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日本テレビの土曜ドラマ『ザ・クイズショウ』は、欠点はあるが、意欲的な作品であるとずっと思ってきた。
今回は敢えて、その欠点に関して語ってみたいと思う。
一言で言えば、その欠点とはシナリオがあまりにも論理的に作ろうとしていて、登場人物達の感情の動きが不自然になること、そして、ドラマの監督の意図を、俳優達が表現しきれていない点だと思う。
例えば、今日の回は、石黒賢扮する天才的な外科医・友部公一郎が自分の出世のために、急患の財務大臣の手術を優先して、職場の大学教授のボスを見殺しにするという過去の出来事の真相を、クイズに答えさせながら暴いていくというストーリーであった。
前半から、この友部は人間の命は誰もが平等だと言い過ぎると思ったら、それは伏線で、結局、彼は自分の出世のために、助かる可能性のあった命を見捨てたという彼の過去のトラウマを心理的に隠蔽するための虚偽意識であったのだ。
勿論、人はそのように過去のトラウマを打ち消すために、過剰なイデオロギーで自身を防衛するということはあるのだろうが、このドラマでは、それがあまりにも露骨過ぎて、不自然になってしまっているのだ。
また、その外科医は、クイズの賞品としての自分の夢に「誰もが平等に最高の医療を受けることが出来る病院の設立」を賭けるのであるが、ショウのMCの神山(櫻井翔)の挑発にすぐに乗って、テレビの前では普通は隠そうとする感情的醜態をすぐに露見させてしまい、しかし、またすぐに平静に戻るというのを繰り返す。
おそらく、シナリオ的にはそれは「アリ」なのだろうが、その心の動き、顔の表情があまりにロボット的、全くありえないと思う。ロジカルにストーリーを進めようとするために、人間のリアルな感情の動きを強引に描きすぎているため、演技に相当無理を生じさせてしまっているように思うのである。
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しかし、上記のような欠点があろうとも『ザ・クイズショウ』が面白いのは、実は、その欠点がそのままテレビというメディアの欠点でもあるということ、そしておそらく、そのことを熟知したスタッフが意図的にその欠点を強調し、自己批判しているという構造が面白いのである。
テレビというメディアに写るタレントは私的にどんな感情があったとしても、可笑しそうな場面では手を叩いて笑い、悲しそうな場面では涙を拭わなければならない。その感情の不自然さを前提とし、カリカチュアライズさせたこの『ザ・クイズショウ』。
己の欠点をそのままで見せ所としているという点で意欲的だ。
願わくは、ストーリーがさらに感情を無視して進み、破綻まで行き着くところまで見たいが、それは贅沢というものだろうか。
まさむね
参考エントリー
『ザ・クイズショウ』を見てしまう自分はまだ自分探し病?
『ザ・クイズショウ』に見るテレビ業界の欲求不満と嫉妬
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自分探しの必然と胡散臭さが、『ザ・クイズショウ』のテーマである。
毎回登場する回答者は、クイズに正解していく過程で、成功の影に捨ててきた「本当の自分」=「本当の夢」にたどり着くという心理劇である。
さらに、連続する大きなストーリーとして司会者の神山悟(櫻井翔)が、徐々に自分の過去=「本当の姿」に気づいていくという筋立てである。
実は、この神山は、精神科に通う青年である。その昔、ある女性と心中して自分だけ助かったという過去があるらしいのだが、その事実を記憶から抑圧している。そのことを、番組ディレクタの本間敏雄(関ジャニの横山裕)が、回答者に、神山の過去と関係している人々を次々と呼ぶことによって、記憶に蘇らそうとするのだ。
まだ、本間の真の目的は不明であるが、どうやら、神山に対してなんらかの恨みを抱いているということだけは想像させる。
この『ザ・クイズショウ』は、こうした毎回の回答者、そして大きな流れの中での司会者の本当の自分を暴いていくという、ややもすれば難解な二重の物語構造を飽きさせずに展開する。細かいところでのツッ込み所はあるものの、少なくとも意欲作とは言えるだろう。
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もし、この作品が多くの視聴者を惹きつけているとするならば、おそらくそれは、現代社会が必然的に生み出してしまう「現実の自分」と「本当の自分」の乖離、すなわち、”自分探し病”の病根の深さを物語っているのかもしれない。
学校という場所が大人になるための訓練場から、夢を育てるファンタジー工房となって久しいが、それによって生み出される自分探し病の若者たち、大雑把に言えば、そんな人々の心のスキマをチクチクとこのドラマは刺激する。
かつてデュオで活動していた時は、ヒットメーカーだったが、ソロになって不遇な時代を過ごすロックシンガー、他人が書いた携帯小説の表向きの顔を演じさせられている少女、影で振り込め詐欺の元締めをしている教育ボランティア...どれもこれも、現代社会のどこかに存在していそうな、自分探しをやめられない胡散臭い人々...
見たくはないが、思わず見てしまうというこのドラマの引力圏内にいるということは、僕自身もまだ自分探し病中なのかもしれない。
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あるいは、さらにうがった見方をするならば、僕は、問題作『銭ゲバ』では提供から表面上隠れていたが、このドラマでは何事もなかったかのように無事番組内CM枠に復帰し、堀北真希、松山ケンイチ、劇団ひとり、堤真一を使って携帯の新機種と自分探しを連動させる新マーエッティングプランを展開しているdocomoの計略(『ザ・クイズショウ』を見て自分探しに不安を感じる若者をdocomoの携帯で救うという)に、ひっかかっているのかもしれない。
また、考えすぎって言われるかもしれませんが。
まさむね
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日本テレビの土曜日の21:00~『ザ・クイズショウ』は、予想以上の面白さだ。
このドラマ内でのクイズ番組は、MC(桜井翔)と回答者の一対一の対戦形式の生放送のクイズ番組である。
そして、7問全問正解したときの賞品は回答者の”夢”である。
第二話では、女子中高生の間ではカリスマケータイ小説家のミカ。
彼女は最初、自身の新作のテレビドラマ化を賞品の夢としてクイズに挑むのであった。
しかし、クイズを進めていくにしたがって、彼女は精神的に追い詰められてゆく。
クイズの問題があまりにもリアルに彼女の過去のトラウマをえぐったものだったからだ。
そして、遂に真実が明らかになる。
実は、本当はその小説は彼女が書いたものではなかったのである。
しかも、ミカの真実の心には、それを本当だと信じながら亡くなってしまった母への懺悔の気持ちにあふれていたのだ。
ミカは、クイズの回答を通して偽りの自分と決別し、本当の自分に向き合うようになる。
そして、最終的に彼女は、自分自身が小説を書くという夢をクイズに賭けるのであった。
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現実のテレビ業界の、出演者たちの生ぬるいやりとりに辟易している視聴者。
最近の視聴率の低下にはそういった、バラエティ番組内における芸能人たちの馴れ合いが、視聴者に見透かされているという背景があると思われる。
たとえば、テレビの中では馬鹿にされてもいい人は決まっているし、ほめなければならないモノも決められている。そこには言論の自由とは程遠い、暗黙の了解が満ち溢れているのだ。
そして、おそらく、言いたい事を放言しまくるネットを横目で嫉妬しながら、硬直した現状に対して一番、ヤキモキしているの番組制作現場のスタッフであることは想像に難くない。
この『クイズショウ』は、そんな不自由なスタッフ達がドラマというフィクションの場で、自己実現するドラマなのである。
ドラマの中で、クイズショーのMCは、本気で回答者を挑発し、怒らせ、仮面をはがそうとするのだ。
それは、現実のテレビでは出来ないガチンコのやりとりである。
手足を縛られた不自由なテレビ業界が、「本当に俺たちがやりたいのはこういった番組だよ」というメッセージをこのドラマに込めていると言ったら深読みしすぎだろうか。
象徴的なのは、ZEROでは借りてきた猫のようにカチンカチンの桜井翔が、このドラマでは水を得た魚のような溌剌さを見せていることだ。
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また、今回の第二話は、上記のようなテレビ製作現場の本音が漏れていると同時に、最大のライバルであるインターネットへの皮肉が込められている。
ケータイ小説をミカに成り済まして書いていたのはいわゆるIT長者っぽい社長だったのである。
そして、彼がミカの名前を使って書いていた代物は、人間に対する真摯な姿勢も、感動もなく、ただ、レイプとドラッグを刺激的に描いて、良識に対して反抗しているだけの俗物だったとのことである。
実際に書かれているケータイ小説のいわゆる世間的な評価もおそらくそんなところだろう。
この『クイズショウ』では、そうしたケータイ小説(のイメージ)を痛烈に批判する。
しかも、ミカという現実でも「恋空」の著者と同じ発音の名前を使ってのストレートな批判である。
これは逆に例えて言えば、”蓑さん”とでもいう名前のクイズ司会者のインチキを暴くようなケータイ小説が出される、そんな類い(タグイ)のストレートさである。
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僕が『クイズショウ』を面白いと言ったのは、現状のテレビ製作現場への欲求不満と、IT業界への反感という本来ならば、見世物にすべきではない感情を見事ドラマとして昇華しているところが面白い、という意味である。
まさむね
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TBS日曜劇場『ぼくの妹』は、今村昌平の脚本助手を務め、『復讐するは我にあり』『楢山節考』の脚本をも手がけた社会派のベテラン脚本家・池端俊策によるやや重の力作である。
第2話が終わった段階だが、2回とも放送の最後5分にググッと動くという展開。この独自の溜め(タメ)は微妙に現代的ではないが、癖になりそうだ。
江上盟(オダギリジョー)は、子供のころから神童と呼ばれた秀才肌の外科医。その妹・江上颯(長澤まさみ)は、「奇跡的なバカ」と言われながらもたくましく生きる兄とは正反対のキャラクタだ。
幼い頃に両親を亡くした二人が、喧嘩をしながらも降りかかってくる苦難に立ち向かっていくという筋立てである。
主人公の盟にとって、世界は混沌に満ちている。自分以外の登場人物は全て謎を秘めた存在なのである。
第1話の最後に目の前で死んだ桐原里子(ともさかりえ)、第2話の最後に登場し、恨み言を残す九鬼研次(千原ジュニア)。
突然、自分の日常に忍び込んでくる「気持ちの悪い別世界」は、不安と隣り合わせの現代社会、いわゆるカフカ的とも言える不条理で不気味な肌触りを持っている。
今後、この気持ちの悪さが、いかに盟の中に忍び込んでくるのかがテーマになるであろう。
そして、本来ならば日常のコチラ側の世界にいるはずの妹・颯が、逆に、ますます盟の心をかき乱す。
しかし、それは一方的ではない。
真面目な兄が奔放な妹を心配するという、兄の思い描く理想的な安定した構図からハミ出し、兄自身の不手際によって、逆に妹を頼ったりする、その情けなさが兄妹ドラマの面白いところである。
確かに、両親を亡くした兄と妹の物語、兄が妹を面倒みようとするが、逆に妹が兄を癒し助けるという図式は、古くて新しい日本の物語の一つの典型である。
民俗学者・柳田國男は、『妹の力』(いものちから)の中で、妹(家の中の女性たち)の霊的な力について言述していたが、僕はそれを無理やり、兄を守る妹の不思議な力として解釈したいと常々思っていた。
映画『フーテンの寅』シリーズが代表だが、その陰画ともいえる北野武の『その男、凶暴につき』、青春版としての南こうせつの『妹』から、その究極としての悲惨な『火垂るの墓 』、ヤンキー版『ヤスコとケンジ』まで、脈々と「両親を失った二人だけの兄妹(あにいもうと)話」の系譜に上手く乗りそうな予感がする今回の『ぼくの妹』。
実は僕自身、双子の妹を持つだけに個人的にも気になる作品なのである。
まさむね
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先週あたりから、春の連ドラがスタートしはじめているようだ。
仕事を始めたので、どれもこれもあまり見れてはいない。
ただ、丁度、帰宅した頃に妻が見ているドラマを遠くから眺めるように見ることは出来た。でも、その「眺め見」はそれはそれで、楽しいものである。
例えば、火曜日の21:00~の『アタシんちの男子』だ。
主演は堀北真希で脇に、要潤、岡田義徳、向井理、山本裕典、瀬戸康史、岡山智樹といったイケメンを揃える。さらに、元祖イケメンの草刈正雄までも出演しているのだ。ちなみに、この草刈さんって凄い。現役バリバリの10代~20代のイケメン達に比べても全く遜色ない、ていうか造形的には勝ってさえいる。そのカッコよさは、まさに奇跡だ。30歳を過ぎるといきなり劣化してしまう人も多いが、おそらく彼は本物のイケメンなのだろう。
さて、話は、ホームレスになった堀北が、何故か大金持ちのナイスミドル(草刈さん)と結婚したら、その屋敷に養子が6人いる。そして、その大金持ちが亡くなったことによっていきなりその6人の母親になってしまうという設定なのだ。まぁ、そのリアリティの無い設定をとやかくいってもしかたがないが、注目は、その屋敷で巻き起こる怒鳴り合いシーンである。
屋敷内には何故か、霧(モヤ)がかかっているのだ。そういえば、霧がかかった場所でイケメンたちが怒鳴りあうというのは最近の定番だなと思い至る。「ROOKIES」の野球部部室、「ごくせん」での教室、みんな霧がかかっていたではないか。
実際は、それらの霧は、タバコの煙っていうことになっているのだが、おそらく、それらの霧は、少年たちの心のモヤモヤとした状態を表すのだろう。鬱陶しさの象徴としての霧なのだ。(あるいは、この霧は演技の未熟さをカヴァーするという役割もあるのかもしれい。)
どなたか、このドラマにおける霧の起源、歴史、変遷、霧度No1男優は誰か?等を調べてもらえないだろうかと思う今日この頃である。
ちなみに、このドラマで堀北真希は再び、お転婆キャラに転進したようだ。「篤姫」の和宮、「イノラブ」の佳音と、ここのところ、どちらかといえば、根暗系の役が多く、それはそれでこなした彼女の上手な転進成功かと思っていたのだが、再びの逆転進に微妙にとまどう僕でした。
さて、この『アタシんちの男子』と、演技におけるリアリティという意味で、対極に思えたのが、『アイシテル~海容~』である。
このドラマは、典型的「中の上階級」の子供がヨソの家の子供を殺してしまうという衝撃的な設定だ。しかし、ドラマの視線はあくまでもリアリズムに近い。加害者、被害者のそれぞれの家庭の様子をかなり丁寧に描いている印象を受けた。
特に、主役の稲盛いずみ(加害者の母役)が、子供の殺人を知って泣き崩れるシーンは出色。さすがに年季の入ったプロの役者は違うなと感心させるものがあった。
今後、山本太郎、佐野史郎、田中美佐子などのベテラン勢の熟達した演技とのカラミが楽しみ(見られるかどうかわからないけど)である。でも、今後、10話くらい続くんだろうけど、そこまで緊張感を持続して引っ張れるほどのストーリー的ネタはあるのか?そのあたりが若干心配なような気がしないでもない。
まぁ、というわけでこれからは、微妙に引いた視線からの印象でドラマを語っていこうと思う。ちょっと寂しいけどね。
まさむね




