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[2 6 月 2009 | 2 Comments | | ]

TBSの日曜劇場「ぼくの妹」が僕の興味をひきつけ続けて止まない。(「双子の妹を持つ僕にとっても気になる『ぼくの妹』」)
決して「面白いよ」と勧めるタイプのドラマではないのだが、ドラマで描かれている世界と、こちらの現実世界との距離が微妙に他のドラマとは違う、とでも言うべきか、ユニークなのである。
例えば、今クールのドラマとして、「クイズ・ショウ」や「Mr.Brain」等は、シナリオがあって、それを役者が演じて、それをカメラで撮影して編集してという流れが透けて見えるのに対して、この「ぼくの妹」はそういったアチラの制作構造を上手く隠しているのだ。
ごめん、わかりにくいよね。簡単に言えば、画面の向こうにもう一つ別の世界が存在している感じが強いというのか、その世界の一部をとりあえずカメラで切り取りましたという感じがするのである。
ごめん、まだわかりにくいよね。ようするに、それってストーリーがストーリーになっていないということ、少なくとも、テレビの連続ドラマ的ではないということなのである。
例えば、「クイズ・ショウ」では、最終回に向かって、多分、MC神山(櫻井翔)とディレクター本間(横山裕)、プロデューサー冴島涼子(真矢みき)、謎の美少女(水沢エレナ)の過去の関係が段々解明されていくんだろうなというような大筋が読めるし、「Mr.Brain」では、毎回、脳科学者の九十九龍介(木村拓哉)が事件を解決してくんだろうなという展開は当然、期待できる。
しかし、「ぼくの妹」はそういった予定調和的な展開を裏切り続けるのだ。現時点ではこの先どうなっていくのかの大筋も読めないのである、少なくとも僕には。話がその都度発生する任意の出来事にどんどん引きずられていく感じがするのである。
優秀な外科医(オダギリジョー)がふとしたことで知り合った女性(ともさかりえ)と関係を持ち、借金を迫られ、それが嘘だとわかり、その女性はビルの屋上から飛び降り、その女性の彼氏(千原ジュニア)に恨まれ、それを晴らそうとする過程で知り合った親切なおじいさん(大滝秀治)が実はその彼氏の父親だということを知り、さらに、その彼氏と自分の妹(長澤まさみ)が寝てしまう...ようするに話が蛇行しながら進む感じなのである。しかし、この展開は、現実の世界と似ていて、妙なリアリティがあるのだ。
そして、その世界に翻弄されるオダギリジョーに妙な親近感を抱いてしまうのである。その昔、オダギリは、クレジットカード(ライフカード)の宣伝CMでも、会社の上司や彼女等に翻弄される役をやっていたが、元々、翻弄キャラなのだろう、オダギリって。
       ★
わけのわからない男{妹の不倫相手・瀬川欽也(田中哲司)}や女{病院の理事長の娘・大河原春菜(笹本玲奈)}に好意を寄せられたり、こうあってほしいと願っている妹(長澤まさみ)が全くその通りに動いてくれなかったり、勝手な勘違いである男(千原ジュニア)に逆恨みされたり、しかし、その男が妹と寝てしまったりと、そういった思うようにならない現実の不条理に振り回される、ある意味、カフカ的な嫌~な感じ、それがこの「ぼくの妹」の主題なのだろうか。
そういえば、この作品の脚本を手掛ける池端俊策は、元々今村昌平の脚本助手をしていたというが、カンヌでパルム・ドールを受賞した今村の『うなぎ』で、主人公(役所広司 )がある男(柄本明)に、凄く、嫌~な感じでつきまとわれるシーンが出てくる。それは、この『ぼくの妹』の嫌~さ加減と共通しているようにも思えるのだ。ただし、僕は、この「嫌~な感じ」は嫌いではない。勿論、好きでないが、社会派作品独特のリアリティとして十分認めたいと思うのである。
       ★
しかし、この嫌~なドラマが「明日から頑張るぞ」と張り切る多くの善男善女がテレビの前に座る日曜日の夜に放送するような代物だろうかという疑問がないわけではない。いや、当然ある。そして、こんなところにも迷走するTBSの昨今の編成の乱れ(「TBSの断末魔こそ、今のテレビで最高の見世物だ」参照)が垣間見れるのだ。
ちなみに、この時間帯の居心地の悪さを含めて、このドラマを楽しめてしまう僕って相当、嫌~な奴だなぁと自分でも思う。
まさむね

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[31 5 月 2009 | No Comment | | ]

TBSの土曜ドラマ「Mr.Brain」が好調のスベリ出しだそうだ。
初回視聴率が24.8%、今日放送の2回目もおそらく20%を超えるだろう。
このご時世、普通に20%を超える数字をたたき出すのだから、さすが木村拓哉である。
内容に関しては、細かいところまで金をかけているだけあって、贅沢なつくりになっている。
さらにドラマの中にジャンケンの勝ち方みたいな話とか、脳に関するちょっとした豆知識も入っていて、これも最近、特に流行の露骨なプラグマチックネタである。
このドラマの中に役に立つ、あるいは役に立ちそうなネタを仕込むというのは、ドラマを純粋に見世物として楽しむ態度の衰退とみるべきなのだろうか。
あるいは、かつてはその内容というよりも、次の日の仲間との話題ネタ、すなわち、コミュケーションのための道具として機能していたドラマが、携帯電話の発展でその役割を失いつつあることに対して、その替わりに担った新役割なのであろうか。
それはまたいつか考えてみたいと思う。
さて、「Mr.Brain」である。シナリオの不備を、木村拓哉の存在感とその他のとりあえず名のある役者陣の豪華さで補っている。これが僕の評価である。
シナリオの不備というのは、例えば、2回目の放送で、小雪が犯人だとわかってしまうシーン。
殺人現場にネックレスの玉を落として、手の中にその玉があることを知っていて木村拓哉が小雪にジャンケン勝負を挑むシーン。小雪はその玉を見られたくないがために、グーしか出せないと読んだ木村はパーを出して勝つ。
そして、何故、小雪がグーしか出せないのかという謎解きをして、彼女が犯人であるということを証明するのであるが、話の流れが、小雪の心情を全く無視しているのである。
小雪としては、その玉を見られたくなかったなら、逆の手でジャンケンすることも出来ただろうし、そもそも、絶対に手を開けないような状況でジャンケン勝負を受けるという心理はありえるのだろうか。
自分が、その小雪のシチュエーションだったら、どうするかを考えれば簡単に答えは出ると思う。
ただ、ボーッと観ていればおそらく、話は綺麗に進んでいるように見えるのかもしれない。それだけの演出と役者の演技力があったのは確かだ。
実は僕は木村拓哉が大好きなのだ。今まですべてのテレビドラマで最高なものは何かと問われれば、迷わず「ロングバケーション」と答えるだろう。
あまりに、そのドラマが好きなために、僕の中では今でも木村拓哉は、山口智子と一緒にボストンにいるのではないかという幻想がどこかで生きているである。
だから、僕的には木村拓哉は、このドラマでも、若手俳優人気ナンバー1の水嶋ヒロに完全に勝っている。さらにうがった見方をすれば、この「Mr.Brain」の役柄上、かっこいい木村拓哉と情け無い水嶋ヒロをぶつけることは、ジャニーズが研音をつぶしのために仕組んだワナでは?とさえ思ってしまうのである。
しかし、木村拓哉も人間だ。欠点はある。木村拓哉が好きな僕ではあるが、その欠点に関して気にしないといったら嘘になる。だから敢えて、以下続けるのだ。(ファンの方、悪く思わないでね)
その、第一の欠点がその身長である。公称では176cm、しかし、一部週刊誌やネットなどでその件に関しては、様々な疑惑をもたれているのは事実だ。
その彼の欠点をこのドラマはどのように「処理」するのか。実は、僕にとっては、それが一つの楽しみであった。
言うまでもなく、身長の低さを隠すには、第一には背の低い俳優との接近した絡みを多くすればいい。僕はこのドラマの田中裕二起用は、そこにポイントがあるのでは?と見ている。実際、1回目、2回目ともに、田中祐二との「接近戦」が組まれ、木村拓哉のイメージは完全に補強されていた。しかも、今回は香川照之と、顔を近づけ、鼻までつけるシーンがあり、さらに身長イメージ補強はダメを押されていた。
しかし、一方、水嶋ヒロ、小雪との絡みという問題が残った。
ちなみに、こちらも公称ではあるが水嶋ヒロは180cm、そして小雪は170cmである。
特に小雪には以下のようなエピソードが残されている。興味を持たないで見ろというほうが無理ではないか。

「長身の女優はドラマや映画のキャスティングで苦労することが多いですからね。ドラマ『エンジン』では、ヒロインの小雪の身長が木村拓哉よりも高かったため、ツーショット撮影はかなり気を使ったそうです。また、ドラマ『プロポーズ大作戦』では、長身の長澤まさみとの釣り合いが考慮されて、長澤の友人役としてさらに長身の榮倉奈々が抜擢されました。本人や相手役がバランスを気にするケースは意外に多いから、ガッキーの心中は複雑かもしれません」(テレビ関係者)「ガッキーが身長のことで悩んでる???」
しかし、結果としては、小雪との絡みでも、水嶋ヒロとの絡みでも、木村拓哉の身長イメージは十分維持出来ていたように思う。特に、水嶋ヒロとのシーンでは、カメラが下から見上げるシーンが少なくとも2回確認され、その身長差は周到に隠蔽されていたように思える。特に小雪のネックレスの玉を確認するシーンで、木村拓哉と水嶋ヒロが二人してしゃがむのであるが、その際の水嶋ヒロのより念入りの深いしゃがみに彼の大先輩への敬意を見たのは僕だけだろうか。
しかし、今後、2人の絡みが毎回、下からのカメラというのはどうなのだろう。来週からさらに二人の絡みは、さらに楽しみである。撮影班の「配慮」はこのドラマの一つの見せ所となっていくに違いない。
       ★
また、身長問題と連動する欠点が彼の顔の大きさである。今まではそういったシーンはないようだが、田中祐二が木村拓哉の「身長対策」として起用されたとすれば、「顔の大きさ対策」として起用されたのがトータス松本ではないかと想像してしまう。こちらも今後の絡みが楽しみである。
       ★
最後に、芸能人といえば、疑惑を持たれるのがいわゆる「宗教関連ネタ」である。個人の信仰にかかわることなので、本来なら、疑惑などということ自体、問題であることは確かなのだが、興味を持っている人が多いのも事実だ。そういう意味では、木村拓哉が、殺人現場で「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経」と手を合わせていた事は何か深い意味があるのであろうか。この一行は、シナリオ通りなのだろうか、それとも「素」なのだろうか。
まさむね

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[17 5 月 2009 | No Comment | | ]

日本テレビの土曜ドラマ『ザ・クイズショウ』は、欠点はあるが、意欲的な作品であるとずっと思ってきた。
今回は敢えて、その欠点に関して語ってみたいと思う。
一言で言えば、その欠点とはシナリオがあまりにも論理的に作ろうとしていて、登場人物達の感情の動きが不自然になること、そして、ドラマの監督の意図を、俳優達が表現しきれていない点だと思う。
例えば、今日の回は、石黒賢扮する天才的な外科医・友部公一郎が自分の出世のために、急患の財務大臣の手術を優先して、職場の大学教授のボスを見殺しにするという過去の出来事の真相を、クイズに答えさせながら暴いていくというストーリーであった。
前半から、この友部は人間の命は誰もが平等だと言い過ぎると思ったら、それは伏線で、結局、彼は自分の出世のために、助かる可能性のあった命を見捨てたという彼の過去のトラウマを心理的に隠蔽するための虚偽意識であったのだ。
勿論、人はそのように過去のトラウマを打ち消すために、過剰なイデオロギーで自身を防衛するということはあるのだろうが、このドラマでは、それがあまりにも露骨過ぎて、不自然になってしまっているのだ。
また、その外科医は、クイズの賞品としての自分の夢に「誰もが平等に最高の医療を受けることが出来る病院の設立」を賭けるのであるが、ショウのMCの神山(櫻井翔)の挑発にすぐに乗って、テレビの前では普通は隠そうとする感情的醜態をすぐに露見させてしまい、しかし、またすぐに平静に戻るというのを繰り返す。
おそらく、シナリオ的にはそれは「アリ」なのだろうが、その心の動き、顔の表情があまりにロボット的、全くありえないと思う。ロジカルにストーリーを進めようとするために、人間のリアルな感情の動きを強引に描きすぎているため、演技に相当無理を生じさせてしまっているように思うのである。
       ★
しかし、上記のような欠点があろうとも『ザ・クイズショウ』が面白いのは、実は、その欠点がそのままテレビというメディアの欠点でもあるということ、そしておそらく、そのことを熟知したスタッフが意図的にその欠点を強調し、自己批判しているという構造が面白いのである。
テレビというメディアに写るタレントは私的にどんな感情があったとしても、可笑しそうな場面では手を叩いて笑い、悲しそうな場面では涙を拭わなければならない。その感情の不自然さを前提とし、カリカチュアライズさせたこの『ザ・クイズショウ』。
己の欠点をそのままで見せ所としているという点で意欲的だ。
願わくは、ストーリーがさらに感情を無視して進み、破綻まで行き着くところまで見たいが、それは贅沢というものだろうか。
まさむね
参考エントリー
『ザ・クイズショウ』を見てしまう自分はまだ自分探し病?
『ザ・クイズショウ』に見るテレビ業界の欲求不満と嫉妬

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[2 5 月 2009 | No Comment | | ]

自分探しの必然と胡散臭さが、『ザ・クイズショウ』のテーマである。
毎回登場する回答者は、クイズに正解していく過程で、成功の影に捨ててきた「本当の自分」=「本当の夢」にたどり着くという心理劇である。
さらに、連続する大きなストーリーとして司会者の神山悟(櫻井翔)が、徐々に自分の過去=「本当の姿」に気づいていくという筋立てである。
実は、この神山は、精神科に通う青年である。その昔、ある女性と心中して自分だけ助かったという過去があるらしいのだが、その事実を記憶から抑圧している。そのことを、番組ディレクタの本間敏雄(関ジャニの横山裕)が、回答者に、神山の過去と関係している人々を次々と呼ぶことによって、記憶に蘇らそうとするのだ。
まだ、本間の真の目的は不明であるが、どうやら、神山に対してなんらかの恨みを抱いているということだけは想像させる。
この『ザ・クイズショウ』は、こうした毎回の回答者、そして大きな流れの中での司会者の本当の自分を暴いていくという、ややもすれば難解な二重の物語構造を飽きさせずに展開する。細かいところでのツッ込み所はあるものの、少なくとも意欲作とは言えるだろう。
       ★
もし、この作品が多くの視聴者を惹きつけているとするならば、おそらくそれは、現代社会が必然的に生み出してしまう「現実の自分」と「本当の自分」の乖離、すなわち、”自分探し病”の病根の深さを物語っているのかもしれない。
学校という場所が大人になるための訓練場から、夢を育てるファンタジー工房となって久しいが、それによって生み出される自分探し病の若者たち、大雑把に言えば、そんな人々の心のスキマをチクチクとこのドラマは刺激する。
かつてデュオで活動していた時は、ヒットメーカーだったが、ソロになって不遇な時代を過ごすロックシンガー、他人が書いた携帯小説の表向きの顔を演じさせられている少女、影で振り込め詐欺の元締めをしている教育ボランティア...どれもこれも、現代社会のどこかに存在していそうな、自分探しをやめられない胡散臭い人々...
見たくはないが、思わず見てしまうというこのドラマの引力圏内にいるということは、僕自身もまだ自分探し病中なのかもしれない。
       ★
あるいは、さらにうがった見方をするならば、僕は、問題作『銭ゲバ』では提供から表面上隠れていたが、このドラマでは何事もなかったかのように無事番組内CM枠に復帰し、堀北真希、松山ケンイチ、劇団ひとり、堤真一を使って携帯の新機種と自分探しを連動させる新マーエッティングプランを展開しているdocomoの計略(『ザ・クイズショウ』を見て自分探しに不安を感じる若者をdocomoの携帯で救うという)に、ひっかかっているのかもしれない。
また、考えすぎって言われるかもしれませんが。
まさむね

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[28 4 月 2009 | No Comment | | ]

日本テレビの土曜日の21:00~『ザ・クイズショウ』は、予想以上の面白さだ。
このドラマ内でのクイズ番組は、MC(桜井翔)と回答者の一対一の対戦形式の生放送のクイズ番組である。
そして、7問全問正解したときの賞品は回答者の”夢”である。
第二話では、女子中高生の間ではカリスマケータイ小説家のミカ。
彼女は最初、自身の新作のテレビドラマ化を賞品の夢としてクイズに挑むのであった。
しかし、クイズを進めていくにしたがって、彼女は精神的に追い詰められてゆく。
クイズの問題があまりにもリアルに彼女の過去のトラウマをえぐったものだったからだ。
そして、遂に真実が明らかになる。
実は、本当はその小説は彼女が書いたものではなかったのである。
しかも、ミカの真実の心には、それを本当だと信じながら亡くなってしまった母への懺悔の気持ちにあふれていたのだ。
ミカは、クイズの回答を通して偽りの自分と決別し、本当の自分に向き合うようになる。
そして、最終的に彼女は、自分自身が小説を書くという夢をクイズに賭けるのであった。
       ★
現実のテレビ業界の、出演者たちの生ぬるいやりとりに辟易している視聴者。
最近の視聴率の低下にはそういった、バラエティ番組内における芸能人たちの馴れ合いが、視聴者に見透かされているという背景があると思われる。
たとえば、テレビの中では馬鹿にされてもいい人は決まっているし、ほめなければならないモノも決められている。そこには言論の自由とは程遠い、暗黙の了解が満ち溢れているのだ。
そして、おそらく、言いたい事を放言しまくるネットを横目で嫉妬しながら、硬直した現状に対して一番、ヤキモキしているの番組制作現場のスタッフであることは想像に難くない。
この『クイズショウ』は、そんな不自由なスタッフ達がドラマというフィクションの場で、自己実現するドラマなのである。
ドラマの中で、クイズショーのMCは、本気で回答者を挑発し、怒らせ、仮面をはがそうとするのだ。
それは、現実のテレビでは出来ないガチンコのやりとりである。
手足を縛られた不自由なテレビ業界が、「本当に俺たちがやりたいのはこういった番組だよ」というメッセージをこのドラマに込めていると言ったら深読みしすぎだろうか。
象徴的なのは、ZEROでは借りてきた猫のようにカチンカチンの桜井翔が、このドラマでは水を得た魚のような溌剌さを見せていることだ。
       ★
また、今回の第二話は、上記のようなテレビ製作現場の本音が漏れていると同時に、最大のライバルであるインターネットへの皮肉が込められている。
ケータイ小説をミカに成り済まして書いていたのはいわゆるIT長者っぽい社長だったのである。
そして、彼がミカの名前を使って書いていた代物は、人間に対する真摯な姿勢も、感動もなく、ただ、レイプとドラッグを刺激的に描いて、良識に対して反抗しているだけの俗物だったとのことである。
実際に書かれているケータイ小説のいわゆる世間的な評価もおそらくそんなところだろう。
この『クイズショウ』では、そうしたケータイ小説(のイメージ)を痛烈に批判する。
しかも、ミカという現実でも「恋空」の著者と同じ発音の名前を使ってのストレートな批判である。
これは逆に例えて言えば、”蓑さん”とでもいう名前のクイズ司会者のインチキを暴くようなケータイ小説が出される、そんな類い(タグイ)のストレートさである。
       ★
僕が『クイズショウ』を面白いと言ったのは、現状のテレビ製作現場への欲求不満と、IT業界への反感という本来ならば、見世物にすべきではない感情を見事ドラマとして昇華しているところが面白い、という意味である。
まさむね

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[27 4 月 2009 | No Comment | | ]

TBS日曜劇場『ぼくの妹』は、今村昌平の脚本助手を務め、『復讐するは我にあり』『楢山節考』の脚本をも手がけた社会派のベテラン脚本家・池端俊策によるやや重の力作である。
第2話が終わった段階だが、2回とも放送の最後5分にググッと動くという展開。この独自の溜め(タメ)は微妙に現代的ではないが、癖になりそうだ。
江上盟(オダギリジョー)は、子供のころから神童と呼ばれた秀才肌の外科医。その妹・江上颯(長澤まさみ)は、「奇跡的なバカ」と言われながらもたくましく生きる兄とは正反対のキャラクタだ。
幼い頃に両親を亡くした二人が、喧嘩をしながらも降りかかってくる苦難に立ち向かっていくという筋立てである。
主人公の盟にとって、世界は混沌に満ちている。自分以外の登場人物は全て謎を秘めた存在なのである。
第1話の最後に目の前で死んだ桐原里子(ともさかりえ)、第2話の最後に登場し、恨み言を残す九鬼研次(千原ジュニア)。
突然、自分の日常に忍び込んでくる「気持ちの悪い別世界」は、不安と隣り合わせの現代社会、いわゆるカフカ的とも言える不条理で不気味な肌触りを持っている。
今後、この気持ちの悪さが、いかに盟の中に忍び込んでくるのかがテーマになるであろう。
そして、本来ならば日常のコチラ側の世界にいるはずの妹・颯が、逆に、ますます盟の心をかき乱す。
しかし、それは一方的ではない。
真面目な兄が奔放な妹を心配するという、兄の思い描く理想的な安定した構図からハミ出し、兄自身の不手際によって、逆に妹を頼ったりする、その情けなさが兄妹ドラマの面白いところである。
確かに、両親を亡くした兄と妹の物語、兄が妹を面倒みようとするが、逆に妹が兄を癒し助けるという図式は、古くて新しい日本の物語の一つの典型である。
民俗学者・柳田國男は、『妹の力』(いものちから)の中で、妹(家の中の女性たち)の霊的な力について言述していたが、僕はそれを無理やり、兄を守る妹の不思議な力として解釈したいと常々思っていた。
映画『フーテンの寅』シリーズが代表だが、その陰画ともいえる北野武の『その男、凶暴につき』、青春版としての南こうせつの『妹』から、その究極としての悲惨な『火垂るの墓 』、ヤンキー版『ヤスコとケンジ』まで、脈々と「両親を失った二人だけの兄妹(あにいもうと)話」の系譜に上手く乗りそうな予感がする今回の『ぼくの妹』。
実は僕自身、双子の妹を持つだけに個人的にも気になる作品なのである。
まさむね

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[20 4 月 2009 | No Comment | | ]

先週あたりから、春の連ドラがスタートしはじめているようだ。
仕事を始めたので、どれもこれもあまり見れてはいない。
ただ、丁度、帰宅した頃に妻が見ているドラマを遠くから眺めるように見ることは出来た。でも、その「眺め見」はそれはそれで、楽しいものである。
例えば、火曜日の21:00~の『アタシんちの男子』だ。
主演は堀北真希で脇に、要潤、岡田義徳、向井理、山本裕典、瀬戸康史、岡山智樹といったイケメンを揃える。さらに、元祖イケメンの草刈正雄までも出演しているのだ。ちなみに、この草刈さんって凄い。現役バリバリの10代~20代のイケメン達に比べても全く遜色ない、ていうか造形的には勝ってさえいる。そのカッコよさは、まさに奇跡だ。30歳を過ぎるといきなり劣化してしまう人も多いが、おそらく彼は本物のイケメンなのだろう。
さて、話は、ホームレスになった堀北が、何故か大金持ちのナイスミドル(草刈さん)と結婚したら、その屋敷に養子が6人いる。そして、その大金持ちが亡くなったことによっていきなりその6人の母親になってしまうという設定なのだ。まぁ、そのリアリティの無い設定をとやかくいってもしかたがないが、注目は、その屋敷で巻き起こる怒鳴り合いシーンである。
屋敷内には何故か、霧(モヤ)がかかっているのだ。そういえば、霧がかかった場所でイケメンたちが怒鳴りあうというのは最近の定番だなと思い至る。「ROOKIES」の野球部部室、「ごくせん」での教室、みんな霧がかかっていたではないか。
実際は、それらの霧は、タバコの煙っていうことになっているのだが、おそらく、それらの霧は、少年たちの心のモヤモヤとした状態を表すのだろう。鬱陶しさの象徴としての霧なのだ。(あるいは、この霧は演技の未熟さをカヴァーするという役割もあるのかもしれい。)
どなたか、このドラマにおける霧の起源、歴史、変遷、霧度No1男優は誰か?等を調べてもらえないだろうかと思う今日この頃である。
ちなみに、このドラマで堀北真希は再び、お転婆キャラに転進したようだ。「篤姫」の和宮、「イノラブ」の佳音と、ここのところ、どちらかといえば、根暗系の役が多く、それはそれでこなした彼女の上手な転進成功かと思っていたのだが、再びの逆転進に微妙にとまどう僕でした。
さて、この『アタシんちの男子』と、演技におけるリアリティという意味で、対極に思えたのが、『アイシテル~海容~』である。
このドラマは、典型的「中の上階級」の子供がヨソの家の子供を殺してしまうという衝撃的な設定だ。しかし、ドラマの視線はあくまでもリアリズムに近い。加害者、被害者のそれぞれの家庭の様子をかなり丁寧に描いている印象を受けた。
特に、主役の稲盛いずみ(加害者の母役)が、子供の殺人を知って泣き崩れるシーンは出色。さすがに年季の入ったプロの役者は違うなと感心させるものがあった。
今後、山本太郎、佐野史郎、田中美佐子などのベテラン勢の熟達した演技とのカラミが楽しみ(見られるかどうかわからないけど)である。でも、今後、10話くらい続くんだろうけど、そこまで緊張感を持続して引っ張れるほどのストーリー的ネタはあるのか?そのあたりが若干心配なような気がしないでもない。
まぁ、というわけでこれからは、微妙に引いた視線からの印象でドラマを語っていこうと思う。ちょっと寂しいけどね。
まさむね

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[23 3 月 2009 | No Comment | | ]
青春ドラマとしての「ヴォイス」のユニークさ

フジテレビ月9ドラマ「ヴォイス」最終回を見た。
以前にも月9ドラマ「ヴォイス」における推理と青春の緊張関係というエントリーで指摘したことだが、この法医学ゼミを舞台にした青春ドラマは、通常の青春ドラマとは少し違う作りになっている。
通常の青春ドラマには一般的に2つのパターンがある。
一つは、主人公がいろいろな悩みをかかえ、内面的な問題がドラマに大きくかかわっているようなドラマだ。
例えば、昨年放映された「ラスト・フレンズ」。タケル(瑛太)、ルカ(上野樹里)、ミチル(長澤まさみ)達はそれぞれ内面的な問題をかかえており、その問題点が物語を動かす重要なポイントとなっていた。
しかし、今回の「ヴォイス」では主人公の加地大己(瑛太)には悩みとよばれうるようなものがない。というよりも、「内面」自体がないようなのだ。
他の登場人物が全て、それぞれの物語(法医学を学ぶようになった必然性)や過去を持っているのに対し、大己に関する過去や家族はほとんど話中には出てこなかった。
唯一、子供の頃に地下鉄事故に遭遇し、その現場で、若き日の佐川先生(時任三郎)と会話し、その時に、佐川先生に法医学者としての才能を見出されているというエピーソードが出てくるのである。
以前もそのシーンは出てきたのだが、最終回、大己は佐川先生からその事を伝えられる。
さらに、その時、逆に、大己の言葉によって佐川先生が法医学者へ進もうと決心したという事実も聞く。
しかし、その事を聞かされても、大己はほとんど何の感慨も持たない。
彼が、何故、佐川先生に半ば強引に法医学の道に誘われたのかという重要な事実の前にしても、彼は特に関心を示さないのである。
つまり、本質的に大己は変人なのだ。
大己は、目の前の些細な疑問には過剰に食いつくのであるが、そういった自分に関する大きなことに対して、あまり関心がないようなのである。
それが、このドラマをユニークにしている大きな点だとおもう。
先ほど、青春ドラマには2パターンあると記したが、もう一つが、主人公が至極普通な性格なのに、周りの人物に変人が多く、時として主人公が振り回されるというパターンである。
例を上げるとしたら、「鹿男あおによし」だろうか。主人公の小川先生(玉木宏)はごく平凡な高校教師であるが、様々な謎の登場人物や事件に巻き込まれてゆく。また、「のだめカンタービラ」における千秋真一(玉木宏)のポジションも似ているかもしれない。
(おそらく、玉木宏という役者はそういった立場がハマリ役なのかもしれない。)
しかし、この「ヴォイス」は大己自身が変人のため、この2つ目のポジションからも大きくはずれているように思える。
       ★
それでは、この「ヴォイス」を青春ドラマとして成立させている鍵は何なのだろうか。
これはあくまでも仮説ではあるが、おそらくこのドラマは、多くの視聴者が遠い過去に置いてきてしまった「卒業という思い出」とシンクロするように作られているのだ。
青春時代の思い出は、いつだって美化されるものだ。
だから、このドラマに出てくる人々はみんないい奴である。ズルい人も嫌な奴も出てこない。それは現実世界を描いているとするならば、リアリティが無いと批判されそうであるが、思い出ドラマならば、それでいいのである。
そして、多くの場合、何かをした思い出というよりも、何も出来なかった思い出なのである。
好きだった女の子とは上手くいかなかった思い出、しておけばよかった勉強をしなかった後悔、もてあますような時間を無為に過ごしてしまった時間、そういった無駄の記憶こそ、青春の記憶というものではないだろうか。
ドラマの最後の方でゼミの5人がゼミ終了記念の飲み会の後、花見をするために公園のようなところに行くが、まだ桜が咲いていなかったというシーンが出てきた。
こういったくだらなく小さな思い出の集積こそが、青春の思い出というものなのだ。
そういう意味で、大己と佳奈子(石原さとみ)、亮介(生田斗真)と夏井川先生(矢田亜希子)が曖昧な関係で終わったことに、思い出というもののリアリティを十分感じることが出来た。
もう一度、観たいかと言われればそうでもないが、観てよかったというドラマではあったと思う。
まさむね

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[15 3 月 2009 | No Comment | | ]
今日も生き続けている「銭ゲバのリアリティ」

「銭ゲバ」最終回は、ある意味、意外な展開だった。
自殺という結末だけは避けると思っていた(「銭ゲバ」最終回予想)のだが、全く裏をかかれたからだ。
以前も書いたのだが、僕は、昨今のテレビドラマの最低限の倫理観として「自殺の禁止」という線があると感じていたのだが、その線があっさりと越えられたという事が意外に感じられたのだ。
しかし、結果としては、それでよかったのではないかとも思う。
ドラマが日常社会の倫理(空気)にしばられて自由な表現が自主規制されるというのは、されでそれで問題だからだ。
言うまでもなく、ドラマはあくまでドラマ、フィクションである。
出来るだけ「創造=想像の可能性の枠」は広いほど良いに違いないからだ。
そして、その風太郎(松山ケンイチ)の自殺であるが、人生に絶望しての自死というよりも、今まで自分が殺してしまった人々に対する「私刑」の意味合いの強い死であったことも確かだ。
製作者側に、倫理的に純粋な自殺ではなく、贖罪としての死ならば、視聴者の許容範囲ではないか、という読みがあったのかもしれない。
さらに、一方で風太郎の「銭」のおかげで、荻野(宮川大輔)の妻の命は助かったし、定食屋・伊豆屋の面々は借金地獄から抜け出せたのだ。
彼等の最終回での安堵の表情は、このドラマの救いになっていたことは確かである。
さて、ここで最終回の流れを今一度、追ってみよう。
子供の頃、不幸のどん底で金持ちになって幸せになる事を誓った小屋で、ダイナマイト自殺をはかる風太郎の脳裏に「幸せになった」風太郎の物語が流れる。
それは、本当の幸せとは何かということを考えさせる情景だ。
人はあらゆる可能性を持って人生という道を歩く。
その人生の道は、実は、幸せの世界へも、不幸への世界にも繋がっているということなのだ。
しかし、風太郎は、結局、不幸の道を歩いてしまったということなのである。
そして、最後に死の直前で風太郎はつぶやく。
最後まで風太郎は風太郎として意地を張り続けたのだ。
 わかったよ。わかったって。
 俺はもう死ぬよ。
 それが望みだろう、お前らの。
 消えてやるさ。
 でもな、俺は間違っていたとは思わない。
 これっぽっちも思わない。
 確かに俺は人殺し、犯罪者だ。
 地獄に落ちてやるよ。
 ただな、俺は思うズラ。
 この腐った世界で、平気な顔してヘラヘラ生きてる奴の方が、よっぽど狂ってるズラ。
 いいか。
 この世界に生きている奴はみんな銭ゲバだ。
 お前らは気付かんで、いや、気付かんふりして、飼いならされた豚みたいに生きてるだけの話ズラ。
 そいでよきゃ、どうぞお幸せに。
 ただ、俺は死んでも、俺みたいな奴は次々生れてくるズラ。
 そこらじゅう、歩いてんだぜ。銭ゲバは。
 じゃあね。
そして、風太郎はダイナマイトもろとも吹っ飛ぶ。
近くで見守っていた緑(ミムラ)の足元に1円玉が転がり落ちる。
その1円玉は、第1話の冒頭で、走ってくるトラックの前で、風太郎が拾った1円玉だ。
(左絵は、その時風太郎が拾った1円玉)
銭ゲバの象徴としての1円玉である。
奇しくも、その1円玉の製造年は昭和四十五年。
(第1話で風太郎が拾った1円玉も同製造年だった)
この原作の「銭ゲバ」(ジョージ秋山)が少年サンデーに連載された年の1円玉なのである。
大阪万博が開催されたこの年、高度経済成長の絶頂期に生れた「銭ゲバのリアリティ」は、実はあれから約40年後の今日までも生き続けているということなのか。
「人類の進歩と調和」を謳いあげた万博の夢は、何だったのだろうか。ルポライターの鎌田慧が『自動車絶望工場-ある季節工の手記-』で表した70年代の労働者の最低な生活と現代の派遣労働者、何がどう進歩したのであろうか。
この1円玉の製造年はそのような現実を表しているように思われた。
まさむね
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[8 3 月 2009 | No Comment | | ]
「銭ゲバ」最終回予想。(自殺者数11年連続3万人越えという社会状況の中で)

先日(3月5日)、昨年の自殺者数が発表された。
それによると、11年連続で3万人を上回わる事が確実となっとという。
一般的に旧ソ連の東欧諸国において自殺率が高い事が知られているが、それらの国を除けば、日本は世界一になってしまう。
日本は、元々、宗教的、文化的な面で自殺に対してのハードルが低いという事もあるのかもしれないが、今から10年前の1998年にいきなり3万人台になってから、減る傾向がない。
1998年とは、大企業の破綻などが相次ぎ、社会問題になった年である。
普通の人々が普通に暮らしていても必ずしも幸せになれないという意識が芽生えていた頃である。
おそらく、それ以降、国に対する信頼、地域共同体に対する信頼、そして家族に対する信頼、そういったあらゆる信頼感が低下してしまっているというのが背景にあるのだろう。
この事態に対して、啓蒙活動や地域の見回り等で自殺数を減らすことは可能かもしれないが、課題は、どうやって国民全体の暮らし安心感を上げるかという事である。
それほどのお金が無くても、老後、安心して暮らせるような社会システムの構築が第一だ。
個人的には、精神的な最終的なセキュリティネットとしての尊厳死制度というのも視野に入れることは必要かもしれないと思うが、社会的なコンセンサスを得るには数十年単位の時間が必要かと思われる。
       ★
さて、話は「銭ゲバ」である。
以前のエントリー(2009年「銭ゲバ」は現代的価値観を提示出来るだろうか)でも書いたが、昨年から今年にかけて、多くのドラマ(「流星の絆」「篤姫」「イノセントラブ」「ヴォイス初回」等)で、自殺を阻止するというテーマが頻繁に見られていた。
その流れを踏まえると、「銭ゲバ」の最終回、風太郎がダイナマイトを体に巻いたまま、爆発自殺で終わるという終わり方はまずあり得ないのではないだろうか。
前々回の放送回で、風太郎の妻・茜が首吊り自殺をしてしまい、それだけでも、最近のドラマにしては例外的だと思われるからだ。
逆に言えば、ここ数年来、徐々にではあるがドラマの展開が知らず知らずのうちに、不自由になりつつあるのかもしれない。
様々な制約(暗黙の了解)の中で、ハッピーエンドしか許されない時代というのも、それはそれで問題だと思う。
さて、最終回の展開だが、具体的にはどうなるのであろうか。
有り得るとしたら、例えばこんな展開だ。
導火線で火が近づく間に、母からの「死ぬな」という天の声が風太郎の頭をかすめる。>風太郎が大声を上げる。>緑が近づく>緑を助けようとする>自分だけ爆死 というパターンか...
自己犠牲による死というパターンは「ヴォイス」(瑛太主演)においても何度か見られる。そこまではあり得ない展開ではないと思う。
あるいは、母からの「死ぬな」という天の声が風太郎の頭をかすめる。>風太郎、自殺を止める>一方で、父親、あるいは家政婦がタレコミ>その場に警察登場>風太郎逮捕 というパターンも考えられる。
いずれにしても、風太郎は自分の犯した殺人という罪を、自殺以外の方法で報いる展開でしか、この物語を収束させる方向はありえないのではないだろうか。
例えば、爆発するが意識を失っただけで死なず、全く別の人間として人生を始めるというような事で済むとは思えないのである。
しかし、残されたのは、伊豆屋問題だ。
「実は、風太郎は2000万円を彼等の元に置いておいた」というパターンになるのだろうか。
「自殺を取り止めた後、改心して2000万円を与える」というパターンになるのだろうか。
いずれにしても、風太郎が伊豆屋を助けるというのにはかわりないような気がする。
あるいは、爆死した風太郎の換わりに放蕩息子・真一が三國造船の社長となって借金問題解決というのは...これはちょっと、あり得ないか。
ご存知通り、「銭ゲバ」の脚本は、岡田恵和である。
個人的な感想として「ちゅらさん」の印象が強いため、どうしても「銭ゲバ」という素材と岡田恵和という組み合わせには違和感があった、と同時に興味があってここまで見続けてしまった。
「明」の脚本家が「暗」の素材をどのように料理するのかという興味だ。
ちなみに、自分としては、ドラマが始まる頃、そんな「銭ゲバ」との対比して「暗」の脚本家(野島伸司)が、上流階級のスワッピングという、どちらかと言えば「明」のテーマを扱う「ラブシャッフル」を見たら面白いのでは?と思っていたのであるが、こちらの方は残念ながら早々と挫折してしまった。
      ◆
僕は毎回ドラマの最終回を推理するのだが、残念ながら、一度として完璧に当たったことがない。
見終わってみると、そんな展開はズルい思うことがしばしばある。
ズルい展開というのは、伏線だと見せかけていたセリフ、場面がそのまま放置されて、全く新しい事実が出てくるよな展開のことだ。
テレビドラマが最近つまらなくなったと嘆く声が多いが、先ほど述べた少し触れたように、様々な制約によって、ストーリー展開の選択肢がかなり狭められているという事もあるのかもしれない。
しかし、テレビドラマのようなダラダラ見ればいいものを過剰に真剣に見るという見方もアリなのではないだろうかと思う。
だから、今回も最終回を予想してみた。
自信はないのであるが。
まさむね