いつの間にか、今年も11月になりました。
そろそろ、紅白歌合戦の出演歌手が発表される時期です。
昨年までは、着うた関連の仕事をしていたので、音楽業界の情報にはそれなりにアクセスしていたのですが、今年は離れてしまい、興味も薄れてしまいました。
そういえば、今年のヒット曲って何でしたっけ?
あくまでも個人的な話ですが、具体的には、「マル・マル・モリ・モリ!」位しか、口ずさめる曲が無いのにちょっと唖然とします。
参考までに、日本レコード協会(有料音楽配信チャート)によって発表される週毎の「着うたフル」の一位曲を以下並べてみます。
期間
楽曲名
アーティスト名
01/05 - 01/11
トイレの神様
植村花菜
01/12 - 01/18
トイレの神様
植村花菜
01/19 - 01/25
Dear J
板野友美
01/26 - 02/01
Why? (Keep Your Head Down)
東方神起
02/02 - 02/08
Distance
西野カナ
02/09 - 02/15
Distance
西野カナ
02/16 - 02/22
今のキミを忘れない
ナオト・インティライミ
02/23 - 03/01
ずっと。
青山テルマ
03/02 - 03/08
何かひとつ feat. JAY’ED & 若旦那
JAMOSA
03/09 - 03/22
何かひとつ feat. JAY’ED & 若旦那
JAMOSA
03/23 - 03/29
ジェットコースターラブ
KARA
03/30 - 04/05
かぞえうた
Mr.Children
04/06 - 04/12
かぞえうた
Mr.Children
04/13 - 04/19
ラブレター。~いつだって逢いたくて~
ソナーポケット
04/20 - 04/26
Let’s try again
チーム・アミューズ!!
04/27 - 05/10
not alone~幸せになろうよ~
SMAP
05/11 - 05/17
Esperanza
西野カナ
05/18 - 05/24
マル・マル・モリ・モリ!
薫と友樹、たまにムック。
05/25 - 05/31
Everyday、カチューシャ
AKB48
06/01 - 06/07
また明日…
JUJU
06/08 - 06/14
マル・マル・モリ・モリ!
薫と友樹、たまにムック。
06/15 - 06/21
マル・マル・モリ・モリ!
薫と友樹、たまにムック。
06/22 - 06/28
GO GO サマー!
KARA
06/29 - 07/05
GO GO サマー!
KARA
07/06 - 07/12
GO GO サマー!
KARA
07/13 - 07/19
Fight Together
安室奈美恵
07/20 - 07/26
ゴメンね・・・。~お前との約束~
ソナーポケット
07/27 - 08/02
Golden Smile feat. EXILE ATSUSHI
久保田利伸
08/03 - 08/16
雄叫び
遊助
08/17 - 08/23
フライングゲット
AKB48
08/24 - …
先月、読んだ本の中で一番面白かったのが『忘れられた日本人』という文庫でした。
この本は宮本常一という民俗学者が書いた本で、主に西日本を中心とした庶民へのインタビューをまとめたものです。
僕は多分、学生時代に一度、読んだ記憶があるんですが、今回読み直してみて、その内容の素晴らしさに驚嘆してしまいました。
もしかしたら、それは僕自身が成長して、いろんな人生経験を積んだからこそ味わえたのではないかとも思いましたが、是非、若い人にも読んで欲しい一冊です。
さて、この本が面白いのは、ここでインタビューされている人々が、いわゆる定住の農民だけではなく、漂白民、海や山の民も含まれていることですね。
この本には、そういった人々が幕末から明治、昭和初期にかけてどのような人生を歩んできたのかが活写されています。
例えば、対馬つつ村の浅藻という集落の梶田富五郎という80歳過ぎの爺さんの話。
彼は生まれは山口県の周防大島の久賀という場所なんですが、子供の頃に両親を亡くし、魚船に乗せてもらうメシモライになったといういうんですね。
久賀の大釣にはメシモライというて-まぁ五つ六つ位のみなし子を船ののせるなわしがあって、わしもそのメシモライになって大釣へのせられたのじゃ
このメシモライというのは、多分、ある種の人身御供でしょうね。
その昔、海がシケてきたら、こういう子供達を海に投げ込んで、神様へ捧げ、怒りを鎮めてもらうとしたのかもしれません。そういった民俗学的な悲しい歴史の痕跡なんじゃないかと僕は思います。
どこか、中世ヨーロッパのサバトとかで赤ん坊を悪魔に捧げる儀式とか、アステカの稚児の生贄を思い出させたりもしますね。
そういえば、先日、港区三田の元神明宮という神社に行ったのですが、ここの相殿には水天宮がありました。そして、この水天宮に祀られている神様についてちょっと考えさせられましたね。
実は、そこの祭神には、あの壇ノ浦における源平最終合戦時に、海に身投げて亡くなったという安徳天皇(当時4歳)も祀られていたんですね。僕は知りませんでした。
おそらく、その痛ましさの記憶が、安徳天皇をして、後世に海運、漁業の神様にしたのだろうな、ということが想像できます。また、こんなところにも、一般庶民の宗教観念と皇室との間にある微妙で連綿とした繋がりが垣間見られます。
さて、話を戻します。
この梶田富五郎さんは、その後、漁師さんたちと一緒に、周防大島から、この対馬に移り住むようになるのですが、その時の話がまた面白い。
漁師たちは、周防から、対馬まで船でやってくるのは結構大変だということで、どこか対馬に住まわせてくれないかという話になるのです。
「それじゃあ、浅藻の裏へ住むことをゆるしてもらえまいか」
と頼うでみました。
「たいがいのことはきてあげらるが、あそこはシゲ地じゃからたたりがあるといけん」
というから、
「たたりがあってもええ、それに生き神さまの天子様が日本をおさめる時代になったんじゃから、天道法師もわしらにわるさはすまい」
ということになって、浅藻へ納屋をたてることをゆるしてもろうて久賀へ戻ってきやした。
つまり、明治維新になって天皇中心の国家となったという事実が、日本の最果ての対馬では、こういう風に影響していたということですね。
日本列島に様々な形態で暮らしを営んできた日本人達、彼らの日常生活は時代時代の流れの中で、あるときは、翻弄されながらも、ある時はちゃっかり活用しながら、しぶとく続いてきたんだなぁということを感じます。
明日から、しばらくこの『忘れられた日本人』の中のネタをアップしていきたいとおもいます。
まさむね
僕は昨日のエントリーで、幕末の開国以来、日本の歴史は共同体の解体の歴史であるというようなことを書きました。
その過程は、おそらく一つづつ「日本人らしさ」あるいは古来からの「日本人の幸せ」が剥奪される歴史であったことを僕は今、改めて思います。
繰り返しますが、それは、一方では「自由」や「便利」という新しい幸せの獲得であったという側面があることも付け加えないと不公平になりますが。
僕は先月一ヶ月の間に何冊かの本を読みました。その中に、Twitter上で、僕にいつも様々なアドバイスをくれるすがりさんが勧めてくれた「まなざしの地獄」(見田宗介著)がありました。
この本は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件を起こした永山則夫という男の行動を社会学的に解釈した本です。
数年前にあの加藤智大による秋葉原通り魔事件が起きた時に、この加藤と永山との類似性が、一部で指摘され、それを機会に再編集・発売された本ですね。
ちなみに、僕自身も当時、「寺山と永山と加藤智大」というメモのようなエントリーを書いていました。
で、見田さんは、この永山則夫についてこんなことを書いています。(41ページ)
そしてN.Nが、たえずみずからを超出してゆく自由な主体性として、<尽きなく存在し>ようとするかぎり、この他者たちのまなざしこそ地獄であった
また、別のところ(19ページ)でこんな風にも書いています。
都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年ではなく、「新鮮な労働力」にすぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な人間たちではない。
ようするに、当時、集団就職などで大量に都市に流入してきた若者達、彼らは「自由」を求め、「夢」を抱いて都市にやってくるのですが、一方で都市の方は、彼らはそういった存在としてみ見たいわけではなく、たんなる労働力として使いたいだけだったということです。
そして、その二つの視線の齟齬が究極にずれたときに発生したのが、あの射殺事件だったのではないかというのが見田さんの見立てなわけですね。
これは、この事件の背景に経済格差とか、地域格差といった問題があるけど、本質的には、それは意識の問題だという話だと僕は解釈しました。
おそらく、近代以前の村社会では、人々は他者がから見られる自分像と、自分が自分自身を見る自分像とのズレってそれほど大きくは無かったんだと思うんですよね。
いい悪いは別にして、大抵の場合は、武士の子は武士になるんだし、庄屋の子は庄屋になるんだし、小作人の子は小作人になります。
だから、無駄に「自由」や「夢」といった観念を抱き、そこからくる挫折を味わわなくてもすむような社会だったんですね。
勿論、最上徳内のような例外的な人もいて、彼は山形の貧農の家で生まれるんだけど、学力でのし上がり、最終的には武士になり、しかも蝦夷探検で歴史にまで名前を残します。
ちなみに、僕の先祖は、この最上徳内が子供の頃に通っていた寺子屋で、彼の隣の席にいた平凡な百姓だったんですww。
さて、話がズレましたが、ようするに、僕らが明治維新以降に得たのは、一面で「自由」や「夢」なんだけど、その反面で得たのが「挫折」であり、失ったのが「故郷」だったというお話がしたかったんですね。
そして、問題なのは、永山や加藤が競争に負けて失敗してしまったという結果じゃなくて、負けた時に帰っていく場所(故郷)がもう無なかったという現実だと僕は思います。
その意味で、1968年に永山事件によって顔をだした問題は、今尚、連綿と解決できないまま残っているということですよ、いや、逆に言えばさらに進化しているのかもしれないですね。
じゃあ、ここでいう「故郷」というものは、例えば、政治の力とかで復活できるのでしょうか。う~ん。
あるいは、それは具体的な地域や人々じゃなくて「日本」という観念で代用できるものなのでしょうか。それもどうかな?
さらに言えば、例えば、ネットにおける人と人とのランダムな結びつきは、少なくとも僕らにとって癒しになることは出来るのでしょうか。まさかね!
最近、そんなことも少し考えています。
まさむね
昨日に続いて、今日もTPPについて書きたいと思います。
TPPにおける問題点は、実はその問題点自体が明らかになっていないというところにあると思います。
交渉に前向きと言われている人々の意見をうかがっても、とにかく参加しないとわからないという一点張りです。
ただ、アメリカの意図は様々な状況を考えると明白です。オバマ大統領の現在の最大の課題は、国内格差の問題と失業問題です。
そのため日本を輸出のターゲットにしたいのは明白ではないですか。
さらに、問題は、アメリカの農作物が大量に日本に入ってくるということ以上に、アメリカの仕組み(保険、司法やサービス)も入ってくるということです。
幕末の開国以来の日本の歴史は、独自の共同体の解体の歴史でした。先の戦争に負け、東西冷戦構造が崩れ、金融ビックバンがあって、ゼロ年代になって小泉政権となり、その流れは加速しました。
勿論、それによって多くの国民は「自由」や「便利」を手にしました。それはそれで素晴らしいことですが、一方で、帰るべき心のよりどころ(故郷)を失くした人々を大量に生み出したのも事実です。そして、僕ら日本人はそういった心のよりどころを消費によって補ってきたのです。
さらに、TPPに参加するということはそういった、消費依存体質をこれからも続けましょうという宣言であり、それは比ゆ的な言い方ですが、「日本人」ではなく、「経済人」として生きていきましょうということに他ならないと僕は思います。
本当にそれで、僕らは子孫に対して幸せを約束することが出来るのでしょうか。現在がまさにその曲がり角に来ているのです。
TPPに賛成されている方の話を聞いたのですが、農業が崩壊されるという意見に対しては、「農業問題とTPPは別、農業改革はそれはそれでしなければならない」(福山哲郎元官房副長官)と言っています。また、デフレの時にTPPをするのはデフレを加速することに他ならないという意見に対しては、「デフレ対策とTPPは別、デフレ対策はそれでそれでしなければならない」(竹中平蔵元総務大臣)と言っていました。
だったら、なんで今までそういった対策が出来なかったの?だったら、早くやってよ!というのが素朴な感想です。
やるべきことがわかっていながら、今まで、それすらまともに出来なかった人たちに、関税自由化やサービスの平準化という激流の中で、そういった対策が出来るとは全く思いません。
だってTPPで一旦、様々な条件を受け入れたら、それを撤回することはさらに難しいことは間違いないからです。
そう考えるとTPPに僕らが反対する大きな要因の一つには政府に対する不審感があるということがわかります。
やっぱり、国民と政府の関係そのものから考え直して、作り変えなくてはならないのでしょうか。
例えば、社会学者の宮台真司先生が、ずっと言われているように、「任せてブーたれる政治から、引き受ける政治」にしないといけないのでしょうね。
確か、民主党の公約もそうだったはずですが、そのポリシーはどこへ行ってしまったのでしょうか。
おそらく、それは、他に問題が多すぎて、そう言っていたことすら忘れてしまっていた僕らの問題でもあるのでしょうね。
まさむね
10月はほとんど、丸々一ヶ月間、ブログもアニメ鑑賞もお休みしてしまいました。
何をしていたのかというと、何度か霊園や墓地に行って家紋を収集する他、「有名人の家紋のページ」を拡充、マイナー変更したりしていました。
有名人の家紋 2000人
日本の文学者の家紋一覧
日本の闘う人(軍人、格闘家)の家紋一覧
日本の政治家の家紋一覧
日本の学者、思想家、記者の家紋一覧
日本の俳優の家紋一覧
日本の芸術家の家紋一覧
日本の実業家の家紋一覧
日本のエンターテイナー(歌手、芸人)の家紋の一覧
それにしても、家にいてPCに向っていると時間が経つのが早いですね。アッという間です。
でも、そんなことをしているうちに、どんどん日本がやばいことになっているというのが気になっていました。
昨日、お会いした野口淳さんが言われていました。
「今年は震災、原発事故、そしてTPP交渉参加と、日本の未来にとって禍根を残すような大事故が起きた年として記憶されるでしょう。」と...
そうなのです。おそらく、僕達・日本人は現在、本当に大きな歴史的な転換点に来ているのです。
そして、直近の問題として、僕達は、なんとしてもTPP交渉参加に対して「NO」と言わなければならない。
これだけは、黙ってみているわけにはいかないですね。
例えば、下記のような動画を観ていただければと思います。僕が特に付け加えることはありません。
この京大の中野剛志先生の画像は他にもたくさんありますので興味のある方はYOUTUBEで検索されてご覧になられることをオススメします。
で、一応、念のため上記の「とくだね!」が放送された翌日、今度はTPP推進派の先生がこんな発言をされていました。
どちらの先生に説得力があるか明らかでしょう。
推進派の先生が言っています。「交渉をすればいい」と。
それにしても、僕らはそれほど、日本の外務官僚(あるいは経産官僚)を信頼できるのでしょうか。彼らは、今まで、日本のためにどんな有利な交渉が出来てきたというのでしょうか。竹島の一つも取り返してきてから言ってほしいものです。
さて、それはともかく...
この日本という国を守るか、日本という国を滅ぼすか、僕ら日本人にとっては、まさに今しか声を上げるタイミングがないのです。
今更言うまでもないのですが、日本という国は現在、生きている我々だけの国ではありません。遠い先祖から、はるかなる子孫まで、連綿とこの国土に生きてきた、そしてこれから生きていく人々のものなのです。
それを、たかだか、わずかここ数十年の経済優先主義という価値観でこの国を売っていいのでしょうか...という話だと僕は思っています。
およそ、一ヶ月ぶりに復活した「一本気新聞」ですが、文体も変えて、しばらくはこんなようなことを考えるブログにしていきたいと思います。
まさむね
水木しげる原作『墓場鬼太郎』全11話を観た。
ご存知の方も多いかと思うが、この作品は2008年にフジテレビ系列の深夜アニメ枠『ノイタミナ』枠で放送され、高視聴率を記録したシリーズである。
また、内容的に言えば、それまでの「ゲゲゲの鬼太郎」とは全く違う鬼太郎が描かれていることで知られている。
確かに、僕が子供の頃(60年代~70年代)に見た鬼太郎は、正義感に溢れた人間の味方。しかも親孝行で、メチャクチャ強いという、ようするにヒーローであった。
もっとも、ドラマ全体に流れる空気は、人間達の欲望が生み出す現代社会の矛盾、自然破壊の罪などを告発するというトーンではあったが、基本的には妖怪(悪者)を退治して、平和を取り戻すのが鬼太郎の役割だったのである。
それは、言うならば、抑圧された者、差別された者、異界の者が、一般の大衆のヒーローとなる(役に立つ)ことによって、社会に溶け込んでいく(協調していく)という話型である。おそらく、広義に解釈すれば、「鉄腕アトム」や「タイガーマスク」「巨人の星」といった当時の人気アニメも同系統の話である。鬼太郎は妖怪、アトムはロボット、タイガーマスクは孤児、星飛雄馬は貧困層という違いはあるが、彼らは一様に、苦境に生まれながらも、正しい動機を持ち、正統な道筋で生きてき、成功するのである。
しかし、この鬼太郎は、180度違うキャラクターなのだ。これには驚く。
彼は、好きな女の子にだけは優しいが、基本的には、他人には興味がないエゴイストである。そして、彼には正義感も、思いやりも無い、しかも努力もしないのである。
例えば、第六話の「水神様」では、借金取りの手先となった鬼太郎(この設定自体が「ゲゲゲの鬼太郎」では考えられない)が、物の怪が制止するのも無視して、眠っていた水神を起こし、その怒りに触れてしまう。水神は町中に様々な被害を及ぼすのであるが、鬼太郎の家にもやってくる。その時、鬼太郎の育ての親である水木(水木しげるとは別人と思われる)が渦に飲み込まれてそうになり、「鬼太郎!」と助けを求めるのであるが、鬼太郎は、「じぁ!」と言ってあっさりと見捨てて自分だけ逃げてしまうのだ。
このあっさり感は凄い。しかも、一般社会との関係で言えば、こちらの鬼太郎は、社会から疎外されながらも、それを宿命と認知して、あまり気にも止めない。(さすがに、学校に持ってきた目玉親父特性・ドブネズミ弁当は隠して食べていたが...)
逆に、そんな社会に恩恵を施そうなど少しも思わずに、それをいかに、利用して生きていくかということを、シニカルに考えているのである。
それに、敢えて名付けるとするならば、「サバイバル鬼太郎」とでも言えようか。
しかし、このサバイバル第一主義的な鬼太郎は、鬼太郎だけの属性ではなく、他の登場人物にも共通しているのがこの話のさらに、面白いところでもある。
つまり、エゴイストなのは鬼太郎だけではない。登場人物のほとんどがそうなのである。
鬼太郎を育てた水木にしても、最初は墓場で泣く赤子の鬼太郎に哀れみを感じて、すがってくる鬼太郎を育てるのだが、その後は、まるで惰性で一緒に住まわせてやるという感じなのである。さらに、同居している水木の母親などは、ずっと鬼太郎に対して不気味に思っており、行方不明になった息子のかたきとばかりに、占い師の言うとおりに今度は鬼太郎を崖から突き落としてしまうのである。
さらに、ねずみ男が、薄情な裏切り者なのは「ゲゲゲの鬼太郎」と同じであるが、目玉の親父にしても、鬼太郎の命を何度か救うことがあっても、鬼太郎自身に対する愛情というよりも幽霊族の血を絶やさないために彼を助けるという、どちらかといえば冷たいモチベーションで動くのである。
僕は先日、「『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』とアニメの倫理」というエントリーで、昭和に対するノスタルジー批判を内包する作品として、これを評価したばかりであった。そこでは、「ALWAYS三丁目の夕日」的な「美しき昭和30年代の理想像(幻想像)」をしんちゃんの現実への欲望によって打ち破るという点を評価したわけであるが、この「墓場鬼太郎」は、昭和30年代という時代をネガティブ・リアリスティックに描くことによって、反「ALWAYS三丁目の夕日」的な作品になっているのである。
例えば、僕自身の記憶とも重ねて考えれば、昭和30年代はまだまだ、汚く、臭く、ひもじい時代であったが、ネズミ捕り機を手にする美少女や、家の前に止まるバキュームカー、肥溜めに落ちる物の怪、こっぺパン一つだけの食事等を普通に画面に登場させるこの作品は、圧倒的に「わかっている」作品である。
そして、ある調査によると「自分にとって一番大事なものは何?」というアンケートによると40年前と現代を比較して一番減ったのが「お金」そして一番、増えたのが「家族」という結果も出ている。つまり、昭和30年代の日本人の方が、現代人よりも「家族」よりも「お金」を大事に思っていたのである、実は。
その意味で、この「墓場鬼太郎」において、ねずみ男だけではなく、鬼太郎もつねに「金儲け」のことを思案し続け、最終的には「あの世保険」のセールスマンになってしまうその展開は、夢を抱いて芥川賞を狙う「ALWAYS三丁目の夕日」の茶川竜之介よりも、ずっと、”現実”を描いているのかもしれない。
さて、そういったダーティリアリズムを根本に置いたこの「墓場鬼太郎」は、それゆえに、勧善懲悪や因果応報といった倫理性、つまり、物語の制度からも逸脱している。
早い話が、お話になっていない話ばかりなのである。しかし、別の言い方をすれば、この「墓場鬼太郎」は、そんな平凡な物語的整合性よりも、怪奇的感触を優先させた作品ということでもある。
それでは、この怪奇的感触とは何か。
それは、「もしも、偶然、物の怪に出会ってしまった時に、おそらく感じるであろう感触」であり、それは理屈を超えたゴツゴツした感触のことである。
例えば、柳田國男の「遠野物語」の河童の項のところに、子供を産んだ母親が、それが赤い河童みたいな子だったので、気持ち悪くなって村の境界へ行って捨てる話が出てくる。
しかも、捨てるだけならまだしも、帰り道に、「もしかしたら、見世物として売れば、高く売れるかもしれない」と思い直して、取りに戻るのだが、すでに赤子はいなくっていて、がっかりしたという話があった。
そして、僕はこの「遠野物語」のサバサバしたリアルな残酷さと同じものを「墓場鬼太郎」に感じ、その感触のことを怪奇的感触と呼んでみたのであった。
さて、先ほど、僕は、この「墓場鬼太郎」のことを「サバイバル鬼太郎」と呼んでみたが、実は、鬼太郎の様々な社会に対する働きかけは、なかなか上手くいかない。
つまり、成功しない。
しかし、彼は悪びれるわけでもなく、次々と、新たな儲け話に乗っていくのである。それは、まるで、「ゲゲゲの鬼太郎」におけるねずみ男のような行動パターンである。
もしかしたら、「ゲゲゲの鬼太郎」における鬼太郎が、ねずみ男のことを毛嫌いするのは、いつしか置いてきたもう一人の自分に対する自己嫌悪なのかもしれない。つまり、ゲゲゲの鬼太郎とは、改心したねずみ男であり、それは、世間の役に立つことを選択することによって生き延びようとする差別された人々のことなのである。「墓場鬼太郎」を見て、僕はそんなことすら想像してしまった。
そして、それは同時に、置いてきてしまった昭和30年代なのかもしれないと思った。
まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を観た。
Wikipediaによると、このアニメは、キネマ旬報オールタイムベスト・テン アニメーション部門7位、日本のメディア芸術100選アニメ部門選出、また、雑誌映画秘宝が毎年選定している映画ベスト10では2001年度に、アニメーション枠ではなくすべての洋・邦画を含めた中で1位に輝いているという。
確か、あの岩井俊二監督もこのアニメを絶賛していたというような話を聞いたことがある。この作品は、子供向けのアニメとしては異例に意義深い作品なのである。
僕も今回、初めてこの作品を観て感涙した。是非、僕と同じ世代(昭和30年代生まれ)の大人の方々に観ていただきたい作品である、そう思った。
以下、あらすじを簡単に記す。
時期はおそらく21世紀初頭(2000年位)、場所は埼玉県の春日部(が一応モデル)あたりの話である。「20世紀博」という昭和をテーマにした催しが全国各地で行われ、大人たちに大人気を博している。1970年代の大阪万博を模した会場には、特撮コーナーがあり、来場客が怪獣モノや魔法少女モノに扮した姿を、ビデオ撮影してくれる。
そして、しんちゃんのお父さん、お母さんもそのコーナーに夢中になっている。
この作品はいくら意義深いと言っても、基本的には子供向けアニメなので、ギャグが満載。それをただ笑って眺めることも出来る。実際に、僕の印象だと映画90分のウチ、半分くらいはカーチェイスなどの”おっかけっこ”であった。
しかし、その暗黙の制約の中でこれだけ奥深いテーマ性(これについては後で語ります)を実現しえたというのだから、その奇跡的なバランスは素晴らしいの一言に尽きる。
さて、大人が昭和ブームに酔いしれる中、そういった思い出を共有していないしんちゃん達子供はどうも面白くない。
そんなある日、大人たちは、仕事や家事を投げ出して、実際の生活でも”昭和”を始めて、ついには子供達を置き去りにしてどこかへ行ってしまう。
一方、残された子供達も、「お父さんやお母さんに会わせてあげる」という甘言に誘われて次々にバスで連れ去られてしまう。しかし、父母に会わせるというは嘘で、子供達は、昭和の世界に適応出来るように洗脳されるために隔離させられてしまうのだ。
実は、これら全ての状況は、ケンちゃん、チャコちゃんという二人をリーダーとする「イエスタディワンスモア」という組織によって仕組まれた“オトナ帝国”化計画であった。
それは、大人たちに”昭和臭”を嗅がせる(昭和の空気を味わせる)ことによって、最終的には、日本全部を昭和の幻想世界に閉じ込めようとする計画なのだ。
ところが、一癖も二癖もあるしんちゃんはそんな状況のオカシさを見破っていた。彼は父母を奪還し、元に戻すために仲間と一緒に立ち上がるのであった。そして、お父さん、お母さんに出会ったしんちゃんは、昭和臭に対抗するために、お父さんの靴の臭い=現実の臭いを、両親に嗅がせることによって、正気に戻させるのだ。
しかし、最初にその靴の臭いを嗅がせたときにお父さんが、現在の自分を取り戻す過程として脳裏をよぎった走馬灯のような過去のフラッシュバックは、僕らの琴線に触れる。
父親の自転車の荷台、女の子と一緒に歩いたほろ苦い思い出、高校時代一人で歩く田舎道、初めて上京した時の上野駅、新入社員時の失敗、しんちゃんが誕生したときの喜び、新築の家への引越し...
それら一つ一つのシーンは、勿論、全く同じではないにしろ、昭和生まれの僕らの人生ともシンクロする。
まるで子供のようにその場に倒れこんで、しんちゃんに、靴の臭いを嗅がされるお父さんの情けなくも人間的な姿に、僕らはどうしてもシンパサイズしてしまう。
そういえば、この作品の監督である原恵一氏は僕と同じ昭和34生まれなのだ。
しかし、最終的には、ケンちゃん、チャコちゃんの“オトナ帝国”化計画は、目覚めたしんちゃん一家の抵抗に遭い、そして、終いにはしんちゃんの「大人になりたい」という執念によって、潰えてしまうのであった。
勿論、物語的にはそれで正解だ。
僕は他のエントリーでも何度も書いているが、「ビューティフルドリーマー」の夢邪気の作り上げた夢の世界しかり、「火垂るの墓」の兄妹の非社会的生活しかり、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画しかり、「少女革命ウテナ」における鳳学園しかり、「涼宮ハルヒの消失」における長門有希の夢しかり、「妄想代理人」におけるマロミが作り出す猪狩刑事の昭和幻想世界しかり、常に、偽りの幻想、あるいは社会から隔絶された閉じられた世界は打ち破られなければならない、それがアニメの原則なのである。
それにしても、他のどのアニメの幻想空間以上にこの「オトナ帝国の逆襲」で描かれていた昭和世界は魅力的だ。昭和の臭いを嗅ぐことによって、その魅力(引力)に思わず負けそうになるお父さんが思わず「懐かしすぎておかしくなってしまいそうだ!」と口走る、その気持ちが僕には痛いほどわかるような気もするのである。
この痛さこその、「オトナ帝国の逆襲」の秀逸な点だととりあえず言っておきたい。
そして、僕らの世代に共通のそんな感慨はこの作品が公開された数年後に、映画「ALWAYS三丁目の夕日」によって、より純度を増した形で世に出てくる。しかし、そこには「オトナ帝国の逆襲」で周到に用意された現実世界への「出口」はない。閉じられた夢の世界の話なのである。
その意味で、アニメの方が実写映画よりも、倫理的と言えるかもしれない。
それはおそらく、アニメという、より、幻想的なものを描くことに適したメディアゆえに持ちえた倫理観なのだろう。
しかし、その(閉じられた世界はかならず破られなければならないという)アニメの倫理は、ここ数年、”萌え世界”という閉じられた空間の出現によって、揺らいでいるようにも思える。
しかし、そのこと自体、僕は、100%批判されるべき現象なのかどうか、まだ判断がつかないでいる。
「オトナ帝国の逆襲」が公開されてから10年が経った今、その間、しんちゃん一家が戻って来た”現実世界”の変貌を見ると、益々、その迷いは深くなるのだ。
社会状況はますます厳しさを増し、就職して、結婚をして、子供が二人いて、持ち家があって...といったいわゆる普通の生活は、どんどん、手の届かない存在になりつつあるのではないだろうか。
さらに、多くの子供達は子供達で、しんちゃんがあの頃抱いていた「綺麗な女の人と付き合いたいから大人になりたい」という無邪気な願望は持ちにくくなっているのではないだろうか。
特にネット環境の充実によって、観たくない世界、知りたくない情報は、無意識的に排除して自分の幻想の楽園は益々作りやすくなっているのが現代である。「攻殻機動隊 2nd GIG」でクゼが言ったように、人は「低きに流れるもの」なのである。
もしそうだとすれば、ある意味で、最終的には視聴者を突き放さざるをえないアニメの倫理は持ちこたえることは出来るのだろうか。いや、逆に、そもそも、持ちこたえるべきなのであろうか。
う~ん、僕にはまだわからない。
まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。
「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」全26話を一気に観た。
見応えがあった。僕が敬愛するアニメ評論家の古谷経衡氏もニコニコアニメ夜話(第23回放送 お題作品 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』)で語られているが、普通は、Vol.2モノはどうしても劣化してしまうものだが、この「攻殻機動隊 S.A.C.2nd GIG」は「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」と比べても全く遜色ない。それどころか、よりスケールアップし、より深化し、よりエキサイティングでエモーショナルな作品になっている。
監督をはじめスタッフの並々ならない意欲が感じられた素晴らしい作品であった。
物語は、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」の続き。公安9課が、ある事件の処理に成功して復活するところからスタートする。防衛問題、難民問題といった日本が近未来に遭遇するであろう社会問題を、かなり本格的に扱った内容になっており、しかも、攻殻機動隊シリーズ全般を通して扱われている電脳社会における人間性とは何かという基本テーマもしっかり押さえている。
また、311以降、日本の難題となっている原発問題にもその射程は延びていて、特に第三次世界大戦、第四次非核世界大戦後に、日本が放射能除去技術において、再び、経済大国に復活するというような設定は、それだけでも日本がこれから進むべき道をも示唆しているようで、興味深い。
さらに、それまでは脇役であったサイトー、ボーマ、パズなどにもそれぞれ光が当たる回があったり、課長の微妙な恋愛感情なども織り込まれていて、見所満載である。しかも、複数話を通して、少佐の生い立ちと、ほのかな初恋の話、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」に続いてタチコマに生まれた人間性(自己犠牲)の話も僕らを惹きつけて止まない。時間があれば、それぞれの回を、しみじみと何度でも見返したい作品であることは間違いない。
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さて、「2nd GIG」を観るうえで、その時代(近未来)、日本は一時的な労働力不足のために、大量の難民を受け入れていること、そしてその難民政策として、日本の各地に難民居住区が設けられているということを理解しなければなるまい。
ここでは、その難民政策をめぐって、大きく分ければ二つの政策が対立している。一つは、難民の自治を認める(勝ち取る)動き、そしてもう一つは難民を押さえつけ、日本の国権を強める方向である。
この話では、この難民に対する二つの動きをそれぞれ、クゼとゴーダという二人のキーパソンの思想や行動によって代表させている。その二人について簡単に紹介しておこう。
まず、クゼであるが、彼は全身擬体のアンドロイドである。元々、自衛官であったが、アジア東北部への海外派兵の際に、そこに住む人民との交流をきっかけとして、自衛隊を除隊。
それから広くアジアを放浪し、独自のカリスマ性を身につけ、それぞれの土地で人民の心をつかんでいく。そして、日本の出島(長崎)の難民居住区の自治を大幅に認め、なかば独立した存在にしようとする革命的なリーダーにのし上がる。
彼は、聡明、冷静な上に腕が立つ(あのバトーを一対一の白兵戦で仕留めるほど)。しかし、彼の本当のカリスマ性は、現実世界のみならず、電脳世界において無数の難民達の心を一つにまとめあがるだけの心の広さと情熱を持っているところにある。まるで、近未来版チェ・ゲバラのような存在なのである。
ただし、ここで彼が唱える、一人一人が電脳社会において融合し、個別意思とは別次元の統一体になるという革命思想は魅力的ではあるが、その結末は誰にもわからないものである。
一方で、ゴーダは、内閣情報庁の補佐官という立場。権力の中枢に近いところにいる人間である。首相や官房長官といったような表の権力者ではないが、黒幕的な立ち位置で、全ての現実の動きをプロデュースしようとする。
ゴーダが描いたシナリオを簡単に記すと、それは、「個別の11人」という電脳ウィルス製作>難民問題への世論の関心喚起>難民居住区の独立の誘発>自衛軍VS難民義勇軍の戦闘>居住区の自爆と見せかけた米帝の核攻撃>難民問題の解決という相当に乱暴な道筋である。しかし、彼は自分では手を汚さずに、あくまでも黒幕に徹する。何故ならば、彼の本当の目的は、日本のためというよりも、自身のプロデュース力を誇示すること、そして、最終的には米帝に売り込むためだからである。
このように見ると、クゼとゴーダという二人は対照的な存在であることがわかる。クゼは自己の魅力(カリスマ性)によってミメーシスを起こし、他者の共感を得ることによって、理想を実現していこうとするタイプ、一方でゴーダは、他者をあくまでも道具として利用することによって、自分の思い通りに現実を動かしていくタイプである。
しかし結局は、両者とも、滅びてしまう。クゼは民衆を信頼したが、逆にその民衆によって裏切られてしまう。民衆は理想通りには動かなかった。つまり、「人は低きに流れるもの」だったわけである。冷たい見方かもしれないが、彼は踊らされていただけだったのかもしれない。結局は、人知れず、米帝のエージェントによって暗殺されてしまうのであった。
また、ゴーダのシナリオは、「米帝への売り込み」という点では成功であったのかもしれないが、少佐によって、「あら、そう?なら、死になさい!!」というあまりにも有名な一言であっさりと殺されてしまう。
ある意味、シナリオライターとしては、優秀であったが、現実界に生きる人間としてはあまりにもモロかったということである。
さて、この二人を考える上で、一つヒントになるのが、その二人の顔に対する考え方の違いだと僕は思っている。
一方のクゼは、子供の頃に飛行機事故に遭い、ほとんどの全身を擬体化した。そして大人になると、顔を美形化する。しかし、その表情は変らないようにしている。彼は話をするときも口は動かさないのである。他方、ゴーダも若い頃に事故に遭い、顔の右半分は醜化し、髪の毛は無いが、彼は擬体化を拒む。あくまでも生の顔にこだわるのである。
これは何を表しているのであろうか。
実は、ゴーダが製作した「個別の11人」ウィルスは、パトリック・シルベストルという架空の革命家の「初期革命評論集」を電脳内に格納していることがその発症の主因であった。そして、それを発症すると、発症者は幻の11編目が存在しているかのような錯覚に陥り、革命思想に洗脳されて、最終的には自決するようにプログラミングされているという。
そして、その幻の11編目こそ、「5.15事件を能楽と照らし合わせ評論したもの」という興味深い内容なのである。そこでは、革命とは能楽のようなものだという理論が披露される。
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さて、能楽とは、他の演劇とは違って、本番の一回性に特別な意味を置く芸能である。
例えば、能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)の中では、能の演目・「道成寺」の落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関してこんなことが記されている。
葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。
能楽において、その本番の一回がどのようになるかは、演者も想像出来ない部分を残すということなのである。
その意味で、能楽とは、再生芸術ではない。それは、現世に怨みを残した怨霊を成仏させるために執り行われる儀式のようなものと考えたほうがいいのかもしれない。
つまり、能楽とは舞台の上で完結する見世物ではなく、実際の怨霊を鎮めることによって、観客が生きているこの現実世界を改変する”事件”なのである。
そして、一般的に、能では、シテと言われる超自然的な存在(亡霊、天狗、鬼など)は面を被り、その怨念を吐露する。また、ワキと言われる聞き役(僧侶が多い)は面をかぶらずに、シテにその想いを語らせ、成仏させる。それが世阿弥が大成させた夢幻能の基本パターンである。
ここで、「2nd GIG」に話を戻すと、まさに能楽におけるシテの役割がクゼ、ワキに役割がゴーダというアナロジーが見られるのではないかと僕は考えた。
クゼが代表しているものはまさに、抑圧された難民の心情という怨霊そのものである。それは、彼岸における思念である。
しかし、近未来の電脳社会とは、そういった思念が集合し、怨霊(高次の存在)として具現化して現世を揺さ振るかもしれない。
ある意味、クゼはその集合的怨霊の象徴的存在を目指すのである。それゆえに、彼は、個人の感情を抑えるという意味も込めて、能面のような擬顔をつけているのではないだろうか。
また、ゴーダは、そんなクゼが代表する難民の怨霊の想いを晴らしてやり、他の日本人達に理解させる一方で、難民(とその怨念)を手の上で転がすことによって、ある意味、成仏させながら、現実世界を改変しようとした。それにしても、ゴーダ自身は、ほとんど何もしない。
つまり、彼の役割こそ、ワキそのものではなのである。それゆえに、ゴーダは生顔なのであり、しかも僧侶のように無毛(しかも童貞)なのである。
しかし、あらゆる能楽が、結局は現実そのものを変えるのではなく、怨霊を晴らすことによって、現実認識を改変するのと同じように、クゼとゴーダによる壮大な能楽は、現実の難民問題を残したままに終わってしまう。そして、想い半ばにして、つまり、怨霊をこの世に残して、クゼはこの世を去ってしまうのだ。
最後に、公安9課の連中が神社の境内で桜見をするシーンでこの「2nd GIG」は終わるが、僕にはそれが、クゼの鎮魂のシーンに見える。
そして、少佐が「桜の24時間監視は中止!今から仕事に復帰するぞ!!」と戦闘継続宣言をする。
人間は永遠に、現実問題、そして怨霊と闘い続けなければならない存在なのである。
まさむね
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