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忌野清志郎が死んだ。
80年代の最初頃、大好きだったRC。
「スローバラード」「トランジスタラジオ」「雨上がりの夜空に」「多摩蘭坂」「ダーリンミシン」いい曲いっぱいあった。
東京都中野で生まれて、育った僕は、高校、大学の頃、吉祥寺とか、国分寺とか立川とか中央線の西の方の多摩文化にあこがれていた。反権力、自由、サヨク、マリファナ、ヒッピー、エコ野菜、そんなサブカル的な宝島的なものがかっこよく感じた時代、その一つの象徴がRCサクセッションだったのである。アルバム「BEAT POPS」の赤い目のメンバーを見ながら、共感を覚えたりしたものだ。
高校時代、東京では、東から西へ行くにしたがって、聴く音楽が違った。ようするにカルチャーが違った。
墨田区とか荒川区とかの下町の小僧が渥美二郎とか榊原郁恵を聴いていた時代、僕が住んでいる中野あたりでは、ちょうどビートルズ系、もっと西の三鷹とか武蔵境では、QUEENとかプログレとか、そしてさらに西の国分寺とか、立川に行くと、フランクザッパとか。あくまでイメージの話だけど、そんな音楽に象徴される文化圏があったような気がする。
そんな時代、東京の西のほうから聴こえてきた日本の音楽が、RCサクセッションとユーミンだったんだな。
70年代、どちらかといえば、地方出身者が東京での孤独を歌った「なごり雪」とか「心の旅」とかがメインだった時代。東京の山の手のロック、つまり、サブカル西東京の音楽を創ったのがRCだった。
四畳半でキャベツばかり食べていたり、一人、部屋で真っ白な陶磁器をながめたり、駅のホームで時計を気にしたり、じゃなくて、授業をさぼって、屋上でラジオを聴くっていう、どちらかといえばサラリーマン子弟のプチ不良的な世界=70年代後半に山の手で学生時代を過ごした僕らにぴったりくる歌を歌ってくれたのがRCだった。
男と女の歌にしたって、RCは、俺=お前関係じゃなくて、僕=君関係、微妙な育ちの良さがその特徴だ。でも、どこか上品なバンカラ気質を持っていて、敢えて「かぶいた」ダサい格好をするのがカッコいいっていう感覚、ありましたよね。
清志郎が高校の同級生の三浦友和をバンドから追放した理由が「こいつ、Gパンにアイロンかけるんだもんな」っていうシャレに納得したのを覚えている。
あと、だいぶ時間がたった後だけど、「お墓と離婚」という岩松了の映画で、実にイヤ~な、墓石のお客様役をやった清志郎、確か、風呂場で泳ぐんだよね...
清志郎の事を思うといろんな断片が、バラバラに思い出されて、収拾がつかなくなるのでこの辺で止めておこうかな。
まさむね
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今週の木曜日と金曜日は草なぎ剛の話題で持ちきりだった。
いくら真夜中とはいえ、都内の公園でおちんちんを露出して、大声で叫んでいたのだ。
(しかし、履いていたジーパンは綺麗にたたんだという。左想像図)
しかも、駆けつけた警官に「裸のどこが悪い」と悪態をつき、暴れたというのである。
いわゆる失態、いや醜態、「世界で一人だけの○×」状態である。
しかし、これで草なぎ剛は、別のステージに上ったとも考えられる。今回の醜態を、今までの「いい人」という虚像(アイドル)から次の段階の、酸いも甘いも噛み分けたタレント(才能)となるきっかけにしてほしい、それが僕の期待だ。
さて、テレビは当然のように大騒ぎだ。
しかし、気になったのは、最終的にはほとんどのメディアは、彼を擁護していたこと。
休職中のように、あらゆる番組を見れたわけではないが僕が見た限り、「スッキリ」のさかもと未明も、「特だね」の小倉智昭も、最終的には草なぎ剛は、それでもいい人だ、真面目な人だと、話をすりかえてゴマをする。週刊ニュース新書の田瀬康弘にいたっては、あの情けない謝罪会見を、「人柄がにじみ出ていて出色だ」とほめる。
さらに期待の北野武までもが、太っ腹のスポンサーはいないのかね、と逆にCMをおろした企業をやんわりと批判する。
擁護自体が悪いというわけではないが、せめてマツコデラックスが北野誠の件を「芸能界を干されたくないからノーコメント」と言った程度の”芸としての言葉”は欲しかったような気もしないでもない。
その中でも携帯サイトではあるが梨元勝の大ハシャギっぷりは見事だ。「開いた口がふさがらない」と一人怪気炎をあげ、さらに、数年前の稲垣吾郎の事件をまで蒸し返す。
そのサイト(梨元勝の芸能裏情報)は、事件の日の午前中に、既に草なぎ一色で、2時間おき位に、動画でレポートを流す。さらに木曜日は檜公園をバックにした草なぎのイラスト、金曜日は若干加工した警察署から出てきた草なぎの横顔のアップをそれぞれトップロゴに使うという徹底ブリ。さすが梨元だ。
おそらく、現在のテレビに必要なのは、これくらいの徹底である。
それにしても、これで六本木にまた一つ名所が生まれた。
これからはミッドタウンの帰りに檜町公園の”草なぎベンチ”で一休みというのが定番コースになるに違いない、か?
まさむね
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今週の日曜日の午後、フジテレビで「マイドキュメント」という芸能人がドキュメンタリフィルムを自分で作成し、それを公表するという番組があり、太田光が出品するというので思わず見てしまった。
かねてから、映画好きを公言し、その鋭い視線と頭の回転の速さ、問題意識の独創性などで、サブカル系芸能人としては(これは僕の頭の中の話だけど)トップを独走している爆笑問題の太田が監督するドキュメンタリ、これを見逃す手はないとチャンネルをあわせたのだ。
しかし、結果は悲惨だった。太田がただ、街に出ていろんな人にどんな映画が好きかを聞いて回るだけの映像、その中でひとり普通のおばさんとの会話が太田的には壺にハマったらしく、延々と流していたが、これはただ、太田が出ているというだけのホームビデオに毛の生えたようなシロモノであった。
おそらく、時間もお金も、アイディアも無い、ただ己の才能だけを信じて創られたかのような安易な映像は、なるほど、ゴールデンじゃ流せないなと変なところで納得させられた。おそらく、ご本人も相当不満だったに違いない。
それを見た相方の田中からはすかさず、ただ、街に出て話をしただけじゃないかと当然のツッこみ。
太田もデヘヘッとボケる。残念ながら、そこには、くだらないものを創ったこと自体をネタとして笑いをとり、芸人としての最後の一線だけは守るという醜態しかなかった。
最近、テレビ界ではなにかとドキュメンタリブームのようだ。しかし、もともとドキュメンタリというものは、本腰を入れたディレクターが鋭い問題意識を持ち、時間をかけてこそ見るに値するものが出来る。バラエティじゃ数字はかせげない、ドラマは経費がかかりすぎるということでのドキュメンタリでは、かえって視聴者の反感をまねくだけではないのか。
太田光は、今までの実績からして、僕は当代随一の才能だと思うからこそ、敢えて言いたいのだが、自分の価値を落とすような安易なことはなるべくしないでほしい。
まさむね
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木瓜(もっこう)紋は不思議な紋である。
この紋の起源がよくわからないのだ。
代表的なものを上げてみると以下のようなものである。
1)キュウリの切断面を図案化したもの
2)鳥の巣を象ったもの
3)神社の御簾の帽額(モコウ)に使われた文様
4)女陰
いずれにしても、子孫繁栄や縁起のよいものにあやかろうという精神がこの紋の普及を促進したのであろう。
また、都道府県別でこの木瓜の割合が一番多いのは以下の県である。
(都道府県別姓氏家紋大辞典 千鹿野茂著より)
北海道、青森県、岩手県、栃木県、埼玉県、新潟県、富山県、和歌山県。
この中でも特に、富山では、他県に比べて著しい普及率(28%)を示している。
この地域は、戦国時代に朝倉氏が勢力を持っていて、この紋を広く門徒に使わせたためと言われている。
また、2位の地域は、秋田県、宮城県、福島県、石川県、福井県、鳥取県、島根県など。四国と南九州では比較的少ない。
有名人では以下の人々が使っている。
滝川一益。1525年 - 1586年10月21日、戦国時代の武将。
近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として出生。織田信長の家臣として伊勢長島攻め、長篠の戦い、石山合戦で功を上げる。上野と信濃の一部を与えられ関東管領を名乗ったという。領地よりも茶器を所望したと言われている。家紋は丸に立木瓜。
朝倉義景。1533年10月12日- 1573年9月16日、戦国大名。
越前の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。信長と敵対したが、一乗谷城の戦いで敗れ自刃した。その際、往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った一乗谷の市街地は、灰燼に帰した。家紋は三つ盛木瓜。
塙保己一。1746年6月23日 - 1821年10月7日、国学者。
武州児玉郡保木野村出身。塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので出自は荻野氏。『群書類従』『続群書類従』を編纂した。『史料』編纂の事業は現在も東京大学史料編纂所に引き継がれている。家紋は丸に木瓜。画像は四谷・愛染院にて撮影。
二宮尊徳。1787年9月4日 - 1856年11月17日、農政家・思想家。
相模国足柄上郡栢山村に百姓利右衛門の長男。日本の江戸時代後期に報徳思想を唱えて農村復興政策を指導。子供の頃草鞋を編んで金を稼ぎ寝る間も惜しんで読書をしたという。銅像が全国の小学校等に建てられた。画像は文京区・吉祥寺。
塩谷宕陰。1809年5月30日 - 1867年9月25日、儒学者。
江戸愛宕山下出身。昌平黌に入門。浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕える。水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となる。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。家紋は丸に四方木瓜紋。画像は谷中霊園にて撮影。
堀田正睦。1810年8月30日 - 1864年4月26日、大名・老中首座。
佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男として生まれる。幕府では寺社奉行や大坂城代などを務め老中となる。開国派として日米修好通商条約締結のために奔走。桜田門外の変後に謹慎処分となる。家紋は堀田木瓜。画像は品川・東海寺の堀田家の墓所にて撮影。
三輪田米山。1821年2月12日- 1908年11月3日、書家。
伊予国久米郡の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。また、明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった。義理の妹・三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。家紋は井桁に木瓜紋。青山霊園にて撮影。
伊東甲子太郎。1835年 - 1867年12月13日、武士。
常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として出生。北辰一刀流剣術伊東道場に入門。見込まれて婿養子となり伊東大蔵と称した。藤堂平助の仲介で新選組に加盟。文学師範、のち御陵衛士盟主。油小路事件で暗殺される。家紋は庵木瓜紋。
徳大寺実則。1840年1月10日 - 1919年6月4日、公卿・官僚。
尊皇攘夷派の公卿として活躍。明治以降は天皇の側近(内大臣兼侍従長)として天皇が崩御するまで補佐。内閣総理大臣・西園寺公望は実弟。徳大寺家は清華家の家格を有する公家で笛を家業とした。家紋は木瓜花菱浮線綾。画像は多磨霊園にて撮影。
沖田総司。1842年夏の日 - 1868年7月19日、武士。
父は陸奥白河藩士の沖田勝次郎で長男。新選組隊士。副長助勤、一番隊組長、撃剣師範。本姓は藤原氏。池田屋事件で討幕派数人を切り伏せ活躍したものの直後に肺結核により喀血して倒れる。家紋は丸に横木瓜紋。画像は港区・専称寺にて撮影。
伊東祐亨。1843年6月9日 - 1914年1月16日、海軍軍人。
薩摩藩士伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身。戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍。維新後は海軍の発展に貢献。最高階級は海軍大将。軍人としての生涯を全う。家紋は庵木瓜紋。
田中光顕。1843年11月16日 - 1939年3月28日、官僚、政治家。
土佐藩の家老深尾家々臣・浜田金治の長男として土佐国高岡郡佐川村に出生。土佐勤皇党に参加。高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。戊辰戦争で活躍。維新後は宮内大臣に就任。画像は護国寺にて撮影。
原口兼済。1847年4月2日 - 1919年6月18日、軍人、政治家。
森藩士・林寛吾の四男として生まれ同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。
山脇正勝。1849年 - 1905年5月6日、新選組隊士。
桑名藩士山脇十左衛門の子。変名、大河内太郎。鳥羽伏見の戦いに敗走し函館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争に参戦。維新後は三菱入社。長崎造船所初代所長を務める。バーバラ寺岡は子孫。家紋は横木瓜紋。画像は染井霊園にて撮影。
真鍋斌。1851年3月7日 - 1918年12月14日、軍人政治家。
長州藩中士・真鍋安信の長男として出生。陸軍少将まで昇進したが馬蹄銀事件のために休職。後に男爵を叙爵し華族となり貴族院議員、陸軍参政官を務める。最終階級は陸軍中将。家紋は三つ組み合い木瓜紋。青山霊園にて撮影。
中上川彦次郎。1854年10月4日 - 1901年10月7日、実業家。
中津藩士・中上川才蔵の長男。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。三井財閥の工業化と不良債権処理を推進し「三井中興の祖」として高く評価されている。家紋は割り菱に鐶木瓜紋。青山霊園にて撮影。
片山潜。1859年12月26日 - 1933年11月5日、社会運動家。
美作国粂郡羽出木村の庄屋藪木家の次男。『労働世界』を創刊し主筆を務め日本で最初の労働組合・労働組合期成会の設立に大きな役割を果たす。また、幸徳秋水らと共に日本で最初の社会主義政党・社会民主党の結成に加わった。青山霊園にて撮影。
服部金太郎。1860年10月9日 - 1934年3月1日、実業家。
江戸の京橋采女町の貧困な夜店商人の家に出生。独立して服部時計店を開業し、銀座4丁目に進出。外国製品に比肩しうる精巧品の製造に成功し、セイコー(SEIKO)に育てた。家紋は丸に横木瓜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
豊田佐吉。1867年3月19日 - 1930年10月30日、実業家、発明家。
遠江国山口村の貧しい農家に生まれた。父は大工だった。「豊田式木製人力織機」、「豊田式汽力織機」などを次々と発明。後に、豊田商会を設立し、今日、日本の代表企業・トヨタグループの礎を築く。家紋は丸に横木瓜。
伊東忠太。1867年11月21日 - 1954年4月7日、建築家、建築史家。
山形県米沢出身。叔父(父の弟)に官僚・政治家の平田東助がいる。元々画家(漫画家)を志望し妖怪等を描いた漫画も多く残している。主な作品に「祇園閣」「築地本願寺」「新勝寺太子堂」等。家紋は庵木瓜紋(伊東氏の代表紋)。画像は総持寺にて撮影。
増田義一。1869年10月21日 - 1949年4月27日、出版人、政治家。
越後(新潟県)出身。読売新聞記者をへて、実業之日本社を創立、社長となる。「実業之日本」「婦人世界」など多くの雑誌を刊行。日本雑誌協会会長も務める。政治家としては衆議院副議長となる。家紋は丸に横木瓜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。
伊原敏郎。1870年5月24日 - 1941年7月26日、演劇評論家。
松江生まれ。青々園の名で劇評を書き坪内逍遥と親しくなる。三木竹二と『歌舞伎』を創刊。さらに『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作で朝日文化賞を受賞。また新聞小説や戯曲『出雲の阿国』を書いた。家紋は丸に地抜き横木瓜紋。
上野英三郎。1872年1月19日 - 1925年5月21日、農業土木学者。
三重県出身の農業土木・農業工学の創始者。忠犬ハチ公の飼い主。大学で講演中に脳溢血で倒れ急逝。愛犬ハチは帰らぬ上野を長期間待ち続け、「忠犬ハチ公」として秋田犬の名を世間に知らしめることとなった。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
田山花袋。1872年1月22日 - 1930年5 月13日、小説家。
群馬県館林市出身。中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。家紋は丸に横木瓜。多磨霊園にて撮影。
樋口一葉。1872年5月2日 - 1896年11月23日、小説家。
元々父親である則義は甲斐国山梨郡中萩原村の百姓であった。7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。代表作は、「たけくらべ」「にごりえ」。五千円札の肖像となっている。現在の墓所は、杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所。
平田禿木。1873年2月10日 - 1943年3月13日、英文学者、随筆家。
東京生まれ。本名・喜一郎。島崎藤村らの『文學界』同人として活躍。のち英文学者として多くの翻訳を刊行、『禿木随筆』などがある。またアーネスト・フェノロサの能楽研究に助力した。のち『平田禿木選集』全5巻が刊行された。画像は回向院にて撮影。
芳沢謙吉。1874年1月24日 - 1965年1月5日、外交官、政治家。
新潟県高田出身。中国公使となり、,ソ連のカラハン大使との間で日ソ基本条約を締結。仏大使と国際連盟日本代表を兼務。犬養内閣では外相を務める。戦後初代の駐中華民国(台湾)大使となる。家紋は四方木瓜紋。画像は青山霊園にて撮影。
大角岑生。1876年5月1日 - 1941年2月5日、海軍軍人。
愛知県三宅村出身。読みは、おおすみみねお。日露戦争の第3次旅順口閉塞作戦では出撃した「釜山丸」はエンジンが故障し、船団から脱落する。犬養、斎藤、岡田の各内閣で海軍大臣を務めた。最終階級は海軍大将。画像は青山霊園にて撮影。
緑嶌友之助。1878年1月12日 - 1952年12月16日、元大相撲力士。
石川県上新川郡出身。本名は、高木友之助。現役時代は小結が最高位だが、引退後、立浪弥右衛門を襲名し「立浪三羽烏」と呼ばれた双葉山、羽黒山、名寄岩等の名力士を育て一代で部屋を角界屈指の名門にまで引き上げた。画像は谷中霊園にて撮影。
山野政太郎。1878年3月3日 - 1969年5月29日、実業家。
富山県出身。 西洋楽器店を創業。松本ピアノから営業権を譲り受け「山野楽器店」と改称し初代社長に就任。ピアノ、オルガン、レコードの販売に成功。東京蓄音器商組合長、全国蓄音器商組合連合会会長などを歴任。画像は多磨霊園。
梅ヶ谷藤太郎。1878年3月11日 - 1927年9月2日、第20代横綱。
石川県上新川郡(現在の富山県富山市)に生まれる。常陸山谷右エ門と同時に横綱に昇進。「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代を築く。168勝27敗47分2預116休、勝率.862。優勝相当成績3回。家紋の木瓜は、本門寺の墓所にて撮影。
下中弥三郎。1878年6月12日 - 1961年2月21日、実業家。
兵庫県多紀郡今田村出身。アナキズムや農本主義の影響を受け「教育改造の四綱領」を発表。平凡社を創設。『大百科事典』を出版して一躍「事典」出版社として著名になる。世界平和アピール七人委員会を結成し世界連邦運動を推進。画像は多磨霊園。
長塚節。1879年4月3日 - 1915年2月8日、歌人、小説家、歌人。
茨城県岡田郡国生村の豪農の家に出生。アララギの創刊に携わり万葉の短歌の研究と作歌に励む。長編『土』を東京朝日新聞に連載し代表作となる。また農民小説のさきがけともなった。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は横木瓜紋。
佐野利器。1880年4月1日 - 1956年12月5日、建築家。
山形県西置賜郡荒砥村出身。生家(山口家)が没落し佐野家の養子となる。鉄骨煉瓦造の丸善書店の構造設計を行う。関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進。清水組副社長も務めた。家紋は剣木瓜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
岩波茂雄。1881年8月27日 - 1946年4月25日、出版人。
長野県諏訪郡中洲村の農家に出生。古書店から出発し夏目漱石の知遇を得て「こゝろ」を出版。岩波書店を創業する。後に『思想』『科学』『文化』などの雑誌や、岩波文庫を創刊。貴族院多額納税者議員に互選、任命される。家紋は丸に剣木瓜紋。
丸山鶴吉。1883年9月27日 - 1956年6月3日、官僚。
丸山茂助の四男として広島県沼隈郡松永村に出生。警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長、宮城県知事、朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長、武蔵野美術学校校長、警視総監を歴任。家紋は丸に横木瓜紋。青山霊園の墓所にて撮影。
植芝盛平。1883年12月14日 - 1969年4月26日、武道家。
和歌山県田辺市の農家に生まれる。宗教団体大本に入信し「植芝塾」道場を開設。出口王仁三郎の命名により、自ら創始した武術を合気武道と呼称した。合気道関係者は開祖、特に古い高弟は大先生、翁先生と呼ぶことが多い。家紋は丸に横木瓜紋。
竹久夢二。1884年9月16日 - 1934年9月1日、画家・詩人。
岡山県邑久郡本庄村に代々酒造業を営む家に次男として出生。本名は竹久茂次郎。数多くの美人画を得意とした大正浪漫を代表する画家。作品は「夢二式美人」と呼ばれた。詩『宵待草』には曲が付けられて全国的な愛唱曲となった。家紋は丸に木瓜紋。
正力松太郎。1885年4月11日 - 1969年10月9日、実業家、政治家。
富山県射水郡枇杷首村に土建請負業を営む正力庄次郎の次男。読売新聞社の経営者として同新聞の部数拡大に成功。また、長らく巨人軍のオーナーを務め、その業績を称え、正力松太郎賞が設立される。家紋は横木瓜紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。
川端龍子。1885年6月6日 - 1966年4月10日、日本画家、俳人。
和歌山県和歌山市に出生。本名は昇太郎。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍。横山大観率いる日本美術院同人となる。代表作は『火生』『千住大橋』『山葡萄』等。喜寿を記念して長年住んだ大田区に龍子記念館を設立した。家紋は横木瓜紋。
平塚雷鳥。1886年2月10日 - 1971年5月24日、思想家・作家。
東京府出身。父親は紀州藩士で明治政府の高級官吏・平塚定二郎。関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広の末裔。女性解放運動・婦人運動の指導者。日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。画像は春秋苑にて撮影。
木村謹治。1889年1月2日 - 1948年1月13日、独文学、語学者。
秋田県南秋田郡大川村出身。東京帝国大学独文科教授となり、その際、同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。家紋は横木瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
福士幸次郎。1889年11月5日 - 1946年10月11日、詩人、評論家。
青森県弘前市出身。第一詩集『太陽の子』を上梓、口語自由詩の先駆となる。のち評論で『日本音数律論』、民俗学の『原日本考』などを著す。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に横木瓜紋。
西ノ海嘉治郎。1890年11月2日 - 1933年7月28日、第30代横綱。
鹿児島県西囎唹郡国分村浜の市出身。本名は松山伊勢助。三代目の西ノ海嘉治郎。幕内通算成績は30場所、134勝60敗2分2預116休、勝率.691。優勝1回。年寄浅香山を襲名し、井筒部屋から独立して浅香山部屋を旗揚げした。画像は小平霊園にて撮影。
大川博。1896年12月29日 - …
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世界的な金融危機に端を発して、現在多くの国々が深刻な経済危機に直面しており、我が国においても、経済の悪化に伴い多くの国民が困難な状況に置かれていることを案じています。働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます。
これまでさまざまな苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています。
23日の天皇誕生日に、天皇陛下はご感想を発表された。
冒頭はその最後の一節である。
国民に対して、知恵と絆で、国難を乗り切るようにとのこと。
今まで、今上天皇が、ここまで踏み込んだ御言葉を述べられたことがあっただろうか。
日本人なら、一人ひとり心に刻み込むべきだ。
政治の場面においては、「国難を前にして、与党、野党争っている場合ではない」という示唆にも聞こえるが、政治家はこの御言葉をよく咀嚼して、正月からの行動をとってもらいたいものだ。
一方、年の暮れ、数々の企業から、派遣切りの発表がなされた。
その中の多くの企業は、しばらく続いた円安の恩恵を受けていた輸出依存企業だ。
日本を代表する名立たる大企業が、本当に今、それまで企業のために、働いてくれていた派遣従業員を、ホームレスにしてまで切らなければならないのか。
「絆を大切にして助け合うことで困難を乗り越える事を願う」というのが何を意味するのかをもう一度、考え直して欲しい。まだ間に合う。
◆
次の日の24日のクリスマスイヴ、飯島愛が自宅のマンションで亡くなっているのが発見された。
死因はまだはっきりしていないが、亡くなってから既に数日間経っていたようだった。
いわゆる孤独死。気の毒な話である。
今日の「サンデージャポン」でコメンテーター達が彼女の思い出を語っていたが、その言葉はどれも悲しかった。
◆爆笑問題・田中裕二
すごく繊細な人だった。辞めるときも「漫才があっていいな。私なんて何もないんだよ」といっていた。辞めたあとも番組をよく見てくれていて「またデーブがつまらないこといってる…」とかメールが来ていた。
◆テリー伊藤
1カ月前に「芸能界に戻ってこいよ」と話したのだが…。ずっと芸能界にいたらこんな結末にはならなかったかも。今日は皆に会いにきているはず。
◆高橋ジョージ
すごい居心地のいい人だった。(昨年3月25日の)最後のサンジャポ出演のときに「ロード」を歌ったら何回もメールをくれた。「アーティストに歌ってもらっちゃって。私なんかのために…」といっていた。人のことばっかりだった。
◆デーブ・スペクター
サンジャポは生放送なので一番愛ちゃんらしく見えた。最後の出演のときに「自分の代わりはいっぱいいる」と言っていたが、飯島愛は彼女しかいない。
◆八代英輝弁護士
やりたいことがいっぱいあっただろう。HIV啓発活動を積極的にやるなどとって代わることのできない、大切な人だった。
◆西川史子
7月にお会いして「愛ちゃんのあとやりにくいよ」と言ったら「大丈夫だよ、見てないけど」といわれた。愛ちゃん流のエールかも。寂しいですね。
-nikkansport.com 08.12.28-
サンジャポファミリーとか言いながらはしゃいで、あんなに仲が良さそうだった芸能人達はみんな痛恨の思いだろう。
一見、華やかな人間関係の真っ只中にいるようにも見えた彼女だが、近所の交番に行って、「寂しいから話を聞いて欲しい」と相談していたのである。
飯島愛の内面を思うと、華やかな芸能界、そしてそれにとどまらず、僕たちが生きる現代社会における見せ掛けの絆がいかに虚しいものかと考えざるを得ない。
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さて、絆を語源辞典で調べてみた。
絆とは犬や馬などの動物を繋ぎ止めておく綱のことをいう
元々、絆という言葉は結びつきを表すと同時に、その裏に束縛という言葉が張り付いているのだ。
それは、決して暖かいだけのものではないのである。
それどころか、僕たち人間の歴史は、ある面、絆(=束縛)からの解放の歴史なのである。
おそらく、戦後の核家族化、地縁・血縁共同体の弱体化というのはその流れに沿っている。
さらに、非正規雇用者の増加、農家の激減、晩婚化、少子化という現象も絆(=束縛)からの解放という歴史の流れの中にある。
それは、人それぞれ、自由な生き方を認めようという思想のもとに、結婚も就職も転職も子作りも自分で選択できるようになったからだ。
しかし、それは当然、個々の人生が厳しい競争原理にさらされるようになったという負の面も併せ持っていたのである。
自由は、同時に、そして必然的に、敗者を生み出してしまうということなのだ。
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しかし、競争に負けた者には悲惨な境遇しか残っていないというのでいいのだろうか。
極端な例かもしれないが、派遣社員が契約を切られた後に、すぐにホームレスという底が抜けた社会はやはりおかしい。
しかし、日本人は束縛からの解放の歴史を元に戻して、かつての地縁血縁共同体を取り戻すことなど出来るのだろうか。
一方、そうでなければといって、絆の構築を一方的に国家に押し付けるということは健全なことなのだろうか。それはゆくゆくは、国家からの束縛を意味してしまうのではないだろうか。
また、例えば、今年の紅白歌合戦のテーマ「歌の力、歌の絆」のようにマスコミがキャッチフレーズとして喧伝しまくればいいというものでも全くないであろう。
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陛下が言われた「この困難を乗り越えるための絆」をどのように創り直していくのか、それこそ、今、日本人が英知を結集して考えなければならない事なのだ。
これは、まさに歴史的試練である。
まさむね




