韓国への謝罪が正式に閣議決定されたようだ。
賠償問題はすでに日韓基本条約で完全に終わっているので、いまさら賠償という話はまさかないだろう。
僕自身は、今後数十年のスパンで見れば、日本からアメリカ軍は出て行くかざるをえない、そして、日本は自主防衛せざるをえないのではないかと思っている。そして、その時の下地作りとして日韓、あるいは日中の関係を緊密な信頼関係にしておくことが重要であると考えている。
その意味で、韓国への謝罪は、個人的な感情は別にして何度でもすべきであるという立場だ。もちろん、従軍慰安婦のような虚構に対しては謝罪する必要はないが、日本が戦前に朝鮮半島の文化をないがしろにしたことは事実なのだ。
よく、その時代には日本からの出資の方が多かったという論理で、日韓併合を正当化しようとする意見も見られるが、これは、経済の問題なのではなく、尊厳の問題なのだと僕は解釈している。
さらに言えば、日本という国は決して傲慢になるといいことがない。第一次世界大戦の後、バブル時期なんかがそうだ。
日本の美徳は謙譲ではなかったのか。
しかし、一方で、全閣僚が8月15日の靖国神社参拝を見合わせたという。これはどういうことだ。確か、原口総務大臣などは今まで毎年、参拝していたのではなかったか。「閣僚になったから行きません」では、今までのはただのポーズだと思われても仕方がないだろう。
実は、僕が靖国神社に参拝すべきというのは、靖国神社という神社が「無念にも勝つことが出来なかった兵士達を顕彰する場所」だからである。そして、それは無念にもA級戦犯として死刑になった人々にも言える話だ。
日本人は古来、そういった悔恨を残して死んでいった人々の怨念を奉ることで護霊(御霊)にかえることによって、現世に幸せをもたらしてもらおうとする宗教観をもっていたのだ。平将門や菅原道真が神田明神や天神になっていまだに信仰を集めているのはそのためである。
また、古事記において、勝負に負けたタケミナカタノミコトの諏訪大社の方が、勝ったタケミカヅチノミコトを奉る鹿島神宮よりも栄えているというのは、日本人のそういったユニークな宗教心の表れだと僕は考えている。
だって、普通の国では、勝者がなるべき武神に、敗者がなっているのだから、日本は。(←倒置法)
そういったユニークな宗教心を持つ日本だからこそ、その宗教心が生き続けている靖国神社に敬意を表するというのは国として絶対すべきだと思うのだ。
それゆえ、今回の韓国への謝罪は、同時に靖国に参拝してこそ、意味が出るのだと思う。日本人の今後100年に向けての謙虚な姿勢と古来からの宗教心を同時に他国に理解してもらうチャンスをみすみす逃す民主党政権は本当にセンスが無い。
まさむね
先日、よしむねさんの「夏の家紋主義者」というエントリーの僕のコメントに対するお返しコメントに以下のような表現があり、僕は少し気になった。
人間は本来異質なもの(分かり合えるようで分かり合えず、分かり合えないようで分かりあったりする、違和なものたちの)同士のはずです。ここに来て、ぼくらはもう一度その断層的なもの、食い違いみたいなものに目を向けて、そこから始めていくことが必要な気がします。
実は、僕は大学生の頃、つまり1980年代の前半、社会学のゼミにいたのだが、その時に教授が「最近の若者は人と人とをもともと異質なものとして捉えるようになった」というようなことを話されていたのを思い出したのだ。
その教授は、マルクス社会学に影響を受けるとともに、柳田國男や有賀喜左衛門の農村社会学の直系ともいえる研究をされていた方で、当時の僕は、おそらく、教授の言うことの十分の一も理解できていなかったのではないかと思う。
それでも、先ほどの一節もそうだが、いくつかの印象深い言葉が、今だに僕の中に残っていて、頭をもたげてくる。
さて、その「最近の若者は人と人とをもともと異質なものとして捉えるようになった」という一節だが、逆に言えば、おそらく70年代までは、「でも結局、みんな同じだよな」というオチが、80年代になって通用しなくなってきたということではないのだろうか。今、振り返ってみるとそんな感じがする。
そして、その頃にマジョリティとなった人間は本来異質だという「当たり前」は、おそらく現代までずっと力を持ち続けているのだ。これは消費社会、ポストモダンなど、いろんな言い方で説明できることなのだろうが、これは今後も当分、続きそうだ。
しかし、一人一人の意識が変ってきたが、日本人は、その社会をなかなか変えられなかった。最近でこそ、年功序列や終身雇用の弊害がマジに言われ、成果主義などが言われてきているが、僕らはその成果主義にも完全に移行できていない。
どこかで「結局、みんな同じだよな」を引きずっているし、これからもしばらく引きずり続けるのであろう。
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僕は最近、日本は本気でダウンサイズのプロセスを考えるべきだと思うようになってきた。
少しの収入で、それぞれが小さな幸せを大事に、ボチボチ生きていく社会、世界中から忘れられてもいい、オリジナルな感性を大事に、ゆるやかな鎖国時代に入る。もちろん、生活水準は落ちるだろう。活気もなくなるかもしれない。そして年をとれば、自然に死んでゆく...
しかし、それでいいではないか。という気分が僕のなかのどこかにあるような気がする。
逆にいえば、競争も、移民受け入れも、社会構造改革もNGであれば、そうなるしかないであろう。
そういえば、鎌倉時代、藤原定家という貴族はこんな歌を詠んでいる。
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
(見渡してみると、花も咲いていないし、紅葉だってない、そこにはただ、漁民のオンボロ小屋がある。そんな秋の夕暮れだ)
藤原北家の出で、最終官位は正二位権中納言。つまり、トップクラスの人が、こんなわびしい歌を詠んでいるのだ。
おそらく、日本人はこうした貧しさ、わびしさを一つの芸術的であると解釈するような感性をずっと持って生きてきた。
世阿弥、利休、芭蕉等の感性もその延長上にあるのは言うまでもない。
こうした歴史を持つこの国だからこそ、独自の道を進む可能性を持っていると僕は思う。
まさむね
モーニング娘。の亀井絵里、ジュンジュン、リンリンの3人の卒業が発表された。
つんく♂からの大事なお知らせによると、亀井ちゃんはずっとアトピー性皮膚炎に悩んでいたという。そういったものと闘いながら長い間、アイドルを続けてきたのかと思うと、頭が下がる思いだ。
また、ジュンジュン、リンリンは、上海万博が一つの区切りとなったということか。これから中国での歌手活動の準備をするということだが、親日的なアイドル(あるいはタレント)として活躍が期待されるところである。
一方、最近、元モーニング娘。の活躍といえば、エイベックスに移籍した後藤真希だろうか。弟さんの逮捕事件や、お母さんの突然の不幸など、最近は薄幸タレントの印象も強いところだが、僕としてはなんとかその「薄幸」を一つの武器にするぐらいのしたたかさをもって頑張ってほしい。
人間誰でもピンチなときはあるが、その時をいかに自分の中でチャンスに換えられるか、特に芸能人という特殊な世界だからこそ、その「不幸の武器化」こそが次の飛躍のステップとなるはずなのだ。
もちろん、言うは簡単、行うは困難、しかも、自分の意図と結果は必ずしも一致しないのがこの世界の常でもある。
ところで、最近、気づいたのだが、先々月に発売した彼女の移籍初のソロアルバム「ONE」のジャケットが通常ジャケットとは別に、ドンキ・ホーテ特別販売用ジャケットというのがあったのだ。
それを見ると、ドンキの顧客を意識してか、どちらかといえばヤンキー仕様、さらに言えば、悪女仕様、あるいはS系仕様なのである。その良し悪し(好き嫌い)は別にして、今後、客層が完全に分化された商品の販売経路においては、同じ商品が全く異質な意匠をまとって発売されるということもアリなのかもしれないということか。
でも正直、ちょっと驚いた。だって後藤の頭から角まで生えているんだもの...
まさむね
歴史読本9月号、高澤等先生の「家紋拾遺譚」を読ませていただいた。
この論文で高澤先生は次のように書かれている。
本来、西郷氏は菊池氏の一族として「違い鷹の羽」を用いることが多い。一方、西郷隆盛の家紋は「抱き菊の葉に菊」を用いており、隆盛が用いたことから別名を「南州菊」とも呼ばれている。家伝ではこの家紋は明治天皇より下賜されたもので、本来は菊花紋のない「菊の葉」を用いてきたと云われるが、実際に隆盛が「抱き菊の葉に菊」を用いていたことを示す資料を筆者は見たことがない。
僕はハッとした。確かに西郷隆盛が「抱き菊の葉に菊」をつけていたという資料は僕もみたことがない。ただ、現在、目に出来る家紋関係の書籍の多くには、天皇から西郷に菊花紋が下賜されたという伝については、記されているのだ。
手元にある本をいくつかめくってみると、例えば、丹羽基ニ先生の「家紋逸話事典」ではこのように書かれている。
明治のはじめ、天皇は西郷隆盛に菊紋を下賜したとの伝がある。私は鹿児島まで行き、さらに関係の方々にお伺いして真相を調べたが、記録としてはない。ただ、伝としてはある。
西郷家は、肥後の菊池氏流を称し、三つ葉菊を使用している。陛下は、とくに西郷を召され、
「汝によい紋を与えよう」
と申されて、新しい紋を考案され贈られたという。
(中略)
隆盛は恐懼(きょうく)して退下というが、家人を集め、そのいわくを話し、「この紋は、おいが戴いたのだからおい一代のものでごわす。汝らは使用してはならぬぞ」と、よくよくいましめた、という。
隆盛の言い回しまでもが、記述されているのは丹羽先生独特の愛嬌だろう。ある意味、微笑ましい。
また、楠戸義昭氏の「日本人の心がみえる家紋」にも同様にこうある。
しかし、この明治維新、十六カ弁の菊紋を臣下でもらった男がいた。西郷隆盛である。西南戦争で逆賊とされても、明治天皇の隆盛への信頼の情はあつく、その遺児にも心を痛めている。ところで隆盛はあまりに恐れ多いとしてこの下賜紋を終生使わなかった。
さらに、「家紋散策」の一文も引用しておこう。これはおそらく、先に引用した丹羽基ニ先生の書物を参照したものと思われる。
ところで、明治維新の功臣である西郷隆盛も菊花紋を賜った。それは明治天皇自らが考案されたもので、「抱き菊の葉に菊」紋であり、天皇を左右から補佐せよというものであった。隆盛は恐懼して退下し、家人を集め、そのいわくを話し「この紋は一代のもの」と戒めたという。だから子孫の家には伝わっていない。
先月、「篤姫」から「龍馬伝」に繋がる家紋ミスを深読みするというエントリーで、「龍馬伝」において、禁門の変の時点で西郷隆盛が家紋が「抱き菊の葉に菊」を使用していたことが間違っているのではないかということを書いたが、これらの箇所を総合すると、使用時期どころか、この「抱き菊の葉に菊」を西郷が使用したことがあったかどうか自体も、実は、未確認なのであった。
★
しかし、その一方でこんなことも考えてみた。
実は、僕はかねてから、西郷家の家伝の「強さ」に関して疑問を持っていたのである。それは青山霊園の西郷家の墓所にある西郷家の奥津城に「抱き菊の葉に菊」が彫られている(左図)からだ。西郷隆盛一代にのみ許された(はずの)家紋が西郷家の墓に彫られている。
これはどういうことであろうか。
もしかしたら、この「抱き菊の葉に菊」は、もともと西郷家の家紋だったのではないだろうか。
そして、さらに想像を重ねるのならば、西南戦争で賊軍の汚名を着せられてしまった西郷家が、敢えて「抱き菊の葉に菊」紋は、天皇から下賜されたという伝説を残したのかもしれない...
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冒頭に引用した高澤先生の文章は次のように続く。
(前略)西郷一族では隆盛以前にも菊花紋を用いていた様子がうかがわれ、また「抱き菊の葉に菊」は西郷家だけに見られる家紋というわけではない。
この一行は、僕の想像力をさらに喚起させてくれるがここでは内緒。
いずれにしても、家紋をネタに歴史を想像するというのは本当に楽しい。
まさむね
人生にはいくつもの「落とし穴」が開いている。
一人一人の人間は弱い。だからいつ、その「落とし穴」に落ちるのかは誰もわからない。
大阪の幼児死体遺棄事件はそんなことを僕に考えさせた。
彼女が悪いのは当たり前の話だ。ただ、僕にはそれだけで済ますことが出来ない。
柳田國男は『妹の力』の中でこう記したのは昭和15年だ。
(最近は)人が全体的にやさしくなったような感じがする。ことに目につくのは子供を大切にする風習である。以前は野放図にしておいて、自然に育つものだけが育つというありさまであったのが、もうそんな気楽な親は少なくなった。
これはあくまでも柳田國男の感想にすぎないが、昭和15年といえば、日独伊三国同盟が出来た年、この前年にはすでに第二次世界大戦は始まっており、翌年には太平洋戦争が勃発している。平成からの視点で言えば、この時代は子供に対するしつけも厳しかったような印象もあるが、実際にはどうだったのであろうか。
僕が気になったのは、さらにそれ以前は、子供は野放図にしていても育ったという何気ないところだ。おそらく、この時代、多くの家庭は大家族だ。三世代は当たり前で、しかも親戚なんかも一緒に住んでいたのだろう。だから、その中には暇な人もいて、子供達に対して何かと面倒を見ていたのかもしれない。あるいは、隣近所にもそんな人がいて、そういう人たちが子供達に目を配っていたのか。
いずれにしても、家族、地域社会が生きていた時代、子供はある意味、「自然」に育ったのである。しかし、戦後、こういった共同体がどんどんと解体されていった。
大雑把に言えば、日本人は「絆」よりも「自由」を選んだのである。それが時代の必然というものだったのだ。
そして、「自由」の思想は、「ここにいる私とは別の私」がどこかにいるに違いないという幻想を必然的に呼び寄せる。
さらに言えば、その幻想は同時に、「別の自分」を妨害しているのは「外部にいる何者か」であるという無責任につながっているようにも思える。
おそらく、そんな「自由の囚人」こそ最も「落し穴」に落ちやすいのではないだろうか。自由とリスクはいつだって隣り合わせだ。これは確かだと思う。
一方で、柳田国男が回想したような、野放図にしていても子供が育つような環境は、遥か昔にもう存在しない。
これは僕らにとってはノスタルジーだ。そしてこの状況は政治でなんとかなるような問題なのだろうか。
「下校拒否」が魅力的なのは、このノスタルジーと「自由」とが若干のペーソスを挟みながら強引につなぎあわせるようなパワーがあるからかもしれない。結局、今、僕らに必要なのはパワーなのか。
まさむね
先週末、名古屋の栄、オアシス21で開かれたワールドコスプレサミットに行ってきた。
僕のオタクサマー、第2弾イベントである。
この栄という街は、名古屋の中心街、だからコスプレイヤーに混じって普通の人々もこのイベントに足を運んでいる。
しかも、テレビ愛知の主催だから、おそらくテレビでも相当、パブっていたのであろう。街全体が自然にコスプレをイベントとして楽しんでいる様子がうかがわれた。
例えば、地下鉄に乗ると、普通にコスプレイヤーがいたりするのである。これは楽しい。
先日行ったワンダーフェスティバルが幕張という地ということもあって、集まった人々が真性オタク、一方コスプレイヤーはベテランが多かったのに比べると、このワールドコスプレサミットは、いい意味で庶民的で、若々しい、しかも、国際的。このあたりのゴッタ似感が名古屋っぽくて素晴らしい。
イベントは、昼間の普通のダラダラとした撮影会と夜のグランプリとあったが、僕は昼間はちょっとだけ見て、100歳双子のカタワレ=ぎんさんの墓参りに行ってしまった(結局、墓は見つからなかったけど)が、夜のグランプリはばっちり楽しんだ。
予選を勝ち抜いた各国のコスプレイヤーが、寸劇をするのだが、お国柄が垣間見れて楽しかった。
芸術的なフランスチーム、まるで京劇な中国チーム、アクロバチックでしかも、LEDを駆使した韓国チーム、ワイヤー的なもので空中浮遊したブラジルチーム、造詣の凝り方では一番だったタイチーム、分りやすさと日本語の上手い(当たり前か)日本チーム、どれも素晴らしかったが、結局は、リモコンで人形を動かしたイタリアチームがそのアイディアで頭一つ抜けて優勝。
審査員長の古谷徹氏が、「コスプレは世界を一つにする」と言われていたが、それもまんざら絵空事でもないように感じたのはその場の雰囲気があまりによかったからだろうか。
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しかし、ワールドコスプレサミットが盛り上がる一方で、昨今の日本のオタク文化の足元の衰退はいかんともしがたい。最近、よく、そんな話を聞く。
本大会の審査員の一人である高橋信之氏もオフレコだが、「あと10年もすれば、アニメ産業における日本の地位は、中国や韓国に抜かれるだろう。」と話されていた。
日本におけるアニメーターの待遇があまりにも劣悪だからだ。彼らはその才能を生かす以前に、社会人として生きていく環境にない。ぶっちゃけた話、仕事のハードさの割には給料が安すぎるのである。
同様の話は、ちょっと前に竹熊健太郎氏が漫画について語っていた言葉にも通じている。漫画界でも、優れた才能がある若者がデビューする場所がないのだ。それどころか、大手の漫画雑誌すら青息吐息の状態なのである。
また、先々週に行ったワンダーフェスティバルでも会場のブースでは中年のフィギュア造型師の姿が目立っていた。若い人々がどんどん、オタク的クリエイティブの場からいなくなっているのである。フィギュアどころか、そもそも、プラモデルの市場自体が縮小しているのだ。
さらに言えば、ゲームだって同じようなものだ。90年代の(PSやサターンなど)ハードの進歩に追いつくためにソフトウェアに多額の費用をかけざるを得なくなってしまったゲーム業界では、リスクを回避するため、シリーズ物オンパレードになってしまい、新しい試みが生まれにくくなった。その結果として、中小のゲームメーカーが軒並みギブアップしてしまった。そして、その隙にとでも言おうか、日本はオンラインゲームでは韓国(例えば、リネージュ)に、ソーシャルゲームでは中国(例えば、サンシャイン牧場)の後塵を拝するようになってしまったのである。なんということだ。
そんな足元の現状をヨソに、経済産業省では、今年の6月にクールジャパン室なるものを立ち上げてみたようだが、何もできていないのが現状だ。いや、そもそも、役所が何か出来るはずなどないのだ、この分野では。
ワールドコスプレサミットが盛り上がる中、僕はそんなことを一人で考えていた。
竹熊氏や高橋氏のように後進の育成に力を注ぐというのもありだろう、あるいは、日本のそういった文化を新しい市場に出すような輸出活動というのも一つだろう。
しかし、それらの道はまだまだ険しい、多分。
まさむね
先週末、ワールドコスプレサミットで名古屋に行ったついでに、墓マイラーとしての血が騒ぎ、鳴海のぎんさんの墓へ行ってきた。
というか、行こうとした。
最近、100歳以上の老人の消息が問題となっているようだが、ぎんさんは正真正銘の100歳老人だった。
正確には、107歳で大往生。19世紀、20世紀、21世紀の3世紀をまたいで生き続けたのである。
ちなみに、ぎんさんが生まれた1892年には、あの芥川龍之介も生まれている。
さて、ワールドコスプレサミットの会場のある栄から、ぎんさんの墓があると想定される(名墓録で確認)鳴海までは、金山という駅で乗り換えていくと、40分程度の距離だ。
僕は鳴海町というところを勝手に、小さな町だと勘違いし、行けばなんとかなると思っていた。ところが、この町はとんでもなく広い。
ていうか、緑区鳴海町というところが、沢山ある。
その昔、鳴海という地区をいくつかの行政区分に分けたときに、鳴海町として残った場所が点在しているのである。
いわゆる行政が仕切りきれなかった結果がこうなったのであろう。
それにしても一体、どこの鳴海町にぎんさんは眠っているのであろうか。
僕はとりあえず、その中で一番大きな霊園にタクシーで向かった。
そして、霊園に着くと、事務所の方にお願いして、データベースで蟹江家の墓を検索をしたもらった。
しかし、蟹江家の墓だけで15墓、全部で20000墓もある霊園で、彼女の墓を見つけるのは無理という結論に、僕は、結局、あきらめるしかなかった。
そういえば、僕って別にぎんさんのファンでもないし...
そうつぶやいて自分を慰めるしかなかった。
それにしても、せっかく、名古屋に来て、ぎんさんの墓にしか行こうとする場所が思いつかなかった僕って一体なんなんだろうか。
まさむね
まさむねさんの「家紋主義宣言」についていろいろ咀嚼させていただきながら、ぼくなりにいろんな角度で考えさせて(バージョンアップさせて)もらっている昨今である。この週末プールに行ったのだが、そのプールサイドで山下達郎のベストを聴きながら、特に「夏への扉」を聞いていて思ったこと。これは家紋主義者の詞ではないか! との想い。
「夏への扉」はロバート・A・ハインラインの作品で、ぼくの学生時代に仲間たちはみんな読んでいたし、ご存知のとおりSF作品のなかでファン投票をすると必ずトップに近いランキングを得る、あまりにも有名な、有名すぎるというような作品だ。ここには未来、過去、タイム・トラベルなど、メジャーすぎるような動線や伏線、フィギュアやキッチュが沢山ある。
曲の「夏への扉」は同名の小説のモチーフをそのまま踏襲した、作詞吉田美奈子、作曲山下達郎の作品。リリースされたのは1980年。ぼく個人の好みだけど「夏への扉」は山下達郎の曲のなかでベスト3に入れたくなる好きな曲のひとつだ。青い空をバックにこの曲を聴いていると、ほんとうにこれは夏の家紋主義ではないのかなあと思ってしまう。「夏の家紋主義」とはまさむねさんに断りなくぼくが勝手に仮称したもの。以下にその歌詞の一部を引用する。
ひとつでも信じてる
事さえあれば
扉はきっと見つかるさ
もしか君今すぐに
連れて行けなくても
涙を流す事はない
僕は未来を創り出してる
過去へと向かいさかのぼる
そしてピートと連れ立って
君を迎えに戻るだろう
特に「僕は未来を創り出してる過去へと向かいさかのぼる」という歌詞。そして扉はたとえば家紋。ぼくらは過去へさかのぼることで、たぶんなにかと連れ立って現在に戻ってくるのだ。
夏の小道、せみの声、それぞれにとっての家紋、紋様。本当はそれはどのようなものであってもいい。その手がかり、物語の原型のようなもの、の一つ一つ。それらを携えてぼくらは過去から続いてきた道を知る(辿りなおす)ことができるのだ。
夏の、家紋主義。ふとそんなことを思った。
もうすぐ8月15日がまたやって来る。これもひとつの家紋、家の門にちがいない。
よしむね