人に増えたまま一向に減らない自殺。
その中でも、女性の自殺のほとんどが病苦によるらしい。
ずっと前に、自殺率が高いどこか田舎のある地方での老婆の病気>欝気味>自殺の流れに関するドキュメンタリがあったんだけど、そんな老婆の多くは、家族と同居している老婆だった(ように記憶している)。
ここからは、あくまでも想像上の話なんだけど、昔ながらの家族意識が強い地域で、家族の中でなんとなく疎外感を感じてるんだけど、愚痴も言えなくて、自分の中にいろんなものを抱え込んでしまった老人が、病気になって、さらに落ち込んで、それでも、お金が無くて別居したいとも言い出せなくって、そして追い詰められて自殺しちゃう。
でも、世間体があるから、自殺ってことじゃなくて病死ということで近所に伝えて処理されちゃう。
そして、残った家族はなんとなく、ホッとする。
こういう死の方がよっぽど、孤独だと思うのは僕だけでしょうか。
逆に長年一人暮らしの老人の方が、孤独に慣れていて、自分自身の趣味を持ってさ、今更、みんなでコミュニティでフラダンスなんて勘弁してほしいって思ってるんじゃないか。
ましてや、毎日、郵便物なんて覗かれたくないってね。
勿論、これはあくまでも僕の想像だけどね。
    ◆
孤独死というドキュメンタリを作るのは結構だ。
でも、都会>団地>一人暮らし>突然死>悲惨という紋切り型の不幸をなぞるだけじゃ本当の事は見えてこない時代なんじゃないかな。
視聴率を気にする以前の問題である。
まさむね