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Articles in the スポーツ Category

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[18 2 月 2010 | No Comment | | ]

スノボーの国母選手は結局、8位に終わったらしい。
僕はどうも、オリンピックとかに興味が無いので、全く見ていないのだが、彼の服装が乱れていた映像はなんかのニュースで見た。
さすがに、僕らがオリンピック選手に抱くイメージとは全く違った。
出来れば、見たくない姿である。
おそらく、僕らの年代にとって、オリンピックというのは輝きの象徴のような儀式である。
あのメキシコオリンピックの時の開会式の様子は今でも覚えているが、子供心にかっこよかった。
関係ないが、確か、あのオリンピックで陸上競技の表彰台で、差別に反対して黒い手袋を突き上げた黒人選手がいたけど、鮮烈な印象として残っている。
こういう世界中が注目する舞台での一挙手一投足は、すごいインパクトがあるよね。
だから、そんなかつての輝かしさを過去に押しやるようなパフォーマンスは生理的に嫌だな。
おそらく、理屈を話したら、残念ながら国母選手に利がある。結局、礼儀の問題など最終的には個人の問題になるからだ。
こういう問題は、いいといえばいいし、悪いといえば、悪い。例えば、お客さんへの営業にランニングシャツにネクタイ姿で行っても最終的にいいと言えばいいというのと同じだ。ようするに、損か得かの話になってしまうのだ。
だから、議論すること自体が間違っている。
税金を使ってるのだからダメだとか、もともとスノボ文化はそういうものだとか、注意をしない大人が悪いだとか、スノボをオリンピックに採用するのがいけないとか、オリンピック自体が欺瞞だとか、すべての議論から耳をそらしたい気分である。
連日、身振り手振りでいろんな競技の興奮を伝えてくれる妻には申し訳ないが、正直なところ、オリンピックは、早く終わって欲しい。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
という在原業平の和歌があるが、そんな気分である。僕はどうしても素直になれない。
まさむね

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[16 9 月 2009 | No Comment | | ]

昨日、「ビートルズを利用して己の思想を語る輩、困ったものだ」というエントリーを書いておきながら、僕は今日はイチローの言葉を借りて、それをきっかけに、考えたこと書こうと思っている。はたして、この不誠実さを神は許してくれるだろうか。
さて、そのイチローだが、先日(13日)、メジャー初となる9年連続200安打という偉業を達成した。
そして、彼は試合後のインタビューでこう語った。
--キーラーはどうしてヒットをそんなに打てるんだって聞かれたら「人のいないところに打て」と言った。同じことを聞かれたら何と答えるか
「そうだな~。手を出すのは最後だよってことかな。これは僕のバッティングを象徴しているもの。やっぱ手を出すのが早い人は駄目ですよ、何やるにもっていうとこだと思いますけどね。その手を出さないためにどうするかをむしろ考えているのが僕。でも、どうやって早く手を出そうかって考えてるのが、割とふつうというか。真逆なんですよね考え方が。だから、手を出さないからヒットが出るということじゃないでしょうか」。
今の時代、”とりあえず何にでも手を出してみる”というのが一つの価値になっているのではないかと思っていた僕にとって、その言葉は若干衝撃だった。
例えば、昨年ブームとなった”お馬鹿”芸人たち。彼らは、わからなくてもとりあえず、ボタンを押して、合っているかどうかは別にしてとにかく、脊髄反射的にクイズに答える。
それまでは、日本人的な慎みとか恥とかいう概念によって、制御されてきた行動規範が壊されたところからくる屈託の無さがウケたのである。確かに彼らの清々しさは、新鮮だったし、面白かった。
また、今はインターネットの時代、クリエイティブは容易に修正できる時代になっている。
おそらく、クリエイターがじっくりと作品をつくり、世に出して、その作品が長い時間をかけて審判を受ける時代から、世に出してからも、随時修正・変更を求められ、その修正・変更の手際こそがクリエイターの価値となる時代になりつつあると言い換えてもいいだろう。
この時代、一つのことに時間をかけて、自分の作品に人生を賭ける責任感よりも、方向をすぐにでも修正できる柔軟性に、時代の価値が移っているように思える。
そして、そんな価値観の変化が”とりあえず何にでも手を出してみる”という作法を後押ししているのではないだろうか。
勿論、僕もそういった時代の作法を肯定する気分の中にいるのも確かだし、個人的にも積極的にそういった作法を身につけようとしてきたことも事実だ。
しかし、今回のイチローというスーパースターの「やっぱ手を出すのが早い人は駄目ですよ、何やるにもっていうとこだと思いますけどね。」という言葉に、フッと足を止めてみたほうがいいのかなぁとまた揺れる僕であった。
まさむね
関連エントリー
WBC優勝おめでとう!!
王貞治 残酷な現実との戦い

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[23 8 月 2009 | No Comment | | ]

夏の甲子園退会、花巻東高校が準決勝で敗れた。
エースの菊池君が前の試合の途中で背中に痛みを感じて降板。
この日は、既に劣勢が決してからの当番で緊張感が無くなっていたのか、悲しい結果に終わってしまった。
彼にはもう「甲子園」は終わってしまったが、野球人としての洋々とした未来が待っている。
今回の屈辱を胸に、次のステップで大いに活躍して欲しい。
さて、今回このエントリーで触れたいのは、菊池君を擁した花巻東高校の選手達の名前(名字)のことだ。
僕にとって甲子園大会の、野球とは全く別の楽しみ方は、出場高校(地方)と出場選手の名前によって、その地域の特色を見分けるといういささかマニアックな趣味である。
ご存知の通り、花巻は岩手県の県南部の中心都市。宮沢賢治の生誕地としても有名である。そして、今回の花巻東高校のスタメンの名前を見てみると岩手県に多い名字が並んでいるのである。
「名字の謎がわかる本」の巻末の都道府県別名字ランキングによると、センターの佐藤君(佐藤姓)は1位、レフトの佐々木君(佐々木姓)は2位、キャッチャーの千葉君(千葉姓)は4位、そして、エースの菊池君(菊池姓)は5位という具合だ。
また、名字ランキングにはないが、セカンドの柏葉君は岩手県に多い柏紋との関係性を想像させる名字である。
おそらく花巻東高校は県内を中心に選手を集めているのではないだろうか。
いつか、岩手勢が全国制覇をする日が来るかもしれない。
ちなみに、花巻東高校のほか、都城商業高校(宮崎県代表)の米良君、西条高校(愛媛県代表)の越智君等、いつもながら、今大会もご当地名字が散見されてそれはそれで楽しかった。
甲子園大会が終わるともう秋だ。
全国から甲子園に集まった若い魂はまた地域に帰っていく。
それは、どこか、お盆にやって来ては、また山へ帰っていくご先祖の霊達をも連想させる。僕だけかもしれないけど...
ただ、日本人にとって、伝統行事と季節と、宗教的観念は切っても切り離せない。そう思うのは僕だけではないと思う...
まさむね

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[25 3 月 2009 | No Comment | | ]

WBCでの日本優勝は嬉しかった。
特に決勝で、5度目の韓国と戦い、決着をつけたというのは意義深い。
彼等の旗立てパフォーマンスはもう見たくなかったからだ。
       ★
しかし、韓国は、日本に比べて野球の歴史が浅く、野球人口との比較でも圧倒的に日本に劣るのに、この強さは凄い。
結局は、細かいところで日本の技術とチームワークが日本の勝因のように思えたが、一方、韓国選手のバットスィングの迫力は脅威だ。
また、その粘り強さや、思いっきりのよさといった精神的な面でも日本以上だったかもしれない。
それぞれが、それぞれの文化に根ざした野球をぶつけ合う勝負は面白い。
今後も、それぞれの特徴を生かした名勝負を繰り広げてもらいたいと思う。
       ★
ただし、WBC大会、全体を通してみると不満な点も多かった。
第一、野球王国、(いや、ベースボール王国)のアメリカの本気度が低いような気がするのが一番の問題点だ。
アメリカが準決勝で負けたことに関しても、おそらくそれほど悔しい思いをしていないのではないか。
「日本が優勝したんだ。でも一番はアメリカだからね」的な本音が見え隠れしているような気がする。
例えるならば、大相撲でここ最近、日本人力士の幕の内優勝者が出ていないが、それでも相撲は日本のものという絶対的価値観は全く揺るがないのと同じような感覚ではないのか。
僕も大相撲では平気で把瑠都、朝青龍、琴欧洲、阿覧、栃ノ心、黒海、鶴竜などの外国人力士を応援している。
日本で相撲をしていてくれていることに感謝すらしている。
そんな、感覚と同じように、アメリカ人は今回の日本優勝を愛でていてくれているのだと思う。
おそらく、この本家意識=絶対的格上意識は当分拭い去れないのだろう。
最終的に、岩隈ではなく、松坂がMVPを取ったのは、松坂が大リーガーだったから?なんて邪推もしたくなってしまった。
       ★
また、今回のWBCでの不満は、ベネズエラやメキシコ、プエルトリコといった未知のラテン系のチームとの対戦が無かったことだ。
彼等の、アメリカや韓国とはまた違った野球文化と日本野球とのスパークが見たかった。
まぁ、いずれにしても、これで2連覇だ。
帰国した選手達がさらに、日本のプロ野球で超人的な活躍をしてほしいと思う。
まさむね

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[3 12 月 2008 | No Comment | | ]
吉田えり出現の前には、西武優勝なんて小事だ

来年の4月に開幕する関西独立リーグで女性初のプロ野球選手が誕生する。
その名は吉田えり。まだ16歳だ。
これは、プロ野球にとって久々のビックニュースである。
極論かもしれないが、今年、巨人が奇跡のセ・リーグ制覇したこと、西武が日本シリーズに優勝したこと等は、彼女のデビューの前では全く小さいことだ。
西武が優勝したとしても、西武ファンとバーゲン目当てのオバサンが喜ぶに過ぎないことだが、彼女の出現はプロ野球全体を変える可能性すら秘めているのだ。
90年代のプロレスの衰退を目の当りにした僕は、あるエンターテイメントジャンルがいつの間にか、人々の目に触れなくなり、関心がないものとされ、マニアの慰み物になっていく過程には人一倍敏感にならざるを得ない。
それを防ぐには、まず世間に届く事件、あるいはスターの存在が絶対不可欠なのである。
そういう意味で、大相撲界における朝青龍という存在、プロゴルフ界における石川遼という存在、そして今後、格闘技界における石井慧という存在は、各業界にとって至宝なのだ。
ここしばらく、そういったスーパースター的魅力に満ち溢れた人材に事欠いていたプロ野球界にとって、吉田えりの存在は久々に大ヒットの可能性を秘めているに違いない。
勿論、彼女の実力はまだ未知数だし、このまま何の実績も残せないまま、「あの人は今」要員になってしまうかもしれない。
だが、彼女が切り開こうとしている新大陸は無限に広いのだと言っておきたい。
第一、彼女は見栄えからしてキュートだ。
しかも、16歳でこの世界に入ろうという思いっ切りのよさがある。今、多くの野球選手が大卒になってしまったこの時代、自分の人生をこのタイミングで決めてしまうその決断力は並大抵のものではない。
そして、何よりも彼女の武器がナックルというのがいい。
彼女は己の肉体の限界を知り、そして最も効率よく、自分の力が通用する方法を探し当てたのに違いない。
この聡明さには脱帽だ。
誰も考えなかった事をやるという、まさしくパイオニアとしての感性があるのだ。
どんなスポーツジャンルも、その競技を変えてしまう位の新しい個性が出てこそ、進歩というものがある。
かつて、瀬古利彦は、ラスト100mのピッチ走法で、マラソンという競技を変えた。
千代の富士は、筋肉とスピードで大相撲を変えた。
そして、この吉田えりは、ルックスとナックルでプロ野球というジャンルを変えることが出来るか。いや出来るに違いない。
その位、彼女の出現は大きなことだと思う。
まさむね

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[25 9 月 2008 | Comments Off | | ]

だいぶ、昔の話。僕が小学生の頃だったと思う。
スタジオで王さんと長島さんが大勢の子供達からの質問を受けるというテレビ番組があった。
司会が子供達に質問する。
「長島さんが好きな人、手を上げて下さい。」
子供達「はーい」
複数の子供が手を上げる。
司会が一人の子供を指名して「どうして長島さんが好きなんですか?」
ある子供「王さんは台湾人だから嫌いです。」
子供達は笑った。王さんは、無表情だった。
この残酷なシーンは何故か僕の心の中に残っている。
そして時が流れる。
先日、8年連続200安打という記録を達成したイチローに、王さんは祝福の電話をかけて、その偉業を祝福したという。その時の会話に関してイチローが以下のように述べている。
「アメリカという国は差別的、という言葉を王監督は使われなかったですけど、そういうニュアンス――まあ、白人至上主義というか、そういうのが残っていて、要は『その中で、日本人が誰もやったことのないことを打ち立てることというのは、想像以上に難しいことだ』って言ってもらったんですよ。そのとき、僕は本当に泣
きそうになって、『この人、すげえ』と思って感動してね。
普通、そこまでは想像できないんじゃないですか。テレビとか、メディアからの情報だけでは。本当に(メジャーの)中でやらないと、そういうことって分からない。すごいですよ。やっぱ、この人のためにやりたいって思うよね。まあ、宝物ですね。王監督と同じ空間で、時間を過ごさせてもらったことは」(スポーツナビ 大本
大志より)
イチローのこの言葉の後で、王さんの事を今再び、心の中で思い出してみる。
なんとも言えないジワーとした感情が沸きあがってくる。
まさむね

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[25 9 月 2008 | Comments Off | | ]

その会見で、今シーズンのソフトバンクの不調を分析して王監督らしい発言があった。
「まぁ、今考えますと、”監督生命を賭けて”という形といいますか、昨年のシーズン終了後に、選手達に向かって、そういう発言をしたことがかえって選手達に変なプレッシャーを与えてしまったんではないかと。
ウチの選手は大変素晴らしい選手が多いですから、普通に闘っていけば絶対に、優勝は勿論の事、クライマックスシリーズには当然出れる戦いが出来る戦力でありました。..(中略)..これが私の、監督14年間の中で一番の反省点と考えております。」
王監督はここで、”監督生命を賭けて”というような過重な”思想”が敗因だったと語っている。
逆に言えば、ここで王監督は、「優秀な選手達が、”普通に”戦うという事が最も勝利に近い」という定石を普通に維持していくことの難しさを語っているのだ。
人は苦しくなると思わず思想や美学や宗教等の言葉に身をゆだねてしまいがちになる。
しかし、それは、逆に勝利への道を遠ざけてしまうのだ、時として無用のプレッシャーにしかならないのだ。
さらに、記者からの、辞任の決意はいつだったのかとの質問に答えて、淡々と述べる。
「いつというよりも、この9月に入ってからの不思議な戦いの連続ですよね。
まぁここで6対2で勝ってて、抑えのエースの馬原投手を出して、橋本君にホームランを打たれて同点になって最終的には負けたとかですね。まぁ考えられないような戦いが再三出てきてしまいまして...」
あっさりと部下の名前を出して、説明する王監督。
その冷静で普通の言葉は、あの星野監督が北京五輪の後で披露した、(ワシは個人攻撃などしない。あくまで選手を守るぞ的な)己の美学、(一度や二度失敗してもワシはその選手を使い続けるぞ的な)野球論、(挑戦こそワシの人生だ的な)精神論の暑苦しさとは対極にある。
その言葉には、スッキリとした説得力があった。
王監督の辞任をもって、ニッポンの古き良き、職人気質の伝統の一つが、静かに幕を下ろした。
まさむね

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[19 9 月 2008 | Comments Off | | ]

チベット問題や、国内の人権問題等が事前から報道されていたせいもあって、北京五輪は、もろ手を上げて楽しめるという状況ではなかったにもかかわらず、大会が始まってしまうと、日本選手の活躍のに心を奪われてしまった。
でも、僕の心の中では、北京五輪そのものに対する嫌悪と日本人選手の活躍に引き裂かれた座り心地の悪さを常に感じていたんだよね。
でも、一方で、開会式で、花火がCGだったって事や、独唱した少女が口パクだった事、少数民族の衣装を着ていた子供達のほとんどが漢民族だった事をテレビは偽装五輪の象徴と言わんばかりの報道をしていたけど、そんなに過剰につっこむところか?とも感じた。
実際、シドニーやトリノでもオーケストラとかが手パクだったって事は明らかになっているけど、その時は、五輪自体が偽装だという事にはならなかったでしょ。
それにしても、テレビの報道はひどかった。
選手の活躍を、各局、例外無く、ほとんどが、家族間の人情話にからめてたよね。
姉妹関係(伊調、谷本)、家族関係(上野、太田)、息子との関係(内柴)、夫婦関係(朝原)、父親との関係(石井、浜口)…
でも情けない事に、僕自身もその一つ一つに感動してしまった。冒頭の件とは別の意味で、座り心地の悪さを感じさせられ続けたよね。
一方で、今回の五輪で圧倒的に強かった北島康介、吉田沙保里、上野由岐子の3人に関しては、本人との戦いがメインテーマだったような気がする。
アスリートとしての圧倒的な凄みは、陳腐な人情話を寄せ付けないという事なのだろうか。
まさむね

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[1 9 月 2008 | Comments Off | | ]

今回の五輪の柔道は、前回に比べるとメダルが取れなかった。
その理由として、国際化した柔道が、一本を取る柔道から、ポイントを稼ぐJUDOに変ったからという説明がなされていた。
今後、日本柔道界は、心中覚悟で美学を貫くのか、時代の流れに対応して勝利を目指すのか。興味深いところだ。
さて、今回の五輪で最も印象的だったのが、66kg級で金メダルを奪取した内柴選手が決勝戦で、縦四方固めでフランスのダルベレ選手を破った瞬間だ。
彼は、喜びを表現する前に、相手の怪我を気遣い、そして相手の心情を忖度して、畳上ではガッツポーズをしなかった。
テレビの報道では、畳から降りた後のガッツポーズと、その後の「ひかる ひかる」という息子への叫びが何度も流されたが、僕的には、この畳上での立ち振る舞いの方が印象に残っている。
これは、まさに、「惻隠の情」という武士道精神が、国際舞台で表現された瞬間だったのではないか。
新渡戸稲造は「武士道」の中で「惻隠の情」というものを最高の美徳としているが、惻隠の情とは、簡単に言えば敗者への思いやりのことだ。
大相撲でも勝った後に土俵上では喜びを表さないが、それも同じ思想から来ている。
恐らく、起源は、敗者からの怨念を受けないための所作なのであろう。
日本人の心の中に潜む宗教観がこんなところにも現れているのだ。
まさむね

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[31 8 月 2008 | Comments Off | | ]

北京五輪の野球の結果は誠に残念だった。
敗因はいろんな解説者が出し尽くした感があるので、ここで素人の僕が付け加えることは特に無い。
ただ、気になったのは星野監督の、己のドラマに対するこだわりだ。
決勝戦、3位決定戦での采配ミスに関して、彼は、テレビインタビュー(ZERO 8.25)でこう述べている。
質問「選手起用ついてお伺いしたいんですが、調子が良くない、あるいはミスした選手、実名を挙げますとGG佐藤選手ですとかピッチャーで言うと岩瀬投手、準決勝であまりよくないパフォーマンスの中で3位決定戦でも使い続けました...」
星野「はい、言われますね。これが私のやり方なんです。挽回させてやろう。もう一回チャンスを与えてやろうという。一度や二度、失敗したからと言って、という...(後略)」
このやりとりを聞くにつけ、星野監督は、勝負にこだわる以上に「部下思いのいい上司でありたい」という自分と、期待を意気に感じて大活躍する選手との感動的なドラマに、取り付かれれて生きるタイプの人間と思わざるを得ない。
その直後、キャスター氏は当然のごとく以下の質問を続ける。
質問「それは、僕は長期決戦だったらわかる気もするんです。ただ短期決戦の場合には、そうも言ってられないじゃないかなと私なんかは思ってしまうんですが。」
星野「そうなんですけれども、代わる選手がいないんですよ。正直言って。体調面を考えるとか、台所事情が。その苦しさはありましたね。え~。」
だったら、最初から正直に、現実を言えばいいではないか。しかし彼は、上記の判断を己の美学として語ろうとするのだ。
しかし、五輪という場は残酷だった。
戦いの最中には、星野的ドラマが入り込む余地は無かった。
そこに必要なのは、勝利を得るためのリアリズムのみであった。
そして、ドラマは勝った者のみが許される特権である。
例えば、フェンシングの太田選手や体操の内村選手、柔道の石井選手を見るまでも無く、彼らは勝利したがゆえに、ドラマを手に入れることが出来た。そして、マラソンの土佐選手や柔道の鈴木選手はドラマを作ってもらえなかった。
一方、星野監督は上記のように、ドラマを己で演出するようなタイプの人間である。すなわち、ドラマ体質の人なのだ。
勿論、それはプロとしても稀有な才能だ。だから彼は成績は超一流ではなかったが、男・星野の反骨精神というドラマを武器に、全日本の監督にまでのし上がることが出来たのだ。
しかし、彼は五輪の監督しては、あまりにもファンタジックではなかったのか。
あの準決勝と3位決定戦の惨敗を目の前にして、かつて、プロレスラー達がリアルファイトのリングでボコボコにやられ続けた。あの風景を思い出してしまった。
まさむね