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[29 11 月 2011 | 6 Comments | | ]

今日、Yahoo!トピックに「稀勢の里、32勝での昇進に異様な空気」という記事が出ていました。
普通ならお祝いムード一色だが、短時間で会見を切り上げるなどピリピリムード。29日に予定されていた使者待ち会見も急きょ中止に。後援会関係者も32勝での昇進に戸惑いを見せるなど異様な空気が漂った。
僕としてはなんだか複雑な心境ですね。個人的には、今場所の勝ち星数、相撲内容からいえば、大関は無理だと思っていたところ、琴奨菊との一番を前にして早々と大関昇進の速報が流れたのですから、「アレッ」という感じを抱きました。
それだったら、白鵬に勝ち、12勝を上げた先場所に琴奨菊と同時昇進させておけばよかったのに、と思ってしまったのです。
おそらく、そういった空気は日本中の相撲ファンの多くが共有していたことでしょう。そして、その空気こそ、冒頭の空気とどこかで通底しているものだと推察されます。
もう、この空気を払拭するには、来場所以降、稀勢の里が大活躍するしかないですね。そして、そのことを最もよく判っているのが稀勢の里だと僕は思っています。
それにしても、千秋楽の琴奨菊との一番は微妙でしたね。元々、苦手とはいえ、琴奨菊の一気の出足に後退を続ける稀勢の里。土俵際で、捨て身の突き落としを見せたのはいいのですが、明らかに先に土俵を割ってしまいました。
それに対して、正面の貴乃花審判部長が物言いをつけ、土俵上で協議、結局は、「確認の意味での協議で、軍配通り、琴奨菊の勝ち」ということになりましたが、その物言い自体が、なんとなく不透明な印象すら与えてしまったのは失敗でしたね。
敢えて、言うならば、「稀勢の里の負けをより惜しい負けに見せるための演出」に見えてしまったということです。
しかも、貴乃花審判部長の説明があまりにも淡白という印象を、普段はあまり相撲を見ない人(土日にしかチャンネルを合わせない人)に与えてしまったような気がします。
例えば、産経ニュースの「稀勢の里の大関昇進、どうも釈然としない」というコラムでは、以下のように指摘されています。
物言いの際の場内説明では、なぜ物言いがつき、どういう協議内容だったかの説明がない。
毎日、大相撲を見ている人には常識になっているのですが、実は、貴乃花審判部長の場内説明は、この一番に限らず、説明がとても淡白なのです。僕はそんなところにも貴乃花審判部長の現状を改善しようとする意欲のカケラを見るのですが、長年、大相撲を見てきた多くの人々にとっては、微妙な違和感を与えているのではないかと思います。事実、今場所も、13日目あたりだったと思うのですが、貴乃花審判部長独特の簡潔協議説明に対して、イナセな解説者として知られる北の富士さんに「ずいぶんと、簡単な説明だねぇ。」と言われていました。
僕らに染込んでいる、場内説明とは例えばこんな感じです。(あくまでも例です)
ただ今の協議について説明いたします。行司軍配は、西方××の寄りが有利と見て、××に軍配を上げましたが、向う正面審判の△△から、東方◎◎の左足が先に出ていたのではないかと物言いが付き、協議の結果、軍配通り、西方××の勝ちといたします。
ところが、こういった、日本人の誰でも(というのは大げさか?)が真似のできるような定型フォーマットの口上を、貴乃花審判部長は、こんな風に簡単に説明してしまうのです。
協議の結果、軍配通り、西方××の勝ちといたします。
思えば、大相撲というのは、日本人にとって、慣習と様式の塊のようなところがあります。例えば、中島みゆきの「蕎麦屋」という歌に、こんな一節が出てきます。
風はノレンをバタバタなかせて、ラジオは知ったかぶりの大相撲中継♪
大相撲の中継というのが、何も変らない日常のBGMとして聞こえているという、その感覚が凄くよくわかる、僕は大好きな一節です。
話がズレましたが、そういった大相撲というものが身にまとった慣習と様式に違和感を与えるような貴乃花審判部長の協議説明が、今回、最悪のタイミングで、勘繰られるように解釈されてしまったというのはちょっと残念だったですね。
また、勘繰りネタという意味では、以下の言葉はいかがでしょうか。
相撲で場所前、師匠(元横綱隆の里)が亡くなるという不遇に見舞われたにもかかわらず、ここまでよく10勝した。
これは、稀勢の里昇進に関して、貴乃花がインタビューに答えた言葉の一部です。
確かに、心情的には非常によく理解できるのですが、昇進理由に人情物語を介入させることは、受け取り方によっては、その昇進審査の客観性が疑われかねない、「危うい言葉」ではないでしょうか...誠に残念なことに。
おそらく、こういった「勘繰り」や先に述べた「異様な空気」というものは、大相撲を今まで、曖昧なまま、成り立たせてきた日本的村社会の常識自体が、微妙に揺るぎだし、それに連れて、今までは問題にもならなかったようなことが、段々、問題視されてきているという事象の一つなのかもしれません。
社会の様々な動きに呼応して、大相撲も、現代的に変貌していくべきなのか、それとも、伝統(慣習)は伝統として、守り続けていくべきなのか。それは、合理主義とノスタルジーの葛藤ということなのでしょうが、答えは簡単ではないように思えますね。
まさむね
2011年九州場所関連エントリー
2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた
2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)
2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話
2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

テレビドラマ, 歴史・家紋 »

[28 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

「江」が終了し、12月より、「坂の上の雲」の第三部が始まります。それを記念して、ドラマ主要登場人物の家紋を一覧表にしてみました。

主人公関連人物(秋山家と正岡家)

秋山真之(あきやまさねゆき)
伊予国松山

1868年4月12日 - 1918年2月4日
海軍軍人

物語の主人公。日露開戦に際し連合艦隊参謀に就任。

丸に抱き茗荷
本木雅弘

秋山好古(あきやまよしふる)
伊予国松山

1859年2月9日- 1930年11月4日
陸軍軍人

真之の兄。日本騎兵の育成に尽力する。

丸に抱き茗荷
阿部寛

正岡子規(まさおかしき)
伊予国松山

1867年10月14日 - 1902年9月19日
俳人

真之の幼馴染。日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。

丸に三つ鱗(違い鷹の羽)※剣片喰、五三桐、三つ引両という説あり。
香川照之

海軍関連人物

広瀬武夫(ひろせたけお)
豊後国竹田

1868年7月16日 - 1904年3月27日
海軍軍人

日露戦争の第二次閉塞作戦の際に戦死する。

丸に並び鷹の羽
藤本隆宏

八代六郎(やしろろくろう)
尾張国丹羽郡楽田村

1860年1月25日 - 1930年6月30日
海軍軍人

真之に稲生季子を紹介し、結婚の際には仲人を務めた。

折敷に三の字
片岡鶴太郎

日高壮之丞(ひだかそうのじょう)
薩摩国

1848年4月26日 - 1932年7月24日
海軍軍人

日露戦争直前に常備艦隊司令長官を罷免される。

割り杏葉菊に違い鷹の羽
中尾彬

東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
薩摩国鹿児島城下

1848年1月27日 - 1934年5月30日
海軍軍人

日露開戦の時、連合艦隊司令長官に任命される。

丸に蔦
渡哲也

山本権兵衛(やまもとごんべえ)
薩摩国鹿児島郡

1852年11月26日 - 1933年12月8日
政治家

日露戦争時は海軍大臣。「日本海軍の父」と呼ばれた。

抱き鬼梶の葉
石坂浩二

加藤友三郎(かとうともざぶろう)
安芸国広島

1861年4月1日 - 1923年8月24日
軍人、政治家

日露戦争開戦時の第2艦隊参謀長。後に首相(第21代)。

蛇の目
草刈正雄

島村速雄(しまむらはやお)
土佐国

1858年10月26日 - 1923年1月8日
海軍軍人

日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀長。

丸に変り三つ蔓蔦
舘ひろし

有馬良橘(ありまりょうきつ)
紀伊国和歌山

1861年12月16日 - 1944年5月1日
海軍軍人

日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀。

丸に二引両
加藤雅也

財部彪(たからべたけし)
日向国都城

1867年5月10日 - 1949年1月13日
海軍軍人

広瀬と兵学校の同期。日清戦争後、英国への留学生に選ばれる。

丸に打板
飯田基祐

伊地知彦次郎(いちじひこじろう)
薩摩国

1860年1月6日 - 1912年1月4日
海軍軍人

日露戦争時には、連合艦隊旗艦「三笠」の艦長として従軍。

丸に隅立て組み井桁
ダンカン

山下源太郎(やましたげんたろう)
出羽国置賜郡

1863年8月26日 - 1931年2月18日
海軍軍人

日露戦争開戦時、佐世保に在泊する連合艦隊に命令書を手渡す。

五瓜に唐花
鷲生功

伊東祐亨(いとうすけゆき)
薩摩国鹿児島城下

1843年6月9日 - 1914年1月16日
海軍軍人

日露戦争時の海軍軍令部総長。

庵木瓜
山野史人

鈴木貫太郎(すずきかんたろう)
和泉国大鳥郡

1868年1月18日 - 1948年4月17日
軍人、政治家

大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に大きく貢献。後に首相(第42代)。

上がり藤
赤井英和

安保清種(あぼきよかず)
佐賀県

1870年11月8日 - 1948年6月8日
海軍軍人

日露戦争時、戦艦「三笠」の砲術長を務める

丸に実付き三つ柏
土平ドンペイ

陸軍関連人物

児玉源太郎(こだまげんたろう)
周防国都濃郡

1852年4月14日 - 1906年7月23日
武士、陸軍軍人

好古在学時に陸軍大学校の教官を務める。

唐団扇笹
高橋英樹

山県有朋(やまがたありとも)
長門国阿武郡川島村

1838年6月14日- 1922年2月1日
政治家、軍人

元老。枢密院議長。陸奥・川上の根回しで日清開戦を支持する。

丸に三つ鱗
江守徹

大山巌(おおやまいわお)
薩摩国鹿児島城下

1842年11月12日 - 1916年12月10日
政治家、軍人

日清戦争では第2軍司令として好古らを率いて旅順を攻略。

丸に隅立四つ目結
米倉斉加年

乃木希典(のぎまれすけ)
武蔵国江戸

1849年12月25日 - 1912年9月13日
軍人

日露戦争では第3軍司令官として旅順総攻撃を指揮する。

四つ持ち合い井筒(市松四つ目結い)
柄本明

明石元二郎(あかしもとじろう)
筑前国福岡

1864年9月1日 - 1919年10月26日
陸軍軍人

ロシア国内の革命勢力を支援しロシアを内部から揺さぶろうと画策。

丸に撫子
塚本晋也

川上操六(かわかみそうろく)
薩摩国

1848年12月6日 - 1899年5月11日
陸軍軍人、華族

日清戦争時の陸軍参謀次長。日清戦争開戦を主導。

丸に桔梗
國村隼

伊地知幸介(いちじこうすけ)
薩摩国

1854年2月3日 - 1917年1月23日
陸軍軍人

日清戦争時は第2軍参謀副長。日露戦争では旅順攻略を実施。

三ツ盛り山
村田雄浩

森林太郎(もりりんたろう)
石見国津和野

1862年2月17日 - 1922年7月9日
小説家、軍医

第2軍軍医部長。従軍記者として清国を訪れた子規と出会う。

乱れ追い重ね九枚柏
榎木孝明

有坂成章(ありさかなりあきら)
周防国岩国

1852年4月5日 - 1915年1月12日
陸軍軍人

参謀本部技術審査部長。三十年式歩兵銃の開発に成功。

五瓜に唐花
矢島健一

長岡外史(ながおかがいし)
周防国都濃郡末武村

1858年6月23日 - 1933年4月21日
陸軍軍人

軍大学校で好古の同期。日露戦争時は参謀本部次長。

丸に一文字に剣山の字
的場浩司

奥保鞏(おくやすかた)
豊前国小倉

1847年1月5日 - 1930年7月19日
陸軍軍人

日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征。

中陰五瓜に唐花
伊吹剛

落合豊三郎(おちあいとよさぶろう)
武蔵国江戸

1861年4月7日 - 1934年3月31日
陸軍軍人

第二軍参謀長。

丸に三つ柏
伊藤祥三郎

野津道貫(のづみちつら)
薩摩国鹿児島城下高麗町

1841年12月17日 - 1908年10月18日
軍人、政治家

第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。

六つ追い丁子
宗近晴見

政府関連人物

伊藤博文(いとうひろぶみ)
周防国熊毛郡束荷村

1841年10月16日 - 1909年10月26日
政治家

日清戦争時の首相。日露戦争では外交交渉に奔走。

上がり藤
加藤剛

高橋是清(たかはしこれきよ)
江戸芝中門前町

1854年9月19日 - 1936年2月26日
政治家

日露戦争時、日銀副総裁として戦費の調達に奔走する。

三つ追い沢瀉
西田敏行

小村寿太郎(こむらじゅたろう)
日向国飫肥

1855年10月26日 - 1911年11月26日
外務大臣

外務大臣として日英同盟の締結。一方、露国との交渉も行う。

丸に揚羽蝶
竹中直人

陸奥宗光(むつむねみつ)
紀伊国

1844年8月20日 - 1897年8月24日
政治家、外交官

外務大臣。川上参謀次長と組んで日清開戦を主導する。

仙台牡丹
大杉漣

井上馨(いのうえかおる)
周防国 湯田村

1836年1月16日 - 1915年9月1日
政治家、実業家

日清戦争が起こった第二次伊藤内閣では内務大臣を務める。

桜菱(割剣酢漿草菱)
大和田伸也

桂太郎(かつらたろう)
長門国阿武郡萩町

1848年1月4日 - 1913年10月10日
陸軍軍人、政治家

日英同盟成立を推進。日露戦争開戦時の首相。

花菱
綾田俊樹

金子堅太郎(かねこけんたろう)
筑前国早良郡鳥飼村

1853年3月13日 - 1942年5月16日
官僚・政治家

憲法の起草にも携わり、「伊藤博文の懐刀」とも呼ばれる。

高崎扇
緒形幹太

松方正義(まつかたまさよし)
薩摩国

1835年3月23日 - 1924年7月2日
政治家

日露戦争に関しては積極的に開戦を主張。

抱き菊の葉に抱き茗荷
大林丈史

伊集院彦吉(いじゅういんひこきち)
薩摩藩

1864年7月22日 - 1924年4月26日
外務大臣

明治、大正時代の外交官。後に外務大臣。

丸に三方剣花菱
亀山忍

皇室

明治天皇(めいじてんのう)
京都・中山忠能邸

1867年1月30日 - 1912年7月30日
第122代天皇

外交交渉の決裂を受け日露戦争開戦の聖断を下す。

十六八重表菊(画像は靖国神社)
尾上菊之助

市井の人々関連人物

陸羯南(くがかつなん)
陸奥国弘前

1857年11月30日 - 1907年9月2日
ジャーナリスト

新聞「日本」の社長。大学在学中から子規の面倒を見ていた。

幸い菱に花菱
佐野史郎

古島一念(一雄)(こじまいちねん)
但馬国豊岡

1865年9月20日 - 1952年5月26日
ジャーナリスト

雑誌「日本人」の記者。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助。

鶴の丸
建蔵

福本日南(ふくもとにちなん)
筑前国福岡

1857年6月14日 - 1921年9月2日
ジャーナリスト

陸羯南らと共に新聞『日本』を創刊。編集者として活躍。

五三桐
小林利也

高浜虚子(たかはまきょし)
愛媛県松山市長町

1874年2月22日 - 1959年4月8日
俳人、小説家

少年期は真之を慕い、後に子規を追って東京へ出る。

九曜
森脇史登

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)
愛媛県温泉郡

1873年2月26日 - 1937年2月1日
俳人・随筆家

少年期は真之を慕う。虚子と子規門下の双璧をなす。

丸に三つ鱗
大藏教義

内藤鳴雪(ないとうめいせつ)
伊予国松山

1847年4月15日 …

テレビドラマ »

[27 11 月 2011 | 4 Comments | | ]

NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の最終回を観終わりました。
最終的には、終わりよければ全てよしというハッピーエンドで締めくくられた感じでした。
最後、秀忠が江に向って「そなたは私の希望だ」という言葉をかけるシーンはクライマックスの名シーンなのでしょうが、残念ながら、僕にはその意味がよくわかりませんでした。
家康が亡くなり、幕府の基礎作りが終わり、江も大奥制度構築に着手。全ての憂いは無くなり、家光に家督を譲った後の台詞としては、ちょっと座りが悪い感は否めませんでしたね。
ただ、ドラマとして、未来に向けてのなんらかのメッセージを発したかったのでしょう。そういった製作者側の意図はなんとなくわかりました。
一言で言ってしまえば、今回の大河ドラマの基本コンセプトは歴史を舞台にした「ホームドラマ」でしたね。
夫と妻、父と娘、母と息子といったどこの家にでもあるような家族内の葛藤を徳川家を舞台にして演じたらこうなるという脚本・演出だったように思います。
国松(次男)が江(母親)と秀忠(父親)にかわいがられているところを、竹千代(長男)が柱の陰から覗いて嫉妬するというようなシーンが何度も出てきましたが、思わず「江戸城は2LDKか?」と突っ込みを入れたくなりました。
実は、僕は、最終回に、この竹千代(家光)がどのように世継ぎを宣言され、どのように成長していくのか、そしてどのような性格として描かれるのかというところを注目してみていました。ところが、残念ながらというか、逆に言えばよかったのですが、それらのシーンは極めて普通に通り過ぎていってしまい、アレっという感じがしましたね。
以下、その「アレっ」の中身についてもう少し詳しく書いてみたいと思います。
大雑把に言えば、家をどのように相続させるのかというのは、鎌倉、室町、江戸という武家の三時代を特徴付ける一つのシステムです。
例えば、鎌倉時代は、主に男子に対しては均等に財産を分与し、家を分家させるシステムでした。日本では他国に比べて名字が多い(世界第二位)のは、この時代のそういった相続システムが一因だと思われます。しかし、これは、平等は平等なのですが、家がどんどん細分化され、弱体化するという欠点を持っていました。
そして、それでは困るということで、室町時代に採用されたのが、息子の中で一番、優秀な子が全部を相続するといういわゆる惣領制です。これは、確かに合理的ではありますが、実は誰が優秀かということで争いが起きます。室町時代が戦国時代に発展していったのは、そういった相続システムにも一因があると考えられます。「江」においても、最初、「世継ぎには、江は国松が相応しいと思う」というようなことを述べていましたが、それは彼女自身まだ、精神的に室町時代、戦国時代を引きずっていたということでしょう。
そこで、江戸時代、平等分配でも、惣領制でもない、秩序ある平和な世の中を第一優先として、採用されたのが、長子相続制というシステムでした。大げさに言えば、竹千代が、第三代将軍になるというのは、そういった価値観の大転換を天下に示すという意味があったということです。
その意味で、僕は、世継ぎシーンがどのように演出されるのかに期待して、「江」の最終回を見ていたわけです。
勿論、秀忠から竹千代に対して、そういった沙汰が下されるシーンでは、「長幼の序云々」といった口上はあったのですが、ドラマとしては、竹千代の跡取りは、前回放送回の江と竹千代との抱擁によって決定付けられたという流れになっていたように思われました。まぁ、このあたりは解釈の違いということなのでしょうが、僕には、江が竹千代の本心を理解し、謝罪するという「わだかまりの氷解」こそが、竹千代の世継ぎを江が納得した本質のように見えたということです。
しかも、僕の「アレっ」という感覚にはもう一つの原因があります。
それは、子供時代の吃音や女装趣味、わがままといった、竹千代の人生をも特徴付けるようなキャラ設定はいつの間にか無くなっており、極めて普通に成長した家光という姿がそこにあったからです。しかも、優しい正論で江を諭すようなシーンさえもあったり。
あの幼少の頃のキャラは、成長後の伏線になると思っていたのですが、それは僕の勘違いだったわけです。
というのも、竹千代が成長した家光は、異常な男色家として知られていただけではなく、海音寺潮五郎が「武将列伝」で書いているように、辻斬り(夜間にお忍びで市中に出かけて、浮浪者、無宿者などを斬殺)を趣味とするような過激マッチョな男だったらしいのですが、最終回では、そういった性格には、全く触れられていませんでしたからね。
一応、史実を確認しておくと、後日、徳川忠長は、家光によって蟄居謹慎されられたあげくに、切腹をさせられています。
ちなみに、僕は、先月、高崎の大信寺にある忠長の墓に参ってきたのですが、墓所についていた三つ葉葵には、葉脈が省略されて(左画)いましたね。また、右画は、最終回に登場した保科正之の子孫・松平勇雄(元福島県知事)の家紋の会津葵です。河骨紋にも似ていますね。
まさむね

時事ネタ, 漫画・アニメ »

[26 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

つい先日のことですが、Yahoo!のトピックで『「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ』という記事が話題になっていました。
これは、asahi.comの中の小原篤さんのコラム『「若者は夢を持つな」と監督が言った』の中でも紹介されていますが、押井さんが、ある講演会で、以下のように述べたことが物議を醸したというちょっとした事件でした。
僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない
実際、このような意見は、最近、僕の近くのアニメファンからも多々、聞くことがあります。
その背景としては、現代のアニメ製作者達の多くが、育ってくる過程で、アニメ、ゲーム、漫画といったいわゆる「オタクコンテンツ」のみを受容して来ているということがあると言われています。
例えば、岡田斗司夫さん等が、その著作「オタクはすでに死んでいる」なんかで主張していることとも近いのですが、かつてのアニメ製作者達は、「オタクコンテンツ」以外にも、SFや映画、文学、哲学等を幅広く勉強し、しかも、個々人がいくつかの深い得意ジャンルを持っていました。そして、それらの教養をバックボーンとして、作品を作っていました。
ところが、近年、そういった製作者側の教養の幅が、オタク周辺ジャンルに偏って、来たことによって、その同じ狭いオタク文化的知識や嗜好を共有している「仲間」には受け入れられても、なかなかその外に通用するコンテンツが生み出せない、いわゆる「先鋭化」が進んでいるというようなことですね。
勿論、アニメなどの作品は、例えば、文部省などからの補助金によって、文化事業の一環として作られるというのなら別ですが、ある面で、商品として存在せざるをえません。それは真理であり現実です。
そのため、視聴者の嗜好に添った作品になっていくというのは仕方が無いことだとも言えます。
例えば、僕も、アニメの歴史というのは、男性キャラの存在感、(あるいはマッチョ主義)がどんどん希薄になっていく歴史ではないかと考えていますが(「「けいおん!」という商品をぎりぎりのところで作品に踏みとどまらせたもの」)、それも、こうしたコンテンツ製作者及び、視聴者が共に、先鋭化していることが原因だと思われます。
ただ、僕は、一見、そうした概観を持っているアニメであっても、その中には、1ミリでも、新しい試みや、時代の息吹、そして、作品としての意地のようなものを感じ取ることが出来るのではないかと思っています。そして、むしろそうした可能性を見出すことこそ、作品を鑑賞することではないかとすら考えています。まぁ、それはそれで、結構、疲れる鑑賞法ではあるのですが...
さて、それはともかく、こういったアニメの先鋭化は、作品の質の問題もそうなのですが、同時にマーケットをも狭めているという指摘もあり、むしろ、こっちの方が大きな問題なのです。そのためには、マーケットがある程度、大きい現段階にこそ、様々な可能性を試してみることが重要になってくると思います。マーケットが縮小してしまってからでは、多分、遅いのではないでしょうか。
しかし、様々な可能性と言っても、それはなかなか難しい、人間は、知らず知らずのうちに固定観念の枠に嵌められてしまうと、その外がなかなか見えなくなってしまうからです。
話は変りますが、先日、立川談志さんが亡くなりました。僕は談志さんのファンだったので、そのタイミングでYOUTUBEにアップされている談志さんの動画をいくつか観てみました。すると、その中に、談志さんと上岡龍太郎さんと長嶋茂雄さんの三人が鼎談をしている動画がありました。
そこで、長嶋さんは、自分が現役時代にセカンドゴロを二つ捕ったことがあるというような話をして、談志さんと上岡さんはそれを聞いて大笑いしていました。
勿論、それは常識外の、むしろ、想定外のプレイなわけです。つまり、当時、一緒に内野を守っていたであろう広岡さんだったら最も嫌がるようなプレイだったということですね。
ただ、その時、僕は思いました。おそらく、長嶋さんという人は、野球が野球という制度になる以前の、なにか別のものになる可能性を感じ取れる人だったんだなぁと。長嶋さんが天才と呼ばれるのは、おそらくそうした感覚においてだと僕は確信しました。それは、決して、彼が残した記録によってではないと。
そして、その話に続けて長嶋さんは、野球選手は、野球を専門にする以前に、バスケットボールやサッカーや格闘技など、様々な別ジャンルのスポーツをすべきだと、そのためには、プロ野球にも一軍、二軍に加えて、三軍を作るべきだと...
話を強引にアニメに戻すと、今、アニメ界に必要なのは、こういった長嶋的な感覚ではないでしょうか。もしかしたら、アニメがアニメという制度になる以前のなにかを感じ取れる製作者は、それまでアニメとは全く関係の無いことをしていた人々の中にいるのかもしれません。
あるいは、そのヒントは、アニメがアニメという制度になる以前に作られたアニメを観ることかもしれません。その意味では、例えば、1973年にフランスのアニメ作家・ルネ・ラルーによって作られた「ファンタスティック・プラネット」こそ、現代のアニメ製作者が見るべきアニメだと僕は思います。

このアニメについては、別途語ってみたいと思いますが、このエントリーでは、現代の日本に生きる僕らの感覚とは完全にねじれた位置に存在する異物のようなアニメであること、つまり、アニメというジャンルが、もう一つ別の「なにものか」になりえる可能性を秘めているアニメだということだけお伝えしておきたい思います。
まさむね
※この「ファンタスティック・プラネット」は、アニオタ保守本流の古谷経衡さんに教えていただきました。

歴史・家紋, 相撲/プロレス/格闘技 »

[25 11 月 2011 | 4 Comments | | ]

大相撲九州場所で、白鵬が13日目にして早くも21回目の優勝を飾りました。
ほとんどの人が場所前に白鵬の優勝を予想していたと思いますが、その予想を裏切らないのブッチぎりの優勝。圧倒的な強さと言う外無いでしょう。
これで貴乃花の持つ22回優勝の記録にあと1回となりました。北の湖(24回)や、朝青龍(25回)の記録を破るのも時間の問題でしょう。さらに、千代の富士(31回)、大鵬(32回)の記録を超える日も来るかもしれません。本当に、凄い横綱です。
おそらく、大鵬の記録を破れないケースがあるとしたら、北の湖や貴乃花のように、負傷によって休場が重なり、引退を迫られるような場合だけではないでしょうか。
ただ、現在の体調を考えるとそんなケースもあまり考えられないようにも思えます。
というのも、晩年の北の湖や貴乃花はその体重によって、動きが鈍くなったという点があったように思うのですが、現在の白鵬は理想的な体躯をキープしているからです。
今にして思えば、ちょうど貴乃花の全盛期は、曙や武蔵丸といった大型突進系の力士の全盛期と重なっており、それに対抗するため、無理に体重を増やさざるを得なかったという巡りあわせがあったように思います。それを考えると、貴乃花は、時代が悪かったのではないかと僕は思っています。
さて、白鵬ですが、その強さに関して、昨年、NHKで白鵬を科学的に分析する番組がありました。
それによると、彼の反射神経は、あのオリンピック100m走優勝者のウサイン・ボルトと遜色ないという驚異的な記録をだしていました。また、白鵬は一つ一つの動きを始める瞬間、他の力士は、反動をつけるモーションをつけないと動けないのに対して、そういったモーションをほとんどつけなくても、次の動作に入れる運動神経を持っているというような実験もなされていました。
おそらく、そのあたりが、立会いの踏み込みの良さ、巻き替えの速さといった具体的な動きとなって相撲に生きているのでしょう。
本当に、彼の天才は、ミクロの身体能力によって支えられているのです。
今日の相撲もそうでした。一時は琴欧洲が得意の右四つになったのですが、一瞬攻めあぐねている隙に、もろ差しの体勢に持ち込み、次の瞬間、頭を琴欧洲の脇の下に入れて、まるで俵返しのような下手投げで、大きな大関を転がしてしまいました。こんな芸当が出来るのも、白鵬だけではないでしょうか。
これは僕のイメージなのですが、白鵬は、相手と組んだり、突き合っている時に、相手の身体のバランスの弱点を察知し、そこを一気に攻める、そんな芸当を0コンマ何秒かで自然にやってしまっているのではないでしょうか。
例えば、七日目の豊ノ島戦だったと思うのですが、あの重心の低い豊ノ島を一発の突きで、土俵の外に出してしまいました。それは、無理矢理に力で相手を突いたというのではなく、素人の僕には、自然の摂理に従って、相手の最弱点を見切り、ソコをちょっと押したという気孔のようにも見えました。
そういえば、以前、白鵬は、アナウンサー氏の「どのような相撲をとりたいか」というインタビューに答えて、「勝たないような相撲」と答えていました。アナウンサー氏は、聞き間違えた、あるいはネイティブではない白鵬が日本語を間違えたのかと勘違いしたのか、怪訝な顔をしていましたが、まさにそれは白鵬の相撲感を正しく表現している言葉だったのだと僕は思っています。
つまり、それは無理矢理、相手をねじ伏せて勝とうとするのではなく、相手がいつの間にか負けるように持って行く相撲をとりたい、という意味だったのではなかったでしょうか。
さて、そんな白鵬ですが、今後、誰が彼に対抗するような力士になっていくのでしょうか。現時点では全くわかりません。
個人的には、白鵬とは対極の体格と力で相手をつぶすような相撲をとる把瑠都に期待をしたいのですが、どうも、いい時と悪い時の差があっていけません。
今場所も、阿覧戦、鶴竜戦で豪快な吊りや、琴奨菊戦や稀勢の里戦で力にまかせた寄りを見せた一方で、昨日の日馬富士戦では、何も出来ずに土俵を割ってしまっていました。
また、現時点で白鵬が最も苦手としている稀勢の里はどうでしょうか。
今場所は、大関捕りがかかっているためでしょうか、前半の安定した取り口が、中日の琴欧洲戦あたりからガタガタに崩れてしまいました。まだまだ精神面に課題があるのでしょうか。残念ながら、今場所は11勝しても大関は難しいかもしれません。最低10勝を残して、来場所に期待したいと思います。
さらに、数年先になるかもしれませんが、現在、平幕の栃の若や妙義龍といった新興勢力に期待するしかないのかもしれません。
まぁ勝手なことを書かせていただきました。
月並みな言い方になりますが、先ほど書いたことを繰り返させていただきます。現時点では、白鵬の最大の敵は体調ということになると思います。
ようするに、それほど凄い横綱だということですね。
最後に、白鵬の家紋についての話です。
彼は優勝パレードの時に着る紋付には必ず丸に三つ鱗の家紋(左図)をつけています。
そして、この三つ鱗紋は、鎌倉幕府執権の北条家の家紋として知られています。実際は、北条家の紋は、丸は無く、若干ひしゃげた北条鱗という紋(右図)ですが、それでも白鵬と同系統の紋であることには変りありません。
僕は以前より、白鵬がこの三つ鱗紋を付けていることに謎を見ていました。
ご存知の通り、北条家というのは、元寇を追い払った武家の紋、つまりモンゴル民族にとっては宿敵の紋だからです。
そして、一般的には、外国人力士は親方の紋を付けるのが通例のようです。例えば、把瑠都は三保ヶ関親方(元大関・増位山)の丸に違い丁子紋、日馬富士は伊勢ヶ濱親方(元横綱・旭富士)の丸に抱き茗荷紋、琴欧洲は先代・佐渡ケ獄親方の琴桜の丸に蔦紋というようにです。また、ちなみに、白鵬の親方の宮城野親方(竹葉山)、宮城野部屋創設者の吉葉山はともに、丸に三つ柏紋です。
ということは、白鵬が三つ鱗紋を付けているというのはある「意図」に基づいていると考えるべきだと思ったのです。そして、私には、その「意図」が、非常に気になったというわけです。
実は、それに関して、以前、大相撲協会に問い合わせてみたのですが、全くラチがあきませんでした。また、機会を見て確認してみたいと思います。
まさむね
2011年九州場所関連エントリー
2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤
2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)
2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話
2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

テレビドラマ »

[24 11 月 2011 | 6 Comments | | ]

NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」が最終回を残すのみとなりました。
僕は、今年の大河に関しては、以下の二つしかエントリーを上げていませんでした。
「江~姫たちの戦国~」において気になる利休の台詞とNHKの価値
「江〜姫たちの戦国〜」は痛快ではあるが、受験生にはオススメできない
でも、実は、毎回観ていたんですよね。それは、単純に江役の上野樹里さん、秀忠役の向井理さん、そして初役の水川あさみさんが好きだからという理由ですけど。
さて、それはともかく、NHKの大河ドラマの場合、多くの視聴者が予備知識として既にイメージを持ってしまっている歴史的な名場面をどのように処理するのかといった、製作者側の当て方、ハズし方を楽しむというのも一つの観方ではないかと、僕は以前から思っています。
例えば、昨年、放送された「龍馬伝」では、坂本龍馬(福山雅治)が、勝海舟(武田鉄矢)と最初に会う場面を、一般的には龍馬は海舟を斬りに行ったといわれている(「氷川清話」による)ところを、海舟を斬りに行ったのは龍馬ではなく、岡田以蔵(佐藤健)ということにしていましたね。このシーンは数年前の「篤姫」では、ド・直球に描かれていたので、おそらく、”福山龍馬”のキャラを考慮して修正したんだなという想像が出来ました。
その意味で、僕にとっては、今年の「江」(特にここ数回)の話では、大阪夏の陣で、どのように淀殿と秀頼が自害の追い込まれるのかというのが一つの焦点でした。
というのも、そこまでに至る経緯で秀忠は、徳川家と豊臣家の平和共存路線を主張し、賛同する江に対しても、「私の任せて欲しい」とまで言っていたわけですから。
ただ、歴史の顛末を知ってしまっている僕らにしてみれば、大阪城の二人は自害するのはわかっているわけで、当然、視聴者としては、家康が秀忠をどのように説得するのか、あるいは、強引に事を進めるのかというのが一つの見所だったわけです。
しかし、物語は、真田幸村軍の襲撃にあった家康が命からがら難を逃れ、その直後に、全権を秀忠に移譲、そして秀忠の命令によって、大阪城には火がかけられて落城し、淀殿と秀頼は自害するという結末をむかえる展開にしていました。
おそらく、ただ歴史とドラマとの辻褄を合わせるのだとしたら、家康の命令によって、大阪城落城し淀殿と秀頼の自害するという流れが自然だったのでしょうが、敢えてこうした演出をした意図を僕は考えざるを得ませんでしたね。
それまで、このドラマにおける秀忠というのは、どちらかと言えば、どうしようもない子供であり夫でした。彼はいつも、畳の上で寝転んでダラダラしていました。そして、父・家康とは、ギクシャクした関係を続けていました。自分自身の力で何事かを成すことはなく、常に受身で、不満たらたらの存在でした。
勿論、なんとかしなければという気持ちは常にあるのですが、それは空回りして、しかも、彼は彼が持つ理想の実現に向けては、ほとんど実践も努力も出来ないキャラだったわけです。宮台真司的に言えば、「任せてブーたれる」典型的な”ダメな人間”として描かかれていました。
しかし、このドラマは、敢えて、一番大事な場面で、突然、全てが彼の決断に委ねられるような展開にしたというわけです。
そこで、彼は理想を捨てて、現実的な決断をせざるを得ない立場に立たされます。つまり、それまでの甘えた自分を卒業し、それまでの自分を否定にせざるを得ない状況に立たされるのです。そして、その決断が、戦国時代を終わせ、新しい世をむかえるという展開にしたわけですね。
そして、この展開は、この大河ドラマが2011年の空気を微妙に感じていたための演出ではないかと考えてみました。
というのも、努力も実践もせずに、ただ悩みながら、その挙句に、特権的にセカイ(日本)を救う立場に立たされる存在、という点で、「江」における秀忠は、「魔法少女まどか☆マギカ」におけるまどかと似ていたからです。
僕の旧友でゲームクリエイターのI君は、かつてはドラマやゲームの王道であった、努力や精進の積み重ねによっていつの日にか成功するといったストーリーは、徐々に支持を得られなくなっているのではないか?と言っていましたが、まさに「江」も「まどマギ」もそんな時代の流れの中にあるコンテンツなのかもしれませんね。
あるいは、それは、突然の政権交代によって、全てを決断せざるを得ない立場に立たされながらも、何も決断できない民主党に対する皮肉にもなっている...というのは考えすぎでしょうか。
まさむね

芸能 »

[23 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

落語家の立川談志さんが亡くなりましたね。
75歳だそうです。
談志さんが、凄かったのは、常に現在を語り続けていたことだと思います。落語家さんはどうしても齢をとってくると「芸の道」という「あの世」に入って出てこなくなってしまいます。
勿論、談志さんだって、他の落語家さんと同様に、一方の顔で、芸の道に励んでいたのでしょうが、その一方で、常に、現世に存在し続けていました。これは、出来るようでいて、他の落語家さんにはなかなか出来ないことでしょうね。現在を語り続けるといことは、常に闘い続けるということと同義だからです。
そういえば、今からもう、20年位も前の話ですが、談志さんがあるプロレス雑誌のインタビューに答えているという記事がありました。今、思うとなんで、プロレス?って思うかもしれないですが、活気のあるジャンルというものは何でも巻き込んでしまう、そんな引力があるもので、その当時のプロレスにはそんなパワーがあったんですね。
そのインタビュー自体、結局はプロレスとは全く関係の無い話をして終わったのですが、その中で、談志さんははっきりと、「だまされちゃいけないよ。学校というものは教師のためにある、国会というものは国会議員のためにある。それを生徒や、国民のためにあると思うから話がわからなくなるんだ。」というようなことを語っていました。
2011年の現在から思うと、それは、ある意味、当たり前にも聞こえるのですが、当時は新鮮でしたね。ある時代の天才は、次の時代の常識を生み出すというのはまさに、談志さんのためにある言葉だと思いましたね。
また、談志さんは自らの言葉に説得力を持たせるために、必ずお客に対して、上のレベルで話さなければならないというようなことを語っているのも聞いたことがあります。
つまり、どんなに間違っていることを言っていたとしても、絶対に上から目線で話をすれば、他人を説得できると...
確かに、その自信に満ち溢れた話方は談志さん独特のものでした。
談志さんはテレビでこんな話をしていたことも覚えています。
ゴルフってのは身体に悪いよね!何故って、普通のスポーツは準備体操から始まって、段々本気を出して行くもんだけど、ゴルフは、最初のスィングが一番、思い切って打ち、段々、アイアンだとか、パターとかセコくなっていく。だから、絶対に身体に言い訳がない...
よく考えれば、どうでもいいようなネタなのですが、それが談志さんの自信に満ちた口から出てくると、説得力を持ってしまう、当時、僕は本当に笑いました。
しかし、後日、思い出してみると、別におかしくもない。僕は、その時、逆に、これこそが、談志さんの芸の凄さなんだと思ったものですね。
よく言われる話ですが、戦後の芸能界の歴史というものは、手の届かないスーパースターから、身近なアイドルへ、芸人へという流れがありますよね。インターネットの時代で、さらにそういう芸能人と一般人との「平等化」が進む中で、談志さんは、その流れに逆らうような存在だったと思います。
でも、もしかしたら、晩年は、自分の言葉が段々、人々に伝わらなくなってきたということを肌で感じていたのかもしれません。寄席で居眠りをしていた客に怒って、高座を降りたなんていうことがありましたが、悔しかったんでしょうね。
今後、談志さんの遺伝子を受け継いだ人々、特に、最近、微妙に影が薄くなっている爆笑問題とかに、東京の芸人として頑張ってほしいと思います。
今、有名人の家紋の立川談志さんの項目に死亡年月日を入れて更新いたました。
もしよろしかったら、コチラにも寄って行ってくださいね。
まさむね

相撲/プロレス/格闘技 »

[22 11 月 2011 | 2 Comments | | ]

大相撲が面白いですね。
やっぱり、何事も一生懸命に見ないとその面白さはわからないとつくづく思います。
本日、十日目。ついに、全勝の大関・琴奨菊に土が付きました。相手は、一昨日、昨日と必殺の「吊り技」で相手を根こそぎ持ち上げて土俵の外に運んだバルチック・クレーンこと、怪力の把瑠都です。
この把瑠都、とにかく胸を合わせて相手の上手を引いてしまい、上からのしかかるような体勢になれば、大抵の相手はもう身動きが取れません。
今日の琴奨菊もそうでした。吊られはしなかったものの、そのまま寄り切られてしまいました。
先輩・大関の意地という言い方も出来るかもしれませんが、明らかに体格負けでしょう。仕方がありません。明日からまた頑張って欲しいですね。
さて、本日は、今場所気になった新鋭力士について語ってみたいと思います。
豊ノ島、栃煌山、隠岐の海といった幕内上位の常連の次に位置する力士達についてです。
誰もが、今最も旬な若手といえば、栃の若の名前を上げざるを得ないでしょう。7日目の日馬富士戦では、なんと初対決で白星を上げてしまいました。さらに、昨日の白鵬戦、今日の琴欧洲戦、ともに敗れはしたものの、ファンの大きなインパクトを残しました。
192cmの長身、そして懐の深さは、かつての横綱・双羽黒(北尾)を彷彿させます。顔もなんとなく似ているんですね。
これはどんなスポーツでもそうなのですが、将来、伸びる選手は、必ず若いときにキラリの光るものを見せます。
ただでは土俵を割らないという意地のようなものを感じさせます。この負けず嫌いのところが凄いいいんですね。
 「男子三日会わざれば刮目して見よ。」と言いますが、まさに来場所以降が楽しみな力士です。
次に僕が注目なのは、ていうか、誰でもが注目せざるを得ないのが、妙義龍でしょう。彼は豪栄道と高校の同級生です。一方の豪栄道は高校卒業を待たずして角界入門を果たしたのに対して、この妙義龍は大学に行ったため、ようやく幕内入りした段階ですが、その将来性はもしかしたら豪栄道よりも上かもしれません。
で、どこが良いって言えば、その体つきですね。身長は186cmとそれほど低くは無いのですが、足が短いせいか重心がとても低い。しかも肩の筋肉が発達しています。
どちらかといえば、相撲取りというよりもプロレスラーの体型に近いんですね。
あえて、言えば、90年代に全日本プロレスの常連だったダグ・ファーナスのようなたたずまいがあると僕は思っています。
そして、その体型ゆえにでしょうか、運動神経が物凄くいいのが一目でわかりますね。あんまり、力士に対して、運動神経やあるいは身体能力といった言い方はしないものですが、この妙義龍にだけは、そんなスポーツ用語を使いたくなります。
みなさんも是非注目してみてください。
そして、豪栄道の同僚という意味で、同様に僕が注目したいのが、今場所、初の十両昇進を果たした勢(いきおい)です。
彼は小学校の時、豪栄道と同じ相撲道場に通っていました。わんぱく相撲全国大会で準優勝もしたことがあったんですね。そんな彼は、中学卒業後、高校進学をせずに、3年間、フリーター生活をしていたというのですから、十分、変り種です。
今まで、中卒、高卒、大卒といった、それぞれのタイプの力士がいたのですが、フリーター力士というは、僕の記憶では初めてですね。その意味でも極めて現代的な力士といえるかもしれません。
しかも、顔がなかなかイケメンです。新十両のくせに、今場所は既に9勝をあげており(しかも唯一の負けが相手の髷に指が入ってしまっての反則負け)、もしも優勝してしまえば、入幕もすぐそこです。まさに勢いのある存在ではないでしょうか。
そして、その妙義龍、勢との幼馴染で、一歩先を言っている豪栄道も、今場所なかなか、頑張っています。勝ち星は、4勝(5敗)とそれほど伸びてはいないのですが、稀勢の里、把瑠都、日馬富士といったところを倒しています。そして、今日の隠岐の海戦も取り直し後の一番で圧倒していました。今までは、攻めの遅さが指摘されがちではありましたが、ゴツゴツとして体躯は魅力的で、朝青龍の後継者になりうる逸材だと僕は思います。
さて、今日取り上げた栃の若、妙義龍、勢、豪栄道の共通点ですが、実は三人とも大阪・兵庫といった阪神地区出身の力士なんですね。
そして、この阪神地区というのは、人口の多さに比べて、力士の出身地としてはこれまではそれほど恵まれていませんでした。もしかしたら、力士という泥臭い職業には合わない土地柄かとさえ思っていました。歴史をさかのぼれば、何人も大物はいるのかもしれないですが、僕の印象に残っている人では大関の増位山くらいでしょうか。
それよりも、北海道や青森、そして高知、九州といったところの方が、たくさんの力士を輩出していますから。
というわけで、豪栄道、栃の若、妙義龍、勢という阪神四天王(勝手に名づけさせていただきました)にはこれからも頑張って欲しいですね。
まさむね
2011年九州場所関連エントリー
2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤
2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた
2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話
2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について