先日の「大人のソナタ」は興味深かった。
日本人にはモノを怖がらない遺伝子を持つ人が少ないというのだ。
例えば、ヨーロッパ系外国人は35%、アフリカ系外国人は68%、しかし、日本人にはたったの3%しか怖がらない遺伝子を持つ人がいないらしいのだ。
詳細な科学的根拠は不明だが、なかなか面白い説だと思った。
だから、日本人は妖怪やお化けの存在を信じる、そしてそれを怖がるというのである。
そういえば、以前、イギリス人は、他のヨーロッパ人に比べて幽霊を信じているというような話を聞いたことがある。
Beatlesにも「Cry Baby Cry」っていう幽霊ごっこをする子供を歌った歌があるし、ネッシーやミステリーサークル、ハリポタを生み出したのもイギリスである。
ユーラーシア大陸の東西の端にある島国に、それぞれ怖がり屋の人々が多いっていうのはどこか示唆的ではないか。ようするに、元々大陸にいた人々の中で怖がり屋が両端の島に逃げてきて住み着いたという仮説が成り立つからだ。
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確かに、日本人は怖がり=慎重な民族ということが言えるかもしれない。だから、狩猟よりも農耕を選んだ、とか個人でリスクをとるよりも、集団で顔を隠すような社会を選び取ったのかもしれない。「和」という価値を第一に置くメンタリティも、そこから説明できるかもしれない。他人とのトラブルを極端に嫌がるのは怖がりということだからだ。
そういえば、先々週あたりだったか、木村拓也主演の「Mr.Brain」で、「微笑」というものは恐怖心の裏返しという話をしていた。
元々、恐怖心の強かった人類の祖先は、何物かが近づくと歯をむき出しにして相手を威嚇しようとする。しかし、その何物かが敵ではないとわかると咄嗟に、歯をむき出した顔をごまかそうとする、その時の顔が「微笑」というのだ。
日本人は、外国人から、よく「微笑」する民族だと言われるようだが、逆にいえば恐怖心が強いところから来る仕草なのかもしれないのである。
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さらに話を進めてみると、現代のような明日が不透明な時代、不安な時代、日本人は必要以上に恐怖心を感じているのかもしれない。その不透明さに対して果敢に挑戦していこうとするよりも、後ろ向きになったとしても安定性にすがろうとする行動をとるのも、遺伝子的に納得出来る行動なのかもしれない。
僕は、選挙において世襲議員に投票してしまう行動パターンは、一種の安定への志向の表れだと思っている。
それは利権温存、不公平というような問題以前に、日本人の精神性に根付いた行動なのである。
政治家の世襲制限をするということは、安定性を求めようとする有権者の自由をも奪うことでもあるという反面にも注目すべきかもしれない。
まさむね
朝青龍が千代大海の引き落としにばったりと落ちた。
立会いから千代大海の突き押しに後退し、土俵際まで追い詰められ、体が完全に伸びきったところを引き落とされてしまったのだ。
一緒にテレビを見ていた妻は仕切っている時から、朝青龍の肌つやの悪さ、オーラの無さを指摘していたが、結果は案の定。
女の勘はいつも鋭い。
それにしても、ここ数場所、一度、緊張感の切れた朝青龍のその後の取り組みはあまりにも脆い。
人並みはずれた気迫と集中力でここまで綱を張ってきた横綱だけに、今後が気になる。
白鵬や日馬富士等、モンゴル勢の成長、琴欧洲、把瑠都等巨漢の欧州勢の台頭の陰で朝青龍の存在感の薄さは寂しい。
このまま、ジリジリと引退の道を歩んでしまうのだろうか。それはあまりにも悲しすぎるではないか。
かつて、憎らしいくらいに強いと評され、ヤンチャで豪放磊落な横綱として、一世を風靡した男の意地を見せるのはこれからだ。
人間誰だって、上り坂の時もあれば、下り坂の時もある。しかし、人間の価値は、その下り坂の時にどれだけ踏ん張れるのかにあるのではないか。
今が正念場の朝青龍、彼の本当の物語はこれから始まるのだ。
その他、今場所で輝いている関取について語ってみたい。
朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜に続く、モンゴル勢の雄が翔天狼だ。その優しい表情からも想像できるが、彼は本当に親孝行らしい。彼が勝てば、故郷のお父さん、お母さんも喜ぶと思えば、応援しないわけにはいかない。そんな雰囲気を持った彼はスターの素質十分だ。
花がある力士といえば、やはり山本山を外すわけにはいかないだろう。猛虎浪との一戦は、ギリギリの取り直し、極端に体力が無いのか体が重すぎるのか、二番目は見るからに疲労していた。それはそれで見世物としては面白いのだが、大丈夫かと思わず肩を叩きたくなる。
あまりの疲労のため、控え室に下ったのは勝った猛虎浪よりも後だったという冗談みたいな逸話を残してくれた。
今場所は、把瑠都の明るさがヤケに目立つ。元々、陽性の力士ではあるのだが、対戦を終えて花道を下るときのニコニコ顔は憎めない。体の大きさは精神のおおらかさをも内包しているのか、白人とはいえ、久々に「お相撲さん」といったたたずまいが素晴らしい。
今場所好調なのが琴欧洲である。体の大きさの割りに、相撲の小ささ、気の弱さが指摘される大関だが、今場所は逆にその気の弱さを慎重さに替え、巨漢力士にありがちな大雑把な相撲ではなく、理にかなった動きで、昨日の魁皇戦も上手く乗り切った。白鵬という大きな壁があるにしても、久々にやってきた優勝のチャンスを是非ものにしてほしい。
また、ご当地の琴光喜も好調のようだ。ここのところ、分の悪かった日馬富士に対して、彼を上回る動きの速さで1敗を守った。熱烈なファンでしられる愛子様も大喜びだろう。最近は、プロ野球にもご興味をお持ちだという愛子様だが、今日の琴光喜を見て、再び大相撲を見直してくれたに違いない。
好調と言えば、稀勢の里を忘れてはいけないだろう。その武骨な表情はかつての北の湖をも髣髴させる。花という意味では残念ながら琴欧洲や日馬富士に一歩譲るかもしれないが、内に秘めた気迫は並ではない。日本人として横綱に最も近い男、攻めて攻めて攻めまくれば、栄冠も近いに違いない。
一方、頑張って欲しいのが阿覧だ。初めての上位挑戦で星が苦しくなるのは仕方が無い。しかし、いつもの力まかせのバチバチファイトが見られないのが寂しい。確かに、彼の課題は、相撲のセオリーを学ぶことだという意見もわからなくもないが、彼の個性である格闘技的な気迫、ファイトを期待したい。おそらく彼にしか出来ないパワーファイトがあるに違いないのだ。
まだまだ語りたい力士は沢山いるのだが、今日はこのへんで...
それにしても、やっぱり相撲は楽しい。様式美の中に人間の生の気持ちが現れる一瞬が見る人の感情の襞に触れるのだ。
日本人の発明したもののなかで最高の一品が大相撲だと思うのは僕だけだろうか。
まさむね
総選挙が近づいている。今の政治日程だと8月30日だという。
現在の情勢だと、民主党の圧勝は動かない様相を呈している。
自民党はこれまで半世紀にわたって政権を握ってきたわけだが、結局、ここへきてニッチもサッチもいかなくなったということだろう。
元々、自民党は、日本という地方の顔役達の連合組織の利益を保証するための政党だった。
具体的に言えば、自民党は、官僚を通して、土建屋、農協、漁協、商工会議所、業界団体、医師会、郵便局長会、寺や神社などに金をばら撒く、あるいは保護することによって、すなわち、そういった既得権益集団(中間組織)を生きながらえさせ、その上に乗っかることで、結果として日本らしさを維持させてきた政党なのである。
保守というのは、そういった日本らしい組織社会を保守するという意味だったのだ。
そして、冷戦時代までは、外交を、アメリカに一任することは、上記の政策にとって誠に都合がよかったのである。
しかし、90年代に入って、冷戦構造が崩れると、アメリカは日本を保護する政策をとる必要が無くなり、日本はアメリカの金づるとして、具体的にはグローバルスタンダードにさらすことによって、日本的組織社会に大きく揺さぶりをかけるようになってきたのだ。
そして、既得権益集団にばら撒いてきた金自体が底をついた時に登場したのが、「小さな政府」を標榜する新自由主義者の小泉純一郎だったのである。
人々は、彼の登場を熱狂的に受け入れた。今までのように既得権益集団に、直接、金が回らなくなっても無駄をなくせば、世の中はまた回りだすと考えたのだ。
しかし、多くの人々にとって、思ってもみなかったことだが、無駄な部分というのは、実は、自分の事だったのである。
今まで、地方に回っていた金が流れなくなる。競争原理とは無縁な場所で上から降ってくる金に対して口をあけて待っていた面々が一気に困ってしまったというわけだ。
誰だって、自分がやっていた仕事が無駄だとは思っていなかっただろう。しかし、現実は厳しかったという事だ。
そこで、あわてて、かつてのような既得権益者に金を、再びばら撒こうとしたのが、麻生政権での15兆円の景気刺激策だ。
しかし、自民党は一度、新自由主義に舵を切ってしまっている。今更、元へは戻れないという勢力もいる。今回の自民党内の混乱は、ようするに、同じく自民党という旗を持っていたとしても、新自由主義で行くのか、ばら撒き保守にもどるのか、それが全く統一されていないところからくる混乱なのだと思う。
そもそも、一緒にいる事自体が間違っているということなのである。
そして、一方の民主党は、こういった自民党の混乱を尻目に、既得権益集団ではなく、一般の人々に直接ばら撒くという政策でとりあえずは統一しているようにも見える。
子育て支援策(子供一人当たり月々2万6千円の支給)、農家への戸別所得補償、そして高速道路の無料化...
僕は以前から、民主党はヤンキーに優しい政党だと思ってきた。
民主党の本質は、田舎で、出来ちゃった婚した元暴走族で、レタスなんかを作っているあんちゃん(多分に架空の人物ではありますが)に、つまり、僕のような都会のサラリーマンとは全く縁の無いような人々にやたらに篤い政党なのである。
そして、今年の8月30日に、そういうヤンキー達が待ち望む政権がついに誕生する可能性が高くなってきた。
まぁ、それでもかつてのように、官僚が威張り、顔役が得をする政治よりもマシかもしれないという一縷の望みを託し、僕はとりあえず民主党に期待したいが、しかし、一方で、都会の一人暮らし、または夫婦二人暮らしで趣味に生きるようなオタク層には全く恩恵が無い。税金が上がって、自由に使える金が減る、それは覚悟しなくてはならないだろう。
わかりやすく言えば、民主党が政権を取った暁には、オタクや公務員層にファンが多いモーニング娘。にとってはさらに厳しく、ヤンキーの結婚応援歌を歌うGreeeenや湘南乃風にとっては、さらに売上げが伸びそうで、子供を持ちながら力強く生きる安室奈美恵にはちょっといい時代が来そうなのである。
まさむね
にかほ市立象潟中学校(佐藤亨校長)の40歳代の男性教諭が15日、校内で授業中に、担任するクラスの3年生の男子生徒2人に、畳を投げつけ、暴言を吐いていたことがわかった。
佐藤校長によると、男性教諭は15日、4時間目の音楽の授業が音楽室で行われた際、合唱コンクールの曲を決めるため、音楽教諭とともに同席した。授業が始まった時、男子生徒2人の姿が見えず、ほかの生徒に聞くと「教室にいる」と答えたため、「出てこい」と呼びかけた。それでも出てこないため、男性教諭が音楽室内を探したところ、2人は室内に積み上げてあった、三味線の授業で使う畳の陰に隠れていて、「すいません」と立ち上がった。
男性教諭は腹を立て、生徒2人に畳を投げつけ、畳の上から足でけり、「明日からお前らは学校に来るな。来る必要はない」などと暴言を吐いた。教諭は生徒1人に3枚、もう1人にも3枚、計6枚の畳を投げつけたという。(後略)
(2009年7月17日 読売新聞)
世の中、たまに想像もつかないような事件が起きるものである。
三味線の授業があり、その授業で使う畳を用意している高校があるというのも、僕にとってはプチ想像超えの現実だが、いくら頭に来たからといって、生徒に畳を投げつける教師というのは想像を超えている。
畳「に」投げつけるではなく、畳「を」投げつけるというのだから、笑ってしまう。
去年は、他人の家の天窓に住んでいたおばさんがいたり、水道からドジョウがでてきたりというニュースがあったし、今年に入って、すぐには、歯の治療がうまくいかなかったと腹を立て、その腹いせに、歯科医院に対して、その玄関先にアジの干物を並べたりする嫌がらせをした男や5年間にわたって他人の表札を盗み続け、その表札と添い寝したいた男という僕好みの「男」の話題があったが、久しくそれらに続く事件がなかった。
そんな退屈な日々に、久々のスマッシュヒットニュースである。
全く関係ないが、「僕は...」と入力すると何回かに一度、「朴は...」と変換されてしまうこのPCのIMEは微妙に嫌だ。
まさむね
昨日、中川翔子のブログがエキサトブログからアメブロに引っ越してきた。
勿論、それ自体はどうという事もないニュースであるが、いきなりの殿堂入りである。
まるで、柔道・オリンピックゴールドメダリストの石井慧が大相撲に入っていきなり横綱っていうようなものだ。
礼儀として、とりあえずランキングから始めるべきというのは常識的すぎる見解だろうか。
逆に、このランキングにどれだけの価値、信憑性があるの?という疑問もないわけではないが、一見、公平に見せかけるところに罪深さを感じないわけにはいかない。
勿論、最近、不自然にランキングが高いタレントが目立ったりしていて、それはそれで「純粋な人たち」に世間というのはこういうものだということを教えるというぐらいの意味はあるのかもしれないが、嫌な思いをしている人たち(タレントもユーザーも)もいるに違いないと思うのだ。
しかし、有名人のブログビジネスに関して言えば、、北斗晶や辻希美など、アメブロ上位の常連は、本業におけるその全盛期の輝きが素晴らしかっただけに、その輝きにと比べると、ブログで日常を切り売りしていて公開しているその姿のテンションの低さは否めない。などというのはジジイの戯言か。
現・国会議員の神取忍とのそれぞれの所属団体、全女とLLPWを背負った抗争をしていた頃の北斗晶、ミニモニ。全盛時の辻ちゃんのあどけない可愛さは格別だったなんて思い出に浸っている程、時間はゆっくりと進んでくれないものなのかもしれない。
まさむね
『東京「進化」論』増田悦佐(朝日新書)はいかにも団塊の世代のオヤジが書いたような新書である。
基本的には、赤坂、六本木、新宿、秋葉原、渋谷、池袋、吉祥寺...の街の特徴を書いているのだが、そこかしこに微妙に違和感のある価値観が顔を覗かせる。
それは、僕にとっては、ちょうど椎名誠の一連のエッセイに漂う空気に感じるのと同じような違和感なのである。
友人はそんな僕に対して、「それは、お前が酒を飲まないからだ。」と言っていた。そうかもしれないとも思うし、そんなことないとも思うが、僕の中では結論は出ていない。
具体的に見ていこう。
例えばこんな一節である。増田氏は、松本哉という人の『貧乏人の逆襲!-タダで生きる方法』をこう評する。
ちなみに、ぼくのいちばん好きなエピソードは、三人でのデモ行進の許可を申請しておいて、「どうせ大勢動員するにちがいない」とにらんで目一杯過剰警備をしていじめてやろうと手ぐすね引いて待っていた警官隊に肩透かしを食わせて、本当に三人だけでデモ行進をしたという話だ。
この話のどこが面白いのだろうか。ただ、役所に税金を無駄遣いさせ、警官達に迷惑をかけたというだけの話のような気がする。
デモに関して言えば、別の箇所にも出てくる。
1960年の第一次安保闘争がピークにさしかかったころ、安保反対運動の指導者達はどこか大きな拠点駅にデモ隊を集結させようとした。候補としては東京駅と品川駅が挙がったのだが、結局品川駅に落ち着いた。理由は「東京駅は高架なので警官隊に追い詰められて落ちたり飛び降りたいすると、死者や重傷者が出やすい。その点、品川駅構内は全部地表にあるので、危険が小さい」というものだった。60年安保反対運動のころの指導者達は、なかなか人間味豊かだった。
僕はこういった表現に、「昔はよかった」「権力は悪だ」というような朝日的価値観独特の臭みを嗅ぎ取ってしまうのである。
増田氏は、また、60年安保の当事者達の「人間味」を評価する一方で、かつて、食べるものも惜しんで秋葉原で「おとな買い」をしていたオタク達を非人間的と断じ、最近、秋葉原にケバブサンドのテイクアウト店が増えてきたことをオタク達が「人間的成熟した」結果だと、上から目線で評価している。
僕などは、食べ物をも惜しんで趣味の世界に没頭するオタクこそ、ある意味、人間でしかありえない、あまりに人間的な存在だと思い、逆にそこにこそいろんな意味で可能性があると思うのだが、おそらく、著者の増田氏の持つ人間観と、僕の人間観とはだいぶ違うのだと思わざるをえない。
さらに極め付けは、練馬と板橋を語るところだ。
下町国と山の手国の違いは、所得水準や資産価値や教育程度や社会的地位の上下関係から来る「階級差」ではない。趣味、嗜好、生活習慣の差であり、まさに「国民性の違い」なのだ。だが、メディアでの取り上げ方は露骨に文化的優劣の差をにおわせるものとなってしまっている。
いった、何の話をしているのだろうか。下町と山の手を文化的優劣の差として表現したようなテレビ番組、新聞記事なんてあっただろうか。むしろ逆に、そういった差があったとしてもあたかも差が無いように、そしてむしろ、この著者が言うのとは逆に下町の優位を言い立てるのがメディアだと僕は思っていた。
僕の記憶の中には、下町の小汚い漬物屋で白菜をつかみ上げたり、屋台のオデン屋がタダで差し出すガンモドキをほおばる地井武夫やヨネスケの顔しか思い浮かばないのだが、それは僕の勘違いか?
いったい、増田氏はどの局の番組を見て、このような感想を述べているのだろうか。
そして、さらに練馬と板橋の話は続く。
練馬区は23区のうちでいちばん新しくできた区で、板橋区から分離独立した。たとえば、平均的な東京都民にとっては、練馬大根を除けばほとんどありとあらゆる点で、練馬区のほうが「若く、新しく、おしゃれな」イメージを喚起する区であり、板橋区のほうが「年寄りで、古くて、ダサい」イメージを喚起する区だというところにも、この「文化的優劣」の差が出てくる。つまり、実態とは違う連想なのだが、練馬区は上がり坂、板橋区は下り坂とう印象が定着してしまっているのだ。
練馬区を「おしゃれ」というのは東京に45年以上暮らしている僕にとって初耳の話だ。
練馬区の板橋区に対する文化的優劣の序列という価値観は、板橋区が冷遇され、文化的差別を受けているという物語を作るために、増田氏が頭の中で創り上げたおとぎ話としか僕は思えないのだが、どうだろうか。
敢て、増田氏にアドバイスすると、どうせ、これだけフィクショナルにするのなら、U字工事位のセンスとテンションを学んでほしいものである。
著者の増田氏は、アメリカの大学で博士課程を修了され、大学助教授、外資系証券会社でアナリストを務めらている。こういう方が、新橋のガード下や大井町の小さな飲み屋街を評価し、東京の雑多性を肯定する視線に微妙な差別意識を感じてしまうのは僕の妄想だろうか。あるいは僕の嫉妬心だろうか。
ちなみに、僕は小さなスナックで店の主人に話しかけられてもなんと答えたらいいのかわからないし、近所の小さな八百屋や乾物屋が無くなっても全く悲しくないが、コンビニがつぶれると大変不便を感じるような程度の人間的成熟しかしていない男である。理屈としては、地場コミュニティや、社会の包摂性が大事なこと、日本が目指すべきなのは、小さな政府と大きな社会であることなどはわかる。しかし、「体」と意志がついていかない虚弱な人間なのである。
さらに、築地市場(左図)跡地は、朝日新聞社員が喜ぶような「世界最大のレストラン街」ではなく、都営霊園にすべきだ「平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史」と主張しているが、今のところ賛同者は全くいないwww
まさむね
雨宮処凛というライターがいる。彼女の『「生きる」ために反撃するぞ!』(筑摩書房)等の著書や、テレビ等の発言は、徹底して働く者の側に立つ。その活躍ぶりは「プレカリアートのマリア」(朝日新聞命名)とでもいうべき存在感である。
ご存知かとは思うが、彼女自身、かつてはリストカッター、そして右翼少女、ゴスロリファッションの小説家など、紆余曲折の人生を送っている。ちょっとした来歴だけを見てもわかる。彼女は、凄い人なのである。
しかし、僕はそんな彼女のインタビュー記事「無茶な要求に応えようと、がんばりすぎる正社員たちダメな人でも安心して働ける社会であってほしい」を読んで微妙な違和感を覚えた。
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確かに、彼女がここで言っているように、現代日本社会は、労働者にとって過酷な状況にある。サービス残業や休日出勤などによる長時間労働は、労働者の心身を徐々に蝕んでいく。しかも、労働者は、そんな状況にありながらも、社会や企業の価値観に過剰に適用しようとして、さらにスキルアップや過剰労働に身を捧げてしまうという悪循環である。
しかし、その反面、人間というものは、ある種、限界状況でこそインパクトのある生き方が出来るという困った習性があるのも事実なのである。
おそらく、雨宮氏も様々な限界的な人生経験から、現在の道をつかんだのであろう。その宿命にも似た彼女の道程を思うと、頭の下る思いがするが、一方で、彼女自身が本当に大事だと思っている自身の価値観と、彼女が世間の人々に勧めるような生き方のズレが僕には気になるのだ。
誤解を恐れずに敢て言わせていただけるのならば、彼女は、自身のインパクトのある人生のために、他の多くの労働者には凡庸な生き方を勧めているように僕には見えるのである。
そしてもうひとつ、彼女のこのインタビュー記事が掲載されているのが、求人情報サイトというのも違和感を覚えたひとつの理由である。
彼女がここで「労働状況の告発」を行うことは、読者の転職を勧めることにつながり、そうすると、多くの場合より過酷な労働条件に人々を追い込む結果に助力することになってしまうという残酷な循環に彼女はどれだけ自覚的なのだろうか、それが違和感の内実である。
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しかし、上記の事をとりあえげて彼女を攻めるのも酷だろう。それが資本主義社会を生きる僕たちの宿命なのだから。
小泉改革を批判しながら、反面で自分の癌をネタに、新自由主義の尖兵である外資系生保会社のCMに出続ける鳥越俊太郎氏を許すのと同様に、僕は彼女もギリギリ許したいと思う。
まさむね
政治とプロレスは似ていると昔から思っていた。
政治家になるにも、プロレスラーになるにもライセンスは必要ない。みんなが政治家と認めれば政治家、あるいはプロレスラーになれる。いや、実は自分が政治家だ、あるいはプロレスラーだ、と言い張ってしまえばなれるのである。
また、政治もプロレスも実力の世界であるようでいて、その実力の実態というのが不明なのである。政治家ならば相手を論破できれば、それで実力があるといえるのだろうか。また、プロレスラーならば、相手よりも強ければ実力があるといえるのだろうか。
両方とも違うのである。そこには、「実力」の他にも、人気、人柄、さらには家柄、弟子筋までもが重要になってくる世界なのだ。
そして、そこで彼らに必要なのは、リアリティと説得力なのである。
さらに言えば、プロレス団体と政党にも類似性が多い。それは一見そう見えたとしても民主的=平等主義の組織ではない。メインイベンター(=党首)とは全く別に陰のフィクサーが実は院政を強いたりして、幅を利かせている。主義=ポリシーが大事であるようでいて、実はあまり関係がない。仲間割れをして離脱したメンバーがいつの間にか、許して、抱え込んでいる。そこには、仁義があり、裏切りがあり、嫉妬があり、友情がある。
日本人が作る組織なのだから、同じようになるという説もあるが、それにしても似ている。歴史的に見てもそうだ。
70年代~80年代前半、プロレス界は新日本プロレスと全日本プロレスがお互いいがみ合いながら並存していた。それは、自民党と社会党がイデオロギーで角を突き合わせていた政界とパラレルな状態であった。
80年代後半~00年代、最大与党の新日本プロレスが分裂して、UWF、ジャパンプロレス等様々な団体が発生。野党の全日本プロレスからもSWS、FMW等の分離、独立運動が起きた。政界でも、自民党が分裂して新生党、日本新党が出来る。社会党からの流れと合流して民主党が出来る。
そして、そうこうしているうち現在、プロレス界は、世間からの信頼=関心を失った存在となってしまった。
一方、政治に対する信頼も地に堕ちた感がある。誰が首相になっても、党首になっても庶民は心からは支持できない。相対的にマシというスタンスでとりあえず支持しているだけ、誰がなっても同じという意見が大勢を占めてしまっている。
これでいいとは誰も思っていないが、逆に独裁者に出てこられても困るみたいと感じている。なんとも八方塞な状態なのである。
最近、東国原知事が「自分を総裁候補にしてくれるのならば、自民党から立候補してもいい」というような発言をしたということで世間を騒がせた。
ついに、お笑い芸人が首相になるような時代になろうとしているのか。
僕は彼の発言を聞いて、長州小力と長州力の関係を思い出した。
長州力と長州小力。いろんな意見があるだろうが、ある視点から言えば、本質的には、違うようでいて同じなのだ。
それは、普通の人(=芸人)と政治家が違うようでいて同じということと違いはない。
そして、それがみんながわかってしまったのが現代という時代なのである。
ある種の幻想が破られてしまった後、すなわち、みんなで一線を越えてしまった後に残るのは、面白くもない平等主義社会、薄暗い嫉妬の渦巻く世界、宮台先生が言うところの「田吾作村」なのかもしれない。
麻生首相が解散、総選挙を口にした。それに反発するグループの動きも活発化しているようだ。古賀選挙対策委員長も辞意を表明した。
これから先、どうなっていくのだろうか。興味深いと同時に憂鬱でもある。
まさむね