Articles in the 芸能 Category
芸能 »
2009年の紅白歌合戦は、あまり興味が無かったので見ないでおこうと思ったが、やっぱり見てしまった。
妻が大の紅白好きのため、テレビから漏れ聴こえてくる音に負けてしまった。50歳になっても意志は弱い。というか、年齢で意志が強くなるわけではないのだ。
前年は全曲を実況で書いた(「「第59回NHK紅白歌合戦」斬らせて頂きました」)が、今年は一点だけ。
やはり、永ちゃん登場だろう、今年は。その演出がイカしていた。
2009年は人気絶頂、実際にCDが売れたのが嵐だけと言ってもいいほどの活躍だった彼らがトーク中に、いきなり、話を遮るように「ちょうど」登場した永ちゃん。
会場に着いたそのままの足でステージに向う。そして、そのまま「時間よ止まれ」の歌に入る。
「時」の人・嵐のトークを「時間よ止まれ」で止めさせるという、いわゆる「格の違い」を見せつける演出は、歴史に残る「プロレス的」[1]な名場面だったと思う。
一番の歌詞がちょっと間違えた(?)かと思った途端、テレビの歌詞の字幕が消える。さすが、「俺の歌なんだから、俺が歌うのが正しいんだからさ!」とでも言わんばかりの迫力に、ディレクタも字幕を消さざるを得なかったのか。
そして、歌が終わると、そのまま「立たされ見」をしていた嵐が、直立不動のコメント。そして中居君の出すマイクに「60年記念で歌えて嬉しい」とは、貫禄の大人のコメントだ。
中居君も「来年も来てください」って声をかけると、永ちゃんも笑顔でOKを出す。
はるか昔、昭和54年に開催された東京スポーツ主催の夢のオールスター戦のメインイベントで馬場と猪木が勝ち名乗りを上げたあと、新日本社長の猪木が「今度は二人でやろう」とマイクを向け、状況上、断ることの出来ない全日本社長の馬場さんに「うん」と言わせたあのシーンを思い出した。
後で知った話だと、打ち合わせだけでリハはなかったようだ。これもまた「プロレス的」な話である。
[1]ここでプロレス的と言ったのは、舞台に上がったレスラー間の格の違いを見せるスペクタクルこそがプロレスの本質だからである。
※コメント、状況など微妙に違ったかもしれないけど許してください。大体の記憶で書いています。
まさむね
映画, 芸能 »
青池憲司監督の「琵琶法師 山鹿良之」を見てきた。
このドキュメンタリ映画の主人公、山鹿良之師は、熊本を拠点に北九州地方一帯で活動してた日本最後とも言われる琵琶法師だ。
その謡声は、90歳を超えているとは思えないほどのハリがあり、その迫力と存在感は、師の長年の人生そのものの表出である。
師は、4歳の頃、片目の視力を失い、22歳の頃、天草の琵琶弾きのもと、修業の道に入ったという。
おそらく、それ以来、つらいことがあっただろう。世間からの残酷な視線の中、芸の道一筋の人生は口には出せない経験もしてきたのだと思う。
古来、日本の芸人は、北は津軽三味線芸人(ボサマ)から、南は薩摩盲僧琵琶まで、盲目という運命ゆえに、放浪の門付を余儀なくされてきた。
例えば、瞽女という盲目の遊女、あるいは座頭として、圧倒的なマジョリティの定住民=世間にとってのマレビト(異人)として蔑まれてきたのである。
日本における芸能とは、世間の憐憫と好奇の視線によってこそ光り輝くという悲しき宿命を持っているのだ。
僕はその巨体ゆえに、プロレスラーになり、ヒーローであるとともにどこかに哀愁を漂わせた昭和の伝説的レスラー・ジャイアント馬場と同じ存在感を山鹿師に見るのであった。
しかし、残念ながら、そういった山鹿師と世間との残酷な関係性はこのドキュメンタリでは描かれていなかった。
ここに出てくる師の周りの人々はみな彼に対して優しい。勿論、それはそれで心温まるものがあるのは確かだが、それでも彼ら・定住民と、師との間に目に見えないが確実に存在する一線があるような気がする。
★
フィルムの中の山鹿良之師は、己の悲しき運命とダブらせるかのように、中世の貴種流離譚、異界との交流譚、男女の不変の愛の物語「小栗判官」を謡うのである。
小栗判官とは、中世の伝説的人物である。
小栗判官は、関白・藤原家に、すなわち貴種として生まれ、色男としてその名前を轟かせるが、姫に化けた池の龍と契りを結ぶことによって都に天変地異を起した罪で、常陸の国に流される。
しかし、そこでも頭角を現す小栗判官は、常陸の国主としてその地を平らげ、美女の誉れ高き相模の国の照手姫に恋文を送り、押しかけ婿となるが、それを不快に思う照手姫の父親・横山大膳に荒馬の「鬼鹿毛(おにかげ)」をけしかけられ殺されそうなる。しかし、その荒馬を乗りこなす小栗判官。実は、その鬼鹿毛は、かつて小栗判官と契りを結んだ池の龍の生れ変りだったのである。
ところが、油断した小栗判官は、酒宴で毒入り酒を飲まされ命を落としてしまう。
一方、照手姫も大膳の怒りを買い、河に流されてしまい、命は救われるものの人買いの手にわたり、遊女小屋の女中として働かされるが、決して体を売るような事はなかったという。
また、地獄に堕ちた小栗判官は、閻魔大王に対する10人の忠臣達の嘆願によって、人間界に戻される。
しかし、その姿はかつての美男子の面影もない。皮膚病によって、まさに餓鬼の姿となっていたのである。
哀れに思った遊行寺の上人が餓鬼となった小栗判官を地車に載せ、熊野へ湯治の旅をさせる。
道々の人々に助けられ、無事、熊野に着いた小栗判官は49日間の湯治のおかげで皮膚病も治り、元の姿となって、照手姫とも再会し、再び夫婦となる。
さらに、都で帝に謁見し、美濃の国を拝領し、横山大膳に復讐するのであった。
この説話は面白い。いろんなイメージを沸き起させる。
この物語には、日本を代表する様々な物語の要素を内包しているのだ。
例えば、貴種の小栗が若い頃に様々な女性に手をつける色男だった事、しかし、ある女性関係の失敗により、都から追放される事、これは「源氏物語」と同型である。
また、酒席によって形勢が逆転する展開は、ヤマトタケルやヤマタノオロチといった日本神話を思い起こさせる。
人間以外の動物との性的交わりは、「遠野物語」のおしら様伝説や「南総里見八犬伝」と通じるものがあるし、忠臣に助けられたり、一人の女性に愛され続けるところは「義経記」に近い。
また、因果応報的展開や、僧侶の功徳によって救われるところは、仏教説話的な要素もあるが、湯治(禊)によって再生するところは、神道的にも思えるのだ。
さらに、余談ではあるが、この小栗判官の小栗家の末裔には、オグリキャップの馬主の小栗孝一(実際には養子だが)が出るのだが、オグリキャップと鬼鹿毛(おにかげ)とのイメージはどこか重なるところがある。
★
さて、話を戻そう。
盲目という不幸を背負った山鹿良之師。
しかし、その宿命ゆえに説得力を持った彼の芸。
そんな映画を見た僕が、家に帰ると「酒井法子の逃亡劇、そして不幸な生い立ち話」がテレビに写っていた。80年代から、90年代の日本を代表するアイドルの零落はあまりにも寂しい。
芸能界という華やかな世界の陰に存在する不幸な宿命...
山鹿師とノリピー、一見全く違う世界の二人を地下水脈のように結び付ける日本芸能の薄暗き伝統について、僕は考えざるを得なかった。
まさむね
芸能 »
昨日、中川翔子のブログがエキサトブログからアメブロに引っ越してきた。
勿論、それ自体はどうという事もないニュースであるが、いきなりの殿堂入りである。
まるで、柔道・オリンピックゴールドメダリストの石井慧が大相撲に入っていきなり横綱っていうようなものだ。
礼儀として、とりあえずランキングから始めるべきというのは常識的すぎる見解だろうか。
逆に、このランキングにどれだけの価値、信憑性があるの?という疑問もないわけではないが、一見、公平に見せかけるところに罪深さを感じないわけにはいかない。
勿論、最近、不自然にランキングが高いタレントが目立ったりしていて、それはそれで「純粋な人たち」に世間というのはこういうものだということを教えるというぐらいの意味はあるのかもしれないが、嫌な思いをしている人たち(タレントもユーザーも)もいるに違いないと思うのだ。
しかし、有名人のブログビジネスに関して言えば、、北斗晶や辻希美など、アメブロ上位の常連は、本業におけるその全盛期の輝きが素晴らしかっただけに、その輝きにと比べると、ブログで日常を切り売りしていて公開しているその姿のテンションの低さは否めない。などというのはジジイの戯言か。
現・国会議員の神取忍とのそれぞれの所属団体、全女とLLPWを背負った抗争をしていた頃の北斗晶、ミニモニ。全盛時の辻ちゃんのあどけない可愛さは格別だったなんて思い出に浸っている程、時間はゆっくりと進んでくれないものなのかもしれない。
まさむね
芸能 »
頭突きというのは哀しい技である。
これは、奴隷達(抑圧された者)が最後の抵抗を示す技として歴史に刻印されてきた。
そして、それは、手足をもがれた人々の意地の象徴として、我々の記憶の中にある。
例えば、戦後のプロレス史を見てみても、黒人のボボ・ブラジル(左画像)や朝鮮人の大木金太郎等の得意技として、そして、実力があってもその容姿でトップに立てなかった藤原喜明、一度、どん底に落ちていた大仁田厚といった抑圧されてきた面々の、華麗さよりも情念を伝える技として、あるいはまた、その技を繰り出すレスラーたちの「頭の固さ」すなわち、かたくなさをも表現する技として伝えられてきたであった。
先日、マクドナルドの新CMに安室奈美恵が自分自身に頭突きをする姿が公開された。
彼女の頭突きにはどういった意味が込められているのだろうか。
ご存知の通り、安室奈美恵は、沖縄という日本の中でも抑圧された土地から出てきた。
しかし、その沖縄は、日本でありながら、日本ではない。
敢えて極言するならば、沖縄という土地は、一面では、アメリカ軍に蹂躙されると同時に、別の一面では、アメリカ軍に依存しなければ生きていけない土地になってしまっている。
そして、沖縄が米軍に対して持つ抑圧感は、同時に、日本人にとって、「こんなモノ食ってて大丈夫か?」と思いながら、それでも止められないマックのハンバーガーという存在に対する感情、そして、心のどこかで憎しみながら、それでも依存せざるをえないアメリカという存在への想いとパラレルなのではないだろうか。
だから、戦後の抑圧された日本人は、その感情=想いを自分自身にしかぶつけることができなかったのかもしれない。
沖縄、マック、依存、アメリカ、抑圧。いろんなものが複雑にからみあった戦後日本のある側面を、安室の自分自身に対する頭突きは表現していると言ったら言いすぎだろうか。
評論家の中森明夫氏は1995年の文章で、こう述べている。
思えば、安室奈美恵は南沙織以来の沖縄発のトップアイドルだが、二十余年前、返還直前の沖縄から彗星のように現れたのがシンシアなら、今、基地問題で揺れるその場所から安室が、そして彼女に続く少女らが次々と踊りだそうとしてる。つまり沖縄が揺れる時、いつもそこから象徴的な少女たちが現れるのだ。-女の読み方-(朝日新書)
それ以来、安室奈美恵は常に闘い続けてきた。90年代はツッパッたストリート小ギャルのファッションリーダーとして、その後は離婚、母の死などといった苦境を乗り越え、自分の好きな音楽を追求し、一時はヒットチャートから嫌われた時期もあったが、自分を貫き通すことによって、現在ではカリスマと言われるまでに成長した。(「安室奈美恵は孤高の戦士だ」参照の事)
彼女の頭突き姿は、自分自身と戦い続けてきた安室の出自から現代までの一貫した戦闘体勢を表現しているのである。
さらに言えば、このCMで彼女は「バラ色でいこう」というもう一つのメッセージを僕たちに投げかけている。バラ、それは美しさと同時に、棘を隠そうとしない象徴的な花である。その美しさで人を惹きつけると同時に、決して人を近づけないという屹立した存在感、それが現在の安室の立ち位置そのものではないのか。
頭突きとバラ。抑圧と抵抗、魅力と拒絶...
90年代のストリート系文化の一つの象徴であるバーチャファイターで二人の安室が戦うカットの挿入、さらに大きな口(BIG MOUTH)というこれまた安室の態度的、身体的特徴を絡めた肉食系女子の「主食」=ダブルクォーターパウンダーのCM。
久々に明快で痛快、しかし、微妙に物悲しく複雑な15秒の世界である。
まさむね
芸能 »
木村拓哉のことをキムタクと呼んでもいいのだろうか。
ちょっと前の話だが、読売テレビの『たかじんのそこまで言って委員会』でアナウンサーの辛坊次郎氏は「関西ではキムタクと言ってもいいが関東ではキムタクと書いてある新聞の見出しを読む時でも木村拓哉(きむら たくや)と読まないといけない」というようなことを言っていた。
しかし、ぼくの記憶では、確か、タモリは木村拓哉のことを、キムラと呼び捨てにし、明石屋さんまや爆笑問題は平気でキムタクと呼ぶ。
おそらく、本人は微妙に嫌か?なくらいは感じているかもしれないが、黙認しているのではないか。
しかし、テレビ局のアナがキムタクを避けるのは、これは、力のある(あると思われる)者におもねるただの自主規制ではないのだろうか。勿論、アナウンサー達は、何でもかんでも勝手な発言を出来るわけではないのは理解できるが、過剰に自主規制するのはどうかと思う。そこには、表現の自由という発想とは程遠い、思考を止めた事なかれ主義すら垣間見られるからだ。
★
では、事務所はどう思っているのか。僕は、一部で思われているほどには、気にしていないような気がする。あるいは、それを追認しているように思える。
それが証拠にdocomo検索で「キムタク」と入力すると、ジャニーズ事務所の公式サイト「Jonny’s Web」がトップに表示されるのである。ということは、このサイトの少なくともMETAタグ(あるいはその他の隠れ定義文)に、「キムタク」という文字が定義されているにちがいからである。
ちなみに、同様にツヨポンと入力しても「Jonny’s Web」がトップに表示される。しかし、シングやゴロウチャン、ナカイクンでは検索されなかった。
★
まぁ、今日は、いつにも増してどうでもいい話であった。反省。
まさむね




