Home » Archive

Articles in the 芸能 Category

芸能 »

[31 1 月 2010 | No Comment | | ]

ちょっと前の話になるが、EXILEが天皇陛下ご在位20周年記念の式典で歌を披露した。
僕は「御前歌披露したEXILEも正しい日本文化の継承者だ」というエントリーで、EXILEこそ、皇室の美意識の源泉である平安文学の「雅」を現代に伝えるボーカルグループだと勝手に評価していた。
先日、ある仕事の打ち合わせの時に、EXILEの話題になった。EXILEは今度、どこまで進化、あるいは成長するんでしょうねというような「業界」っぽい話題だ。
その時に、この天皇陛下ご在位20周年記念の式典の話題になったのだ。
「あのときのATSUSHIはどうみても琵琶法師みたいでしたよね。」と一言つぶやいた。
僕はベタにそう思っていたのだ。別にウケを狙ったわけでもなく。だって、あの時、ATSUSHIは、ピアスはもちろん、トレードマークのサングラスを外し、頭部のそり込みも消した姿で、陛下の前で熱唱したでしょ。その姿は、中世の日本で、安徳天皇の壇ノ浦での入水をはかなむ謡曲を歌って回った盲目の琵琶法師たちの容貌と僕の中で自然に一致したのであった。
でも、その時の周りにいた方々のウケがよかった。
さらに、家に帰って、妻にもその容貌的類似を指摘したら、またまたウケた。
自分では、普通の話だと思っていたものが、意外にウケるというのは気持ちいいものだ。
で、ここで一応、その類似を指摘しておきたい。
今日の話はそれだけのことでした。
まさむね

芸能 »

[20 1 月 2010 | No Comment | | ]

ご存知のとおり、歌舞伎座がこの4月で閉館し建て替えに入る。完成は2013年。4月まで「さよなら公演」と銘打って興行が行われているが、今年も初春歌舞伎を観た。
夜の部に行ったので、演目は以下の4つ。
「春の寿」
「菅原伝授手習鑑―車引」
「京鹿子娘道成寺」
「与話情浮名横櫛」
「春の寿」と「京鹿子娘道成寺」は踊りもの。なかでも道成寺は今をときめく勘三郎と団十郎の組み合わせ。玉三郎が時代を超えた天才だとすれば(その踊りのやわらかさ!)、勘三郎はいま中堅世代ではもっとも脂が乗っている。とにかく相変わらず生きのいい踊りを観る楽しさがあった。
 「車引」は布陣が豪華。芝翫、吉右衛門、幸四郎、富十郎、等々。初春公演ならではというところか。特に一堂が会したお仕舞い(エンディング)はなんと豪華な見世物だったことか。「与話情浮名横櫛」は染五郎と福助の人情話。これもそれなりに楽しめる機微のある人情ものだった。  
こうしてみると、歌あり踊りあり人情ものありで、やはりなかなかのエンターテインメントではあった。今、歌舞伎がその充実さからある種のブーム(戦後何番目かの?)になっているというのも分からないではない気がする。長老、中堅、若手と陣容も粒が揃っているし。若手の今後ということではやはりポテンシャルとしては海老蔵であり、女形の期待値では七之助かな。
 ぼくは歌舞伎の専門家ではまったくないが、当時の江戸の人たちは、ぼくらが今3Dで「アバター」を観たり、スターウォーズを観るような感じで歌舞伎を観ていたのではないか、つまりそこにその時代の先端や先行きを感じたり未来を予感したりして、いわば宇宙ものを見るように歌舞伎の舞台を観ていたのではないかと勝手に思っている。歌舞伎役者は今でいえばマイケル・ジャクソンであり、マドンナのようなものであり、おそらく芸能を通じて先端世界と交信してくれるような役割を担っていたのかもしれないな。
「我国の舞踊はつまり遠来のまれびとが大きな家を訪れて、その庭で祝福の歌を謡ひ、舞を舞って行くことに始まったことは、先に申し述べた通りです」(日本藝能史六講、折口信夫)。歌舞伎役者はまれびととして舞台に出て、みんなを代表して、その時代の世相を先んじて生きてくれる(舞い、踊り、歌う)存在だったのかもしれない。
 そもそも歌舞伎には翌年にどんなテーマに基づいた演目を取り上げるかを決める「世界定め」があり、その定めに基づいて顔見世が行われる慣わしだったと言われる。これは今風にいえば婚活がブームだから、来年は婚活をテーマにした作品をもっと上演していこうというようなものだろう。ぼくらはある程度普遍的になった話や舞台を観ているわけだが、江戸時代の人たちには歌舞伎はもっと当時のなまなましい世情と表裏一体のものだったろう。
 そして今歌舞伎を観ていてぼくがあらためて羨ましいと感じるのは、伝統という生きた無形に支えられている歌舞伎役者たちの立ち振る舞いのことだ。特に勘三郎や団十郎の踊りや舞いを観ていると、彼らが歌舞伎の伝統を信じて疑わず、いわば悠々とその海のなかを泳いでいこうとしているように思える。もちろんそこには多大の苦労があることは言うまでもないが。
ただしそこでの伝統とは、なにも形骸化した、決まりごとのようなものではなく、生きたフォルムとして、たえず当事者によって更新されていくフォルム(遺伝子)のようなものだ。型であって型ではなく、デザインとは異なるようで、まさにデザインそのものであるようなもの、肉体という物理が実現するもの。とても柔軟性があり、けれどその背景として連綿とした歴史によって支えられてきたもの、等々。歌舞伎役者たちは多かれ少なかれその生きた遺伝子を受け継ぎ、伝統を信じ、伝統と対話し、その「伝統という同じように刻々と生きている海」のなかを泳ごうとしているように見える。
 これはぼくらのビジネス社会とは対照的だと思う。曲がり角に来つつあるとはいえ、未だぼくらの現代社会ではいかに他者に先んじるか、同じことをしないか、差異をすばやく生き抜くか、伝統や習慣のような形式化したものからジャンプできるか、「かつて」と切れているか、そうしたことがより問われ、そうしたことがビジネスチャンスと捉えられがちな社会だからだ。弱肉強食。だからなるべく振り返ったりしているわけには行かないし、たえず前方の新しいものばかりを見ようとするわけだ。蓄積にならない社会、フローの社会。
そんなこんなに追われているなかで、ほんとうは違う可能性もあるのかもしれないと、そんなことをふと思いながら、ぼくは取り壊される日が近い歌舞伎座を後にしたのだった。
よしむね

芸能 »

[14 1 月 2010 | No Comment | | ]

これも少し時間が立ってしまっているのだけれど、大晦日に松田聖子のカウントダウン・コンサートに出かけた。今回で3回目、3年連続である。よくもまぁもの好きということかもしれないが、毎年のことながら会場には結構アラフォーならぬアラフィフ世代も多く男性ファンも相当数見受けられるのだ。おそらく根強い固定ファンがいて、毎年来ているのだと思う。そういえばぼくが通っている理髪店のマスターも松田聖子のファンで、カウントダウンにはぜひ行ってみたいと言ってたっけ。
ぼくは根っからの聖子ファンだったことはない。じゃ何故カウントダウンに来ているかといえば、もともとは家内に誘われて来始めたのだが、その後は松田聖子という持続する現象に興味があるからだということになる。いわゆる歌謡界のアイドル出身で今も現役の第一線で頑張っている歌手といえば彼女くらいしかいない。
松田聖子がアイドル全盛の花盛りだったのは、言わずと知れた80年代だ。アイドルという観点からみて70年代後半が山口百恵の時代だったとすれば、80年代前半は松田聖子の時代。山口百恵や中森明菜にくらべて、その家庭環境や出自をふくめて彼女の特徴はより普通っぽい=普通の女の子に近かったことだろう。なによりも松田聖子は蒲池法子という女の子が歌手になった、のである。
だが、その普通っぽいイメージとは異なり、そのブリっ子ぶりといい、歌のうまさといい、したたかさといい、けっして平均的だったわけではないだろう。だからこそ現在まで長く生き延びてきたとも言える、山口百恵は結婚即引退し、中森明菜はその後フェードアウトしていく中にあって・・・・。
ぼくが松田聖子に今でも興味があるとすれば、それは世の同世代の疲れた男どもよりも、ある意味でよほど個として自立しているから、と答えるだろう。結婚やその前後のスキャンダルを経て、90年代以降はどちらかというと表舞台から離れて潜行しつつ歌手活動を続けていくわけだが、その個としての生き方もふくめて評価したい。
思えば、彼女の歌は80年代当時から、か弱い男に対して、それをしずかに激励(?)しつつ、お互いの関係はけっして進展せず、成就しないという間柄を歌ったものが多かった。そして結局は、お互いにひとりであること。「渚のバルコニーで待ってて。・・・ひとりで来てね。・・・」こうした歌詞で歌われた世界は、その後の80年代の風潮(おたく文化やさびしい個の時代等々)をどこか先取りするものだったと思う。それには作詞家松本隆の功績もあっただろうが。
世の男どもがますますオタク化してゆく中で(最近では草食系男子が流行りだという)、女性たちは強くなり文化史的には女性の時代が続いて現在に至っていると思われるのだが、松田聖子はある意味でその一つの先陣の風となって先行してきたのだと思う。彼女は90年代以降自分で作詞するようになるが、それらの歌も一貫して別れた男に対して、ひとりで生きていくことをしずかに宣言し相手にエールを送るような歌になっている。
松田聖子は今年デビュー30周年だという。「みんな元気?」とカウントダウンの会場で、彼女がステージ上から呼びかける。そして男も女もみんな自分の来し方行き方を投影しながら一緒に彼女の歌を歌うのだ、多分ね。
前回の小田和正の「クリスマスの約束」が歌のリレーという続きだったとすれば、こちらはひとりの女性歌手がとにもかくにもいろんな荒波のなかでも歌い続けてきたというその持続のエネルギーにある。どちらも同じ持続にかかわるもの、そして歌のあり方にかかわる、あり様。歌い続けること、続けることの積み重ね。松田聖子の歌を聞きながら、ぼくは今年も改めてそんなことを思った。
よしむね

芸能 »

[7 1 月 2010 | 2 Comments | | ]

最近、歌のあり方みたいな当たり前のことをあらためて再考させてもらう2つのコンサートがあった。
一つは、昨年のクリスマスの日なのでもう大分立ってしまったのだが、TBSテレビで深夜放送された小田和正の「クリスマスの約束2009」。もう一つは松田聖子の大晦日のカウントダウン(これについてはその二で書かせていただきます)。「クリスマスの約束2009」の番組についてはご覧になった方もかなりおられると思うのだが、これは2001年からのスタートだそう。この間ぼくは旅行に行っていたりしたこともあるためフルで最初から観ているわけではないのだが、ここ3回くらいは続けて観ていると思う。
今回は小田が兼ねてから暖めていた企画ということで、総勢21組34名のミュージシャンたちが一堂に会し、それぞれの代表曲を歌うシーンが実現された。そこにいたるまでの初期の反目?や紆余曲折のドキュメンタリー(前段)も面白かったが、やはり上記ボーカルのシーンとそれに続いて会した皆が最後に小田の曲を歌うシーンが圧巻だった。
ゲスト出演者は以下の人たち。
AI
Aqua Timez
いきものがかり
キマグレン
Crystal Kay
財津和夫
佐藤竹善
清水翔太
JUJU
スキマスイッチ
鈴木雅之
STARDUST REVUE
中村 中
夏川りみ
一青 窈
平原綾香
広瀬香美
藤井フミヤ
松たか子
山本潤子
藤井フミヤに始まり、いきものがかりで終わった約20分強の歌のメドレー。全体のタイトルも演奏時間そのままをとって「22分50秒」。なかでももっとも印象深かったのは、それぞれ歌われた代表曲よりも、そのボーカルの背後でステージに陣取っている皆が合唱するときの光景だ。その音の圧倒的な深さと広がり。その声のエコーを受けたときの、まさに自分の代表曲を歌っているボーカリストたちの昂揚した幸福感あふれる表情の数々。歌とはまさにみんなに歌われることによって本物の歌になるというような。
 そしてその先にあるのは、やがてボーカリストや作曲者が消えて読み人しらずになっても、いつか歌だけが残り、その歌だけが歌われ続けてゆくことだろう。けっきょく歌とはリレーなのだ、誰かから誰かへの・・・、続けよ、続けよ、と。最後に出演者全員で小田の曲を歌ったとき、多くの顔が涙で濡れていた。それを音楽の力、音楽の奇跡とかいろいろの言葉で後日形容されることもあるかもしれないが、当事者たちにしてみればほんとうは言葉で飾る必要などはない。
 そういえば、佐藤竹善が一昨年の情熱大陸のコンサートで小田和正の「生まれ来る子供たちのために」を歌っていたっけ。歌は誰のものでもない、誰かに歌われるためのもの。以下「生まれ来る子供たちのために」の歌詞より抜粋引用。
多くの過ちを僕もしたように
愛するこの国も
戻れない もう戻れない
・・・・
・・・・
僕はこの国の明日をまた想う
ひろい空よ僕らは今どこにいる
頼るもの何もない
・・・・
・・・・
生まれ来る子供たちのために
何を語ろう 何を語ろう
・・・・
大きく手を拡げて
子供たちを抱きたまえ
ひとりまたひとり
友は集まるだろう
ひとりまたひとり
ひとりまたひとり
よしむね

芸能 »

[1 1 月 2010 | No Comment | | ]

2009年の紅白歌合戦は、あまり興味が無かったので見ないでおこうと思ったが、やっぱり見てしまった。
妻が大の紅白好きのため、テレビから漏れ聴こえてくる音に負けてしまった。50歳になっても意志は弱い。というか、年齢で意志が強くなるわけではないのだ。
前年は全曲を実況で書いた(「「第59回NHK紅白歌合戦」斬らせて頂きました」)が、今年は一点だけ。
やはり、永ちゃん登場だろう、今年は。その演出がイカしていた。
2009年は人気絶頂、実際にCDが売れたのが嵐だけと言ってもいいほどの活躍だった彼らがトーク中に、いきなり、話を遮るように「ちょうど」登場した永ちゃん。
会場に着いたそのままの足でステージに向う。そして、そのまま「時間よ止まれ」の歌に入る。
「時」の人・嵐のトークを「時間よ止まれ」で止めさせるという、いわゆる「格の違い」を見せつける演出は、歴史に残る「プロレス的」[1]な名場面だったと思う。
一番の歌詞がちょっと間違えた(?)かと思った途端、テレビの歌詞の字幕が消える。さすが、「俺の歌なんだから、俺が歌うのが正しいんだからさ!」とでも言わんばかりの迫力に、ディレクタも字幕を消さざるを得なかったのか。
そして、歌が終わると、そのまま「立たされ見」をしていた嵐が、直立不動のコメント。そして中居君の出すマイクに「60年記念で歌えて嬉しい」とは、貫禄の大人のコメントだ。
中居君も「来年も来てください」って声をかけると、永ちゃんも笑顔でOKを出す。
はるか昔、昭和54年に開催された東京スポーツ主催の夢のオールスター戦のメインイベントで馬場と猪木が勝ち名乗りを上げたあと、新日本社長の猪木が「今度は二人でやろう」とマイクを向け、状況上、断ることの出来ない全日本社長の馬場さんに「うん」と言わせたあのシーンを思い出した。
後で知った話だと、打ち合わせだけでリハはなかったようだ。これもまた「プロレス的」な話である。
[1]ここでプロレス的と言ったのは、舞台に上がったレスラー間の格の違いを見せるスペクタクルこそがプロレスの本質だからである。
※コメント、状況など微妙に違ったかもしれないけど許してください。大体の記憶で書いています。
まさむね

映画, 芸能 »

[9 8 月 2009 | No Comment | | ]

青池憲司監督の「琵琶法師 山鹿良之」を見てきた。

このドキュメンタリ映画の主人公、山鹿良之師は、熊本を拠点に北九州地方一帯で活動してた日本最後とも言われる琵琶法師だ。
その謡声は、90歳を超えているとは思えないほどのハリがあり、その迫力と存在感は、師の長年の人生そのものの表出である。
師は、4歳の頃、片目の視力を失い、22歳の頃、天草の琵琶弾きのもと、修業の道に入ったという。
おそらく、それ以来、つらいことがあっただろう。世間からの残酷な視線の中、芸の道一筋の人生は口には出せない経験もしてきたのだと思う。
古来、日本の芸人は、北は津軽三味線芸人(ボサマ)から、南は薩摩盲僧琵琶まで、盲目という運命ゆえに、放浪の門付を余儀なくされてきた。
例えば、瞽女という盲目の遊女、あるいは座頭として、圧倒的なマジョリティの定住民=世間にとってのマレビト(異人)として蔑まれてきたのである。
日本における芸能とは、世間の憐憫と好奇の視線によってこそ光り輝くという悲しき宿命を持っているのだ。
僕はその巨体ゆえに、プロレスラーになり、ヒーローであるとともにどこかに哀愁を漂わせた昭和の伝説的レスラー・ジャイアント馬場と同じ存在感を山鹿師に見るのであった。
しかし、残念ながら、そういった山鹿師と世間との残酷な関係性はこのドキュメンタリでは描かれていなかった。
ここに出てくる師の周りの人々はみな彼に対して優しい。勿論、それはそれで心温まるものがあるのは確かだが、それでも彼ら・定住民と、師との間に目に見えないが確実に存在する一線があるような気がする。
       ★
フィルムの中の山鹿良之師は、己の悲しき運命とダブらせるかのように、中世の貴種流離譚、異界との交流譚、男女の不変の愛の物語「小栗判官」を謡うのである。
小栗判官とは、中世の伝説的人物である。
小栗判官は、関白・藤原家に、すなわち貴種として生まれ、色男としてその名前を轟かせるが、姫に化けた池の龍と契りを結ぶことによって都に天変地異を起した罪で、常陸の国に流される。
しかし、そこでも頭角を現す小栗判官は、常陸の国主としてその地を平らげ、美女の誉れ高き相模の国の照手姫に恋文を送り、押しかけ婿となるが、それを不快に思う照手姫の父親・横山大膳に荒馬の「鬼鹿毛(おにかげ)」をけしかけられ殺されそうなる。しかし、その荒馬を乗りこなす小栗判官。実は、その鬼鹿毛は、かつて小栗判官と契りを結んだ池の龍の生れ変りだったのである。
ところが、油断した小栗判官は、酒宴で毒入り酒を飲まされ命を落としてしまう。
一方、照手姫も大膳の怒りを買い、河に流されてしまい、命は救われるものの人買いの手にわたり、遊女小屋の女中として働かされるが、決して体を売るような事はなかったという。
また、地獄に堕ちた小栗判官は、閻魔大王に対する10人の忠臣達の嘆願によって、人間界に戻される。
しかし、その姿はかつての美男子の面影もない。皮膚病によって、まさに餓鬼の姿となっていたのである。
哀れに思った遊行寺の上人が餓鬼となった小栗判官を地車に載せ、熊野へ湯治の旅をさせる。
道々の人々に助けられ、無事、熊野に着いた小栗判官は49日間の湯治のおかげで皮膚病も治り、元の姿となって、照手姫とも再会し、再び夫婦となる。
さらに、都で帝に謁見し、美濃の国を拝領し、横山大膳に復讐するのであった。
この説話は面白い。いろんなイメージを沸き起させる。
この物語には、日本を代表する様々な物語の要素を内包しているのだ。
例えば、貴種の小栗が若い頃に様々な女性に手をつける色男だった事、しかし、ある女性関係の失敗により、都から追放される事、これは「源氏物語」と同型である。
また、酒席によって形勢が逆転する展開は、ヤマトタケルやヤマタノオロチといった日本神話を思い起こさせる。
人間以外の動物との性的交わりは、「遠野物語」のおしら様伝説や「南総里見八犬伝」と通じるものがあるし、忠臣に助けられたり、一人の女性に愛され続けるところは「義経記」に近い。
また、因果応報的展開や、僧侶の功徳によって救われるところは、仏教説話的な要素もあるが、湯治(禊)によって再生するところは、神道的にも思えるのだ。
さらに、余談ではあるが、この小栗判官の小栗家の末裔には、オグリキャップの馬主の小栗孝一(実際には養子だが)が出るのだが、オグリキャップと鬼鹿毛(おにかげ)とのイメージはどこか重なるところがある。
       ★
さて、話を戻そう。
盲目という不幸を背負った山鹿良之師。
しかし、その宿命ゆえに説得力を持った彼の芸。
そんな映画を見た僕が、家に帰ると「酒井法子の逃亡劇、そして不幸な生い立ち話」がテレビに写っていた。80年代から、90年代の日本を代表するアイドルの零落はあまりにも寂しい。
芸能界という華やかな世界の陰に存在する不幸な宿命...
山鹿師とノリピー、一見全く違う世界の二人を地下水脈のように結び付ける日本芸能の薄暗き伝統について、僕は考えざるを得なかった。
まさむね

芸能 »

[18 7 月 2009 | No Comment | | ]

昨日、中川翔子のブログがエキサトブログからアメブロに引っ越してきた。
勿論、それ自体はどうという事もないニュースであるが、いきなりの殿堂入りである。
まるで、柔道・オリンピックゴールドメダリストの石井慧が大相撲に入っていきなり横綱っていうようなものだ。
礼儀として、とりあえずランキングから始めるべきというのは常識的すぎる見解だろうか。
逆に、このランキングにどれだけの価値、信憑性があるの?という疑問もないわけではないが、一見、公平に見せかけるところに罪深さを感じないわけにはいかない。
勿論、最近、不自然にランキングが高いタレントが目立ったりしていて、それはそれで「純粋な人たち」に世間というのはこういうものだということを教えるというぐらいの意味はあるのかもしれないが、嫌な思いをしている人たち(タレントもユーザーも)もいるに違いないと思うのだ。
しかし、有名人のブログビジネスに関して言えば、、北斗晶や辻希美など、アメブロ上位の常連は、本業におけるその全盛期の輝きが素晴らしかっただけに、その輝きにと比べると、ブログで日常を切り売りしていて公開しているその姿のテンションの低さは否めない。などというのはジジイの戯言か。
現・国会議員の神取忍とのそれぞれの所属団体、全女とLLPWを背負った抗争をしていた頃の北斗晶、ミニモニ。全盛時の辻ちゃんのあどけない可愛さは格別だったなんて思い出に浸っている程、時間はゆっくりと進んでくれないものなのかもしれない。
まさむね

芸能 »

[21 6 月 2009 | One Comment | | ]

頭突きというのは哀しい技である。
これは、奴隷達(抑圧された者)が最後の抵抗を示す技として歴史に刻印されてきた。
そして、それは、手足をもがれた人々の意地の象徴として、我々の記憶の中にある。
例えば、戦後のプロレス史を見てみても、黒人のボボ・ブラジル(左画像)や朝鮮人の大木金太郎等の得意技として、そして、実力があってもその容姿でトップに立てなかった藤原喜明、一度、どん底に落ちていた大仁田厚といった抑圧されてきた面々の、華麗さよりも情念を伝える技として、あるいはまた、その技を繰り出すレスラーたちの「頭の固さ」すなわち、かたくなさをも表現する技として伝えられてきたであった。
先日、マクドナルドの新CMに安室奈美恵が自分自身に頭突きをする姿が公開された。
彼女の頭突きにはどういった意味が込められているのだろうか。
ご存知の通り、安室奈美恵は、沖縄という日本の中でも抑圧された土地から出てきた。
しかし、その沖縄は、日本でありながら、日本ではない。
敢えて極言するならば、沖縄という土地は、一面では、アメリカ軍に蹂躙されると同時に、別の一面では、アメリカ軍に依存しなければ生きていけない土地になってしまっている。
そして、沖縄が米軍に対して持つ抑圧感は、同時に、日本人にとって、「こんなモノ食ってて大丈夫か?」と思いながら、それでも止められないマックのハンバーガーという存在に対する感情、そして、心のどこかで憎しみながら、それでも依存せざるをえないアメリカという存在への想いとパラレルなのではないだろうか。
だから、戦後の抑圧された日本人は、その感情=想いを自分自身にしかぶつけることができなかったのかもしれない。
沖縄、マック、依存、アメリカ、抑圧。いろんなものが複雑にからみあった戦後日本のある側面を、安室の自分自身に対する頭突きは表現していると言ったら言いすぎだろうか。
評論家の中森明夫氏は1995年の文章で、こう述べている。
思えば、安室奈美恵は南沙織以来の沖縄発のトップアイドルだが、二十余年前、返還直前の沖縄から彗星のように現れたのがシンシアなら、今、基地問題で揺れるその場所から安室が、そして彼女に続く少女らが次々と踊りだそうとしてる。つまり沖縄が揺れる時、いつもそこから象徴的な少女たちが現れるのだ。-女の読み方-(朝日新書)
それ以来、安室奈美恵は常に闘い続けてきた。90年代はツッパッたストリート小ギャルのファッションリーダーとして、その後は離婚、母の死などといった苦境を乗り越え、自分の好きな音楽を追求し、一時はヒットチャートから嫌われた時期もあったが、自分を貫き通すことによって、現在ではカリスマと言われるまでに成長した。(「安室奈美恵は孤高の戦士だ」参照の事)
彼女の頭突き姿は、自分自身と戦い続けてきた安室の出自から現代までの一貫した戦闘体勢を表現しているのである。
さらに言えば、このCMで彼女は「バラ色でいこう」というもう一つのメッセージを僕たちに投げかけている。バラ、それは美しさと同時に、棘を隠そうとしない象徴的な花である。その美しさで人を惹きつけると同時に、決して人を近づけないという屹立した存在感、それが現在の安室の立ち位置そのものではないのか。
頭突きとバラ。抑圧と抵抗、魅力と拒絶...
90年代のストリート系文化の一つの象徴であるバーチャファイターで二人の安室が戦うカットの挿入、さらに大きな口(BIG MOUTH)というこれまた安室の態度的、身体的特徴を絡めた肉食系女子の「主食」=ダブルクォーターパウンダーのCM。
久々に明快で痛快、しかし、微妙に物悲しく複雑な15秒の世界である。
まさむね

芸能 »

[4 6 月 2009 | No Comment | | ]

木村拓哉のことをキムタクと呼んでもいいのだろうか。
ちょっと前の話だが、読売テレビの『たかじんのそこまで言って委員会』でアナウンサーの辛坊次郎氏は「関西ではキムタクと言ってもいいが関東ではキムタクと書いてある新聞の見出しを読む時でも木村拓哉(きむら たくや)と読まないといけない」というようなことを言っていた。
しかし、ぼくの記憶では、確か、タモリは木村拓哉のことを、キムラと呼び捨てにし、明石屋さんまや爆笑問題は平気でキムタクと呼ぶ。
おそらく、本人は微妙に嫌か?なくらいは感じているかもしれないが、黙認しているのではないか。
しかし、テレビ局のアナがキムタクを避けるのは、これは、力のある(あると思われる)者におもねるただの自主規制ではないのだろうか。勿論、アナウンサー達は、何でもかんでも勝手な発言を出来るわけではないのは理解できるが、過剰に自主規制するのはどうかと思う。そこには、表現の自由という発想とは程遠い、思考を止めた事なかれ主義すら垣間見られるからだ。
       ★
では、事務所はどう思っているのか。僕は、一部で思われているほどには、気にしていないような気がする。あるいは、それを追認しているように思える。
それが証拠にdocomo検索で「キムタク」と入力すると、ジャニーズ事務所の公式サイト「Jonny’s Web」がトップに表示されるのである。ということは、このサイトの少なくともMETAタグ(あるいはその他の隠れ定義文)に、「キムタク」という文字が定義されているにちがいからである。
ちなみに、同様にツヨポンと入力しても「Jonny’s Web」がトップに表示される。しかし、シングやゴロウチャン、ナカイクンでは検索されなかった。
       ★
まぁ、今日は、いつにも増してどうでもいい話であった。反省。
まさむね

時事ネタ, 芸能 »

[3 5 月 2009 | 4 Comments | | ]

忌野清志郎が死んだ。
80年代の最初頃、大好きだったRC。
「スローバラード」「トランジスタラジオ」「雨上がりの夜空に」「多摩蘭坂」「ダーリンミシン」いい曲いっぱいあった。
東京都中野で生まれて、育った僕は、高校、大学の頃、吉祥寺とか、国分寺とか立川とか中央線の西の方の多摩文化にあこがれていた。反権力、自由、サヨク、マリファナ、ヒッピー、エコ野菜、そんなサブカル的な宝島的なものがかっこよく感じた時代、その一つの象徴がRCサクセッションだったのである。アルバム「BEAT POPS」の赤い目のメンバーを見ながら、共感を覚えたりしたものだ。
高校時代、東京では、東から西へ行くにしたがって、聴く音楽が違った。ようするにカルチャーが違った。
墨田区とか荒川区とかの下町の小僧が渥美二郎とか榊原郁恵を聴いていた時代、僕が住んでいる中野あたりでは、ちょうどビートルズ系、もっと西の三鷹とか武蔵境では、QUEENとかプログレとか、そしてさらに西の国分寺とか、立川に行くと、フランクザッパとか。あくまでイメージの話だけど、そんな音楽に象徴される文化圏があったような気がする。
そんな時代、東京の西のほうから聴こえてきた日本の音楽が、RCサクセッションとユーミンだったんだな。
70年代、どちらかといえば、地方出身者が東京での孤独を歌った「なごり雪」とか「心の旅」とかがメインだった時代。東京の山の手のロック、つまり、サブカル西東京の音楽を創ったのがRCだった。
四畳半でキャベツばかり食べていたり、一人、部屋で真っ白な陶磁器をながめたり、駅のホームで時計を気にしたり、じゃなくて、授業をさぼって、屋上でラジオを聴くっていう、どちらかといえばサラリーマン子弟のプチ不良的な世界=70年代後半に山の手で学生時代を過ごした僕らにぴったりくる歌を歌ってくれたのがRCだった。
男と女の歌にしたって、RCは、俺=お前関係じゃなくて、僕=君関係、微妙な育ちの良さがその特徴だ。でも、どこか上品なバンカラ気質を持っていて、敢えて「かぶいた」ダサい格好をするのがカッコいいっていう感覚、ありましたよね。
清志郎が高校の同級生の三浦友和をバンドから追放した理由が「こいつ、Gパンにアイロンかけるんだもんな」っていうシャレに納得したのを覚えている。
あと、だいぶ時間がたった後だけど、「お墓と離婚」という岩松了の映画で、実にイヤ~な、墓石のお客様役をやった清志郎、確か、風呂場で泳ぐんだよね...
清志郎の事を思うといろんな断片が、バラバラに思い出されて、収拾がつかなくなるのでこの辺で止めておこうかな。
まさむね